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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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191020 ハイデルベルク信仰問答 問99~100

コロサイ3:16-17 「心から御名を唱えよ」

 出エジプト20:7には「あなたは、あなたの神、【主】の名をみだりに口にしてはならない。【主】は、主の名をみだりに口にする者を罰せずにはおかない。」とあります。神が罰せずにはおかないと宣言されるほどに、主の名をみだりに口にすることは罪深いことなのです。
 たかが名前でそこまで言わなくてもと思われるでしょうか。しかしそうではありません。名前は単なる呼び名ではありません。それはその存在そのものです。名前があるから、その他大勢の中から、固有の特定の存在となるのです。その昔、アダムは園の管理を命じられます。それは具体的には、園にある一切の名前を決めるということでした。アダムはあらゆる動植物の名前を決めていきます。これはバラ。これはラクダ。そうやって名前を付けた瞬間、バラはあらゆる植物の中から選り分けられ、ラクダはあらゆる動物の中から見分けられるようになったのです。もちろんその存在は名前が付く前からあったんですけれども、そこに確かに存在すると認識されるのは、そのものに名前が付くことによってです。ですから、名前というのは、単なる記号を通り越して、その存在そのものと言うことができます。だからこそ、その名前を適当に扱うとすれば、それはその存在そのものを適当に扱うのと等しいと言えるのです。
 安易に、自分勝手に神の御名を唱えない。それは神を私物化して利用しないということでもあります。アダムを誘惑する時、蛇は神の味方を装って近付きました。また、イエス様を誘惑するために、サタンは聖書の言葉を引用しました。つまり自らの考えを神によって権威付けようとしたわけです。文脈を無視して、自分の都合のよい解釈だけで聖書を読む。これは異端やカルトの典型的な特徴です。私たちがもし、神を私物化し、自己実現のためにその名を利用するとしたら、それはこの第3戒を破っているのです。私たちが神を造ったのではなくて、神が私たちをご自身の栄光のために造られたのです。ここを履き違えると、私たちは神を信じると言いながら、神を自らの下僕とすることになるでしょう。だからこそ、神は罰せずにはおかないと言わざるを得ないのです。
 では、神の名を金輪際口にしなければ良いのでしょうか。ハイデルベルク信仰問答の問100の答えを見ますと、神の御名の冒涜は、死をもって罰するとまで言われます。それほどのリスクがあるのなら、いっそのこと黙っていたほうが良いんじゃないかと思ったりもします。けれど、そうではありません。聖書はむしろ積極的に主の名を呼べと教えています。エレミヤ33:2-3「地を造った【主】、それを形造って堅く立てた【主】、その名が【主】である方が言われる。『わたしを呼べ。そうすれば、わたしはあなたに答え、あなたが知らない理解を超えた大いなることを、あなたに告げよう。』」コロサイ3:16-17にも「キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い、詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。ことばであれ行いであれ、何かをするときには、主イエスによって父なる神に感謝し、すべてを主イエスの名において行いなさい。」とあります。主の名において行う。これは第3戒と反するのではありません。むしろ、このような積極的に礼拝する姿勢こそが、この第3戒の命じるところです。
 罰を恐れて、主の名を呼び変えて、怯える姿はここにはありません。キリスト者の生き方はそのようなものではありません。むしろ、わたしを呼べと言われる。わたしはあなたに答え、あなたに告げよう。と言われるのです。神を信頼する者の声を、神は遮ることはなさいません。私たちは主の御名をみだりに唱えることは赦されません。みだりにではなく、本気で唱えるのです。私たちが主に感謝し、主に期待し、主の御名を讃美し、主の御名によって祈る。つまり、私たちの礼拝の生活こそが、第3戒の命じるところなのです。

191013 マタイ24:3-14 「終わりの日の前触れ」

マタイ24:3-14 「終わりの日の前触れ」

 昨日の台風の影響で入間川や不老川、越辺川などが氾濫したと報道がありました。何人かの兄姉は昨日避難所に避難されましたし、後片付けに追われて来れなかった方もおられます。私が記憶する限り、赴任してからの11年でここまでの被害は過去に無かったと思います。しかし、同じことをここ最近、毎年言っているようにも思うのです。毎年、毎年、日本中で、これまで体験したことのない規模の災害が起きています。地震や津波、大雨による土砂災害、河川の氾濫、突風に竜巻。数え上げればキリがありません。これらには、もちろん温暖化の影響や、それに伴う気候の変化や海水面の上昇、様々な科学的要因があるのでしょう。けれどです。それとは別に、私にはやはりこの状況に何か神様の特別な意思があるように思えて仕方がないのです。それは人間に対する罰でしょうか。けれど神様は大洪水の後、「わたしは、決して再び人のゆえに、大地にのろいをもたらしはしない。」と言われました。では、何でしょう。考えられることは、やはり、終わりの日が近づいているということではないでしょうか。
 災害に苦しむ現実がある中で、あまり危機感を煽ることは避けるべきです。福音を伝えるために裁きを強調して脅すことは控えるべきだと思います。けれどです。私たちが聖書信仰に立ち、イエス様の十字架と復活、そして再臨を信じているのならば、同時にイエス様が再臨される前に訪れる「前触れ」についても信じているはずですし、そのことが語るメッセージにも、耳を傾けるべきではないでしょうか。
 終わりの日の前ぶれとはどのようなものでしょう。災害や天変地異を思い浮かべますが、今日の箇所で明確に記されるのは、むしろ人々の敵意。「私こそキリスト」と言って人々を惑わす指導者たちが次々に起こり、民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、そして人と人までもが信じられなくなっていく。人々の感情は閉鎖的となり、各個主義が蔓延り、あらゆる場面で、様々な対立関係が広まっていくのです。事実、イギリスがEUを脱退し、中国と香港が対立を深め、トルコは難民問題を理由にシリア侵攻を開始いたしました。世界の警察を自認していたアメリカは、自国の経済保護を理由に、国境を強化し、異なるものを排除しようと必死です。日本政府と韓国政府の対立は、ますます互いの愛国心を煽って、もはや引くに引けない状況になっています。自国優先主義が全世界を覆っているのです。
 聖書は驚くほど、今という現代を言い当てています。果たして、今日読んだ聖書の箇所で1行でも、今の時代に当てはまらない出来事はあるでしょうか。私たちは普段、あまり考えないようにしております。特に災害の事実を前に、世の終わりを語ることは大変繊細で、配慮が必要です。けれど、やはりこれは聖書が語るところなのです。
 この記述が今に当たるのか、これからなのか。かの日はもうすぐ来るのか、それがいつという問題には答えられません。けれど確実に言えるのは、昨日よりも今日、この世界は終わりの日に近づいているという事実です。私たちはこの事実を受け入れなければなりません。
 最後まで耐え忍ぶ人は救われます。これは、最後まで福音に信頼する人のことです。どれだけ偽預言者が現れようとも、その声に多くの人々が惑わされても、それゆえ人々の敵意が増大しようとも、最後まで耐え忍び、神の声に聞き従う人は救われる。これが主イエスの語るところです。そして、そのような時代においても、福音は宣べ伝えられて、全ての民族に証しされる。そして、それから終わりが来る。つまり、この終わりの前触れの時代、二つの言葉が世界中に広まっていくと言うことです。一つは、偽預言者の声であり、一つは御国の福音です。私たちはこの福音を与っているのです。
 救いをいただいたとは言え、終わりの日をぼんやり待っているわけにはいかないのです。なぜなら人々を惑わし、敵意を煽り、その信頼を傷つける偽預言者の声が広まっていくからです。私たちはこの終わりの前触れにあって、黙っていてはいけません。福音を宣べ伝えなければ。人々を生かし、和解を生み、互いの信頼を育む、主イエスの声を届けなければならないのです。

191006 ハイデルベルク信仰問答 問96~98

第1ペテロ1:18-21 「朽ちるものによらず」

 今日の箇所は第2戒、偶像礼拝の禁止です。第1戒を一言で説明するとすれば、それは「神である方を神として認める。」ということでした。「神だけに従う」ということです。では第2戒は何でしょう。それは「神でないものを神として認めない。」つまり「神以外には従わない」ということです。つまりここには、偶像を避けなさい。とか、選ばないようにしなさい。とか、そういう曖昧な態度ではなくて、明確に偶像を拒否するという意志の現れがここにはあるのです。
 ハイデルベルク信仰問答は、カトリックに抵抗するプロテスタント運動の最中に造られたものです。ですから根底にはキリスト教世界の共通の理解があって、その上で構築された信仰問答です。つまり、信仰問答が偶像問題を取り扱うとき、そこにはただ唯一の神の存在は確かにあり、けれど、この唯一の神を自分に都合良く偶像化することの禁止です。つまり、出エジプトの折、モーセの下山を待ちきれずに金の子牛を目に見える神の像として造ったまさにその行為と目的を禁じているわけです。けれど、たとえば、初代教会の時代。ローマ帝国領における教会の置かれた立場はそれとはちょっと違います。ローマの多神教の世界観の中で、キリスト者たちは身を潜めていたのです。ゼウス像とか、ヴィーナス像だとか、それはまことの神を形造ったものではなくて、別の神々を形造ったものです。そういう世界では、この第二戒の持つ意味はより広がりを持つのではないでしょうか。つまり、神を形あるものとするな。というだけではなくて、そこには、神以外のものを神とするな。という意味が生まれてくるわけです。そして八百万の神々の世界観を持つ私たち日本人は、この第二戒からやはり、神以外のものを神とするな。という戒めを汲み取っていかなければならないのだと思います。
 神を離れた人間が、神以外のものを神とするのはなぜでしょうか。それは人が自分にとって都合の良い神を望んだからです。まことの神との関係においては、人間は被造物であり仕える存在でありました。だからでしょうか。人が望んだのは困った時にだけ頼れる神。自分のやることを権威付けてくれる神。あらゆる努力や考察を放り出して、あるがままの状況を自分に都合よく正当化してくれる神でした。人は神に従うのではなく、自らが主人となって神を従わせることを望んだのでした。
 お金があれば幸せになれると信じる人にとっては、お金こそが神でしょう。あのアイドルになら命を懸けられると言うなら、そのアイドルこそが偶像です。これがあれば幸せになれる。都合の良い神は、自分の幸せを保証する道具に過ぎません。けれど、本当にそれが幸せを保証するかと言いますと、そんなことは決してありません。お金に裏切られて破産をする資産家は後を絶ちませんし、尾崎豊の死に後追いする人がいましたが、彼らが幸せだったとは決して言いたくありません。
 私たちは偶像を作らないし、認めない。拒否すると明確に意識し、宣言することが大事です。神以外のものを神としない。神以外のものに自分の人生を委ねない。という決断が必要です。
 クリスチャン作家である三浦綾子さんは戦時中小学校の教師をされておられました。子どもたちに教育勅語を教えていた張本人です。ところが戦争が終わり、天皇の人間宣言があり、これまで教えていた教科書から教育勅語を黒く塗りつぶすことが命じられます。その時、自分がこれまで信じていたものがガラガラと崩れ去り、自分の教え子をそのような虚しい教えによって戦地に向かわせたことの責任に苛まれ、自暴自棄になったのだそうです。たとえそれがどれだけ正しく見えようとも、偶像はやがて朽ちていくものです。そして朽ちるものに人生をかけることは、私たちを不幸にするだけです。朽ちないもの。変わらないもの。私たちは永遠に変わることのない主の御言葉にこそ寄って立つべきです。永遠に変わるところのない主の愛を見上げて歩むべきなのです。

190929 ハイデルベルク信仰問答 問92~95

エレミヤ17:5-10「主に信頼することの幸い」

 どのように神に感謝するか。この信仰生活の命題に、ハイデルベルク信仰問答は十戒を講解いたします。何となく戒めと聞きますと、不自由なイメージがあって、それがどう感謝につながるの?と思ったりもいたします。けれど一方で、じゃあ、戒めが何もない世界が果たして自由なのか?という問もあるわけです。たとえば、サッカーの試合で中々勝てないからと言って、うちのチームだけは手を使わせてもらおうだとか、負けているチームのサッカーゴールは小さくしようだとか、そんなことを許すと、これはもう競技としての面白さは無くなってしまうわけです。ルール(戒め)というのは、それが無くなれば自由になるものではありません。それが無くなれば無秩序になる。そして無秩序というのは、多くの場合、そこに不自由をもたらすものなのです。たとえば、軍事クーデターが起こって、政府が崩壊し、無政府状態に陥いれば、それは自由だ!などとはとても言えません。何が起きるか誰にもわからない無秩序な社会では、私たちは恐ろしくて町を歩くことすらできません。秩序が保たれるから、私たちは安心して過ごせるのです。ですから、私たちの罪の自由を制限することで、むしろ私たちはむしろ自由に振る舞えることがあるのです。そう考えますと、「戒め」というのは、私たちを縛り付けるものではなくて、むしろ私たちに留まるべき所を示すものだと言うことがわかるかと思います。
 戒めということについては、なぜ善悪の知識の木の実が用意されたのかを考えればよくわかります。それは神が私たちの自発的な意思による信仰を望まれたということであり、戒めを持って、人の毎日がどれほど恵みであり感謝であることかを教えるためであり、そして、思い通りにならない1本があることで、私たちは神ならぬ身の丈をしるためにでありました。その1本が、彼らの信仰を表明させるのです。私たちにとってのこの一本が、つまり十戒なわけです。これは救いの条件ではありません。神の民とされた私たちが、神との関係を正しく築くために大切な道しるべです。
 主が私たちに求められるところを、問94であれこれと記されておりますが、一番言いたいのは「すなわち」から続くところです。「すなわち、わたしが、ほんのわずかでも、神の御旨に反して何かをするくらいならば、むしろすべての被造物の方を放棄する、ということです。」神の御旨に反してまでの価値は、どんな被造物にもないと言っています。比べるまでもないんだと。私だけで十分。私だけを頼りなさい。と主なる神が言っているのです。
 ハイデルベルク信仰問答が第1戒の区分を「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」という前文を加えていることに注目すべきです。神はすでに私を導き出されたお方なのです。わたしはあなたを奴隷の家から導き出した神であるから、あなたたちはわたしに従って生きなさい。と言われる。私たちがこの戒めを守ることが求められるのは、このお方が私の主、私の神となってくださったからに他なりません。
 ですから、私たちは、ほかの神々を認めることはできません。それはまことの神のまなざしを裏切ることだからです。これは不自由でも何でもありません。もし神が、他の神々があってもいいよ。と言うならば、それは神が私に無関心である証拠です。けれど、神は他の神々があってはならないと言われたのです。つまり、神が私との関係に関心を持ってくださっているということです。神は私を労り、私に気をかけ、私を特別の存在として認めておられるのです。赤の他人のことは気になりません。他人ではないから気になる。神はあなたを他人ではなくて、家族だと言っておられるのです。