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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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191124 感謝礼拝 イザヤ51:3 「集まれ。感謝とともに」 東喜代雄兄 狭山ひかり幼稚園理事長

イザヤ51:3 「集まれ。感謝とともに」 東喜代雄兄

191117 ハイデルベルク信仰問答 問103

ヘブル4:9-11「神の安息に入るために」

 一時話題となりましたブラック企業は、SNSの時代になって、随分と鳴りを潜めるようになりました。けれど、あくまでもそれは表面的にであって、実際は安息なんて夢のまた夢。みんな頑張ってるのに自分だけ休めない。辞められない。周囲への気遣いが私たち自身を追い詰めていくのです。私たちはいつの間にか、休むことは悪だ、という考えが染み付いています。休むことは同僚に悪い。世間にも悪い。そして自らの良心に照らしても悪い。ですから、よっぽどの理由がない限り休めない。ところが聖書は、休むことは神の命令と言います。私たちはもっと積極的な意味で「休むこと」を捉え直す必要があるのです。
 安息日規定というのは、モーセの時代に、ユダヤの民が出エジプトを果たし、神の民として正式に契約を交わし、その具体的な生き方の指針として与えられた十戒の一つです。ですから、この十戒は、そもそも奴隷生活をしていたユダヤ人に向けて与えられた新しい生き方です。それはつまり、エジプトにいるとき、彼らは持たざる者であったということです。休むな。と言われ続けてきた民が、神によって安息せよ、と命じられる。人にとって安息を持つということは必要不可欠なんだと教えられるのです。
 しかしながら戒めは、ただ単に休めとだけ言っているのではありません。出エジプト20:11に「それは【主】が六日間で、天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造り、七日目に休んだからである。それゆえ、【主】は安息日を祝福し、これを聖なるものとした。」とあるように、安息の前には神の創造がありました。神様ですから、創造を一日で終わらせることもできました。けれど、敢えて神様は六日間かけられます。そして一日一日、その終わりにご自身のわざをご覧になって良しとされました。その日の働きを満足して終える。これが大事です。労働は本来、その一日を満足して終えるためのものです。神とともに生き、神の役に立ち、神から良しとされる。そのための役割が与えられているのです。神とともにいたアダムは園を耕し、守る働きをいたしました。創造の世界に対する役割を持っておりました。そして彼らはそのことに生きる意味を見出していた。私たちも同じです。私たちの労働は単なる義務ではありません。その働きを通して、神と関わり、世界と関わり、人々と関わり、私たち自身の存在する意味を見出すことができるのです。
 さて、十分な労働とその満足を得て、迎える七日目に神はその働きを休まれます。「安息日を心に留め、これを聖別せよ。」つまり、休むことは聖なる日を持つための下準備だということです。休んで終わりじゃない。休むことの先があります。むしろそこが大切です。
 申命記の5:15に、安息日には奴隷であったこと、そこから連れ出されたことを覚えていなければならない、とあります。私たちに当てはめるなら、他人の評価ばかりに一喜一憂していた以前の自分。やがて来る死に恐れることしかできなかった自分。神の裁きを知らず、罪に無自覚であった、罪の奴隷であった自分を覚えていなければならない、ということです。そして今は、神がそこから導き出してくださっている。この恵みを覚えるために、私たちは今、係わっている仕事。抱え込んでいる悩み。日々置かれている日常から離れなさいと命じられているのです。
 ここまで理解して、初めて、このハイデルベルク信仰問答の103問です。色々ありますが、一言で言うと、意識して感謝して礼拝する。ということでしょうか。週の初めに敢えて私たちの日常、自らのわざを休んで神を礼拝するということに意味があるのです。日常のままに過ごしては駄目なのです。私たちを思い煩わせる日々の出来事に埋もれてしまってはいけないのです。それらは神の恵みを見失わせるのです。出エジプトの31章17節には「これは永遠に、わたしとイスラエルの子らとの間のしるしである。それは【主】が六日間で天と地を造り、七日目にやめて、休息したからである。」とあります。休息とは深く息をつくことです。私たちは週のはじめにこの礼拝に集い、そこで深く深く息をつく。深く息をつくのは、もちろん、たくさん息を吸うためです。聖霊の息吹です。そして、心騒いだり、思い煩って、乱れた脈を整えるのです。ですから安息日はもはや週の終わりではなくて、新しい恵みの週の幕開けとなるのです。

191110 コロサイ1:5-6 「届けられた福音」 小川真師 KGK主事(世田谷中央教会牧師)

コロサイ1:5-6 「届けられた福音」 小川真師 KGK主事(世田谷中央教会牧師)

「それらは、あなたがたのために天に蓄えられている望みに基づくもので、あなたがたはこの望みのことを、あなたがたに届いた福音の真理のことばによって聞きました。この福音は、あなたがたが神の恵みを聞いて本当に理解したとき以来、世界中で起こっているように、あなたがたの間でも実を結び成長しています。」(コロサイ1:5-6)

 みなさんにイエス様のことを伝えてくれた人は誰でしょうか?イエス様の愛の知らせを、「福音」良き知らせ、と言います。福音は、コロサイの町に届けられ、海を渡って日本の地にまで届けられました。一昨年のKGK夏期学校には100名の学生が参加しました。一緒に食事をし、ハイキングをし、メッセージを聞きました。ある初参加の学生は、初めてイエス様の愛の福音を聞きました。そして最後の夜、その学生は講師の先生から「イエス様を信じませんか」と招かれた時、手を挙げたのです。ひとりの学生にイエス様の愛が届けられたことを思うとき、背後の祈りを思わずにはいられません。学生たちにイエス様の愛が届けられるために、キリストの愛が届けられるため私たちは祈ります。
 パウロは、私たちがイエス様の十字架の愛の話しを聞き「本当に理解するとき」があると語ります。それはイエス様に出会う経験とも言えます。私は小学生5年生で参加したバイブルキャンプのメッセージを通してイエス様に出会いました。そして大学時代、私は自分の罪の赦しが分からず悩んだ時期がありましたが、神様は「なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法が、罪と死の律法からあなたを解放したからです」との御言葉によって、私に赦しの確信を与えてくださいました。
 本当に理解された福音は、実を結び成長していくとパウロは言います。生命力を持って育つ植物のように、福音は実を結び成長する。福音には力があるのです。シンガポールにある社長さんがいました。その社長さんはイエス様を信じました。すると、それまで会社で当たり前のように行われていたショールーム実物のサイズが違うという習慣をやめたのだそうです。こんなことをして、イエス様は喜ばれるだろうか、いや悲しまれるのではないかと。まさに、福音がその社長さんの人生を変えました。福音は人を変え、組織すら変えるのです。まさに福音は力です。
 イエス様の福音は、日本中で、世界中で、実を結び成長し続けています。いのちの福音が、根を張って成長し、実を結んでいるのです。

191103 ハイデルベルク信仰問答 問101~102

ヘブル6:13-20 「約束の保障」

 前回十戒の第三戒「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。」という戒めから神の名を私物化して利用しないということ。しかしそれは口を閉ざすことではなくて、むしろ積極的に主の名を呼び求め礼拝することだと学びました。今日は、主の名を唱えるもう一つのケース。主の名によって誓うということについてご一緒に学びましょう。
 ヘブル6:13には次のようにあります。「神は、アブラハムに約束する際、ご自分より大いなるものにかけて誓うことができなかったので、ご自分にかけて誓い、」ここに、誓いというものの性質が記されています。つまり、誓いとは、自分より大いなるものにかけて誓うものだということです。ここが単なる約束と誓いとの違いです。
 約束というのは、双方間の信頼で結ばれた決まりごとです。ですから、自身が信頼されていなければこれは成り立ちません。そんな時、自分以外の、より信頼できる第3者を前にして宣言することで、相手の信頼を得ようとする。これが誓いです。この誓いを破れば、誓いを立てた対象との関係を失っても構わない。誓いの対象との関係を担保として、相手の信頼を得ようとする行為です。ですから当然、失うときのリスクが大きいほど信頼を得ることができるというものです。そして神の名で誓うということは、それが破られた時、神との関係を失っても構わないという宣言でもあるのです。
 誓うということはそれほど重たい責任を負うのです。先祖伝来の土地に誓うとか、努力して勝ち取ったこの金メダルに誓うとか、名探偵だった死んだおじいちゃんの名に誓うとか、私たちの周りには、そのような誓いで溢れています。けれどそれらは、突き詰めて行けば、本人の意思次第と言えます。土地も、金メダルも、死んだおじいちゃんも、私が約束を破って後、実際にその誓約に従ってそれらを失うのかと言えば、それは本人の意思次第。それは約束に対する本人の決意表明以上の意味はありません。けれど、神の御名に誓う場合は違います。生きて働かれる神がその誓約が履行されることを見守られるのです。そして、もしその誓約が不義に終わる場合、ただ独り心を探るお方が、その偽りを罰してくださるのです。約束の相手や自分の決意は出し抜くことができても、神を出し抜くことはできません。神の名で誓約することが、他のそれとは全く違うものであることがわかるかと思います。聖人や被造物では十分ではありません。神の名によって誓約することが、私たちの偽わりを阻み、誠実に歩む覚悟を育むのです。
 さてヘブル書には、神がアブラハムの祝福をご自分にかけて誓われたということが記されています。神はこの世界を言葉一つで造られました。その同じ言葉で交わされる約束は、疑う余地の無い確かなものです。けれど、それでも神は誓ってくださったのです。もしわたしがこの約束を違えることがあれば、神である自分との関係を失っても良い。つまり、わたしは三位一体の神であることを捨てても構わない。という意味です。もちろん、神には「もし」ということなどあり得ないわけで、神であることを脅かすことは一切ありません。そのようなあり得ない状況をわざわざ想定して、その時にはと、ご自身の名をかける。神であることを担保にする。それほどまでに、この約束が確かなものだとアブラハムに宣言されるのです。もちろん、これは私たちにも同様である神のご覚悟です。
 この神を前に、私たちはどのような態度であるでしょう。誓うことにはリスクが伴います。ならば、誓わない。約束などしない。とするのも一つでしょう。けれど、覚悟を問わない私たちで良いのでしょうか。誓約しないのは、約束を破る可能性を担保したいからです。しかしそれは神に対しても人に対しても、あまりにも無責任です。私たちは誓約のゆえに振るわれます。神はみだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれません。しかし、それ以上に、私たちはその誓約のゆえに留まれる。主がその覚悟を良しとされ、その決意を見守ってくださるということを覚えておきたいと思うのです。

191027 第1サムエル16:14-23 「神さまを見上げて」

第1サムエル16:14-23 「神さまを見上げて」

 今日は午後からヴァイオリンとピアノのコンサートがあります。イスラエルでも音楽は大変身近なものでして、聖書に出てくる人物はたびたび音楽に慣れ親しんでいます。
 神の祝福が受けられなくなったサウル王が、塞ぎこみ、大変な憂鬱と不安に襲われるようになったときに、竪琴を弾いて、王の心を鎮めたのは他ならぬダビデでした。今でこそ、音楽療法というものが確立されておりまして、それは第2次世界大戦時にアメリカ軍の野戦病院において音楽を流してみると兵士の治癒が早まったということから始まったわけですが、実はなんと旧約聖書の時代からすでに、音楽療法というのはその効果が認められていたのですから驚きです。
 さて、このサウルとダビデの話。この後、ダビデは諸外国との戦いの中で着実に戦果を挙げて、人々の名声を獲得して行きます。ある時、ペリシテとの戦争の中で、大男として名を馳せた将軍ゴリアテが一騎打ちを申し出て来ました。尻込みするイスラエルの兵たちに代わって若きダビデがゴリアテに挑みます。ゴリアテは2メートル半の大男。一方ダビデには体に合う鎧すらありません。手にするは石投げただ一つです。誰もがダビデの無残な死を思い浮かべました。ところが、ダビデの放った石ころはゴリアテの額に直撃し、見事、これを倒したのです。人々は小さな勇者の誕生に諸手を挙げて喜びました。長年の宿敵を打ち破ったイスラエル。ところが、一人この出来事を喜べなかった人物がおりました。サウル王です。凱旋の折、民衆は歌います。「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った。」それを聞いて、サウルの心には嫉妬が沸き起こったのです。
 有能な部下を持つということは、本来上司である者の手柄と言いますか、サウル王の王権を安泰させるもののはずでした。けれども、自分以上に民衆の人気者になるダビデにサウルは嫉妬します。サウルはダビデを憎むようになり、遂にはその命を奪おうとまでいたします。もちろんダビデは逃亡します。結果サウルは有能な部下を失ってしまったのです。そして、外国との戦争の中で命を失ってしまうのです。ダビデが側にいればと思わざるを得ません。この後ダビデはサウル王の敵を討ちまして、イスラエルの二代目の王となるのです。
 「あいつさえいなければ」という思いは誰にでもある思いかもしれません。努力して努力してようやく手にした人々の評価を、いとも簡単に追い抜いていく後輩たち。チームの成果を自分だけの手柄として誇る上司。あいつさえいなければ。そこには、自分は正しい評価を受けていない。という、現状に対する不満があるわけです。しかし、私たちはあまりにも人を見てばかりで、本当に見るべきものを見失っているのです。
 私たちが人を見るとき、自分と人を比べるとき、そこに罪が入ってきます。人類最初の殺人は、嫉妬が原因でした。他人を見れば、自分が劣っていると落ち込み、また自分が勝っていると見下します。会う人、会う人と自分を見比べて、その中での自分の順位をつけていくのです。たとえ私たちがそれを望まなくても、私たちは絶えずそう言った他人の評価に怯える日々です。それが正しく努力するモチベーションに結びつけば良いですが、ほとんどの場合はそうはいきません。自分が努力するよりも、他人の失敗を願うようになる。他人の存在を疎ましく思う。「あいつさえいなければ」他人の評価を気にするがあまり、私たちは正しい判断、振る舞いができなくなってしまうのです。うんざりです。私たちは他人に左右されない、確かな自分を確立させなければなりません。
 人々の無責任な噂に人生を費やしてはいけません。その人は、あなたの見えるところしか知らないのです。全てを知っておられる方の言葉にこそ耳を傾けるべきです。主なる神は言われます。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ43:4a)これこそが、私たちの聞くべき声です。見るべきお方です。