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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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191229 エレミヤ31:15-22 「はらわたはわななき」

エレミヤ31:15-22「はらわたはわななき」

 ヘロデは東方の博士の到来によって、救い主の誕生の知らせを知ります。しかし、それは自らの地位を脅かす存在に成りかねません。ヘロデはこの時、「救い主がどこで生まれるか教えてくれ。私も行って礼拝したいから」と言って、博士たちに詳細を報告するように命じますが、博士たちは赤ん坊のイエス様を礼拝した後、主の御告げに従って、別の道を帰って行きました。ヘロデは待てども待てども報告がないことが不安で仕方ありません。ヘロデは不安の種を根絶やしにするために、ベツレヘムの2歳以下の男の子の虐殺を命じます。そして、聖書はこの出来事をエレミヤの預言の成就と絡めて紹介しているのです。
 さて、イエス様の誕生がきっかけとなってベツレヘムの男の子が根絶やしにされる。そしてこれが預言の成就であると語られる。何とも理不尽に思うこの出来事を、私たちはどのように理解すれば良いのでしょうか。
 ある人は神のご計画の不備を指摘して文句を言うことでしょうか。なぜ神はこんな酷い出来事を遥か以前に知っておいて許すのか、とです。また、ある人はイエス様とその家族のご都合主義の逃亡劇に、納得がいかず糾弾することでしょうか。なんだイエス様も、自分さえ残虐を逃れさえすれば良いのか、とです。
 預言の成就と言われれば、なぜ神様はこんなことを、と私たちは思うわけです。けれど、本当にそうなのでしょうか。母たちの涙、絶望、子を奪われる惨劇。エレミヤはその預言から、何を語っていたのでしょうか。
 エレミヤが語るラケルの涙。それは、これから起こるバビロン捕囚を預言した言葉でありました。しかし、言葉は続きます。「あなたの泣く声、あなたの目の涙を止めよ。あなたの労苦には報いがあるからだ。」とであります。バビロン捕囚という途方も無い悲しみが起こる。けれど、泣くなと。目の涙をとどめよ。と主は言われるのです。なぜなら、「彼らは敵の国から帰ってくる。あなたの将来には望みがある」からです。実は、これこそがエレミヤの預言の中心でありました。これからバビロン捕囚が起こる。民はこの約束の土地を失う。自分たちの子どもが、そして子孫が安心して暮らすその日々はもはや失われる。希望が失われる。けれど、その絶望の中で、エフライムは、神の民は自らを悔い、まことの神に立ち返ることを知る。だから、これから起こる困難の中で、諦めてしまうなと。このことのゆえに神を見い出せと。私の下に立ち帰れと。これこそがエレミヤの語る預言の真意でありました。
 エレミヤ31:20、民に向けられる主の心の内が吐露されています。「エフライムは、わたしの大切な子、喜びの子なのか。わたしは彼を責めるたびに、ますます彼のことを思い起こすようになる。それゆえ、わたしのはらわたは彼のためにわななき、わたしは彼をあわれまずにはいられない。」天地万物の創り主であられるお方。ご自身の存在に、他の何者をも必要とされない唯一のお方。「わたしはある」と言われるそのお方が、民の苦しみを前に「はらわたがわななき、あわれまずにはいられない」と、吐露されておられます。これが主の心の内なのです。
 イエス様が生まれたから、エルサレムの男の子が殺されたのではありません。逆です。自分の権力を守るために、多くの命を犠牲にして何ら心を傷めない、そういう現実の世に、イエス様がお生まれくださったのです。神との関係の中で、あるべき被造物としての分を超えて、自らを神の如く振る舞う、罪のゆえに歪んだ世界にイエス様はお生まれになられたのです。ベツレヘムでの凄惨な事件は、私たちの日常にも起こります。バビロン捕囚は、私たちの人生の旅路にも起こり得ます。それは私たちにとって、どうにもならない絶望のように感じます。けれど、忘れてはならないのは、その絶望ように思える現実に置かれた私たちを、はらわたがわななき、あわれまずにはいられないと、想いを向けてくださるお方が確かにいるということです。そして、そのお方は、「あなたの将来には望みがある。」とおっしゃられるのです。

191222 クリスマス礼拝 イザヤ53:1-12 「輝きもなく、見栄えもない」

イザヤ53:1-12 「輝きもなく、見栄えもない」

 イザヤの預言には「彼には見るべき姿も輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない。」とあります。イザヤはイエス様が生まれる700年以上前の預言者です。北イスラエルが不信仰のゆえに滅び、今またそれと同じ道を歩もうとする南ユダ王国に対して、国の危機を訴えた人物です。国が滅ぶと言う預言を前に、人々は力ある救世主の到来を願い求めました。しかしイザヤが言う救い主は、人知れず不毛の地に生まれ、その姿は私たちの目にも留まらないみそぼらしい者だと言うのです。いえ、目に留まらないどころか、極めて不快に、嫌悪に、人々から蔑まれて、顔を背けられる者だと言うのです。とてもひどい描き様です。このイザヤの言葉を聞きまして、いったい誰が救い主の姿だと想像できたことでしょう。しかし、私たちはこれがまさに救い主のお姿であったことを知るのです。
 先ほどのページェントでお分かりのように、その日、ヨセフとマリアは貧しい宿屋の一室すら借りられず、薄汚い粗末な家畜小屋でイエス様を産みました。そうするしかなかったのです。町は住民登録のためにごった返しておりました。宿屋はとっくにいっぱいです。金にものを言わせたなら、無理やり部屋を用意させることもできたかもしれません。けれどもヨセフとマリアにはそれは無理です。彼らは道端にある家畜小屋に潜り込むしかなかった。身重であるマリアが雨露を凌ぐためには、家畜と共にいるしか無かったのです。その様子はまさに、輝きもなく、見栄えもないものです。救い主には、とても似つかわしくない誕生でありました。
 けれども、それは偶然だとか、予想外とか、そういうことではありません。イエス様がそのような誕生を選ばれたのです。なぜならそうでなければ招かることのない人々がそこにはいたからです。「彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。」(53:3)とあります。だからこそ届く光があるのです。
 イエス様の誕生に真っ先に駆けつけたのは羊飼いでした。一年中、昼夜を問わず、羊たちと過ごす彼らは、安息日を守らない不信仰な者たちだと見られていました。人々は彼らを罪人と呼び、蔑んでおりました。彼らは人口調査の数にすら入れられない、失われた人たちでした。もしもイエス様が上等な宿屋や綺羅びやかな宮殿で生まれていたら、彼らがどれだけ願っても門前払いされて終わりでした。イエス様が道端にある、囲いも扉もない粗末な家畜小屋でお生まれになられたからこそ、彼らはそこに駆けつけることができたのです。「人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。」(ルカ19:10)とある通りです。
 これは何も羊飼いだけの話ではありません。私たちもまた同じです。聖く正しい者だけが招かれる宮殿に、いったい誰が駆け付けることができるでしょう。もしも私たちがその場に居合わせたならば、自分を恥じて遠慮するか、厚かましくも駆けつけて追い返されるのが関の山ではないでしょうか。けれど、イエス様は貧しさの中に生まれてくださったのです。それは、のけ者にされている人。数に数えられない、失われた人々と共にあることを選ばれたということです。確かにイエス様には、人々が見とれる姿も、輝きもなく、人々が慕うような見栄えもありませんでした。しかし、この方が栄光を捨てられたからこそ、私たちの犠牲となることができた。私たちの救いとなられたのです。だからこそ、このお方は全ての人を照らすまことの光、忘れられたその人にも届く救いであるのです。
 イエス様には輝きも、見栄えもなく、貧しさの内に生まれる必要が確かにあったのです。私たちがイエス様の聖さに駆け上ぼることは不可能だからです。神のひとり子なるイエス様が人となって低きにお生まれになられた。ここに私たちの救いがあるのです。

191215 アドベント第3主日 ミカ5:2 「王の王が来られる」

ミカ5:2 「王の王が来られる」

 東方の博士たちがヘロデ王にユダヤ人の王の誕生を尋ねた時、ヘロデは学者たちにことの真相を確かめさせます。その時、学者たちが口にしたのがこのミカの預言でした。
 ミカはイザヤとほぼ同時期の預言者です。その頃アッシリアの南下政策が始まり、北イスラエルはアラムと連合してこれに対抗しようといたしました。けれどミカは、この目論見は破れ、サマリヤは陥落すると預言します。そして、その裁きはサマリヤに留まらず、ユダにも及ぶと警告するのです。
 ユダでは、富める者たちの横暴に目が余るものがありました。ミカ2:1-2には「わざわいだ。不法を謀り、寝床の上で悪を行う者。朝の光とともに、彼らはこれを実行する。自分たちの手に力があるからだ。彼らは畑を欲しがって、これをかすめ、家々を取り上げる。彼らは人とその持ち家を、人とその相続地をゆすり取る。」とあり、これに対して主は3節で、わざわいを宣言なさいます。同様のやり取りはミカ書で頻繁に見られます。ミカ書で記される救い主の姿は、不法を謀る者を滅ぼし、この地に正義をもたらされる勝利の主なのです。一方で2:12―13節では、「ヤコブよ。わたしは、あなたを必ずみな集め、イスラエルの残りの者を必ず呼び集める。わたしは彼らを、囲いの中の羊のように、牧場の中の群れのように、一つに集める。こうして、人々のざわめきが起こる。打ち破る者は彼らの先頭に立って上って行く。彼らは門を打ち破って進み、そこを出て行く。彼らの王が彼らの前を、【主】が彼らの先頭を進む。」と言われます。主は、追いやられ、はぎ取られ、安らぎを失って、それでも尚主の下に残るその民を一つに集めて、彼らの前に立って自ら道を切り拓くとおっしゃられるのです。徹底的な主の裁きと尚も残る民への主の憐み。これがミカの預言の特徴です。そして、今日の箇所でその「治める者」が最も小さいベツレヘム・エフラテから出ると預言されるのです。
 さて、ここで私たちは疑問に思うのです。ミカ書の語る救い主の姿は、主イエスの到来によって否定された、政治的解放者の姿ではないでしょうか。ですから、イエス様の誕生の時代、ユダヤ人たちがローマの支配からの脱却。ダビデ王の再来を願い求めたのは当然のことではないでしょうか。それはミカ書が記しているところです。けれど、私たちはイエス様がそのような意味での救い主では無かったことを知っています。イエス様はユダヤを独立させるために来たのではなくて、人々の罪を贖うために、御自身を捨てて、犠牲となられて、神との和解の道を整えるために来られたお方でした。「彼は痛めつけられ、苦しんだ。だが、口を開かない。屠り場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。」生贄の羊。これがイエス様では無かったでしょうか。ミカの預言は、何となくこのイエス様のイメージと重ならないのです。どういうことか。紐解く鍵は黙示録にあります。17:14「彼らは子羊に戦いを挑みますが、子羊は彼らに打ち勝ちます。子羊は主の主、王の王だからです。子羊とともにいる者たちは、召されて選ばれた忠実な者たちです。」ユダヤで子羊というのは普通、生贄の羊を指すわけですが、再臨の折に来られる子羊は勝利の主なのです。
 つまり何が言いたいかと言いますと、すでにキリストの誕生を経験する私たちは、クリスマスに、キリストの誕生の恵みを覚えるとともに、再臨のキリストを意識する必要があるということです。家畜小屋の飼い葉桶に寝かされたイエス様は、私たちに和解と愛のメッセージを伝えます。けれど、同時に、このお方はやがて来られ、全ての悪を滅ぼし尽くされるお方なのです。ですから、私たちは、みどり子の誕生を覚えながら、自身がこの統治者のもとに残る民、「召されて選ばれた忠実な者たち」であることを自覚しなければならないのです。羊飼いたちも、東方の博士たちも、私たちも、王を迎える忠実な臣下としてこのお方の前に膝を曲げるのです。王の到来を喜び、王の凱旋に真っ先に駆けつける忠実な僕であることが求められるのです。聖霊の助けをいただき、公正を行い、誠実を愛し、へりくだり、主人と共にあるしもべでありたいと願うのです。

191208 アドベント第2主日 イザヤ9:1-7 「平和の君と呼ばれる」

イザヤ9:1-7 「平和の君と呼ばれる」

 羊飼いたちのもとに現れた御使いたちは賛美します。「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。」イザヤが語った「平和の君と呼ばれる」という預言の成就としてイエス様が来られたということは、聖書が語るところです。けれど、ユダヤ人にとってイザヤの語った預言は、虐げられてきた争いの歴史を終わらせる平和の君主として待望されて来たのです。なのに現実には、イエス様はユダヤに政治的な平和をもたらされることは無かったのです。これは預言が成就しなかったということでしょうか。それとも平和の君は、また別に、これからやって来るのでしょうか。
 この矛盾は、そもそもの平和の理解が違っているのではないかと思うわけです。平和とはいったい何でしょうか。戦争のない世の中のことでしょうか。ヨーロッパがローマによって統一され、最も繁栄した時代をパックスロマーナ(ローマの平和)と言います。しかし、その平和はローマから見た平和。多くの血の上に築かれた平和です。ユダヤ人の血も流されました。そこには多くの憎しみや恨みも生れました。ですからそれは、一方からは平和のように見えても、もう片方から見れば、平和でも何でもないのです。日本の太平洋戦争の大義名分は、アジア諸国が西洋の支配を脱却し、大東亜共栄圏という一つの平和を築くためでありました。けれどそのように一方的に押し付けられた平和が、本当に平和だったかと言うと、それは全く見当違いな言い分だったわけです。片手に拳銃を持ちながら、片手で握手をすることが平和だとは到底思えません。けれど、それが賢い大人の選択だと説き伏せるのがこの世の中ではないでしょうか。最高ではなくても、最善を尽くすべきと言わんばかりの理屈です。それ以上は望むべきではないと言うのです。
 いえ、そんな大層な世界を見なくとも、私たちの日常を見れば、平和というものが如何に難しいかがわかります。たとえば私たちの家庭の中に平和はあるでしょうか。学校で、職場で、教会で平和はあるでしょうか。大人であれば、表面的には仲良く過ごすことはできるかもしれません。争いごとが表面的には起こらないということはあり得ます。けれど、必死に取り繕って、おべんちゃらを言って、別れたとたんにため息をつく。こう言う関係を本来平和とは言いません。
 聖書は何と言っているでしょうか。エペソ2:14-15には、「キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。」とあります。つまり、平和とは汝の敵を赦すこと。そして己の正義を振りかざさないことだと言っています。そしてまさしくそのような平和をもたらされるためにイエス様は来られたのです。
 私たちは相手から不義理を受けたとき、どうすれば相手を赦すことができるでしょう。赦したつもりでも、後になって怒りがぶり返すとすれば、それは実際には赦せてはいません。相手がどれだけ謝罪しても、自分が如何に優位に立とうと、自分に対する否定的な言動を赦すということは、そう簡単にはできません。いえ、無理です。それは自分が被害者であり続ける限り、決して赦せないのです。そうではなくて、自分こそが赦されざる者である。自分こそが罪人であるということに、本心から気付き、絶望し、尚、そこに赦しを得るときに初めて、人は赦されたこの経験から、人を赦す者へと変えられるのです。
 だから、この平和は、御自分の肉において、つまりキリストの贖いによってのみもたらされるのです。赦すことは私たちの努力や決断によってできることではないのです。それは私たちの絶望の先にあるのです。私たちが自分に死ぬ、その時に、私を赦すためにご自身をも捨てたキリストの愛に触れられるのです。

191201 アドベント第1主日 イザヤ7:1-17 「神が私たちとともにおられる」

イザヤ7:1-17 「神が私たちとともにおられる」

 イザヤを通して語られた預言は、クリスマスのメッセージとして私たちも良く知るところです。これは、もともと預言者イザヤによって南ユダ王国のアハズ王に告げられた預言でした。その預言がおよそ750年経って、ナザレのヨセフを奮い立たせることとなります。まさに神さまの御手の大きさを実感させる場面です。神が私たちと共におられる。このメッセージは、時代を超えて、イスラエルの民を支え続けます。そして、同時に、現代を生きる私たちにも告げられる、信仰者への変わらない約束です。
 当時、アハズ王は、国の命運を賭ける大きな決断に迫られていました。北イスラエルとアラムによる反アッシリア同盟に加わるようにと要請が来ていたからです。この要請を断れば、それは近隣の二国と敵対することを意味します。しかも、アッシリアの拡大政策は対岸の火事ではありません。ユダヤとて、いつアッシリアに攻め込まれるかわからない状況です。ですから、同盟を結ぶことは唯一の手段のように見えます。なのに、アハズ王は即座に要請を断るのです。そのためイスラエルとアラムが攻めてまいりまして、12万の兵が殺され、略奪の限りが尽くされ、女性や子どもを中心とした20万人の捕虜が奪われるという大敗北を喫するのです。実はこの戦いに先立って語られていたのが、イザヤ書7章のこの預言でありました。今、ユダを脅かす二人の王レツィンとペカ。しかし、その脅威は取り除かれる。主が用意した器。それはアッシリアの王である。注意したいのは、この預言の語り手は主ご自身であるということです。アッシリアの王は、あくまでも、主が用いる器に過ぎません。ですから、主はこの預言を通して、アハズに、目の前の状況に恐れるな。私がともにいる。私に信頼せよと、こうおっしゃっておられるのです。ところがアハズは主の言葉に信頼できません。器に過ぎないアッシリアの王ティグレト・ピレセル3世に助けを求めます。目に見える力と己の知恵に頼ります。つまり信仰による決断を迫る主の預言に対して、政治的な判断をもって状況を回避しようとしたのです。アッシリアはアハブの要請を受けて、アラムとイスラエルに攻め込み、アラムを滅ぼし、イスラエルもサマリヤ周辺にわずかな領地を残すのみとなりました。つまり、一時的には、アハブの政略は成功したのです。しかし、この結果、アッシリアの支配はより強固なものとなってユダを縛り付けるようになります。ユダはアッシリアの属国として、多額の奉納金に苦しむこととなるのです。
 このイザヤを通してアハズに語られた預言の言葉が、今、御使いガブリエルを通してナザレのヨセフに語られるのです。それはアハブの時代には実現しなかった、インマヌエル「神がともにおられる」ことのしるしが与えられるという預言です。神があなたとともにおられる。だから、心配しないで、恐れないで、主を信じなさいと言われるのです。
 国の存亡と、結婚の決意。状況は違います。けれど、その決断に問われることは同じです。私たちの知恵や判断ではなくて、主に信頼して、主のみ声に従っていくと言うことです。
 イザヤ43:1-2には「恐れるな。わたしがあなたを贖ったからだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたは、わたしのもの。あなたが水の中を過ぎるときも、わたしは、あなたとともにいる。川を渡るときも、あなたは押し流されず、火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。」とあります。つまり、神は私たちと共におられると。だから、恐れるなと。主は今も私たちに語りかけておられます。あなたの置かれているそのところで、その状況で、慌てずに、恐れずに、主を信頼して歩みなさいとです。
 神と共にある生活とは、私たちの毎日の選択です。右か左どちらが得かと吟味する生き方から、神が望まれる生き方、神が用意された道を選び取る生き方です。もちろん、これは私たちが何もしなくても良いということではありません。私たちがあれこれと心配し、悩み、決断するその時に、それが単なる自分の判断なのか、祈りの内に決断したことなのかを問いなさいと言うことです。主を前にして、確信した決断であるかを問いなさいと言うことです。「インマヌエル」の主。それは神が人となってくださった。という神の側からの関わりとともに、私たちがこの神に信頼して歩むという積極的な応答を意味しています。私たちは最善をなしてくださる主を信じ、祈りの内に、歩む者でありたいと思います。