レビ記11:1-28 「恵みに感謝して」
11章からは神の民とされたイスラエルが、食べて良いものと悪いものについて記されています。
1-8 イスラエルが、地上の動物で食べても良いもの。
ひづめが分かれて、完全に割れているもの。反芻するものは食べても良い。しかし、反芻してもひづめが分かれていないものは食べられない(らくだ、岩だぬき、野うさぎ)。ひづめが分かれていても反芻しないので、豚も食べられない。それらの死骸にふれてもいけない。
9-12 水中にいる生き物で食べても良いもの。
ひれと鱗のあるものは食べても良い。しかし、ひれや鱗のないものは全て忌むべきもの。
13-19 鳥のうちで食べても良いもの。
具体例を見ると、猛禽類の鳥類が禁じられている。逆に言うと、その他の鳥を食べても良い。鳩や山鳩の類は食べても良い。
20-23 昆虫で食べても良いもの。
羽があって群生し四つ足で歩き回るものは忌むべきもの。しかし、地上を飛び跳ねるもの(いなご、こおろぎ、ばった類)は、食べても良い。
さて、この箇所を読んで、地上の動物、水中の動物、空の鳥、昆虫で、きよい動物と汚れた動物の共通の線引はなにかということについて、古来様々に語られてきました。それは草食か肉食かの違いだと言う人もいるし、直接、大地や水などに触れているかどうかだと言う人もいます。そして、それぞれにもっともらしい理由が挙げられています。しかし、この箇所を読んでわかるのは、主があらゆる生き物をイスラエルにとってきよいもの、きよくないものに分けられたということのみです。なぜ分けたか、それは主のご領分です。大事なのは、分けられた生き物。特に食材という最も身近な取捨選択の中で、主の戒めを覚えて生きるということにあるのです。ユダヤ人は今でも豚を食べません。イスラム人も豚やお酒はたとえ食材や調味料としてでも口にしません。後になって、その料理にポークエキスが使われていたとわかれば、これは大変な騒ぎになります。私たち日本人からすれば、そこまで厳格にする必用はないじゃないかと思うかも知れませんが、それが神に対する彼らの信仰の覚悟なのです。彼らは毎度毎度、食事の際に、これは神の戒めに適った食事かと意識し、それを守るのです。
私たちが何を食べても良いと理解しているのは、ペテロが見た幻から、キリスト者が戒めに込められた主の意図を汲み取ったからです。ペテロは大きな敷布の中に、あらゆる種類の四つ足の動物や、はうもの、空の鳥などがいるのを見ます。そして「ペテロ、さあ、ほふって食べなさい。」という声を聞きます。それはまさに今日のレビ記で汚れたものとして定められたものでした。ペテロは抵抗します。けれど、「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない。」という主の声を聞くのです。幻が3度繰り返された後、ペテロはコルネリオの下僕に話を聞き、彼を尋ねて異邦人である彼とその家族に救いを授けるのです。
「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない」これは言い換えると、「神が汚れたと言われたものを、きよいと言ってはならない」ということです。ですから、どの生き物が汚れていて、どの生き物がきよいかと選り分けることが大事なのではありません。なぜ?はさして重要ではありません。主がイスラエルに対しては、そのように定められたということ。それはイスラエルには食事のたびに、神の戒めに従うという姿勢が求められたということ。つまり、食事のたびに、自分たちが神の民として選ばれたことを自覚し感謝することが求められたのであり、この意図を汲み取ることが大事なのです。
私たちは、今、きよい、きよくないと、食材を意識し選別して食事することはいたしません。けれど、神の民イスラエルに戒めを与えられた主の意図は、引き続き背負うべきではないでしょうか。つまり、食事という私たちにとって最も身近な行為の中に、私たちは主の赦しと救いを覚えて感謝するのです。戒めが今なお厳格に規定されていたらならば、私たちの救いはユダヤ人になることでしかありませんでした。けれど、主は私たちの隔ての壁を打ち壊し、至聖所の垂れ幕は破られたのです。私たちは異邦人ではありますが、キリスト者とされたのです。今、私たちが自由に食事を楽しむことができる幸いを覚えながら、それが主の和解による恵みであることを感謝する者でありたいと思います。

Ⅰコリント6:18-20 「聖霊の宮だからこそ」
第108問
【問】第七戒は、何を求めていますか。
【答】すべてみだらなことは神に呪われるということ。それゆえ、わたしたちはそれを心から憎み、神聖な結婚生活においてもそれ以外の場合においても、純潔で慎み深く生きるべきである、ということです。
第109問
【問】神はこの戒めで、姦淫とそのような汚らわしいこと以外は、禁じておられないのですか。
【答】わたしたちの体と魂とは共に聖霊の宮です。ですから、この方はわたしたちがそれら二つを、清く聖なるものとして保つことを望んでおられます。それゆえ、あらゆるみだらな行い、態度、言葉、思い、欲望、またおよそ人をそれらに誘うおそれのある事柄を、禁じておられるのです。
「姦淫してはならない。」このような戒めが命じられる背景には、そのような不貞が簡単に行われていたという時代の常識があるわけです。レビ記18章ではこの地の風習を真似てはならないとはっきり記されています。その風習とは近親相姦、不倫、人身御供、同性愛、獣姦。目を覆いたくなる内容です。けれど、当時の性に対する倫理観とそれに対する主の戒めを、私たちは決して他人事に聞くできません。なぜならここで語られる性の堕落の様子は、私たちの日常にこそ蔓延しているものだからです。
日本では法律がありますから、過度な近親相姦を見かけることはありません。けれど、不倫や同性愛、婚前交渉などは、あって当たり前のようになって来ています。そして、その大義名分は個人の人権だと言うのです。私の人生を私の思うままに生きる。私のありのままに生きる。そのことに誰も指図してはいけないし、されるつもりもない。それはたとえ神にさえ邪魔はさせない。この風潮は近年ますます加速しているように思うのです。けれど、ありのままに生きると宣言する、ありのままの私とは果たして何者なのでしょうか。罪の影響を受けている私たちは、どうしても物事を「私にとって」と考えるところがあります。けれど、問わなければならないのは、それが永遠に通用する正しさなのかということです。
主はこの地の「風習をまねてはならない。」とはっきりと言われました。そして、「だれであれ、これらの忌み嫌うべきことの一つでも行う者、それを行う者は自分の民の間から断ち切られる。」とおっしゃられた。ならば、私たちはこれらのこと、不倫も同性愛も婚前交渉も、個人の自由と主張すべきなのではなくて、神が望まれるところは何かと問うべきではないでしょうか。
姦淫が2つの大切な関係を破壊するということを、私たちは理解しておかなければなりません。一つは家族です。姦淫がなぜ起こるのか。それは、正しい結婚感に立っていないために、結婚生活に満足できないでいるからです。パウロは第1コリント7章で、不品行を避けるために結婚すべきと記しています。また結婚した夫婦は、互いの体の権利は自分ではなくて相手が持っていると言い、その互いの権利を奪ってはいけないと言っています。パウロは結婚における性が、夫婦を結び合わせる大切な要因だとを語るとともに、自分の我を通すことが夫婦関係ではないとも言っています。互いが労り合い、補い合うのが夫婦です。今、芸能人の不倫が大きな話題となっていますね。妊娠中の妻を置いて不貞をしていたのですから、弁解の余地はありません。求めるだけの結婚生活であるから、それが聞かれない時、外に目が向いてしまうのです。相手の立場に立って、寄り添わなければなりません。夫婦はもっと向き合わなければいけません。一時の情欲に身を任せることの代償は、自身にとっても、家族にとっても、あまりにも大きなものです。
さて信仰問答は、この姦淫問題について、もう一つ重要な視点から論じています。それは私たちの体と魂が聖霊の宮とされているという点です。姦淫はただ単に夫婦の関係だけに留まらず、神との関係を損なうのです。パウロは、エペソ5:3で「あなたがたの間では、聖徒にふさわしく、淫らな行いも、どんな汚れも、また貪り(むさぼり)も、口にすることさえしてはいけません。」と言っています。私たちは確かに誘惑に流されやすく、罪の影響を受けやすい者であることは事実です。けれど、だからと言って、罪に流されて生きて良いということにはなりません。パウロの言葉は続きます。「こういう者はだれも、キリストと神との御国を受け継ぐことができません。」レビ記とパウロの見解は全く一致しています。「それを行う者は自分の民の間から断ち切られる」のです。そもそも私たちが神の御国を受け継ぐのはなぜでしょう。それは聖霊が内住されるからです。神と共にあり、キリストの内におられる一つなる聖霊が今私たちの内におられる。私たちはこの聖霊のゆえにキリストと結ばれ、神の民とされるのです。姦淫をするとは、聖霊を追い出して遊女と結ぶことに他なりません。そして聖霊を失えば、神の民から断ち切られるのは当然のことです。聖霊と遊女。私たちがどちらを選ぶべきかは明白です。大切なものを失ってからでは遅いのです。私たちは本当に大切なものを失わないように、家族を、そして聖霊を選んで参りましょう。

コロサイ3:12-17 「殺す者から生かす者に」
第105問
【問】第六戒で、神は何を望んでおられますか。
【答】わたしが、思いにより、言葉や態度により、ましてや行為によって、わたしの隣人を、自分自らまたは他人を通して、そしったり、憎んだり、侮辱したり、殺してはならないこと。かえってあらゆる復讐心を捨て去ること。さらに、自分自身を傷つけたり、自ら危険を冒すべきではない、ということです。そういうわけで、権威者もまた、殺人を防ぐために剣を帯びているのです。
第106問
【問】しかし、この戒めは、殺すことについてだけ語っているのではありませんか。
【答】神が、殺人の禁止を通して、わたしたちに教えようとしておられるのは、御自身が、ねたみ、憎しみ、怒り、復讐心のような殺人の根を憎んでおられること。またすべてそのようなことは、この方の前では一種の隠れた殺人である、ということです。
第107問
【問】しかし、わたしたちが自分の隣人をそのようにして殺さなければ、それで十分なのですか。
【答】いいえ。神はそこにおいて、ねたみ、憎しみ、怒りを断罪しておられるのですから、この方がわたしたちに求めておられるのは、わたしたちが自分の隣人を自分自身のように愛し、忍耐、平和、寛容、慈愛、親切を示し、その人への危害をできうる限り防ぎ、わたしたちの敵に対してさえ善を行う、ということなのです。
「殺してはいけない」この戒めを聞いた最初の民は、エジプトで奴隷の身分であったイスラエル人でした。人が物のように扱われる世界。強い者が正義の世界。そういう弱肉強食の世界にあって、神は、ご自身の民にはそのようであってはならないと命じられるのです。なぜなら、地上における優劣など、神の前ではあって無きの如くで、私たちは神の前には等しく罪人に他ならないからです。今、神は一つの民を選んでご自身の民としようといたします。けれど、それは彼らが特別優秀だったとか、他の人々よりも清らかな人たちだったとか、そういうことではありません。それはただ神の憐れみです。強いて言うなら、彼らが弱者だったからです。彼らが神の御前にひれ伏すことができる弱い者だった。だから、彼らは選ばれたのです。彼らの間に、主人はただお一人、全能の神がおられるのみです。神の他に何者にもひれ伏すことはできず、神に並んで人をひれ伏させることもできません。今までは殺し、殺されることが当たり前でありました。けれど、今彼らは等しく神の民なのです。私が神の民とされたと信じる者は、目の前にいる人もまた神の民とされた一人と信じる必要がある。それゆえ殺してはいけないのです。
ですから、殺してはいけない。という戒めですが、これは単に相手の命を奪うということだけを禁じているのではありません。神が与えたその命の存在を否定するいっさいのことを、禁じています。ハイデルベルク信仰問答は、そしったり、憎んだり、侮辱したりすることを、殺すことと同じに捉えています。なぜならその心の内には変わりがないからです。どれも相手の存在を否定しているのです。もちろん、殺すというのは、その行き着く先です。けれど、私たちは殺すという最終的な手段を取っていないだけであって、日々どれだけ多くの存在を否定し、見下し、殺していることかと思わされるわけです。そして、その私たちの内にある殺人の根を、神は憎んでおられるのです。
私たちもできることなら、そういう憎しみを断ちたいと思います。けれど、それは衝動的で、止めなく湧いてくるのです。カインがアベルを殺したのは妬みからでした。真の神に喜ばれたい。その正しい願いすらもが、殺人の衝動に取って変わったのです。であるならば、いったいその衝動をどうやって防ぐことができるのでしょうか。憎しみが湧いてくるのは、それなりの理由があるのです。傷付いた苦い経験があるのです。
また私たちは正義感から、人を殺すこともあります。ニュースなどで悲惨な事件が報道されますと、私たちは怒りが湧いてきます。人の命を何だと思っているんだ!そして同時に思うのです。こんな酷いやつこそいなくなればいい。死んでしまえばいい。・・・であれば、この殺人犯と私の差は、実行したかしなかったかの差でしかありません。神を知らない人なら、この差は決定的です。けれど、全てを承知であられる全能の神の前で、この差はあって無きの如きです。それは隠れた殺人に他ならないからです。
どうすれば、良いのでしょう。たとえば、人里を離れて、一人無人島に住めば良いのでしょうか。しかし、ローマ 13:9を見ると、「殺してはいけない」という命令は、「隣人を愛する」という積極的な命令に要約されるとあります。つまり、関わらないようにするというのは十戒の教えとは間逆なのです。御言葉は隣人に関われと言っている。ですから、私たちは「殺してはいけない」という私たちに自重することを命じるこの教えから、むしろ積極的に、「愛、忍耐、平和、寛容、慈愛、親切を示し、その人への危害をできうる限り防ぎ、わたしたちの敵に対してさえ善を行う、ということ」だと受け止めなければならないのです。
これはとても実行不可能なことのように思います。確かに私たちの努力では無理でしょう。鍵となるのは、私たちがどれだけ自分に絶望しているかです。愛そうと思っても愛せない。関わろうと思っても関われない。自分で、何かができるということに、絶望し、諦めた先に、主イエスが私を愛し、赦してくれたという事実に出会うからです。私こそ愛する者ではなくて、愛された者。赦された者。それは私の内には愛がないという事実と向き合う時に知れるのです。他人を殺す人は、どこかで自分が高みにいるのです。けれど、私たちは神の前に等しく「赦された罪人」に過ぎません。赦された罪人である私は、目の前にいる人もまた赦された罪人であると信じる必要がある。そのとき私たちは、目の前にいる一人を受け入れ、愛する者とされるのです。

マタイ6:9-10 「もし、イエス様が市長だったら」 神田英輔師
エペソ6:1-9 「秩序ある関係」
第104問
【問】第5戒で、神は何を望んでおられますか。
【答】わたしがわたしの父や母、またすべてわたしの上に立てられた人々に、あらゆる敬意と愛と誠実とを示し、すべてのよい教えや懲らしめにはふさわしい従順をもって服従し、彼らの欠けをさえ忍耐すべきである、ということです。なぜなら、神は彼らの手を通して、わたしたちを治めようとなさるからです。
親に敬意を払わない。上に建てられた人に愛と誠実を示さない。それは、神が決められた秩序を無視する行為です。なぜなら神は、父母、上に立てられた人を通して、わたしたちを治めておられるからです。しかも、このことは、親がどのような親か、上に立てられた人々がどのような人々か、その能力や人格を問うてはいません。親が親である限り、上に立てられた人が上に立てられた人である限り、私たちは従わなければならないと言うのです。これが聖書の言う人間関係の原則です。
理不尽に思われるでしょうか。時代錯誤と言われるでしょうか。確かに、これは現代では流行らない親子関係かもしれません。今は友達のような親子関係がもてはやされる時代です。教師と生徒の関係も、権威ある教師ではなくて、親しみやすい教師が望まれます。優しく、威圧感のない、話が通じて、説教じみたことは言わないで、自分たちをただただ肯定してくれる友達のような親や教師。けれど、そのような関係が学級崩壊や家庭崩壊と言った、本来あるべき秩序を失っている現実を招いているのではないでしょうか。
なぜなら、友だちのような親や教師は、正しく子どもを叱ることができないからです。仲良し関係の延長した先には、慣れあいの関係が築かれるのです。嫌われたくない親や教師は、子どもたちに共感することはできても、正しく指導することができません。いえ、もちろん仲が良いに越したことはないのです。威圧的な関係が勧められているわけではありませんし、相手を否定し続ける関係と言うのは更に間違いです。けれど、親子はやはり友達ではありません。上司と部下もそうですし、先生と生徒もそうです。友達ではあってはならない。親には子どもを叱る責任があるし、子どもは親に叱られて、我が身を正す必要があるからです。その叱責に納得がいくなら、子どもたちは従います。その叱責に愛があるか無いか、子どもたちは敏感に感じ取ります。叱責すること、懲らしめることが駄目なのではなくて、そこに愛が無いことが駄目なのです。
聖書はことある毎に、子どもたちは親に従うようにと教えます。そしてそれ以上に、親たちには子どもを正しく教え、懲らしめることを命じています。箴 13:24「むちを控える者は自分の子を憎む者。子を愛する者は努めてこれを懲らしめる。」箴 23:13「子どもを懲らしめることを差し控えてはならない。むちで打っても、死ぬことはない。」懲らしめるためには、その懲らしめに耐えうる自分でなければなりません。愛が無ければなりません。自分のこと一切を脇に置いて、懲らしめようとしていても、それは反発を招くだけです。当然です。親は子の前で尊敬される存在である必要があります。そして、その尊敬は自らを神の前に晒すことで初めて伝わるのです。
家事ができることが尊敬でしょうか。仕事ができることでしょうか。趣味が多才なことでしょうか。いえ、私たちは、信仰においてこそ尊敬されるべきです。そうでなければ、誰が信仰を引き継ぐことができるでしょうか。しかし、それは何も完璧で何の落ち度もない信仰生活を送りなさいと言うことではありません。正直な信仰生活です。素直な信仰です。色んな失敗を繰り返し、人間的な弱さを抱え、挫折を経験しつつ、尚、祈りと御言葉によって励まされ立ち上がる。子どもたちに限らず、世の人々が見ているのは、困難にあって信じる者の確かさであります。私たちは神と共に歩む日々を飾らず、しかし恨まずに、証しし続けるのです。困難の中で感謝を称えることのできるキリスト者の姿は、やがて子どもたちが己の試練を経験する時に意味を成すのです。
第5戒は子が親に従うことを命じます。しかし、親の姿こそが問われるのです。先に生きる者が見本となることが大事です。弱さを認め、罪と向き合い、信仰によって乗り越えて行く。神の前に正直なその姿こそが尊敬に値することを、身近なその目はやがて知るのです。
