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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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200226 レビ記24 「同等報復の原則」

レビ記24 「同等報復の原則」

 1-4節 聖所の灯火をともすことについて記されています。質の良い純粋なオリーブ油を持って来るようにと。普通、油は食用でもなければ質を求められません。灯火につかう油は、むしろ粗悪な油であることが多いのです。別に油が粗悪でも、火を灯す用は足すからです。けれど聖所の灯火に用いられる油は最高のものが求められました。そして夕方から朝まで、主の前に絶えず灯火を掲げることが代々守るべき永遠の掟であるとされました。闇を照らす灯りを絶えず掲げよとの教えであります。詩篇119:105には「あなたのみことばは私の足のともしび私の道の光です。」とあります。また、マタイ5:16には「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。」ともあります。聖所を持たない私たちですが、しかし教会は闇を照らす灯火を掲げる使命を帯びているのです。夜の間中、つまり闇の世において、私たちは世の光となることが求められている。みことばの光を携えて。そして、私たちの良い行いを携えてであります。そのためには使い古した油ではいけません。新しい油を用意しなければなりません。
 5-9節 続けて輪型のパンの捧げ物について記されます。捧げられるパンは安息日毎に新しいものとされました。その数12個。12はもちろん12部族を表しています。イスラエルの民は、安息日毎に自分たちの部族を象徴する新しいパンを捧げたということです。これはつまり、神の民は週ごとに新しいものとされ、主の御前に捧げられるということです。日曜日の礼拝を単なる単なる宗教的ノルマとしてはいけません。それは私たちがみ前に捧げられる出来事です。1週間、色んな心配事が私たちの肩に圧し掛かります。時に御言葉に聞けないことも、祈れないこともあります。神の前に相応しくない己を恥じて、とても顔向けできないこともあります。けれど、私たちは週の初めの礼拝で新しくされ、もう一度主の御前に捧げられるのです。主の御前に受け入れられ、もう一度使命を帯びて立ち上がるのです。週の初めに礼拝を持つ。これは弱い私たちが信仰の競争を走りきるための給水地点のようなものです。息も絶え絶えに走る私たちはその給水地点でもう一度力を頂き、決意新たに再スタートを切るのです。

 10-23節 神の御名を冒涜することへの裁きが記されています。イスラエル人の母シュロミテの息子が起こした神の御名への冒涜行為の記事。私たちから見れば、情状酌量の余地があるのではないかと思わなくもありません。彼がイスラエル人と争ったのは、恐らくはエジプト人を父としていたことによって、あらぬ偏見や差別を受けていたからかもしれません。そして喧嘩をすれば、冷静ではいられず、売り言葉に買い言葉。遂には神の御名を冒涜したというのが実際ではなかったか。しかし、事情はどうであれ、彼の冒涜が許されるわけではありません。神の御名を冒涜することは、どのような理由があるにせよ、石打ちの刑に処せられるのです。そしてその理由として、同等報復の原則が語られます。「【主】の御名を汚す者は必ず殺されなければならない。」「いのちにはいのちをもって償わなければならない。」「骨折には骨折を、目には目を、歯には歯を。人に傷を負わせたのと同じように、自分もそうされなければならない。」この同等報復の原則は、もともと、必要以上に報復を重ねたり、エスカレートしてはいけないという抑制が目的でした。また、同等報復が命じられることで、そもそもの犯罪を抑止する目的もありました。けれど、ここでの主旨は、神の御名を冒涜する行為は何であれ死に値するという点にあります。死をもって償わなければならない程に、神を冒涜することは重大な罪だと言うのです。私たちは神を軽んじてはいないかと問わなければなりません。これくらいなら神様も赦してくれるはず。愛なる神は赦して当然。と神に強要してはいないでしょうか。興奮してただけなんです。本心じゃないんです。だからそんなに目くじらを立てなくても、と冗談めかしてはいないでしょうか。けれど、そうではありません。言葉は心です。思わずこぼれ出たその言葉は、その人が心に貯めこんだ真実を含んでいます。神の御名を冒涜することは、単なる言葉の綾ではありません。それは神の存在を否定すること。神を殺すこと。だから、その神殺しと同等の報復として、その人の死が求められるのです。
 にもかかわらず、私たちはもはやこの同等報復の原則の外に置かれている。実はこれは驚くべき恵みです。Ⅰテモテ2:6「キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自分を与えてくださいました。これは、定められた時になされた証しです。」私たちが報復を受けずに済んでいるのは、すでに神の義に釣り合った贖いの代価が支払われたからです。キリストの命が代価となった。つまり、神の赦しは、神の私たちへの愛のゆえにではありません。主イエスの犠牲のゆえに。私たちの罪と同等の報復がなされたがゆえなのです。だから罪の赦しに胡坐をかくわけにはいきません。それはキリストの死に胡坐をかくことと同じです。私たちにはキリストの死に釣り合う生き方が求められるのです。

200223 ハイデルベルク信仰問答 問116~119

Ⅰテサロニケ5:16-18 「みこころに適う祈り、適わぬ祈り」

 創造主なる神を知り、神の前に罪を犯した己を知り、その己のために自ら犠牲となって和解をもたらされた主イエスを知る。この過程を正しく辿らなければ、私たちの人生に揺るぎない感謝は生まれません。逆に言いますと、私たちがこの救いの過程を正しく理解する時、私たちは日常生活の様々な事柄とは別に、私たちには感謝が生まれるのです。今日嫌なことがあった。けんかをした。悪口を言われた。仕事で失敗した。そういう日常の出来事に、私たちはいつも喜ぶことなど到底できません。絶えず祈れと言われても、祈れないことも沢山あるし、祈りたくないときもある。けれど、そういう日常を超えて、私たちが神のご計画に目を向けるとき、今日と言う日が如何に失敗続きでも、喜べないことがあろうとも、やはり私たちには意味のない日々はなくて、全てを通して今に至ること、そして今を通して神のご計画がなることを知るのです。私と言う存在を、今日の出来事の良し悪しを通して図るのではなくて、神のご計画の中で捉えていけるようになるのです。もちろんだから全てOKとは、なかなかいかないんですけれども、それでも、私たちにはそういう私たちの側の影響を受けない、一方的な恵みに基づく感謝があるということは、なんと慰めであろうかと思うのです。神はそういう感謝に気付いて欲しいと思っておられるし、そういう感謝に基づいた祈りがキリスト者には必要なんだと、主イエスは教えておられるのです。
 ハイデルベルク信仰問答117問は、「神に喜ばれ、この方に聞いていただけるような祈りには、何が求められますか。」とあります。その答を要約しますと、まことの神に向けられた、神のみこころに沿う祈りであること。神の威厳の前にへりくだった祈りであること。そして、この祈りがただ主キリストの贖いの御業ゆえに聞き入れられると、確信を持って祈ることです。そのような祈りは神に喜ばれ、聞いていただけると言います。そしてそれらを適切に求める祈りの例として、これから「主の祈り」をご一緒に学んでいきましょうと言うわけです。
 さて主の祈りを具体的に学ぶ前に、主がこの祈りを教えられる背景に、当時の人々の間違った祈りがあったことは確認しておくべきでしょう。それは偽善者のような祈りや、異邦人のような祈りです。マタイ6:5では「祈るとき偽善者たちのようであってはいけません。彼らは人々に見えるように、会堂や大通りの角に立って祈るのが好きだからです。」とあります。イエス様はここで、祈りが神に向けられず周りにいる人々の反応に向けられていることを指摘しています。当時の律法学者たちは、好んで会堂や大通りの角に立って祈りました。自分の信仰の熱心さを人々にアピールするためにです。彼らの祈りは聴衆こそ必要ではあるけれど、神を必要としていません。神を意識せず、聴衆を意識する。いえ、聴衆からの自分の評価を意識する。イエス様は彼らを偽善者と呼びました。偽善者の祈り。しかしこれは、ともすれば私たちも同じではないでしょうか。「こんな風に祈ったら、もっと熱心に聞こえるんじゃないだろうか。」「こんな祈りをしていたら、不信仰と批判されるんじゃないだろうか。」祈ることで自分が他の人にどのように評価されるかばかりが気になるのです。果たして私たちの祈りは誰に向けられているだろうかと問わなければなりません。
 もう一つイエス様が挙げておられるのは、異邦人のような祈りです。マタイ6:7には「祈るとき、異邦人のように、同じことばをただ繰り返してはいけません。」とあります。これは別に同じ課題を何度も祈ってはいけないと言うことではありません。問題は彼らが、ことば数が多いことで聞かれると思っていることです。多くの宗教では、祈りの長さや、回数や、熱心さで、祈りが聞かれると考えています。けれど、祈りが聞かれるかどうかは、その祈りが神のみこころに適っているかによるのです。そして、一見聞かれていないように思えても、私たちの父なる神は、私たちの必要をすべてご承知で、私たちに必要な一切を備えてくださるのです。私たちの熱心さが祈りの結果をもたらすというのは、とても信仰的に聞こえますが、聖書的ではありません。私たちは祈りをもって、己の功績を誇ることもできないし、祈りをもって神の結果を強要することもできません。
 主が教えられた祈りは全くの真逆です。それは神のみこころを求める祈りです。神の望まれるこの地となるように、神の望まれるこの身となるように。この祈りの主権はあくまでも神にあるのです。ですから、私たちが主の祈りを学ぶことは、ただ単に祈り方を学ぶに留まらず、私たちの信仰の在りようそのものを学ぶことになるのです。

200219 レビ19:19-37 「愛を伴って」

レビ19:19-37 「愛を伴って」

 レビ記19章は18-20章とまとまりの中で、神の民の生活の在り方を規定した箇所です。
 19節は家畜、種、糸、神が造られた創造の秩序を乱して混ざり合うことが禁じられます。そして、それは男女の間に関しても禁じられました。20-22の意味は何でしょう。ここで語られる女奴隷とは、他の男性と婚約関係にはあるけれど、まだ結婚には至っていない女奴隷のことです。姦淫の罪は男女ともに石打ちの刑と決まっていますが、この女性が奴隷ゆえに従わざるを得なかった場合は考慮すると言うことです。しかし、男性の方は違います。たとえ、それが自分の奴隷であり、まだ正式に結婚をしていなかろうと、その者は罪過の生贄として雄羊を捧げなければならないと命じられました。女奴隷が主人の所有物として扱われた当時において、主の命令はその人権を認め、保護するものでした。
 23-25節は果樹の実の刈り取りについて定められています。3年はそのままに置き、4年目は主への捧げ物とし、5年目にその実を収穫する。それは果樹の保護のために大切な決まりとなりました。すぐに手を付けてはならないのです。美味しい実がなるには時間がかかるのです。4年目には立派に育っています。美味しい実がなる。けれど、まだ自らのものにしてはいけません。それは主のものであり、その初物は主に捧げるのです。自由に刈り取りが許されるのは5年目からでした。
 26-31節では異教徒の文化に混ざってはいけないことが命じられます。血が付いたままで食べること。まじない。卜占。びんの毛を剃ること。髭の両端を切ること。死者のための自傷行為。入れ墨(魔除け・所属)。神殿娼婦(アシュタロテなどの神と結び付く行為が勧められた)。霊媒。口寄せ。これらは異教徒の間で宗教的に重要視された行為の数々でした。しかし主の民とされたイスラエルは、主の命じるところに従います。安息日を守り、主の聖所を恐れることです。
 32-34節は、老人や在留異国人の扱いについて命じられます。足腰が立たず、動けなくなった老人は荒野の旅においては、足手まといとして置いて行かれても文句が言えない弱い立場でしたが、主はそのような老人の前に起立し、敬うようにと命じます。また在留異国人に関しては、9-10でも収穫の落ち穂は在留異国人のために残しておかなければならないとあります。在留異国人は、イスラエル人がエジプトでそうだったように、ともすれば奴隷と同じ扱いを受けていましたが、神はそのような在留異国人を同族のように扱うようにと命じるのです。
 35-36節は商売において、不正することの禁止を命じられています。正しい計りを用いなければ、正しく物の量を知ることはできません。不正な計りを用いることはそもそもの基準を失わせることです。神の基準を誤魔化してはならないという普遍的な警告が聞こえてきます。

 全体を通してわかることは、神の民に対して語られたその生き方は、私たちが世の価値観に混ざらないということ。そして、神の価値観は弱い者を保護する視点にあるということです。弱い者を食い物とし、切り捨てる世の中にあって、神が民に期待する生き方は全く違いました。地の塩、世の光として生きるということを考えるとき、それは、私たちがキリスト、キリストと拡声器で触れ回ることではありません。むしろ、私たちの日常の中で、神を意識し、誠実に愛をもって隣人に仕えるということが問われているのです。マインドコントロールや、終末的破滅思想によって恐怖を煽る異端が後を絶ちませんが、彼らの多くはそれを正しいことと信じて真剣に行っています。魂の救いを得るためには、何をしても良いと考えるのです。その結果として魂が救われれば、それはその人にとっても良いことだから。と言う論法です。けれど、主が命じるのは、私たちがまことの神のみを恐れ、私たちのこの交わりの中に愛と慈しみがあることです。教会が、そして私たちが、この世にあって語るべきはもちろん福音です。けれど、福音はそこに愛が無ければ、人々に届くことは決してありません。教会の交わりが弱い者に配慮し、寄り添うものでなくて、誰が福音の実現を見るでしょう。老人、赤ん坊、妊婦、病の中にいる人、様々な不安や責任を抱えて心に余裕がなくなっている人、教会には色々な人が集います。それぞれの人がそのままで受け入れられる交わりを築いていくことができれば、私たちは主の愛の実現として、世に輝くことになるのです。

200216 ハイデルベルク信仰問答 問113~115

ピリピ3:12-14 「次第次第に」

 出エジプト20:17には「あなたの隣人の家を欲してはならない。あなたの隣人の妻、男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを欲してはならない。」とあります。またヤコブ1:15には「そして、欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。」ともあります。あらゆる罪の原因となるもの、それが欲望であると言うのです。殺すことにせよ、姦淫することにせよ、盗むことにせよ、それらを突き詰めていくと、全てこの第10戒に行き着きます。第10戒が取り上げる欲望とは、罪の内面的動機に他ならないからです。
 ですから、これは今までの戒めと比べましても、格段に厳しい戒めと言えるかと思います。これまでの戒めは、聞く人によっては、何ら心探られることのない戒めです。私は盗んでない。殺してもいない。ところが、この第10戒まで来て、もはや誰も言い逃れることができません。自らの内にある罪と向き合わざるを得なくなるのです。
 隣人の家を欲しがるとは、そこに自分の家との違いに目を向けるということです。自分の家には無いものを見つける。そして自分は足りないと思う。そしてやがては自分が不当な扱いを受けているようにすら思えてくるのです。お隣の○○ちゃん、△△大学に受かったみたいよ。斜向かいの□□さんは部長に昇進したんですって。こういう話は私たちもよくしがちです。しかし、その裏には「それに比べてうちなんて」という恨み言や、「なんであの人ばっかりいい思いをして」というやっかみが私たちを捕らえているのです。これが問題です。素直に喜べないのです。喜びを共有できないのです。どこかで、比べてしまうのです。それは現状に対する不満があるからです。そして、それらは、多くの場合、与えられている恵みをきちんと把握していないことに原因があるのです。
 この第10戒は私たちの罪の動機となる、隣人への妬みややっかみといった問題をとりあげています。それは私たちの心の問題です。私たちが隣人とどのような思いで接しているかを問うています。この問題の厄介なところは、突き詰めていくと、この戒めを完全に守ることなどできないという結論に行き着いてしまうことです。戒めを守ろうとすればするほど、私たちは自身の至らなさと向き合うことになるのです。これは正直辛いことです。イエス様は実際に姦淫しなくても、心の中で情欲を抱いているなら姦淫を犯しているのと同じだと言われました。つまり、全ての戒めには、この第10戒が問われると言うことです。しかし、私たちの内面が問われるとすれば、果たして誰がこの戒めを守ることができるのでしょう。
 守れません。もちろん、だから仕方がないと開き直るわけではありません。できないと知ること。知った上で、尚も、この戒めに向き合うこと。私たちが神の戒めにどう向き合うかが問われているのです。
 そもそも神は、この戒めを通して私たちに何を求めておられるのでしょうか。私たちが神のごとく完璧に振る舞うことでしょうか。そうではありません。私たちがあらゆることにおいて、神に寄り頼み、神の恵みの内に生きるということです。それは、私たちが再び神にとって代わり、己を神として生きないということです。神は、ご自身の民として決意するイスラエルに向けて戒めを提示します。それは人に被造物である身の丈を思い知らせる戒めです。そして、それゆえに、神の憐みを恋い慕う者とされるのです。私たちは神の戒めに向き合うほどに、自らが神ならぬ身であることを知ります。神の聖さに至らない我が身を知ります。それゆえ、キリストにある罪の赦しと義の恵みに目を向ける者とされます。聖霊の助けをいただかなければ、罪に立ち向かえない者であることを知るのです。
 私たちの信仰生活は一向に変わらない罪の性質に嫌気がする毎日です。けれど、それは私たちが次第次第に変えられている証拠です。それは神のみこころに沿いたいと願う、私たちの想いの故なのです。神の戒めなど無視して、開き直って生きることもできます。その日その日楽しいことで誤魔化して生きることもできるでしょう。けれど、私たちは今日、神の御言葉に聞こうではありませんか。私たちのゴールは、やがて神になることではありません。やがて主のみこころと心一つにされることだからです。

200212 創世記19:23-29 「後ろのものを振り返らず」

創世記19:23-29 「後ろのものを振り返らず」

 ルカ17:32-33 「ロトの妻のことを思い出しなさい。自分のいのちを救おうと努める者はそれを失い、それを失う者はいのちを保ちます。」これはイエス様の言葉です。ソドムとゴモラは神の裁きの型となり語り継がれていきますが、ロトの妻もまた滅びる者の型となりました。ロトの妻を思い出しなさい。彼女のようであってはいけない。彼女を反面教師としなさい。と、語っているわけです。では、ロトの妻とはどのような者だったのでしょうか。
 ソドムとゴモラへの神の裁きは、徹底的に行われました。低地全体が水面下となり、後に湖になるほどに、大きな裁きがこの地域一帯で起こったのです。緑豊かなカナンの低地は、一面焼け野原、あらゆる生命が滅ぼされたのです。ただロトの家族だけはこの裁きを免れました。神がロトの家族が逃げるのを待っていてくださったからです。彼らがツォアルの町まで逃げ延びたのを見届けて、神は裁きの火を降らせました。ですから、今日の場面は、神の裁きを免れ、救われた生命への感謝で終わるはずの場面でありました。
 ところが、そうはなりませんでした。あろうことか、ロトの妻は、この逃走劇の最中に塩の柱となってしまったのです。ロトの妻はツォアルまで辿り着けませんでした。それは彼女が「振り返った」からです。ロトの背中を追いかける妻は、最後の最後、ロトがツォアルに入りまして、もうすぐ自分も町に入る。そのまさに後一歩というところで振り返ってしまった。そのために、彼女は塩の柱となってしまったのです。そもそもこの逃走劇には、主からの忠告がありました。「いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない。この低地のどこにも立ち止まってはならない。山に逃げなさい。そうでないと滅ぼされてしまうから。」主は事前にロトたちに語っておりました。にもかかわらず、彼女は振り返ってしまった。主との約束を反故にしたのです。そのために、哀れ彼女は塩の柱となってしまいました。
 何が彼女を振り返らせたのでしょう。好奇心でしょうか。それとも、恐怖心でしょうか。夫ロトが町に入るやいなや、背後で爆発音と熱風と立ち込める硫黄の匂いが襲ってきたのです。見てはいけないと言われれば見たくなるのが私たちですし、背後で起きる只ならぬ様子に、主の裁きが自分を飲み込みはしないかと不安になるのが当たり前の場面です。そういう思いもあったかと思います。しかし、彼女をふり返らせたのは、また別の思い、それは物を惜しむ思いからでした。
 実はイエス様が「ロトの妻のことを思い出しなさい。」と言われるのは、再臨の時の備えをするようにとの文脈の中で語っているわけですが、その直前には「その日、屋上にいる人は、家に家財があっても、それを持ち出すために下に降りてはいけません。同じように、畑にいる人も戻ってはいけません。」と言っています。ロトの妻は、ソドムの生活を思い出しながら、何を手にしたいと思ったことでしょう。財産があったのでしょうか。上等な着物を取りに帰りたかったのでしょうか。もしかすると物ではなくて、生活自体を懐かしんだのかもしれませんね。欲しい物は何でも手に入る便利な生活。罪深いとは言われるけれど、刺激的で、退屈しない、自由な生活。気の合う仲間もいたことでしょうか。それに比べてこれから向かうツォアルの町の何と心もとないことか。豊かなヨルダンの低地帯は滅ぼされ、残された地での生活は困難を極めましょう。それもこれも、生命救われたがゆえの恵みでありますが、彼女にとってそれはむしろ罰のように感じられたのです。
 終末の世を生きる私たちは、同じように、逃げよと言われています。罪から逃げ、欲から離れ、主のもとに向かって逃げよと言われます。その時に大事なのはふり返らないことです。立ち止まらないことです。そして目標を目指して走り続けることであります。あの時は良かったのにと言いたくはありません。あの時が今日に導いてくれたと言いたいのです。そして、今日が明日へと導いてくれると言いたいです。今のときは、過去からの連続であり、そして未来に繋がる今であります。主が導いてくださった、欠かすことの出来ない今日なのです。

200209 ハイデルベルク信仰問答 問112

エペソ4:25 「偽りを捨てて」

 嘘をついちゃ駄目ですよ。とは、私たち大人が子どもたちに必ず教えることです。けれど、そういう大人たちは、本気で嘘をついてはいけないと思っているでしょうか。大人になり、色んなことを経験しますと、若い人たちの青臭い正義感が鼻につくことすらあります。そんな綺麗事だけじゃ世の中渡っていけないんだよ。と、したり顔で諭したくなります。世の大人は子どもたちには正直にと言いながら、実は馬鹿正直でいることは損を見ることだと思っているのではないでしょうか。長いものには巻かれて、権力には忖度して、そのためには白いものでも黒と呼ぶ。これが世の常識ではないでしょうか。けれど、こんな時代だからこそ、私たちはこの第9戒に聞く必要があるのです。
 第9戒は、出エジプト記20:16には「あなたの隣人について、偽りの証言をしてはならない。」とあります。もともとは裁判での証言を意識したものです。今でも裁判所で証言をするとき、証言者は偽らないことを宣誓しなくてはいけません。もし偽れば、偽証罪に問われます。それほどに念を入れます。なぜなら、その証言如何によって、一人の人の人生が左右されるからです。
 私の軽はずみな発言が取り返しのつかない結果を招いてしまう。この戒めを本気で考えるなら、私たちはもう発言すること自体に躊躇してしまいます。私はそんなにも重たい十字架は背負いたくないと思います。けれど、黙っていればそれで良いわけではありません。証言台に立つのは私一人とは限りません。私が話さないその裏で無数の発言がなされるのです。中には悪意を持った発言もあります。確かに私が発言をしなければ、私はその人の結果を左右することはないかもしれません。けれど、私が発言しないために、多くの身勝手な発言がその人の人生を左右するかもしれないのです。そうなれば、それはまた別の十字架を背負うことにはならないでしょうか。この戒めは単に偽るなと言っているのではありません。言葉の重みを十分理解して発言しなさいと言っているのです。もちろんこれは、裁判だけのことではありません。私たちの日常で問われているところです。私たちの言葉には、それほどの責任がある。重みがある。だから、くれぐれも慎重に、丁寧に、話しなさいと言っているのです。
 そんなことを言っても、と思われるでしょうか。私たちの日常では、やっぱり嘘をつくことも、心を騙して生きることも必要じゃないか。と思われるでしょうか。確かに真実は時に相手の心を容赦なく斬りつけもします。真実を語ることは十分に配慮がいることです。ですから、私たちはこの真実を語れという教えに、一つの基準を設けなければなりません。それはつまり、その言葉は愛に根ざしているかということです。十戒の教えは、神を愛し人を愛するということに要約されると、パウロは言いました。私たちが語るのは、断罪するためではありません。自分を守るためでもなければ、媚びるためでもありません。それは愛に基づくのです。
 イエス様がどのような方だったかを思い出しましょう。イエス様が宮で話しておられると、一人の女性が姦淫の現場を捕らえられて連れてこられました。祭司たちはイエス様にこの女性の処遇を尋ねます。罰するべきか、不問にすべきか。するとイエス様は答えられます。「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。」彼らは一人また一人と去っていきました。帰らざるを得ませんでした。残ったイエス様はこの女性に問います。「わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。」字面だけを追って断罪しようとする祭司たちに対して、言葉少な目に罪と向き合わせるイエス様の姿があります。それはイエス様が偽ったということではありません。律法を誤魔化したのでもありません。律法に込められた神のみこころに沿ったのです。人々を罪と向き合わせ、この女性を悔い改めへと至らせます。この女性はただ単に姦淫の罪を赦されただけではありません。神との和解を得たのです。言葉は人を傷つけます。けれど、言葉は人を生かしもするのです。愛に根差した言葉は人を生かします。私たちの言葉が人を生かすものとされたいと心から願います。

200205 ピリピ3:1-11 「見えるしるしに頼らず」

ピリピ3:1-11 「見えるしるしに頼らず」

 パウロが初めてこの町を訪れた時、町外れの祈りの場で紫商人のルデヤと出会い、また看守たちが信仰を持ち、欧州における最初の教会が設立されました。それはつまり、ユダヤ人が改宗したのとは違い、ピリピ教会の人々は皆、パウロの語る福音によって導かれた人たちだったということです。ピリピ教会は生みの親パウロを慕い、経済的に援助し、パウロが投獄されたときにはエパフロデトを派遣して、その働きを支え続けました。パウロはそんなピリピ教会に対して、感謝の言葉を惜しみません。この手紙は別名感謝の手紙とも言われるほど、パウロのピリピ教会を想う気持ちが溢れています。
 そんな中、この3章では、ピリピ教会に降り掛かったある問題を取り上げています。それがユダヤ主義キリスト者の台頭です。パウロが去った後、ピリピ教会のユダヤ的な考えに引っ張られる人たちが力を持つようになり、律法を守ること、つまり割礼を受けなければ救われないと強要するようになっていったのです。
 パウロは律法による義を退けます。そんなのは無駄だと言います。なぜなら、パウロほどに律法による義を立てることに熱心であった者はいないからです。彼は経験者です。だからこそわかる。そんなことに時間も労力も費やすのは損でしかない。大事なのは、「律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義」に他ならないとです。
 律法を守ることによって立てられるのは自分の義です。しかし、それはどこまで行っても神の義に至ることはありません。律法で守るべきはその字面ではありません。その律法に込められた神の御心です。割礼というのは神の民とされた者のしるしです。神の民は割礼を受けなければならない。けれど、割礼を受けたから神の民とされるということではないのです。割礼というのは、当時のエジプトやカナン地方においても行われていた儀式ですし、広く世界中で見られる衛生予防上の習慣でもありました。ではそれらの割礼を受けた皆が神の民であるかというとそうではありません。そこには神が選んだという一方的な関係が結ばれていたのです。割礼はこの恵みに対する応答の手段に過ぎません。
 けれど、パウロが去った後、ピリピの人々はこの目に見えるしるしに頼ったのです。一世代のキリスト者たちは、復活のイエス様と出会った感動の中で信仰を得ました。けれどピリピの教会の人々はイエス様を直接見ることのない第2世代のキリスト者でした。彼らは信仰によって救われました。けれど、見えないものを信じることは難しいのです。迷いやすいのです。肉体に決して消えることのない救いのしるしを持っていたい。それは彼らの弱さからくる誘惑です。けれど、同じ誘惑は私たちのうちにもあるのです。目に見えるところで、自分の信仰を測りたいという誘惑です。そうしないと不安だからです。信仰の歩みはある意味で今まで得と思っていたことを捨てて、損と思うことを拾うことです。今までの価値観が全くに変わってしまうことです。これはある意味で恐ろしいことです。それはこの世の評価がひっくり返るということです。今までは清濁併せ呑んで、結果を出してきました。けれど、私たちは神の前に正直に生きるようになった。それは融通の効かない生き方です。結果も、評価も、価値観も、ひっくり返る経験です。にも関わらず、新しい生き方が神に喜ばれているかどうか、評価されているかどうかは私たちには見えないのです。だから、私たちは見えるものに頼りたくなります。功績を積み、誰もが認める救いのしるしを手にしたくなります。そういう信仰のあり方は今までの価値観の邪魔をしないからです。
 けれど、恵みは一方的なものです。そうでなければ、私たちが救いに与ることはかなうはずがありません。罪の問題は私たちが何を体験したから、私たちがどう努力したからと言って済む単純な問題ではありません。罪のために神の御子を殺さなければならなかったのです。私たちは信仰を測りたい誘惑があります。行いによって自分の義しさを数えたくなります。けれどそれはやはりどこまで行っても自分の義なのです。神の義は、私たちがどうこうすることで満たされることはありません。神の義は神によってでなければ。だからこれは恵みです。キリストを信じる信仰に基づいて、与えられるキリストの義なのです。

200202 ハイデルベルク信仰問答 問110-111

Ⅰテモテ6:17-19「ある物に目を向けて」

 子どもたちと一緒にアニメ番組を見ていますと、その合間合間に、今まさに見ているアニメのおもちゃのCMが流れます。すると、子どもたちはテレビに向かってこれ欲しい。あれ欲しい。と誰が一番欲しいか競争をするのです。我が子ながら何とも浅ましい光景だなぁと思います。けれども、彼らが浅ましいと言うよりは、CMというものがそもそも、人の欲を掻き立てるように作られているわけです。CMはこれがあれば、如何にあなたの毎日が幸せになるかをアピールします。逆に言うと、これが無いあなたの人生は如何に物足りないかとアピールするのです。私たちは持っていないことに焦ります。不安になります。そして他人が羨ましくなります。どうしようもなく欲しくなります。そして、ある時、ある条件下で、その欲望は一線を超えるのです。目の前のものを奪ってしまおう。普段はそんなこと考えないでしょう。人の目があるからです。捕まると法律によって罰せられるからです。けれど、誰も見ていないとしたらどうでしょうか。どこにでもある、ありふれたものだったらどうでしょう。周りのみんなもやっているとしたら?私たちを思いとどまらせてくれる枷が無くなれば、思わず手を伸ばしはしないでしょうか。
 信仰問答の110問は「自分の隣人の財産を自らのものにしようとするあらゆる邪悪な行為また企てをも、盗みと呼ばれる」と言っています。盗んだかどうかだけでなく、その企て、その心も問われていると言うのです。誰も見ていないから。今ならばれないから。これくらい、みんなやっているから。それはあまりにも神の存在を無視しています。神はその振る舞いをご存知です。神は私の不正を喜ばれません。だから私は罪を思い留まれるのです。私たちが欲望に流されるかどうか、それは全知全能であり、私に関心を寄せられる神の存在を認めるかにかかっているのです。
 神は、私たちにどのような具体的な生き方を望んでおられるのでしょうか。それは私たちが受ける者から与える者になるということです。「このように労苦して、弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを、覚えているべきだということを、私はあらゆることを通してあなたがたに示してきたのです。」(使徒20:35)とあります。これこそが私たちの日々の生活を豊かなものにする秘訣です。受けることばかりを望む人は、決して満たされることがありません。それは、無いものを見ているからです。足りなさを見ているからです。それはCMと同じです。足りなさを補えば、幸せになれると勘違いしています。けれど、その人は無いものを見ているのですから、受けても、受けても、満たされない思いが募るだけです。どこまで行っても充足感は得られません。でも、本当に足りないのでしょうか。本当に満たされていないのでしょうか。確かに私には持っていないものがあります。足りないものがあります。けれど、じゃあ私たちは不十分なのでしょうか。受けるよりも与えるほうが幸いである。という御言葉は、十分に持っていないと与えられないのではありません。今あるものを与えることが幸いであると言っています。今あるものを用いずに、無いものばかりを強請ることは、与えられた賜物を無駄にしていることなのです。つまり、私が誰かの役に立つ。誰かの助けとなれる。そのような経験を通して、私たちは足りないと思っていたけれど、そうじゃない。私たちに与えられているものは、すでに充分なんだと知ることができるのです。今あるものが充分だと知れるときに、初めて私たちは人生に満足を得るのです。
 「盗んではならない。」とは、つまり「わたしの恵みはあなたには十分である」ということです。必要なものは全て用意されている。ということです。盗む必要など無いのです。マタイ7:9-11には次のようにあります。「あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。」他の者を妬むくらいなら、なぜ、天におられる父に求めないのでしょうか。天の父は、求める者に良いものをくださるとはっきりと語っておられるのです。いえ、すでに十分に用意されているのです。私たちの目を、無いものに向けるのは止めましょう。そうではない。頂いているものの豊かさを数えることといたしましょう。