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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝メッセージを要約したものです。

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200325 ユダ1:17-25 「神を畏れて」

ユダ1:1-25 「神を畏れて」

 ユダの手紙の著者はヤコブの兄弟のユダと言われています。ヤコブは小ヤコブと呼ばれ、ペテロに代わってエルサレム教会のリーダーとなったあのヤコブです。彼は主の兄弟ヤコブとも呼ばれており、イエス様の弟に当たります。そのヤコブの兄弟と言うことですから、このユダはイエス様の弟であるユダだとわかります。
 ユダは自分のことを使徒とは呼ばず「イエス・キリストのしもべであり、ヤコブの兄弟」と呼んでいます。謙遜なユダの性格が見て取れます。その彼が今厳しいこの手紙を記します。それは彼が関心を払っていた諸教会に間違った教えが忍び込んでいたからでした。3節に、信仰のために戦うよう、手紙を書く必要が生じたとあります。つまり、信仰のために戦わないように仕向ける存在があったということです。4節に、ある人々がひさかに忍び込んできたとあります。それは不敬虔な者、恵みを放縦に変え、イエス・キリストを否定する人だともあります。また8節には、肉体を汚し、権威ある者を軽んじ、栄えある者をそしっているともあります。つまり、信仰者として当然あるべき従順を否定し、全てを神の赦しを言い訳にして軽んじる人たちだったということです。そういう罪を軽視する間違った教えが教会に入り込もうとしていたのです。
 ユダは神が裁きの神であることを語ります。もちろん、それは神の一面に過ぎません。けれど、それは決して否定されてはいけない義なる神のご性質です。信仰義認の教理は、私たちの救いが行いではなくて信仰に拠ることを教えます。それは間違いのない事実です。けれど、その救いは無条件に与えられたのでは決してありません。そこにはイエス・キリストの尊い犠牲があったのです。それは神の義を全うするために、御子キリストが自ら生贄となられたのです。ですから、恵みによって救いに与った私たちが、この恵みを盾にして傍若無人に振る舞うとしたら、それは主の命の犠牲を軽んじることに繋がるのです。
 さらにユダは「主が・・・信じない人々を滅ぼされた」と言います。「主は・・・自分のおるべきところを捨てた御使いたちを・・・暗やみの下に閉じ込められました」とも言います。イエス様が裁き主であり、逆らう者を滅ぼされる方であるという事実は、私たちにとって受け入れ難いことかもしれません。けれどこれが事実です。私たちは主を正しく畏れることが必要なのです。私たちは滅ぼすのはサタンだと思っておられないでしょうか?違います。サタンは誘惑する者です。サタンは私たちを罪へと誘惑します。しかし罪ある者を滅ぼされるのは神の義です。サタンは罪を喜ぶのです。
 ここを誤解すると、私たちはまことの神への正しい畏れを失ってしまいます。聖化の歩みを蔑ろにすることとなります。イエス様の贖いを盾にして、何をしても構わないという自分勝手な救いの理解を持ってしまいます。そうではないのです。私たちはイエス様の命を身代わりとして生かされたのです。ならば、私たちは身代わりとなったその命に相応しく生きなければなりません。私たちのために最も大切な御子のいのちを犠牲とした父の愛に応える者でなければなりません。恵みによって救われたからこそ、私たちはこのお方のみこころに従うことを願います。このお方のみこころに適う私でありたいと願うのです。

200322 ハイデルベルク信仰問答 問124

マタイ26:36-42 「みこころをなさせたまえ」

 「みこころが天になるごとく、地にもなさせたまえ」皆さんはどのように理解してこの祈りを捧げていることでしょうか。納得が行かないこの世界の現状に対して、天にあるみこころの地上での成就を願う。つまり「この罪深い世界は神様のみこころの通りになっていません。ですから、この地上を神様のみこころに叶う素晴らしい世界としてください。」という神の正義を求める祈りと理解されているでしょうか。実は私自身、長くそのように理解して祈っておりました。けれどよくよく考えて見ますと、私たちが何を祈ろうと祈るまいと神のみこころがなるのは動かしようのない事実です。あらゆることは神の御手にあり、神は私たちによって影響されるお方ではありません。そして天におられる神様は、地においても神であり、天地によって神のみこころに違いがあるわけではありません。神のみこころは天においても地においても等しく成るのです。ですからこの祈りには神の正義とはまた別の目的があるように思います。
 ハイデルベルク信仰問答は、この祈りが、私たちが神のみこころに従えるように。私たちが自分の務めと召命を喜んで忠実に果たせるように。という祈りだと教えています。実はこの祈りは地上の誰かとか、地上の現状をともかくいうよりも、「私を自分の思いのままにではなくて、神のみこころのままに生きさせてください」という信仰者としての生き方を求める祈りだと言うのです。
 私たちの祈りは、なんと自分優先の願いとはなっていないでしょうか。テストの点が取れますように。病気が治りますように。あの人と結婚できますように。もちろん、どう祈っても良いのです。けれど、みこころがなるのです。ですから、私たちの祈りがみこころに適うことを願い、更には私たちの祈りをみこころに委ねることが大事です。そうでなければ、私たちは祈りの結果だけに固執し、結果如何によって躓くことになりかねません。祈りの結果に一喜一憂するのは、祈りをおみくじにしているからではないでしょうか。そうではありません。祈りは神のみこころが成ることが大事であり、結果を事前に神に委ねることが大事なのです。
 祈りの結果を神に委ねるためには、神のみこころこそが最善であるという確信がなければなりません。「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることができない。」(伝3:11)とあります。神がこの世界に最善のご計画を持っておられることへの信頼なくして、神に祈ることはできません。どんなに逆立ちをしても被造物である私たちには、神のみこころを知り尽くすことはできないのですから、これはみこころを知った上で祈るものではありません。神のみこころがどのようかはわからないけれども、神は無駄なことをなさるはずはない。最善をなして下さる。だからこの信頼に基づいて、私を神のみこころのままに生かさせてくださいと願うのです。なぜなら、神のみこころがなることは疑いようのない事実ですが、私が神のみこころに生きられるかどうかは、私の意思や私の努力ではなくて、内なる聖霊によるからです。
 主の祈りはこの後、具体的な日毎の祈りへと移っていくわけですが、その前に、神様のみこころがなるようにと願う。それは、神のみこころを私たちの祈りの結果として下さい、という祈りです。言い換えればこれは明け渡しの祈りと言えます。「私の祈りも願いも、状況も生涯も、いっさいを、主よ、あなたに明け渡します。」という祈りです。イエス様がゲッセマネで祈られた祈りを思い出します。イエス様はご自身の思いを願いつつ、しかし父なる神のみこころがなるようにと祈りました。だからこそ、祈りの結果を神の最善と受け止めることができたのです。目の前にある出来事に、どのような解決や結果が用意されているかは私たちにはわかりません。しかし、私たちは神がみこころをなされるお方だと知っています。そして神のみこころは私たちの思いを超えて最善であると信じています。ですから、この祈りの結果に、神のみこころがなりますようにと祈るのです。そのとき、私たちは祈りの結果に左右されません。それが私にとって好ましいか好ましくないかではなくて、神が用意された祈りの答えとしての結果に、感謝することができるのです。私たちが握りしめているこうあるべきという結果を委ねることで、私たちは神のみこころを知ることとなるのです。

200318 ゼパニヤ2 「困難を不幸とはせず」

ゼパニヤ2 「困難を不幸とはせず」

 ゼパニヤはヒゼキヤ王の4代目の孫に当たる人物で、ヨシヤ王の時代に活躍した預言者です。ゼパニヤ書の冒頭で偶像礼拝に対するさばきの宣言が記されていることから、ヨシヤ王の宗教改革以前に記されたと考えられています。
 2章の1-3節で、ゼパニヤはユダの民に悔い改めを求めています。この背景に、主の怒りを買ってさばきを宣言されている民の悲惨な現状があるのです。詳しくは1章で記されておりますが、そこには偶像礼拝と神の宮を踏みにじる暴虐と欺きの民の様子が記されます。1章14-18節に記されるさばきの日の様子は実に容赦なく、主の怒りの大きさと、同時に主の徹底した聖さを見ることが出来ます。そしてそれゆえゼパニヤは叫ぶのです。「ともに集まれ、集まれ。恥知らずの国民よ。御定めが行われて、その日が籾殻のように過ぎ去らないうちに。【主】の燃える怒りが、まだあなたがたを襲わないうちに。【主】の怒りの日が、まだあなたがたを襲わないうちに。」
 続けてゼパニヤは諸国への主のさばきについて記します。4節から2章の終わりまでみっちりと。2:10-11には「これは彼らの高慢のためだ。彼らが万軍の【主】の民をそしり、これに向かって高ぶったからだ。【主】への恐れが彼らに下る。主が地のすべての神々を消し去られるからだ。人々はそれぞれ、自分のところで主を礼拝する。異国のすべての島々も。」とあります。国々は滅びます。廃れます。その驕り高ぶりのゆえにです。「驕る平家は久しからず」であります。しかしそれは主の憐れみでもありました。徹底的なさばきの末でなければ、人々は己の欲を捨てて主を恐れることができないからです。人々は廃れ果てた夢の跡でようやく目を覚まし、真の王の前にひれ伏すことを知るのです。
 困難な状況の中で、その不幸を嘆くことは誰にでもできます。誰かの所為にし、状況の所為にし、時代の所為にするということは簡単です。けれど、それでは何も生み出しません。困難を単なる不幸としてしまうだけです。そして不幸は諦めるしかありません。困難の中でどれだけ自分を見つめ直し、神との関係を見つめ直すかが大事です。全てが失われて尚も残るものに心を向けることが大事です。神は無意味に困難を振りかざすことはなさいません。その困難の中に込められた神のみこころに聞くことが大事です。
 3章に入り神のさばきは全世界に及ぶことが語られます。しかし9節からは一変、希望と繁栄のメッセージが語られるのです。神の民の回復。礼拝の回復。ヨシヤ王はヒゼキヤの言葉に真摯に応えたのです。困難を単なる不幸とはしなかった。神に立ち返るその時としたのです。私たちはどうでしょうか。ぼやいていても何も生まれません。迫る困難の中で、私たちは何を選び取るのでしょうか。この困難は私たちのターニングポイントです。困難の中だからこそ、本物が輝くのです。手放した後だからこそ、手にすることができるものがあるのです。私たちは今、霊の目で自らを顧みることが求められているのです。

200315 ハイデルベルク信仰問答 問123

Ⅱペテロ3:9-10 「御国を来たらせたまえ」

 前回の「御名をあがめさせたまえ」に続く2番目の祈り。それがこの「御国を来たらせたまえ」です。この祈りの前提にはもちろん、やがて御国、すなわち神の国が完成するという神様のご計画があり、しかしながら、今はまだその時が至っていないのだという理解があります。つまり、私たちはこの神の国の完成を前にした終末のときを生きているということです。この理解の下に「どうぞ神の国を完成させて下さい。地上の世界を、神の国として相応しいものへと作り変えて下さい。」という祈りを私たちはささげるのです。
 私たちはときに思います。なぜ世界はこんなにも悲惨で満ちているのだろうと。世界の各地では、今も尚、紛争が続き、大勢の命が奪われています。新種の病気や、地震などの災害。また盗みや殺人、個別の犯罪は至るところで起こっています。神様がおられるのなら、このような世界であるのはおかしいじゃないか。と、思わなくもありません。なぜなら、この世界は神の国に対するイメージとのあまりにも大きなギャップがあるからです。私たちは神の国はこんなものではないと知っているのです。神の国について、ヨハネの黙示録はもはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。と言っています(黙示録21:3ー4)。そのような世界を心から願います。しかし、どうでしょうか。私たちの住むこの世界は、とてもそのような世界ではありません。
 けれど、これは当然のことかもしれません。なぜなら、私たちが今いるのは完成した神の国ではないからです。確かにイエス様によって救いの扉は開かれました。神の国は到来した。しかし、未だ完成していない途上にあるというのがこの世界なのです。ですから信仰者はこの地上で生きることに、色々な葛藤を覚えるのです。信仰が理解されず、価値観が受け入れられず、神に祈ることですら窮屈で不自由な思いをするのです。けれど、そのような葛藤は、いつまでも続かない。神の国はイエス様が再びやって来られるとき完成いたします。ですから私たちは「御国を来たらせたまえ」と祈るのです。完成する神の国にはこれ以上ない希望が確かにあるからです。地上を支配するサタンは討ち滅ぼされて、そこには一切の罪の解決があり、永遠の神と共に過ごす穏やかな日々が約束されているのです。この祈りは私たちの心を地上の一切のしがらみから解き放ち、天上の祝福へと向かわせる道しるべとなる祈りなのです。
 この祈りは私たちの切なる願いです。イエス様が今日にでも来てくだされば、私たちの葛藤は無くなるのです。誘惑に迷うたびに、罪に後ろめたさを覚えるたびに、そして、この世の悪が蔓延るたびに私たちは思います。イエス様さえ来てくだされば・・・。しかしです。主は来てくださらないのです。これは2000年間、キリスト者が願いに願ってそれでも聞かれない祈りなのです。では御国は来ていないのか?そうではありません。御国は一人ひとりのキリスト者によって広げられるのです。
 神の国とは何か。「声なき者の友」の輪の神田英輔師は、それは神の主権の及ぶところだとおっしゃっいました。それはつまり世にあってキリスト者が影響するところと言い換えることが出来るでしょう。私たちが世に影響する。愛を持って関わる。そこに神の主権が及んでいくのです。イエス様が来られればそれは一瞬にして完成します。けれど、主は敢えてそうはされていないのです。第Ⅱペテロ3:9-10を見ると、それは主が猶予されているからだと言います。忍耐されておられるのだと。なぜなら主の再臨による神の国の完成とは、言い換えると、救いと滅びが確定するときでもあるからです。「御国がきますように」とは主の最終的なさばきの到来を願うことでもあるのです。けれど、主は私たち人間が悔い改めて、永遠のいのちを得ることを望んでおられます。主は待っておられる。だから主がこの祈りを実現されないとすれば、それは憐れみに他ならないのです。
 果たして私たちは「御国が来ますように」と躊躇なく祈ることができるでしょうか。神の国の完成は私たちの願うところです。けれど、救いと滅びが確定するというならば、「神様、ちょっと待ってください」とはならないでしょうか。明日主が再臨されるとしたら、私たちに思い残しはないでしょうか。私たちは主の福音を宣べ伝えなければなりません。それは私たちが愛するその人の滅びに後悔しないためにです。主は人々の悔い改めを待っておられます。そのために私たちが動くことを待っておられるのです。

200311 Ⅰペテロ5 「サタンの思惑」

Ⅰペテロ5 「サタンの思惑」

 ペテロはこの手紙で従順であることを勧め、また悪に報いず善に熱心であることを勧めます。そして4章の終わりでその理由を明らかにしますが、それは、さばきが神の家から始まる時が来ているからだと言うのです。そして「そこで」と切り出しまして、この5章の冒頭、ペテロの勧めが記されるのです。
 長老たちに対しては心を込めて羊の群れを牧するように、群れの模範となるようにと勧めます。若い人たちには長老たちに従うようにと勧めます。そしてそれは若い人だけでなく、長老も若い人も皆が謙遜を身に着けるようにとです。つまり、苦難の時だからこそ教会は一致しなければならない。そして、一致は謙遜と従順によって生れると教えるのです。苦難の中で私たちは仲違いしている場合ではないのです。誰が偉い偉くないと競い合っている場合ではないのです。教会の権威は主ご自身です。長老はまずこの権威に従う。そして若い人は主が選ばれた長老に謙遜に従う。これは教会に与えられた秩序です。そして苦難の時を乗り切るための大切な手段なのです。
 なぜなら、この苦難を用いてサタンが狙っているのは教会の分裂に他ならないからです。教会の交わりが競い合って、互いを邪魔者扱いとし、互いに疑心暗鬼となり、互いをさばき合い、キリストの威を借りた自分教を創める。これこそがサタンの思惑です。
 ペテロはローマでのキリスト者に対する不穏な空気を感じ取りながらこの手紙をしたためています。ローマのクリスチャンは公には信仰を隠して、イクソスという魚の形を模したギリシャ文字を身に着けて互いの信仰を確認し合っていたのです。クリスチャン狩りがなされて、信仰者とわかると連行され、コロッセウムで見せしめのライオンが放たれたり、火炙りにされたり、十字架に架けられたりしたのです。そんな殉教者たちの姿を見送るしかできない不甲斐なさを感じながら、しかし、それでもこれ以上迫害が広まりローマ帝国全体に及ぶことの無いようにと危惧しながら、残された者たちが早まった行動に出ないように自制をかけながら、ペテロは困難な現実の背後に霊的な戦いがあることを語るのです。
 「やがて来る栄光にあずかる者として」と自信を紹介するペテロです。終末を意識するペテロの信仰が見て取れます。この「やがて来る栄光に」信頼を置くことが大事です。私たちは目の前の困難にばかり目を留めます。けれど、困難を解決することに焦るあまり、より大切なことを見失っては元も子もありません。迫害を回避したいだけであれば信仰を捨てればいいのです。夫婦関係のいざこざを回避したければ離婚すればいい。親子関係でストレスがあれば親子の縁を切ればいい。問題の解決は至って簡単です。けれど、それは目に見える問題に限ります。その背後にあるサタンは、むしろ安易な解決に走ることに、ほくそ笑んでいるのです。
 「あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあって永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみの後で回復させ、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。」(5:10)
 サタンの存在を意識することは同時に神の存在を意識するということです。霊的戦いの結末は神の圧倒的な勝利に終わることを私たちは聞いています。私たちの苦難は永遠の栄光に至るのです。「この恵みの中にしっかりと立っていなさい。」と言ってペテロはこの勧めを閉じます。苦難の渦中にいるペテロが恵みの中にしっかりと立っていなさいと語る。これは彼自身の経験から出るところなのです。ペテロ自身、逃げ出したくなるような、倒れてしまいそうな経験を通ってきたのです。そんな彼が頼りとしたものが永遠の栄光の約束でした。見えない神への信頼でした。私たちがどのような苦難の中でも主を信頼して過ごすなら、これ以上にサタンの思惑を砕くことはありません。サタンの思惑は、私たちが信仰の道から脱落することです。ですから安易に道を外れるのではなくて、耐え忍ぶことが勧められているのです。苦難の道は十字架の道です。私たちはこの道の行き着く先を知っています。苦難の中にあって尚、勝利を見失うことのない信仰者の歩みとは何と幸いなことでしょう。

200308 ハイデルベルク信仰問答 問122

詩篇115:1 「み名をあがめさせたまえ」

 「天におられる父なる神よ」という呼びかけに続いて、いよいよ祈りの部分が始まります。前半に3つ。後半に3つ。それぞれ、父なる神についての祈りと祈る私たちのための祈りです。この両方の祈りがバランスよくあることが大事です。イエス様はこのどちらも祈りなさいと言っておられます。考えてみますと、私たちは常日頃祈るときに、後者の祈りが多いのではないのかと思います。「こうして下さい」「ああして下さい」と自らの必要を祈ることが常でないかと思います。確かに、何を祈っても良いのです。父なる神様は、子を愛しく思い、心配し、最善をなしてくださるお方です。私たちが思うところを祈ることを喜んでおられます。しかし、イエス様はその前に祈ることがあると言っておられる。それが、この前半の3つの祈り。「御名をあがめさせたまえ」「御国を来らせたまえ」「御心が天になるごとく、地にもなさせたまえ」です。
 ハイデルベルク信仰問答は「み名をあがめさせたまえ」という願いに2つの意味が含まれていることを指摘しています。一つは、私たちが主の御名を正しくあがめ賛美できるようにということ。そしてもう一つは、私たちを通して主の御名があがめられ賛美されるようにということです。
 祈りにおいて、私たちがまず主の御名をあがめることが大切です。あがめるとは、もともと「聖とする」という意味の言葉です。そして「聖」とは「分離する」とか「切り離す」という意味の言葉です。旧約の時代、祭司は羊の群れの中から傷のない一番立派な子羊を取り出し、神にささげました。神に相応しくないものを切り離して、特別な相応しいものだけを選び取る。これが「聖」とするということ。ですから「神の御名を聖とする」とは、神様を他のあらゆるもの、相応しくないものから区別し、この方こそ特別の存在であることを認めて、褒め称えるということ。すなわち「父なる神様。あなただけがこの世界で唯お一人の神であられますように」という祈りです。
 なぜ、このように祈るのかと言いますと、そこには、神の御名が聖とされていない、つまり神の存在が特別ではない現実があるからです。この世の中には神々が氾濫しています。人の数だけ神がいると言っても過言ではありません。自分が望む神。自分に都合が良い神を皆が抱いています。そんな中にあって、人々はこの真の神の特別さを理解することが出来ないでいるのです。この真の神はオリジナルの神です。「わたしはある」と言われた、他者に依存しない唯一の神です。神によって作られた人間は本能的に神との関係を求めますが、人間は罪のゆえに神から引き離されたために、真の神を崇めることができません。それゆえ、人々は好き勝手に神のコピーを思い描き、間違った礼拝を捧げるのです。人が真の神を崇めるためには、神がご自身を明らかにして下さらない限り不可能です。ですから「御名をあがめさせたまえ」です。「私にご自身を明らかにして下さった父なる神様、どうぞあなたが全てのものを創造された唯一真の神であることを人々にも知らせ、皆があなたの尊いお名前を褒め讃えるようにさせて下さい」。この祈りは神のご栄光を讃えると共に、未だ神を知らない人々を覚えてのとりなしの祈りでもあるのです。
 人々が主の御名をあがめて賛美するように。しかしハイデルベルク信仰問答は、この祈りは単なるとりなしには終わらないと言います。この祈りは、神様に丸投げの「どうぞ明日起きたら願いが適っていますように」と言った、責任を委託する祈りではありません。それは具体的な応答の生き方へと私たちを導く祈りです。私たちがもしその行いにおいて不誠実であるなら、人々は私たちを見て、私たちではなくて、神に失望してしまうことでしょう。もしそのようなことになれば、私たちは神の御名を褒め讃えながら、実際には神の御名を汚してしまうことになるのです。ですから、この祈りは「こんなにも不誠実でどうしようもない私ですけれども、どうぞこの土の器をも用いて、主の御名が崇められますように」という決意の祈りでもあるのです。

200304 Ⅰペテロ1:1-12 「変わらないものを見上げて」

Ⅰペテロ1:1-12 「変わらないものを見上げて」

 ペテロの手紙を読みますと、とても厳しい信仰者としての生き方が語られます。信仰者に現実の苦しみに対する忍耐を問うています。私たちはペテロのイメージをもっと楽観的で、もっと単純に思い浮かべることではないでしょうか。ところが、このペテロの手紙からはそのような様子は見られません。慎重で、厳格で、非常に重苦しい印象を受けます。年齢を重ねたということもあるでしょうが、それ以上に、彼が置かれている現状が、彼を変えたと言ってもよいかと思います。
 ローマの大火と呼ばれる事件が起きたのがAD64のことでした。100万人を超える大都市ローマは、建築物の多くが木造で、道幅も狭く、密集していたため瞬く間に火事が広がって行ったと言います。ローマ市14区のうち3分の2にあたる10区に火が燃え広がり、そのうち3区は灰燼に帰し、7区は倒壊した家の残骸をわずかに留める程度だったと言われています。当然、人々はその責任がどこにあるのかと紛糾したのです。そしてその矛先は皇帝ネロに対しても向けられました。ネロはこの大火事の責任を当時ユダヤ教の分派と見なされていたキリスト者に押し付けました。そして、それゆえキリスト者は、ローマ帝国による最初の弾圧を受けることとなって行くのです。
 このペテロの手紙は、ローマの大火が起こる直前のAD63に書かれた手紙だととか、AD64以降の迫害の真っ只中に書かれたと諸説があります。どちらにせよ、この手紙は平和な中で書かれたものではなくて、迫害を意識するようになった、過酷な状況を感じ取る中で書かれた手紙だと言うのです。
 こうした背景を知りますと、ペテロの言葉の重みというものが変わってくるかと思います。ペテロはこの苦難の中で、キリスト者のあるべき姿を語ります。苦難に対して耐え忍ぶべき。悪に倣わず善を行うべき。今の状況に目を向けるのではなくて、天の栄光を見て神に聞き従うべき・・・。とても厳しい教えです。けれど、実はこれを語るペテロ自身がそのような中に置かれていたのです。ローマで起きた迫害は、日本の江戸時代とは異なり、苛烈ではあったけれども局地的なものでした。迫害の中心は小アジアではなくてローマでした。ですから、この手紙は安全なところから迫害の只中にいる同志に向けた、負けるな、頑張れという手紙ではなくて、私たちはこの試練の中で朽ちない恵みを見出しましたから、あなたたちもいずれ来る苦難にあってこれに習ってください。という類の手紙なのです。
 そんなペテロが1:6-7で「そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。今しばらくの間、様々な試練の中で悲しまなければならないのですが、試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリストが現れるとき、称賛と栄光と誉れをもたらします。」と言って、現状の苦しみを再定義しています。目に見える困難は、神のご計画の内に別の意味合いを持っているということです。私たちは困難に対してそれが取り去られることを願います。そして取り去られないとき、私たちは現状に絶望しますし、解決をもたらしてくれない神に不満を覚えます。けれど、その困難事態に置かれた神の意志には目を向けようとはいたしません。困難が無くなることよりも、その困難の中で、変わらないもの、失われないものを確かとすることがより大事です。だからこそペテロは困難を解決するようにではなくて、耐え忍ぶようにと言うのです。迫害が起こり、彼らの信仰を大いに振るわれます。信仰を持つことが彼らの日常の不利益になる。けれど、彼らは最後まで信仰を持ち続けます。神の栄光を見出した彼らは、この世の価値観には生きていないのです。
 韓国大邱市の異端の教会で新型コロナウィルスが蔓延したという報道を見ました。異端の教会ということもあり、とても複雑な思いですが、これは一歩間違えれば明日の我が身だと思いました。そして、多くの日本人が教会に向ける目だと思いました。皇帝ネロはキリスト者をローマの大火のスケープゴートにしました。あらゆる集まりに自粛が求められる日本において、礼拝に集う信仰者の群れは格好の非難の的でしょう。けれど、私たちは慌てないようにしたいものです。見えないウィルスに、できる限りの対策は取りつつも、やはり見失ってはいけないものがある。このことによって隣りにいる一人を疑い、切り捨てるようであってはいけないし、神を後回しにする言い訳としてはならないのです。移り変わる状況の中で、私たちは変わらないもの、失われない希望に目を留めていきたい。神を礼拝する民であり続けたいと思います。

200301 ハイデルベルク信仰問答問 問120-121

マタイ7:9-11 「天の父なる神」

 主の祈りは、神への呼びかけから始まります。この祈りは、他の誰でもない、この天の父に向けて祈りますよ。という区別であり、呼びかけをもって祈り始めなさいと命じておられるのです。神さまは唯一のお方なんだから、区別する必要があるのか?と思われるかもしれません。他の神々が並び立つのなら、どの神かと区別する必要があるわけですが、神は唯一なのだから、神さまと一言呼べばそれで良いんじゃないかとです。けれど、そうであっても、私たちがこの神をどのように理解しているかということは、やはり問われてきます。お寺で賽銭を入れて必死に願掛けをします。「受験の神様どうぞ試験に合格しますように。」神さまは唯一で、それ以外の神々は偽物で、実在しないのですから、じゃあこの祈りはまことの神に届けられているとなるでしょうか。それはやっぱりなりません。私たちが別の神々を意識して、その名によって祈るなら、それがどんなに実在しなくても、それはその神々を選び取っているのです。一つのものを選ぶということはその他を選ばないということです。まことの神を選ばない。まことの神に祈らないということです。ですから、イエス様は、正しく認識し、正しく呼びかけて祈ることをまず教えられるのです。
 イエス様は「天にまします我らの父よ。」と呼びかけるよう教えてくださいました。実はこれはとんでもないことです。なぜなら私たちは被造物であって、創造主なる神を、決して「父よ」と軽々しく呼ぶことなどできない存在だからです。私たちは神に創造され、神を裏切った存在です。神に従って生きることを良しとせず、自分の思いのままに生きようとする、罪を持った存在です。それゆえ、神はその聖さのゆえに、私たちを滅ぼされるのです。私たちは神に赦しを請うべき者ではあっても、父よと軽々しく呼べるような者ではありません。それなのに、イエス様はそんな立場を超えた呼びかけで、祈り始めることを勧められます。これはつまり、主イエスの購いの御業のゆえに、私たちの罪は赦され神の子とされる特権に与った、という約束を前提にして、あなたがたは神の子どもとして祈りなさいと教えておられるのです。
 私たちの神が単なる神ではなくて、父なる存在であるということはとても意味のあることです。それは全能の神が裁きの目ではなくて、親しみを込めて私たちと関わって下さるということを意味しているからです。親が子の成長に関心を寄せ、見守るように、父なる神は、私たちに関心を持っておられる。ですから私たちはどのような時も神の最善を期待して祈ることができるのです。時々、祈っても聞かれないと嘆かれる方がおられます。本当に神は実在するのかと。しかし、私たちが祈ったとおりに物事が進むことが、神の存在証明ではありません。子どもが毎日チョコレートばかり欲しがるとしたら、親はその結果どうなるか想像がつきますから、子どもの手の届かないところに隠してしまうでしょう。これは親が子の願いを聞いていないのではありません。子にとってより最善となるように親が判断しているのです。私たちは、祈ったことが聞かれているかどうかと、気にする必要はありません。神は聞かれているからです。神は全てをご存知で、その上で、私たちにとっての最善を成して下さるのです。祈っても祈らなくても結局のところ、神はみこころのとおりをされるのだったら、私たちが祈っても仕方がないのではないかと思われるでしょうか。しかし、そうではありません。確かに親はたとえ子が何も言わなくても子にとっての最善を用意することができます。しかし、だから子が思っていることを何も話さず、ただ黙っていることを望んでいるわけではありません。親は、子が何を考え、何を求めているのか、何を感じているかを聞きたいものです。確かに祈らなくても、神は私たちの最善を知っておられます。しかし、それでも神は私たちの願い思いを、私たちの口から直接聞くことを喜ばれるのです。神は私たちの祈りを待っておられる。そしてその願いに応えたいと思っておられるのです。
 ハイデルベルク信仰問答は、わたしたちの祈りの土台は神に対する子どものような畏れと信頼だと教えています。畏れと信頼。神の前に出ることへの罪人としての本能的畏れ。それはつまり被造物である自分と創造主なる神との正しい距離間、正しい立ち位置を理解すること。そして主イエスの贖いのゆえに神の子とされたことへの信頼を持つこと。これが祈りの前提としてあって、初めて呼びかけることができる「天にいます私たちの父よ。」なのです。ですから私たちは何気なく「天の父なる神さま」と祈りますが、しかし、これは決して当たり前のことではなくて、主イエスの購いによって勝ち取られた特別の権利であるということを理解し、感謝して祈りたいと思うのです。