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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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200426 ハイデルベルク信仰問答 問127

ローマ8:12-17 「悪より救い出したまえ」

第127問
【問】第六の願いは何ですか。
【答】「われらをこころみにあわせず、悪より救い出したまえ」です。
すなわち、わたしたちは自分自身あまりに弱く、ほんの一時立っていることさえできません。その上、わたしたちの恐ろしい敵である悪魔やこの世、また自分自身の肉が、絶え間なく攻撃をしかけてまいります。ですから、どうかあなたの聖霊の力によって、わたしたちを保ち、強めてくださり、わたしたちがそれに激しく抵抗し、この霊の戦いに敗れることなく、ついには完全な勝利を収められるようにしてください、ということです。

 先日、ネットニュースを読んでおりましたら、最近の日本語には敬語が4種類あるというニュースがありました。尊敬語、謙遜語、丁寧語。そして4つ目は卑屈語だと言うのです。「ご確認いただければ幸いと存じますがいかがでしょうか」と言ったように、必要以上な敬語を幾つも重ねて用いる言葉のことを記者は「卑屈語」と呼んでいます。そして卑屈語は相手に対する尊敬でも、謙遜でも、丁寧でもなく、「保身」の気持ちから生み出されていると指摘します。つまり「嫌われたくない」「責任を取りたくない」という「保身」の気持ちが、日本語を歪め、卑屈にしているのだと言うのです。なるほどと思いました。私はそれが全て悪いとまでは思いませんが、しかし、その言葉の根底にあるものが「保身」であるとすれば、それはやはり敬語とは言えないと思いました。
 このことは言葉だけの話ではありません。実は私たちの生き方、性格、あらゆる人間関係にも蔓延しているように思うのです。つまり、私たちの職場や学校や家庭において「嫌われたくない」「責任を取りたくない」という「保身」気持ちが、その人を必要以上に卑屈にならせているということです。あらかじめ相手に期待させないように振る舞うことで、敵意や競争心の対象から外れようとしたり、相手を幻滅させないようにするのです。だから必要以上に自分を卑下します。けれど、そのような振る舞いは往々にして相手に「卑屈」として映るのです。そして余計に関係をこじらせていく。実はそういう人が増えている。それはつまり自分自身を肯定して見れない、自分に対する自信の無さから来ることです。そして、それは信仰においても同じ事が言えるのではないかと、こう思うわけです。つまり神に対して嫌われたくないという保身が、どうせ私なんてという卑屈に繋がっているという話です。
 ある時、会堂で教えられるイエス様の前に一人の女性が連れて来られます。それは姦淫の現場を取り押さえられた女性でした。人々はイエス様にこの女性の裁きを委ね、イエス様は「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。」と命じて、結果、彼女を救うのです。イエス様は彼女に言います。「女の人よ、彼らはどこにいますか。だれもあなたにさばきを下さなかったのですか。」「わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。」罪の赦しの後に、イエス様は罪を犯してはなりません。と命じられるのです。さて、この女性はこの後一切の罪を犯さずに過ごしたのでしょうか。もちろん、そんなことはありません。というか、できません。私たちは神と真摯に向き合うほどに自らの罪に気付かされるからです。ですから、このイエス様の言葉は「もう次はありませんよ。今度罪を犯したら赦しませんよ」という意味ではありません。今までは罪と向き合うことをせず、自分の中で色んな言い訳をしてきたかもしれない。けれど、これからは罪と真摯に向き合って、戦って、犯さないように努力しなさいよ。どうせ神に罰せられると開き直らないで、卑屈にならないで、神の期待に応えられるように励んでくださいね。と、こういう意味であったろうと思うのです。
 ですから「われらをこころみにあわせず、悪より救い出したまえ」とは、神の前に罪を犯さないで歩んでいきたい。神の期待に沿える者でありたい。という心からの願いの行き着くところとして、この祈りがある。そして聖霊の助けがあるならば私たちにはできるという信頼の下に、この祈りがあるのです。
 「謙遜」と「卑屈」は似て非なるものです。謙遜は自分の弱さを認めて遜ることですが、卑屈は見たくない現実を避けるために、敢えて弱さに甘んじることです。罪と向き合うことを避けるために、自分は弱いから仕方ないと開き直るのです。それは神さまには全てお見通しです。罪赦された私たちはその生きる向きを変えなければなりません。これからは決して罪を犯さない。という決意の向きにです。神の期待を応えて励む。という決意の向きにです。
 ローマ8:15には、「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。」とあります。奴隷でいることはある意味、楽な生き方です。決断しなくて良いからです。責任を負わなくて良いからです。けれど奴隷でいることは、いつ主人の怒りを買うかわからない。いつもびくびくとそのご機嫌を取らなくてはならない毎日です。神はそのような関係を求めておられません。神は私たちを子として迎えてくださったのです。それは神が私たちの父となる。父として最後まで面倒を見てくださることを意味しています。失敗をすれば正されますし、間違いを犯せば叱られます。けれど、親子の関係は切れることはありません。注意され、叱られたからと言って、自分は愛されていないと不貞腐れる必要はありません。どうせ自分なんてと卑屈になる必要はありません。神はいつまでも父であり続けられるお方です。私たちの成長を楽しみとし、見守って下さるお方なのです。
 卑屈は自信の無さから来るでしょう。けれど、自信が必要なのではありません。信頼があれば良い。私たちの弱さを覆う主の愛に信頼するとき、神と共に生きることの決意が生まれるのです。
 だから、私たちは祈るのです。「われらをこころみにあわせず、悪より救い出したまえ」父なる神に相応しい子でありたい。心からそう願いつつ、けれど適わない自分を認めつつ。だからこそ聖霊が私を助け、導いてくださるように。成長させてくださるように。私たちが大胆に神に近づけるようにと祈ってまいりましょう。

200419 ハイデルベルク信仰問答 問126

エペソ4:32 「負い目をお赦しください」

第126問
【問】第五の願いは何ですか。
【答】「われらに罪を犯す者をわれらがゆるすごとく、われらの罪をもゆるしたまえ」です。すなわち、わたしたちのあらゆる過失、さらに今なおわたしたちに付いてまわる悪を、キリストの血のゆえに、みじめな罪人であるわたしたちに負わせないでください、わたしたちもまた、あなたの恵みの証をわたしたちの内に見出し、わたしたちの隣人を心から赦そうとかたく決心していますから、ということです。

 「われらに罪を犯す者をわれらがゆるすごとく、われらの罪をもゆるしたまえ。」という祈りには、馴染みとともに違和感もあります。まるでこの祈り方では、私たちが赦したということを条件として突き付けて、私たちのことをも赦せと神に迫っているようだからです。あるいは、私たちが神の見本であるかのような印象も受けます。この祈りの表現は昔の文語訳聖書の訳から来ているかなり直訳的な表現ですが、実は今の聖書ではそのようには訳されておりません。マタイ6:12を見ますと「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。」とあります。まず私たちの負い目を認め、神の赦しを乞う願いがあります。その上で、私たちも負い目のある人を赦します。と、赦された者としての生き方が決意されるのです。
 まずは「私たちの負い目をお赦しください。」です。ルカの福音書では「私たちの罪」と言い換えています。「罪」と「負い目」は置き換え可能な同意義語だということです。つまり罪を犯すと、そこには負債が生じるのです。私たちが罪を犯すとき、法律に則って罰が下されます。同じように、神によって造られた人間が、神の意図に反し、神をないがしろにし、神に相応しくない振る舞いによってその御名を貶めているとするならば、それは神に対する重大な裏切り行為であり、それゆえ神に対して負債を負うこととなるのです。
 私たちは神に負い目を持った者だと言うことを認めなければなりません。これが神と私のそもそもの位置関係です。ですから私の正しさや、私の評判や、私の努力や、私の実績を、神の前にひけらかしてその赦しや祝福を求めるなどあり得ないのです。私たちは神と取引をするなどできません。私たちには払うべきものがありません。むしろ負債を負っている。だから私たちは赦しを乞うしかないのです。「私たちの負い目をお赦しください。」これは私たちの内には赦される要素は何もないという罪の告白の祈りです。そして、その祈りは確かに主イエスによって聞かれたのです。
 神の前に赦しを乞う私たちが、次に祈るべき祈りは何でしょう。それが「私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。」という決意の祈りです。なぜなら、それこそが神が私たちに望んでおられる赦された者としての生き方だからです。イエス様はある時、一万タラントという借金を王から免除された男の話をされました。この男、王から莫大な借金を赦してもらったにも関わらず、自分が100デナリ貸していた仲間に返済を詰め寄ります。そして挙句牢に放り込むのです。王は男の振る舞いに大変憤り、負債を全部返すまで獄吏に預けたという話です。この例え話の王とはもちろん神さまのことであり、赦してもらった男とは私たち人間のことです。神は言われます。「私がおまえをあわれんでやったように、おまえも自分の仲間をあわれんでやるべき」だとです。
 私たちはイエス様の命と引き換えに赦された者です。それは一方的な恵みです。私にはその資格もないのに、主イエスは私たちの赦しとなられたのです。ですから私たちは赦されたことで終わらせてはなりません。赦す者となりたいと思います。イエス様ならそのように生きたであろうからです。私たちが赦すとき、そこにイエス様の生き様が証しされるからです。
 さて、まず「私たちの負い目をお赦しください」。そして「私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します」と祈る。この順序が大事だとお伝えしました。けれど、私たちはその祈りの意味と向き合うとき、もう一度最初の祈りに戻る。戻らざるを得なくなる。そういう意味で「われらに罪を犯す者をわれらがゆるすごとく、われらの罪をもゆるしたまえ」とは、まさに私たちの心の内を言い表しているのです。なぜなら、私たちが誰かを赦そうとするとき、私たちはそのことの難しさに直面するからです。赦したくても赦せない。愛したくても愛せない。1万タラントを赦されても尚、たった100デナリを赦せない器の小ささを見出すからです。だからこそ「私たちの負い目をお赦しください」と戻らざるを得ないのです。
 しかしこれは同時に、至らない私たちのために犠牲となられたイエス様の愛を実感するときでもあります。神の赦しは、イエス様の犠牲は、明らかに釣り合いの取れない破格なものなのです。私たちは絶えずこのところに戻らされます。だから決意するのです。「私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。」己の弱さを知り、欠けを知った上での決意に意味があるのです。それは高いところから下々の者を見下ろす情けではありません。同じ弱さを抱え、痛みを抱えつつ、尚も赦しにあずかった者だけ持てる共感です。だからこそ、主は弱い惨めな私たちにご自身の命を託されたのです。

200412 イースター礼拝 ルカ24:1-32 「わかった。すると見えなくなった。」

ルカ24:1-32 「わかった。すると見えなくなった。」

 今、エルサレムからエマオの村に向かうの途上に二人の弟子の姿があります。一人はクレオパ。クレオパトロスの略名で、ヨハネ19:25にあるクロパという人物も、彼のことだと言われています。もう一人の名は記されていませんが、恐らくはクロパの妻マリアのことであり、十字架のそばでイエスの母であるマリアやマグダラのマリアと共にイエス様の死を見守ったその人です。この夫婦が今、エマオに向かっている。その日はちょうど、マグダラのマリアたちが空になった墓を目撃して残った弟子たちに知らせて騒動になった、その日であります。14節に「彼らは、これらの出来事すべてについて話し合っていた。」とありますし、19節からの彼らの言葉からも彼らがエルサレムでの騒動の一部始終を知っていたことがわかります。つまり、この夫婦はイエス様の十字架に寄り添うほどにイエス様と親しく、そして、イエス様の墓が空っぽだったという驚きの報告を直接耳にし、それでも尚、今この日にエルサレムを離れて我が家に向かっていたということです。
 彼らのことを信仰の薄い人たちと笑われることでしょうか。けれど、それはつまり、それほど彼らの落胆が大きかったということです。イエス様がよみがえられたかもしれないという報告を聞いても尚、その場を離れるほどに彼らは混乱していたのです。何にでしょうか。結局のところ、イエス様とは何者だったのか。ということがわからなくなってしまったのです。彼らは自宅までの道中、あれやこれやと論議します。けれど彼らには納得の行く答えが見つかりません。どれだけ論議してもある結論に行き着きます。イエス様は自分たちが思っていた方とは違っていたという結論にです。彼らは旅で一緒になったその人に言いました。「私たちは、この方こそイスラエルを解放する方だ、と望みをかけていました。」つまり、ローマの圧政から神の民イスラエルを解放してくれる救世主を期待していた。けれど、そうではなかった。これが彼らの中での結論だったのです。
 そんな彼らの下に、復活のイエス様は現れ、旅を共にします。ところが、彼らはそれがイエス様だとは気付きません。彼らはイエス様に、エルサレムで起きた一連の出来事を話します。イエス様は彼らが何も悟っていなかったということを嘆き「モーセやすべての預言者たちから始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かされ」ました。イエス様直々の聖書の解き明かし。なんと羨ましい時間でしょうか。聞くほどに彼らの先入観が解きほぐされます。時間も忘れて没頭したのでしょう。気付くともうエマオの前まで来ておりました。もっと聞きたい。もっと知りたい。彼らは旅先で会った特別講師に自宅に泊まるようにと強く勧めます。イエス様はそれに応じられました。そして、イエス様は彼らの家で食卓に着き「パンを取って神をほめたたえ、裂いて彼らに渡され」ました。普通それは家の主人がやることです。けれど客であるイエス様が、主人を差し置いてパンを取って裂かれます。もちろんそれはイエス様が教えられた聖餐の食事を連想させる行為でした。それはイエス様こそが罪を過ぎ越すために神に捧げられる生贄の羊であることを意味するものです。つまり、聖書の語る救い主の成就です。彼らがそのパンを手にしたその時、彼らの目が開かれ、彼らはその人がイエス様本人であったことを悟ったのです。
 見ないで信じるということは難しいことです。けれど、見ているままを信じると言うこともまた難しいことです。クレオパとマリアは見ていたのです。一緒にあれやこれやと話したのです。それでも彼らは目の前にいるその人がイエス様だと悟ることはできませんでした。彼らはこれまで自分たちの願うようにイエス様を見ていたからです。自分たちの見たいように見、聞きたいように聞く。彼らの先入観が、彼らの目を曇らせていたのです。
 彼らの目が開かれて、イエス様であることが分かったその時、イエス様の姿は見えなくなりました。霊の目が開かれて救い主を知るとき、見える見えないは関係無いのです。目が開かれるとは、見えることではありません。聖書の解き明かしから、主と出会うことです。御言葉に聞くとき、私たちの心の内に御霊が働かれるのです。主が啓示されたそのままを聞く。それは口で言うほど簡単ではありません。自分の好みを探したくなります。心を占める心配事に答えを見つけたくなります。けれど、ひととき、主の御声に聞くとき、私たちはそれら一切の思い煩いを手放す必要があるのです。私たちが自分の願いを主に見出そうとするなら、たとえ復活の主が目の前にいようとも、見ることができません。主が語るままを聞く。そのとき、意味がわかろうとわかるまいと、好ましかろうと好ましくないと、関係はありません。私たちは救い主の御声を聞くのです。

200405 ハイデルベルク信仰問答 問125

ピリピ4:10-13 「日毎の糧を与えたまえ」

問125
【問】第四の願いは何ですか。
【答】「我らの日用の糧をきょうも与えたまえ」です。そなわち、わたしたちに肉体的に必要なすべてのものを備えてください。それによって、わたしたちが、あなたこそ良きものすべての唯一の源であられること、また、あなたの祝福なしには、わたしたちの心配りや労働、あなたの賜物でさえも、わたしたちの益にならないことを知り、そうしてわたしたちが、自分の信頼をあらゆる被造物から取り去り、ただあなたの上にのみ置くようにさせてください、ということです。

 この第4の祈りから、具体的で個人的な祈りの勧めへと移ってまいります。イエス様はまず「私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください」と祈ることを教えられました。けれど、この祈りに違和感を覚える人は、少なくないのではないでしょうか。「働かざる者食うべからず」。今日生きる糧は天から降って来るのではなくて、今日頑張った報酬として与えられる。これが世の常識ではないでしょうか。だからこそ、この頑張った報酬を自由にすることは私たちの当然の権利として認められています。世の中が語るところは、「私の日ごとの糧は、私自身の努力による。」なのです。それを神頼みとするのは、何か、努力不足を露呈していると言いましょうか、ご都合主義と言いましょうか。聞く人が聞くと、この祈りは現実逃避のあまりにも甘えた祈りに聞こえるのではないでしょうか。
 けれど、それは世の人々がまことの神を知らないからに他なりません。彼らは神以外のあらゆるものに頼らざるを得ません。努力と、生まれと、人脈と、そして運に頼らざるを得ない。けれどそれらは本当に頼りとなるのでしょうか。私たちの人生の保障となり得るでしょうか。イエス様がされたたとえ話に、ある金持ちが豊作の収穫物を蓄えるために、倉庫を建て替えようとする話があります。金持ちは思います。この倉庫が完成した暁には自分自身を褒めてやろう。「わがたましいよ、これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ休め。食べて、飲んで、楽しめ。」とこう自分に言ってやろう。。。けれど、そんな夢いっぱいの男に神ご自身からのお告げがあります。『愚か者、おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』落語の題材になるような何とも落ちの利いた話です。けれど、これは実際にそうなのです。どんなに蓄えようとも、どれだけ糧を得ようとも、それらが私たちの人生を保障してくれるわけではありません。コロナ騒ぎで世界中が買い溜めに走って問題となっています。我先に、食料を蓄え、水を蓄え、トイレットペーパーを蓄えます。けれど、それらがどれだけ蓄えられようと、私たちの命が今晩取り去られるという不安が無くなるわけではないのです。私たちは今日自分の思うままに生きているようでいて、しかし一瞬先はまるでわからない、そういう者です。それは父なる神の領分です。ですから神に頼らなければなりません。「私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください」というこの祈りは、ただ単に食べ物をくださいという祈りではありません。それは「私の生涯を本当の意味で保障されるのは神さまだけです」と認める祈りです。そして、この祈りは、神の備えた恵みに気付かせ、感謝として受け取るための備えとしての祈りでもあるのです。
 マルティン・ルターは「小教理問答書」の中で「神は、確かに、毎日の食物を、私たちの祈りがなくても、悪人たちにさえ与えてくださっています。それにもかかわらず、私たちがこの祈りを祈るのは、私たちにこの恵みを気付かせるために、そして、私たちが、感謝をもって毎日の食物を受け取ることができるようにするためです。」と解説しています。祈りによって恵みに気付き、感謝をもって受け取るために。と言うのです。私たちの日常生活の様々な場面で祈りが先行する時、私たちはそこに恵みを覚え感謝に生きることができるのです。祈らなくても私たちの日常は回るかもしれません。けれど、だからと言って祈らなくても良いわけではありません。日常を祈りの結果として迎えることが大事です。神がみこころのままに導いてくださった。そう信じることができるから、私たちはどのような結果も感謝して受け取ることができるのです。
 約束の地を目指して荒野をさまよったイスラエルの民に、神は天からのマナとウズラを与えられました。働かざるとも与えられる天の糧。何と羨ましい話でしょう。けれど、彼らにとって、それは毎日の日常。代わり映えのない日々。朝起きて、その日のマナを取り、夕方、その晩のうずらを取る。同じことを延々と。それはもう習慣であり、あって当然。私たちが水を飲み空気を吸うが如くです。ですから、彼らに必要だったのは実はこの祈りでした。「私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください」。祈らなくてもマナは降るのでしょう。糧は与えられるのでしょう。けれど、敢えて祈るのです。毎日祈る。これは当たり前を恵みとして受け取るための指さし確認です。それが神からの特別の恵みであることを確認するのです。私たちは如何に神の恵みを当たり前にしていることでしょうか。自分の手柄としていることでしょうか。私たちが祈らずとも、陽は沈み、また昇るでしょう。けれど、祈りの内にその朝を迎えるとき、私たちはこの新しい朝を喜びと共に迎えるのです。神の御手に育まれて歩むことの幸いを知るのです。

200329 ヨハネ14:1 ローマ8:35-39 「心を騒がせてはいけません」

ヨハネ14:1 ローマ8:35-39 「心を騒がせてはいけません」

 教会が公の礼拝を自粛するという選択は、普通のことではありません。礼拝はキリスト者に与えられた特権であり、最大の奉仕です。そして慰めでもあります。聖書は事ある毎に困難にあって主に従うことの幸いを語り、共に集うことの希望を語っております。そして教会はずっとそのように説教をしてまいりました。ですから本来なら、どんな状況になっても礼拝を守りましょう。たとえ死を覚悟しても、私たちは主の日の礼拝を優先しましょう。そう励まし続けるのが筋なのかもしれません。けれどこの現実の状況の中で、私たちは教会に集わないということを選びました。礼拝出席のために鉄道やバスに乗ることにもリスクを伴います。また、高齢者や持病をお持ちの方は新型コロナウィルス感染時の重篤化が懸念されています。感染爆発の兆候はあちらこちらに現れています。私たちは新型コロナウィルスの世界的流行(パンデミック)の現実を受け止め、教会員の安全を優先し、東京近郊の一教会として感染拡大を防ぐ社会的責任を負っており、自らが感染する危険性だけでなく、自分が感染を広める危険性、そして教会員が感染を広めてしまう可能性までも考慮すべき状況に来ていると判断してのことであります。現段階で感染者が出れば、教会での礼拝は閉鎖せざるを得ません。ではその一人が出るのを待つのか。教会としてはその一人が出ないために動かざるを得ません。
 確かに皆が共に会堂に介して礼拝することは幸いです。けれどそれは、会堂でなければ礼拝が持てないということではありません。会堂の外で礼拝を持たなくてもいいということには繋がりません。当たり前のことですが礼拝は主日の朝、一同に会することだけが礼拝ではありません。一人ひとりが主の前に静まり、礼拝を献げることは可能です。公に集まることはできずとも、私たちの礼拝が失われることはありません。
 最初に武漢で新型ウィルスが発生したとの報道を聞いたとき、ここまでの現状を予測できた人が果たして何人いたでしょうか。まさか礼拝をどのように継続すれば良いかと思い悩む日が来ると誰が想像したでしょう。つくづく思いますのは、私たちが当たり前のように思っていた教会の交わりとは、いつ何時奪い取られるかわからない神の国の恵みであるということです。
 ナチス政権下にあって福音の自由のために戦ったボンヘッファーは次のように言っています。「孤独の中に生きる人にとっては言い難い神の恵みであることでも、それが日々与えられている人にとっては、とかく軽んじられ、なおざりにされがちである。〈キリスト者の兄弟の交わりは、日ごとに奪い去られるかもしれない神の国の恵みの賜物であり、ほんのしばらくの間与えられて、やがては深い孤独によって引き裂かれてしまうかもしれないものである〉ということがとかく忘れられがちである。だから、その時までほかのキリスト者と、キリスト者としての交わりの生活を送ることを許された者は、心の底から神の恵みをほめたたえ、ひざまづいて神に感謝し、〈われわれが今日なお、キリスト者の兄弟との交わりの中で生きることを許されているのは、恵みであり、恵み以外の何者でもない〉ことを知りなさい。」
 神殿を破壊されバビロンに捕囚されたユダの民は、遠く異教の地で家庭礼拝を行い、またシナゴーグによる会堂礼拝を開始いたします。苦難の状況にあって彼らが向き合ったのは自らの信仰そのものでした。彼らはこれまでの信仰生活を顧み、主の前に悔いることから始めたのです。神々しい神殿があっても、神の民として律法を有しても彼らは信仰に立ち返りません。失って初めて立ち返ったのです。私たちはこれまでどのような思いで礼拝を献げて来たことかと探られるのです。信仰者としてのプライドでしょうか。奉仕の責任からでしょうか。孤独の解消でしょうか。長年続けられた習慣でしょうか。しかしそれらは、私たちの思いや決断を超えて、ある日突然に奪い取られることがあるのです。私たちはあまりにも当然のことと考えてきました。しかし公同の礼拝、そして主にある交わりは恵みに他なりません。私たちは今、自らの信仰を深く顧み、独り主の前に静まって礼拝を献げましょう。そのための騒動などとは口が裂けても言えませんが、しかし、このような機会がなければ立ち止まって顧みることのない私たちです。あらゆることの中に主の御心を聞く者でありましょう。悔い改めと感謝を持って公同礼拝の再開を祈り備えることといたしましょう。