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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝メッセージを要約したものです。

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200624 Ⅱ列王記1 「ひれ伏すことが正解」

200624 Ⅱ列王記1 「ひれ伏すことが正解」

 北イスラエル王国のアハブ王が死に、その後を息子のアハズヤが継ぎます。アハブとイゼベルの影響を多大に受けたアハズヤは、両親と同じく、バアル神を崇め、真の神を信じようとはいたしませんでした。
 そんな彼がある時、屋上の欄干から落ちて病気になります。恐らくは傷口が悪化して、菌が入り、破傷風のような病気を引き起こしたのでしょうか。だとすれば一大事です。それは死に至る病です。アハズヤは使者に命じます。「行って、エクロンの神、バアル・ゼブブに、私のこの病が治るかどうか伺いを立てよ。」バアル・ゼブブというのは「蝿の王」という意味です。「ベル・ゼブブ」と言ったりもします。蝿は様々な病原菌を持ち運びます。特にアフリカや中東地方では、傷口に産卵し体内に寄生する蝿がいたりしますから、アハズヤはそのような病を恐れたのかもしれません。ともかく、傷が悪化して重篤した。人間火急のときこそ、真実が炙り出されます。アハズヤは、他の誰でもないバアル・ゼブブに伺いを立てようとしたわけです。
 この事態に、主なる神は預言者エリヤを向かわせます。「さあ、上って行って、サマリアの王の使者たちに会い、彼らにこう言え。『あなたがたがエクロンの神、バアル・ゼブブに伺いを立てに行くのは、イスラエルに神がいないためか。それゆえ、【主】はこう言われる。あなたは上ったその寝台から降りることはない。あなたは必ず死ぬ。』」そして、エリヤはアハズヤがバアル・ゼブブの神殿に送り出した使者たちに直接出会い、この旨を告げて引き帰らせるのです。
 アハズヤは使者たちを脅して引き帰らせたのが預言者エリヤであることの報告を受けます。エリヤが名を名乗ったわけではありません。エリヤの風貌を聞いて、アハズヤが悟ったのです。アハズヤの父アハブと母イゼベルとは並々ならぬ因縁のあるエリヤです。もちろんアハズヤもエリヤを知っておりました。彼はそれがエリヤであることをすぐに悟りました。そこで、アハズヤはエリヤに来るように、50人の部下と隊長をエリヤの下に遣わすのです。隊長はエリヤに言います。「神の人よ、王のお告げです。下りて来てください。」ところがエリヤは「私が神の人であるなら、天から火が下って来て、あなたとあなたの部下五十人を焼き尽くすだろう。」と言って、事実その通りに天から火が下って、彼らを焼き尽くしてしまったのです。アハズヤはもう一度、50人隊を遣わします。けれどやはり天からの火によって焼き尽くされてしまいます。王は3度目の50人隊を遣わします。この3度目の50人隊の隊長は、前回前々回の様子を知っておりました。彼はエリヤの下に行きますと、即座にひざまずいて懇願します。「神の人よ、どうか私のいのちと、このあなたのしもべ五十人のいのちをお助けください。ご承知のように、天から火が下って来て、先の二人の五十人隊の長とそれぞれの部下五十人を、焼き尽くしてしまいました。今、私のいのちをお助けください。」すると、主から「彼と一緒に下って行け。彼を恐れてはならない」というお告げがあり、エリヤはようやくアハズヤのもとに下っていきます。そして、初めに使者に知らせたお告げを今一度知らせます。すると、王はそのお告げ通りに死んだのでした。
 さて、この箇所をどのように読むべきか。後半の50人隊に対する裁きの様子はいささかやりすぎのように思えるかもしれません。そもそもアハズヤの罪のために、100人以上もの部下の命が犠牲にされるというのは、何とも納得が行かないかも知れません。けれど、この使者は単なる使者ではありません。これは軍隊なのです。さらっと読み進めてしまうこの場面。実は50人もの部隊がエリヤのもとに遣わされ、彼を幾重にも取り囲み、無理矢理に王のもとに連行しようとする場面です。王の命を受けて、その威信を借りた大勢の兵隊が、一人の預言者を無理やり連れ出そうとする。その威圧的な様子は隊長の言葉に現れています。「神の人よ、王のお告げです。下りて来てください。」つまり、神の人のお告げを、王のお告げによって上書きし、神の人に下りて来るようにと命じている。つまり王の権威の前に、神の権威が侮られているのです。ですからエリヤを通じて主は、ご自身の権威を証明いたします。それがこの2度に渡る天からの裁きなのです。
 3度目に遣わされた隊長は、神と王を並べることはいたしません。彼はただ神にひれ伏すのみです。主なる神の圧倒的な権威の前に、彼は命を乞うしかできません。そして、それは正しい姿なのです。私たちが神の前に出る時、私たちにできることはひざまずいて命を乞うことだけです。私たちはすぐに言い分をしたくなります。正当性を訴えたくなります。私にはこういう真っ当な理由があるから、と言って、神を自在に動かしたくなります。この場合は「王のお告げである。」という正当性でした。けれど、どれだけ理由があろうとも、私たちが神を自在に動かそうとすることはできません。我が意のままに無理矢理に主を動かすことは許されません。しかし主の権威の前にただただひれ伏し、その身を主の判断に委ねる時、主なる神は御心のままに動いてくださるのです。ですから私たちの願いの前に、私たちの砕かれた心が問われるのです。

200621 ルカ1:39-45 「喜びも不安も分かち合って」

200621 ルカ1:39-45 「喜びも不安も分かち合って」

 24、25節を見ますと当時不妊というのが恥とされていたこと。そして、そういう偏見にエリサベツ自身が大変心痛めていたことがよくわかります。「五か月の間、安静にしていた。」とありますのは、第3版では「引きこもって」と訳されていた言葉です。年老いた身で子を授かったのですから、安定期に入るまでの間人一倍気を遣っていたということを言っているのでしょうが、それと同時に、年老いた身の妊娠を揶揄するような声を避けようとしたということでもあったのではないか。興味本位で無責任な噂が飛び交っていたと思うのです。老女の妊娠は人々の好奇心をあおる、格好のネタです。この妊娠を訝しがる人はいても、祝福してくれる人はおりません。エリサベツは5か月もの間引きこもらざるを得なかったのです。この後、彼女の引きこもりは解かれるわけですが、それは安定期が終わったからではなくて、彼女の親類のマリアの訪問によってでありました。
 一方、マリアです。御使いガブリエルによって妊娠を告知された彼女は、最初戸惑い、恐れるも、やがて、そのことを受け入れて告白します。「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」しかし、じゃあ、彼女は一切のことに安心したかというと、そうはなりません。マリアは身に起こる変化に、神のご介入を確信します。主が共におられる。そこに疑いはありません。けれど、だからと言って、人々のあらぬ言動や、好奇の目に傷付かないかと言いますと、決してそんなことはありません。何と言っても、マリアはまだ12歳そこそこの少女なのです。このことは、いずれ隠しておけなくなります。お腹が大きくなっていくのを止める術は無いのです。きっとあらぬ噂が飛び交うでしょう。そしてその矛先は自分だけでなく、両親や婚約者のヨセフにまで及ぶでしょう。先を思うと不安しかありません。彼女は居ても経ってもおられずに、村を出ます。彼女は御使いガブリエルが告げたエリサベツのもとに向ったのです。急いで向かったのです。一刻もはやくエリサベツに会いたかった。なぜなら、エリサベツだけは、マリアの身に起こった全てを理解してくれるだろうからです。エリサベツもまた、神の不思議を体験しているその人だからです。
 マリアは自分の身に起きたことをどうやって話そうかと迷っていたと思います。けれどエリサベツはマリアがあれこれと説明するまでもなく、状況を把握したのです。そして、マリアを祝福します。マリアはマリアで、エリサベツの体の変化に神の取扱いの不思議と確かさを見ます。そして、何より誰にも言えず一人抱えるしか無い事を、初めて他人の口から祝福されて、わが身に起きた不思議を神の幸いとして改めて実感するのです。
 同じ立場に置かれた二人だからこそ、二人は互いの支えとなりました。その痛みも悲しみも戸惑いも喜びも自らと重ね合わせる二人だからです。マリアが一方的に慰められたのではありません。エリサベツもまたマリアの存在に、自らがこの歳になるまで不妊であったことの意味、自分の人生を用いて働かれる神のご計画を見ます。心の底からわかり会える二人。大きな使命を背負うために、二人にはまずこの交わりが必要だったのです。
 私たちにも必要です。マリアにとってエリサベツが、エリサベツにとってマリアが、喜びも不安も分け合う唯一無二の存在だったように、私たちにもありのままにさらけ出し、不安も怒りも喜びも丸ごとを認め合える仲間が必要です。私たちは一人で抱えきれるほど強くはありません。私たちは支え合うことでのみ生きて行けるのです。かと言って、誰も彼もと心を通わすこともまた難しい。この世の中は弱さに付け込む世界だからです。本当の意味で安心し共有し合える関係は、信仰の交わりにしかありません。なぜなら真の交わりは、私たちは赦された罪人に過ぎないという前提によって築かれるからです。ですからそれは、まず私がプライドを脱ぐところから始めなければなりません。私は罪人に過ぎないと告白することから始めなければなりません。互いが自らの弱さを認めている。この前提のもとにあって初めて、私たちは心の内側をさらけ出すことができるからです。

200617 ルカ8:4-15 「私が負うべき責任は」

200617 ルカ8:4-15 「私が負うべき責任は」

 イエス様のもとに大勢の群衆が集まり、方々の町から人々がやって来たので、イエス様はたとえを用いて話された。とあります。蒔いた種が落ちた地によって、4つの異なる結果となった。という話。
① 道端に落ちた種は、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。
② 岩の上に落ちた種は、生長したが、水分が無くて枯れてしまった。
③ いばらの真中に落ちた種は、茨も一緒に生え出て、ふさいでしまった。
④ 良い地に落ちた種は、生長して100倍の実を結んだ。
 そして結論的に言われます。「聞く耳のある者は聞きなさい。」
 話の内容から結論が突飛しているように聞こえますが、それはこれが例え話だからです。イエス様は種とは神の言葉だと明かされます。神の言葉の話だから、「聞く耳のある者は聞きなさい。」となるのです。では、どういう意味でしょうか。
① 道端のように無造作に、興味も無く聞き流した神の言葉は、その人の内に根付くことなく、悪魔が来て取り去ってしまう。
② 岩のように頑な心では、その時は喜んで受け入れるけれど、根が無いので長続きすることはない。何か辛いことがあるとすぐに投げ出してしまう。
③ 茨が生い茂る心とは、二心のある心。時が経つにつれ、生活の思い煩いや、富や、快楽に関心が向き、御言葉の実を熟すことは無い。
④ 耕され、十分に備えられた心では、神の言葉がしっかりと根を付け、多くの実を結ぶこととなる。
 種には違いはありません。実際の種蒔きなら、種の状態にも違いがあります。けれど、神の言葉に変わりはありません。変わるのは、神の言葉が落ちる先。聞く者の心です。ですから、群衆に対してイエス様の語る例えの意味するところは、整えられた心で、素直に、神の言葉を聞き入れなさい。という奨励です。今、イエス様のもとに集まり、イエス様が語られる言葉に耳を傾ける群衆たち。けれど、その聞き様は様々です。踏み固められた道端のように心を頑なにし、まったく受け入れようとしない者もいたでしょう。うわさのイエス様を前に興奮して聞くけれど、一向に自分のこととして聞こうとしない、ノリや雰囲気で集っているだけの者もいたでしょう。懸命に、真面目に聞いて、それが大切だと知るけれども、他のものも捨てきれない。どっちつかずで、二心の者もいる。
 けれど、大事なのは、まず耕し、うねを設け、肥料を蒔き、土を作ること。御言葉に聞くその前に、心を頑なにせず、よくよく心を耕して、聞く備えをする、土を作ることが大事なんですよ。とこう言っているわけです。だから「聞く耳のある者は聞きなさい。」という結論に至るのです。
 けれど、このことは一方では、御言葉がその人の祝福となって実を結ぶかどうかは、これを聞くその人次第なんだということでもあります。弟子たちにだけ解き明かしがなされるのは、語る側にだけ向けた別のメッセージがあるわけです。実が結ばれるかどうかは、語る者の責任ではないんだ。と教えてもいるのです。どんなに素晴らしい教えであっても、どんなに熱心に語ろうと、それを聞く者の心によっては、枯れもすれば、実を結びもする。だから、あなたたちに求めているのは、ともかく蒔くことだとおっしゃるのです。どんなに正しくても、頑張っても、結果が出ないことはあるのです。それは聞く者が心を頑なにしている時です。いい加減に聞き流している時です。必要を感じていない時です。聞く耳のない者の結果まで負う必要はないですよ。と言われるのです。これは逆に言うと、実を結ぶのもあなたの手柄ではないよということでもあります。御言葉を聞くか聞かないかはその人が自ら選び決断すべきことです。私たちが救うのではありません。主の御言葉がその人の内に留まる時、その人は救われるのです。だから私たちが負うべき責任は種を蒔くことにこそあるのです。
 Ⅱテモテ4:2-5が大事です。「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。というのは、人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳に心地よい話を聞こうと、自分の好みにしたがって自分たちのために教師を寄せ集め、真理から耳を背け、作り話にそれて行くような時代になるからです。けれども、あなたはどんな場合にも慎んで、苦難に耐え、伝道者の働きをなし、自分の務めを十分に果たしなさい。」

200614 ルカ1:46-56 「幸いな者と呼ぶでしょう」

200614 ルカ1:46-56 「幸いな者と呼ぶでしょう」

 マリアは言います。「ご覧ください。今から後、どの時代の人々も私を幸いな者と呼ぶでしょう。」そしてその理由を「力ある方が、私に大きなことをしてくださったからです。」と述べています。力ある方が私に大きなことをしてくださったから、人々は私を幸いな者と呼ぶでしょう、とです。大きなこと。つまり、救い主の母とされたとか、処女降誕を成し遂げるとか、神の尊い器とされるだとか、そういう大きな事をしてくださったっから、人々は私を幸いな者と呼ぶと言うのです。そして私が生むその方は、権力のある者を王位から引き降ろし、低い者を高く引き上げる方であり、飢えた者と富む者を逆転させ、あわれみをいつまでも忘れること無く、そのしもべイスラエルを助けてくださる方である。そのお方のお名前はいつまでも尊く、そのお方のあわれみは代々主を恐れる者たちにまで及ぶ。だからこのお方の偉大さのゆえに、後の人々は私を幸せ者と呼ぶでしょう、と告白するのです。
 そして事実、後の世の人々は主イエスを知れば知るほどに、その母マリアの恵みを数えます。この偉大な奇跡の器として用いられたマリアを称えます。救い主の母となったマリアを、後の時代の人々は聖母マリアと呼びまして、神格化していくのです。1962~1965年に行われた第2バチカン会議の『教会憲章』では、「神の恵みにより、キリストの諸神秘に関わった聖なる母として全ての天使と人間の上に高められたマリアが、特別な崇敬をもって教会から讃えられる事は当然である。」と記されています。驚くべきことにマリアには、天使と人間の上の地位が宛がわれているのです。歴史上の誰もが彼女より幸せな者は他にはいないと言ったことでした。そしてそれはある意味で事実なのです。マリアが素晴らしいのではありません。素晴らしいのはマリアの宿した神の御子です。これは全く持ってその通りです。マリアが特別信仰深かったとか、美しかったとか、資産家だったとか、努力家だったとか、そういうことではありません。御子の誕生に用いられたという一点で、マリアは他の誰とも違う特別の評価を後世から受けることとなったのです。
 けれどです。それは人々の評価です。当の彼女が聖母と呼ばれることを期待したとはとても思えません。マリアは何を幸せと思ったか。それは「主はこの卑しいはしために、目を留めてくださったからです。」と、この一点にあるのです。彼女は、自分の身に宿ったいのちが特別の神の御子だったから神に喜んだのではなくて、神が目を留めてくださった。卑しいはしために過ぎないこんな私に、神は関心を寄せてくださった。だから彼女は自らを幸せ者と告白しているのです。
 私たちも同じではないでしょうか。マリアが喜び、私たちが心から望むのは、肩書きを外した私を認めてもらうことではないでしょうか。世の中はいつも私たちの肩書きを求めます。私たちは多くの場面で、様々な仮面を被って生きることを強要されます。相手にとって価値のある私。そうでなければ、誰も私に見向きもしてくれない。だから必死に自分を装うのです。けれど、そこには本当の意味での信頼関係はありません。そこにあるのは条件付きの関係です。あなたが私の役に立つなら友達でいてあげますよ。あなたが私にとって得なら私はあなたを愛しますよ。けれど、そういった関係に私たちは決して満足することはできません。それは私でなくても構わない関係です。私が期待に応えられなくなれば立ちどころに消えてしまう関係です。それでも、そこにすがるのは、一人になると余計に惨めに感じるからです。ですから、私たちはその偽りの関係を失わないために、必死になって笑顔を作ります。まるで涙を隠して笑いおどけるピエロような人生を送り続けるのです。けれど、そのような毎日に疲れないはずはありません。装うほどに、自分自身が自分を許せなくなってきます。偽りの自分が嫌になります。私たちは素顔の自分を受け入れてほしいと願いつつも、仮面を付けずにはいられない自己矛盾の塊なのです。
 ナザレの片田舎で、マリアという少女に目を留めていた人がフィアンセのヨセフの他にいったい何人いたでしょう。どこにでもいるような少女のマリア。けれど主はそんな彼女に目を留められた。全世界の造り主なる方が目を留められる。この恵みは決してマリアだけのものではありません。それは私たちにも向けられています。主はご覧になっておられます。主はこんなはしために過ぎない私にも目を留めてくださるお方なのです。このお方と出会うなら、皆さまもまた幸せ者です。聖母マリアの得た祝福は私たちのものでもあるのです。

200610 ルカ6:20-26 「分け合うことの幸い」

200610 ルカ6:20-26 「分け合うことの幸い」

 20~49節までのイエス様による「平地の説教」と呼ばれています。多くの部分でマタイの福音書に記された「山上の説教」と共通点がありますが、相違部分もあります。やれ、ルカの創作だとか、写本上のミスだとか、そういうことではなくて、イエス様は様々な場所で、似ているけれど違う説教をなさった、当時は原稿などをもって説教をするわけではありませんから、その聴衆を見て語られたと考えるのが素直な読み方でありましょう。
 今日の箇所でマタイの福音書と違う部分は24~26節に、20~23節の裏返した教えを記している点です。貧しい人たちは幸いです。とあり、一方で、富んでいるあなたがたは哀れです。とあります。また、今飢えている人たちは幸いです。とあり、一方で、満腹しているあなたがたは哀れです。とあります。さらには、人々があなたがたを憎む時、あなたがたは幸いです。とあり、人々がみな、あなたがたをほめるとき、あなた方は哀れだというのです。20節と24節、21節と25節という具合に、それぞれの対になる慰めと警告が語られているというのが「平地の説教」の特徴です。
 しかし、この説教の内容を聞くときに、そうだ!その通りだ!とはなかなか言い辛くはないでしょうか。この世の価値観はそうではないからです。貧しいよりも、富んでいるほうが幸いであり、飢えているよりも、満腹している方が幸いです。人に憎まれるよりも、褒められる方がよっぽど幸せです。これはもう私たちの経験からくる常識です。それを、真逆に言うのは、いささか、無理があると言いましょうか、強がりの言い訳のようにも聞こえます。
 けれど、本当にそうでしょうか。私はこのところを読むたびに、思い出す言葉があります。それはマザー・テレサの言葉です。彼女が来日したときにこう言いました。「けさ、私は、この豊かな美しい国で孤独な人を見ました。この豊かな国の大きな心の貧困を見ました。」また次のようにも言いました。「私は、短い間しか日本に滞在しないので手を貸してあげるのは、せんえつだと思い、何もしませんでしたが、もし、女の人が路上に倒たおれていたらその場で、語りかけたり、助けていたと思います。豊かそうに見えるこの日本で、心の飢えはないでしょうか。だれからも必要とされず、だれからも愛されていないという心の貧しさ。物質的な貧しさに比べ、心の貧しさは深刻です。心の貧しさこそ、一切れのパンの飢えよりも、もっともっと貧しいことだと思います。日本のみなさん、豊かさの中で貧しさを忘れないでください。」
 富んでいる人は哀れです。と言います。満腹している人、称賛される人は哀れだと言います。なぜでしょうか。そういう人は、富んでいることが幸せだと信じて疑わない人だからです。満腹し、人々から称賛されることが幸せだと堅く信じています。つまり、富まなければ幸せではないと信じ切っている人だということです。満腹するまで食べないと満足できないし、称賛が得られないと不幸だと考えるのです。だから、富んでいること、満腹すること、称賛を受けることに執着します。それらを失わないためには何だってする。たとえ他人が蹴落としてでもそれにしがみつこうとする。たとえすぐ隣に倒れている人がいても、自分の目的のために見て見ぬ振りをして、先を急ごうとするのです。
 日本は本当に豊かで秩序立った国です。世界中の人々が日本という国を羨んでいます。けれど日本人の多くは自分が幸せだとは感じていません。日本よりももっともっと貧しい国の人々の方が幸せを実感しています。幸せの尺度が違うからです。私たちは、何かを手に入れ、何かに満たされることが幸せだと考えてはいないでしょうか。欲しかったものがようやく手に入る。それゆえ幸せになれる。と、こう考えがちではないでしょうか。けれど違います。何かを手に入れることが幸せだと考えるなら、手に入れた瞬間、別のものに目が移ります。たとえこの世の全てを手に入れようとも、限りあるこの身に足りなさを感じるでしょう。本当の幸せは何かを手にしたときに得られるのではありません。何かを分かち合うときに得られるのです。だから富んでいるあなたがたは哀れなのです。捨てて余るほどに満ちている世界で、私たちは分かち合うことを忘れてきました。助け合うこと、支え合うことを二の次にしてきました。だからどれだけ物に満ちても、心が満たされない。一方、貧しさ中では分かち合うしかありません。1本のパンを分け合うしかない。生きるためには助け合うしか無い。けれどだからこそ、その者たちは幸せなのです。誰かを必要とし、誰からから必要とされる。分かち合うことで、私たちは今ここにある意味を見出すからです。私たちの中にある貧しさや欠けは、私たちの不幸ではありません。私たちが支え合うための余白です。私たちは貧しさのゆえに誰かを必要とし、誰かを感謝し、そして誰かに愛されるのです。
 最後にもう一つマザー・テレサの言葉を紹介しましょう。「アフリカの国々が滅びるとしたら貧困が原因だろうが、日本は心が原因で滅びるでしょう。日本人はインドのことよりも日本の国内の心の貧しい人々への配慮を優先して考えるべきです。愛はまず手近なところから始まります。誰からも必要とされていない貧しさこそ、一切れのパンの飢えよりももっとひどい貧しさと言えます。豊かな日本に心の貧しい人がたくさんいる。それに気づくことさえできない人もいる。愛はまず家庭から始まります。まず家庭の中から不幸な人を救いなさい。夫婦が愛し合い、母親が家庭の中心となりなさい。自分の家庭が愛に満たされなければ隣人を愛することはできません。」

200607 ルカ1:26-38 「私は主のはしためです」

200607 ルカ1:26-38 「私は主のはしためです」

 小さなナザレの町で、婚約者ヨセフとの結婚を夢見ていたマリアは、御使いからの突然の懐妊の知らせにひどく戸惑います。それは神の栄光を帯びた御使いの登場という物理的な驚きもさることながら、それ以上に御使いの知らせがもたらすことの影響の大きさに恐れおののいたことでした。
 御使いの知らせは単なる懐妊の知らせではありませんでした。あなたはみごもって、男の子を産む。その子はすぐれた者となる。いと高き方の子と呼ばれる。ダビデの王位が与えられ、とこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることはない。矢継ぎ早のその知らせは、つまり、救い主の懐妊を告げているのです。特に、「あなたはみごもって男の子を産みます。」というガブリエルの言葉。この言葉の意味を理解するなら、マリアの恐れはいったい如何ほどだったかと気の毒になります。
 当時、婚約というのはこれから結婚しますという遠い日の約束ではなくて、むしろ結婚そのものと言っても良い契約関係でした。律法では、婚約中の女が不義を働いた場合、はずかしめた男だけでなく、その女も同様に石打にされることが定められています。婚約とは、それほど相手に対して責任を負うということです。ですから、ガブリエルのお告げの通り、子を身籠るとすれば、それは、おいそれと、めでたいと受け止められるような知らせではありません。
 神のご栄光を帯びた御使いの語るところですから、それは事実なのでしょう。それはマリアも否定できないこととして理解したでしょう。きっと私は身ごもることになる。けれどそれは決して喜ばしい知らせではありません。これからどんどんとお腹が大きくなっていけば、小さな町だから、それは人の目には隠せない。ヨセフが知れば何と思うことだろう。裏切られたと心痛めるだろうか。婚約を解消されるだろうか。姦淫したと訴えられても文句はいえないな。それでもヨセフは優しい人だから、もしかしたら許してくれるかも。けれど、日に日に大きくなるお腹を、彼はどんな思いで見なければならないんだろうな。惨めかな。悔しさかな。いやヨセフだけじゃない。両親はどう思うだろう。近所の人々は何と噂するだろう。もう人前に出ることはできなくなるかもしれないな。それどころか、町にいられなくなるかもしれない。いや、殺されてしまうかもしれない。
 ガブリエルの告知は、確かに素晴らしい告知です。それはユダヤ人の宿願です。けれどマリアにとっては、彼女の夢に描いた未来を、そして当たり前の日常を無残にも打ち壊すものなのです。
 どのようにそれが起こるのでしょう。マリアの質問にガブリエルは、それは聖霊の力によると言います。そして神にとって不可能なことは一つもないと言うのです。そして、主には不可能なことがないという証拠として与えられたしるしが、不妊の女エリサベツの胎の実でありました。エリサベツはマリアの叔母にあたります。ずっと子が産めなかったエリサベツは、きっと幼いマリアを実の子のようにかわいがっていたことでしょう。ですから不妊の女性の悲しみを幼いマリアも身近に見ていたことでしょう。そのエリサベツに子が与えられたと言うのです。もしそうだとしたら、それは何と素晴らしいことでしょう。エリサベツの身に起きた奇跡をマリアは心から喜べます。神のなさることは全て時にかなって美しい。それは間違いなく主なさることに違いありません。そしてそのような奇跡が成し得るのなら、私に告げられたこの出来事も、お言葉通りになるに違いない。マリアはエリサベツの出来事を聞いて、この御使いの言うとおり、ただ主を信じて受け入れる決心をしたのです。
 マリアはひざまずいて答えます。38節「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」マリアは積み重なる不安を神に委ねたのです。神がなさるならそれはなる。エリサベツに起きた奇跡のゆえに、神の全能に身を委ねることができたのです。
 そしてこれが大事です。ガブリエルはマリアに、神さまのご計画を理解するように。わかるように。と問うているのではありません。受け入れなさい。と言っているのです。認めなさい。とです。神様のなさることは私たちには想像も及びません。わからないから不安です。けれど、それは何も私たちにとって否定的な意味ばかりではありません。それはむしろ、私たちの思いを遥かに超えて神さまが最善をなしてくださるということを意味しています。私たちは全てを知る必要はありません。知るべきは一つです。神にとっては不可能なことは一つもないのです。

200603 Ⅰ列王記20:22-43 「困難を乗り越えた先」

200603 Ⅰ列王記20:22-43 「困難を乗り越えた先」

 Ⅰ列王記の20章は北王国イスラエルへの2度に渡るアラムの侵攻の様子が描かれています。
 1~21節までが1度目の侵攻。22~43節まではその一年後に起きた2度目の侵攻となります。今日の箇所はこの2度目の侵攻の場面です。アラムの王ベン・ハダデは前年度の敗北を塗り替えるべく、再び北イスラエルに攻め上ってきます。この時、アハブに助言する預言者は、エリヤとは別の預言者です。用意周到な神様はエリヤを送ってアハブの罪を糾弾し、別の預言者を送ってアハブを立ち返らせようとするのです。人間、面と向かって言い争った相手の言葉は、たとえそれが正論であろうと、意地を張って受け入れられないということが往々にしてあります。そこで、神様は別の預言者を送られるのです。
 ですから、アラムに対しての神の裁きは、同時にアハブの信仰のテストの意味合いも含まれていたわけです。もちろん、アハブを試すためにアラムが犠牲となったと言う話ではありません。アラムが己の都合でイスラエルを攻めたのです。そしてアラムが主を神々と同列のものとして侮辱したことに対する裁きです。しかし、神は一つの事がらをもって、あらゆる者にみこころをなされる方でもあります。ある者にとっては信仰のテストであり、ある者にとっては罪の裁きとなる。どちらも神の御心なのです。
 戦いはイスラエルの圧倒的な勝利を持って終わります。イスラエルは一日に10万人のアラムの歩兵を打ち殺したとあります。これは当時の誇張表現ですが、つまり「おびただしい数の」とか、「数えきれないほどの」という意味です。アハブはアラムの2度に渡る遠征を防ぐどころか、圧倒的な勝利でもって跳ね返したのです。
 戦いが終わり、命乞いをするベン・ハダデとアラムを、アハブは気を良くして許します。そして見返りにオムリ王の時代に奪取された町々の返還と、ダマスコでの商業権利を得るのです。ところが、神はアラムを聖絶しようと考えておられたのです。このことをアハブが先に聞いていたかはわかりません。けれど、大事な決断を神に伺うことなく、気分のままに下したことは事実でした。国の繁栄にも繋がるアハブの選択。それは人の目には賢い選択のように映ります。けれど、これがアハブにとっては、神に立ち返る試験であったことを考えると、それは主の命令を軽んじる選択でしかありません。預言者を通じて、神の声が届けられていたのですから、預言者を通じて神に伺うこともできたのです。そもそもアラムに勝利したのも、主のなさるところでした。それを自らの力と錯覚し、機嫌を良くしたところにアハブの高慢があります。罪は勝利とともにやって来るのです。
 これは私達にとっての信仰の戦いと重なる出来事です。聖絶をせよ。と主は言われるのです。「あなたがたは、罪と戦って、まだ血を流すまで抵抗したことがありません。」(ヘブル12:4)とあります。「あなたがたが誇っているのは、良くないことです。わずかなパン種が、こねた粉全体をふくらませることを、あなたがたは知らないのですか。」(Ⅰコリント5:6)ともあります。罪とは上手く付き合ってと私たちは思います。多少の妥協はつきものと言い訳をしたくなります。けれど、そうではないのです。問題はその妥協が主の言葉に反して為されているということです。わずかな妥協が足元をすくうことがあるのです。「勝って兜の緒を締めよ」と言います。「喉元過ぎれば熱さを忘れる」とも申します。私たちの戦いは徹底しなければなりません。困難な時、私たちは黙っていても祈ります。主にへりくだります。けれど問われるのは、困難を乗り越え、勝利を得て、尚祈ることです。へりくだることです。主の御声に聞かなければなりません。わが身の振る舞いを主に伺わなければなりません。私たちは今、困難だから祈るのではありません。困難であろうと、それが過ぎようと変わらずに、日々の御言葉によって私の今日を吟味する。そのようにして養われる私たちでありたいと思います。

200531 ヨエル2:28-32 「終末に注がれる霊」

200531 ヨエル2:28-32 「終末に注がれる霊」

 五旬節の日。弟子たちはいつものように集まって祈っておりましたら「天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡」りました。そして、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった」のです。聖霊が降臨したのです。すると何が起きたかと言いますと、彼らに語るべき言葉が与えられた。五旬節を目当てにエルサレムにやって来ていたあらゆる国々に住むユダヤ人たちに語れるように、それぞれの国の言葉がそれぞれの弟子たちに与えられたのです。そして弟子たちは人々に語り始めます。つまり、ペンテコステの出来事は、神の言葉を授かった弟子たちが福音宣教を始めた日。それをすなわち教会の始まりと言うのです。突然の出来事に人々は驚き「彼らは新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者たちも出てきました。それはそうでしょう。その国の人にとっては母国語でも多くの人にとっては知らない言語です。似ているようでも違う。あざける人々に、ペテロが弁明として語った第一声がヨエル書の言葉でした。
 ヨエル書は冒頭、いなごの襲来の預言から始まります。それは国土が徹底的に食い散らされる様子。そして、それは同時に主の日の様子でもあるとヨエルは語ります。そして2章に入りまして、その預言の内容はさらに凄惨を極めます。主の日、それは裁きの日だと言うのです。思いのままに生きたその清算がなされる日。その日が必ずやって来る。そして1:3「これをあなたがたの子どもたちに伝え、子どもたちはその子どもたちに、その子どもたちは後の世代に伝えよ。」と、神はヨエルを通じて語られるのです。
 神の裁きは確かに来る。このような教えに私たちは戸惑いを感じるかもしれません。目の前で起きる現実に神の裁きを読み取るということには、抵抗があるかもしれません。いなごだけではありません。度重なる地震や台風と言った災害、疫病や戦争。それらは確かに終末の預言として語られているにも関わらず、私たちそれを認めたくはありません。私たちは、神さまにはまるで親友のようであって欲しいと思うのです。けれど、聖書が語る神のお姿は決してそうではありません。神は徹底した裁き主としてご自身を啓示されておられるのです。「ああ、その日よ。【主】の日は近い。全能者による破壊の日として、その日は来る。」何と恐ろしい宣言でしょう。主の日は、全能者による破壊の日なのです。
 しかし、ヨエルの預言はここでは終わりません。続きがあります。2:12-13「しかし、今でも──【主】のことば──心のすべてをもって、断食と涙と嘆きをもって、わたしのもとに帰れ。衣ではなく、あなたがたの心を引き裂け。あなたがたの神、【主】に立ち返れ。主は情け深く、あわれみ深い。怒るのに遅く、恵み豊かで、わざわいを思い直してくださる。」重苦しい滅びの宣言の後、主は「しかし」と言ってくださるのです。「主に立ち返れ」と。「わざわいを思い直してくださる。」と。ここに主の御心が透けて見えるのです。創造主なる神が、自らの創造の産物を滅ぼすと決められた。それは余程のことです。それほどまでに世界は人々の悪意や敵意で満ちていたのです。
 私たちは困難がありますと、なぜ神さまはこんなことをお許しになるのかと嘆くことかと思います。こんなのは神さまに相応しくない。神さまだったら祈りを聞いて然るべき。と思います。時には神を呪うことだってあるでしょう。けれど、神がなぜそのような裁きに至ったのか、その経緯について目を向けることはあまりありません。そして、そのことに込められた主の御心に心を向けることはほとんどありません。困難の中で向けるべきは、主の御心です。主はあらゆることを用いて「立ち返れ。」と言っておられるのです。主が裁きをもたらされるに至ったその実情を嘆き、悔い改めよ。と言われます。なぜなら、主は情け深く、あわれみ深いからです。怒るのに遅く、恵み豊かだからです。わざわいを思い直したいと願ってくださっているからです。