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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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200729 ルカ12:35-48 「特別を日常に替えて」

ルカ12:35-48 「特別を日常に替えて」

 主人の突然の帰宅に備えるように。という、たとえ話が語られています
 当時のユダヤでの婚礼は1週間も2週間も続いて、入れ替わり立ち替わり客が訪問し、客は好きな時に帰宅したそうです。そのため主人が婚礼からいつ帰ってくるかはしもべたちにはわかりませんでした。真夜中に帰ることがあれば、夜明けに帰ってくることもある。それはもう主人の気持ち一つなのです。その上で、たとえ話では、主人が帰ってくるときに目を覚ましているところを見られるしもべたちは幸いだと言ます。なぜなら、そのしもべたちは主人の振る舞う食卓に着かせてもらえるからです。だから主人の帰りに対しては、どろぼうに備えるのと同じかそれ以上に用心して備えなさいと言うのです。
 しかしです。では実際に、主人が真夜中に帰ってくるとき、主人はしもべたちに起きていることを強要するでしょうか。主人自身は真夜中に帰ることの非常識を理解してはいないのでしょうか。幾ら主人が帰ってくる可能性があるとしても、真夜中に寝ているのは非難されるべきことでは無いようにも思います。真夜中に寝ているのは当然なのです。それでも起きて主人を迎えるしもべは確かに褒められ食卓に預かるのでしょう。だからといって、真夜中に起きれず明け方に主人の帰りに気付いたとして、それを主人が咎めるでしょうか。実はこの例えは眠らないようにと勧めている例えではありません。再臨に備えるキリスト者のあり方を教える例えです。人の子は思いがけない時に来る。これがたとえ話の中心テーマです。
 41節から、よくわかっていない様子の弟子たちに、イエス様はもう一つ忠実な管理人のたとえ話を語られます。主人の帰宅に用意をせず働きもしなかったしもべは厳しく罰せられる。ここで非難されているのは、「主人の帰りがまだだ」と心のなかで思い、好き放題にする慢心です。
 いつ帰ってくるかは主人の心次第です。婚礼であるなら1~2週間で終わります。その間に主人は帰ってくることは決まっています。ならば寝ずに待つこともできるかもしれない。完璧な応対で主人の帰りに備えることもできるかもしれない。けれど問題は主の再臨は、2000年起きていないということです。その人の生涯に起こるかどうかすらわからないのですから、「主人の帰りがまだだ」と思わなくもない。このような主人を待つしもべのあり方はどういうものでしょう。夜も寝ずに備えるなんてことはできるはずもないし、主が望まれていることでもありません。そうではない。いつ帰って来られても、非難されることのないように、毎日に緊張感を持って過ごす。主人を意識して過ごすということに尽きます。
 いつ帰ってくるかわからないということは、今晩帰るかも知れないということです。もしも今晩帰ってくるとしたら、その日の過ごし方は必然と変わってくるわけです。主人の帰宅に備えなければならないのです。食材さえあれば、急な来訪にも食事を提供できます。普段から掃除していれば、いつでも家に客を招けます。ろうそくがストックされてさえあれば、主人の帰りに慌てて借りに行く必要もありません。備えのある人とない人の違いは、ちょっとの意識をそこに持てるか持てないかにかかってくるのだと思います。主は再びやって来られる。これは動かすことのできない事実です。しかし、いつかは聞かされていない。なぜ聞かされていないのかということに、主のみこころを見て取らなければなりません。
 家庭訪問と同じです。いつ先生が来るとわかっていれば、その日に備えて掃除をし、お茶菓子を用意し、万全の体制で待つことができます。けれど日程がわからなければ、計画して特別の準備をすることは適いません。つまりイエス様は私たちが特別のその日を計画し備えるのではなく、特別を日常に変えて、代わり映えのない今日を主のみこころに沿えるようにしなさい。と命じておられるのです。来客予定で仕方なく掃除をする。やってる時はとても面倒なんですけれども、やっぱり綺麗になった部屋は自分にとって心地良かったりします。再臨に備えて日常を備えること、主に従って生きる人生は、あるいは面倒に思えるかも知れません。不自由に感じるかも知れない。けれど実際は御言葉に聞き、祈りと共に過ごすその毎日は、私たちにとって間違いなく心地の良い日常をもたらします。困難の中でも揺らぐことのない喜びと感謝をもたらすのです。

200726 ルカ2:36-40 「老いてなお輝く人生」

ルカ2:36-40 「老いてなお輝く人生」

 38節の冒頭「ちょうどそのとき」とあります。何のときか。それはシメオンが幼子を抱えて、両親を祝福した「ちょうどそのとき」であります。多くの人は宮の片隅で起きたその祝福劇に何の興味も理解も示しません。けれど彼女にはその祝福の意味がわかったのです。ではなぜ彼女にはそれがわかったのでしょうか。彼女が女預言者だったからでしょうか。それは半分正解で、半分間違いです。確かに彼女が女預言者だったから気付けたのです。けれど、それは肩書が、職務が、彼女の心を敏感にさせたのではありません。預言者とは神の言葉を預かって民に届ける者です。彼女はいつも真摯に祈り、いつも御言葉に触れていた。熱心に宮に通い、そこで語られる御言葉に聞き入っていた。だから気付くことができたのです。
 目の前で抱きかかえられる幼子が、たとえばイザヤ9:6-7の「ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に就いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支える。今よりとこしえまで。万軍の【主】の熱心がこれを成し遂げる。」という御言葉の成就であることがわかった。だから彼女は「エルサレムの贖いを待ち望んでいるすべての人々に、この幼子のことを語った。」のです。84歳であれば、アンナはもう目も見え辛くなっていたかもしれません。足腰も弱っていたことでしょう。色んな不自由を抱え、色んな限界を感じていた。けれど彼女の心に蓄えられた御言葉は色褪せることなく留まっていたのです。
 アンナはこの喜ばしい知らせを、エルサレムの贖いを待ち望んでいるすべての人々に語ります。幼子の誕生を語るのです。人々が待ち望んでいるエルサレムの贖いとはエルサレムの解放に他なりません。けれどそんな人々に、アンナは幼子の誕生を語るのです。日本という国に置き換えてみましょう。日本の贖いを待ち望んでいる人々。この国を憂い、この国が少しでも良い国に、素晴らしい国になるようにと願っている人々に、私たちは何を語るのでしょう。こうすればもっと幸せになりますよ。こうであればもっとこの国は過ごしやすい国になりますよ。ここを改善すれば外国にだって負けない強い国になれますよ。そういう声は巷に溢れています。けれど、それは問題の本質を捕らえていません。この国はまず神の前に贖われなければならないのです。ローマに支配されている状況を改善することが、エルサレムの贖いではありません。日本の経済を立て直すことが、病気を根絶することが、災害に負けない街づくりをすることが、この国の贖いではありません。イエス・キリストが罪を背負って身代わりの死を遂げられる。これこそが唯一の贖いであり、私たちはこの事実に心を痛め、へりくだり、感謝するしかないのです。だから、私たちはこの幼子の誕生を目の前の一人に語り告げなければならないのです。
 84歳になったアンナの語りがどれほど人々に届いたことでしょうか。もう大きな声も出せないでしょう。難しい話もできないでしょう。同じ話をごにょごにょと繰り返す、アンナの語りに、人々はどれほど真剣に耳を傾けたことでしょう。けれどそんなことは関係ありません。84歳にしてアンナは神の使命を受け取り、それに応答するのです。人生の晩年になって、ずっと願い求めてきた約束の成就を経験するのです。主に従う者の人生は老いてなお輝くのです。
 老いていく自分を、必要のない者と思ったりはしてないでしょうか。役立ずになっていくと諦めてはいないでしょうか。確かに姥捨て山だとか、そういう考えがこの国には根強くあります。けれど、それは事実ではありません。神は年老いて白髪頭になったとしても、決して捨て去ることはありません。考えてもみてください。当時アンナの話をまともに聞いた人がどれくらいいたかはわかりません。けれど、彼女の存在は救い主誕生の確かな証言として、現代に至る全てのキリスト者が知るところとされたのです。イグナティウスもアウグスティヌスも、ルターもカルヴァンも、キング牧師も、皆、このアンナの存在に、救い主誕生の成就を確信したのです。もちろん、私たちの存在も後の世代に用いられるのです。主に従う者の人生は老いてなお輝きます。主は私たちの人生を最後まで意味あるものとしてくださいます。御言葉を蓄え、祈りの日々を過ごす。私たちのその日々の繰り返しが、主の到来に気付かせ、主の使命に立ち上がらせるのです。

200719 ルカ2:21-35 「非力な赤ん坊の中に」

ルカ2:21-35 「非力な赤ん坊の中に」

 25節に「そのとき」とあります。どのときかと言いますと、21節で割礼を施されたイエス様が22節。きよめの期間が満ちて、ヨセフとマリアが神殿に生贄を捧げに来た「そのとき」です。そこに一人の老人が近寄って参りまして、興奮しながら、赤ん坊のイエス様を抱きかかえたのでした。この老人をシメオンと言いました。「聖霊が彼の上におられた。」とあります。聖霊の導きにより、シメオンは赤ん坊のイエス様と出会うのです。シメオンはイエス様を抱かせてもらい、いよいよ神を褒め讃えます。「主よ。今こそあなたは、おことばどおり、しもべを安らかに去らせてくださいます。私の目があなたの御救いを見たからです。あなたが万民の前に備えられた救いを。異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの栄光を。」
 シメオンは正しい、敬虔な人で、イスラエルが慰められるのを待ち望んでいました。それは言い換えると彼が「イスラエルは今悲しみのうちにあって、慰められなければならない」んだと考えていたということです。だから救い主を待ち望んでいたのです。では、イスラエルのどのような現状を嘆いていたと言うのでしょう。
 多くのユダヤ人は、国家としてのユダヤの現状に嘆いておりました。というのも、当時のユダヤは度重なる列強からの支配を受け続けていたからです。一時、ユダ・マカバイ率いるユダヤ人の軍勢がセレウコス朝シリアからの独立を果たしたことがありました。人々は彼こそが預言された救世主と称え、ユダヤにハスモン朝を開きます。けれど彼の死後、権力闘争は絶えず、ローマによる干渉も受けてハスモン朝は衰退。ローマの後押しを受けたイドマヤ人ヘロデがユダヤの王位を簒奪するのです。ヘロデはローマの傀儡政権でした。彼が王になることで、ユダヤの独立国家は実質上、再び崩壊しました。ですから、民衆は再び救い主を求めるのです。ユダ・マカバイに変わる新しい救い主の到来。ダビデに約束された永遠の王国を樹立する英雄。次に来る本命の救い主にユダヤの永遠の独立を願い求めたのです。
 けれどシメオンは違っていました。シメオンが見た救いはユダヤの独立ではありません。シメオンは両親を祝福し母マリアに言います。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れたり立ち上がったりするために定められ、また、人々の反対にあうしるしとして定められています。あなた自身の心さえも、剣が刺し貫くことになります。それは多くの人の心のうちの思いが、あらわになるためです。」救い主であるイエス様を通して、イスラエルの人々はまず倒れそして立ち上がる。このことは反対にあうしるしとして、永遠から定められていると、こう言います。しかもシメオンはこれを祝福して言います。「おめでとう。あなたたちに祝福があるように」と言うのと同時に「ほら、この子は人々を躓かせるために来たんですよ。反対を引き起こすために生まれて来たんですよ」そして、「この子の存在は、あなたの心さえも痛め、苦しめることになるでしょうよ」とこんな風に言うのです。これでは祝福というよりも、むしろ呪いのようです。けれど、もちろんこれは呪いではありません。彼は大まじめにつまずきの子が生まれて感謝と言っています。
 「しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。」イザヤ書53:5の御言葉は当時、光が当たらなかった預言です。当然です。彼らにとって救い主とは、力強く、正義に溢れ、誰からも後ろ指さされない、そういう人物のことだからです。けれどシメオンは全く違う救い主を見ています。彼は赤ん坊のイエス様に犠牲となられる贖いの御業を見ているのです。自分たちのそむきの罪のために刺し通され、自分たちの咎のために砕かれる救い主の姿を見ているのです。
 第1コリント1:18には「十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。」とあります。私が思い描く救いではありません。もしも私が思い描く救いを求めるのなら、か弱い赤ん坊に救いを見出すことはできません。神の救いを遮るのはいつも私たちの一方的な願望です。そうではなくて、私たちはイエス様が語られるところに聞き、神が導かれるままを受け取る者でありたいと思います。混沌の世の中で、絶望せず、パニックにならず、神の救いを見い出す者でありたいと思います。

200715 Ⅱ列王記16 「試練の中で声を聞く」

Ⅱ列王記16 「試練の中で声を聞く」

 イスラエルの王ペカの最後はアッシリヤとの戦いに敗れ、民はアッシリヤへと移住させられ、ペカ自身はエラの子ホセアの謀反によって殺されたことが15:29以下に記されています。アッシリヤ捕囚です。ですから、16章の記述はこのペカが死ぬ前に遡っての出来事です。
 16章はユダ王国の話です。ヨタムの子アハズがユダの王となりました。前回見ましたように、祭司エホヤダによって匿われて、7歳で王となったヨアシュ王以降、ユダの歴代の王は完全ではないにせよ主の目に適う政を行なっておりました。けれど、アハズは違います。彼は主の目に適わず、国内に幼児の人身御供を祭儀としたモレク信仰を持ち込み、国中に祭壇を設けました。この背景には、この時期、ユダ王国は外敵に脅かされていたことがありました。北イスラエルとアラム連合軍によってエルサレムが包囲され、国は疲弊し、もはやいつ落とされてもおかしくない状況でした。アハズはこの状況を打破するため、北の大国アッシリヤに従属を申し出ます。貢物を贈って、助けを求めたのです。アッシリヤの王はこの申し出を受け入れ、ダマスコに攻め上り、アラムの王レツィンを討ち取ります。アハズの思惑は当り、エルサレムの包囲は解かれます。最大の危機を脱します。
 戦後アハズは、アッシリヤ王に貢物を献上するため、ダマスコに向かいます。そこで、アッシリヤがダマスコに持ち込んだ祭壇を見ます。そして、これがアッシリヤの成功の秘訣と確信するのです。彼は、これを真似て自国内の至る所に祭壇を築き、この祭壇を用いて祭儀を行うよう命じるのです。Ⅱ歴代誌28:23「アラムの王たちの神々は彼らを助けている。この神々に、私もいけにえを献げよう。そうすれば私を助けてくれるだろう。」
 これまでイスラエル、そしてユダの民は、不信仰のゆえに度々試練を迎えます。しかし、その都度自らの不信仰を悔い改め、神に赦しを乞うたのです。そして、神はその度に民を赦してきました。なぜなら神は民を滅ぼすためではなくて、目を覚まさせるために、試練を与えられておられたからです。ところが、アハズはそれを神の不在と考えた。そして、他の神々の力だと考えた。つまり、現実の困難は神々の戦いの結果だと考えたわけです。困難な状況は自分たちの神の弱さゆえだと考えた。結果、更に罪を重ねることなるのです。
 愚かなアハズ。しかし実はこのような人は多いのです。困難な状況、思い通りに行かない現実を、自らの研鑽のきっかけとするのではなくて、現状をぼやき、他者を羨むことにばかり思いを向ける人です。その困難な状況を神の不在と決めつける人々です。神は目を覚まさせようとしているのです。神はご自身に立ち返らせようとしておられます。神は自らの信仰を顧みよと言っておられる。けれど、私たちは目に見える成功に飛びつきたくなるのです。立ち止まらなければなりません。アハズが見るべきだったのは、アッシリヤの成功ではなくて、自らの不信仰です。私たちは困難な状況の中にこそ、静まって、神の御声に聞くことといたしましょう。

200712 ルカ2:8-20 「失われた人に照る光」

ルカ2:8-20 「失われた人に照る光」

 救い主であるイエス様が貧しい家畜小屋でお生まれになり、飼葉桶に寝かされたことは、偶然が重なりあった結果のように見えて、実は全て主のご計画であったと前回確認いたしました。イエス様には、どのような所でお生まれになることができました。母マリアがもっともリラックスして出産できる我が家を選ぶこともできましたし、誰もがその誕生に平伏すように王宮の特別な一室でお生まれになることもできました。けれど、あらゆる可能性の中で、イエス様は飼葉桶に寝かされることを選ばれた。そこには、確かにイエス様の意思があり、目的があります。イエス様の誕生はそのような貧しさの中でなければならなかった。その理由が、実は今日の箇所を読むとよくわかります。なぜならイエス様の誕生で最初に駆けつけたのは、他でもない羊飼いたちだったからです。
 当時の羊飼いは人々から阻害されていた職業でした。家畜を追って野宿し、たまにしか町に来ない彼らの存在は、多くの人には野蛮人と映り避けられておりました。その証拠に、国中が大騒ぎとなる住民登録に彼らは加わっていません。彼らは相も変わらず、野宿をして羊の番をしています。つまり彼らは住民として数えられなかったのです。彼らは社会から、人々の中から失われた者として扱われました。彼らの人生にスポットライトは当たりませんでした。だからこそ家畜小屋でなければならなかった。だからこそ飼葉桶でなければならなかった。もしもイエス様が立派な宿屋でお生まれになっていたらどうでしょう。扉のかかった屋内でお生まれになっていたらどうでしょう。羊飼いたちは門前払いをされて終いでしょう。けれど、イエス様は貧しい家畜小屋にお生まれになった。だから羊飼いたちはイエス様にお会いすることができた。救い主の誕生に出くわすことができたのです。
 これら一切は、決して偶然ではありません。全てが主のご計画なのです。
 イエス様がベツレヘムの家畜小屋でお生まれになった日の晩、ベツレヘムの郊外で、野宿で羊の夜番をしていた羊飼いの下に、御使いが現れて言いました。「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。」「あなたがた」とは誰のことでしょうか。「この民全体に与えられる、大きな喜び」とありますから、それは神の民イスラエルだと言われるでしょうか。もっと大きな視点に立って、この世界の全ての人を指して、「あなたがた」なんだと言われるでしょうか。確かに神の救いのご計画は、イスラエルであり、全世界でしょう。けれど、やっぱりここでは「あなたがた」とは「羊飼いたち」を意味しているのです。彼ら羊飼いを指して、イスラエルや全人類の代表とするのは、いささか無理があります。彼らは代表どころか、神の民イスラエルから爪はじきにされていた人々。世界からもはみ出された人々だからです。むしろ彼らが代表するのは数に数えられない者。陽の当たらない、日陰の者たち。けれど、そのような者たちに向けて、主は「あなたがたのためのしるし」と語られるのです。
 ですから主イエスの誕生の知らせが、誰よりも先に羊飼いのもとにあったことは、主イエスが貧しい者と共にあるということを意味しているのです。富んでいる者ではなく、貧しい者。喜んでいる者ではなく、悲しんでいる者。賞賛を浴びている者ではなくて、人知れず失われている者。後にイエス様は「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」(ルカ19:10)と言われましたが、まさしく、イエス様はその誕生の時より、失われた人と共におられる方だったのです。
 これは、私たちにとっても朗報です。Good Newsです。イエス様が貧しさの中にお生まれになって下さったから、その光は私たちの貧しさにも届くのです。神の前に何一つ後ろめたさを持たない者はいないでしょう。叩けば埃が出る私たちでありましょう。けれどイエス様はご自分を無にして、仕える者の姿を取って、人間となられました。クリスマスの恵みは主が貧しい家畜小屋の飼い葉桶に寝かされたということに顕著に表れています。主が低きに降られた。主が貧しさに寄り添われた。これこそが本当の恵みなのです。

200708 Ⅱ列王記11 「その忍耐には目的がある」

Ⅱ列王記11 「その忍耐には目的がある」

 冒頭に出るアハズヤとは南ユダ王国の6代目の王アハズヤのこと。アハズヤは北イスラエルの王ヨラムと共にラモテ・ギルアデでアラム人と戦いました。この時期珍しく南ユダと北イスラエルの関係は良好です。なぜなら、アハズヤの母アタルヤは北イスラエルの王アハブとイゼベルの娘でありました。アハズヤから見ると、ヨラム王は母の兄、つまり伯父に当たる関係だったからです。しかしヨラムはその戦いで負傷します。そこでアハズヤは伯父のヨラムを見舞いに北イスラエルに出向きます。しかしその時、北イスラエル軍の隊長エフーがヨラムに対して起した謀反に巻き込まれて死んでしまうのです。
 息子であるアハズヤが死んだことを知った母アタルヤは、なんとこの機会を取らえて王の一族をことごとく滅ぼし、自ら王座に座ります。王の一族とはつまりは自分の孫息子たちのことです。自らの血縁にすら手をかけて、王座を奪い取る。血迷ったのかと思いますが、そうではありません。彼女には母イゼベルから引き継がれた一つの本懐がありました。それは、ダビデの家系を根絶やしにして、南ユダにバアル信仰を土台とする国家を樹立することです。イゼベルがアタルヤを長年の宿敵である南ユダ王国に嫁がせたのは、まさにそのためだったのです。
 この暴挙に、アハズヤの異母妹であり祭司エホヤダの妻エホシェバがアハズヤの子ヨアシュをかくまい、主の宮に6年間隠すのです。7年目、祭司エホヤダはアタルヤの留守中に、ヨアシュの戴冠式を行い、正式に王として即位させます。そして謀反を起こし、アタルヤを捕え、王宮に移してからこれを討ち取ります。そしてバアルの宮を取り除くのです。
 図らずも、この時期、北のエフーと南のヨアシュによって一斉にバアル神が取り除かれるのです。バアル神はカナン地方の土着の偶像でしたが、特にこれが詣でられるようになったのは、ツロ・シドンの祭司エテバアルの娘イゼベルが北イスラエルの王妃として迎えられてからでした。ツロ・シドンの財を懐に入れるために、政略結婚をした結果、偶像が蔓延したのです。そして、イゼベルの信仰は、娘アタルヤに引き継がれ、南ユダを崩壊直前までに追いやることとなったのです。
 今日の箇所で特筆すべきは、絶対的な悪を前に、6年もの間、幼い王子を匿い、守り通した祭司エホヤダと妻エホシェバの静かで堅牢な信仰です。この6年、彼らはヨアシュが成長するのを見守り、じっと息を潜めて暮らします。バアル信仰が広まる中、祭司エホヤダとその妻の立場は風前の灯火。自らを守ることすらままならない状況でありました。ましてやヨアシュを匿っている弱みがあります。少しの疑いも綻びも見せられない。自分たちに何かがあれば芋づる式にヨアシュも捕らえられてしまうからです。彼らの気の使いようは尋常ではなかったことでしょう。たとえば、ヨアシュに縄をかけてアタルヤの前に引きずり出せば、彼らは一躍表舞台に返り咲けたことでしょう。けれど彼らはたとえ泥水を啜っても、日陰の現状に耐え忍びます。彼らにはユダ王国に真の信仰を取り戻すという使命があったからです。
 何の理由もなく困難に絶えることはできません。けれど、その忍耐に意味を見出すとき、そこに目的を見つける時、たとえ困難な現状であろうとも耐え忍ぶことができるのです。彼らは絶望的な状況の中でも一つの希望を見ています。ヨアシュが成長し、ユダの民が今一度、主の民となることです。神礼拝の復活です。そしてその希望は6年の年月を経て実現するのです。アタルヤを討ち取ったエホヤダは、真っ先に、主と王と民との間で、主の民となると言う契約を結びます。ここにダビデの家系は守られ、真の神礼拝がよみがえったのです。その忍耐には意味がありました。目的がありました。だから耐えられたのです。目的を見定めることが大事です。そこが定まれば、私たちは多少の雨風で倒れることはありません。その忍耐は明日に繋がっているでしょうか。やがて成る希望に繋がっているでしょうか。人生に困難は付き物です。その困難の意味を知ることが大事なのです。

200705 ルカ2:1-7 「図らずも主のご計画」

ルカ2:1-7 「図らずも主のご計画」

 神の御子であるイエス様が人としてお生まれになる。さぞかし豪華で綺羅びやかな誕生かと期待して読み進めてまいりますと、聖書は予想外の展開を見せます。あろうことか、お生まれになったイエス様は飼葉桶に寝かされたというのです。なぜこんなことになっているのでしょうか。そんなにもヨセフとマリアは貧しかったのでしょうか。そうではありません。丁度その頃ユダヤでは、ローマ皇帝の勅令による人口調査がなされ、人々は登録のためにそれぞれの本籍地に戻らなければならなかったからです。
 ヨセフはダビデの町ベツレヘム出身でした。マリアの出身地も同じであったのかはわかりませんが、共に旅をするのですから、この時二人は正式に結婚していたのだろうと思われます。ヨセフは結婚を早めることでマリアを守っていたのです。それにしても、身重のマリアも一緒に旅をする必要があったのかと不思議に思います。登録は家長が代表してすれば済むからです。それでもマリアを連れて行くのは、身重で旅をする危険よりも、マリアを一人ナザレに置いて行くことに不安を感じたからです。一緒に旅をするという決意の裏には、そうせざるを得ない現実があったのです。
 さて旅の道中、立ち寄る町々で宿を取ることも難しい状況があったと思います。ベツレヘムに着いてからは尚のことでありました。町は人ごみで溢れかえり、宿屋は登録のために帰省した人々でいっぱいでありました。登録待ちの人々は延々と列を成し、それは一日や二日では到底収まる気配を見せません。仕方が無い。せめて雨露が防げるようにと、ヨセフとマリアは家畜小屋の隅に寝床を陣取り、本腰を入れて登録のための順番を待つこととなったわけです。けれど、待てども待てども順番が来ない。そうこうしている内に、マリアは月が満ち、その家畜小屋の中、男子の初子を産んだのです。
 つまりこの出産は図らずのものだったのです。本当だったら、住み慣れた我が家で、綺麗な産着を着せて、ふかふかのベッドに横たえたかったと思うのです。我が子の出産には、色んな夢があったと思うのです。けれど、そういう計画は皇帝のたった一言で全てご破算にされたのです。彼らの存在は吹けば飛ぶような小さなものです。けれど神は、そういう意図せぬ計画、不本意な決断すらも、最善へと導かれ、この日を迎えてくださるのです。イエス様はナザレではなくて、ベツレヘムで産まれる必要があったのです。家畜小屋で生まれる必要があった。飼い葉桶に寝かされる必要があった。そのためには、皇帝の住民登録の号令が必要だったのです。私たちの人生の計画を遮るような出来事がときとしてあります。けれど、それすらもが神のご計画の内に組み込まれているのです。
 私たちの毎日は慌てることばかりです。思い通りに行かないことに苛立ちと反省ばっかりです。今年の初め、誰がこのような状況になると想像ができたでしょう。こんな一年にしたい。と様々に建てた計画は、もう遠い遠いはるか昔の出来事です。わずか半年の間で、世界は一変してしまいました。けれど、だからと言って絶望する必要はありません。私たちの計画はならずとも、神のご計画はなるからです。そして私たちはそれこそが神の最善であることを知っているからです。権力者の一言で、生活が右往左往するのは今も昔も変わりません。けれど、それすらも神のご計画の範疇です。ですから私たちにできるのは、主の導きを疑わず、その日その日を精一杯生きるのみです。先の事はわかりませんし、何が正解かはわかりません。けれど私たちは今この瞬間を生かされています。私たちはただただ今日という日を主の目に恥じぬようにと過ごすのです。
 私たちがそこに意味を見出すのは後に振り返ってからで良いのです。イエス様の誕生でヨセフとマリアの思い通りになったことなど一つもありません。けれど、予期せぬ出来事は何一つ不必要なことは無く、神の最善へと落ち着くのです。わからなくてもいいのです。信頼すればいい。私たちの人生においても、神のご計画は確かになるのです。

200701 Ⅱ列王記6:24-33 「みこころを祈ることから」

Ⅱ列王記6:24-33 「みこころを祈ることから」

 大変ショッキングな事件が記されています。ここまで凄惨な事件は聖書の中でも他に類を見ません。あまりの飢餓状態に、遂に、互いの子を順番に食べようと約束する二人の母親。けれど、一人の子は殺して食べたけれど、もう一人は子どもを差し出さない。それで子を失った方の母親がヨラム王に不平等を訴えるという事件です。平等、不平等、どちらが正しいかという問題の前に、子を食べようと計画する段階でもう二人共が狂っています。けれど、実は似たような出来事の記録は世界各国に残っておりまして、十字軍の遠征やアウシュビッツの強制収容所にも見られ、日本でも戦国時代の籠城戦の記録や、江戸の4大飢饉の折の記録にも残されています。もちろん、だからこの母親は珍しくないとか、間違っていないと言いたいのではありません。それは明らかに狂っています。けれど、この母親だけが特別なのでもありません。人は誰でも、そのような狂気に陥る可能性を持っているということです。戦争や飢えという極限の状況は、そのように人を狂気に変える力を持っているのです。これは私たちとて同じです。ですから、この箇所から読み取れるのは、母親をそのような狂気に追いやる当時の状況がサマリヤにあったということです。
 実は聖書が問題として取り上げるのは、そこではありません。母親は「王様、お救いください。」とヨラム王に訴えています。なぜなら、この状況を変えることが出来るのは、そして、この状況に責任があるのはヨラム王その人だからです。ところが、ヨラム王はこの母親の訴えに、悲しみ、憤ることはしますが、その責任を負おうとはいたしません。彼はその責任をエリシャに押し付けます。彼は母親に心を寄せて悲しむ被害者の面をしながら、エリシャ殺害を誓うのです。
 この背景には、ヨラム王のエリシャへの不信感というものが募っていたことがあります。これに先立って、エリシャは敵国アラムの将軍ナアマンを癒やしております。また略奪隊を捕らえたときには、王はこれを殺そうとしますが、エリシャはそれを押し止め、殺さないどころか、飲み食いをさせて国に返します。これらのエリシャの対応にヨラム王はかなり反感を持っていたようなのです。自分の思い通りにいかない勝手気ままな預言者。もちろん、神の人であるエリシャを無碍に扱うことはいたしません。けれど、王にすれば、預言者はいつまでも目の上のたんこぶ。面白くない。そして、今回の出来事。預言者の敵対国の者に対する弱腰の姿勢が、今のこの状況を招いているとエリシャに責任を押し付けるのです。
 言いたいことはわかります。ヨラム王の気持ちもわからなくない。けれど、今のこの惨状を招いた原因を他人事のせいにして、自らを省みないその態度は、果たして国のトップの王としていかがなものか。いえ、たとえヨラムが王でなかったとしても、このサマリヤにいる限り、そのような状況を招いた原因は誰しもが持っているのではないか。と、そのように思うのです。
 たとえば、日本の政治で何か重大な問題が起きた。スキャンダラスな事件が発覚した。すると、よくコメントとして出るのは、前の政権時代はもっと酷かった。という何ら問題を解決することのない責任逃れだったりします。けれど、もっと言えば、そんな政治に文句を言いつつも、現実には投票にすら行かない多くの有権者がいたりもします。考えてみますと自らの責任には見て見ぬ振りをして、他人の責任ばかりを責めるというのは、誰もが行っていることです。こんな教会はおかしい。うちの職場はこんなに酷い。学校は問題だらけ。けれど、そのコミュニティーを形成している一人は間違いなく自分だったりするわけです。もちろん、だからといって何が出来るというものではないかもしれません。サマリヤの状況はすでにヨラム一人にどうこうできる状況を超えておりました。けれど、主にひざまずくことはできる。神にすがることはできる。最悪の状況でも神への信仰に立ち返ることはできるはずです。置かれている状況に嘆くことはあっても、そのために祈りを積み重ねることはしない。これは責任を投げ出しているのと同じです。私が祈るのです。私がとりなすのです。もちろん問題を解決させる力は私たちにはありません。それは唯一神のみ心のうちにあるのです。だから私たちは今日祈ることから始めるのです。天のみこころが地でもあるようにとです。

200628 ルカ1:57-80 「その子の名はヨハネ」

ルカ1:57-80 「その子の名はヨハネ」

 さて、ユダヤでは産まれて8日目に割礼を施すわけですが、その時、ザカリヤとエリサベツの子に名前は付いていませんでした。人々は「父の名にちなんでザカリヤと名付けよう」と騒ぎます。と言いますのも、当時のユダヤでは長男の名にはその家系に縁のある名前を付けるのが一般的だったようなのです。なぜなら長男の名付けには単なる呼び名とは別に、家系を引き継ぐという意味合いもあるからです。ですから身近な人たちは、この子が正真正銘ザカリヤの子であり、その財産も、祭司としての職務も、家長としての責任も、一切合切を引き継ぐべき一人息子だという期待と証明の意を込めて、今ザカリヤの名前を挙げたわけです。
 ところが、エリサベツは「いいえ、名はヨハネとしなければなりません。」と断ります。ヨハネという名はザカリヤの家系にはこれまで無かったようです。ですから周りの人々は何かの間違いかと驚きまして、今度は父であるザカリヤに尋ねます。すると、ザカリヤは板を持って来させて「その子の名はヨハネ」と書いたので、人々はやっぱり間違いではなかったのかと再び驚いたのです。
 ザカリヤとエリサベツが我が子に縁もゆかりもない名前を付けるというのは、この子の生涯に、自分たちの人生を押し付けない。そうではなくて、特別な使命にこの子を送り出そうとする親の決意のようなものが見て取れます。待ちに待って、ようやく与えられた子ですから、片時も自分の側に置いてこの子の成長を見守りたいはずです。一族の名を付けて、一族の誇りを持って、祭司としての職務を継がせて、手取り足取り教えてやりたい。けれど老夫婦はそうではなくて、この子に付けるようにと授けられた特別な名を付けます。それはこの子の人生が、神によって特別に選ばれたものであると承知しているからです。
 ガブリエルは言いました。「彼はエリヤの霊と力で、主に先立って歩みます。父たちの心を子どもたちに向けさせ、不従順な者たちを義人の思いに立ち返らせて、主のために、整えられた民を用意します。」主に先立って歩む者。主のために整えられた民を用意する者。それがこの子の担う使命です。そしてこのことは、マリアとそのお腹にいる赤ん坊と出会ったあの時、確信へと変わったのです。その時エリサベツは体内で踊る我が子の特別な胎動を感じます。救い主の誕生を肌身に知ったのです。ですから、我が子に「ヨハネ」と名付ける。それはもはや祭司ザカリヤの家系に縛らない、このヨハネの名の下に担う神からの特別の使命。主のために、整えられた民を用意する者として、この子を世に送り出すという親としての並々ならぬ決意があるのです。
 更に言うなら、ここには自分たちはこの子の生涯を見届けられないという二人の覚悟があるように思います。自分たちは年老いて、もはやこの子の生涯を見守ってやれない。責任が取れない。我が子の可愛さを思うほどに、そういう現実が重くのしかかってきます。だからこそ、ザカリヤは生まれてくる我が子に進むべき指針を授けているのです。
 ザカリヤの預言は、救いの計画と成就に挟まれる形で、救いの道を備え、民を整える預言者の使命について語っています。つまり神の救いのご計画の中に位置づけられた我が子ヨハネの使命についてです。ザカリヤはここでヨハネの使命を数えることで、見届けることのできない我が子に進むべき指針を授けているのです。ヨハネの今後の人生に自分たちは寄り添ってやれない。抱きしめてやれない。自分たちが亡くなればヨハネは一人で生きていかなければならない。けれど、主の使命に励む時、そこにあなたの生きる意味がある。主の確かな守りがある。ザカリヤには確信があります。苦悩に満ちた自分たちの人生において、主の使命こそが拠り所だったからです。ですからザカリヤは生まれたばかりのわが子に、神の使命の内に生きよ。と言葉を残すのです。
 このザカリヤの親心はわかるような気がします。私たちもまた、子の生涯を見届けることは叶いません。親が子に先立つ。親の世代が子の世代よりも先立つ。これは自然です。けれど、だから何の心残りもなく先立てるかというと、それは別です。やっぱり残される者が心配です。子どもたちには迷いのない確信に満ちた人生を送ってほしいと願うのです。ですから親として、先に生きた者として、少しだけアドバイスをするならば、神の使命に生きよ。と言うことです。よく「自分の人生を生きる。」と言います。けれど、自分の人生ではありません。神の使命に生きるのです。その時、その人の人生は神にあって意味のある確かなものとされるのです。