Ⅱ列王記22:1-20 「驕ることなく」
8歳で王となり、31年間南ユダ王国を治めたヨシヤ王は、もっとも主の目に適った王の一人として名を残しています。彼は偶像や祭壇を次々と焼き尽くして、国中から偶像を根絶やしにしました。さらには過ぎ越しのいけにえを再開し、神との契約を更新もしました。これまでの王たちでもヨシヤほど徹底的に主に立ち返った王は他におりません。
今日の箇所では宮の修理と、律法の書の発見、そして続く23章からは徹底的な偶像の根絶の様子が記されて行きます。しかし、面白いことにⅡ歴代誌34章を見ると、それ以前から、ヨシヤの改革はすでに始まっていたことがわかります。
彼の治世第8年(16歳)にはっきりと先祖ダビデの神に求め始め、第12年(20歳)の時、ユダとエルサレムをきよめ始めて、高き所、アシェラ像、刻んだ像、鋳物の像を除いた。とあります(歴代第二34:1~3)。
彼の改革はすでに始まっていたのです。目指すは神礼拝の復活。神殿はあれど、偶像に満ち、本来の礼拝はあって無きがごときでした。ヨシヤは宮を修理し、偶像を取り除き、礼拝再開に向けて着々と改革を進めて参ります。民は若い王の改革に、期待し、賛同し、宮の修理のための献金も喜んで捧げました。皆がヨシヤ王の政治に感心したのです。すると、その宮修理の最中に律法の書が発見される。それはまさに画竜点睛のごとき出来事でした。神礼拝に必要な最後の1ピース。神の御言葉が見つかるのです。
よほどヨシヤは喜んだことではなかったでしょうか。ところが、神の律法を聞いたヨシヤは、自分の衣を引き裂いたとあります。律法に照らされて、ユダの罪の深さを思い知ったのです。神の怒りと悲しみを聞いたのです。そして己の信仰の至らなさに愕然としたのです。彼は良い王様でした。幼くしてユダの王となり、着々と神殿の回復に着手します。自他共に認める信仰者でした。けれど、そんな彼が主の律法を前に自らを丸裸にされるのです。神に仕える。神に従う。ということすら、その心の奥底を徹底的に主の前に晒されるとき、私たちは果たして自らの振る舞いを誇り、胸を張ることができるでしょうか。ヨシヤは自分の振る舞いに自信を持っていたことではないでしょうか。自分はよくやっている。自分は神の目に適っている。事実、彼の改革を皆が褒め称え、その指導に喜んで従って来たのです。けれど、律法は彼の高ぶりを見逃しません。神に仇成すユダヤの現実を晒します。彼は神の怒りの声を聞いて心の底から恐れたのです。王として彼は全ユダヤの罪を背負っているのです。彼は王としての面子も捨てて、衣を引き裂いて泣き崩れます。しかし、このことが、改革に向かう揺るぎない心の源となったのです。徹底的な明け渡し。自らの内には主の前に誇れるものは一つも無い。その遜りこそが出発点です。神の御言葉は、彼の着飾った衣を全て剥がしたのです。
恥も外聞もなく、主の前に涙するということは誰もができることではありません。年を重ねるにつれ、経験を積むにつれ、私たちは本心を隠し、意固地になっていきます。けれど、私たちはそのプライドを捨てると言うことが必要なのです。

ルカ3:15-17 「聖霊と火のバプテスマ」
人々はヨハネを「もしかするとこの方がキリストではないか」と考えました。それだけヨハネの言葉には力があったのです。一人ひとりの心に鋭く突き刺さる何かがあった。けれどヨハネは、自分はキリストでは無いと語ります。その方は別にいるとです。「私は水であなたがたにバプテスマを授けています。しかし、私よりも力のある方が来られます。私はその方の履き物のひもを解く資格もありません。その方は聖霊と火で、あなたがたにバプテスマを授けられます。また手に箕を持って、ご自分の脱穀場を隅々まで掃ききよめ、麦を集めて倉に納められます。そして、殻を消えない火で焼き尽くされます。」主人の履き物のひもを解くのは奴隷の仕事です。それも外国人の奴隷にだけやらせるような、ユダヤ人にとっては特に嫌われた仕事。自分はその方の奴隷になる資格すらない。とヨハネは言うのです。いやいや、ヨハネという人は当時のユダヤ人に相当なまでに影響を与えた人物です。使徒の働きでは、ヨハネのバプテスマを受けたユダヤ人が遠くエペソにまでいたことが記されています。国の内外を問わず、大勢の人々がヨハネのもとに駆けつけるほどに影響力を持った人物です。そんなヨハネが「私はその方の履き物のひもを解く資格もありません。」と言うのは、その方がよっぽど凄い方だということです。
なぜなら「私は水であなたがたにバプテスマを授けています。しかし・・・その方は聖霊と火で、あなたがたにバプテスマを授けられ」るからです。水のバプテスマに対して、聖霊と火のバプテスマ。ヨハネが水で授けたバプテスマは罪の赦しに導く(ための)悔い改めのバプテスマでした。ではその方が聖霊と火で授けるバプテスマは何に導くバプテスマなのでしょう。結論から申しますと、それは終わりの時の恵みと裁き。2つの決定的な結末へと導くバプテスマだと言うのです。
ヨハネは「また手に箕(み)を持って、ご自分の脱穀場を隅々まで掃ききよめ、麦を集めて倉に納められます。そして、殻を消えない火で焼き尽くされます。」と言っています。日本では「箕」と訳されるこの言葉は、ユダヤでは脱穀した実と籾殻を選別するための道具です。脱穀した麦をシャベルのようなもので空中に放り投げると、風によって籾殻は飛ばされ、麦だけがその場に落ちます。これを何度も何度も繰り返して、最終的に麦と籾殻の選別をするのです。もちろん、これは比喩表現です。麦と籾殻を選別するように人類の選別がなされる。キリストは終わりの時に、人々をご自分の倉に納めるか、それとも消えない火で焼き尽くすのか、選別されるのです。
つまり救い主とは裁き主なのです。これは驚愕の事実ではないでしょうか。普通救い主と聞きますと、私たちを日常の困難からいつも私を守り、私のために戦ってくれる。ちょっとしたヒーローのようなイメージを持つのではないでしょうか。彼らもそう思っていたわけです。ローマ兵を打ち払う救世主の登場を期待しておりました。ところが救い主は裁き主なんだと。悔い改める者を天の御国に迎えられる一方で、悔い改めない者を徹底的に滅ぼされるお方なんだと。そしてそこには例外はなく、私もあなたもその対象に他ならないんだと。こうヨハネは言うのです。本当の救い主を前にすれば、人はもうどちらかでしかいられなくなる。聖霊か火か。では、あなたはそのどちらに身を委ねるつもりなんですか。ヨハネの言葉は、当たり前のように助けてもらうつもりでいた私たちに、そうじゃなくて私たちこそ裁かれる対象なんだと気付かせるのです。
さて、ヨハネは麦と籾殻の譬えを用いて、最終的な選別の事実を語りました。けれど、このことは、その最後の選別の前、麦はまだ脱穀の作業中であるということでもあります。脱穀は平たい岩の上に敷き詰められた麦の穂を、棒で打ち、砕いて、中身と籾殻を分離させる作業のことです。ふるい分けられる前に、麦は痛い思いをして脱穀されるのです。そして私たちの地上の生涯はこの脱穀に例えられるのです。それは来る審判を前にして、私たちの地上の歩みは痛みを伴った試練の歩みであるというのです。聖書は地上での試練を否定しません。どれだけ熱心な信仰者であろうと困難や理不尽に直面いたします。けれど、それは神の罰ではないのです。私たちは根本的に罪人ですから、試練のない人生では神を失うのです。困難にあって初めて、主を仰ぎ見るのです。神はそれをご存じなので、私たちに試練を与えます。私とともにあれ、私の下に帰ってこい。あなたに用意した天の祝福を受け取りに来い。私たちに試練を与えられる神は、未だ私たちの選別の時を待っていてくださる神です。この試練は父ゆえの鞭です。やがて受け取る栄光のための備えなのです。

ルカ19:41-48 「強盗の巣」
このところは、イエス様が生涯の終わりに上られたエルサレムを前にしての出来事から始まります。エルサレムの城壁を見上げながら、イエス様はこの都のために泣かれます。これは余程のことです。いったい何を思って泣かれたのでしょう。このエルサレムで背負うご自身の十字架を思ってのことでしょうか。そうではありません。イエス様は言います。「もし、平和に向かう道を、この日おまえも知っていたら──。しかし今、それはおまえの目から隠されている。やがて次のような時代がおまえに来る。敵はおまえに対して塁を築き、包囲し、四方から攻め寄せ、そしておまえと、中にいるおまえの子どもたちを地にたたきつける。彼らはおまえの中で、一つの石も、ほかの石の上に積まれたまま残してはおかない。それは、神の訪れの時を、おまえが知らなかったからだ。」エルサレムという町が、そしてその町に住む者たちが滅ぼされる。それは彼らが、真に平和に向かう道を知らないからであり、彼らが神の訪れの時を知らなかったからです。神の御子イエス様が人となって来られたのです。にも拘わらず、誰もその訪れに目を向けようとしない。その言葉に耳を傾けようとしない。いや、その訪れすら気付いていない。しかし、それは知らないでは済まされないのです。彼らは知らないがゆえに、叩きつけられるのです。無知のゆえに残らず滅ぼされるのです。その現実にイエス様は涙されたのです。
では神の訪れを知らない彼らはどのような信仰生活を送っていたのか。ルカは続けてイエス様の宮清めの様子を記します。「『わたしの家は祈りの家でなければならない』と書いてある。それなのに、おまえたちはそれを『強盗の巣』にした。」イエス様のこの言葉は、エレミヤ書7:11の言葉です。このエレミヤ書の言葉は2節から順に読むとよくわかります。主の神殿という空しい言葉に寄り頼んで、ここに来さえすれば「救われた」と言うユダヤ人に向けて、それはまるで強盗の巣だ。と主の嘆きの言葉があるのです。日常生活の不正や不義を脇に置いて、神殿に来さえすれば救われると豪語する彼らの信仰の在り方に、主はモノ申しているのです。
洗礼を受けているから救われている。それはある意味で正しいのでしょう。けれど、割礼を受けたユダヤ人に向けて、イエス様はその日常にどれほどの誠実があるのかと問われています。礼拝があるのかと問われています。「あなたがたの生き方と行いを改めよ。」と言われるのです。私たちは救われた民として、神のみこころに生きる責任があります。日曜日に教会に来さえすれば、平日どのような者であっても構わない。意識的か、無意識かは別として、私たちにはどこか、そのような思いがないでしょうか。こんな私でも救われている。これはもちろんそのとおりです。こんな私でも救われている。けれど、この救いに胡坐をかいて罪に対して開き直るとするなら、自分たちの平素の振る舞いに恥じることもなく教会に来て恵みを与えたまえと迫るなら、それは恵み泥棒と呼ばれても仕方がありません。
神殿は商売人たちで溢れていました。それは偶像の神々の絵柄や皇帝の顔が刻まれたコインが献金として相応しくなかったために、献金に適したコインに両替する両替商や、生贄とする動物を売る商売人が店を構えていたのです。それは人々の信仰生活にとってとても便利な方法でした。神殿は潤い、巡礼者は手ぶらで参加できる。WinWinの関係でした。けれど、そこに行きさえすれば良い。という楽を優先するその信仰の姿勢がやはり問題なわけです。生贄は前もって準備することに意味があります。問われているのは、心だからです。
献金をする時に財布を開いたら10000円札が一枚と10円玉だけが入っていた。これ悩みますね。どうしよう。10000円を捧げたら、明日からの生活に苦しい。かと言って、何の痛みもない10円を捧げていいものか。悩んだあげくに10000円を献げる。神さまに献げるものだから、神さまがそれ以上に与えてくれるに違いない。その人なりの信仰によって思い切って献げるのです。けれど聖書から言えば、そもそも献げることに備えていない段階で、それは本当の意味での献げものとはなっていないのです。
生贄の準備すらしないで、罪の悔い改めすらしないで、ただ神殿に行けば全てが揃い、生贄が受け入れられる。救われる。こういう見せかけだけの信仰の在り方を強盗の巣と主は言われています。私たちの信仰生活はどうでしょうか。神殿での公の姿が問われているのではありません。むしろ問われるのは、主に対する日常の誠実です。見えないところが求められているのです。

ルカ3:7-14 「悔い改めにふさわしい実」
イエス様が群衆に向けられた言葉は、マタイの福音書によると「大勢のパリサイ人やサドカイ人」に向けられた言葉だと記されています。けれどルカはこれを敢えて群衆と記します。何気ない違いですが、ここには二人の聖書記者の焦点の違いが記されています。マタイ3:5-6には「そのころ、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川周辺のすべての地域から、人々がヨハネのもとにやって来て、自分の罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。」とありますから、そもそも、その場にはあらゆる地域から集まった人たちがおったわけです。それこそ、パリサイ人もサドカイ人も、異邦人も罪人も大勢です。ですから、その言葉は焦点を絞ればパリサイ人やサドカイ人に向けられた言葉であり、俯瞰して見れば群衆に向けられた言葉と言えるのです。ルカの福音書は異邦人テオフィロに向けて書かれたものです。ローマ人であるテオフィロにとって、パリサイ人もサドカイ人も違いはありません。それよりも色んな人たちがヨハネの下に集まったということが大事です。そしてその色んな人たちが等しく糾弾されているということが大事です。なぜなら、ルカはこれを読む異邦人テオフィロに対して、あなたもこの群衆の一人なんですよ。と伝えたいからです。ルカという人は、イエス様をユダヤ人の救い主としてではなくて、全人類の救い主という視点で振り返っているのです。この群衆の中には色んな人がいました。色んな立場の人、色んな国の人、色々な事情を抱えた人。人々から尊敬されている先生や商売人。独身の者や、やもめとなった者、持病を抱えている人、金持ちに貧乏人。けれど、その一人ひとりをまとめ上げて、あなたたち誰もが「まむしの子孫たち」だ。と、こう糾弾するヨハネの姿を記します。これを読んでいるテオフィロにも、あなたも例外では無いんだと伝えます。そして今これを読む私たちにも、あなたは「まむしの子孫」だと鋭く指摘しているのです。
ヨハネは「悔い改めにふさわしい実を結びなさい。」と言っています。彼らのほとんどが「『われわれの父はアブラハムだ』と考えておりました。まむしの子孫ではなくて、アブラハムの子孫だと誇っていた。だから私たちは大丈夫と安心しておりました。けれどヨハネは「それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。」と警告します。アブラハムは確かに偉大な信仰者ですが、「神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子らを起こすことができるのです。」どちらに目を向けるべきかは明らかです。アブラハムの約束が彼らを救うのではありません。アブラハムと約束した神が救うのです。ですからその神を裏切るなら、その者が救われるはずはないのです。
今人々はヨハネの下に集い悔い改めのバプテスマを受けようとしています。それは言うなれば、今までの生活に「ごめんなさい」と表明する儀式です。けれどヨハネは、その「ごめんなさい」は本心ですか?と問うています。口だけじゃないですか?表面だけ取り繕ってるんじゃないですか?なぜなら悔い改めとは、悔い改めの実を結ぶものだからです。その人の生き方が変わることを意味するからです。あなたは本当に生き方を変える覚悟はありますかと問われているのです。
けれど、そのように言われれば、私たちは構えてしまうかもしれません。良い人になれ。と言われれば、それがどれだけ難しいことかを私たちは知っています。けれど、そんなに大層なことが求められているのではないのです。ヨハネは言います。「下着を二枚持っている人は、持っていない人に分けてあげなさい。食べ物を持っている人も同じようにしなさい。」また取税人に対しては「決められた以上には、何も取り立ててはいけません。」と言い、兵士たちには「だれからも、金を力ずくで奪ったり脅し取ったりしてはいけません。自分の給料で満足しなさい。」と言っています。持っているものを満足して用いよと言うのです。決して、持っていないものを差し出すようにとは言われてません。私たちにない愛を絞り出して、分け与えよと言っているのではないのです。主がご自身を差し出して、私たちを赦してくださったのです。もう捨てられてもおかしくない。もう子どもでいる資格はない。身を切られる覚悟で御前に出ると、イエス様は私に駆け寄り、口づけし、指輪を付けて宴の用意をして言われるのです。「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから。」この愛を分け与えよと言うのです。これは主イエスの前に悔いる者だけができる生き方です。主イエスの愛を分かち合う生き方です。ですから、もしも分けることに惜しむなら、友のために時間を惜しみ、労力を惜しむなら、それは主イエスの愛が枯渇しているのかもしれません。必要なのは、主イエスの赦しに与ること。そのためにも、私たちにはきちんと悔いることが必要なのです。

ルカ3:1-6 「悔い改めのバプテスマ」
イザヤ40:3-5には「荒野で叫ぶ者の声がする。「【主】の道を用意せよ。荒れ地で私たちの神のために、大路をまっすぐにせよ。すべての谷は引き上げられ、すべての山や丘は低くなる。曲がったところはまっすぐになり、険しい地は平らになる。このようにして【主】の栄光が現されると、すべての肉なる者がともにこれを見る。まことに【主】の御口が語られる。」」とあります。またマラキ3:1では「見よ、わたしはわたしの使いを遣わす。彼は、わたしの前に道を備える。あなたがたが尋ね求めている主が、突然、その神殿に来る。あなたがたが望んでいる契約の使者が、見よ、彼が来る。──万軍の【主】は言われる。」とあります。
再び神のことばが語られるとき、主が来られると言うのです。預言の再開とは、他でもない救い主の到来を意味するのです。だから人々は驚いたし、ヨハネのもとに駆けつけたのです。そして、そのヨハネの口から語られる「罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマ」に驚いたのです。
ヨハネはイエス様の前に遣わされた「道を備える者」です。イエス様の前に、彼が遣わされたことには意味があります。それは罪の赦しに先立って、悔い改めが必要であるということです。しかし当時のほとんどのユダヤ人にとって、悔い改めるとは自分たちのことではなくて異邦人がすることでした。悔い改めるとは神に立ち返ることです。しかし彼らユダヤ人は、自分たちが神の民であるとの自負から、まさか自分たちの方が神から離れているとは思い至らなかった。しかしヨハネはそのようなユダヤ人に向かって悔改めるようにと説いたのです。
なぜでしょうか。それは続く7節にあるように、全ての者は「まむしの子孫たち」だからです。罪を引き継ぐ者だからです。神の民だろうとなんだろうと、罪人だとヨハネは言うのです。全ての者は罪人であり、滅ぶべき存在。これは、その人がどのような人格だとか、功績を残してきたとか、そういったことでどうこうなることではありません。ユダヤ人であろうと、異邦人であろうと、金持ちであろうと、貧しい者であろうと、どのような者であれ、神の前にはその存在がすでに罪なのです。もちろん今に生きる私たちも同じです。
「あなたは罪人です。」と言われて、反発を覚えるかもしれません。けれど罪によってもたらされた結果には思い至るところではないでしょうか。つまり人は罪の結果、創造の神との関係を失い、その造れた当初の目的を失ったということです。造られたものは、造った方の目的に沿って初めて意味あるものとなるのです。海の真中で時計が時を刻もうと、それはもうあって無きが如しです。ですから現代人が「生きる意味がわからない」と悩み、「自分には生きている価値がないんじゃないだろうか」と迷うのは当然のことです。何をやろうと、どのような者となろうと、本来願っていた神の目的から離れては、そこに真の充足はありません。あるのは空しさだけなのです。
この世界の初めに、神と人の間で交わされた契約が破られました。この人から生まれた者は皆、契約が破られたままで生まれてくることになります。ですから私たちを待つのは、罰である永遠の滅びです。これはもう、その人の性格が云々という次元の話ではないのです。私たちがこの滅びを避けて祝福の内に入れられたいと願うなら、どうやっても拭うことのできない空しさを真の充足で満たしたいと思うなら、それはもう一度契約を結び直すしかありません。それこそがキリストの贖いによって結ばれた新しい契約であり、このキリストを迎える道備えこそがヨハネの説く悔い改めなのです。
人は自らの罪に気付かずして、このイエス様の救いを受け取ることはできません。溺れている人に幾ら手を差し伸べたとしても、その人が手を握り返さなければ助けることはできません。しかし、そもそもの話、その人が溺れていることに自覚していなければ、その人は手を伸ばすことすら無いのです。認めましょう。私たちは溺れているのです。私たちは空しさを抱えています。私たちの内に救いはありません。ただキリストだけが私たちを神の前にとりなすのです。

ルカ2:41-52 「わからずとも心に留めて」
過ぎ越しの祭りからの帰り道というのは、エリコに至る道中のように、途中強盗や追いはぎが出るような治安の悪い難所もありますので、同じ町の者と一緒になって集団で帰ることになっていました。加えて、ヨセフとマリアは、イエスの他にも弟や妹たちも大勢連れておりましたから、幼い子どもたちを集団の中で引き連れて行くだけで、てんやわんやだったことでしょう。一番上の子のイエスには気をゆるしていたと言いますか、あの子は大丈夫という信頼があったのでしょう。ところがその日の道程を終えて、今日はもう休もうとあらためて見渡してみると、一緒のはずの息子がいないのです。きっと血の気が引いたことでしょう。もしかしてはぐれたのか!それとも強盗にさらわれたのか!翌朝になって彼らはすれ違う大勢の人々に声をかけながら、気になるところを一つ一つ探りながら、来た道を引き返します。そしてエルサレムについてからも必死に探し回り、そしてようやく宮でイエスを見つけ出した時には、もう三日も経っておりました。
心配して探し続けたマリアは息子を見つけて叱ります。「どうしてこんなことをしたのですか。見なさい。お父さんも私も、心配してあなたを捜していたのです。」親として当然の言葉です。叱らずにはいられない。それは親である二人の愛ゆえにです。
ところが、これに対して、少年イエスは「どうしてわたしを捜されたのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当然であることを、ご存じなかったのですか。」と返事するのです。いやいや、ここは普通「お母さ~ん」と泣いて抱き着く場面ではないでしょうか。なのに少年イエスは淡々と、どうして捜したのかと尋ねられる。そして、父の家、つまり神の宮にいるのは当然でしょ。と、こう言われる。イエス様はなんて冷めた息子なのかと、戸惑ってしまいますが。ここにはつまりイエス様とマリアたちの父に対する認識の違いがあるのです。
マリアたちはイエス様のことを我が子と理解します。けれどイエス様の方では、父とは、ヨセフではなく、天の父のことを指しているのです。イエス様は親子としての自分ではなくて、神の子としてその使命に生きる自分を意識している。つまり、それはイエス様特有の成人の備えだったと言えるでしょう。
ユダヤでは男の子は13歳から成人とされ律法を守る必要がありました。つまり、13歳になると自分の生贄を捧げる義務が生じるのです。そのため12歳になりますと、親が子へ神殿での作法を教えることになっていました。イエス様の今回の祭りへの参加にはそういう意味もあったのです。過越の祭りにおいて、人々は生贄を献げる為の作業を学びます。けれど、神の御子であるイエス様にとってはそれだけでは不十分でした。なぜなら、その生贄とは、主イエスご自身に他なりません。神からの使命は、ご自身が生贄となる十字架の死と復活に他なりません。つまり少年イエスとしてはヨセフから過ぎ越しの作法を学び、神の御子イエス様は神の宮で御言葉からご自身の使命を学ばれるのです。
さて、イエス様の言葉の真意をわからないマリアとヨセフ。けれどそれは仕方がないかもしれません。子の成長は久しぶりに会った人のほうが気付いたりします。一緒にいると余りにも当たり前なので、その変化に気付けません。マリアとヨセフにとって、イエス様は神の御子ではなくて、やはり我が子でしかないのです。ですから、彼らにイエス様の真意はわかりません。
ですから、私たちがマリアから学ぶのは、彼女がわからないままに、心に留めたということです。彼女の身に起きたことはどれも常識では考えられないことです。自分の知識では理解できないことです。けれど、彼女にはこのことが神の手によるということだけはわかっていた。そして神は自分の人生に無意味なことはなさらないとも。だから彼女はことを委ねて従うのです。目の前の出来事を無理にわかろうとするのではなく、そのままを心に留めるのです。そうすることで、彼女は神の導きに対する平安を得ることができたのです。
わからないことは意味のないことでも、恥ずべきことでもありません。わからないということを認められないことが問題なのです。わからないから、忘れてしまえではありません。イエス様の十字架と復活を経験し、マリアの目が開かれたように、私たちにもわかるときがやって来る。ですから、私たちはそれを心に留めておく必要があるのです。ですから、私たちは、主に信頼して、疑わず、目の前のこと、今日の出来事に心を留めたいと思います。この出来事の幸いを数えるその時まで、心に納めて、思い巡らせていきたいと思うのです。
