エレミヤ4:19-31 「叱責の裏で」
今日の箇所の前後を少し見て見ましょう。5-9節で神はユダとエルサレムに向けて北からのわざわい、大いなる破壊をもたらすと言います。だから自分の身を守れ。城壁のある町に逃れよ。と警告されています。10節、これに対して、エレミヤは神がかつて約束された平和を持ち出して訴えますが、神の回答はさらに激しい裁きのお告げでした。それは北からの軍勢。唯一逃れる道は、悪から心を洗いきよめることだと言われます。「自らの反逆の心を探れ」と神は言われるのです。18節には「あなたの生き方と、あなたの行いが、あなたの身にこれを招いたのだ。これはあなたへのわざわいで、なんと苦いことか。もう、あなたの心臓にまで達している。」とあります。神にすがるにはもう時期を逸しています。あなたの生き方と、あなたの行いが、あなたの身にこれを招いたのだ。こう言わざるを得ない父なる神の痛みとはいかほどでありましょう。
今日の箇所である19節からで、エレミヤはあまりにも厳しい神の裁きの宣告に、はらわたを悶えながら、悟ります。神の怒りと悲しみの前に、もはや裁きを逃れる手立てがないことをです。彼の目に見えるのは、荒野と化すユダの町々の様子。そこには人の姿はなく、空の鳥もみな飛び去っていました。もはやこの裁きを受けることで、せめて民が目を覚ますことを願うばかりのエレミヤです。彼の内に残されている一縷の希望は「全地は荒れ果てる。ただし、わたしは滅ぼし尽くしはしない。」という神のことばのみです。
5:1-2 「エルサレムの通りを行き巡り、さあ、見て知るがよい。その広場を探し回って、もしも、だれか公正を行う、真実を求める者を見つけたなら、わたしはエルサレムを赦そう。彼らが、【主】は生きておられる、と言うからこそ、彼らの誓いは偽りなのだ。」主の裁きを謙虚に受け止めることが、どれほど大事であるかが教えられます。「主は生きておられる、と言うからこそ、彼らの誓いは偽りなのだ。」私たちは神の愛を盾にして、どれほど自らの生き方に甘えを持っているでしょうか。主の怒りは、主の腹立たしさであり、主の歯痒さであります。なぜ気付けないのか。なぜ焦らないのか。なぜ叫ばないのか。戦争も、疫病も、災害も、それ自体を主の怒りのゆえと言うことは簡単ですが、乱暴だし、言うべきでないのかもしれません。けれど、あらゆる災いや試練の中で自らの歩みを省みることに、信仰者は謙虚で思慮深くなければならない。と教えられるのです。
5:11-13に「実に、イスラエルの家とユダの家は、ことごとくわたしを裏切った。──【主】のことば──彼らは【主】を否定してこう言った。『主は何もしない。わざわいは私たちを襲わない。剣も飢饉も、私たちは見ない』と。預言者たちは風になり、彼らのうちにみことばはない。彼らはそのようにされればよい。」とあります。自分に神の裁きが向けられていると認めることは本当に難しいことです。そしてそのことに気付いて本気で自分を変えようとすることは尚難しいです。けれど、見て見ない振りをしても、そこには何の解決もありません。見たくない現実に聞きたくない忠告。それを認め、それに真摯に耳を傾けることこそが、主への従順の第一歩です。厳しい口調の裏に秘められた主の眼差しを忘れてはいけません。主の愛は見ない振りをする愛ではありません。見放す愛ではありません。
エレミヤ31:20 「エフライムは、わたしの大切な子、喜びの子なのか。わたしは彼を責めるたびに、ますます彼のことを思い起こすようになる。それゆえ、わたしのはらわたは彼のためにわななき、わたしは彼をあわれまずにはいられない。──【主】のことば──」主の裁きの声にエレミヤは、はらわたを悶えて悲しみました。けれど、はらわたをわななかせ、あわれんでおられたのは他でもない主ご自身なのです。私たちに向けて語られる叱責の裏で、どれほど主が私たちを憐れみ、惜しんでおられるか。私たちはその主の御旨を理解して、謙虚に主の言葉に自らの生き方を照らし合わせて行きたいと思うのです。

ルカ4:1-13 「悪魔の試み」
日本語で、ふと悪い考えを起こしたり、普段では考えられないような出来心を起こすことを「魔が差す」と言いますが、悪魔というのはいつも心に忍び寄る機会を覗っているのです。で、それはどういう時に忍び寄るのかと言うと、極度の疲れを覚えていたり、何かを成し遂げてほっとした瞬間であったりするわけです。まさしくこの時のイエス様がそうでした。悪魔はイエス様の断食の祈りの様子をずっと伺っていました。けれど一向に付け入るスキがない。40日経って、イエス様の祈りが終わって、イエス様は空腹を覚えられて、ようやくそのチャンスが生まれたのです。
「あなたが神の子なら、この石に、パンになるように命じなさい。」ジャン・バルジャンはただ一つのパンを盗んだ罪で投獄させられ、その後の人生を狂わせましたが、極度に空腹を覚えれば人は誰でも目の前のものに飛びつく者です。ましてや、イエス様には実際に石をパンにする力があります。自分のためにその神の力を使えばいい。これが悪魔の誘惑です。けれど、それはイエス様の使命を真っ向から否定することです。イエス様は自分を犠牲にして、人の贖いとなるために来られたのです。十字架にかかられたイエス様に向かって、かけられた言葉は「神殿を壊して三日で建てる人よ、もしおまえが神の子なら自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」(マタイ27:40)でした。もちろんイエス様がその気なら十字架から降りることは簡単です。けれど、それは神の使命に沿う選択ではないのです。悪魔がわざわざ40日も機会を覗ったのは、とにかく公生涯に入る前に、イエス様を堕落させておきたかったからです。イエス様はその手に乗りません。「『人はパンだけで生きるのではない。』」と屹然と断るイエス様でした。
「もしあなたが私の前にひれ伏すなら、すべてがあなたのものとなる。」すべてがあなたのものとなる。具体的には、このような国々の権力と栄光をすべてです。「権力を手に入れる為なら、悪魔にでも魂を売ってやる。」というのがこの世界の価値観です。この誘惑を抑えきれない人は少なくはないでしょう。しかしイエス様という方は、そもそも神の子として、この世界を統べ治められるお方ではなかったでしょうか。むしろイエス様はその栄光を捨てて、人となられたのではなかったでしょうか。悪魔は大きな餌をぶら下げて、イエス様の使命を否定させようとしています。けれど、イエス様の答えは明快です。「『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい。』と書いてある。」
「あなたが神の子なら、ここから下に身を投げなさい。」なぜなら、神は信じる者を御使いに命じて守られると書いてあるでしょ。これまでイエス様が聖書の引用から誘惑を退けてきたのを皮肉るように、悪魔は詩篇91篇の御言葉を用いて説得しています。けれど、その御言葉の解釈は果たして正しいでしょうか。様々な疫病や恐怖の中で、それでも主を避け所とし、いと高き方を頼って過ごすその者に言われたのが、この91篇11-12節の言葉です。信頼に対する主の守り。ところがその主の守りを試すということは、信頼とは真逆の行為です。イエス様は「『あなたの神である主を試みてはならない。』と言われている。」と申命記6:16の御言葉を引用して退けられました。
以上がイエス様と悪魔とのやりとりの全容ですが、今日の箇所で覚えて置きたいことは、悪魔の試みがあるという事実です。私たちは世にあって、なぜ神はこのような試練を負わせるのかと、嘆くことがあるかもしれません。けれど試みは神が用意するものもあれば、悪魔が用意するものもある。これは紛れもない事実なのです。私たちはそれを見極めなければなりません。それが神から来るのなら、私たちは耐え忍ぶ必要があります。けれどそれが悪魔から来るのなら、私たちは拒絶しなければなりません。対応が違うのです。そして見分ける術は御言葉によってのみであります。
大事なのは御言葉を蓄えておくということです。ささやく声を聞いてから、御言葉を開いているようでは遅すぎるのです。悪魔は狡猾です。時には神のことばすらも用います。都合よく削ったり、付け加えたりしながら、それらしく語ってまいります。目に見える損得をぶら下げて、この世の価値観に訴えて、甘い甘い誘惑を用意します。アダムとエバが神のことばを正しく蓄えていたのなら、蛇のことばが微妙に神のことばをすり替えていることに気付けたはずです。ですから、私たちはその時になってから御言葉に聞くのではなくて、常日頃からでなければなりません。悪魔がイエス様に試みるために40日間待たざるを得なかったということに注目しましょう。祈りの中で、悪魔が主イエスに付け入る隙は無かったのです。それはつまり御言葉に聞き、祈りを献げ、讃美に満ちる日常で、悪魔は手出しできなくなるということです。神との正しい関係を、神の御言葉によって築き上げるとき、私たちは悪魔を恐れる必要はありません。恵みが恐れをはじき出すのです。

ルカ3:23-38 「神の子の系図」
今日の箇所の冒頭には「イエスは、働きを始められたとき、およそ三十歳で、ヨセフの子と考えられていた。」とありました。ちょっと意味深な書き方です。「ヨセフの子と考えられていた。」という表現は、本当はそうじゃないんだけどね。というニュアンスの言葉だからです。けれどイエス様はヨセフの子。これは紛れもない事実ではないでしょうか。赤ん坊のイエス様を抱きかかえ、毎年過ぎ越しの祭りのためにエルサレムに連れて行ったのは他でもないヨセフであります。大工仕事に手解きを加え、日々の食事に祝福を祈り、イエス様の成長はヨセフの存在あってのものです。ナザレに住んでいる者は誰もが父ヨセフの後をちょろちょろと付いて回る幼いイエス様の姿を見ているのです。ですから、人々はイエス様のことをヨセフの子と考えていた。これはごく当たり前の反応なのです。
けれどルカは、本当はそうじゃない。と言うのです。ルカは人々から「ヨセフの子と考えられていた」イエス様とは本当は誰の子なのか、「ヨセフはエリの子で、さかのぼると、マタテ、レビ、メルキ、ヤンナイ、云々」と順々に辿って行きまして、それは「エノシュ、セツ、アダム、そして神に至る。」と記します。ルカは決してこれをアブラハムの系図とは見ません。それは神の子の系図です。アブラハムの契約によって始まる神の民イスラエルの歴史ではなく、アダムまで遡る人類の歴史という枠組みでルカはイエス様の登場を記します。それは救い主の到来が、人類の罪に由来していること。初めの人アダムの罪の清算として、イエス様が来られたということを意図しているのです。そして、それはアダムから連なる全ての人類の罪の清算として来られたということを意図しているのです。
ローマ5:17でルカの師匠であるパウロは「もし一人の違反により、一人によって死が支配するようになったのなら、なおさらのこと、恵みと義の賜物をあふれるばかり受けている人たちは、一人の人イエス・キリストにより、いのちにあって支配するようになるのです。」と言っています。キリストの福音がアダムまで遡る罪の贖いだとするならば、私たちはこれを他人事として聞き流すわけにはいきません。イエス様からアダム、そして神に至るこの系図は、逆にたどると、実際は一本の系図ではなくて人類の数だけ枝分かれして生い茂った樹木図です。この大元が毒されているならば先端まで毒は回るのです。枝葉を幾ら治療しようとも効果はありません。毒されている大元を治療しなくては。そして、大元を治療するならば枝葉も回復するのです。イエス様はこのために来たのです。アダムの罪の贖いとなることは、人類の罪の贖いとなることです。私の罪の贖いとなるのです。
イエス様はぶどうの木に例えて言われました。ヨハネ15:5-8「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。わたしにとどまっていなければ、その人は枝のように投げ捨てられて枯れます。あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます。あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになります。」アダムに連なる私たちは、贖われ、キリストに接ぎ木されました。キリストの幹に連なる限り、私たちは多くの実を結ぶことになります。けれど、この幹にとどまらないなら、その人は枝のように投げ捨てられて枯れるのです。私たちはキリストにとどまりましょう。それはキリストのことばにとどまるということです。キリストのことばには私たちを強め、再び立ち上がらせる力があります。賜物の実を豊かに結ばせる秘訣があります。迷ったとき、道が閉ざされた時、心が荒れすさぶ時、私たちは本当にキリストのことばに聞いているでしょうか。祈りの内に静まっているでしょうか。本当に必要な時ほど後回しにしてはいないでしょうか。人の言葉に慰めを得ようとしても叶いません。慰めも力も一切は主のことばの内です。

ルカ22:39-53 「オリーブ山での祈り」
十字架にかかられる前夜であり、捕らえられるその夜です。イエス様は祈るためにオリーブ山のゲツセマネの園にやって来ました。「いつものように」「いつもの場所に」とありますから、ここはイエス様にとって、お気に入りの祈祷場であったようです。けれど、この日の祈りはいつもの祈りとは違っていました。
「誘惑に陥らないように祈っていなさい。」と弟子たちに命じられたイエス様は、そこからさらに石を投げて届くほどの距離に一人行かれて、ひざまずいて祈られます。「父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように。」いつになく重々しい祈り。記録があるということは、この辺りまで、弟子たちもきちんと聞いていたということです。けれど、段々と眠りについてしまったのです。少し弟子の肩を持ちますと、その日は過ぎ越しの食事の日でした。過ぎ越しの食事は夜中の食事。日中準備に追われた彼らは、夜中に食事をし、いつも以上にイエス様の教えに耳を傾け、その後、夜明けを待たずしてこのゲツセマネにやって来て祈りに着いたのです。弟子たちは疲労困憊で、寝不足で、満腹で。眠る要素は全て整っておりました。
イエス様の祈りの様子は、それは尋常ではありませんでした。「イエスは苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。」とあります。神の御子が人類の罪のために死ぬということは、それほどのことなのです。それは三位一体の神が、その交わりから断たれることを意味するのです。弟子たちはその祈りを耳にしていました。きっとイエス様の祈りに緊張したと思うのです。支えなければ、と決意したと思うのです。マタイ26:43には「弟子たちは眠っていた。まぶたが重くなっていたのである。」とあります。必死に眠るまいと戦っているんだけど、どうしてもまぶたの重さを跳ね除けられないでいる。そういうニュアンスの言葉です。夜中の試験勉強をしていると、いつの間にか意識が途切れて朝を迎えている。そういう経験が皆さんもあるかと思います。私も経験があります。どれだけ決意しようとも、肉体の疲れはいとも簡単に意識を奪うのです。彼らは朦朧とした中で己の弱さに悲しみ、悲しみながら眠り果ててしまったのです。ルカでは省略されてますが、そんなことが全部で3度あったのです。
しかし、彼らの悲しみ以上の悲しみがイエス様にはありました。ほんとにがっかりだったと思います。イエス様は前もって命じられました。「誘惑に陥らないように祈っていなさい。」けれど、弟子たちが祈っていたら何か変わっていたのでしょうか。この後、ユダに先導されてローマの兵たちがやって来てイエス様を連行いたします。裁判にかけられ、拷問を受け、十字架にかけられる。もうここからノンストップです。もしも弟子たちが祈っていたら、これらの出来事が変わっていたのでしょうか。そんなことはないでしょう。これは天の父の御心でもあるのです。決して弟子たちの祈り云々で神のご計画が変わるわけではありません。けれど、それでもイエス様は弟子たちに祈っていなさいとおっしゃいました。祈って結果がどうなるかではなくて、祈ること自体をイエス様は望まれた。祈って欲しいと頼まれたということでしょう。イエス様は結果を変えたかったのではありません。誤解を恐れずに言えば、イエス様はこの究極の試練を前に、弟子たちの存在によって強められたかったのです。
祈っても病気が進み、やがては死んでいく現実に、私は一時、癒しのために祈ってはいけないのではないかと考えたことがあります。下手に癒やしを祈れば、そうならない時、神への躓きになるのではと思いました。けれど、私自身が手術を受けるとき、友人によって祈られた経験をしました。別にそれがどうということではありません。手術は医師の手によるものですし、彼らの祈りが結果を左右することではありません。けれど一方で、祈られると言うことがどれほど力強いことか。どれほどの支えとなるかを経験したのです。手術に対する不安や恐怖は取り除かれていくのを実感しました。不安が消えていく経験でした。祈りを通して聖霊が働かれるのです。
あまりの状況に、何をして良いのかわからないことがあります。何もできないことを悔しくおもうことがあります。けれど、祈った結果は、私たちの責任ではありません。その祈りの答えは神が持っておられます。ですから、私たちが責任を負うのは結果にではなくて、過程にです。今祈ること自体にあるのです。

ルカ3:21-22 「聖霊が降って」
ルカは極めて簡素にイエス様のバプテスマの場面を記しています。その内容はマルコの福音書と極めて似ており、恐らくルカはマルコの福音書を参考にしてこの記事を載せたのでしょう。けれど、その記事の取り扱い方は全く違います。マルコはこのバプテスマの出来事を福音書の初め、イエス様の記録の初めに記します。それに対してルカはこの記事を人として過ごされたイエス様が、いよいよ神の使命へと踏み出す場面。つまり人生のターニングポイントとしてこのバプテスマの出来事を記すのです。
そのことは、このバプテスマの折りに聞こえてきた天からの声にも表れています。バプテスマを授かり、聖霊がイエス様の上に留まった時、天からの声がありました。「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」これは天の父なる神から、子なるイエス様に向けて語られた言葉です。けれど、よくよく考えて見ますと、ちょっと不思議な言い方です。随分と他人行儀と言いましょうか、畏まっていると言いましょうか。普通、父と子の会話で「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」とは恥ずかしさもあって、あまり言いません。かろうじて想像するのは、例えば愛する子を戦地に送り出す時にですとか。臨終の間際に、先立つ息子の手を取ってですとか。何か大きな失敗をしてうなだれている息子に向かって一言ですとか。そういう場面にあって初めて口にする類(たぐい)の言葉ではないかと思うのです。そして、父なる神さまも、まさにそのような意味合いを込めて、ここで宣言をされているのではないでしょうか。なぜなら、いよいよこのバプテスマを持って、イエス様は公の働きを開始されるわけです。それは他でもない世の罪を贖う働きです。人々の罪の犠牲となられる働きです。イエス様は十字架にかかり死ぬためにこの地にお生まれになられたのです。父なる神はその働きに今まさに一人息子を送り出そうとしているのです。戦地に送り出す心境です。今生の別れをするような心境です。人を知り、人に寄り添うために、これまで家族と共に過ごしてこられたイエス様が、いよいよ父なる神の使命に歩み出す。その人生の転換点に、天の父は「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」と声をかけられるのです。何となしに読みますと、ほのぼのとした場面なのかなぁと思いますが、実はそうではなくて、別れを意識して、その思いの長けの言葉で送り出す、大変熱い場面が描かれているのです。
そして、これから神の使命に歩み出すイエス様に、父なる神から送られたのは言葉だけでなくて、聖霊なる神でありました。イエス様は人となられるその時、御自分の栄光をお捨てになられて来られました。だからこそ、永遠の神である方が死ぬという唯一不可能なことが起こり得たのです。身代わりの死となられるために、イエス様は神としてのあり方をお捨てになられた。それゆえ30年間、イエス様は人として成長し、家族に仕え、人を知る歩みをされて来ました。しかし、いよいよ本来の使命へと足を踏み出します。父なる神はそんなイエス様を決して放り出すことはいたしません。むしろ聖霊を送られる。あなたを決して一人では行かせない。その使命を全うできるように、そこに至る全ての災いから守られるように、聖霊がとどまり続けるのです。
実は、このバプテスマにおける三位一体の神の構図と全く同じ出来事が、使徒の働きに記されています。ペンテコステです。イエス様はご自身の代わりの助け主として聖霊を送り、聖霊を受けた弟子たちは福音宣教の使命へと遣わされていく。イエス様がそうであったように、間違いなく信仰者にとっての人生のターニングポイントとなる出来事がそこにある。人は聖霊の助けをいただいて、神の使命に生きるようになるのです。
このことは何を意味するのでしょうか。それはイエス様の福音宣教の初め、バプテスマの折りに父なる神がイエス様に向けられた想いや激励が、今また私たちにも向けられているということです。信仰者の歩みは決して楽で平坦なものではありません。世の人は福音を喜ぶばかりではありません。明らかに嫌がる人。邪魔をする人。汚い言葉をかける人もいるでしょうか。そんな中を神の使命を背負って生きることは時に困難です。けれど、そんな私たちに神は言われます。「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」そして、何より聖霊が共にいて下さいます。私たちは一人で送り出されるのではありません。私たちを守り、御言葉によって導き、祈りの内に強めてくださる聖霊が、決して引き離されることのないようにと、私たちの内に住んでくださっているのです。神の使命に生きる人生とは、父なる神の激励を聞き続ける人生です。聖霊の助けをいただき、主イエスの命懸けの愛に支えられる人生です。この行き着く先は決して空しさに至りません。聖霊は「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」と今日も父の声を届けてくださっています。

ルカ20:20-26 「あなたに刻まれた名」
当時、ユダヤはローマの直轄地となっていました。ヘロデ・アケラオが失脚し、ローマからはユダヤ総督が送られて治安が維持されておりました。ですから当然、税金はローマに納められるわけです。しかし、律法に照らせば、全ては神の支配の下にあり、全ての物は神から来るところです。富もまたそうです。ならば納めるなら神の宮にと言うべきです。けれど、それはローマの支配に表立って逆らうこととなります。イエス様はローマの支配に楯突く不穏分子として捕らえられてしまうでしょう。一方でローマに、と言えば、神の支配を訴えない指導者に、民の心は離れていくことでしょう。どちらを選びましてもイエス様の非を訴えることができる、そういう意地悪な質問を彼らはいたします。
イエス様は彼らの悪だくみを見抜いて言われます。「デナリ銀貨をわたしに見せなさい。だれの肖像と銘がありますか。」デナリ銀貨には表に「皇帝ティベリウス・神と崇められた皇帝アウグステゥスの子」と刻まれておりまして、ローマの税金を納めるときにはこのデナリ銀貨を使うことが決められておりました。一方で、神殿に献げるときにはこのデナリ銀貨は用いることはできません。それは偶像礼拝に当たるからです。それぞれのコインはその用途が明確に分けられておりました。
ここで注目すべきは、イエス様が「デナリ銀貨をわたしに見せなさい。」と言われた点です。取って来なさい。と言っているのではないのです。その場で、あなたが懐に持っているそのデナリ銀貨を見せて見なさい。という意味です。つまり、誰もがデナリ銀貨を持っているのです。不思議です。神殿に仕える者は、基本的に神殿に献げられたものから頂いているのではないでしょうか。そして神殿に献げられるものにデナリ銀貨は含まれていないのではなかったでしょうか。では、なぜ彼らはデナリ銀貨を持っているのでしょう。つまりは、彼らもまたローマに税金を納めていたわけです。彼らもローマの支配を当然のように受け入れ、折り合いを付けていた。にも拘わらず、イエス様にあなたは神と皇帝とどちらの支配に従うのか。と問うているのです。イエス様は「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい。」と答えました。結局それがカエサルのものか、神のものかを決めるのはその人自身にかかっているのです。
カエサルの名が刻まれているものはカエサルに返せばいいのです。けれど、神の名が刻まれているものは、神に返さなければなりません。では、ここで考えなければなりません。私たち自身には誰の名が刻まれているかということです。カエサルの名が刻まれていると言う人は流石にいないでしょうが、日本と言う名、会社という名を刻んでいる人はいるかもしれません。自分の名を刻んでいる人は多くいることでしょう。けれど、ユダヤ人は、そしてキリスト者はそれ以前に神の名が刻まれた者では無かったでしょうか。
イザヤ43:1 「だが今、【主】はこう言われる。ヤコブよ、あなたを創造した方、イスラエルよ、あなたを形造った方が。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったからだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたは、わたしのもの。」「あなたを形造った方が」「あなたはわたしのもの」と言われます。ならば、この身を神に返すのは当然のことではないでしょうか。神に仕えることは当然のことではないでしょうか。祭司長たちは悪巧みで質問したことでした。けれど、その質問は大変深い問題を含んでいます。神に仕えるか、カエサルに仕えるか。天に仕えるか、地に仕えるか。それは私にはどんな名前が刻まれているかによって決まります。
そして、神の名が刻まれている者に主は言われます。イザヤ43:2-4「あなたが水の中を過ぎるときも、わたしは、あなたとともにいる。川を渡るときも、あなたは押し流されず、火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。わたしはあなたの神、【主】、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ。わたしはエジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代わりとする。 わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だから、わたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにする。恐れるな。わたしがあなたとともにいるからだ。」神の名が刻まれることを、面倒と思われるでしょうか。けれど、その名こそ、神が私たちを憐れんでおられる証拠です。私たちを愛し、喜び、共にいて下さる証拠です。だからこそ、私たちは神の名が刻まれていることに感謝し、この身を神に返すことに平安を見出していきたいと思うのです。

ルカ3:18-20 「世を正す預言者」
ヨハネは領主ヘロデの姦淫の罪を非難します。当然です。彼は「罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマ」を説く者だからです。世の不正を暴いて悔い改めさせる。これが預言者ヨハネの使命です。特に為政者の不義はその人物だけに留まらず、その国の不義に繋がります。その国の指導者こそが、イコール、その国の方針となるのです。ですから、ヨハネは相手が領主であろうと態度を変えません。彼はヘロデの罪を鋭く非難します。ヨハネから言わせれば、たとえ領主であろうとも、それは悔い改めるべき一人の罪人に過ぎないのです。しかしヘロデはヨハネを捕らえて牢に閉じ込めてしまいます。ルカの福音書ではこのところはさらっと書いていますが、マルコの福音書には実際にヨハネを恨み憎んでいたのは妻ヘロディアであったとあります。ヘロデはヨハネの正しさを知っており、彼を恐れて保護していました。そして時々、投獄されたヨハネの下に足を運んでは、その教えを喜んで聞いていたと言うのです。
牢に捕えながら、話を聞きに行く。ヘロデのこの矛盾した態度の裏には、自らの罪に対する後ろめたさがあるのです。ヘロデの姦淫の罪は領地の誰もが知るところ。けれど、知っているはずなのに誰も口にしません。それは誰もヘロデに対して本心を語らないということです。目の前にいるこいつは私に従う振りをしながら、内心では馬鹿にしているに違いない。この者の忠誠心は、私ではなくて領主という肩書に向けられているだけに違いない。誰も本音を語らない状況に、ヘロデの妄想は膨れるばかりです。皆が腹の中では自分を蔑んでいると思うと、もはや誰の言葉も信用できません。ですからヘロデは、ヨハネの非難の言葉に恐れつつも安堵するのです。憎みつつも惹かれるのです。なぜなら、ヨハネの言葉には嘘が無いからです。ヨハネの言葉は信用ができる。だからと言って、ヨハネを野放しにしておくことはできません。彼の非難の声は、間違いなく自分の地位を脅かすものです。彼から領主の地位を奪えば、もはやヘロデに従う者などおりません。結果、ヘロデはヨハネを投獄しつつ、その投獄した牢に足を運ぶと言う矛盾した行動に至るのです。
さて預言者ヨハネに、この結末は予想できなかったのでしょうか。時の権力者に歯向かえば、ただではいられない。そんなことは誰もがわかっていたはずです。だから誰もが忖度をした。罪を見て見ぬ振りをした。無視することで保身を図ったのです。けれどヨハネは、ただ一人ヘロデの罪を非難します。なぜなら彼は地上の権力者ではなくて、全能の神に仕える者だったからです。彼はヘロデの機嫌を取ることよりも、自らの身を守ることよりも、神の前に滅びる魂を立ち返らせることにこそ使命があったからです。
先に言いましたが、特にヘロデの罪を名指しで糾弾するのは、彼が為政者だったからです。ヘロデの姿は国の鏡だからです。ヘロデの罪は、多くの人々の罪を覆い隠すからです。領主だってやってるんだから。と、人々が言い訳の材料にするからです。祈祷会では今、第2列王記をご一緒に読んでおりまして、前回はユダヤ全土の偶像を一掃したヨシヤ王のことを学びました。良くも悪くも、王という個人の信仰がその国の信仰を左右いたします。ですから、預言者は為政者を無視しません。国の滅びを放ってはおきません。彼らに寄り添い、彼らを正し、真の神に立ち返るように、神の国に相応しくあるために、繰り返し繰り返し叫び続けるのです。
こんなことを言いますと、宗教は政治に口を出してはいけないと言われる方もおられると思います。確かに政治の中枢に宗教が居座った結果、悲惨な歴史が数しれずあります。日本もそれを経験しています。ですから、宗教と政治は距離を置くべきとはわからなくありません。けれど、それと信仰者が政治のために、国のために罪を糾弾することは全く別の話です。
ヨハネ以外に誰がヘロデの罪を指摘できたでしょう。誰がヘロデの悔い改めを願ったことでしょう。みんな保身だけを考えていたのです。忖度していたのです。それは仕方ないのです。地上のみを見ている人は、その権力に従うしかありません。しかし私たちは天に目を向ける者です。私たちもまた、地上の権力者ではなくて、全能の神に仕える者です。現代の預言者です。ですから地上の一切を恐れることなく、滅びる魂に悔い改めと救いを叫び続けるのです。
