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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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200909 ルカ22:39-53 「オリーブ山での祈り」

ルカ22:39-53 「オリーブ山での祈り」

 十字架にかかられる前夜であり、捕らえられるその夜です。イエス様は祈るためにオリーブ山のゲツセマネの園にやって来ました。「いつものように」「いつもの場所に」とありますから、ここはイエス様にとって、お気に入りの祈祷場であったようです。けれど、この日の祈りはいつもの祈りとは違っていました。
 「誘惑に陥らないように祈っていなさい。」と弟子たちに命じられたイエス様は、そこからさらに石を投げて届くほどの距離に一人行かれて、ひざまずいて祈られます。「父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように。」いつになく重々しい祈り。記録があるということは、この辺りまで、弟子たちもきちんと聞いていたということです。けれど、段々と眠りについてしまったのです。少し弟子の肩を持ちますと、その日は過ぎ越しの食事の日でした。過ぎ越しの食事は夜中の食事。日中準備に追われた彼らは、夜中に食事をし、いつも以上にイエス様の教えに耳を傾け、その後、夜明けを待たずしてこのゲツセマネにやって来て祈りに着いたのです。弟子たちは疲労困憊で、寝不足で、満腹で。眠る要素は全て整っておりました。
 イエス様の祈りの様子は、それは尋常ではありませんでした。「イエスは苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。」とあります。神の御子が人類の罪のために死ぬということは、それほどのことなのです。それは三位一体の神が、その交わりから断たれることを意味するのです。弟子たちはその祈りを耳にしていました。きっとイエス様の祈りに緊張したと思うのです。支えなければ、と決意したと思うのです。マタイ26:43には「弟子たちは眠っていた。まぶたが重くなっていたのである。」とあります。必死に眠るまいと戦っているんだけど、どうしてもまぶたの重さを跳ね除けられないでいる。そういうニュアンスの言葉です。夜中の試験勉強をしていると、いつの間にか意識が途切れて朝を迎えている。そういう経験が皆さんもあるかと思います。私も経験があります。どれだけ決意しようとも、肉体の疲れはいとも簡単に意識を奪うのです。彼らは朦朧とした中で己の弱さに悲しみ、悲しみながら眠り果ててしまったのです。ルカでは省略されてますが、そんなことが全部で3度あったのです。
 しかし、彼らの悲しみ以上の悲しみがイエス様にはありました。ほんとにがっかりだったと思います。イエス様は前もって命じられました。「誘惑に陥らないように祈っていなさい。」けれど、弟子たちが祈っていたら何か変わっていたのでしょうか。この後、ユダに先導されてローマの兵たちがやって来てイエス様を連行いたします。裁判にかけられ、拷問を受け、十字架にかけられる。もうここからノンストップです。もしも弟子たちが祈っていたら、これらの出来事が変わっていたのでしょうか。そんなことはないでしょう。これは天の父の御心でもあるのです。決して弟子たちの祈り云々で神のご計画が変わるわけではありません。けれど、それでもイエス様は弟子たちに祈っていなさいとおっしゃいました。祈って結果がどうなるかではなくて、祈ること自体をイエス様は望まれた。祈って欲しいと頼まれたということでしょう。イエス様は結果を変えたかったのではありません。誤解を恐れずに言えば、イエス様はこの究極の試練を前に、弟子たちの存在によって強められたかったのです。
 祈っても病気が進み、やがては死んでいく現実に、私は一時、癒しのために祈ってはいけないのではないかと考えたことがあります。下手に癒やしを祈れば、そうならない時、神への躓きになるのではと思いました。けれど、私自身が手術を受けるとき、友人によって祈られた経験をしました。別にそれがどうということではありません。手術は医師の手によるものですし、彼らの祈りが結果を左右することではありません。けれど一方で、祈られると言うことがどれほど力強いことか。どれほどの支えとなるかを経験したのです。手術に対する不安や恐怖は取り除かれていくのを実感しました。不安が消えていく経験でした。祈りを通して聖霊が働かれるのです。
 あまりの状況に、何をして良いのかわからないことがあります。何もできないことを悔しくおもうことがあります。けれど、祈った結果は、私たちの責任ではありません。その祈りの答えは神が持っておられます。ですから、私たちが責任を負うのは結果にではなくて、過程にです。今祈ること自体にあるのです。

200906 ルカ3:21-22 「聖霊が降って」

200906 ルカ3:21-22 「聖霊が降って」

 ルカは極めて簡素にイエス様のバプテスマの場面を記しています。その内容はマルコの福音書と極めて似ており、恐らくルカはマルコの福音書を参考にしてこの記事を載せたのでしょう。けれど、その記事の取り扱い方は全く違います。マルコはこのバプテスマの出来事を福音書の初め、イエス様の記録の初めに記します。それに対してルカはこの記事を人として過ごされたイエス様が、いよいよ神の使命へと踏み出す場面。つまり人生のターニングポイントとしてこのバプテスマの出来事を記すのです。
 そのことは、このバプテスマの折りに聞こえてきた天からの声にも表れています。バプテスマを授かり、聖霊がイエス様の上に留まった時、天からの声がありました。「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」これは天の父なる神から、子なるイエス様に向けて語られた言葉です。けれど、よくよく考えて見ますと、ちょっと不思議な言い方です。随分と他人行儀と言いましょうか、畏まっていると言いましょうか。普通、父と子の会話で「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」とは恥ずかしさもあって、あまり言いません。かろうじて想像するのは、例えば愛する子を戦地に送り出す時にですとか。臨終の間際に、先立つ息子の手を取ってですとか。何か大きな失敗をしてうなだれている息子に向かって一言ですとか。そういう場面にあって初めて口にする類(たぐい)の言葉ではないかと思うのです。そして、父なる神さまも、まさにそのような意味合いを込めて、ここで宣言をされているのではないでしょうか。なぜなら、いよいよこのバプテスマを持って、イエス様は公の働きを開始されるわけです。それは他でもない世の罪を贖う働きです。人々の罪の犠牲となられる働きです。イエス様は十字架にかかり死ぬためにこの地にお生まれになられたのです。父なる神はその働きに今まさに一人息子を送り出そうとしているのです。戦地に送り出す心境です。今生の別れをするような心境です。人を知り、人に寄り添うために、これまで家族と共に過ごしてこられたイエス様が、いよいよ父なる神の使命に歩み出す。その人生の転換点に、天の父は「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」と声をかけられるのです。何となしに読みますと、ほのぼのとした場面なのかなぁと思いますが、実はそうではなくて、別れを意識して、その思いの長けの言葉で送り出す、大変熱い場面が描かれているのです。
 そして、これから神の使命に歩み出すイエス様に、父なる神から送られたのは言葉だけでなくて、聖霊なる神でありました。イエス様は人となられるその時、御自分の栄光をお捨てになられて来られました。だからこそ、永遠の神である方が死ぬという唯一不可能なことが起こり得たのです。身代わりの死となられるために、イエス様は神としてのあり方をお捨てになられた。それゆえ30年間、イエス様は人として成長し、家族に仕え、人を知る歩みをされて来ました。しかし、いよいよ本来の使命へと足を踏み出します。父なる神はそんなイエス様を決して放り出すことはいたしません。むしろ聖霊を送られる。あなたを決して一人では行かせない。その使命を全うできるように、そこに至る全ての災いから守られるように、聖霊がとどまり続けるのです。
 実は、このバプテスマにおける三位一体の神の構図と全く同じ出来事が、使徒の働きに記されています。ペンテコステです。イエス様はご自身の代わりの助け主として聖霊を送り、聖霊を受けた弟子たちは福音宣教の使命へと遣わされていく。イエス様がそうであったように、間違いなく信仰者にとっての人生のターニングポイントとなる出来事がそこにある。人は聖霊の助けをいただいて、神の使命に生きるようになるのです。
 このことは何を意味するのでしょうか。それはイエス様の福音宣教の初め、バプテスマの折りに父なる神がイエス様に向けられた想いや激励が、今また私たちにも向けられているということです。信仰者の歩みは決して楽で平坦なものではありません。世の人は福音を喜ぶばかりではありません。明らかに嫌がる人。邪魔をする人。汚い言葉をかける人もいるでしょうか。そんな中を神の使命を背負って生きることは時に困難です。けれど、そんな私たちに神は言われます。「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」そして、何より聖霊が共にいて下さいます。私たちは一人で送り出されるのではありません。私たちを守り、御言葉によって導き、祈りの内に強めてくださる聖霊が、決して引き離されることのないようにと、私たちの内に住んでくださっているのです。神の使命に生きる人生とは、父なる神の激励を聞き続ける人生です。聖霊の助けをいただき、主イエスの命懸けの愛に支えられる人生です。この行き着く先は決して空しさに至りません。聖霊は「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」と今日も父の声を届けてくださっています。

200902 ルカ20:20-26 「あなたに刻まれた名」

200902 ルカ20:20-26 「あなたに刻まれた名」

 当時、ユダヤはローマの直轄地となっていました。ヘロデ・アケラオが失脚し、ローマからはユダヤ総督が送られて治安が維持されておりました。ですから当然、税金はローマに納められるわけです。しかし、律法に照らせば、全ては神の支配の下にあり、全ての物は神から来るところです。富もまたそうです。ならば納めるなら神の宮にと言うべきです。けれど、それはローマの支配に表立って逆らうこととなります。イエス様はローマの支配に楯突く不穏分子として捕らえられてしまうでしょう。一方でローマに、と言えば、神の支配を訴えない指導者に、民の心は離れていくことでしょう。どちらを選びましてもイエス様の非を訴えることができる、そういう意地悪な質問を彼らはいたします。
 イエス様は彼らの悪だくみを見抜いて言われます。「デナリ銀貨をわたしに見せなさい。だれの肖像と銘がありますか。」デナリ銀貨には表に「皇帝ティベリウス・神と崇められた皇帝アウグステゥスの子」と刻まれておりまして、ローマの税金を納めるときにはこのデナリ銀貨を使うことが決められておりました。一方で、神殿に献げるときにはこのデナリ銀貨は用いることはできません。それは偶像礼拝に当たるからです。それぞれのコインはその用途が明確に分けられておりました。
 ここで注目すべきは、イエス様が「デナリ銀貨をわたしに見せなさい。」と言われた点です。取って来なさい。と言っているのではないのです。その場で、あなたが懐に持っているそのデナリ銀貨を見せて見なさい。という意味です。つまり、誰もがデナリ銀貨を持っているのです。不思議です。神殿に仕える者は、基本的に神殿に献げられたものから頂いているのではないでしょうか。そして神殿に献げられるものにデナリ銀貨は含まれていないのではなかったでしょうか。では、なぜ彼らはデナリ銀貨を持っているのでしょう。つまりは、彼らもまたローマに税金を納めていたわけです。彼らもローマの支配を当然のように受け入れ、折り合いを付けていた。にも拘わらず、イエス様にあなたは神と皇帝とどちらの支配に従うのか。と問うているのです。イエス様は「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい。」と答えました。結局それがカエサルのものか、神のものかを決めるのはその人自身にかかっているのです。
 カエサルの名が刻まれているものはカエサルに返せばいいのです。けれど、神の名が刻まれているものは、神に返さなければなりません。では、ここで考えなければなりません。私たち自身には誰の名が刻まれているかということです。カエサルの名が刻まれていると言う人は流石にいないでしょうが、日本と言う名、会社という名を刻んでいる人はいるかもしれません。自分の名を刻んでいる人は多くいることでしょう。けれど、ユダヤ人は、そしてキリスト者はそれ以前に神の名が刻まれた者では無かったでしょうか。
 イザヤ43:1 「だが今、【主】はこう言われる。ヤコブよ、あなたを創造した方、イスラエルよ、あなたを形造った方が。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったからだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたは、わたしのもの。」「あなたを形造った方が」「あなたはわたしのもの」と言われます。ならば、この身を神に返すのは当然のことではないでしょうか。神に仕えることは当然のことではないでしょうか。祭司長たちは悪巧みで質問したことでした。けれど、その質問は大変深い問題を含んでいます。神に仕えるか、カエサルに仕えるか。天に仕えるか、地に仕えるか。それは私にはどんな名前が刻まれているかによって決まります。
 そして、神の名が刻まれている者に主は言われます。イザヤ43:2-4「あなたが水の中を過ぎるときも、わたしは、あなたとともにいる。川を渡るときも、あなたは押し流されず、火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。わたしはあなたの神、【主】、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ。わたしはエジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代わりとする。 わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だから、わたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにする。恐れるな。わたしがあなたとともにいるからだ。」神の名が刻まれることを、面倒と思われるでしょうか。けれど、その名こそ、神が私たちを憐れんでおられる証拠です。私たちを愛し、喜び、共にいて下さる証拠です。だからこそ、私たちは神の名が刻まれていることに感謝し、この身を神に返すことに平安を見出していきたいと思うのです。

200830 ルカ3:18-20 「世を正す預言者」

200830 ルカ3:18-20 「世を正す預言者」

 ヨハネは領主ヘロデの姦淫の罪を非難します。当然です。彼は「罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマ」を説く者だからです。世の不正を暴いて悔い改めさせる。これが預言者ヨハネの使命です。特に為政者の不義はその人物だけに留まらず、その国の不義に繋がります。その国の指導者こそが、イコール、その国の方針となるのです。ですから、ヨハネは相手が領主であろうと態度を変えません。彼はヘロデの罪を鋭く非難します。ヨハネから言わせれば、たとえ領主であろうとも、それは悔い改めるべき一人の罪人に過ぎないのです。しかしヘロデはヨハネを捕らえて牢に閉じ込めてしまいます。ルカの福音書ではこのところはサラっと書いていますが、マルコの福音書には実際にヨハネを恨み憎んでいたのは妻ヘロディアであったとあります。ヘロデはヨハネの正しさを知っており、彼を恐れて保護していました。そして時々、投獄されたヨハネの下に足を運んでは、その教えを喜んで聞いていたと言うのです。
 牢に捕えながら、話を聞きに行く。ヘロデのこの矛盾した態度の裏には、自らの罪に対する後ろめたさがあるのです。ヘロデの姦淫の罪は領地の誰もが知るところ。けれど、知っているはずなのに誰も口にしません。それは誰もヘロデに対して本心を語らないということです。目の前にいるこいつは私に従う振りをしながら、内心では馬鹿にしているに違いない。この者の忠誠心は、私ではなくて領主という肩書に向けられているだけに違いない。誰も本音を語らない状況に、ヘロデの妄想は膨れるばかりです。皆が腹の中では自分を蔑んでいると思うと、もはや誰の言葉も信用できません。ですからヘロデは、ヨハネの非難の言葉に恐れつつも安堵するのです。憎みつつも惹かれるのです。なぜなら、ヨハネの言葉には嘘が無いからです。ヨハネの言葉は信用ができる。だからと言って、ヨハネを野放しにしておくことはできません。彼の非難の声は、間違いなく自分の地位を脅かすものです。彼から領主の地位を奪えば、もはやヘロデに従う者などおりません。結果、ヘロデはヨハネを投獄しつつ、その投獄した牢に足を運ぶと言う矛盾した行動に至るのです。
 さて預言者ヨハネに、この結末は予想できなかったのでしょうか。時の権力者に歯向かえば、ただではいられない。そんなことは誰もがわかっていたはずです。だから誰もが忖度をした。罪を見て見ぬ振りをした。無視することで保身を図ったのです。けれどヨハネは、ただ一人ヘロデの罪を非難します。なぜなら彼は地上の権力者ではなくて、全能の神に仕える者だったからです。彼はヘロデの機嫌を取ることよりも、自らの身を守ることよりも、神の前に滅びる魂を立ち返らせることにこそ使命があったからです。
 先に言いましたが、特にヘロデの罪を名指しで糾弾するのは、彼が為政者だったからです。ヘロデの姿は国の鏡だからです。ヘロデの罪は、多くの人々の罪を覆い隠すからです。領主だってやってるんだから。と、人々が言い訳の材料にするからです。祈祷会では今、第2列王記をご一緒に読んでおりまして、前回はユダヤ全土の偶像を一掃したヨシヤ王のことを学びました。良くも悪くも、王という個人の信仰がその国の信仰を左右いたします。ですから、預言者は為政者を無視しません。国の滅びを放ってはおきません。彼らに寄り添い、彼らを正し、真の神に立ち返るように、神の国に相応しくあるために、繰り返し繰り返し叫び続けるのです。
 こんなことを言いますと、宗教は政治に口を出してはいけないと言われる方もおられると思います。確かに政治の中枢に宗教が居座った結果、悲惨な歴史が数しれずあります。日本もそれを経験しています。ですから、宗教と政治は距離を置くべきとはわからなくありません。けれど、それと信仰者が政治のために、国のために罪を糾弾することは全く別の話です。
 ヨハネ以外に誰がヘロデの罪を指摘できたでしょう。誰がヘロデの悔い改めを願ったことでしょう。みんな保身だけを考えていたのです。忖度していたのです。それは仕方ないのです。地上のみを見ている人は、その権力に従うしかありません。しかし私たちは天に目を向ける者です。私たちもまた、地上の権力者ではなくて、全能の神に仕える者です。現代の預言者です。ですから地上の一切を恐れることなく、滅びる魂に悔い改めと救いを叫び続けるのです。