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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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201025 ルカ4:42-44 「ほかの町々にも」

ルカ4:42-44 「ほかの町々にも」

 安息日にイエス様はカペナウムの会堂で話され、日が暮れてからは、駆けつけた大勢の病人に手を置いて癒されます。けれど夜が明けて朝になりますと話は一転します。イエス様は一人寂しいところに出て行かれるのです。この朝も人々は押し寄せたと思うのです。カペナウムの町は会堂での教えと病が癒された人々の噂で持ちきりでした。カペナウムの人々は興奮してこの夜を過ごしました。ですから安息日が明けるのを待って多くの人がイエス様のもとに駆けつけたように、夜が明けるのを待って皆がイエス様のもとに駆け付けることは誰もが予想できたことです。にも関わらず、イエス様は寂しいところに出て行かれたのです。イエス様はたとえご自身を必要とする人々から離れてでも、一人になる時間を大事になさるのです。
 クリスチャンである私たちは、祈りの時間が大事だと言うことはとてもよく知っています。けれど知ってはいるけれど、なかなかその時間が持てない。なかなかその余裕がない。だからこそです。大事なのは、その慌ただしい日常から離れること。敢えて寂しいところに出ていくということではないでしょうか。テスト勉強がしたいなら図書館に行くべきです。テレビがあって、おもちゃがあって、手を伸ばせば漫画の本がずらりと並んでいる部屋で、勉強をするというのは簡単なことではありません。ならばいっそのこと、そういう誘惑からは離れたほうが良いのです。信仰においても同じです。人々に関わることは大事です。奉仕も、仕事も、どれも大事。けれど、それら一切は神との交わりを抜きにしてはあり得ません。どれだけ大切に思えることも、必要なことも、それが神を後回しにさせるとすれば、私たちは思い切ってそれらから離れる必要があるのです。
 イエス様は人々を置いて、一人寂しいところに出て行かれました。人々に関わることはイエス様の使命です。地上に来られたイエス様の責任です。けれどだからこそです。イエス様はそこから離れる時間を大事にされました。イエス様は救い主である前に神の子だからです。私たちも同じです。日本人である前に、社会人である前に、親であり子であり、夫であり妻である前に、私たちは神に造られたひとりの人間であり、主イエスの贖いの恵みにあずかったひとりのキリスト者です。私たちはあらゆる肩書と責任と関係を置いて主の前にひとりひざまずくとき、初めて本当の自分を取り戻すことができるのです。そして信仰生活とはまさにここから始めるべきなのです。
 さて、イエス様がいないことを知った群衆は、イエス様を血眼になって探します。そしてイエス様を見つけると、「自分たちから離れて行かないように、引き止めておこうと」いたしました。彼らはイエス様の教えに感動し、イエス様の奇跡に驚きました。彼らは確かにイエス様が只者ではないことを悟りました。だからこそ、イエス様にカペナウムに留まって欲しいと思いました。けれど、それはイエス様という方を何も理解していません。
 イエス様は言われます。「ほかの町々にも、神の国の福音を宣べ伝えなければなりません。わたしは、そのために遣わされたのですから。」注目すべきは、イエス様は人々を癒すために来たのでは無いということです。福音を宣べ伝えるために来たのです。人々はイエス様に奇跡という利益を求めます。けれど、奇跡はあくまでも神の国の福音を信じるための手段なのです。福音を信じることができるなら、目に見える奇跡はもう必要ないのです。今、カペナウムの町では驚くべき癒やしの奇跡がなされ、人々はイエス様が只ならぬお方であることを悟りました。そして、その御方が会堂で語られた教えが話題となって広まっていきました。人々が福音を受け入れる土壌が出来ています。ならば、イエス様はそこに留まる理由はありません。福音を語るべき地はまだまだあるのです。そもそもの話、イエス様が宣教の使命を置いて留まるお方なら、イエス様はカペナウムには来ていません。イエス様は留まらないからこそ、カペナウムに来られたのです。そのイエス様をカペナウムに留めようとすることは、本末転倒です。それはイエス様の御心をまるで理解していません。
 イエス様と離れたくない。彼らのその思いはある意味で当然です。けれど、そのためにイエス様を引き留めることは、イエス様の御心には適いません。もし私たちがイエス様と離れたくないと思うなら、イエス様を私のもとに引き留めるのではなくて、私たちもまた神の使命に生きればいいのです。私たちがその使命をイエス様と共有する時、私たちはイエス様と共にあるのです。

201018 ルカ4:38-41 「一人ひとりに手を置いて」

ルカ4:38-41 「一人ひとりに手を置いて」

 カペナウムの会堂で悪霊を追い出されたイエス様は、その足でシモン・ペテロとアンデレの家に入られて、そこで二人のしゅうとめの熱病を癒されました。そして、日が暮れると、多くの人々が病人を連れてきましたので、そのひとりひとりに手を置いて癒され、また悪霊を追い出されたことでした。ここで「日が暮れると・・・病人を連れて来た」とありますのは、この日が安息日だったということが背景にあります。当時の日の数え方は、日が暮れるときに一日が終わると考えられていました。つまり安息日が終わったので人々は沢山の病人を連れて来た。ということです。みんな安息日が終わるのをまだかまだかと待っていたのです。早くイエス様のところに連れて行きたくて仕方なかったんです。けれど安息日なので会堂以外の外出を控えざるを得なかったわけです。さらに言えば、これは安息日の出来事ですから、安息日でない日はと言いますと、人々は一日中イエス様の前に列をなしたのです。そして、そのように自分を頼ってやって来る人々を、イエス様は一人ひとり手を置いて癒されるのです。
 39節にペテロのしゅうとめの熱を𠮟りつけて治されるイエス様が記されています。また41節にも悪霊どもを𠮟りつけて追い出されるイエス様の様子が記されています。イエス様はことば一つで癒しのわざをなされる権威あるお方です。けれど、そのイエス様は病気で弱っている者を前に、わざわざ一人ひとりに手を置いて癒されるのです。
 お医者さんの中には、触診もせず、症状もろくに聞かず、カルテとレントゲン写真だけを見て診察する方もいたりします。たくさんの患者を診てきているベテランのお医者さんなら、きっとそれでも間違いない診断ができるのだと思います。毎日何百人と患者を診ていれば、少しでも効率よくと考えるかも知れません。けれど患者の身から言わせると、やっぱりよく聞いて、よく見てくれるお医者さんでいて欲しいのです。病気だけじゃなくて、私を見てほしいとこう思うわけです。診断結果はどちらも同じかもしれません。けれど、それを受け止める側の気持ちは変わってきます。この先生が言うことなら間違いない。そう思えるのは、医者としてだけじゃなく、人として信頼できる先生だからです。
 癒しということだけを考えれば、イエス様はもっと効率よく癒すこともできたと思うのです。自分のもとにやって来た病人たちを、ことば一つで一斉に癒すこともできるのです。けれど、イエス様が望まれるのはその人の病の癒しではありません。その人との関係の回復です。神からの恵みに触れて、その人が心から神に感謝し、ひざまずくことです。イエス様はある時10人のツァラアトの病人を同時に癒されました。彼らが遠く離れたところから叫んで癒しを乞うたからです。けれど、この癒しに感謝してイエス様のもとに駆けつけたのはたったの一人だけでした。病の癒しは必ずしもイエス様への信仰とは結び付かないのです。けれど、イエス様が望まれるのはむしろそのところです。その者がまことの信仰を取り戻すために、もし癒しが必要なら主は癒しを施されるのです。ですから、イエス様は一人ひとりと向き合われます。わざわざ時間を取って、一人ひとりと向き合い、話を聞き、その手を置かれるのです。ここで言う手を置くというのは、つまり、一人ひとりに相応しく関わるということです。ペテロのしゅうとめには手を置かず言葉一つで癒されました。それはペテロのしゅうとめを粗略に扱ったということではありません。ある盲人には泥を塗って池の水で洗えと言われました。38年も寝たきりでいた病人には「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」と命じました。いえ、パウロに至っては、私から去らせてくださいと三度願った肉体の棘は遂に取られず、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と語られるのみでした。けれど、それらは全て、一人ひとりに手を置かれたということだと思うのです。私たちは皆顔が違うように、信仰を妨げる要因も違います。ある人は病のゆえに神を呪い、ある人は病のゆえに神を賛美します。イエス様はそれらを一緒くたにして、扱うことはいたしません。それぞれの置かれた環境、状況、立場、全てをご存じでいて、尚も一人ひとりと向き合ってくださるお方です。私個人を見てくださるお方なのです。

201014 エレミヤ22:1-12 「公正と正義、そして福祉」

エレミヤ22:1-12 「公正と正義、そして福祉」

 この時代の王たちは少し混み合っていまして、ヨシヤ王の死後、エジプトとバビロンと言う2つの強国によって立て続けに傀儡の王が立てられ、やがてバビロンによってユダの国は滅亡いたします。エレミヤ22章ではヨシヤ王より後の亡国の王たちに向けられた預言が順番に並べて記されています。第2列王記23-24章と重ね合わせながら読むと背景がわかります。
 ヨシヤ王がエジプトの王ネコによって殺されたとき、息子エホアハズ(シャルム)が民の支持を受けて王を継ぎますが、エジプト王によってわずか3カ月で退位させられてしまいます。彼はエジプトに連れられ、その地で死ぬこととなります。エジプト王はエホアハズの代わりに、腹違いの兄弟エホヤキムを王に就かせます。ところが、このエホヤキム王の時代にバビロンが攻め上って来て、彼は捕えられるのです。宗主国エジプトは助けてはくれませんでした。カルケミシュの戦いでエジプトもまたバビロンによって敗北していたからです。この時ダニエルを初め、多くの民と財宝が奪い去られる第1回バビロン捕囚がなされます。エホヤキムはエジプトを頼って3年の後バビロンに反逆しますが、バビロン配下にあるカルデア・アラム・モアブ・アンモンの略奪隊によって逆に攻められ、ますます国を危機に陥れることとなるのです。エレミヤ22:13-19にはエホヤキムが自分の利得のために、罪のない者の血を流し、暴虐を行なっていたことが記されています。それゆえ、主は言われます。「だれも、『ああ、悲しい、私の兄弟よ。ああ、悲しい、私の姉妹よ』と言って彼を悼まず、だれも、『ああ、悲しい、主よ。ああ、悲しい、陛下よ』と言って彼を悼まない。彼はエルサレムの門の外へ引きずられ、投げ捨てられて、ろばが埋められるように埋められる。」事実彼の死は誰からも悼まれず、その遺体は王の墓に葬られることすらありません。エルサレムから遠く離れたところに、野ざらしに投げ捨てられるのです。極めつけは、彼の名前はマタイの系図からも省かれるほどであります。民を顧みない君主の末路がここにあるのです。
 さて、エホヤキムの浅はかな反逆の結果、バビロンによる事実上の報復を受けることとなったのは、エホヤキムの子エホヤキンでした。バビロンは再び攻め上り、エルサレムは完全に包囲されてしまいます。エホヤキンは降伏して捕虜とされ、民とともにバビロンに捕囚されます。第2回バビロン捕囚です。この時の捕囚は大変大規模なもので、バビロン王はエホヤキンと共にユダの国の主だった者たち(高官、有力者、職人や鍛冶)をバビロンへと連れて帰り、ユダの地に残ったのは貧しい民衆のみとなりました。このエホヤキンに向けて語られた預言がエレミヤ22:24以下に記されます。「あなたと、あなたの産みの母を、あなたがたが生まれたところではない、ほかの地に放り出し、そこであなたがたは死ぬことになる。彼らが帰りたいと心から望むこの地に、彼らは決して帰らない。」この預言の通りエホヤキンは生きて祖国に帰ることはありませんでした。けれど、主は憐み深い方でした。30節には「彼の子孫のうち一人も、ダビデの王座に着いて栄え、再びユダを治める者はいないからだ。」とありますが、確かにこの予言通りユダ王朝は滅びます。しかし彼の子孫から、やがて王の王であられるイエス様がお生まれになるのです。
 さて、政治を司る王に対する神からの命令は22:3にありますように、「公正と正義を行い、かすめ取られている者を、虐げる者の手から救い出せ。寄留者、みなしご、やもめを苦しめたり、いじめたりしてはならない。また、咎なき者の血をここで流してはならない。」というものです。これは時代を超えて、世の統治者に求められる役割です。政治は公正と正義、そして福祉のためにあると主ははっきりと語っておられるのです。けれど、ユダの王はどうだったでしょう。自身の利得のために政治を利用し、また個人的な野心やプライドで国の舵取りを行い、結果、国を滅ぼすこととなりました。聖書は世の権威に従うようにと言います。けれど、政治が「公正と正義、そして福祉」のために働かない時には、預言者はその誤りを正すために警告する使命を帯びているのです。教会は現代における預言者です。語るべき言葉を発するために大切なことは、神のことばで警告するということ。そして、私たち自身が公正と正義と福祉に励んでいるということです。「あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい。」(第1ペテロ3:15)とありますが、弁明できる用意とは単に字面だけのことではありません。語る言葉に説得力を持たせるのは、その人がその言葉通りに生きているかどうかです。私たちが今日御言葉に従順であることが問われるのです。

201011 ルカ4:31-37 「悪霊は平伏せど」

ルカ4:31-37 「悪霊は平伏せど」

 カペナウムの会堂で教えておられるとき、そこに汚れた悪霊に憑かれた人がおりました。その彼が大声で叫びます。「ああ、ナザレの人イエスよ、私たちと何の関係があるのですか。私たちを滅ぼしに来たのですか。私はあなたがどなたなのか知っています。神の聖者です。」ぎょっとする場面です。会堂中に緊張が走ります。すると、イエス様は彼に叱って言いました。「黙れ。この人から出て行け」悪霊は、その人を人々の真ん中に投げ倒し、何の害も与えることなくその人から出て行ったのでありました。
 悪霊はイエス様の存在を認めて、叫ばずにはいられませんでした。と言うことは、イエス様が来られなかったら、悪霊はわざわざ自分の存在を顕わにするような行動を取らなかったのではないでしょうか。会堂の中にまでこの男性が入ってきているということは、誰もこの人が悪霊に憑かれていると気付いていなかったのではないでしょうか。「黙れ、この人から出て行け。」とイエス様がおっしゃって、その人が人々の真ん中に投げ倒されて、その後、彼の落ち着いた様子を見て、初めて、この人が悪霊に憑かれていたと気付いたのではなかったでしょうか。考えてみますと、これはとても恐ろしい話だと思います。私たちは、悪霊は荒野に現れると思っていないでしょうか。けれど違うのです。悪霊はどこにでも現れます。人中に紛れて、人々を惑わす機会を覗っているのです。この悪霊が姿を表に出したのは、他でもない会堂なのです。神のことばが語られ、神の名が賛美される会堂においてです。まさかと思われるでしょうか。しかし悪霊は神と人の関係を引き離すことを企みます。そして人と人を争わせることを企てます。ですから悪霊は、神の民をこそ惑わそうと機会を覗っているのです。
 だから悪霊を恐れましょうと言いたいのではありません。むしろ逆です。紛れ込んでいた悪霊が名乗らずにはいられない絶対的権威がイエス様にはあると言いたいのです。イエス様がそこにおられるとき、悪霊はその権威の前にただひれ伏すしかできないのです。そのお言葉一つで退散するしかないのです。私たちは悪霊を恐れます。けれど、悪霊はイエス様を恐れているのです。ですから大事なのは、私たちがイエス様と共にあるということです。悪霊は、私たちの目を反らさせて、イエス様以外の何かに向けようとしているのです。
 さて、それにしましても、イエス様の本質を見抜いているのが悪霊しかいなかったという事実を見過ごすわけにはいきません。イエス様の言葉を聞いて、人々は感心し、称賛いたします。すごい教えだ。感動的な話だ。けれど、本当にイエス様のことばを理解するなら、私たちはこの悪霊に憑かれた人のごとく、イエス様の前にひれ伏すしかないはずなのです。悪霊の叫びは、イエス様の本質を誰よりも理解しています。イエス様のことばは、すごいとか、感動したとかで収まることばでは無いのです。自らの罪を告白せざるを得ないはずです。主の御名を称えずにはいられないはずです。
 悪霊はイエス様のことばには権威があると認めておりました。お言葉一つで自らが追い出されることを知っておりました。それに比べて、人々はどうだったのでしょう。すごいとは思った。驚きもした。只者ではないと心から思った。けれど、それだけです。自らの罪を探り、主の救いを求めて、その足元にひれ伏すことはしなかったのです。その権威が自らに向けられることは想像できなかったのです。まるで、演劇を見る観衆のように、目の前の出来事を噂のタネとして話すしかできなかったのです。それは彼らが自らの内にある罪を認めてはいなかったからです。危機感が無かったからです。悪霊はそうはいきません。彼らはいつ裁かれるか、いつ滅ぼされるかと、絶えず危機感を覚えておりました。だからいち早くイエス様にひれ伏したのです。思い出してみますと、イエス様に先立って神より遣わされたのは、バプテスマのヨハネ。彼は悔い改めを告げ知らせたことでした。己の罪と向き合わせたのです。私たちが、イエス様のことばをすごいすごいと聞いている限りは、一時の感動でしかありません。私たちが神の権威に正しく畏れる時にこそ、私たちはそこに主の贖いと救いを見ます。それゆえ、私たちの生き方が変えられるのです。

201004 ルカ4:22-30  「歓迎しない民」

ルカ4:22-30  「歓迎しない民」 

 イエス様の教えに、他のガリラヤ地方での反応と同じくナザレの人々も、その恵みの教えに驚き褒め称えました。ところが、しばらくすると彼らは全く反対の反応を示します。イエス様をなじり始めるのです。評判のイエスが、実は自分たちの町で大工の息子だったあのイエスだと皆が気付き始めたからです。「この人はヨセフの子ではないか」彼らの内にある偏見が、どれほど素晴らしい教えも、素晴らしい奇跡も、見えなくして行ったのです。
 『医者よ、自分を治せ』ということわざは、もともとは医者の不養生を指摘して忠告する言葉です。けれど、イエス様のここでのニュアンスは、信じてほしいならこの故郷でも奇跡を起こして見るがいい。という馬鹿にするような意味合いで使われています。イエス様が十字架に架かられた時に周囲にいた議員たちが、「あれは他人を救った。もし神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ったらよい。」と嘲りながら言いましたが、ちょうどそのようなニュアンスです。つまり、それほど彼らが目の前にいるイエス様を救い主だとは信じられないでいたということです。最初、その教えを聞いて驚き感心したと言うのに、であります。
 イエス様は言います。「まことに、あなたがたに言います。預言者はだれも、自分の郷里では歓迎されません。」そして、エリやが、シドンのツァレファテにいた一人のやもめの女にだけ遣わされたこと、エリシャがシリア人ナアマンだけを癒したことを例えに出しまして、人々が預言者を否定したゆえに、預言者が異国の者のために遣わされたということを語ります。つまり、あなたたちがわたしを拒むので、わたしは別の者へと遣わされる。と言っているのです。なぜあれほどまでにユダヤ人を熱狂させたイエス様の教えが、イエス様の死後、ユダヤ人ではなくて、彼らが異邦人と蔑んだ人々の間で広まっていったのか。それは彼らが拒んだからです。彼らは「この人はヨセフの子ではないか」と言い、「ナザレから何か良いものが出るだろうか。」と言います。彼らの内にある偏見がイエス様を拒む原因となったのです。イエス様にその心中を見透かされた人たちはみな憤り、イエス様を町の外に追い出します。それだけでなく、崖の淵から突き落そうとまでします。イエス様は彼らの間を通り抜けて、難を逃れますが、故郷の人々との決定的な決別がなされて、この出来事は終わるのです。
 さて、今日の箇所には頑なな故郷の人々の様子とそれに対するイエス様の厳しい指摘が記されます。しかしです。実はこの箇所に先立つ記録として、イエス様の伝道に対しての家族や郷里の人々の様子がマルコ3:21そして31-35節に記されています。郷里で「イエスはおかしくなった」という噂が流れ、イエス様の偉大な力はサタンによるものだという噂が流れました。それを聞いて、家族は心配してイエス様を連れ戻しに行くというものです
 ということは、です。今日の箇所で、郷里に帰られるイエス様は、すでに家族や郷里の間でどのような噂が立っているか、人々の不信仰な様子をすでに知っていたということになります。イエス様が郷里に帰られる。家族の下に帰られる。それは、気が狂ったと噂する人々の中に帰ること。それは、受け入れられないと分かっている中を敢えて帰るということでした。これは驚くべきことではないでしょうか。実はこの箇所には郷里を愛し、家族に心を留められるイエス様の憐れみと忍耐に満ちた姿が記されているのです。
 「預言者はだれも、自分の郷里では歓迎されません。」とイエス様ご自身が言っておられます。過去を知っている人にとって、先にある固定観念が、邪魔をすることは確かにあるのです。しかし、だから語らなくて良いわけではありません。救われなくて良いはずなどありません。昔の自分を知っているということは、言い換えれば、私の内に起きた変化を一番良く知ってくれるということでもあります。また、普段から身近にいるということは、語るべきチャンスを逃さないということでもあります。偏見を超えて相手を認めるには、時間がかかります。きっかけが必要なときもあるかもしれません。しかし「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」とあります。諦めずに粘り強く関わり続けていくとき、きっと主は友人も家族も、関わる身近な人を救って下さるという希望があるのです。

200930 エレミヤ8 「懲らしめに込められた思い」

エレミヤ8 「懲らしめに込められた思い」

 今日のところの冒頭で、主の裁きの行き着く先が記されています。「人々は、ユダの王たちの骨、首長たちの骨、祭司たちの骨、エルサレムの住民の骨を、墓から取り出し、それらを、彼らが愛し、仕え、従い、伺いを立て、拝んだ日や月や天の万象の前にさらす。」とありますが、罪に対する責任は死んだ者にまで及ぶと言うのです。また、生き残っている者は全ての場所で死を選ぶようになるともあります。死んで責任を取るという考えがありますが、それでは何の責任も取れないと神は言われるのです。それらは責任を放棄することでしかなく、責任を取ることでは決してありません。罪ある者はむしろいのちを選ぶことでその責任を取らなければならないのです。けれど、人々は自分の好き放題に生き、その責任が問われれば、今度は安易に死を選ぶようになる。あまりに辛い現実に死んで逃れようとするのです。けれどその裁きは死して後も問われます。永遠の神への反逆は永遠の刑罰を意味するからです。
 4節から13節。裁きをもたらさざるを得ない主の嘆きが語られます。それはどこまでも立ち返ることのない民へ向けられた主の痛み。悲しみ。18節で「私の悲しみは癒やされず、私の心は弱り果てている。」とエレミヤの心境が綴られていますが、それは同時に主なる神の心境に他なりません。「人は倒れたら、起き上がるものではないか。離れたら、帰ってくるものではないか。なぜ、この民エルサレムは、背信者となり、いつまでも背信を続けているのか。」起き上がれば、帰ってきさえすれば。背信を悔い改めさえすれば。その先は言わずもがなの話です。放蕩息子を送り出した父の心境です。父はその日からずっと息子が帰るのを待ち続けました。ただ赦すために。ただ受け入れるために。主の裁きは赦すことを前提にしています。どのように厳しい裁きも、その者が立ち返ることを望んでのこと。それは全て愛から来ています。にも関わらず、一向に帰ることをしない民。「自分の悪を悔いる者は、一人もいない。」「鳥すらも自分の帰る時を守る」というのに。「しかし、わが民は主の定めを知らない。」
 そこには「平安だ、平安だ」と、安易に民の傷を手当する偽教師たちの存在がいます。そしてその甘い言葉を聞いて安心しようとする現実逃避した民の姿があります。一番の問題は、己の非を認められないことにあるのです。間違いを指摘されて、それを素直に聞き入れることができる人は幸いです。けれど、多くの人はそれが認められません。「平安を待ち望んでも、幸いはなく、癒やしの時を待ち望んでも、見よ、恐怖しかない。」とあります。なぜでしょう。試練に納得できない私たちは言います。「私たちの神、主が、私たちを滅びに定め、主が私たちに毒の水を飲ませられる。」神がそれを定めたのだ。主が毒を飲ませられるのだ。なんて酷い仕打ちなんだ。とです。けれど、そこには明確な理由があります。「私たちが主に罪を犯したから」です。私たちは物事の現象にばかり目が行って、なぜこんなことをと嘆き叫びます。けれど、その現象がもたらされるそもそもの原因には目を向けようとはいたしません。私たちは神についてあまりにも無知です。神の立場に立って物事を見返してみれば、そこには全く違う状況があります。一つの現象の中に、神は私たちと全く違うものを期待し見ておられるのです。バビロン捕囚はユダの王にとって、民にとって、ただの災厄でしかありませんでした。けれど、神にとっては民に気付かせるための懲らしめでありました。嘆くべきは滅ぼされるまで気付くことの無い己の無知でありましょう。再三に渡る忠告に耳を塞いできた恐れの無さでありましょう。事ここに至る前に、気付けたらどれだけ良かったかことでしょう。
 裁きの日がやって来ます。主の約束は確かです。私たちはその日嘆いても遅いのです。主が待っていてくださっている間に嘆くべきです。主が赦しを用意しておられる間に立ち返るべきです。明日ではない、今、主の御声に聞き従うべきなのです。

200927 ルカ4:14-21 「主の霊を受けて」

ルカ4:14-21 「主の霊を受けて」

 14節15節でルカはガリラヤ伝道がどのように人々に受け取られたのか、その総括を最初に記します。それは「評判が周辺一帯に広まった。」「すべての人に称賛された。」のです。イエス様はガリラヤにおいて、イエス様が御霊の力を施すと、たちまち人々の評判となり、イエス様が会堂で教えられると、たちまち全ての人に称賛されました。イエス様のなさること、語ることに人々は拍手喝采。5千人給食の話や4千人給食の話でもわかるように、人々はガリラヤ全土からイエス様の下に駆け付ける次第でした。けれど、彼らの内どれほどの人がイエス様の伝えた内容を理解してことでしょう。実は多くの人がイエス様の語る本当の意味は理解できなかったのです。その最たるがこのナザレでの様子に記されています。このナザレでの出来事は言うなれば、ガリラヤ人の縮図、いえ、ユダヤ人の縮図です。なぜあれほどまでにユダヤ人を熱狂させたイエス様の教えが、イエス様の死後、ユダヤ人ではなくて、彼らが異邦人と蔑んだ人々の間で広まっていったのか。ルカは、このナザレの様子を通して伝えているのです。
 すでにガリラヤで評判になっていたイエス様は、ナザレの会堂で預言書の朗読と奨励を頼まれます。その日の聖書日課はイザヤ書でした。イエス様は分厚いイザヤ書の巻き物を受け取って朗読いたします。「主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、目の見えない人には目の開かれることを告げ、虐げられている人を自由の身とし、主の恵みの年を告げるために。」人々はこの御言葉を額面通りに喜び驚いたのです。5千人給食の評判を聞いていた民からしたら、これは食べることを保証してくれているように聞こえたでしょう。また、ローマからの独立解放を願った人には、イエス様の勇ましい姿が期待されたことでしょう。治らない病を負っている者たちにとって、イエス様は最後の希望として映ったでしょうし、さらには、何の希望も持てない犯罪者たちすらにとっても、これは光指す言葉でありました。ですから、それぞれの弱い立場にいる者たちが、このイエス様の言葉にどれだけ希望を見出し興奮したことでしょう。
 けれどです。イエス様がおっしゃられた意味は果たして彼らが望んでいたものと同じだったのでしょうか。確かに、イエス様はそれらの人々に応えるべく様々な奇跡を起こされました。病人は癒やされ、貧しい者は満たされ、捕えられていた者は解放され、虐げられていた者は自由とされました。けれど、そこがゴールではありません。イエス様はただ単に人々の要望に応えるために来られたのではありません。それらの奇跡を通して、人々の心が再び神に立ち返るためであります。ですから、病気の癒やしや悪霊からの解放などはあくまでも切っ掛けの一つであって、イエス様はそれによって人々が神との関係を取り戻すことを望まれたのです。そしてまさにこれら「主の恵みの年を告げるために」、わたしは遣わされたのだ。とこうおっしゃる。つまりイエス様が最も強調したいことは、これらの働きのために、わたしは主の霊を受けて遣わされた。というその使命でありました。イエス様は単にご自身の意思で来られたのではなくて、父なる神から遣わされ、油注がれて来られたのだとおっしゃるのです。
 考えて見ますと、ルカは、イエス様が聖霊によって宿り、バプテスマを受けたとき天が開けて聖霊が降り、降りられた霊に導かれて悪魔の誘惑に立ち向かい、今また御霊の力を帯びて、良い知らせを伝えるべく遣わされるのだと記しています。つまりルカは一貫してイエス様の働きは全て聖霊と共にあった。ということを記します。そして、今その霊は、教会に降り、信仰者一人ひとりに降られるのです。ルカはイエス様の特別の使命とそれを成し遂げる根拠を聖霊によると解説し、その聖霊が私たちを共におられる。とこう語るのです。テオフィロはキリスト者の殉教すら厭わない真っ直ぐな使命感に興味と疑問を持ったことでした。何が彼らをそのように生かすのか。その答えは神の使命のもと、イエス様といつも共におられた聖霊が、信じる者と共にあるからだとルカは語るのです。
 パウロは第Ⅰコリント2:4で言います。「そして、私のことばと私の宣教は、説得力のある知恵のことばによるものではなく、御霊と御力の現れによるものでした。」どれだけ言葉が巧みでも、御霊と御力の現れによらなければその言葉は届きません。ですから、その言葉には祈りが積まれていなければなりません。その言葉には神への信頼が無ければなりません。何より、その言葉には救いの確信が無ければなりません。ですから私たちが主イエスを見て、主イエスに聞いて、その救いの確信を増し加えるのなら、私たちの言葉には力が宿るのです。