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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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201227 マラキ4:1-6 「見よ、その日が来る。」

マラキ4:1-6 「見よ、その日が来る。」

 エズラがバビロン捕囚からの第2次帰還民の帰還したとき、ユダの民は堕落しきっていました。周囲の異民族と結婚し、神殿礼拝を無視して、異教的風習に染まり、偶像礼拝に陥っていたのです。あんなにも熱狂的に神殿の再建を祝った民が、わずか半世紀で信仰を見失う。いったい何があったのでしょうか。それはゼルバベルの指導の下、神殿再建を果たしたにも関わらず、民の暮らしは改善されなかったからです。つまり、彼らは神の宮を再建すれば、神からの溢れんばかりの祝福があると期待していたのです。ハガイを通して語られた主の約束には次のようにありました。「わたしはすべての国々を揺り動かす。すべての国々の宝物がもたらされ、わたしはこの宮を栄光で満たす。──万軍の【主】は言われる──銀はわたしのもの。金もわたしのもの。──万軍の【主】のことば──この宮のこれから後の栄光は、先のものにまさる。」ところが、そうはならなかった。彼らの生活は相変わらず貧しいまま。いえ、貧富の差が拡大した分、生活はより厳しくなっていったのです。期待が外れます。一体何のために神殿を再建したのか。すべての国々の宝がもたらされるのでは無かったのか。彼らは報いてくれない神に失望して、それぞれ偶像に頼り、欲望のままに過ごして、現実逃避するようになっていったのです。この後、エズラのもとで民は再び信仰に立ち返っていきますが、それと前後するように用いられたのが、この預言者マラキでした。
 マラキ3:14-15には、当時の民の言い分が記されています。「あなたがたは言う。『神に仕えるのは無駄だ。神の戒めを守っても、万軍の【主】の前で悲しんで歩いても、何の得になろう。今、私たちは高ぶる者を幸せ者と言おう。悪を行っても栄え、神を試みても罰を免れる』と。」彼らが何に躓いたのか。彼らは信仰に躓いたのです。ちっとも変わらない生活にうんざりしたのです。悪人ばかりが得をして、正直者が損をする現実が馬鹿馬鹿しくなったのです。これは、真面目な人ほど感じる葛藤です。
 情報を握って、元手がある一部の人だけが豊かになる時代。一億総中流と呼ばれた時代はとうに去り、コロナ禍にあってますます格差は広がっていくでしょう。労働弱者は切り捨てられ、逆に切り捨てる覚悟のある者だけが生き残る。そんな時代に、隣人愛だの、奉仕の精神だのと言っていては損を見るだけ。嘘の一つもついてでも、賢く世間を渡り歩くことが大事と、世の声が聞こえてまいります。・・・最初はそんなことないと思います。損をしても仕えようと思います。けれど、一向に報われない。繰り返すほどに心が疲弊し、やがてもう、どうでも良くなってくるのです。
 Ⅰヨハネ2:16には「すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢は、御父から出るものではなく、世から出るものだからです。」とあります。私たちは世のものに引っ張られるのです。だからと言って霞を食べて生きることはできません。私たちは肉の糧を得るために懸命に働かなくてはならない。生活しなければならない。ですから世にある限り、この葛藤は切り離せないのです。なら一層のこと、それを受け入れて、毎日を欲望のままに好き放題に生きたほうがいい。そう考えてもおかしくないですし、事実、そのようにする人は沢山いるのです。Go to eatキャンペーンが始まった当初、最低金額の食事でポイントの差額を設けることが現代の錬金術と話題になりました。4人以下の静かな会食が勧められる中、例年通りに忘年会を行う議員たちもおりました。世の中は私たちに、正直者は馬鹿者だと教えているようです。色んな抜け道を使って賢く生きるのが成功者なんだと教えるようです。けれど、マラキはそうではないと語るのです。
 神に失望した民に、マラキは「見よ、その日が来る。」と警告します。私たちの生き方が神によって清算されるその日がやって来ると言うのです。私たち信仰者はここを見なければなりません。自分の好き勝手に生きる、高ぶる者、悪を行う者は全てを失います。けれど主の名を恐れ、主に従う者は永遠の祝福に与るのです。
 私たちの日常は様々な困難に満ちています。私たちは思います。信仰がなければどれだけ楽だろうか。神を知らなければ、どれだけ悩まないだろうか。けれど違います。信仰を捨てれば困難がなくなるなんてのは妄想です。なぜなら全ての者は「一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」からです。困難の無い人などいません。けれど、私たちはその困難の中でも、やがて来る栄光を見ることができます。困難は決して絶望ではないことを知るのです。
 大事なのは世の声に流されず、神の声に聞き従うことです。世の正義は過半数の正義です。それは移り変わるものです。けれど、神の正義は永遠です。ですから私たちは神の声に聞き、神の声に従うのです。

201223 ルカ2:1-21 「クリスマスの恵み」

ルカ2:1-21 「クリスマスの恵み」

 イザヤ53:2には「彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。」とあります。救い主であるイエス様がベツレヘムの貧しい家畜小屋でお生まれになり、飼葉桶に寝かされたことは、偶然が重なりあった結果のように見えて、実は全て主のご計画でありました。イエス様はどのような所でお生まれになることができました。母マリアがリラックスして出産できる我が家を選ぶこともできましたし、誰もがその誕生に平伏すように王宮の特別な一室でお生まれになることもできました。けれど、あらゆる可能性の中で、イエス様は飼葉桶に寝かされることを選ばれました。そこには、確かにイエス様の意思があり、目的があります。イエス様の誕生はそのような貧しさの中でなければならなかったのです。
 当時の羊飼いは人々から阻害されていた職業でした。羊飼いに対する私たちのイメージはとても牧歌的かもしれません。大きな家畜小屋に羊を住まわせ、日中は羊を連れて野原を駆け巡り、夜は小屋に帰って来て、搾り取った乳でチーズなどをこしらえる。アルプスの少女ハイジのおんじのようなイメージです。けれど、当時のイスラエルでの羊飼いは全く違います。彼らは土まみれ、汗まみれになりながら、何か月も山の中に点在する放牧地を転々と渡り歩くのです。夜は石で即席の囲いを作り、その中に羊を入れて、自分はその入り口に陣取って、野宿をいたします。彼らは決して優男ではありません。筋骨隆々、髪も髭も伸び放題。獣臭を体に染み込ませ、しかも神殿礼拝を守らない彼らの存在は、多くの人には罪人であり野蛮人と映り避けられておりました。その証拠に国中が大騒ぎとなる住民登録に彼らは加わっていません。彼らは相も変わらず野宿をして羊の番をしています。つまり彼らは住民として数えられなかったのです。彼らは社会から、人々の中から避けられ、失われた者とて扱われました。彼らの人生にスポットライトは当たりませんでした。だからこそイエス様の誕生は家畜小屋でなければならなかった。だからこそ飼葉桶でなければならなかった。なぜなら、それ以外の場所でイエス様が生まれていたら、羊飼いたちは到底、救い主のもとには来れなかったからです。イエス様が立派な宿屋でお生まれになっていたらどうでしょう。扉のかかった屋内でお生まれになっていたらどうでしょう。羊飼いたちは門前払いをされて終りです。けれど、イエス様は貧しい家畜小屋にお生まれになった。だから羊飼いたちはイエス様にお会いすることができた。救い主の誕生に出くわすことができたのです。
 しかしこのことは偶然ではありません。イエス様誕生の最初の目撃者として、彼ら羊飼いが選ばれたということは、主のご計画に他なりません。
 イエス様がベツレヘムの家畜小屋でお生まれになった日の晩、ベツレヘムの郊外で、野宿で羊の夜番をしていた羊飼いの下に、御使いが現れて言いました。「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。」「あなたがた」とは誰のことでしょうか。「この民全体に与えられる、大きな喜び」とありますから、それは神の民イスラエルだと言われるでしょうか。もっと大きな視点に立って、この世界の全ての人を指して、「あなたがた」なんだと言われるでしょうか。確かに神の救いのご計画は、イスラエルであり、全世界でしょう。けれど、やっぱりここでは「あなたがた」とは「羊飼いたち」を意味しているのです。彼ら羊飼いを、イスラエルや全人類の代表とするのは、いささか無理があります。彼らは代表どころか、神の民イスラエルから爪はじきにされていた人々だからです。むしろ彼らが代表しているのは数に数えられない者。陽の当たらない者たち。そのような者たちに向けて、主は「あなたがたのためのしるし」と語られるのです。
 ですから主イエスの誕生の知らせが、誰よりも先に羊飼いのもとにあったことは、主イエスが貧しい者と共にあるということを意味しているのです。富んでいる者ではなく、貧しい者。喜んでいる者ではなく、悲しんでいる者。賞賛を浴びている者ではなくて、人知れず失われている者。後にイエス様は「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」(ルカ19:10)と言われましたが、まさしく、イエス様はその誕生の時より、失われた人と共におられる方だったのです。

201220 ヨハネ3:16 「愛をもたらす主」

ヨハネ3:16 「愛をもたらす主」

 今日の箇所には、父なる神がイエス様をこの世に送られたことの意味とそこに込められた神の愛が記されています。父なる神が世を愛された。そしてその証拠として、御子が与えられた。だからイエス様は神の愛の形ある姿だと言うのです。神の愛と聞きますと、どれほどの恵みだろうかと期待致します。いったい何をくださるのか。けれど、実際はそんな平和な意味ではありません。「そのひとり子をお与えになったほどに」とあります。犠牲にしたほどにという意味です。見殺しにしたほどにと言ってもよいでしょう。父なる神は、御子イエス様を私たちの罪のための犠牲とするほどに、私たちを愛されたのであります。
 イエス様は十字架にかかられる前、ゲツセマネで祈られました。「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」(ルカ22:42)しかし盃は取り除けられませんでした。また、十字架につけられて後にも主は言われました。「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか。」けれど、やはり父なる神は返事をされませんでした。愛する子の悲痛な叫びを無視し続ける。それはどれほど辛いことでありましょう。
 神様はご自身の内に交わりを持つ三位一体のお方です。ですから神は相互間の愛をご存じであり、時に怒られ、時に妬み、そして悲しまれるのです。自分が造ったこの世界をご覧になって非常に良いと感動するお方であり、ご自信が造られた人間が裏切る時、心から悲しまれ、怒られる方です。ですから、何が言いたいかと言いますと、父なる神がイエス様の叫びを聞いて、悲しまないはずが無いということです。心を痛めないはずがない。父なる神にとって、他の何と比べることすらできない大切な存在が、御子イエス・キリストなのです。
 その父なる神が、イエス様を見捨てられる。「それは・・・御子を信じる者が一人として滅びること無く、永遠のいのちを持つため」であると御言葉は言います。つまり、それほどに神は、私たちを愛してくださっているということです。
 誰かのために自らの命を投げ出すということは、もしかするとあり得ることかもしれません。大事な家族を守るため、大好きな人を救うため、掛け替えのない我が子を助けるために、自らの命を犠牲にする。それはとても辛い決断ですけれども、でもそれは確かにあり得ることです。しかしです。もし自分ではなくて、自分の最も愛する人の命を投げ出せと言われたら、どうでしょう。しかも、その助ける相手が愛する我が子ではなくて、赤の他人だったらいかがでしょう。皆さんの愛する人を犠牲として差し出すことができるでしょうか?それは自分の命を差し出すよりも、よっぽど難しいことではないでしょうか。・・・けれど神はまさしくそういう決断をなされたのです。イエス様をこの世に送るということは、そういうことです。神は私たちのために、愛する我が子を犠牲としたのです。
 もちろん、このことは犠牲となられるイエス様ご自身も承知のことです。ピリピ2:6-8には「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。」とあります。それは父なる神の御計画であり、子なるイエス様の決断でもあるのです。全ては私たちに救いをもたらすためにです。全ては私たちへの愛のゆえにです。
 愛とは相手のために背負う犠牲の大きさである。これが聖書の語るところです。これに比べれば世の中が語る愛のなんと薄っぺらいことでしょうか。真実の愛がもたらされる。神の犠牲が見える形として贈られる。それがこのクリスマスの出来事です。私たちは喜ばしいクリスマスを祝いながらも、この神が負われた犠牲の大きさを忘れるわけにはいきません。私たちを生かすために、尊い血が流されたのです。であるならば、私たちは精一杯生きねばなりません。キリストの犠牲を無駄にしないために、私たちは贖われた命を精一杯、神に感謝して過ごしましょう。この愛に倣う者となりましょう。

201216 ホセア11 「父の愛」

ホセア11 「父の愛」

 ホセア書では主が、預言者ホセアに敢えて、ふしだらな女と結婚するように命じることで、主がご自身の民の浮気に耐える痛みを体験させようとしています。本来なら恨んでも構わない。見捨てても構わない。そんな姦淫の妻に憐れみをかけられる主。ホセアは自分の体験の中でそれがいかに苦しく、難しい決断かを知っています。神の命令がなければホセア自身すすんでゴメルを受け入れることはあり得なかったでしょう。いえ、主の命令があったところで、ホセアにとってそれは如何に大きな決断を要したことでしょう。ゴメルのゆえに味わった屈辱や仕打ち。事あるごとにそういった悲しみが湧き上がってきます。けれどそのたびにホセアは主が負われた痛みや悲しみを覚え、へりくだって受け入れていくのです。ちょうど私たちが試練の中で主イエスの十字架を見るのと同じです。
 ところがこの11章で、主の御心は、姦淫の妻を想う夫ではなく、我が子イスラエルを想う父の愛として主は語られるのです。つまり、放蕩息子を待つ父の姿です。神は私たちに親の愛を持って接してくれているのです。ですから、神は私たちがどれほど反抗しようとも、どれだけ罵声を上げようと、どれだけ他所の親に心を向けようと、その根本に愛がある。だから痛みを負って叱りつけ、悲しみを抱えて待ち続けるのです。神はいつまでもその最初の喜びを忘れません。イスラエルをエジプトから呼び出し、ご自身の民とされたそのことをです。神のうちには麗しい家族の記憶があるのです。幼子は自分では何も出来ず、手間がかかるだけの存在です。けれど全面的に親の愛を信頼し、その身を委ねます。親はそんな我が子に手をかける一つ一つを愛おしく思います。主はその麗しい親子の姿を忘れることはありません。だから、我が子がどれほど裏切ろうと、遠ざかろうと、関わり続けます。うるさがられようと、憎まれようと、教え続けます。親であることを辞めません。
 罪にまみれた私たちがなぜ赦されるのか。それは根本に、この神の愛があるからです。私たちが親の目に叶う子どもだからではありません。私たちが清廉潔白で一途な妻だからでもありません。神は最初から私たちを罰したくないのです。私たちを受け入れたいのです。放蕩息子がどれほど自らの過去を悔いようと、そこに父の許しがなければ、子としてやり直すことはできなかったのです。
 反抗的な子に手を焼く親心は痛いほどにわかります。反抗期の子どもは親が一番癇に障る言い方をしてきたりします。親としての忍耐が試されます。親だからとて、時に苛立ち、時に感情的になってしまいます。もう本当にムカつきます。思わず手が出ることもあります。けれど、だからこの子が生まれなければ良かったとか、いなければ良いのにとは思いません。腹が立ち、感情が高ぶります。けれどそれは、その子がわかってくれるのを期待するからです。反省してくれることを信じているからです。それゆえ裏切られもし、衝突も起きます。けれど本気で関わるところに、衝突は起こるものなのです。同様に、父なる神は私たちに罰を与えます。懲らしめられます。けれど、それは私たちを信頼し、期待しておられる表れでもあるのです。神は懲らしめながら、迎える準備をされています。試みと同時に赦しを用意しておられます。神は最初から私たちを受け入れるつもりでいるのです。
 もちろん、私たちはこの神の愛に甘えることはできません。それは確かに親の愛ですが、同時に私たちの振る舞いは夫の愛を踏みにじる姦淫の妻のそれなのです。私たちはそこを見るべきだし、正さなければなりません。けれど、根本的な神の愛がある。これを知っていなければ、私たちがどれほど自らを悔いようとも、私たちが神の義にたどり着くことは無いのです。あるいはホセアのような体験を通して主の痛みを知ることはできるかもしれません。神の悲しみに触れることはできるかもしれない。けれど、神との関係を取り戻すことは、神の愛によらなければあり得ません。そして、神はまさにその愛を持って私たちを待ち続けてくださるのです。

201213 ヨハネ16:20‐22 「喜びをもたらす主」

ヨハネ16:20‐22 「喜びをもたらす主」

 ヨハネ16:21でイエス様は子の出産を譬えにして喜びについて語っています。「女は子を産むとき、苦しみます。自分の時が来たからです。しかし、子を産んでしまうと、一人の人が世に生まれた喜びのために、その激しい痛みをもう覚えていません。」出産は命がけです。大きな大きな痛みと苦しみを伴います。ところが、不思議なことに、母親は生まれた子の産声を聞き、その子を胸に抱いた時、その大変な出産の苦しみを忘れるというのです。もちろん痛みが消えてなくなるわけではありません。けれどそれ以上の喜びを感じる。もたらされる喜びによって、苦しみが上書きされると言うのです。さらに言うと、その喜びがあると知っているから、それ以前の苦しみに耐えられます。その苦しみには意味があるからです。それは産みの苦しみ。やがてそれは産みの喜びと変えられる。だから耐え得るのです。
 なぜ救い主の誕生が民の喜びなのでしょうか。そこには救い主の誕生が、民全体の喜びである特有の事情があると思います。つまりユダヤの人々の中では、救い主が来られるという預言が長く語り継がれてきたという歴史があること。そして、そのように語り継いできた背景には、まさに救い主を必要とした過酷な歴史があったということです。つまり、ずっと人々が救い主を待ち望んでいたという下地がある。だから、その実現が大きな喜びだというわけです。救い主の誕生によってこれまで待ち望んできた歴史が意味を持った。無駄ではなかったことを知るのです。けれど今の日本人には、そういう下地がありません。ですから、救い主が来られると聞きましても、多くの人は、「ああ、私には関係がありません」と答えるのです。喜びの知らせとは受け取ることができません。これは大変もったいないことです。と言いますのも、喜びの知らせを受け取ることができないでいますと、今の苦しみに意味を見出せません。苦しみに意味が見出せなければ、それに耐える力は沸いて来ません。その苦しみはただただ不幸でしかない。そして我慢でしかない。そして何のために耐えるのかがわからなくなるのです。
 イエス様は先ほどの出産の譬えに続けて次のように言われます。「あなたがたも今は悲しんでいます。しかし、わたしは再びあなたがたに会います。そして、あなたがたの心は喜びに満たされます。その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。」このイエス様のことばは、十字架を目前にしたイエス様が、残される弟子たちに向けて語られていることばです。つまり、これから起こるイエス様の死について、それは産みの苦しみだと言っているのです。イエス様が死なれる。イエス様がいなくなる。弟子たちにとってそれは永遠とも思える悲しみをもたらす出来事です。けれど、「わたしは再びあなたがたに会います。」とイエス様はおっしゃいます。「あなたがたの心は喜びに満たされ」「その喜びをあなたがたから奪い去る者は」無いとおっしゃられます。永遠から見ましたら、私たちの地上の歩みはまるで一瞬。今私たちが抱える悲しみも苦しみも決して永遠のことではなくて『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見る』それはひとときのことであり、必ず終りが来ることであり、やがては永遠の祝福へと入れられると、こうおっしゃられるのです。つまり、イエス様は今の苦しみ、今の悲しみに意味を見出して下さるのです。それは再びイエス様と会い、喜びに満たされるための過程だと言うことです。
 出産の祝福は、苦しみを通ったがゆえです。命を懸けて苦しみを通るその先に、新しい命の重さ、尊さを知るのです。人は、苦しんで苦しんで産まれてくるのです。だからそこには生まれ来る命に対する畏敬があります。愛しさがあります。イエス様はこれから起こる出来事を、産みの苦しみと例えました。ご自身が十字架において命を捨てることは、産みの苦しみだと言われる。それは言い換えるなら、その結果生まれる新しい命に対する慈しみだと言うのです。その苦しみはもう止めてしまいたくなるような苦しみ。神の御子のイエス様が「みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。」と願われるほどの苦しみです。それでもイエス様がこの苦しみを投げ出さないのは、新しく生まれる神の子への慈しみの故です。
 ですから、私たちが苦しむとき、イエス様もまた苦しんでおられるのです。私たちがイエス様と引き離されて、大きな悲しみを抱えるとき、祈っても聞かれず、願っても聞かれない。そういう経験をするとき、私たち以上にそのことを苦しみ、悲しんでおられる主がおられるのです。そしてその先には苦しんでくださったイエス様との永遠の再会がある。これを喜びと言わずして、何と言うのでしょうか。

201209 ホセア5 「尚も向けられる主の憐み」

ホセア5 「尚も向けられる主の憐み」

 ホセアは北イスラエルの預言者で、ヤロブアム2世の治世の終わりから、北王国滅亡の直前まで活動したと言われています。ヤロブアム2世は父と共に、シリアとの戦いに勝利して失っていた国土を回復させただけでなく、アラムの主都ダマスコやハマテを制圧。さらに父ヨアシュの死後はハマテからアラバの海までイスラエル領土を回復させました。ソロモン王以来の領土の回復です。ヤロブアム2世の時代、イスラエルは領土的にも経済的にも絶頂を迎えるのです。預言者アモスやホセアの登場はまさにこのイスラエルの絶頂期においてでした。二人の預言者は繁栄を横臥するイスラエルに、宗教と道徳の腐敗を非難し、神の審判を預言するのです。
 今日の箇所の5章はまさしく、イスラエルの裁きが預言された箇所です。4章からずっと、主はイスラエルの罪を指摘します。ここで特徴的な言葉は、姦淫です。イスラエルの民は姦淫を続けていると主は繰り返し指摘します。当時のイスラエルは、バアル信仰が混ざり合い、神殿娼婦との性的祭儀が行われるまでに堕落していたのです。そして、それゆえ、「あなたがたに裁きが下る。」「わたしは彼らをことごとく懲らしめる。」「エフライムは懲らしめの日に、恐怖のもととなる。」「エフライムは虐げられ、さばかれて打ち砕かれる。」「わたし、このわたしが引き裂いて歩き、さらって行くが、助け出す者はだれもいない。」徹底した裁きの宣言が語られます。しかし、最後の1節に慰めを得ます。「彼らが罰を受け、わたしの顔を慕い求めるまで。」この裁きは期限付きなものだと言うのです。「彼らは苦しみながら、わたしを捜し求める」からと言うのです。ホセア書の特徴は主の徹底した裁きの宣告とその裏にある主の徹底した愛です。愚かで救うに値しないイスラエルの民に尚も向けられる主の憐み。これがホセア書に一貫して流れるテーマです。
 ホセアという預言者は大変特徴的な人物で、彼は神の命によって姦淫の女を妻とするように命じられます。ユダヤ社会においてこれはあり得ないことです。律法では姦淫の女は石打ちすることが定められていたのです。ホセアと言う人の出自は明らかではありませんが、一説には父ベエリは第Ⅰ歴代誌5:6で記されるルベン族の族長ベエラだとも言われています。わかりませんが、もしもそうだとすると、ホセアはイスラエルの律法教育を子どもの頃から受けていたと言えるかと思います。彼にとって、姦淫の女を断罪するのではなくて、妻と迎えるということが如何に規格外の命令であったことか想像できると思います。しかも、その後、妻ゴメルは3人の子が生まれますが、どうやらこの子たちはホセアの子ではありませんでした。子どもたちの名前がそれを表しています。ゴメルは結婚して尚姦淫を止めなかったのです。それだけではありません。その後ゴメルはホセアの下を去って行きます。ユダヤ社会で姦淫の妻を娶るということ自体があり得ないのに、その姦淫の妻に逃げられるということがどれほど社会的面子を失う出来事だったことでしょう。そしてホセア自身どれほど裏切られた痛みを負ったことでしょう。ところがさらに信じられないことが起きます。主はこの姦淫と裏切りの妻を、再び愛するように。とホセアに命じるのです。これは本当に試みです。葛藤があったと思います。憤りもあったことでしょう。けれど、ホセアは主の命令に従います。もう一度妻を受け入れ、愛することを決意するのです。
 とんでもない話です。ホセアの状況を我が身に思えば、到底我慢できることではありません。主はなんと酷いことをホセアに命じるのかと思います。けれど、イスラエルに対する主の姿がまさにホセアの境遇ではなかったでしょうか。妻の裏切りにホセアはどれほど傷付いたでしょう。その妻を再び受け入れるのにどれほどの決意が必要だったでしょう。主はご自身の民が裏切るのに、傷付かないはずがないのです。裏切りの民を再び受け入れるのに決意が必要でないはずがないのです。けれど主は手を差し伸べられた。愛を示されました。私たちはどこかで、主の赦しを軽く考えていないでしょうか。主を裏切ることに鈍感になっていないでしょうか。その行為にどれほど主が悲しみ、憤られておられるかを理解しているでしょうか。偶像を抱き霊的な姦淫を犯すことがどれほど主を悩まし続けていることか、私たちは知らなければなりません。そして、そんな裏切りの私たちを招き入れるために、再び手を差し伸べられた主の愛の大きさを感謝しなければなりません。主は私たちを愛するゆえに、憤り、懲らしめ、手を差し伸べられるのです。
 ホセアは再び受け入れた妻ゴメルに言います。「これから長く、私のところにとどまりなさい。もう姦淫をしたり、ほかの男と通じたりしてはいけない。私も、あなたにとどまろう。」この言葉は、主が私たちに向けられる言葉でもあります。「もう姦淫をしたり、ほかの男と通じたりしてはいけない。」私たちは主の取り扱いに感謝し、その愛のうちに留まりたいと思います。

201206 ルカ1:78-79 「平和をもたらす主」

ルカ1:78-79 「平和をもたらす主」

 ザカリヤのこの預言の結びは、救い主が私たちの足を平和の道に導くというものです。この背景には、私たちが暗闇と死の陰に覆われ、平和の道を歩んでいないという現実があるからです。この地は目を覆いたくなる闇に包まれている。イザヤはこの認めがたい真実について預言しています。イザヤ59:8「彼らは平和の道を知らず、その道筋には公正がない。自分の通り道を曲げ、そこを歩む者はだれも平和を知らない。」イザヤの預言から凡そ2700年。人は全く変わっていないことを実感いたします。皆が身勝手で思い思いに振る舞い、そこには何の公正もありません。まぁ当然です。この世界は真の神を否定し、自らを神と称して己の人生の主人公を決め込んで、一人ひとりが自分だけの正義を振りかざしているからです。公の正義ではなく、私の正義がまかり通るところに、平和があるはずがありません。平和とは、そこに公正な裁きがなされて初めて実現するものです。例えば、クーデターが起こって政府を倒して、では平和が訪れるかと言いますと、そうはなりません。2010年から2012年にかけて、アラブの春と呼ばれる民衆デモが北アフリカ一帯で起きました。長期独裁政権を打倒すべく、各地で民衆によるクーデターが勃発し、次々と政権を打倒していきます。けれど、結果もたらされたのは平和ではなくて、無秩序でした。多くの国が内戦に発展して行きました。平和は正義の応酬によってはもたらされません。平和は振り上げた拳を手放すところに生まれるのです。大規模な災害が起きて、皆が助け合わなければと言っているその裏で、人々の略奪行為が横行したりもします。秩序が失われ、公正な裁きが行われなくなったところでは、平和はかえって失われることとなるのです。
 ザカリヤが預言した当時、パックス・ロマーナ(ローマの平和)と呼ばれる、ローマの黄金期でありました。各地でローマ風の都市が建設され、道路が整備され、地中海海路が安定し、戦争に明け暮れたローマに200年続く平和な時代が訪れたのです。けれど、それはあくまでもローマから見た平和です。そのローマの平和の陰には、自らの国も文化も誇りもことごとく奪われた沢山の国々がありました。彼らにとってローマは支配者であり、略奪者でしかありません。彼らにその現状を平和と称する声はありません。それはここユダヤにおいてもそうでした。特にガリラヤの地は民族主義の強い地域で、ローマやヘロデに対する反乱が度々起きる風土でした。ですから彼らはこの地を再び自分たちのものへと取り返すべく、民を導く救世主の存在を待ち望んだのです。
 そんな彼らのもとに、ザカリヤを通じて平和をもたらす救い主の誕生が語られたのです。しかし、このお方は、彼らが望むような祖国を取り戻すための先導者ではありません。イエス様は一部の正義に加担するようなお方ではありません。
 平和とはどのようにもたらされるのでしょうか。それは贖いと裁きによってです。イザヤは言います。「主は彼らの仕打ちに応じて報い、はむかう者に憤り、敵に報復し、島々にも報復をされる。」「しかし、シオンには贖い主として来る。ヤコブの中の、背きから立ち返る者のところに。」主の公正な判断で、この世はその仕打ちに応じて報いられるのです。刃向かう者には憤りを、背きから立ち返る者には贖いをです。そこに民族の違いはありません。身分や性別、年齢の違いもありません。あるのは主の正義のみ。主は一人ひとりを公正に裁かれるのです。だからこそ、そこには秩序と納得が生まれるのです。
 この主の公正の裁きは私たちにも向けられていると聞けば、いかがでしょうか。身が震える思いでしょうか。けれど、もし私たちが私の義を捨てるなら、私たちは主の義を得るのです。イエス様は悔い改める者の贖いとなられました。神の怒りをその一身に背負われました。イエス様は唯一神の義に釣り合うお方です。私たちはこのお方の義のゆえに神との平和を得るのです。

201202 エレミヤ52:1-16 「主の言葉に従う者が神の民」

エレミヤ52:1-16 「主の言葉に従う者が神の民」

 51章の終わりに「ここまでが、エレミヤのことばである。」とあります。ですから、52章はエレミヤによるものではなくて、エレミヤ以外の人が付け足した記述だということです。では、なぜこのような記述が付け足されたのでしょうか。それはエレミヤの預言の結末を記す必要があったのはないでしょうか。この章は、第二列王記24:18-25:30とほぼ同じ内容が記されています。おそらくは第二列王記の記述を引っ張ってきてエレミヤ書の終わりに付け足したのだと思われます。ここには、エホヤキン王が囚えられて37年目のことが記されていますから、この付け足しがされたのも、それ以降ということになります。つまりこれを読む民はバビロンで捕囚生活を送っていたということです。著者は今の困難な捕囚生活に耐えている民たちに、この原因が単なる戦争に破れた。軍事力が劣っていたということではなくて、エレミヤの預言に一向に耳を傾けず、神に背を向けて、傍若無人な態度を取り続けたことの結果であることを記しているのです。

 さて、主の預言者エレミヤは、バビロンに従うことが主の御心であると訴え続けました。そして、図らずも、若き王エホヤキンはバビロンに捕囚され、その地で手厚い待遇を受けることとなります。52:28以下です。彼はその地で子孫を設け、やがてその子孫からゼルバベルが起こり、エルサレム帰還を果たすこととなります。一方、バビロンからの独立を目指して画策したゼデキヤの末路はどうだったか。彼の最後は悲惨なものでした。自分の息子たちの死を最後に、彼の視界は完全に奪われます。彼は息子の死の記憶を目に焼き付けて、残りの生涯を過ごすことになるのです。
 二人の王に従う者たちの末路も同じでした。エホヤキンと同じく、捕囚された民はバビロンで生き伸びます。そして異国バビロンの地で、真の神への信仰が受け継がれるのでした。エゼキエルやダニエル、エステルやモルデカイと言った人々は、全て捕囚の地の信仰者でした。けれど、ゼデキヤ王と共に、この地に残った民はどうだったでしょうか。エルサレム帰還を果たすユダの民を最も毛嫌いし、敵対したのはこの残りの民でした。彼らの内に、正しい信仰は引き継がれませんでした。
 ユダの国は信仰こそがそのアイデンティティです。たとえ国を追われようと、信仰を引き継ぎ、神とともに歩む時、そこがどこであれ、彼らは神の民イスラエルでした。しかし、その地に留まり、神を忘れて過ごす時、彼らはすでにイスラエルではなかったのです。エレミヤの預言は一貫して「カルデア人のところに出て行く者は生きる」(38:2)というものでした。主の言葉に従う者が神の民なのです。
 国とは土地ではありません。民です。キリストの国は信仰者の群れです。地上における教会です。この交わりと共に歩むことが大事なのです。

201129 イザヤ9:1-7 「希望をもたらす主」

イザヤ9:1-7 「希望をもたらす主」

 今年は新しい手作りのアドベントクランツを用意していただきまして、ロウソクを灯しています。このアドベントクランツのロウソクにはそれぞれに意味がありまして、一つ目のロウソクは「希望」。二つ目は「平和」。三つめは「喜び」。四つ目は「愛」を意味しているのだそうです。つまり主のご降誕によって、この地に希望、平和、喜び、愛がもたらされる。今日は第一主日ですので、希望の火が点っているわけです。イエス様の誕生。それは人類に希望をもたらす光だと言うことです。
 イザヤ書9:6の御言葉は救い主誕生についての最も有名な預言と言っても良いかと思います。この預言がユダ王国に語られたのはイエス様誕生の700年以上も前のことです。ソロモン王以降たもとを分かれた北イスラエル王国がいよいよアッシリアによって滅ぼされる。そしてその後、このアッシリアの侵略の手はユダ王国にまで伸ばされていくのです。あれほどまでに競い合い苦汁をなめさせられたイスラエルがいとも簡単に滅ぼされていく様子をユダの民は見ていきます。同じ神を信じたはずの国。ダビデ王国の歴史を共に持つ国がいとも簡単に滅ぼされる。誰もが、次は我が身かと恐怖に身を震わせたのです。神様なんて言ってられない。祈ってる場合じゃない。現実の困難に目を開かなければ。北の大国アッシリアと南に君臨するエジプトに挟まれて、ユダの国は右往左往、綱渡りのような外交でこの難局を乗り切ろうとします。具体的には、ヒゼキヤ王の時代。アッシリアの王セナケリブが次々とユダの町を征服し、ついにエルサレムまで包囲されるという窮地に陥ります。ヒゼキヤ王を初め、皆がエジプトに援助を求めることを良しとします。けれど、イザヤだけははっきりと言いました。北でも南でもない。天に寄り頼めであります。イザヤの力強い預言にヒゼキヤ王がひざまずいた時、御使いにより一夜にして18万5千人のアッシリア兵が討たれて、ユダは窮地を脱したのです。
 イザヤの力強い言葉の根拠。それこそが、先立って与えられた救い主の預言です。救い主が来られる。だから天に寄り頼めなのです。今は救いが無いように見えるかもしれない。今は闇の中に感じるかもしれない。けれど「闇の中を歩んでいた民は大きな光を見る。」とあります。「ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。」と言われています。だから、信じて留まろう。神に寄り頼んで耐えよう。これが彼らの合言葉だったのです。
 イエス様が誕生される時代、大国の支配から独立して100年続いたハスモン王朝が、ローマと、その後押しを得たヘロデによってかすめ取られてしまいます。ヘロデは王国の各地で巨大な建造物を築き、その莫大な費用を民から徴収します。きらびやかな王宮や神殿が建てられ、各地から巡礼する者が訪れ、エルサレムにそびえ立つヘロデの神殿は世界にその名を馳せます。けれど、その足元では貧困に喘ぐ無数の民が生まれたのです。神殿の周りには物乞いたちが並び座り、町の外には追い出された人々の集団がそこかしと暮らします。ユダヤは再び闇の中をさまよいます。そのような困難の中で、人々は救い主の誕生を待ち望みます。一夜にしてアッシリア軍を滅ぼされた神が、ひとりの男の子を与え、その子に主権を与えると語られたからです。北でも、南でもない。天を寄り頼め。イザヤの救い主誕生の預言は、時代を超えて、出口のない闇にさまよう全ての民の希望となって輝くのです。
 私たちがイエス様を信じているから、コロナウィルスにかからないということではないでしょう。天を見あげていれば、困難が立ちどころに消え去るということではないでしょう。世の中には不条理がいっぱいです。けれど、だからこそ、その暗闇の中で私たちはイエス様という光を見るのです。なぜなら不条理に思うその中をイエス様も立たれたからです。キリスト者は病気にかからないわけではありません。困難に合わないわけでもありません。けれどその困難の中で、私たちは罪から離れる手立てを知るのです。義のために生きる術を手に入れるのです。現状を嘆いて腐るばかりであった私たちが、そのところでイエス様と言う希望を見ることができます。そして遂にはその困難すらも感謝することができるのです。
 大事なのは問題の渦中にも主の希望を見つめるということです。なぜなら生きている限り問題は無くならないからです。一つの問題が去っても、また一つ。罪の世の中に生きるとはそういうことです。けれど私たちはやがて新しい地を踏むのです。ですから、もちろん問題の解決に私たちは奔走しますけれども、それと同時に、その渦中にあってキリストと共にある幸いを見出したいのです。