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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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210131 ルカ6:12-19 「12弟子の選び」

ルカ6:12-19 「12弟子の選び」

 イエス様が山に登られるのにはそれなりの理由があります。それは祈られるためです。イエス様は重要な局面になると必ず山に登られて、そこで祈られました。今、イエス様が山に登られたのは、この12弟子の任命がとても重要な出来事だからです。これまでも弟子の失態はイエス様への批判の材料に利用されました。それが中心的な弟子であれば尚のことです。にもかかわらず中心的な12人の弟子を選ぶというのは、イエス様の伝道にとって必ずしも得であるばかりとは言えません。ですからこれはイエス様が自らの死というものを意識して、その死後を見据えているからに違いありません。
 さて、選ばれた12人を見てみると、ある者は漁師であったり、取税人であったり、いやそれどころか出自の定かではない名前だけの者までおります。イエス様が夜通し祈って選ばれたのは無学な者や嫌われ者でありました。なぜ彼らなのでしょう。もっと才能溢れる者たちはいなかったのでしょうか。たとえば、アリマタヤのヨセフは、ガリラヤ出身ではないのでたぶんこの時期はまだ弟子ではなかったでしょうが、彼のように12弟子と呼ばれる者たちに引けを取らない、いやむしろもっと立派な人物はいたと思うのです。普通、組織を作るときは、少しでも有能な人物に大切な働きを担わせるものです。けれど彼らはイエス様の弟子と言う以外には、特筆すべきことの何もない者たち。いったいなぜ彼らだったのかと疑問に思います。
 色々考えまして、一つだけ思い当たることは、彼らが特筆すべきことがないからこそ選ばれたのではないかということです。彼らには何ら、人の注目を得るような才能も容姿も人望も経験もありません。しかしだから、彼らは選ばれたのではないでしょうか。使徒の働きの1章には、使徒の補充の出来事が記されます。そこでの使徒候補の基準はイエス様の公生涯と復活を証しできる者でした。その人の才能や経験ではありません。イエス様を証しする者かどうか。この一点です。パウロも第一コリントの1:26-29で、神はだれも神の御前で誇ることがないようにするために、無に等しい者を選ばれた。と言っています。これが神が弟子を選ばれる際の基準なのです。神は私たちに、才能を求めているのではありません。私たちの好き勝手な主張を望んでいるのでもありません。そうではなくて、神は私たちに従順を求めておられます。正直を、そして覚悟を求めておられます。主の弟子には、神様と人の間に割ってはいる存在感や才能などは必要ではないのです。主の御業を嘘偽りなく、そのままに語れば良い。
 神様の働きを前にして、私たちは怖気づくことがあろうかと思います。私にはできません。私にはまだ無理です。私には才能も経験もありませんと。これは当然の恐れです。あのエレミヤですら、同じように恐れたのです。けれど、神様はそんなことはとっくに承知です。私たちに、人に誇れるようなものが無いことも、もちろん承知。それでも選んでくださるのが神様です。期待してくださるのが神様なのです。神様は私たちに才能を望んでいるのではありません。なぜならこれは私たちの働きではなくて神様の働きだからです。神様が責任を取られると言っておられるからです。私たちは神のために働く者なのではなく、神の働きへと用いられる者なのです。
 イエス様がおられる間は、言ってみれば、弟子たちなど必要ないのです。手が増えれば効率が良くなるというのは世の話で、イエス様はお一人で、お言葉一つで何でもお出来になる方ですから、誰にも思い煩うことなく、一人宣教に専念した方がよっぽど効率が良いのです。下手に弟子たちがおれば、足を引っ張り、宣教の邪魔になるというものです。けれど、それでもイエス様は12人を選ばれた。それは自らの生き方を見せるためにです。様々な場面で、イエス様ならこうなされた。そのお姿を後世に残すため。自分が完成する救いを正しく宣べ伝える人物を育てようとしておられるのです。自らの考えではなくて、神さまの御心を伝える器。そのためにイエス様は、今は無に等しいけれど、自らの才能に溺れることなく、主イエスの呼び掛けに信頼して、仕事も生活も何もかもを捨てて従った、そのような真っすぐな者たちをお選びになったのです。神様はそのような者を今も求めておられます。神様の福音のバトンは、そのような一人ひとりを通して、今私たちのところへと受け継がれているのです。

210127 民数記14:1-25 「今日の信頼、明日の確信」

民数記14:1-25 「今日の信頼、明日の確信」

 カナンの地を目前とした、パランの荒野に到着したイスラエルは、各部族から1名の偵察隊を選びカナンの地を回らせます。12人は命じられるままにその地を巡り、40日の時を経て、民に報告いたします。「私たちは、あなたがお遣わしになった地に行きました。そこには確かに乳と蜜が流れています。そして、これがそこの果物です。ただ、その地に住む民は力が強く、その町々は城壁があって非常に大きく、そのうえ、そこでアナクの子孫を見ました。アマレク人がネゲブの地方に住んでいて、ヒッタイト人、エブス人、アモリ人が山地に、カナン人が海岸とヨルダンの川岸に住んでいます。」問題はこの報告の後に語られた偵察隊の2つの結論です。
 ヨシュアとカレブは言いました。「私たちはぜひとも上って行って、そこを占領しましょう。必ず打ち勝つことができます。」その他の10人は「私たちはぜひとも上って行って、そこを占領しましょう。必ず打ち勝つことができます。」と結論付けます。そして、「私たちが行き巡って偵察した地は、そこに住む者を食い尽くす地で、そこで見た民はみな、背の高い者たちだ。私たちは、そこでネフィリムを、ネフィリムの末裔アナク人を見た。私たちの目には自分たちがバッタのように見えたし、彼らの目にもそう見えただろう。」と感想を語るのです。
 この偵察隊の報告を聞いた民の様子が、今日の箇所であります。冒頭、全会衆は大声をあげて叫び、泣き明かしております。彼らは偵察隊の報告に絶望したのです。それはつまり、彼らが10人の報告を信じたということです。そして、こともあろうか、エジプトから連れ出してくださった主に不満の声を上げるのです。「われわれはエジプトの地で死んでいたらよかった。あるいは、この荒野で死んでいたらよかったのだ。なぜ【主】は、われわれをこの地に導いて来て、剣に倒れるようにされるのか。妻や子どもは、かすめ奪われてしまう。エジプトに帰るほうが、われわれにとって良くはないか。」
 カレブとヨシュアは必死になって説得します。「私たちが巡り歩いて偵察した地は、すばらしく、良い地だった。もし【主】が私たちを喜んでおられるなら、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちに下さる。あの地は乳と蜜が流れる地だ。ただ、【主】に背いてはならない。その地の人々を恐れてはならない。彼らは私たちの餌食となる。彼らの守りは、すでに彼らから取り去られている。【主】が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。」しかし、不安に陥った民に二人の声は届きません。それどころか全会衆は二人を石で撃ち殺そうと言い出す始末です。
 なぜ彼らは、10人の報告を信じたのでしょうか。それは主がお語りになるところです。「この民はいつまでわたしを侮るのか。わたしがこの民の間で行ったすべてのしるしにもかかわらず、いつまでわたしを信じようとしないのか。わたしは彼らを疫病で打ち、ゆずりの地を剝奪する。しかし、わたしはあなたを彼らよりも強く大いなる国民にする。」それはつまり、彼らが主が共におられることのしるしを見ようとはしないからです。出エジプトの折の10の奇跡と海の間を通る体験。毎日の命を繋ぐマナとうずら。彼らの道を指し示す炎と雲の柱。忘れようにも忘れられない奇跡の数々を彼らは体験しています。にもかかわらず、その恵みに目を向けません。神が共におられることの確信がないので、まだ見ぬ不安に心を奪われるしかないのです。
 カレブとヨシュアは違います。二人はこれがカナンの民の強弱の問題ではなくて、主に背くか背かないかの信仰の問題であることを悟っています。なぜなら、そこは主が約束された地だからです。主の約束に対する信頼をもってその地を見るとき、そこは乳と密が流れる地です。しかし、主の約束を抜きにしてみれば、そこは住む者を食い尽くす地と映るのです。
 さて、モーセは主に嘆願します。「もし、あなたがこの民を一人残らず殺すなら、あなたのうわさを聞いた異邦の民は、このように言うに違いありません。『【主】はこの民を、彼らに誓った地に導き入れることができなかったので、荒野で殺したのだ』と。」モーセのこの言い方はまるで脅しのようです。けれど、そのようにしか言えないのです。民の咎はもはや擁護できるものではないからです。モーセは民のためにとは言いません。あなたの御名のためにと言います。あなたの御名が貶められることのないためにです。私たちは主の赦しを余りにも当たり前に期待しているかもしれません。確かに主イエスの贖いはただ一度、私たちを完全に赦しうる贖いの御業です。けれど、この赦しを受け取るかどうかは、一人一人の信仰に委ねられているのです。主は求める者には一切を与えてくださるお方ですが、その口をこじ開けて、無理やりねじ込めるお方ではありません。日々の恵みに慣れすぎて、感謝を忘れ、不平不満だけに心を奪われている者は、自ら主の赦しと祝福を拒んでいるのです。私たちが主を侮るなら、私たちは主の約束を見ることはできないのです。
 この結果、イスラエルの民は荒野での放浪を余儀なくされます。出エジプトを果たした世代は皆、カレブとヨシュアを残して代替わりして約束の地に入ることになります。今日神が共におられることの信頼を失うということは、それほどまでに私たちの人生の終着点を違ったものにしてしまうのです。もう一度主が共におられることの幸いに目を向けなければなりません。わかりやすいマナとうずらはなくとも、日々生かされることの恵みに心を留めていきたいと思います。明日を知れぬ私たちではありますが、今日信頼することが明日の確信へと繋がるのです。

210124 ルカ6:6-11 「安息日に善を行う」

ルカ6:6-11 「安息日に善を行う」

 ある安息日、イエス様が会堂で聖書を解き明かしておられると、それを気にくわないパリサイ人たちがイエス様を訴える口実を見つけるためにじっと見ていました。と言いますのも、同じ会堂内に右手の萎えた人がいたからです。病人を癒すと噂のイエスはこの右手の萎えた人をどうするだろうか。実はこのところ、マタイの福音書では『そこで彼らはイエスに「安息日に癒やすのは律法にかなっていますか」と質問した。イエスを訴えるためであった。』とあります。パリサイ人たちはただ黙ってことの成り行きを見守っていたのではなくて、自らイエス様にけしかけたらしいのです。
 当時、安息日に全ての癒しが禁じられていたわけではありません。「命が危ない恐れのある時はいつでも、それは安息日を超越する。」これは当時のユダヤ教の公式な見解であります。ただし右手の不自由が命の危険かと言いますと、そうとは言えません。もし癒しが必要なら他の日でも構わないわけで、この場合、安息日を優先するべきとなります。答えるのに難しいいじわるな質問。イエスがこの病人を癒すなら安息日を破る行為として訴えてやればいいし、病人を癒さないならイエスの評判倒れを声高に叫べばいい。どちらにしても彼らにとって都合がいいわけです。
 けれど、イエス様は逆に問い返すことで、彼らへの返事といたします。「あなたがたに尋ねますが、安息日に律法にかなっているのは、善を行うことですか、それとも悪を行うことですか。いのちを救うことですか、それとも滅ぼすことですか。」ここにイエス様の律法理解の全てが集約されています。安息日にあるべき私たちの生き方を、神の御心という基準でもって定め、積極的に従う。そういった生き方の指針がここにあるのです。安息日を、これをしてはいけない、あれをしてはいけない日と捕えるのではなくて、安息日こそ善を行なうという積極的応答の姿勢が明かされているのです。これこそが信仰生活における勝利の秘訣です。
 パリサイ人たちはぐうの音も出ないところでしょう。安息日の律法に適うのは善を行うことか、悪を行うことかと問われれば、当然、善を行うことです。そして、いのちを救うことと滅ぼすこと、どちらが善かと問われれば、いのちを救うことに他なりません。この問答に答えれば彼ら自身がイエス様の癒しを認めることになってしまうのです。イエス様は彼らの言葉を封じます。しかし、それで終わりません。イエス様は右手の萎えたその人に声をかけられます。「立って、真中に出なさい。」そして、「手を伸ばしなさい。」この病人の手を見事に癒されたのでした。
 イエス様はパリサイ人たちがこの右手の萎えた人を癒さないでいることを悪だと言っているのではありません。それは彼らにはできないことです。イエス様はそのことを責めてはおられません。けれど、ならばこの人にできることをするべきです。どうぞこの病人の手を癒して下さいと祈ることもせず、かえって揚げ足取りの材料にしようとすることは「悪」以外の何者でもありません。パリサイ人たちは、いちゃもんはつけますが、実際にそこで手がなえて、不自由な生活を余儀なくされているこの人をこれっぽっちも見ていないのです。彼の病が癒され、その魂が救われることが、神さまにとってどれほど大切で喜ばしいことかについては、何ら理解していません。彼らにとってこの人の存在は、単にイエス様を陥れるための道具に過ぎなかったのです。たまたまそこにいた。だから利用できる。それだけです。この人の性格も、才能も、容姿も、信仰も、また抱えている悲しみも、苦しみも、希望も、願いも、彼らにとっては何ら興味の無いことでした。
 しかし、イエス様は違います。イエス様はこの人に声をかけられました。この人に目を留められた。イエス様はこの人に関心を持たれたのです。彼が抱える痛み悲しみ。心からの願い。誰もがそこにいると知りながら関わらないようにしていたその人に関心を寄せられたのです。これが善です。癒す癒さないということの前に、その人に関心を寄せる。安息日に、倒れている人に寄り添うことを禁ずる律法はどこにもありません。
 私たちが神のみこころに沿って生きる秘訣は、イエス様に倣うことです。もしもイエス様ならどうするだろうか。どう考えられるだろうか。律法の字面を守ればそれでいいと考えるのではなく、むしろ積極的に善を行なう。イエス様こそが私たちの歩むべき道だからです。

210120 民数記10:1-10 「使命感を持って」

民数記10:1-10 「使命感を持って」

 1章から今日の箇所までが、実はシナイ山での神の民の様子が記されています。続く11節から、モアブの草原に至るまでの道中が描かれることになるので、かなり中途半端な章立てですが、今日の箇所までが第1部ということです。
 主は出発に先立って、神の民の行進をラッパをもって合図し指揮を取るようにと教えられます。これは本当に理に適ったことだと思います。エジプトから脱出したイスラエルの民は二十歳以上の軍務に就くことのできる者だけで60万3550人もおりました。女性や子ども、老人を合わせると、一説には200万くらいはいただろうとも言われています。そういう人たちが一斉に旅をするのです。200万と言いますと、長野県に住む全人口が大体200万ちょっとです。狭山市は15万人を少し超えるくらいです。どれほどおびただしい数でありましょう。この200万人が生活をしながら旅をするのです。宿営を張るだけで相当な距離に及ぶでしょうし、例えばモーセが宿営の中心の会見の天幕にいて外周の者に伝令を走らせようとしても、相当な時間がかかるわけです。さあ、旅に出よう。と決めまして伝令を走らせます。人ごみの中、伝令は駆け抜けて、それぞれの長老に命令を伝えます。そして命令を聞いた部族から、宿営を畳んで旅の支度をするわけですが、最初の人が動き出して最後の人が動くまで、果たしてどれくらいの時間がかかるでしょうか。車の渋滞の発生と同じ仕組みです。どうしてもタイムラグができるんですね。しかも宿営を張ったり畳んだり、食事をしたり、体を拭いたり、そういう生活をしながらの旅です。老人や子ども、病気の者もおります。100人、200人ならいざ知らず、200万人が誰かの伝令で一斉に動くなど、ほぼ不可能に近いことなのです。ですから、この旅に欠かせない命令伝達の手段がこの音による指示。音はあらゆる障害物を超えて全員に行き届くからです。ラッパの音は、実はカナンへの旅の最重要アイテムだったわけです。
 長いラッパの音は集合の合図。長い音が1回なら族長たちが集まり、2回なら全会衆がモーセのもとに集まります。短く吹くと出発の合図。1回鳴る毎に東、南、西、北の陣営が出発していきます。戦いに赴く折にも、短いラッパの音を響かせます。音が濁ったり、息が続かなかったりしたら、台無しです。ちょっとの音の鈍さが200万人の出立に影響するのです。どれほどのプレッシャーでありましょう。
 このラッパを吹く働きは、祭司であるアロンの子が担うと世々永遠の定めとして決まりました。つまり、この奉仕は替えの利かない、一子相伝の務めだということです。祭司の中で特別にこのラッパを吹くだけのために選ばれる一族がいたのです。彼らは全体を動かすタイミングでのみラッパを吹きます。細かな命令にはやはり伝令が走ったことでしょう。出発と招集のみ。それ以外はただひたすらモーセの傍でその指示を待ちます。一日にそう何度もない役割のために、日中の全ての時間をモーセの傍に控えるのです。
 彼らはさながらオーケストラのシンバル奏者のようです。それほど多くない出番を待ちながら、しかし、いざ音を鳴らす時には最高の音が出るように。決して緊張を解くことなく、その時に備えます。もっと派手な楽器もあります。華のある、人々が酔いしれる楽器は幾らでもあります。けれどいざシンバルの音が響き渡ると、その存在感を決定的に醸し出すのです。
 祭司の仕事のメインは生贄を捧げることです。民の罪の贖いとして生贄を捧げる行為は祭司だけに許された特別の奉仕です。民は祭司無しには神に赦しを乞うこともできない。それだけに祭司は人々から尊敬され、その生活も支えられるのです。けれどここにそのメインの働きをせず、ただただラッパを吹くだけの祭司がいます。人々は彼らをどのように見たでしょう。彼らが抱えるプレッシャーなどわかるはずもありません。むしろ、生贄の血で染まることのない、一日に数度ラッパを吹くだけの彼らを羨んだことではないでしょうか。あんなのは俺にだってできる。そんな風に蔑む人もいたのではないでしょうか。いえ、この音を奏でる奏者の存在など、考えたことすら無いのではないでしょうか。評価されない働き。しかし、実はその働きが最も身近に民の行進を導いていたのです。彼らの働きを支えていたのは民の感謝ではありません。神からの使命感です。そして神の評価です。その働きは神ご自身が永遠の定めとして与えられたもの。彼らは他ならぬ神によって選ばれた。ですから彼らは自らの奉仕に誇りを持ち、喜びを持って主に仕えたのです。
 教会での奉仕に、色々な葛藤を覚えることがあるかと思います。報われない思いを抱えることもあります。けれど、その使命は神が与えられたものです。神が必要とされたのです。私たちはいつもここを土台として、奉仕を捧げたいものです。神は見てくださる。神は用いてくださる。神は他ならぬ私をこの奉仕に選んでくださっている。それはつまり、他の誰かではダメなのです。代わりの利かない奉仕を担っているのです。誰が評価するで無くても、主が見ておられます。この主に「良くやった、忠実なしもべだ」と、言っていただけるよう励んでまいりたいと思います。

210117 ルカ6:1-5 「律法の大原則」

ルカ6:1-5 「律法の大原則」

 旅の途中、お腹を空かせたイエス様の弟子たちは、畑に実った黄金色の麦の穂をちぎって揉んでは食べておりました。例のごとくパリサイ人がこれを見つけて非難いたします。と言いましても、これ自体は別に、誰かから非難されるようなことではありません。手で摘んで食べる程度であれば、律法(申命記23:25)で許されていることでした。問題はこれが安息日に行なわれたということです。「なぜあなたがたは、安息日にしてはならないことをするのですか。」これが彼らの訴えでした。
 そもそも安息日と言いますのは、その名の通り、週の最後の日を、丸一日仕事を辞めて安息をとるという日のことです。ユダヤ人にとっては、これは最も重要な律法の一つに数えられ、特にこの時代、安息日を守ることは神の民であることの証しとされておりました。では、安息日を守るとは具体的にどういうことなのか。当時の学者たちは事細かな規定を設けて、安息日にしてはいけないことをまとめています。それによると、種を蒔くことですとか、耕すことですとか、主要な39の労働が禁じられ、その下にそれぞれ39の細則が設けられたと言います。これ以上歩いてはいけないという歩数まで決められていたと言うんですから、とんでもない話です。つまり安息日とはこれらの労働を行わない日として理解されていたのです。
 パリサイ人たちは、安息日にイエス様の弟子たちが麦畑で穂を摘んでいるのを見つけました。弟子たちはそれを「手でもみながら食べていた」わけでして、彼らの決まりでは、「穂を摘む」ということは「刈り入れの労働」、「手で揉む」とは「脱穀の労働」に当たるわけです。労働に労働を重ねて、安息せよとの神様の命令に背いている。これはいったいどういうことか、と鬼の首を取ったかのように語っているわけです。
 これに対して、イエス様は旧約聖書のダビデの逸話を語られました。イスラエルの民が尊敬して止まないあのダビデが、祭司以外の者は決して食べてはならないと定められていた「臨在のパン」を食べたという出来事です。言うなれば律法を犯したという出来事です。ではユダヤ人はダビデを非難したのでしょうか。そんなことはありません。実はこのことを後のユダヤ教の人々は、これはダビデが緊急のときであったために赦されたと解釈してきました。ユダヤ教の規則集では「命が危ない恐れのある時はいつでも、それは安息日を超越する。」と教えられておりました。そしてこれは正しいのです。なぜなら、安息日の規定は、労働を止めるということが目的なのではなくて、主を礼拝することが目的だからです。労働の禁止はそのための手段です。ですから、主の御心に適うことは、たとえ安息日であっても行うべきなのです。
 イエス様はこのダビデの出来事を、パリサイ人たちの非難めいた質問への答えとされました。それは、ダビデのケースに示された律法の大原則は、今回のケースにも当てはまると言いたいわけです。それはつまり、聖書の律法は字面を読むのが正しいのではなくて、神様の御心に適って読むのが正しいということです。安息日を守ってこれを聖なる日とせよ。という神様の律法。これは何も安息日を守らない者を炙り出して、罰するためにあるのではありません。そうではなくて、安息日とは、それによって私たちが神様からの祝福を十分に受けとるためにあるんだと。神さまは私たちに安息日を覚えて、神さまの祝福を十分に受け取るようにと望んでおられるのです。
 「安息日を覚えてこれを聖なる日とせよ。」この命令は今も生きています。しかし私たちはともすると、これをパリサイ人と同じ読み方をしてはいないでしょうか。安息日の決まりごとに照らし合わせて、信仰だ、不信仰だと躍起になって裁き合う。私たちが信じてやまない正義でもって、その人をねじ伏せる。これは神様の御心ではありません。安息日に問われるのは、私たちの行為ではありません。私たちの心です。「神へのいけにえは砕かれた霊。打たれ砕かれた心。神よあなたはそれを蔑まれません。」(詩編51:17)神は、安息日を聖なる日とせよ。と命じられます。神様の恵みに思いを馳せる日。私たちが救い出されたそのところを覚える日とせよ。とおっしゃられているのです。

210113 民数記6 「現代のナジル人」

民数記6 「現代のナジル人」

 民数記とはその名の通り民の数を記す書。シナイ山と、その40年後にモアブの草原で行われた2度にわたる人口調査に由来しています。内容も、その人口調査の様子と共に、宿営に関する諸々の規定が記され、神の民の奉仕がテーマとなっている書物です。
 1章から9章まで、シナイ山での出来事が記されています。1章で第1回の人口調査の様子が記され、2章で宿営や行軍における各部族の位置。3章4章ではレビ人の数と職務が記され、5章では宿営からの汚れの除去について。6章でナジル人に関する規定が記され、7章で祭壇奉献のためのささげ物について。8章でレビ人の聖別。9章で出エジプト後の最初の過ぎ越しの祭りについてと、行軍のしるしと合図が記されています。
 さて、今日の箇所の6章はナジル人についてです。ナジル人は主のものとして特別に取り分けられた者のことです。彼らには、ぶどう酒や強い酒を絶つこと。頭にかみそりを当てないこと。そして死体に近づかないことが命じられました。ぶどう酒はカナンの地に住む農耕民の産物で、これを絶つことは異教からの分離を意味しておりました。頭にかみそりを当てないとは、つまり長い髪をそのままにするということですが、それはその者がナジル人であることの目に見えるしるしとされました。死体に近づかないことは、もちろん汚れから身を守ることです。酒を断ち、髪を切らず、死体に近づかない。この3つを守ることで、彼らはナジル人として神に仕える者とされたのです。なぜ、このような制度があるかと言いますと、基本的に宿営において神に仕えるのは、祭司やレビ人と決まっていたからです。祭司やレビ人は生まれ持っての家系として宿営の奉仕などに就く働き人でした。けれど、祭司やレビの家系では無い者でも、宿営での奉仕に携わることができます。それがつまりナジル人となることでした。つまりナジル人は特別な誓願を立てることで、自発的に主の働き人となった人々のことなのです。ですから、神はこの特別の請願に免じて、祭司でもレビ人でもないその者をナジル人として用いられるのです。
 聖書には、このナジル人についての記録が幾つか残されています。皆さんがすぐに思いつくところはサムソンではないでしょうか。不妊であったマノアの妻は、主の使いから男の子を産むと告げられ、ぶどう酒や強い酒を飲んではならない。汚れた物をいっさい食べてはならない。と命じられます。なぜなら、その子は神にささげられたナジル人だからだと言うのです。生まれた子はサムソンと名付けられ、お告げ通りナジル人として育てられるのです。主から特別の力を授かったナジル人サムソンはペリシテとの戦において活躍いたします。若い獅子すらも引き裂く怪力サムソン。ろばのあご骨を振り回して1000人のペリシテ兵を打倒します。しかし、ペリシテの遊女デリラに溺れ、ナジル人の請願である髪の毛を剃り落とされ、力を失って捕えられるのです。サムソンは士師の中でも決して褒められた人物ではありません。女性関係にだらしなく、がさつで、横柄。お世辞にも神の器として相応しいとは到底思えません。けれど、彼は主に用いられます。それは彼が主に請願を立て、ナジル人として選ばれたからでした。ナジル人に問われるのは、その人柄ではありません。その徹底的な覚悟です。異教の風習を排除し、自らの身を清める。そして自らがナジル人であることを内外に知らしめることで、その決意に退路を塞ぐ。この徹底さのゆえにナジル人は用いられるのです。けれどサムソンは徹底できませんでした。デリラにその秘密を漏らしてしまいます。サムソンは主からの力を失い捕らえられます。哀れサムソンは死を間際に力を取り戻しますが、もはやその死を避けることはできず、多くのペリシテ人を巻き沿いにして死んでいくのです。
 さて、実はもう一つナジル人についての記述が聖書にあります。最後の晩餐でのイエス様の宣言です。「わたしはあなたがたに言います。今から後、わたしの父の御国であなたがたと新しく飲むその日まで、わたしがぶどうの実からできた物を飲むことは決してありません。」聖餐式の制定の場面で語られるこの言葉は、イエス様がこの後死に行くことを暗示し、また過ぎ越しの祭りの廃棄を意味しております。しかし、それだけではありません。このところで語られる「ぶどうの実からできた物」とは、「飲むことは決してありません。」と続きますからぶどう酒のことだとわかります。けれど聖書のほとんどの場面では、ぶどう酒のことをこのように回りくどく言うことはありません。「ぶどうの実からできた物」という表現で他に使われるのは、実はこのナジル人の請願を立てる項目で記されるのみです。イエス様が単に「ぶどう酒」ではなくて、わざわざ「ぶどうの実からできた物」と言われたのには、このナジル人の請願を意識されていることは明白です。つまり神に自身を捧げるナジル人の誓約の如く、ご自身を神に捧げられるイエスの誓約。イエス様が徹底してご自身を捧げることの覚悟がこのところで語られているのです。
 ナジル人の規定を思うとき、レビ人ではないものが、自らの意思で主に仕える道が用意されているということに驚きと感動を覚えます。神の全能を思うとき、私たちの道はすでに決められているように思えるでしょうか。主の器とされるのは、特別な、主からの召命を受けた一部の人たちだとです。けれど、全てのキリスト者が自らの決意をもって主に仕える道が用意されていることを、ナジル人の存在が証明しています。ですから、私たちが主の器とされるかどうかは、ただ主の御心だけではありません。私たちの決意でもあるのです。異教の文化になびかず、一切の汚れを避け、キリスト者であることの旗印をはっきりと掲げる者は、現代のナジル人です。私たち一人一人がナジル人としてこの地に遣わされる器となることが大事なのです。

210110 ルカ5:33-39 「新しいいのちには新しい生き方を」

ルカ5:33-39 「新しいいのちには新しい生き方を」

 律法学者たちはイエス様を非難します。「ヨハネの弟子たちはよく断食をし、祈りをしています。パリサイ人の弟子たちも同じです。ところが、あなたの弟子たちは食べたり飲んだりしています。」
 元々律法では年に一度の第七月十日の贖罪日の断食が命じられておりました。またゼカリヤの時代には、エルサレム滅亡とバビロン捕囚を教訓として忘れないために、4月と5月と7月と10月の四度の断食がなされる習慣が始まりました。ユダヤ人たちは国家レベルで断食をして、悔い改めのときをもっておりました。しかし、それとは別に、パリサイ人たちは、週に2日月曜日と木曜日に断食を行っておりました。ヨハネの弟子たちはそれ以上に断食を行って、禁欲的な生活をしていたようです。
 一般的に、断食とは熱心な祈りと悔い改めの告白の手段として用いられてきたのです。しかし、自発的な信仰告白的な断食は、次第に形骸化し、その行為自体が目的となっていきました。祈りと悔い改めのために断食をするのではなくて、断食のための断食。つまり断食という肉体的苦痛に耐えている自分を示すために断食する。信仰の度合いを誇るために行なわれたのです。
 本末転倒とはこのことです。もちろん聖書はことある毎にこのことを戒めております。「わたしの好む断食とはこれではないか。悪の束縛を解き、くびきの縄目をほどき、虐げられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことではないか。」(イザヤ58:6)けれども、イエス様の時代の断食はまさにそのようなものに成り果てていたのです。
 パリサイ人とヨハネの弟子たちの非難めいた質問に対して、イエス様は3つの譬えを語られます。
 一つ目は34-35節。花婿の譬えです。結婚式で断食をすることは、もちろん相応しい行為ではありません。結婚式というのは喜びの席であって、悲しみのときではありません。パリサイ人たちは、断食をしないイエス様や弟子たちを不信仰だと非難しました。しかし、そうではありません。すべてのことには相応しい時があるのです。今は喜びのときです。なぜならその人はキリストといるからです。断食には断食に相応しい時があります。それは花婿が取り去られるときです。そうすれば、断食に似つかわしい、悲しみがやって来るでしょう。イエス様はこの譬えから、喜びの時には、喜びに相応しい生き方があり、悲しみの時には、悲しみに相応しい生き方がある。イエス様と共にあるかどうかで、信仰者の生き方、ライフスタイルが変わるとおっしゃっておられるのです。
 これは単なる断食のことだけではありません。信仰者の生き方、全般についての問題であります。
36節です。古い衣というのは全体的にくたびれていて、少しの無理があっても耐えられません。ほころびがあります。そこに新しい布切れで継ぎますと、新しい部分は丈夫でも、その周囲は余分な力が加わって破れてしまいます。同じように、新しいキリストにある生き方をとって、古いユダヤ教の生き方をつくろったとしても、それは破綻してしまうのです。パリサイ人たちは、なぜあなたの弟子たちは断食をしないのかと問いました。しかし、それは彼らがイエス様の弟子とされたからです。彼らはイエス様と出会って、すでに新しい生き方に入れられているからです。それは、何かユダヤ教の律法による生き方を補うためではありません。
 また、イエス様は別の譬えを語られます。37-38節です。新しいぶどう酒と古い皮袋。これは相容れないものです。古い皮袋は弾力を失って固くなっています。このような皮袋に勢い良く発酵する新しいぶどう酒を入れれば、発酵による圧力によって古い皮袋は張り裂けてしまうのです。新しい皮袋であればこそ、柔軟に膨らんで発酵の圧力に耐えることができるのです。新しいぶどう酒とは何でしょう。それは新しい命です。新しい皮袋とは何でしょう。それはキリストにある生き方です。これはセットです。「新しい命」を、「古い皮袋」にいれることはできないし、「古い命」のまま「新しい皮袋」「新しい生き方」に入ることはできません。新しい命には新しい生き方があるのです。
 新しい命に生きる者には、古い生き方の人たちから時に非難めいた声もあるでしょう。「なぜあなたはそうなんですか。」「なぜ昔からの慣習に従わないのですか。」しかしこれは当然です。私たちは古い生き方をしていないからです。ですから、その時はぜひ答えたいものです。「それは私がもう新しい命をいただいた者だからです」とです。

210103 ピリピ4:10-13  「そこにある恵み」

210103 ピリピ4:10-13  「そこにある恵み」

 ソロモンはⅠ列王記8:37-39で「この地に飢饉が起こり、疫病や立ち枯れや黒穂病、いなごやその若虫が発生したときでも、敵がこの地の町々を攻め囲んだときでも、どのようなわざわい、どのような病気であっても、」と言っています。今はまさにソロモンの祈りが適用されたかのような状況ですね。私たちは中世のペストやコレラに匹敵するような歴史的疫病に襲われています。そのような状況を想定して、ソロモンは何というのか。「だれでもあなたの民イスラエルが、それぞれ自分の心の痛みを知って、この宮に向かって両手を伸べ広げて祈るなら、どのような祈り、どのような願いであっても、あなたご自身が、御座が据えられた場所である天で聞いて、赦し、また、かなえてください。」であります。ソロモンは今まさに、この災いの中で、宮に向かって祈れと言っています。
 このコロナの状況の中で例えば国の対応に文句を言う人は沢山いらっしゃるでしょう。また自衛のために色々と知恵を巡らせる方も多いでしょう。けれど、この困難の中で、神の前に自身の信仰を問いただす人はほとんどおりません。けれど信仰者にとっては、やっぱりそこが大事だとソロモンは言うのです。耐えて耐えて過ごせば、やがてはワクチンが行き届いて、コロナウィルスの拡大は収まるのかもしれません。けれど、仮に私たちがその時を無事に迎えることができたとして、私たちはああ収まって良かったということだけで、この出来事を総括して良いものでしょうか。この出来事を通して語られる主のみこころを探り求めることはしないでしょうか。少なくとも私にとって、あの試練には意味があった。そう思えることが大事ではないでしょうか。
 年間聖句はピリピ書から選ばせてもらいました。どんなことでもできるというのは、事実ではありません。獄中にいるパウロにできることは制限されています。けれど、彼の心は何ら制限されません。不自由な生活の中でも、彼の心は自由で感謝に満ち足りています。なぜなら、主なる神が彼を強くしてくださるからです。ソロモンの祈りをパウロは実践いたします。不自由さの中で、彼は自らを省み主に立ち返ります。すると、そこには貧しさの中で助けてくださる主がおられるのです。もちろん富んでいるときに用いてくださる主がおられます。病の時にこそ励ましてくださる主がおられます。その境遇でなければ知れることのない主の取り扱いがそこには確かにあるのです。
 ローマの獄中にあって、パウロは思うままに旅することも、出かけていくこともできません。けれどパウロは獄中に置かれているからこその恵みに気付きます。それはピリピの人々との交わりの確かさです。14節には「それにしても、あなたがたは、よく私と苦難を分け合ってくれました。」とあります。パウロの苦難に、身を翻して去っていく人がいます。石を投げ、罵声を浴びせる者もおります。しかし一方で、寄り添い、駆け付けてくれるピリピの兄弟たちがいたのです。もちろん、これまでもピリピ教会とパウロとは親しい関係にありました。けれど今、この獄中にあって、ピリピ教会の人々の存在がこれまで以上に大きな支えであることにパウロは気付くのです。こういうのは忙しく活躍しているときには見落としがちです。その時その時に一生懸命で、がむしゃらに前に進んでいるときには、案外感謝が抜け落ちたりします。自分の手柄にしてしまいがちです。実は私たちは困難の中で、立ち止まる中で、そこにある恵みに気付くのです。これはパウロの例です。もちろん、私たち一人一人に恵みがあり、感謝があります。
 入院中のS姉妹の近況を時々お聞きします。術後の回復のために治療を続けておられます。痛みがあるとも聞いています。けれど、姉妹の近況の最後はいつも神への感謝で終わるのです。これまでの人生の中で、一番神様と身近に過ごせていると感謝されています。私はこれは単なる強がりではないと思います。姉妹は本当に感謝しているのです。姉妹はそこに無いものではなくて、そこにある恵みを見ているからです。姉妹の信仰は、私たちに信じることの確かさを知らしめてくれています。パウロの言葉の真実を告げてくれています。
 私たちは困難の中で、どのように信仰を保つべきでしょうか。それは私を強くしてくださる方と共にいるということに尽きます。では、どうすれば共にいられるのでしょうか。どこかに行けばいいのでしょうか。刺激のある新しいことを始めれば良いでしょうか。いえ、その困難の中にも、主は共にいてくださっています。コロナ禍にあって、私たちのできることは制限されています。長い自粛生活に嫌気がさして、神様に愚痴の一つ、文句の一つもつきたくなるところです。けれどです。困難の中で私たちは主に愚痴るわけですが、では順調なときなら、十分に主に感謝していたのでしょうか。困った時だけのという例のあれではないでしょうか。困難の中にも、順調の中にも、主は共にいてくださるお方です。ですから、今こそ知れる恵みはやはりあるのです。戦火の中でも生まれてくる命があります。焼け落ちたその跡に残される切り株があります。苦難が私に向けられた恵みの全てを打ち消すのではありません。苦難ばかりに目を奪われて、私たちが見ていないだけです。主と共にあることの幸いは、その時々の主の御声に聞き従うことにあるのです。