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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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210224 民数記28:1-15 「生活の中心」

民数記28:1-15 「生活の中心」

 主へのなだめのかおりのささげものについてが命じられています。常供の全焼のいけにえとして、一歳の傷の無い雄の子羊を毎日朝に一頭、夕に一頭。穀物のささげ物として、オリーブ油を混ぜた小麦粉10分の1エパ(2.3L)。注ぎのささげ物として、子羊一頭につき4分の1ヒン(0.95L)の強い酒(ぶどう酒)。これがあらゆるいけにえの基準です。
 安息日には、この常供のいけにえに加えて、一歳の傷の無い雄の子羊二頭。穀物のささげ物として、油を混ぜた小麦粉10分の2エパ(4.6L)が献げられます。
 また月の第一日(新月祭)は、やはり常供のいけにえに加えて、全焼のいけにえとして、傷の無い若い雄牛2頭、雄羊1頭、一歳の雄の子羊7頭、そして祭司のために罪のためのいけにえとして雄やぎ1頭。穀物のささげ物として、雄牛1頭につき、油を混ぜた小麦粉10分の3エパ(6.9L)、雄羊1頭につき油を混ぜた小麦粉10分の2エパ(4.6L)、子羊1頭につき油を混ぜた小麦粉10分の1エパ。注ぎのささげ物として、雄牛1頭につきぶどう酒4分の1ヒン。雄羊1頭につきぶどう酒2分の1ヒン、子羊1頭につきぶどう酒3分の1ヒン。が献げられます。

 そして28章16節から29章までは、さらに過ぎ越しの祭りや種無しパンの祭りが行われる第1の月のいけにえ、初穂の日(五旬節)のいけにえ、そして贖罪日がある第7の月のいけにえの規定が記されています。

 カナンに入る直前、後継者にヨシュアが選ばれたその直後、最初に主から命じられるのがいけにえについての事細かな規定でした。毎日のいけにえ、安息日毎のいけにえ、新月祭のいけにえ、初穂の日のいけにえ、そして、出エジプトを覚える第1の月と贖罪日を迎える第7の月に献げられる特別のいけにえ。それらは彼らイスラエルの生活が、神の恵みによることを思い起こさせる行為でありました。これからカナンに入国することになるイスラエルはその地に定住することとなります。するとどうなるか。日々の生活が神の導きであることよりも、自らの努力の結果と映るようになるのです。荒野の旅は、天からのマナとうずらをいただき、日々主の恵みによって生かされる日々でした。困難は彼らに主に頼ることを教え、思いもよらぬ神の奇跡が彼らの目を覚まさせたことでした。けれど、カナンに入ればどうなるでしょう。乳と蜜の流れる地と呼ばれたカナンは、豊かなで、農業や放牧に適した地も多く、入居した地で彼らは定住生活を送るようになります。彼らはそこで畑を耕し、穀物を育て、家畜を育て、蓄え、富みを築いていくのです。これまでは神に依存した生活でした。けれど、これからは彼らの努力が彼らの成功に直結する生活となる。それは彼らのやる気となり、同時に彼らが神を必要としなくなる下地ともなるのです。
 主はそのような生活に入る前に、彼らの生活の中心をどこに置くべきかをこのいけにえの規定を通じて教えておられるのです。いけにえを献げることはすなわち礼拝です。カトリックのミサはキリストのいけにえを捧げる行為です。私たちはキリストを再び十字架にかけることはしませんが、礼拝の度に主の贖いの恵みを覚え、感謝することは決して間違いではありません。しかしです。イスラエルに命じられたいけにえの規定の見る限り、私たちの礼拝は週に一度では足りません。それは毎日献げることが命じられているのです。
 全焼のいけにえは、傷の無い家畜と穀物と注ぎの献げ物。私たちの生きるために食すもの、そして懸命に蓄えた財を、まず初穂として神に捧げることが命じられています。それは私たちが己の力ではなく、主によって生かされていると認め、感謝すること。ひれ伏すことを意味します。私たちは毎日、主によって生かされ、養われてあるこの身を覚えるように。感謝するようにと命じられているのです。
 詩編103:2「わがたましいよ【主】をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」

210221 ルカ6:37-42 「人を量る秤で」

ルカ6:37-42 「人を量る秤で」

 「あなたがたが量るその秤で、あなたがたも量り返してもらえるからです。」ここにある秤とは、もともと麦や塩などを量るための枡のことです。たとえば麦を売る時に、両手いっぱいで幾らとはいたしません。同じ値段なのに手の大きさによって差が出るなら、それは不公平だからです。誰の目から見ても、納得が行く公正な取引をするために、設けられた基準。これが枡一杯という秤です。けれど悪い商売人ですと、この枡の大きさを微妙に変えて誤魔化すわけです。たとえば、同郷の人には普通の枡だけど、他所の土地の人には少し上げ底をした枡を使ったりする。奴隷相手であればもっと小さい枡を使ったりする。これはもう見た目ではわかりませんから、やろうと思えば簡単に騙せるわけです。そんな中、イエス様の言葉は、如何に新鮮で、公正で、納得のいくものだったことでしょう。しかし、それゆえにごまかしが利かない、言い逃れのできない教えでもあるのです。
 イエス様は、弟子たち自身の目に梁があるというのに、兄弟の目のちりを取ろうとやっきになっていることを指摘しています。それは盲人が盲人を案内しているようなものだとです。けれど期待もしています。十分に訓練を受ければ、自分の師のようになれるとです。ですから、兄弟のことをとやかく言っていないで、自分の梁を取り除きなさい。自分自身を吟味しなさいと言うのです。
 兄弟の目の塵を取らせてくださいというのは、親切なようでいて、内心ではその人を裁いているのです。不義に認めているのです。愚図で、間抜けで、役に立たない。そんな風に見下しているのです。今、この教えが、他でもない弟子たちに向けて語られているということに注意を払うべきです。それは信仰者こそ、この誘惑に陥りやすいからです。つまり他人を裁く誘惑です。そこには理想があり、正義があるからです。神の正義を知っている私たちは、教会に理想を抱き、信仰者に理想を抱き、そして理想に及ばない他人の粗が許し難いもののように思えるのです。教会を乱す悪人のように思えてきます。そして自分には神に代わって悪を正す使命があると考えます。あの人はクリスチャンとして相応しくない。あの人の態度は神様の前に正しくない。けれど、そのように裁く自分自身はいったい神の目にどのように映っていることでしょうか。私たちは私たちの正義の秤に耐え得るものでしょうか。私たちは私たちの正義の尺度に適う者でしょうか。自分にだけは小さい枡を用いているのではないでしょうか。私たちは自分自身の姿をもう少し客観的に見るならば、どれほど多くの衝突を避けることができるかと思わざるを得ません。
 同じ秤で量られる。しかし、よくよくこのところを読んでみますと、少しおかしな点があります。6:38にはこうあります。「与えなさい。そうすれば、あなたがたも与えられます。詰め込んだり、揺すって入れたり、盛り上げたりして、気前良く量って懐に入れてもらえます。あなたがたが量るその秤で、あなたがたも量り返してもらえるからです。」変だとは思いませんか。同じ秤で量り返してもらえるとありながら、実際は「詰め込んだり、揺すって入れたり、盛り上げたりして、気前よく量って懐にいれてもらえます。」とあるのです。ずっと、同じ秤で量られると聞いてきました。他人の目の塵ばかり気にして自分を省みない私たちの現実を指摘されました。だからよくよく自己吟味しなさい。と語られました。当然です。だからこそ公平が保てるというものです。ですから私たちはこれを聞いて、兄弟と関わることに躊躇うところではないでしょうか。ああ、確かにおっしゃる通りだなぁ。自分のことを棚に上げて人のことを言ってる場合じゃないなぁ。同じ秤で量られるなら誰とも関わらずに過ごしたほうが良いんじゃないかなぁ。もう一層のこと、人知れず山にでも籠ろうかなぁ。
 けれど、イエス様は、ここで、気前よく量って懐にいれてもらえる。と言われるのです。つまり神様の祝福は単なる因果応報ではなくて、溢れんばかりの恵みなんだと語られる。もしも私たちが赦し、与える歩みをするのなら、神様は単に同じ秤で返すのではなくて、そこにぎゅっと詰め込んで、さらに揺すって隙間を埋めて、そのまた上に盛り上げて、何倍にもして返してくださると言われるのです。ですからイエス様は、量られることを恐れて隣人に関わらないようにしましょう、というのが私たちのゴールではなくて、赦す。与える。ということにおいて積極的に関わってまいりましょう。と、こうおっしゃっているのです。

210217 民数記22:21-41 「みことばにひれ伏し」

民数記22:21-41 「みことばにひれ伏し」

 今日の箇所は、バラムがバラクのもとに行く道すがらの不思議な出来事についてです。バラムの乗っていたろばがうずくまってしまい、バラムは怒りのままにろばを杖で打ち付けます。するとろばが喋り始めて、バラムを諭し始めるのです。しかし、実はそこには剣を持った主の使いがおりました。ろばが身を巡らせていなければ、主の使いがバラムを滅ぼしていたところでした。バラムはろばによって救われていたのです。本人の気付かぬところで、多くの助けがあるものです。けれどそのことに一向に気付けないのはバラムがの高ぶりです。目のおおいが取り去られて、主の使いの姿を確認して、ようやくバラムは自らの罪を悟ります。そして、主のお告げに従い、心新たにして、バラクのもとへと出発するのです。
 さて、この出来事は主の使いがろばを用いてバラムを諫め、彼の態度を改めさせ、主の御用に相応しく整えられる場面です。しかし、彼の何が問題だったのでしょうか。22章の前半を見る限り、バラムは主のお告げに忠実なしもべのように見えます。彼はまず主のことば通りにバラクの誘いを断りました。再びの時は、主のお告げ通り、バラクの使いたちと共に出発をいたします。神のことばに忠実なバラム。と一見見えなくもありません。けれど、彼の狙いは別にありました。Ⅱペテロ2:15-16には、この時のバラムの様子を解説して次のように記しています。「彼らは正しい道を捨てて、さまよっています。ベオルの子バラムの道に従ったのです。バラムは不義の報酬を愛しましたが、自分の不法な行いをとがめられました。口のきけないろばが人間の声で話して、この預言者の正気を失ったふるまいをやめさせたのです。」バラムは不義の報酬を愛したとあります。つまり、バラクの申し出を一度断ったのは、自らの価値を高めるための小賢しい知恵であり、バラクから手厚い報酬の約束を引き出すことができたのでバラムは出かけたのです。主に伺いを立て、主のことばに聞き従っているように見えたのは全て彼のポーズでした。主のことばを自分の利益のための権威付けに利用する、その身勝手な振舞いを主は怒られたのでした。
 つまり、神のことばを自らの計画や考えを押し通すための錦の御旗にしてはいけないということです。バラムには神のことばに先立つ己の企てがあったのです。占いというのはそういう側面があります。ことの現象を見て解説する占いは、しかしその解説の根拠を示すことができません。たとえば亀の甲羅を焼いて、その焼き跡を見て占う。しかし、そのひびが何を意味するかは占い師の匙加減です。星占いと言いますが、その星の動向が何を意味するかは、経験から来る予想に過ぎません。つまり占い師は起こり得るあらゆる現象を自らの経験や考えを根拠として語るのです。その逆ではありません。けれど、主が再三に渡っておっしゃるのは、「あなたはただ、わたしがあなたに告げることだけを行え。」ということです。そこに占い師の予想や意見は必要ないのです。主のことばに混ぜ物をせずに聞き、従う。みことばに対する謙遜さが彼には欠けておりました。みことばすらも自己実現のために利用しようとする高慢な態度がありました。
 もっとも彼自身、そのことに気付いていなかったのかもしれません。みつかいの剣の前にひれ伏した彼は目が開かれます。占い師から預言者へと変わった瞬間です。彼はバラクのもとに行き、堂々と宣言します。「私に何が言えるでしょう。神が私の口に置かれることば、それを私は告げなければなりません。」
 神のことばを自己実現のために利用することは、主の望まれることではありません。主が語られるところに、私たちの理解も、私たちの都合も関係がありません。告げられたままに従う。私たちに問われるのは、主の前にある従順です。私の計画を一旦おいて、主の御声に聞き従う者でありたいと思います。

210214 ルカ6:27-36 「汝の敵を愛せよ」

ルカ6:27-36 「汝の敵を愛せよ」

 今日の箇所は前回に続いて、イエス様が弟子たちに語っておられる場面です。その教えを一言で言いますと「汝の敵を愛せよ。」大変有名なイエス様の教えです。隣人を愛せ。という教えならば、これまでもありました。(レビ19:18)けれど、敵を愛せとは聞いたことがありません。敵とはどういう人のことでしょう。それは、勝敗と利害が直結している相手のことを敵と言います。ですから敵に情けをかけることなどできません。情けをかければやられてしまうのは自分だからです。マタイの福音書では、敵を愛せという勧めの前に、イエス様は「『あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。」と当時の人々の常識を語っています。敵は憎むべき存在です。なぜなら敵を憎むというのは、隣人を守る行為でもあるからです。安易に敵に容赦をかければ、それは味方に迷惑がかかるのです。今以上に戦いというものを身近に知っていた当時の人々にとってこれは常識です。けれどイエス様は「あなたがたの敵を愛しなさい。」と言われるのです。
 イエス様は「自分を愛してくれる者たちを愛したとしても、あなたがたにどんな恵みがあるでしょうか。罪人たちでも、自分を愛してくれる者たちを愛しています。」とまで言われます。確かにその通りだと思います。確かに愛は見返りがないほど本物なのでしょう。けれどイエス様の教えは理想ですけれども、現実と言うものを知らない。これが他人事であれば、何の文句もでないのです。一般論としてであれば、汝の敵を愛せよ。とおっしゃるイエス様に、何と懐の広い教えだろうか。と感心する所です。けれど、本当に苦しみの中にいる者は、誰かを憎むことで必死に耐える力を得ているのです。家族を事故で失った方が、相手を憎むことで懸命に今の喪失感を耐えている。そんな胸中の者にとって、イエス様の教えは苦しみに寄り添っているようには到底思えません。
 けれど、だからこそです。イエス様は愛しなさいと言われるのです。愛とは意思を伴う決断です。好きになると言うこととは違います。もし、このところで、「あなたの敵を好きになりなさい。」と命じられているなら、これはもう絶対に無理な話です。私たちの感情は、それを受け入れることはできません。私たちは私たちに敵対する者を好きになることはできません。苦手です。嫌いです。けれど意思をもって、愛すると決断するのです。なぜなら、それこそが唯一、憎しみの連鎖を断ち切る手段だからです。
 「やられたらやり返す。」というフレーズが受けたのは、皆が我慢を強いられているからです。抑圧された中で、いつかはやり返したい。仕返ししたい。復讐を糧に、今を耐える。これは私たちのこの世を生きる知恵でありましょう。けれど、「やられたらやり返す」は「やり返したら、やられ返される。」ということでもあります。復讐というのは、新しい復讐を生みます。一度打たれたら、二度打ち返す。二度打てば、四度打ち返される。より激しさを増しながら、憎しみは膨れ上がります。人と人の対立は、やがて世代を超え、時代を超え、部族間、民族間、国家間の対立へとまで発展していくのです。
 憎しみの連鎖の中に身を置いていても、決して幸せにはなれません。たとえ復讐を果たしても満足することはありません。より一層憎しみから抜け出せなくなるだけです。辛くとも、苦しくとも、憎しみを断つことが大事です。もちろん、それが難しいことは承知です。けれどだからこそ聖書は「あなたがたの父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くなりなさい。」と語っているのです。敵を見ながら、愛すると決断することは到底できることではありません。自分に向けられた敵意を意識しながら、尚も手を差し出すことは本当に難しいことです。ですから私たちが見るのは、天の父です。天の父がいかに恩知らずの私にも憐れみ深い方であられるか。ここを見るのです。私たちに対するイエス様の立ち振舞いこそが、「あなたの敵を愛する」ことの実践であります。
 私たちが愛したから愛されたのではありません。敵対する者であった私たちのために、主がその身を献げられた。憎しみを一心に背負って断ち切られた。私たちはそれゆえ、いと高き方の子とされたのです。私たちに愛される資格があったわけではないのですから、私たちが愛するのに、相手に資格を求めるわけにはいきません。どうせ無理だと諦めず、失敗を繰り返しながら、愛することを学んで行きたいと思います。愛すべきその敵は、立場を違えど、愛することに悩み、葛藤するその人に他ならないからです。

210210 民数記18:1-20 「神に仕え、互いに仕え」

民数記18:1-20 「神に仕え、互いに仕え」

 アロンとアロンの子孫とに与えられる祭司職についての決まりが記され、その後レビ人のそれが同様に記されます。強調されるのは職務の聖さ。祭司職と天幕の任務は彼らだけに特別に授けられる職務であって、他の資格のない者が近づくことすら赦されることはないと語られます。

 実はこれに先立って、16章でレビ人コラによる騒動が記されています。レビ人であるコラは、アロンが全イスラエルの祭司の聖職を独占しているのを妬んで、モーセとアロンに逆らい、指導者たちを扇動し、反旗を翻します。彼らの表立っての言い分は「イスラエルの全会衆が残らず聖なるものであるのに、モーセやアロンが指導者としての地位を独占しているのはおかしい。」というものでした。けれど、そのモーセとアロンを選ばれたのは他でもない主です。主はこれを良しとせず、コラとその家族、彼に属する全ての者と持ち物は、地面に飲み込まれ、生きながらよみに下るという凄惨な結果で終わります。主が反逆を戒めるしるしとして、そのようにされたのです。ところが会衆はこの出来事をモーセとアロンの仕業と決めつけて逆らったのです。更なる民の反旗に神は神罰を与えられます。17400人が息絶えました。しかし、それはモーセが急いでアロンに贖いを命じ、アロンが香を焚いたことで神罰が止んでくれた結果でした。
 17章では、主は12部族の杖とアロンの杖の中から、アロンの杖だけを芽吹かせることで、今一度、アロンの選びを明らかにされました。しかし、民は自分たちも滅ぼされると尚も恐怖に陥っておりました。

 そのような背景があっての18章です。主はアロンと祭司職の務めについて、レビ人の務めについて、改めて民に明らかにされるのです。
 1節から7節まで主はアロンの担う祭司職について語られます。主はまず冒頭で、祭司職に関する咎はアロンとその子たちが負わなければならないと明言されます。そしてレビ人は祭司に連なりこれに仕える者であることを明言されます。レビ人は天幕全体の任務に当たりますが、聖なる用具と祭壇に近づいてはならない。とその職務の線引きをなされるのです。それは彼らが死ぬことのないようにするためです。コラの反乱はこの職務の越権による混乱によって起きました。つまり、それは神の奉仕に対しての認識不足から来ていたのです。
 平等であるべき。という主張は一見、正しい主張に聞こえますが、その実は神の奉仕に優劣をつけて不平等を訴えているに過ぎません。それはヒューマニズムと呼ばれるものです。神は私たちを奉仕の業に招かれます。しかし、そこには役割の違いがあります。賜物の違いです。ある者は指導者として、ある者は祭司、ある者は天幕の奉仕、ある者は荷物の運搬、ある者はラッパの号令。この違いを優劣と捕らえるのは神の本意ではありません。神はそれぞれの賜物が最も生かせるようにそれぞれの役職を与えられるのです。
 誤解を恐れずに言いますと、実は教会は平等という価値観では動いてはいません。主は一人一人を同じようには扱いません。違う存在として扱われます。違う賜物を持った者たちとして、力を合わせることを求めておられます。パウロは一人一人の賜物を器官にとらえて、いたわり合ってからだなる教会を建て上げるようにと言いました。これはモーセの時代から一貫した神の民のあり方です。なぜなら、人は決して全能ではないからです。私たちには部分しか担えないのです。頭が歩くことはできないし、足が見ることはできないのです。コラにはコラの、アロンにはアロンの担うべき役割があります。コラにアロンの代わりはできないし、アロンにもコラの代わりはできません。私たちの罪はそこに優劣をつけることです。別々の特別な賜物にわざわざ優劣をつけて、同じようになれと強要してしまうのです。しかしそれは神の賜物に優劣をつけることに他なりませんし、何よりそれでは神のからだは機能しません。Ⅰペテロ4:10には「それぞれが賜物を受けているのですから、神の様々な恵みの良い管理者として、その賜物を用いて互いに仕え合いなさい。」とあります。私たちは与えられた賜物を精一杯に用いて神に仕え、互いに仕えるのです。
 さて8節からは祭司の奉納物についてが語られます。それはアロンの受け取る分だと言うのです。他の部族から見れば、なぜ彼らがと疑問に思うでしょうか。神への献げ物として持ってきたのに、儀式が終わればそれを祭司たちが自分の物とする。なんだか腑に落ちないと思うかもしれません。けれど20節には「あなたは彼らの地で相続地を持ってはならない。彼らのうちに何の割り当て地も所有してはならない。イスラエルの子らの中にあって、わたしがあなたへの割り当てであり、あなたへのゆずりである。」とあります。それは祭司たちにとっての割り当て地だと言うのです。コラの件で民がモーセたちに詰め寄り神罰が起きたとき、民の贖いをしたのは他ならぬアロンたち祭司でした。彼らは聖所に関わる咎を負わなければならないと命じられました。彼らは咎を負うために、相続地を持たず、聖所で仕えます。その代わりに彼らは奉納物を受け取り分とされたのです。つまり祭司たちは民に雇われているのではなく、ましてや奉納物を着服しているのでもなく、神によって任じられているということです。ここがブレますと、たとえば牧師が信徒の献金額を見て態度を変えたり、信徒が教職者を雇っていると勘違いすることが起こり得てしまうのです。牧師は教会を自分の教会にしてはいけませんし、教会員も教会を自分たちの教会にしてはいけません。教会はあくまでも主のものでなければなりません。
 主によって集められた私たちに優劣の差はありません。あるのは賜物の違いです。主が私たち一人一人に最もふさわしい、最も輝ける賜物を授けてくださいました。私たちは互いの賜物を認め合い、神に仕え、互いに仕えてまいりたいと思います。

210207 ルカ6:20-26 「幸いか、哀れか」

ルカ6:20-26 「幸いか、哀れか」

 今日の箇所はイエス様が弟子たちに向けて4つの幸いと4つの哀れを語られる場面です。4つの幸いと4つの哀れ。4つの幸いとは、貧しい人たち。今飢えている人たち。今泣いている人たち。そして人の子のゆえに排除され、ののしられ、けなされ、憎まれるあなたがた弟子たちのことだとイエス様は数え上げます。逆に富んでいる人。今満腹している人。今笑っている人。今人々の称賛を受けている人は哀れだと言っています。困難の内にいる人は幸いで、幸せそうにしている人が哀れとおっしゃられる。これはいったいどういうことでしょうか。
 普通に考えまして、貧しさが幸いとはとてもじゃないですが言えません。そんなことが言えるのは、本当の貧しさを知らない満たされた人です。貧しさが犯罪を生み、戦争を引き起こすのが現実なのです。飢えている人にやがて満ち足りると言ったところで、今日の飢えが満たされなければやがてはありません。もちろん、イエス様はそんなことはわかっています。ですからイエス様はご自身を頼りに集まった人々に救いの手を差し伸べられます。病を癒し、悪霊を追い出されます。けれど、そのことと幸いであるということはまた別の話なのです。
 今満たされているということは果たして幸いの条件でしょうか。この時の今とは、この世界でと言う意味です。私たちは今を願います。今、満たされること。今、癒されること。今、笑っていられること。けれど、それらは移り行くものです。もちろん、それらを追いかけることは悪いことではありません。今、困難な人が救いを求めるのは何らおかしなことではありません。病に苦しむ者が癒しを願うのは当たり前の話です。けれど、それが幸せの基準となってはいけないのです。今、イエス様のそばに群がる多くの人々は苦しみの中、今の救いを求めてやってきた人たちです。この病気が治るように。この汚れた霊から癒されるように。イエス様はその願いに応えられます。けれど、じゃあ、イエス様によって癒しを得た人々の全てが幸いと言えるのでしょうか。病気が治り、汚れた霊が追い出されます。けれど、その人はやがてまた病気になることでしょうし、再び汚れた霊に憑かれるかもしれない。癒されることと幸いであるということは必ずしも一致しないのです。
 そもそもの話、この話をイエス様は誰に向かって話しているのかと言えば、それは他でもない弟子たちにしているのです。そのことに気付いて読み返してみますと、イエス様が「貧しい人たち」「今飢えている人たち」「今泣いている人たち」と呼ばれるその「人たち」とは、文字通りを意味しているのではなく、「人の子のゆえに排除され、ののしられ、悪しざまにけなされる」人たち。つまり、イエス様を信じたことで、貧しくもなり、飢えもする人たちのことを指しているということがわかります。弟子たちはその職業を捨てて、これまでの生活を捨てて、イエス様に付き従います。それは先の見えない生活。安定しない生活。そして、これまでの価値観の中では決して理解されない生活です。イエス様につき従うとは十字架の道を従うということなのです。人は異質な者を排除しようとします。自分とは違う存在を否定したくなります。イエス様を知り、イエス様を信じて生きるということは、その他の人々から分けられて神の民として生きるということです。それだけで私たちは世から排除される対象となり得るのです。けれど、イエス様はその道を歩むことは幸いなんだと語られます。なぜなら、「神の国はあなたがたのものだから」とおっしゃられるのです。
 ある時、イエス様は12年間長血を患った女性を癒されました。いえ、女性が人知れずイエス様の衣に触って癒されたのです。彼女は人目に触れたくなかったのです。病のゆえにこれまで散々に辛い思いをしてきたのです。触られるだけでも病を癒すことのできるお方が、彼女の存在に気付かないはずがありません。けれど、イエス様は「わたしにさわったのは、だれですか」と尋ねられました。わざわざ人前に晒すようなことをされなくとも良いのにと思います。けれどそうではないのです。今、彼女とイエス様の関係は医者と患者のそれでしかありません。彼女は病気が治ったことに感謝しています。けれど、それで終われば、またいずれ別の病気に罹った時、絶望しなければなりません。今満足しようとも、やがて失われる時が来る。だからイエス様は声をかけられます。彼女が信仰をもって、それに応え、真の救いを得るためにです。
 今を求めることは大切ですが、今が満たされれば幸せになれるとは幻想です。今は移り変わるのです。私たちが求めるべきは永遠です。たとえ、今泣いていようとも、私たちは必ず笑う時が来ます。イエス様は十字架で死に勝利されました。「神の国はあなたがたのものだからです。」この幸いに立って、私について来なさい。とイエス様は語っておられるのです。

210203 Ⅰテサロニケ5:1-11 「今しているとおり」

Ⅰテサロニケ5:1-11 「今しているとおり」

 テサロニケ教会はパウロの第二次伝道旅行において誕生しました。ヨーロッパで最初の教会が誕生したのがピリピ。その後、パウロ一行はテサロニケに向かいます。そこにはユダヤ人の会堂があり、そこで3週間、パウロはイエス・キリストこそが聖書の語る救い主であることを論証いたしました。その結果、幾人かのユダヤ人と大勢の神を敬うギリシャ人が信じました。ところが、妬みにかられたユダヤ人がならず者を集めて、暴動を起こし、ヤソンの家を襲ったのです。ヤソンはテサロニケでパウロたちを迎え入れた家の者です。この暴動によりパウロとシラスはテサロニケに留まれず、ベレヤへと逃げ落ちることとなるのでした。
 たった3週間の滞在で教会が建ったということは聖霊による驚くべき御業です。しかし、同時にパウロには十分に福音が伝えきれなかったという心残りがありました。テサロニケのユダヤ人指導者はわざわざベレヤにまで追いかけて、そこでも群衆を扇動して騒動を起こします。パウロはさらにアテネ、そしてコリントへと移動します。この時のパウロは行く先々で迫害に遭い、逃れるように次の町へと移動しました。そしてコリントでようやく落ち着くことができたパウロは、気がかりだったテサロニケの信者のことを聞くためにベレヤに残したテモテを呼び寄せました。テモテの報告を聞くと、案の定、テサロニケの信者の中に混乱があるようです。例えば、キリストがもうすぐ再臨するのだから働く必要は無いと考える者や、すでに死んでしまった者は再臨に与れないと考えて悲嘆にくれる者たちがおりました。異教的な生活に戻ってしまう者もおりました。そんな彼らの誤解を解き、信仰を励ますためにこの手紙がしたためられました。
 今日の箇所は、4章で再臨における死者の取り扱いについてが記され、そのことを踏まえた上で今をどのように生きるかということに言及したところです。主の再臨は「突如」「滅び」として襲い掛かり、誰も「逃れることはできず」、しかし信仰者にとってそれは決して「襲うことはない」ものであって、「救いを得る」ことだとパウロは語ります。「ですから、あなたがたは、今しているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。」と奨めるのです。
 私たちは信仰を持っていても様々に悩み、恐れ、不安になります。私たちにはどれだけ考えようとも先のことはわからないからです。けれど、わからない将来は、主の知られないところではない。私たちは人生を己の手の内から主に委ねることを通して、初めて不安から解き放たれるのです。私たちの悩みは将来に訪れる困難を思いやってのことでしょうか。けれど、これまでの人生の中で、その困難こそが私たちを救いの恵みに導いたことではないでしょうか。主の取り扱いの確かさに気付かされる出来事ではなかったでしょうか。私たちは再臨を恐れます。困難を恐れます。けれどその再臨は、困難は、主にあっては別の意味を持っています。それは救いであり、ご計画であり、主が共におられることの確かさとされるのです。
 主の再臨は必ず来ます。誰も逃れることはできない滅びは必ずやって来ます。けれど、それがいつかは私たちには知らされてはいません。これは大事なことです。いつやって来るか知っていれば、私たちは今はまだ大丈夫と考えるでしょう。滅びる日を逆算して、安心してしまうことでしょう。もしくは、もう何をやっても関係ない、どうせ終わりが来るのだからと刹那的に振舞うことでしょう。けれど、私たちのそういう生き方を神は望んではおられません。ルターは「たとえ明日世界が滅亡しようとも、今日私はリンゴの木を植える。」と言いました。永遠の約束をいただいた私たちにとって、死も再臨もその過程でしかありません。私たちは今日できることを粛々と行うのみです。「ですから、あなたがたは、今しているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。」