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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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210328 ルカ7:24-35 「見るべきものは」

ルカ7:24-35 「見るべきものは」

 ヨハネの弟子たちの訪問に群衆はさぞかし興奮したことでした。あの有名なヨハネがわざわざ弟子たちを送りつけて教えを乞うなんて、やっぱりイエス様はすごい。という具合です。けれどそこには、例のごとくパリサイ人や律法学者たちも紛れ込んでおりまして、ヨハネを貶めるような話をするわけです。それこそ、ヨハネの着るものですとか、暮らしぶりを馬鹿にするんですね。そんな群衆に向かって、イエス様はヨハネについて語り始めます。「あなたがたは、何を見に荒野に出て行ったのですか。風に揺れる葦ですか。では、何を見に行ったのですか。柔らかな衣をまとった人ですか。ご覧なさい。きらびやかな服を着て、ぜいたくに暮らしている人たちなら宮殿にいます。では、何を見に行ったのですか。預言者ですか。そのとおり。わたしはあなたがたに言います。預言者よりもすぐれた者をです。」
 ヨハネを見にわざわざ荒野まで出かけて行って、風に揺れる葦を見ていても仕方ないわけです。きらびやかな服を来て、贅沢に暮らしている人を見たければ宮殿に行けばいいわけです。預言者を会いに行ったんだから、預言者の言葉を聞かなければ意味がありません。つまり、話の争点がずれていると指摘しているのです。預言者に問われるのは預言そのものです。神のことばを預かっているならば、たとえ年が若かろうと、老いていようと、乱暴者であろうと、臆病者であろうと、そんなことは関係がないのです。
 イエス様はヨハネが預言者として最も優れていると言われます。なぜでしょう。預言者とは神のことばを預かって、神のみこころを告げ知らせる者だからです。これまでの預言者たちは民の罪を指摘し、悔い改めて神の救いを待ち望むように伝えたのです。けれどヨハネは違います。ヨハネはいずれ来る救いではなくて、今まさに来ている救いを語るのです。イエス様その人を指さしまして、「見よ。世の罪を取り除く神の小羊。『私の後に一人の人が来られます。その方は私にまさる方です。私より先におられたからです』と私が言ったのは、この方のことです。」(ヨハネ1:29-30)と紹介します。ヨハネほど明快に救い主を告げた預言者は他にはおりません。イエス様が「女から生まれた者の中で、ヨハネよりも偉大な者はだれもいません。」とおっしゃられるのは、このためです。
 イエス様は続けて言います。「しかし、神の国で一番小さい者でさえ、彼より偉大です。」神の国で一番小さい者。とはつまり、救われて神の子として生まれ変わった者のことです。全てのキリスト者です。救いを待ち望む者よりも、救いを指さす者よりも、救いを経験した者が誰よりもキリストを証言できるのは当然のことです。イエス様の到来はもはや預言者を必要としなくなるのです。
 一方で、預言者の声も、イエス様の福音も、キリスト者の証言をも拒み続ける人たちがいます。パリサイ人や律法学者たちです。イエス様は彼らを譬えて言います。「広場に座り、互いに呼びかけながら、こう言っている子どもたちに似ています。『笛を吹いてあげたのに、君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってあげたのに、泣かなかった。』」とです。彼らはバプテスマのヨハネが来てパンも食べず、ぶどう酒も飲まずにいると、『あれは悪霊につかれている』と言います。けれどそれは、ヨハネが人中を避け、神の御声に集中するためにです。ぶどう酒を飲まないのはナジル人としての生活をしていからであります。地上の歩みの一切を神のみこころを伝える預言者として献げたのです。また彼らはイエス様が来て食べたり飲んだりしていると、『大食いの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ』と言って非難します。しかし、それはその人たちを救われるべき魂としてご覧になっているからです。そこには救いを必要とする人々がいます。イエス様が非難されるのは、その愛の故なのです。パリサイ人や律法学者たちの論点のずれ様です。預言者が来て、その預言に耳を傾けず、暮らしぶりや服装ばかり見ていても仕方ないのです。救い主が来て、その救いの御業に目を留めず、その福音の調べに耳を傾けずでいては、意味がないのです。
 私たちの常識や、私たちの願望、私たちの必要、まずそういったものを一切脇に置かなければなりません。主が語り、お見せになっている御業があるのに、枝葉ばかりを気にしていてはいけないのです。私たちが気にかかるそのことは、果たして主の御業よりも大事なのでしょうか。安息日に労働しないことや罪人たちと食事をしないということは、その人が癒されること以上に大切なのでしょうか。絶望から希望へ。目の前に新しく生まれ変わった人々がいます。知恵の子たち。ここを見なければ。その一人一人の変化こそが神の知恵の正しさなのです。

210324 Ⅰ歴代誌2:1-20 「神の民に連なる者」

Ⅰ歴代誌2:1-20 「神の民に連なる者」

 イスラエルの子の系図が記されています。1章でアダムから始まりアブラハム、そしてイサク、エサウとヤコブ(イスラエル)、までの系図が記され、特にエサウの系図が記されています。2章では、もう一方のヤコブ(イスラエル)の系図が記されているわけです。ヤコブの12人の息子と、それに連なる者たち。特にダビデに連なるユダ族の系図が詳しく記されています。
 さて、私たちには退屈な名前の羅列に思えますが、これを読む当時の人々にとっては、とても重要で、大きな意味を持っていました。なぜなら、この歴代誌を読むのは、バビロン捕囚から帰還し、凡そ1世紀が経った頃のユダヤ人だからです。故国帰還を果たし、神殿の再建を成し遂げたユダの民ですが、近隣諸国の圧迫や異教徒との結婚、日々の生活に追われると言った様々な問題を抱えて、次第に神殿礼拝をないがしろにし、偶像礼拝に陥っていきました。第2次帰還民の指導者として帰還したエズラは故国のそのような現状を打開すべく、「主の律法を調べ、これを実行し、イスラエルでおきてと定めを教えようとして、心を定めていた」(エズラ7:10)のです。歴代誌はこのエズラによって記されたと言われています。何のためにか。それは帰還したユダヤ人のルーツを探り、神の民としてのアイデンティティーを取り戻すためにです。彼は一方で律法を調べ、一方で歴史を調べます。神の民として、自分たちの信仰による生き方を取り戻し、神礼拝をよみがえらせるためにです。
 ですから彼らにとって系図とは、特にユダ族、ダビデに連なる系図は特別の意味を持っているのです。ダビデは王となって最初に神の箱をエルサレムに迎え入れます。その子ソロモンは神殿を建設し、国の中心を神礼拝と定めます。その後に記されるのは、神の民イスラエル(ユダ族)の歴史。神殿を尊び、神に従った王は祝福を受け、神に背き偶像礼拝に陥る者は災いを受ける。民族の歩みは、彼らの生き方の指針です。エズラは目の前の生活だけに目を向ける視野の狭い民に、民族の歴史と言う広い視点から、神の民の生き方を教えているのです。

 視点を広く持つということは、私たちにとっても大事な点であるとおもいます。私たちはともすると目の前のことだけに目を向けがちです。私にとって損か得か。今の自分にとって楽しいか、楽しくないか。そういう視点になりがちです。けれど私たちもまた神の民イスラエルの系譜に連なる者なのです。ガラテヤ3:7「ですから、信仰によって生きる人々こそアブラハムの子である、と知りなさい。」とあります。私たちは神の民として生きることに使命をいただいているのです。先人を見れば、私たちの幸いが神と共にあることは明らかです。同様に、私たちの生き様が、私たちの後の世代に神の存在を証しするのです。想像してみましょう。自分の葬式が開かれるとして、その式の中で神の名は称えられているでしょうか。それとも呪われていることでしょうか。それは私たちの生前の生き方によって決まるのではないでしょうか。私たちが神に信頼して生きることが、私たちに課せられた使命です。私たちの日常での讃美こそが、地上における神の証しとされるのです。

210321 ルカ7:18-23 「目で見て、耳で聞いて」

ルカ7:18-23 「目で見て、耳で聞いて」

 バプテスマのヨハネとは、イエス様の誕生に半年先立って生まれた預言者であり、まだ二人が母のお腹の中にいる頃から互いの存在を認め合う間柄であったその人です。彼はイエス様がまだ公の働きをされる以前から、神の国を説き、罪の悔い改めを勧め、水のバプテスマを授けておりました。おそらく地上のイエス様の使命を最も理解していた人物がこのバプテスマのヨハネであります。そのヨハネが「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、ほかの方を待つべきでしょうか。」と尋ねるのです。何だか違和感を感じるところです。実は、並行箇所のマタイの福音書では、「さて、牢獄でキリストのみわざについて聞いたヨハネは、」(11:2)とあります。この時、ヨハネは領主ヘロデ・アンティパスによって牢に捕らえられていたのです。
 つまりヨハネはこの時、自身の死を覚悟しているということです。彼の父ザカリヤは「主の御前に先立って行き、その道を備え、神の民に、罪の赦しによる救いの知識を与える」と、息子について預言しました。そしてその通り、彼の生涯は自分のためではなく、後に来る方の道備えとして全て費やされました。今、ヨハネは牢の中にいます。今彼が弟子たちにすべきことは何でしょう。それは救い主と出会わせることに他なりません。本当なら彼らを率いてイエス様のもとに駆け付けたいのです。この者たちをよろしくお願いしますと預けたい。けれど、それはできません。物理的に無理な話ですし、彼を慕う弟子たちもまたそれを望まないでしょう。そんな彼らを無理なくイエス様と引き合わせるために、ヨハネは彼らにイエス様への質問を言付けたということなのです。
 「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、ほかの方を待つべきでしょうか。」この質問は、ヨハネこそがいつも弟子たちから問われる質問でした。この方こそキリストではないか。人々はヨハネにそのような期待を抱いたのです。ヨハネはそれがイエス様であることを誰よりも知っています。ですから、その質問はイエス様にこそ向けられるべきなのです。ヨハネは弟子たちがイエス様に尋ねるべき質問を、彼らに言付けたのです。
 イエス様は言います。「あなたがたは行って、自分たちが見たり聞いたりしたことをヨハネに伝えなさい。目の前で起きているこの現実こそが答えだ。と言われるのです。では、おいでになるはずの方とはどういう方なのか。救い主とはどういう者なのか。それは人々を扇動して国を興す英雄ではありません。体の弱った者、貧しい者、人々から疎外される者。そういった一人一人に触れ、癒し、生かし、希望の言葉が掛けられる。神殿から排除された罪人たちが、神の癒しと恵みの内に加えられる。これこそが救いであり、私なんだと、イエス様はおっしゃられるのです。イエス様にとっては、世界を変えることよりも、社会を変革することよりも、そのような人を見つけ、手を触れ、涙を流し、明日に向かって生きる希望を与えることのほうがよっぽど大事なことなのです。
 この箇所ではヨハネの弟子たちが、ヨハネの言付けたことを尋ねるという場面が描かれていますが、同じようにイエス様に「あなたは私が待ち望んでいた救い主ですか」と尋ねる人は後を絶たなかったと思います。イエス様の噂を聞きつけ、イエス様のもとに集った大勢の人々。けれどそれだけじゃありません。今、この福音書を読むテオフィロが、そして、後の時代の全ての人がイエスは本当に救い主なのか。と問い続けてきたのです。皆がめいめいに自分の救い主を思い描いて、あなたは救い主ですか。と問う。そんな問いかけに、イエス様は、あなたの目で見て、耳で聞きて決めなさいと言われる。病の人が癒され、貧しい人たちに福音が届けられる。死を待つしかなかった者たちが、生きる喜びに溢れている。感謝の声を上げている。この現実を見て、あなたが自分で決めなさい。と、こうおっしゃられる。そこには否定しがたい救いの喜びが溢れていたからです。
 ここで一つ考えたいことは、もしもイエス様の周りに、喜びではなくて、不満や憤りで溢れていたらどうだったかということです。もちろん病が癒され、罪が赦されれば、人々は喜び感謝します。けれど、ともすると、私たちの喜びは日常の忙しさの中に消えていくのです。信じていても喜べない時がある。けれど神の子とされた私たちの顔が晴れやかでないのなら、人々はイエス様こそ救い主と、どうして知ることができるでしょうか。むしろ、つまずいてしまうのではないでしょうか。もちろん私たちが神の子とされたことに疑いはありません。けれど私たちがイエス様から目をそらし、耳を塞いでしまうなら、今日受ける喜びを手放すことになるのです。ですから、信じたことに留まらず、今日主に目を向けることが大事です。今日御声に聞くことが大事です。目で見て耳で聞けば、そこには否定しがたい恵みがあります。恵みを受けるかどうかは、私たちに任されているのです。

210317 アモス5:16-27 「災いの中で思う」

アモス5:16-27 「災いの中で思う」

 主の日を待ち望む者に対し、「主の日はやみであって、光ではない。」と言われます。「暗闇であって、輝きはない。」とも言われます。これは私たちにとって望まない預言ではないでしょうか。主の日は光なのではないでしょうか。主の日は待ち望むべき日ではなかったのでしょうか。けれどそう単純ではありません。イスラエルの人々は、主の日とは自分たちの敵を討ち滅ぼされる日と理解していました。だから主よ、早く来てください。早く来て私たちの敵を滅ぼしてください。と祈り続けてきた。けれど、主はそんな彼らの鼻をへし折ります。主の裁きは全ての人に及ぶ。もちろん、あなたも例外ではありませんよ。と語られるのです。
 考えなければならないことは、彼らは宗教的には大変熱心だったということです。彼らは毎日のいけにえを献げ、十分の一を神殿に納め、集会、祭り、儀式をにぎやかに執り行っておりました。災いを告げるアモスの預言は、決して神を知らない異邦人に向けられているわけではないのです。
 21節に「あなたがたの祭りを憎み、退ける。」とあります。きよめの集会のときのかおりも、全焼のいけにえも、穀物の献げ物も喜ばない。和解のいけにえも見向きもしない。ことごとく彼らの礼拝を受け入れないと言われるのです。彼らの目に見える熱心さは、主の目に適うものでは無かったのです。詩編51:17には「神へのいけにえは砕かれた霊。打たれ砕かれた心。神よあなたはそれを蔑まれません。」とあります。彼らの心が真に悔い改めに導かれているなら、そして彼らの礼拝、奉仕が心から神への感謝に満たされているなら、神が彼らを退けることは決してあり得ません。そうでないのは彼らが見えるところを繕うばかりで、心からの悔い改めに至らないからです。彼らは自分たちの不信に気付いていないのです。彼らは自分たちが熱心な信仰の持ち主だと自負していたのです。私たちは見えるところを繕ってもダメなのです。
 この民に向けて、あまりにも過激な災いの預言がアモスを通じて語られるのです。新型コロナと言う疫病を経験する私たちにとって、あまりにも核心を突く神のことばに思わず息を飲むところではないでしょうか。しかし、私たちは神のみこころを説くアモスの預言に真摯に耳を傾けなければなりません。神が下す災いの目的が4章に記されています。食糧危機、干ばつ、穀物の病気、いなご、疫病、戦争、地震。幾度となくもたらされる主からの災いは、神の残忍さによるのではありません。「それでも、あなたがたはわたしのもとに帰って来なかった。」私たちは忘れがちですが、災いの前に彼らの不信仰があったのです。そして、その不信仰な民が立ち返ることを望まれ続けられる神がおられるのです。神はあらゆる手段を用いて、私たちが神のもとに帰ることを望んでおられるのです。神は諦めません。神はどこまでも私たちを救いたいのです。
 もちろん、だから私を救うために災いがもたらされたとは言いません。救いの手段のために新型コロナ・ウィルスという災いがもたらされたのではありません。けれど、この災いを意味あるものとするかどうかは、私たち次第です。私たちの礼拝は、神に受け入れられているでしょうか。私たちの祈りは、奉仕は、神の喜ばれるものでしょうか。主は私たちの心をご覧になります。私たちの献げ物は何から来ているでしょうか。喜びからか。感謝からか。それとも習慣か。偽善か。私たちが主から受けた恵みに立つとき、その献げ物は心からの感謝となります。私たちは災いの中でこそ、まず主の十字架に立ち返るべきなのです。

210314 ルカ7:11-17 「泣かなくてもよい」

ルカ7:11-17 「泣かなくてもよい」 

 イエス様がナインという町を訪れた丁度そのとき。町の門から葬儀の行列が出てきました。行列の中で一人崩れ落ちるかのように嗚咽する女性がおり、それを黙って支える人々の一団がある。この女性の関係する者が亡くなったことは明らかです。事情を聞くと、この女性は過去に夫に先立たれ、今また一人息子を亡くしてしまったのです。この子が彼女の生きる理由であったことは容易に想像できます。夫を亡くした悲しみも先を思うと溢れ出る不安も、この子を育てる使命感が乗り越えさせてくれました。我が子を思えば前を向くしかありません。明日のことなどわからず、その日その日を精一杯に暮らして、我が子はようやく青年と呼ばれるほどに成長いたしました。前途洋々。これからが楽しみな若者。彼自身、成人の儀にはお母さんに誓ったことではなかったか。これからは僕が楽をさせてあげるからね。そして、そんな息子の頼もしいセリフに目を細めながら、小さな幸せを噛みしめた母であったことではなかったか。ところがその自慢の息子が夫に続いて死んでしまったのです。
 死を前にして人は無力です。どうすることもできない現実がそこにはあります。私も知り合いのご家族のお通夜に行きますと、何と声をかけて良いのかわからない、ということがよくあります。安易な慰めの言葉はかえってその人を辛くするように思えるからです。その気持ちがわかればわかるほど、私たちはその悲しみを前にして言葉を失います。けれど、イエス様は違いました。イエス様には泣く者にかける言葉があった。その母親を見て「泣かなくてもよい」と言われたのです。なぜなら、イエス様は死に対して全く違う理解を持っておられるからです。このところで、「主はその母親を見て深くあわれみ」とあります。以前の訳では「かわいそうに思い」とありました。イエス様は彼女の境遇をかわいそうに思われます。彼女が今どれほど深い悲しみにいることかを知って寄り添われます。けれどそれだけでない。ここにはもっと根本的なあわれみがここにはあります。それは彼女が息子の死に際して絶望しか無いという現実。そして、そんな彼女に誰も何の言葉もかけられない現実。つまり、死を前にして無力でしかない人々の現実を目の当たりにして、イエス様はかわいそうに思われる。気の毒に思われる。死が人の生涯を支配している現実をあわれんでおられるのです。
 私たちは死と言う現実を、どのように見るでしょうか。人生の終わりと見るでしょうか。それは永遠の別れであり、絶望であると見るでしょうか。ナインのやもめもまた、死と言うものを一切の終わりというように考えていました。ですから、息子の死と言う現実に、ただただ泣き崩れるしかありませんでした。そこには、何の希望もありませんでした。けれど、イエス様はそのようには見ておられません。死は終わりではなくて、その先に神と共にある永遠がある。死は永遠への通過点である。イエス様は後に自らよみがえられることによって、そのことを明らかにしてくださっています。
 第1テサロニケ4:14には次のようにあります。「イエスが死んで復活された、と私たちが信じているなら、神はまた同じように、イエスにあって眠った人たちを、イエスとともに連れて来られるはずです。」イエス様が死に勝利された故に、イエス様に連なる者も、死に勝利するのです。私たちの死は、もはや永遠の別れではない。それは眠りのようであり、ひとときの事であり、やがては目を覚まし、よみがえって、再び主の下で出会うことが約束されているのです。私たちは愛する人の死に際しても、なお望みがあるし、悲しみに沈む必要がない。後悔することも、怖れることもなく、神の御名を褒め称える事ができるのです。
 ですから、キリスト者はもはや死を前にして「泣かなくても良い」と言うことができるのです。死が終わりだと考える人々は死を前にして泣き崩れるしかありません。かける言葉が見当たらず、「泣けるだけ泣きなさい」と現状を受け入れさせることしかできません。けれど、死の先を見る私たちは決定的に違います。「天での再会がある」。「また会いましょう」と言えるのです。

210310 民数記35:16-34 「復讐の権利を捨てて」

民数記35:16-34 「復讐の権利を捨てて」

 35章では、各部族の相続地の運用についてが語られています。各部族はそれぞれの相続地において、レビ人のための町と放牧地を用意することが命じられました。具体的にはレビ人が住む町として42、逃れの町として6つ、そしてそれぞれに放牧地を設けることが命じられ、これらの町々はイスラエルの相続地全体に行き渡るように設けられました。

 さて今日の箇所の16節からは、故意の殺人と過失による殺人のケースが紹介されています。事細かに記されるのは、これが復讐と密接に繋がっているからです。新約の時代に生きる私たちには驚くべきことですが、聖書は復讐を否定してはいません。なぜならそれは殺された者の家族にとっては当然の怒りであり、悲しみであるからです。命に対しては命が問われるというのは、神に対してだけではなく、人に対しても言えることです。
 けれど、どんな場合でもそれが構わないというわけではありません。それが故意であるか、過失であるか、それによって扱いが全く違います。殺意ある殺害に対しては復讐が認められています。けれど、それが過失である場合はその誤って殺してしまった人は逃れの町に入ることが許されているのです。この逃れの町にいる間は、たとえ被害者の家族と言えど、復讐をしてはならないと命じられました。けれど、もしもこの加害者が逃れの町の外にいるならば、復讐をしても構わないとされました。あくまでもこの加害者が逃れの町に留まる時、その者は復讐から逃れることができたのです。
 けれど、誤って殺したのだとしても、遺族にとってそれは立派な殺人です。愛する人の死のために、悲しみ、復讐心に駆られます。ですから、主はそれがたとえ故意でなかろうとそれを無罪とはなさいません。どんな事情があったとしても、人を殺せば恨まれるし、町を追われなければなりません。そうでなければ残された遺族は、町で相手を見かける度に恨みを増し加え、復讐の思いを背負い続けなければなりません。逃れの町に入ることは、定められた狭い土地に生涯を過ごすことです。その町から離れることは復讐の危険を負うことです。ですから、その者は自分の意志でそこに居続けなければなりません。決して居心地の良い町ではないでしょう。そこに住むのは、自分と同じように、誰かを殺したというすねに傷のある者たち。置いてきた家族を不憫に思いながら閉ざされた町中で生涯を暮らすと言うのはかなりのストレスです。さながら大きな独房のよう。現代の独房システムと違うことは、その町から出ることはいつでもできるということです。彼らは被害者の家族を復讐者とさせないために、そこに居続けることが命じられるのです。つまり、そこに居続けることが彼らの罪滅ぼしなのです。

 イエス様の十戒の解説などを聞いている私たちは、何となく、復讐を前提としたこの命令に違和感を覚えるかもしれません。けれど忘れてはならないことは、人を殺すということはそれほど重大な罪であるということです。殺した人にも人権がある。と言うかもしれませんが、殺された人にも人権はあったのです。もちろん、殺された遺族にもです。人が人の命を奪うなら、必ずその命をもって清算されなければならないのです。「あなたがたは、自分たちのいる土地を汚してはならない。血は土地を汚すからである。土地にとって、そこで流された血は、その血を流した者の血以外によって宥められることはない。」とある通りです。つまり、復讐と言う過激な報復手段を認めているのは、それほど人の命は重いということの表れなのです。そもそもの主の命令は「殺してはいけない」であることに疑いの余地はありません。
 ですから復讐にせよ、公開による処刑にせよ、裁きというのは、個人の判断でなされてはいけません。聖書は一人の証言、賄賂を禁じています。それは公の場で、誰もが納得のいく形で、複数の証言を吟味して、ようやく祭司によって定められるのです。それは慎重でなければなりません。ヘロデによるイエス様の裁判が如何に不当であったかが伺い知れます。そして不当な扱いに対しても、従順に受け入れられたイエス様の十字架の姿に、私たちは復讐を超えた憎しみからの解放を見るのです。復讐は傷つけられた者の正当な権利です。けれど、復讐によって満足することはできません。復讐すれば死んだ者が生き返るのなら大いにやるべきですが、そうはなりません。復讐を果たして得られるのは、空しさと新たな憎しみの連鎖のみです。模範解答はイエス様にあります。真の平安は復讐を手放す先にあるのです。

210307 ルカ7:1-10 「おことばをください」

ルカ7:1-10 「おことばをください」

 この百人隊長は任務に忠実で、ローマとユダヤの関係改善に努め、大変人望のある人だったようです。4節にユダヤ人の長老たちの言葉があります。「この人は、あなたにそうしていただく資格のある人です。私たちの国民を愛し、私たちのために自ら会堂を建ててくれました。」これは単に、ローマの隊長の命じられたからという義務観からの言葉ではありません。もっと純粋な、この百人隊長に対する友情のようなもの。彼のためになら手間暇を惜しまない。そういう熱心さでありました。
 長老たちの説得に、イエス様は百人隊長のもとへと向かいます。ところが、イエス様が百人隊長の家の近くまで来たとき、彼は友人を遣わして言います。「主よ、わざわざ、ご足労くださるには及びません。」なぜなら自分には資格がないからだと言うのです。先ほど、長老たちはこの百人隊長のことを「この人は、あなたにそうしていただく資格のある人です。」と紹介しました。なぜなら、彼はユダヤ教に大変好意的な異邦人で「私たちの国民を愛し、私たちのために自ら会堂を建ててくれ」たからです。
 会堂を建てたから資格がある。皆のために奉仕したから資格がある。これを誇るのは確かに露骨ですけれども、どこかでそういう考えってあると思うのです。よく神社やお寺に行きますと、鳥居や境内を囲む壁に名前が刻んであったりいたりします。あれは、沢山の奉納があったときにその感謝の表れとして名前を刻むわけですね。この人は神社建設にこれだけの貢献をした信心深い人ですよ。という具合です。こういう考えって、とてもよくわかりますし、実は私たちもどこかで持っているのではないか。あの人は奉仕をいっぱい頑張っていて本当に信仰深い人だ、とか。あの人は沢山の献金を献げているから、教会にとって一番大切な人だ。というようにです。だって、これって社会では当然の理屈ですよね。会社のパーティーにスポンサーの社長がやって来れば主賓級で迎えられるのは当然のことです。これだけ貢献をしたから、この人には救いを求める資格がある。こういう目に見える行いは当時のユダヤ教において信仰の一つの指標となっていたわけです。
 けれど、彼は自分にはその資格がないと告白します。彼は目に見えるところで自分の信仰を見ていません。彼は自分の内なるところを見ます。そしてイエス様の前に相応しくない己を告白するのです。それは彼がイエス様を真の救い主であり、神の子であると信じている証拠です。またそれは、彼が異邦人であったということも関係したことでしょう。ユダヤの地に赴任し現地の人々と接して、彼らの信じる神に興味を持つようになり、次第にその興味は信仰に近い物に至るのです。彼はユダヤ人と親しい交際を重ねて、異邦人には気難しいユダヤ人たちも彼を歓迎し、彼のためなら一肌脱ごうと思うほどに彼は受け入れられていきます。それでも彼とユダヤ人の間には見えない一線がありました。彼は割礼を受けた神の民ではないのです。ユダヤ人は生まれて8日で割礼を受けることが決まっているわけで、神の民として生きることに何の疑問も覚悟も持っていないわけです。それは当たり前なのです。けれど異邦人にとって神の民となるということは本当に大きな覚悟がいるのです。百人隊長は病気のしもべを心配して、イエス様に来ていただきたいと願いました。けれど、いざ実際にイエス様が来られると聞きますと急に不安になった。こんなに罪深い自分がイエス様と会う資格などあるのだろうか。神の民でもない自分がイエス様を迎えいれても良いものだろうか。とです。
 しかし、だからもうお帰りくださいとは至らない。ここが彼の素晴らしいところです。私たちなら遜ることと卑下することを履き違えて、願うことすら諦めてしまうところかもしれません。彼は自分が資格がないと十分すぎるほど承知してはいますが、それでも尚、イエス様に救いを願うことを諦めません。「ただ、おことばを下さい。そうして私のしもべを癒やしてください。」それはイエス様のことばには神の権威があると信じているからです。イエス様はこの百人隊長の言葉を聞いて「あなたがたに言いますが、わたしはイスラエルのうちでも、これほどの信仰を見たことがありません。」と感心なさったのです。
 ユダヤの長老たちや12弟子をも差し置いて褒められたのは、自身の罪深さを認めた上で、尚も諦めることなくイエス様に救いを求める信仰でした。謙遜を装うのではありません。罪を認めるべきです。己の内に救いは無いと認めるべきです。けれど、だからこそ、それでも願い続けることが大事なのです。イエス様は私たちの信仰こそ望まれるからです。

210303 民数記31:42-54 「私利私欲で戦わず」

民数記31:42-54 「私利私欲で戦わず」

 31章の初めに「ミデヤン人にイスラエル人の仇を報いよ。その後あなたは、あなたの民に加えられる。」とあります。あなたの民に加えられる。とは、死んだ民の数に加えられる。ということです。つまりモーセの生涯で、最後の務めが命じられているわけです。それが、このミデヤン人への報いです。ではミデヤン人への報いとは何でしょう。それは25章に記されていた事件。イスラエル人がモアブの娘たちとみだらなことをし始めたことをきっかけにバアル・ペオルを慕うようになり、そのことが主の怒りとなって燃え上がり24,000人のイスラエル人が神罰で死ぬという事件。この事件に対しての報いです。
 このモアブの娘たちはミデヤン人でありました。ミデヤン人はエドムの東から紅海に至るアラビヤ砂漠に住んでいた民で、イシュマエル人、モアブ人、アマレク人などの様々な部族連合の総称だそうです。イスラエルがモアブの草原に宿営したとき、モアブの王バラクはこれを恐れて、占い師のバラムに呪いを依頼しますが思惑通りには行かず、次の策として考えたのが、このモアブの娘たちを用いての懐柔策でありました。敵対して勝ち目がないなら、懐に入ろうというわけです。しかしこの結果、イスラエルの民は偶像礼拝を行い、神の怒りを買って24,000人もの命が取られるというバアル・ペオルの事件が起きてしまいました。神はこの事件を決して軽く扱われません。むしろカナンに入る前のどうしてもやるべきこととして、この仇討を命じておられるのです。
 何となく、残酷な仕打ちに見えるでしょうか。しかし、主はもともと「モアブに敵対してはならない。彼らに戦いを仕掛けてはならない。あなたにはその土地を所有地としては与えない。わたしはロトの子孫にアルを所有地として与えたからである。」(申命記2:9)と命じておられました。ですからイスラエルは彼らの土地を迂回して北上しました。最初からイスラエルにはモアブをどうこうとするつもりはなかったのです。けれどモアブがイスラエルを恐れ、あれこれといらぬ策を講じたがために、イスラエルの民の偶像礼拝を招き、本来死ぬ必要のない民がたくさん死にました。もちろんだからと言って淫行したイスラエルの民を擁護することはできません。彼ら24,000人はことごとく死に絶えました。しかし、一方でミデヤン人の処遇を曖昧にしたままで、カナンの地に入っていくことを主は許しません。イスラエルと現地の民との淫行は、主への裏切り行為であると、内外共に知っておく必要があったからです。
 モーセは各部族から1000人を戦いに出させて1万2千人の軍を整え、ピネハスを大将としてミデヤンの地に送り出します。結果イスラエルはミデヤン人の男子を全て殺し、女性や子どもを捕らえ、家畜や財産をことごとく奪い取るという大勝利をおさめました。

 さて、今日の箇所はこの戦いによって得た戦利品の戦後処理についてが記されています。実は25節から続いている一連の文章です。まず戦利品の総数が確認され、それを従軍した民とそうでない民とに二分します。従軍した民の取り分から、500につき1を主のための奉納物として、エルアザルや祭司に渡されました。一方、従軍しなかった残りの民の取り分から、50につき1をレビ人の取り分とされました。
 特筆すべきは、戦利品の中の腕飾りや指輪などの装飾品もまた主に献げられたということです。総量16,750シェケル。1シェケルは11gと言いますから、183,700g=183.7kgの金が奉納されたということです。これは主の命じるところではなくて、自主的な献げ物でした。それはこの戦いで一人の死者も出なかったということに対する感謝の応答でした。規定通りのささげ物をしているのですから、普通はその他のものは自分の物。特に装飾品は先の戦利品の一覧に載っていませんから、奪い取った兵たちの取っ払いと言いましょうか、文字通り戦利品なわけです。羊や牛やろば、奴隷はイスラエルの共有の戦利品でした。けれど装飾品は見つけて奪い取れば、火を通して清めることは必要でしたが、それさえすめば自分のものとなったのです。実はこれは戦いに参加することの旨味だったのです。ところがイスラエルの兵たちはその装飾品を惜しむことなく主に献げています。それは彼らがこの戦いを私利私欲の戦いにせず、主の戦いであると理解していたからでした。
 思えば、私たちはあらゆる出来事のほとんどを自分の戦いとしてはいないでしょうか。自分のための戦い、自分一人で頑張る戦い、自分だけが受け取る戦い。けれど、そこには主の守りが確かにあるというのに、それを見ないようにはしてはいないでしょうか。独りよがりな相撲をしているのではないでしょうか。主が共におられる戦いを、私利私欲で戦うなら、私たちはその結果も一人で負わなければなりません。けれど、それを主の戦いとして参加するとき、主は私たちの身と心を守り、確かな勝利へと導かれるのです。

210228 ルカ6:43-49 「心に満ちていることを」

ルカ6:43-49 「心に満ちていることを」

  「良い人は、その心の良い倉から良い物を出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を出します。人の口は、心に満ちていることを話すからです。」とイエス様はおっしゃいました。良い物を出す人も、悪い物を出す人も、どちらも心の倉から出しているということです。ここでイエス様が問題にしておられるのは、その口から良い物を出しているか、悪い物を出しているか、ということではありません。倉と言うのは物が蓄えられるところです。ですから、その口から悪い物が出ているなら、それは蓄えられているものが悪いのです。その倉に良い物が蓄えられていれば、必然と良い物が出るのです。ですから、イエス様がこのところで問うておられるのは、心の倉から何を取り出しているかではなくて、心の倉に何を蓄えているかということです。
 イエス様はここでもう一つのたとえ話をされています。家の土台の話です。土台を据えた家は、たとえ洪水が来ようとびくともいたしません。しかし、土台を無視して家を建てれば、洪水が来たときに家はすぐに倒れてしまいます。イエス様は土台を据えるということを、わたしのもとに来て、わたしのことばを聞き、それを行う人だと言っています。一方土台なしの人のことを、聞いても行わない人と言っています。聞いて行う人と、聞いても行わない人。実はこの「聞く」と「行う」の間には、蓄えるということが大事です。どれだけ聞いていても、聞き流しているだけでは、行いには結びつかないのです。聞いたことを心に蓄えることが大事です。
 イエス様の言葉を聞き、イエス様の姿を凝視し、イエス様の言葉と生き方を蓄えている人と、イエス様の言葉をはいはいと言って聞き流し、イエス様の生き方を彼方の出来事として流し見る人。イエス様の言葉と生き方が蓄えられている人は、何があっても、蓄えられたイエス様の姿に倣うことができます。イエス様ならどうしただろう。イエス様は何と言っていただろう。生活のあらゆる場面で、イエス様の影を追うことができます。いつもイエス様を身近に覚え、励まされ、蓄えられた言葉に道を示されて生きることができます。けれど、イエス様の言葉を聞き流し、イエス様の姿を流し見しかしていない人はどうでしょう。そういう人は、あらゆる場面で、イエス様に頼ることができません。当然です。心の倉に、良い物が蓄えられていないからです。無い袖は振れないからです。
 スーパーのお菓子売り場で、よく小さい子どもが駄々をこねる場面を見かけたりします。幾つか原因はありますが、その一番は、語彙力の無さです。小さな子どもはまだ言葉があまり蓄えられていないので、自分の感情を伝える適切な言葉が思い浮かばないのです。だから伝えたいけど伝えられない。わかってもらえない。そのことが歯がゆくて、苛立って、泣き叫ぶのです。同じように、御言葉が蓄えられていなければ、私たちは主の御声に聞けないのです。私たちはどのように主の御声に聞くと思いますか。旧約の預言者たちのように、天からの雷鳴と共に神の御声を聞くのでしょうか。もちろん、それが無いとは言いません。ルターがまさにそうでした。私たちも、もしかしたらそういうことがあるかもしれない。けれど多くの場合はそうではありません。私たちは心に蓄えられた御言葉によって聞くのです。
 46節に「なぜ、あなたがたは、わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、わたしの言うことを行わないのですか。」とあります。行いたくとも、行えないのです。イエス様だったらどうされたか、その見本が無いのです。イエス様は何と語られたか、その語録が無いのです。だから「主よ、主よ」と呼ぶことはできても、御声の通りに行えません。洪水の中で土台を築こうとしてもそれでは遅すぎます。土台は洪水が来る前にこそ築かれていなければなりません。その違いは、晴れている内はあまり関係がないかもしれません。祈らなくても、御言葉を蓄えずとも、日々の生活を何と無しに過ごすことはできます。けれど、やがて洪水は押し寄せるのです。ですから大事なのは、今日と言う日常の中で御言葉に聞き蓄えることです。いつ目が見えなくなるかわかりません。いつ手が動かせなくなるかわかりません。けれど御言葉が心に蓄えられているならば、私たちはいつでも御言葉に聞くことができます。いつでもイエス様を思い出せます。私たちは主の御声を天から聞くのではありません。私たちの心の倉からこそ聞くのです。