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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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210428 使徒4:1-12 「本質を見極めて」

使徒4:1-12 「本質を見極めて」

 ペテロとヨハネの逮捕と裁判の場面です。神殿の東側にある美しの門で起きた足の萎えた人の癒やしは騒動となり、人々はペテロとヨハネを追いかけてソロモン回廊に群がりました。するとペテロは集まった群衆に向けて、キリストの十字架と復活。信仰による癒やしを語り、悔い改めを迫ります。突如として伝道集会が開かれたのです。御言葉を聞き、信じた男性の数だけで5000人。とんでもない騒ぎであったことは想像に難くありません。特に宮で死者の復活を語ったということが、サドカイ人には許せません。駆けつけた祭司や宮の守衛長含むサドカイ人たちによって二人は捕らえられる結果となりました。
 4章はその翌日に開かれた裁判の様子です。民の指導者、長老、律法学者が招集されたというのは、ユダヤ教の最高議会サンヘドリンが招集されたということです。民の指導者はサドカイ人です。長老は民の代表、律法学者とは主にパリサイ人たちです。サドカイ人とパリサイ人が一同に介しているのです。ですから、ここでの尋問の内容は「おまえたちは何の権威によって、また、だれの名によってあのようなことをしたのか」という漠然としたものでした。逮捕の折に問題となった死者の復活の問題は、パリサイ人も含まれるサンヘドリンにおいて話題に出すのはご法度。必ず紛糾してまとまらない案件になってしまうからです。後にパウロはこのサドカイ人とパリサイ人の立場の違いを利用して、尋問を切り抜けたりいたしますが、ペテロはこの質問に対して真正面から答えています。
 ペテロはまず「あのようなことをしたのか。」という尋問がいったい何を意味しているのかを言及いたします。これが大事です。それは一人の病人に対する良いわざと、その人が何によって癒やされたかということに尋問の範囲を限定するのです。表面的な部分を見れば、聖なる宮に騒動を起こしたことを告発されているわけです。信じた男性だけで5000人。信じなかった者や、女性や子どもを合わせれば、いったいソロモン回廊にどれだけの人が群がったことでしょうか。秩序を乱す出来事が突如として起こったわけで、その中心にいるのがペテロとヨハネの二人だったのです。そこだけを見れば捕らえられて当然。けれど、ペテロは病人の癒やしの出来事にのみ言及いたします。これはなにも話を誤魔化そうとしているのではありません。問題の本質をあぶり出しているのです。なぜ、人々がソロモン回廊に殺到したのか。なぜ、人々がペテロの説教に聞き入ったのか。それは一人の病人の癒やしから来ているのです。生まれつき足が萎えて、一人では歩くこともできず、毎朝宮の前に運ばれてきては施しを受けていた彼。誰からも路傍の石程度にしか思われていなかったその病人が今完全に癒やされたのです。だから人々が群がったのです。神の業がなされたからです。
 この事実を元に、ペテロはこの御業が十字架と復活のナザレ人イエス・キリストの名によると答えます。この時ペテロは「あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせた」と言います。そしてこの出来事が「あなたがた家を建てる者たちに捨てられた石、それが要の石となった。」という詩篇118:22の御言葉の成就であったことを語ります。
 この二人がイエスの弟子で、あの十字架の裏の顛末を知る者たちだと明かされる。そして、群衆たちの熱狂の原因が、あの十字架のイエスに起因されると知った議員たちの衝撃は大きなものだったでしょう。イエス様の十字架の出来事は未だ冷めやらぬ事件だったわけです。夜中のサンヘドリン招集。異例づく目の裁判。彼らにとってもあの出来事は拭いきれない後ろめたさを伴って記憶に残っています。そして、そのイエスの名の下に、驚くべき奇跡がなされたのです。
 物事の本質を見極め、御言葉の裏付けが語られる。加えて動かしがたい事実に基づく。ペテロたちの大胆さは、神の前に潔白であることの故です。もはや議員たちに処罰する術はありません。ペテロとヨハネは最高議会を相手に、何ら罰せられること無く、釈放を勝ち取るのです。
 今日の箇所からは、何か事が起こった時、表面的な部分だけを見て、憶測や希望や感情で判断することの危険を覚えます。議員たちは、表面的な騒動だけを見て声を荒げました。死者の復活を語ることに怒りを覚え、感情的になってペテロたちを捕らえたことでした。けれど実際の出来事は一人の生まれながらの病人の癒やしだったのです。騒動ではなくて、神の御業です。見方を変えれば全く別の側面が見えてきます。だからこそ、私たちは冷静に、本質を見定める必要があります。御言葉に聞き、事実を検証し、神のみ前に正しいかどうかを祈り判断するのです。

210425 ルカ8:4-15 「耕された心で」

ルカ8:4-15 「耕された心で」

 イエス様は種蒔きの話をされます。当時は種を蒔いてから畑を耕しました。ですから種があちこちに飛び散ってしまう。中には不毛な地に落ちて根も芽も出さないということがありました。けれど良い地に落ちた種は百倍になる。これはもう当たり前の話です。ところで、これはたとえ話だったんですけれども、群衆はそれに気付いたでしょうか。多くの人は気付かなかったと思います。イエス様が解説をなさっていないからです。多くの人は、イエス様が単に種蒔きの話をされたんだと、疑問を持たずそのまま受け取ります。けれど一部の弟子はこれが気になって尋ねたのです。
 質問を受けて、イエス様は改めてたとえ話を解説なさいます。種とは御言葉のことで、落ちた土地は御言葉を受ける心のことだと明かされるのです。
 道端に落ちた種が気付かずに人に踏みつけられ、さっさと空の鳥に食べられるように、聞いた御言葉が何一つ心に引っかからないという人がいます。そういう人はそもそも御言葉を求めていないのです。信仰の話をしていて、「ああ、この人は難しいな」という方が時々おられます。最初から否定することを前提で話される人です。わからない人や迷っている人。疑っている人は良いのです。これから学んで行けば良いからです。けれど、結論をすでに決めて拒絶される方がいます。そうすると、もうどんな言葉も上滑りして会話が成り立ちません。まず心が開かれていなければ、御言葉は私たちに影響することなく簡単に取り去られてしまうのです。
 岩の上に落ちた種のように、御言葉を表面的に聞いて喜ぶ人もいます。感情で聞く人と言ってもいいでしょう。こういう人は御言葉の正しさよりも、自分にとって心地が良いか、悪いか。感動するか、しないか。を優先いたします。ですから都合の良い御言葉には耳を傾けますけど、都合の悪い御言葉、耳に痛い言葉には聞く耳を持ちません。御言葉を選り好みするのです。けれど、そういう人はいざ試練の時、御言葉に信頼することができません。都合の良い御言葉だけを聞いて来た人が、都合の悪い状況を認めるなどできるはずがないからです。本当はそういう状況でこそ支えてくれるのが御言葉なのにです。
 茨の中におちた種のように、御言葉と他のものを共存させる人がいます。信仰に生きることと、快楽にふけることが相反しない人。それはそれ、これはこれと割り切れる人です。こういう人は場面場面で仮面を付け替えることができる器用な人です。教会では教会の顔。社会では社会の顔。どこでも良い顔をしがちで、しかしそれだけに、何をやっても満足できず、どこにあっても悩みが尽きず、結局、富や快楽といった一時しのぎで、己の不安を誤魔化そうとするのです。
 イエス様はこういう人たちのことを聞く耳のない人と言います。そして、聞く耳を持ちなさい。とです。イエス様のたとえ話は解説を聞くととてもわかりやすいです。イエス様は私たちにしっかりと心を耕して御言葉に聞きなさい。とおっしゃられるのです。
 今日の箇所を難しくしているのは、イエス様が最初からは解説をなさらなかったということです。イエス様は「あなたがたには神の国の奥義を知ることが許されていますが、ほかの人たちには、たとえで話します。『彼らが見ていても見ることがなく、聞いていても悟ることがないように』するためです。」と言われます。イエス様の解説を聞けばあんなにもわかりやすいのに、なんでイエス様は最初から解説をなさらなかったのか。
 それはつまり、イエス様が弟子たちに自ら尋ねることを求めておられるからです。イエス様がどれだけ語ろうと、目の前で不思議な御業がなされようと、悔い改めに結びつかない大勢の民がいるのです。奇跡の数々に大喜びの人はたくさんいます。病が癒やされ、食べ物をいただき、イエス様について行こうとする者は大勢います。けれど、イエス様の御心を理解しようとする者は一握りです。イエス様はこの一握りを求めておられるのです。マルコ書を見ると、一連のイエス様の教えが終わって、一部の弟子たちが12弟子と共にたとえ話の意味を尋ねたのは、群衆が解散して後だったようです。イエス様の前に集まった多くの人は否定的だったり、選り好みしたり、二心で聞いていたのです。そして、そういう人たちは三々五々に帰って行ったのです。けれど、その中で一握りだけ真剣に聞き、その場に残って尋ねた弟子たちがいました。その真摯な姿を見て、イエス様は「あなたがたには神の国の奥義を知ることが許されています」とおっしゃられたのです。私たちもまた聞く耳を持つ者でありたいと思います。御言葉に信頼する者には百倍もの祝福が約束されているからです。

210421 使徒1:12-26 「御心に委ねる」

使徒1:12-26 「御心に委ねる」

 オリーブ山でイエス様の昇天を見届けた弟子たちは、エルサレムに戻り、泊まっていた家の屋上の部屋に上がりました。オリーブ山からエルサレムまでは「安息日に歩くことが許される道のり」とあります。それはおよそ1.2Kmほどの道のりと言いますから、大した距離ではありません。むしろ目と鼻の先と言える距離です。つまりルカは、イエス様と分かれたあと、弟子たちはすぐに祈り始めたということが言いたいわけです。帰って一眠りしようとか、まずは腹を満たそうとか、ではなくて、彼らは部屋に入ってそのまま祈ります。11弟子と女性の弟子たち。それにイエス様の母マリアも一緒でした。
 15節からは新しい段落に入ります。十分に祈りが積まれる、その上で、弟子たちによる宣教が開始されるのです。
 祈りの輪は徐々に増えていき、総勢120人ほどの人々が集まっておりました。その中心に立ってペテロは言います。「イエスを捕らえた者たちを手引きしたユダについては、聖霊がダビデの口を通して前もって語った聖書のことばが、成就しなければなりませんでした。」そして、21節。「ですから」と言葉を改めて、話の本筋に移ります。ユダの代わりに使徒を選ぶという話です。つまり、これは使徒職の権威に関わる問題ですが、ユダの裏切りがあったからと言ってイエス様が設けられた使徒職が貶められることはないということを説明しているわけです。
 その上で欠員が出た使徒職の補充が提案されます。「主イエスが私たちと一緒に生活しておられた間、すなわち、ヨハネのバプテスマから始まって、私たちを離れて天に上げられた日までの間、いつも私たちと行動をともにした人たちの中から、だれか一人が、私たちとともにイエスの復活の証人とならなければなりません。」その条件はイエスの復活の証人であることとしています。ヨハネのバプテスマから昇天まで。イエス様の振る舞い、言動、その一切の証人となること。それが使徒選出の条件であると言うのです。もちろんそれ以外にも、人柄だとか、資質だとか、誰が相応しいかと話し合ったと思います。けれど、その根底は、イエス様の証人となるのに、誰が相応しいかということです。なぜなら使徒職とは自分を売り込むことではないからです。イエス様を証しすること。つまりイエス様の前に自分が出てはいけないのです。十分な話し合いの結果二人が選ばれました。バルサバ(ユストというヨセフ)とマッティアです。
 そして面白いことに、一番大事な最後の人選はくじによって行うのでした。そんないい加減なことでいいのかと思われるかもしれません。最後の最後まで話し合って、多数決を取って、皆が納得した形で決めたほうがいいんじゃないか。けれど、そうではありません。多数決によって決めるとき、必ず不支持の人々が出るわけです。少数の意見を塗りつぶす形で物事を決める時、そこには必ず禍根が残ります。上手く言っている時はそれでも良くとも、いざ問題が起きた時、失敗した時、それ見たことかと責任論に発展するのです。だから最終決定は主の手に委ねるのです。思えばイスラエルが約束の地カナンに入るときにも、くじによってでした。イスラエルは最終的な結果を主に委ねるのです。そうでなければ土地の争奪で今度は内紛が起きていたでしょう。
 さて、ここに私たちが物事を決める時の順序が提示されています。まず祈りが積まれ、次に十分な考察がなされ、さらにその上で主の御心に委ねるのです。主の御心に委ねるとは分かりづらいかもしれません。言い換えると、結論を急がないということです。祈りを重ね、最善を尽くしながらも、尚、結論を急がない。主の御心ならば不思議と道が開かれていくのです。状況が整っていくと言いましょうか。私が献身を決意して道が開かれるまで3年ほどの月日を過ごしました。献身の思いが与えられ、それから2年ほどかけて仕事を引き継ぎ、その後1年間教会でスタッフとして研修を受けました。全部放っぽりだして献身することもできましたが、私にはその3年が必要でした。この間に献身に至るための障害は自然と取り除かれ、道が自ずから開かれた経験をいたしました。神様の導きに確信を持って従うことができました。祈りと十分な準備が成されるとき、私たちの道は自然と開かれていきます。私たちにとっても示された道を受け入れる備えが整います。私のタイミングが成るのではありません。主の時が成るのです。ですから早急な決断をする前に祈ることが大事です。備えることが大事なのです。

210418 ルカ8:1-3 「奉仕する婦人たち」

ルカ8:1-3 「奉仕する婦人たち」
 
 イエス様の一行には中心的な12弟子だけがいたのではなくて、それを支える大勢の婦人たちがいたということを、今日の箇所は紹介しています。実はマルコの福音書では、15:40-41十字架のイエス様が息を引き取られる場面で、「女たちも遠くから見ていたが、その中には、マグダラのマリアと、小ヤコブとヨセの母マリアと、サロメがいた。イエスがガリラヤにおられたときに、イエスに従って仕えていた人たちであった。このほかにも、イエスと一緒にエルサレムに上って来た女たちがたくさんいた。」とありまして、ガリラヤ時代からイエス様に従って仕えていた婦人たちがいたということを紹介しているんですが、その扱いはあくまでも十字架のシーンで出てきた婦人たちの説明文としてさらりと記す程度です。これをルカはきちんとガリラヤ伝道の場面で紹介しているわけです。
 マグダラのマリアとヘロデの執事クーザの妻ヨハンナ、スザンナ、その他の女たち。これらの女性たちは、自分の財産をもって彼らに仕えていた。とあります。ここがルカの言いたいことです。皆さんは福音書を読んでいて、イエス様一行がいったい旅の資金はどうしていたのか。食事はどうしていたのか。と疑問に思ったことはないでしょうか。まさか、毎度まいどイエス様がパンと魚の奇跡を施していたとは考えられません。時々、食事に招かれたことは記されますが、それにしたって毎日ではないはずです。宣教活動に入られたイエス様たちが働いて賃金を稼いでいる様子もありません。それどころか、町の中に入れないことや、命を狙われることまである。山あり谷あり荒野ありの宣教の旅で衣服はボロボロ泥だらけになる。いったいどうやって日々を過ごしていたのかと思うわけです。けれど、その答えがここにある。彼女たちが支えていたのです。
 何気ない記事ですが、私はルカがこの記事を記したことは凄いことだと思います。それは全然特筆すべきことではないからです。イエス様の素晴らしい教えでも、目を疑うような奇跡でも、弟子たちの失敗でも、パリサイ人たちの企みでもない。何の変哲もない日常の記録です。しかし、彼女たちの隠れた奉仕がなければ、イエス様一行の宣教活動はあり得なかったのです。
 ルカは、その隠された奉仕に光を当てます。それは隠された奉仕ですが、当たり前の奉仕ではないと言うのです。隠れた奉仕。隠れた配慮。隠れておりますから、意識しなければ気付か無いかもしれません。気付いたら司会者が立ち、気付いたら奏楽がなっている。気付けばお花が飾られている。けれどそれは当たり前にあるのではありません。そこには多くの時間と労力を献げる一人ひとりが確かにいます。もちろん誰かに評価されるために奉仕しているわけでは無いでしょう。主の恵みに応じて、与えられた賜物、預けられた財産を持って主に仕える私たちであります。けれど、それでもルカは、その隠れた奉仕があることをはっきりと記すのです。
 このことは現代における教会の歩みにもそのまま当てはまることです。教会の歩みは、隠れた奉仕の一つ一つが支えてきたのです。教会の歴史を振り返る時、例えば歴代の牧師や記念となる行事などが思い浮かぶことでしょうか。けれどそれはすごく偏った歴史でありまして、実は教会の歴史というのは、そういう記憶としては留められることのない、毎週の礼拝であり、地味な奉仕の積み重ねだと思うのです。それらは決して特記すべきことでは無いかもしれませんし、評価されはしないかもしれません。しかし、そういう日々の奉仕の積み重ねが、間違いなくこの教会を築いて来たのです。教会の歴史には、いつも隠れたところで、配慮する人々がいます。気付かないところで祈り、献げる奉仕があります。そういう一人ひとりの心配りが、教会の交わりを築いて来ました。
 教会の交わりを豊かにする秘訣が2つあります。一つは奉仕に評価を求めないということ。もう一つは隠れた奉仕に感謝するということです。どちらか片方だけでは足りません。どちらもが大事です。感謝されない奉仕は義務感を生み出します。評価を求めた奉仕では決して満足できません。もちろん、それらを超えた主の祝福があるというのは確かです。奉仕は主のために献げるものです。けれど、誰かを想って時間を献げ、誰かの労に感謝することは、教会における愛の交わりなのです。

210414 Ⅱテサロニケ2 「まず背教が起こり」

Ⅱテサロニケ2 「まず背教が起こり」

 パウロは主の日は、「まず背教が起こり、不法の者、すなわち滅びの子が現れ」ると言っています。私たちは主の再臨の訪れがどのように来るか知っているでしょうか。私が学生の頃、教会成長運動というものが流行り、全世界へ福音を宣べ伝えることが盛んに語られました。全世界へ福音をとは、もちろんイエス様の大宣教命令に由来する教えで、それは教会の使命の一旦を述べています。また、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)とありますから、主の再臨は世界の隅々まで福音が宣べ伝えられ、教会が成長し、人類が皆キリスト者となったその先にあると思っていたことがあります。神の国の拡大の頂点に主の再臨があるとです。だから頑張って宣教することが主の再臨を早めることになるんだと。こういう話も聞いたことがあります。
 けれど今日の箇所を見ると、ちょっと様子が違います。背教が起こり、不法の者、滅びの子が現れる、その先に主は再び来られると言うのです。主はこの世界の裁きを猶予してくださっているわけです。主は私たちが滅びるのを良しとせず、待ってくださっている。けれど主の日の前日、サタンの働きがいよいよ活発となり、不法の人が現れ、滅びの子が現れるのです。もはや一刻の猶予もない。もはや待つことができない状況となって、主は来られると。来臨の輝きをもってその者たちを滅ぼされる。と言われるのです。驚かれるかもしれませんが、主の再臨を待ち望むことは、主の裁きを待ち望むことと同義です。私たちにとって、それは新しい体でよみがえる日の希望ですが、主を知らない者にとって、それは永遠の滅びなのです。
 このパウロのメッセージを当時の人々はどう聞いたことでしょう。考えなければならないことは、このテサロニケ教会の置かれた状況が迫害や批判の真っ只中であったという事です。テサロニケのユダヤ人は、パウロを排除しようと行く先々にまで追いかけるほどに執拗な者たちでした。彼らは迫害の急先鋒でした。テサロニケのキリスト者はそういうユダヤ人たちの目を掻い潜りながら、信仰を守っていたのです。ですからそういう状況に置かれた彼らが、再臨という教えを曲解して握りしめ、現実から目を逸らせようとしたことはある意味当然なことなのです。彼らは今ある現実に疲れ切っていました。ですから、もう、どうでもいい。全てを投げ出したい。主の日は来たのだから、もう頑張る必要はない。じっとしていよう。黙っていよう。そんな彼らにパウロは言います。主の日はまだ来ていないとです。そして、主の日の前に、滅びの子が来るという現実を語ります。つまり今は終末の世なのだと。けれどその先に、主の再臨による勝利が必ずあると語るのです。
 再臨信仰というのは、私たちの地上の生活に目をつむらせるユートピア信仰ではありません。困難な現実があります。もう投げ出したい。早く御国に入れてほしい。この生命を取ってほしい。確かにそう思う困難な日々があるのです。けれど御言葉は、そのような困難は主の想定されることだと言います。終末の世。主の再臨を前に、「まず背教が起こり、不法の者、すなわち滅びの子が現れ」るのです。けれど、その先に、主の再臨がある。主の正しい裁きが行われる。再臨信仰とは、困難な現実を認めつつ、しかしその先にある確かな勝利に希望を抱く、信仰者の地上での生き方のことです。主の日は必ずやって来る。だから今を懸命に生きよ。これが再臨に希望を置く信仰です。

210411 ルカ7:36-50 「涙の結果」

ルカ7:36-50 「涙の結果」

 パリサイ人のシモンの家でイエス様が食事に招かれた時のことです。町で評判の罪深い女性が、突然、香油の入った石膏の壺を持ってイエス様に近づいて来たのです。シモンは大変驚いたことでしょう。他の者たちも、ここに至るまで誰も止めなかったのは、気付かなかったというよりも、呆気にとられたということではなかったか。それほど異様な光景が目の前にありました。この女性は泣きながら近付いて来ました。涙が思わずイエス様の足を濡らすほどに、本格的に泣いていました。そしてイエス様に粗相をしたことに気付いて、慌てて自分の髪の毛で拭い、その足に口づけをして香油を塗ったのです。ジャパニーズホラーですか?とツッコミたくなるような場面です。イエス様との大事な食卓でこの女はいったい何てことをしてくれるんだ。と言う話です。けれど、それだけではありません。シモンはこの女性に対する非難とともに、イエス様に対する非難の思いも抱くのです。なぜなら、イエス様には一向にこの女性を非難する様子も、遠ざける様子もないからです。100歩譲ってこの女性の粗相を許したとしても、そもそもこの女性は罪深い者ではないかという話です。イエス様が預言者なら、この者の罪深さを知っているはずです。知っているならこの女をすぐに追い出すはずです。預言者は罪を指摘し断罪するのが使命だからです。なのにイエス様は成されるがままであります。シモンは物言わぬイエス様に不信感を抱くのです。
 イエス様はシモンに五百デナリと五十デナリの借金を帳消しにしてもらった二人の話をします。どちらがより金貸しを愛するようになるかとです。もちろん、五百デナリを帳消しにしてもらった人の方でしょう。多く赦されれば、多く恩を感じるからです。シモンもそう答えましたし、イエス様も「あなたの判断は正しい」と太鼓判を押します。とてもわかりやすいたとえ話です。
 その上で、イエス様は彼女の方を向いて、シモンに言われます。「あなたは足を洗う水をくれなかったが、彼女は涙でわたしの足をぬらし、自分の髪の毛でぬぐってくれました。」「あなたは口づけしてくれなかったが、彼女は、わたしが入って来たときから、わたしの足に口づけしてやめませんでした。」「あなたはわたしの頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、彼女は、わたしの足に香油を塗ってくれました。」シモンとこの女性の比較をしながら、この女性の振る舞いを評価されるのです。なぜイエス様は先程、借金を帳消しにしてもらった人の話をされたのでしょう。それはシモンとこの女性を、二人の借金まみれの人に当てはめて語るためです。先程のたとえ話で、考えなければならないことは、どちらも借金を赦してもらったという事実です。二人が並べられると、どっちが愛するようになったかという話になります。けれど、本来、赦してもらったことへの感謝は個別の話です。額は違えど二人共、絶望的な状況を赦してもらったのです。五十デナリといえば2ヶ月分の給料に匹敵するような金額。赦してもらえれば、土下座して感謝するところです。隣を見るから、大したことないように思うわけです。つまり、イエス様はこのたとえ話を通して、神の前にシモンも女性も何の言い訳もできない罪人に過ぎないことを暗示しているのです。なのに、あなたはこの女性を蔑み、自分の義を誇るのか。とです。イエス様は言われます。「赦されることの少ない者は、愛することも少ないのです。」赦されることの少ないと感じるのは隣の芝生を見ているからです。神の恵みはその人その人に十分なはずなのです。
 この女性は涙を流しながら現われたのです。粗相をして人々の批判を浴びて泣き出したのではありません。人前に出ることは彼女にとって苦痛だったと思います。それでもイエス様の前に出てきたのは、彼女が自分の罪をきちんと悲しんでいるからです。この状況を何とかしたい。罪から脱したい。神に受け入れられたい。と心から願っているのです。だからこそ彼女はイエス様の前に涙して出てきた。彼女の振る舞いは涙の結果なのです。彼女の涙はしかしいつまでも後悔の涙ではありません。イエス様に出会い、イエス様から声をかけられます。「あなたの罪は赦されています。」彼女の涙は安堵の涙。喜びの涙と変えられるのです。
 シモンもまたこの涙を流すべきなのです。他人と比較して義を誇っても仕方がありません。神の前に己を晒して探るべきです。そして罪を認めて、正しく涙を流すべきなのです。イエス様は涙する者を決して退けられません。黙示録で語られるのは、涙した者の行き着く約束です。「神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」

210407 Ⅰ歴代6:54-81 「霊的ルーツに立ち返って」

Ⅰ歴代6:54-81 「霊的ルーツに立ち返って」

 レビ族の詳しい系図については、6章の前半部分にはレビ族の詳しい系図が記され、今日の箇所ではその所有地が記されています。ですから、6章全体でレビ族の出自を紹介しているわけです。
 ここに書かれる所有地を見ると、時代の推移による名称の変化はあるものの、ヨシュア記21章に記されるものとほぼ同じであることがわかります。このことがどういう意味を持つか、私たちは考えなければなりません。この歴代誌が書かれたのは、ユダの民がバビロン捕囚から帰還して、およそ1世紀が経った預言者エズラの時代です。およそB.C450頃のことです。一方、ヨシュアのカナン侵略がB.C.1400頃です。およそ1000年近く昔に定められたレビ族の相続地の記録が、詳細に記されているのです。これは凄いことです。他の11部族の相続地はわかりやすいのです。記録も残っていたでしょうし、口伝えの伝承もあったでしょう。けれどレビ族は他の部族とは根本的に違います。彼らはまとまった土地を得ず、それぞれの他の部族の土地の中に、ポツンポツンと相続の町と放牧地が与えられたのです。その記録が詳細に調べ上げられ、今こうして記されます。そこにはエズラの志というものを感じ取るわけです。
 帰還民が国に帰って、1世紀。彼らは再建されたエルサレム神殿を中心に生活をしていたわけです。けれど徐々に神殿礼拝は形骸化し、異民族との結婚が進み、偶像礼拝に陥っていきました。エズラたち第2回帰還民がエルサレムに到着したとき、そこには堕落した民の様子があったのです。エズラはヨシヤ王の時代の宗教改革に貢献した大祭司ヒルキヤの子孫です。彼自身、祭司であり、学者でもありました。秩序のないエルサレムの実情に、エズラは神の律法に立ち返ることを決意します。彼はユダの記録を遡り、自分たちのルーツ。神の民としての生き方を探るのです。
 このとき、エズラはイスラエルの12部族の祖まで遡るのです。国が滅び、バビロン捕囚を経験し、帰還した民はユダヤ人でした。彼らはもともとは南ユダに住む人々でした。彼らはユダ族とベニヤミン族、それに一部のレビ族でした。けれど、エズラはそもそもの原点である、カナン入居の12部族にまで立ち返るのです。12部族の所有地が明らかにされます。だからといって彼らがそれぞれの所有地に分かれて住んだということではないでしょう。帰国した土地には、すでに様々な異民族が移り住んでおりました。サマリヤ人もおりました。帰還した民の人数も大した数ではありません。ですから彼らは相変わらず、エルサレムを中心に、元南ユダ王国の地域を中心に住んでいたことでしょう。けれど、エズラの志はユダ王国の再建ではありません。このカナンに初めて入った頃の志。まだ見ぬ土地に神様の約束だけを頼りに入っていったあの神中心の生き方に立ち返ろう。そういう志ではなかったか。

 イエス様の誕生の折、ヨセフとマリヤはダビデの町ベツレヘムに登録に向かうわけです。部族として登録された町と、実際に住んでいた土地が違うのは、このエズラの時代に、部族毎の町が確認されたからです。彼らは日常生活を過ごしながらも、霊的な故郷を意識して過ごしたのです。それは意識しないと薄れていくものです。日常を過ごすことは決して簡単なことではありません。日々起こる出来事、問題に私たちの心は掛り切りになります。心配事があとを絶ちません。周りの人に気を遣い、上手くやっていくためには、相手に合わせて生きなければなりません。私たちも日々たくさんの妥協を経験し、清濁併せ呑みながら過ごしていることではないでしょうか。だからこそ意識しなければ、いつでもこの世の価値観に飲み込まれてしまう私たちなのです。週の歩みを礼拝を持って開始する。日々の歩みを御言葉と祈りを持って迎える。私たちの日常の中に、神礼拝を意識して組み入れることが大事です。祈祷会に来られる方はそのことを重々承知であろうかと思います。時間を決めて捧げることは面倒です。日々の雑用に時間を取られ、あれもこれもと追われる中、まぁいいかとしがちです。けれど、その時間を神に捧げることが、実は私たちの霊的な防波堤を築くのです。私たちは神に身を捧げるその時間によって整えられ、守られるのです。

210404 マルコ16:1-8 「空っぽの墓」

マルコ16:1-8 「空っぽの墓」

 有力議員でありイエス様の弟子でもあったアリマタヤのヨセフが、イエス様のからだを引き取って、墓に納めるわけなんですが、安息日がもう迫っておりましたので、ろくな葬りができませんでした。マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤ、そしてサロメはこのことに大変心を痛め、何とか人並みの葬りがしたいと思い、安息日が明けてすぐ、週の初めの日の明け方早くに、イエス様の墓にやって来たのです。しかし墓穴を塞ぐ石はどうしようか。兵士たちは自分たちを中に入れてくれるだろうか。道すがら様々な心配をあーでもない、こーでもないと話しながらやってまいります。ところが驚いたことに墓に着いてみますと、すでに石が墓からころがしてあったのです。何があったのか。慌てて墓の中を確認いたします。しかし、イエス様のからだはどこにも無かったのです。
 イエス様の亡骸の代わりに、そこには真白な長い衣をまとった青年が座っておりました。マルコの描写では墓に着くとすでにこの青年がいたように見えます。けれどルカを見ますと、彼女たちが到着ししばらくして気が付くといたという書き方です。マタイはと言いますと、地震が起きて主の使いが現れ彼女たちの目の前で墓の石をどけたとあります。どうやらこの青年がイエス様の亡骸を隠したとか盗んだという訳ではないようです。ではいったい、イエス様の亡骸はどこに行ってしまったのか。彼女たちは必死に墓の中を探します。すると青年が声をかけられるのです。
 「驚くことはありません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められていた場所です。」いえ、驚くべきことなのです。イエス様が十字架で死なれて、墓に葬られたのは事実なのです。彼女たちが実際に見ましたし、ピラトの命令でローマ兵が確認し、墓を見張っているくらいなのです。それなのに、墓の石は横に転がされ、中に主イエスの亡骸がなかったんですね。
「ここにはおられません」と言いますが、そこにいないはずがないのです。彼女たちには何が起きたのか全く理解ができません。
 私たちはこの空っぽの墓がイエス様の復活を意味するんだと知っております。けれど彼女たちにとって「空っぽ=蘇られた」とは、到底思い付かないことでした。彼女たちは、居るはずのない青年の存在に恐れ、気が転倒して、墓を出て逃げていくのでありました。
 まぁわからなくもないですね。しかし、考えてみますと、イエス様は以前から、事あるごとにご自身の死と復活をお語りになっておられたのではないでしょうか。なぜ、彼女たちはこれらのことに思いが及ばなかったのか。散々に聞いてきたことなのに、目の前に起こった出来事と結びつかなかったのはなぜなのか。それはつまり、彼女たちの内にある常識がそれを邪魔したのです。彼女たち自身がこれまでイエス様の言葉を聞きつつも、復活のイエス様を思い描けません。死んだ人が生き返るはずはない。彼女たちの持つ常識が、彼女たちの信仰を塞いでいるのです。だから彼女たちは、この空っぽの墓を前にして絶望し、青年の言葉に恐怖したのです。
 このようなことは、私たちの日常にもままあることではないでしょうか。他の誰でもない。私たち自身が、神様の御業を信じることができないでいる。そういうことはないでしょうか。死人が蘇る。そんなことは普通はあり得ない。こういう世の常識で空の墓を覗き込むとき、そこには絶望しかありません。しかしです。御言葉に信頼して覗き込むとき、墓が空っぽであることが、むしろ希望になるのです。もし空っぽでなくて、イエス様の亡骸が変わらずそこにあったならば、それは絶望の確認でしかなかったのです。空っぽで、イエス様の亡骸が消えていたから、そこには復活の希望があるのです。
 時として絶望に思えるような出来事が起こります。神はどこにいるのかと嘆きたくなるようなことがあります。今世界で起こっている惨状に、恐れを感じます。しかし、どのような絶望も、主の目には違って映っています。そこには主の勝利があるのです。私たちの常識では何もない。解決の見えないような状況が、実は神の働かれるときでもあるのです。