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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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210530 ルカ8:16-21 「キリストの家族」

ルカ8:16-21 「キリストの家族」

 種蒔きのたとえ話で、イエス様は良い地に落ちた種は100倍の実を結ぶとおっしゃいました。よく耕された柔らかい心で、御言葉を聞くならば、溢れんばかりの祝福が約束されている。だから「聞く耳のある者は聞きなさい。」とです。
 イエス様は続けて話されます。「明かりをつけてから、それを器で隠したり、寝台の下に置いたりする人はいません。燭台の上に置いて、入って来た人たちに光が見えるようにします。」イエス様のたとえというのは、それ自体はとてもわかり易くて、もう当たり前のことですね。ランプに油を浸して灯芯に火を点けるわけですが、用もないのに火を点けるほど庶民の暮らしは贅沢ではありません。火を点けるのは、捜し物をしたり、来客を迎えたり、読み物をしたりと、用事がある時に限ります。用事があるから点けるのであって、わざわざ点けた明かりを隠したりすることなんてあり得ません。燭台に置いて、みんなが見えるようにします。これはもう当たり前です。同様に、神の国の奥義は人々に明らかにされなければ意味がない、と言っておられるのです。種蒔きのたとえで良い地に落ちた種は100倍の実を結ぶと言われましたが、それは、神の国の奥義を聞いた者は、それを人々に明らかにする必要があり、人々に明らかにされるからこそ、そこに100倍の実を結ぶわけです。神の国の奥義は独り占めしておくものではありません。
 そしてこのたとえ話の結びとして、「ですから、聞き方に注意しなさい。というのは、持っている人はさらに与えられ、持っていない人は、持っていると思っているものまで取り上げられるからです。」とあります。独り占めにするものでないのだから、最初から人々に明らかにするように聞かなければならないと言うわけです。聞いて行うために聞くのです。みこころを行うために聞くのです。落語家の弟子が師匠の芸を盗むかのようにです。そしてそのように聞きますと、漠然と聞いているよりもよっぽど福音の恵みに目が開かれていきます。そして聞いたことは誰かに話すことで定着いたします。話すほどに自分のものとなっていくのです。
 さてこの流れの中で、イエス様のところに母と兄弟たちが来たときの話が記されています。ここは焦点を母マリアや兄弟たちに合わせて読みますと、何だかイエス様は薄情な方だなぁと思われるかもしれません。マルコの福音書を見ると、マリアたちはイエス様に対する悪い噂を聞いて、心配して連れ戻しに来たことがわかります。ですから、心配して呼びに来た母や兄弟たちを尻目に、イエス様が「わたしの母、わたしの兄弟たちとは、神のことばを聞いて行う人たちのことです。」とおっしゃるなんて、いかがなものかとです。
 けれど、イエス様にマリアたちをないがしろにする意図はありません。ここは焦点が違うのです。この場面の中心はマリアたちにあるのではありません。中心はイエス様の周りに集う人たちです。彼らにこそ目を向けるべきです。では彼らはいったいどういう人たちだったでしょうか。それは病を持ち、自分自身を制御する事が出来ず、心に罪の自責感を抱えた、そのような人たち。ある人はその病の故に、人々から除け者にされ、ある人は悪霊につかれて家族からも見放される。そして、ある人はその罪への自責感のゆえに、自分で自身を捨てている、そういう人たち。自分の内には何の救いも見出せず、けれど、ただただイエス様のことばに希望を置いて、すがりついて、イエス様のもとに集った人たち。今イエス様の周りに座る一人ひとりは、それぞれの言うに言えない事情の中で、キリストと出会い、キリストに従う事を選び取ったそんな人たちであります。キリストのことばに期待し、信頼し、確信して、今、聞いて行う者として、その場にいる。そのような人たちを置いて、肉親の家族のもとに帰ることは、イエス様のみこころではありません。
 ルカには記されていませんが、マルコではイエス様が「ご自分の周りに座っている人たちを見回」す様子が記されます。マタイでは「弟子たちの方に手を伸ば」される様子が記されます。イエス様は、ご自分を慕い、ここにしか希望を見出すことの出来ないでやって来た、そんな一人ひとりを心から憐れんで「わたしの母、わたしの兄弟たちとは、神のことばを聞いて行う人たちのことです。」と語られるのです。どこにも行き場の無い者も、誰にも受け入れられない者も、イエス様のもとにあっては、キリストの家族とされるのです。

210526 Ⅰ歴代誌21:18-30 「失敗の中で」

Ⅰ歴代誌21:18-30 「失敗の中で」

 神の箱をエルサレムの天幕に納めたダビデは、次に神殿の建設を望みますが、主から赦しを得ることはできません。代わりに、主はダビデに約束します。「あなたの日数が満ち、あなたが先祖のもとに行くとき、わたしはあなたの息子の中から、あなたの後に世継ぎの子を起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしのために一つの家を建て、わたしは彼の王座をとこしえまでも堅く立てる。」(Ⅰ歴代誌17:11-12)それは、息子の代で神の家、神殿の建設が成されるという預言。ダビデはこの後、息子に引き継ぐために、王国の拡充と整備に明け暮れることとなります。
 ダビデは周辺諸国に戦を仕掛けて、その行く先々で勝利を得ます。ペリシテ、モアブ、ツォバ、アラム、ハマテ、エドム、アモン、アマレク、ツェルヤ。その勢いは破竹の勢いです。彼はまたたく間に周辺諸国を打ち破り、王国の基盤を盤石のものとするのです。

 さて、そんな中で起きたのが、21章前半に記されるダビデ王の失敗です。それは人口調査をしたことでした。戦争の勝敗を決めるのは、多くの場合、兵の数です。少数で大群と戦うのは奇策の範疇であり、戦の基本は、相手よりも多い人数で戦うことです。ダビデは人口調査を行なうことで、集められる兵の数を把握しようとしたのです。しかし、ことイスラエルにおいては、勝敗の決め手は兵の数ではなくて、主の御心ではなかったでしょうか。度重なる勝利がダビデを酔わせます。自分の手に勝敗の決め手があるように勘違いしたのです。今までのダビデならまず神にみこころをうかがったことでしょう。祈りと捧げものを持って尋ねたことでしょう。けれど、ダビデは彼の経験則の中で人口調査を実施します。しかし、それは神のみこころを損なうことでした。神はダビデを打つための手段を用意します。
 興味深いのは、主が先見者ガドを通してダビデ自身に罰を選ばせるところです。①三年間の飢饉。②三ヶ月間の敵の剣。③三日間の疫病の3つ。この中からダビデ自身が選べと言うのです。 罰を選ばせるとは何と残酷なことでしょうか。なぜなら提示された3つの罰は、どれもダビデ自身ではなく、王国全体に降りかかる罰だからです。自分が犯した罪のために、同胞の命が奪われる。ダビデにとって、これほど辛い刑があるでしょうか。とてもダビデには選べません。ダビデは主に全てを委ねます。「それは私には非常に辛いことです。私を【主】の手に陥らせてください。主のあわれみは深いからです。私が人の手には陥らないようにしてください。」すると主は、イスラエルに疫病を下され、7万人もの同胞が命を失ったのです。このとき主が途中で災いを下すことを思い直さなければ、イスラエルは国中が滅んだことでした。けれど、主は思い直されて災いを止めました。実はこの箇所は言い方は悪いですが、よくぞ7万人の犠牲で済んだ。と言うべき場面なのです。それほど主はこの出来事を重く見ておられるのです。たかが住民登録ごときで、と思います。けれど、これはこれから神に信頼して歩むのか、それとも己の才覚に頼って進むのかという大きな分かれ道です。そして、これまでの主の導きを無視する行為です。主はダビデの高慢を、見て見ぬ振りはいたしません。痛みを持って教えます。抜き身の剣を手に持つ主の使いの姿を目にした、ダビデと長老たちは、恐れ慄き、ひれ伏します。自らが招いた愚かな結末をまざまざと見せつけられたからです。
 すると主は「ダビデは上って行って、エブス人オルナンの打ち場に、【主】の祭壇を築かなければならない。」と命じます。エブス人オルナンの打ち場はシオン山の頂上にありました。そのシオン山の頂上に主の祭壇を築くように。そのために、ダビデはオルナンの土地を買い取り行くのです。この時、必要以上に丁寧な買い取りをするのは、彼の反省から来ることです。「いや、私はどうしても十分な金額で買いたい。あなたのものを【主】に献げるわけにはいかない。費用もかけずに全焼のささげ物を献げたくないのだ。」王である前に、一人の信仰者として主の前に立つダビデです。先に神の箱をエルサレムに招くときにも同じようなことがありました。最初、ダビデは自分の経験則で神の箱を運び、主の怒りを買いました。後に再び神の箱を招き入れる時、ダビデは律法に照らし合わせて慎重に運び入れます。今回も同じです。自分の考えや世の常識ではなくて、主のみこころに従うのです。
 さて、今日の箇所で思うのは、ダビデは最初から名君であったのではないということです。彼は失敗の中で学んでいきました。大きな犠牲の上に、イスラエルを建て上げていきました。彼の偉大さは、失敗の中でへりくだることができるということです。王となれば、むやみに頭を下げることなどできないでしょう。プライドがあります。聴衆の目があります。けれど彼は失敗を認め、頭を垂れるのです。このダビデに習うべきです。失敗をしない者などおりません。失敗を糧とできるかどうかは、その人の謙虚さにかかってきます。ダビデは決して罪を侵さない超人ではありません。偉大な王ですが、失敗を繰り返します。ウザの事件然り、今回の人口調査然り、バテ・シェバ事件然りです。けれど彼はその都度、自らの罪を認めへりくだります。これこそが祝福の秘訣なのです。

210523 使徒2:1-13 「もうひとりの助け主」

使徒2:1-13 「もうひとりの助け主」

 聖霊なる神についてはよくわからないというのが正直なところかもしれません。聖霊なる神は自らを進んで証言なさらないからです。けれどじゃあ、聖霊は私たちから隠れたお方なのかというと、そんなことはありません。聖霊は風のようなお方です。風は掴むことも見ることもできませんが、風が吹くと、木々が揺れ、音を奏でられることで、確かにそこに存在することがわかります。同じように、聖霊はたとえ見えなくても、私たちに関わられ、その結果によってご自身の存在を明らかにしておられます。
 ペンテコステの日、いったい何が起きたのでしょうか。使徒の働きを見ると、「天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。」とあります。また、「炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。」ともあります。超常体験をした。と読めなくもないですが、使徒11章ではコルネリウスとその家族に聖霊が下った時の様子をペテロが報告していますが、その報告を見る限り、彼らにはペンテコステの日のような炎のような舌が現れた様子はありません。ですから大事なのは、そのような現象を経て、結果、弟子たちが聖霊に満たされたということです。
 では聖霊に満たされた弟子たちに何が起こったでしょう。彼らは突如外国語をしゃべりだしました。とても不思議で羨ましい体験ですね。けれど、これも外国語が話せるようになったということ自体が大事なのではありません。外国語と言いますが、どこを基準にするかで、外国は代わります。日本にいれば英語は外国語ですが、アメリカにいれば日本語こそ外国語です。そもそもの話、言葉はあくまでも意思を伝えるための手段に過ぎません。ですから、そのことによってもたらされたことが大事です。つまり、聖霊に満たされた弟子たちによって、福音がそれぞれの国の言葉で語られ、伝えられたということこそが大事です。
 収穫感謝の五旬節の日。エルサレムには諸外国に散らされて住む大勢のユダヤ人が訪れておりました。現在のイランに位置するパルティアやメディア、ペルシャからメソポタミア、ユダヤ、小アジアの属州、エジプトとその西側に位置する地域、ローマに地中海諸国、そしてアラビア。当時の人々にとって、世界中と言っていい地域の人々がエルサレムに集っておりました。その全ての国の人々が、それぞれの国の言葉で福音を聞いたのです。人々はエルサレムで自分たちの国の言葉を聞くことに呆気にとられました。けれど話を聞く内に、彼らは弟子たちの語る言葉の真実に目が開かれていきます。その日、三千人の人々がバプテスマを受け、教会に加えられたのです。
 つまりこれは、復活のイエス様が命じられた「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ16:15)という教えの先駆け、初めての弟子たちによる福音宣教の様子が記されているのです。
 まとめますと、聖霊によって真の回心に導かれたキリスト者たちが、内なる聖霊によって語る言葉を与えられ、そして、人々福音を届ける。これがペンテコステの日に起きた全容です。そして、この時に下られた同じ聖霊が私たち信仰者一人ひとりにも下られているのです。
 外国語が話せるかどうかではありません。一人ひとり語るべき言葉と伝えるべき相手が与えられているのです。もしも神が偉大な奇跡を見せつけられるなら、もしくは主が再び来られるなら、全てが事足りるでしょう。けれど、神は敢えて私たち人間を通して、福音宣教をなさせます。それは私たちに対する主の憐れみです。聖霊が私たちを主の使命のために用いられるのです。

210519 Ⅰ歴代誌16:23-43 「神の宮を前に決意する」

Ⅰ歴代誌16:23-43 「神の宮を前に決意する」

 エルサレムに神の箱を運び込み、天幕の真ん中に安置したことを祝って、ダビデはアサフとその兄弟たちを用いて主を褒め称えます。
 この讃美は8節から続き、今日の箇所の23節からはいよいよその絶頂に至るところです。天地万物の創造の神を称える讃美があり、真の王であられる主の御名を称える讃美がある。それゆえ、ダビデの讃美は全地に向けられており、とても壮大な印象を与える素晴らしい讃美です。王となったダビデが、真の王を称え、讃美する。アサフとその兄弟たちを用いたというのは、つまりこれを公の讃美として、民の前で歌わせたということです。民の讃美がダビデに向けられるであろうその場面で、ダビデは、私にではない。神を讃えよ。真の王であられる神を讃美せよ。と歌わせたのです。
 実はこのダビデによる讃美が切り取られ、詩篇96篇として詩篇の中に収められています。興味深いのは、新改訳聖書には記されておりませんが、ギリシャ語の七十人訳聖書の表題には、「捕囚後に、主の宮が建てられた時の、ダビデの歌」と記されている点です。捕囚後に、ダビデが歌ったということではもちろんありません。時代が違います。バビロン捕囚からの帰還民が、神殿を再建したときに、遥か昔、神の箱がエルサレムに運び込まれ天幕に安置されたときに歌われた、あのダビデの歌が再び讃美された。という意味です。そして、なぜこの詩が選ばれたのか。それはまさしく、神殿の再建を祝うその場面が、神の箱を安置するダビデの心境と重なり合ったからです。
 ダビデが王となって、初めて行った事業が、この神の箱をエルサレムに迎えるということでした。ダビデは他の何を差し置いても、神の箱をエルサレムに迎えたかった。なぜでしょうか。それは彼はイスラエルの王となりましたが、本当の王は神にほかならないということを知っていたからです。そしてこの王国の中心は真の王であられる神によらなければならない。と考えていたからです。この国は神の国であり、私たちは王である神に仕えていく。神の箱を迎えることには、ダビデの王国創りに先立つ決意と指針があったのです。
 神殿の再建。それは単なる建物の再建ではありません。この新しく再建される国の中心に、神がおられる。この国は神を王としてこれからやっていく、という国としての方針の再建です。決意の再建です。神の民のリスタートです。この場面で、ダビデの詩を歌うことは大変理に適っているのです。私たちは王なる神に従っていく。仕えていく。並々ならぬ決意が、この晴れやかな讃美には込められています。
 実はキリスト者である私たちはこの同じ決意を持つことが求められているのです。パウロはコリント人への手紙第一の3:16で言っています。「あなたがたは、自分が神の宮であり、神の御霊が自分のうちに住んでおられることを知らないのですか。」神の御霊を迎えたということの意味を、私たちはよくよく考えなければなりません。それは神が私の王であり、私の主であるということです。私の人生はこのお方とともに生きていく。そう決意するのです。神を神として認め、ひれ伏し、称える。これこそが私たちの礼拝です。ダビデのようにこの世の最も高い地位を得たとしても、神の前には一人の礼拝者です。私たちは神の宮とされました。神の宮とは礼拝するところです。私たちはこの宮で、神を讃美し、礼拝する者でありたいのです。

210516 マタイ9:9-13 「罪のイス」 松原湖バイブルキャンプ主事 鈴木聖仕師

マタイ9:9-13 「罪のイス」

 取税人――文字通り税金取りです。当時はローマ帝国の植民地でした。ローマの人々は、現地の人から「取税人」を雇って税金を集めました。そのことにより取税人は、「祖国の裏切り者」「祖国の反逆者」と呼ばれました。憎まれた理由は、それだけではない。ローマ政府が決めた税金に上乗せをしていた。いわゆるピンハネをしていた。人間の欲は留まることを知らない。最初は少しだけ、弱い人間からはさらに。金持ちからは賄賂をもらうこともあったでしょう。最悪のサイクルが始まります。罪に罪を重ねていく。「収税所に座っているマタイ」は、とても孤独です。私たちも“孤独”を感じることがあります。マタイは、ポツリと座っていました。だれでもいいからひと声かけてくれれば、自分もこんな仕事は放り出して、あの中に加わりたいと。しかし、だれも彼に声をかけてはくれない。名前に戻ります。マルコもルカも、“レビ”と呼んでいます。マタイの福音書、つまりレビ本人が記したこの福音書だけ、彼は取税人時代の「マタイ」という名で通しています。これが取税人マタイです。イエスさまは、自分のことを「医者」と言います。それは、このマタイを招いて、他の取税人や罪人を招いて、イエスさまが食事をいっしょにしておられたときのことです。パリサイ人たちが、批判します。12節「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。
 この病人は風邪を引いている人ではない。病人とは、マタイのように孤独で、人生にさまざまな複雑な事情を抱えて病んでいる人のことです。この日本は、そんな状態の人で溢れています。キャンプにも傷つき倒れそうな人がたくさん来られます。いや奉仕者の中にも傷つき倒れそうな人がたくさんいます。私もその一人です。あなたはどうですか?
 私たちは生きていると、このマタイのように孤独だと感じることがある。なぜと思うことがある。怒りを抑えきれない、赦せない、コンプレックスに押しつぶされそうになる、自分が嫌いでしょうがなくなるときがある。それがマタイです。イエスさまは、ホセアを引用して言います。
 13節 『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。どういう意味でしょうか。いけにえとは、パリサイ人のように、自分の熱心さや努力や正しさに拠り頼もうとしている姿です。自分の力で全てを成し遂げたそんな態度を、イエス様は好まれない。イエス様が好まれるのは憐れみです。そして、この憐れみは、自分が病気であるという自覚のある者だけに与えられます。そしてイエス様は処方箋を示します。それが、この聖書の鍵となる言葉です。それは9節「わたしについて来なさい」。イエスさまは、人間的に見ればふさわしくないものを選んで下さった。いじめられていた人、いじめていた人が選ばれる。自分の力では立つことも出来なかったものが選ばれる。マタイは椅子から立ち上がりました。ずっと座っていたあの“罪の椅子”から立ち上がりました。いやイエス様によって立ち上がらせていただいた。「わたしについてきなさい」という言葉によって、私たちも今座っているその罪の椅子から立ち上がることを神様は求めておられます。神様はあなたに今日再度言われます。「私についてきなさい」あなたの力でではない。インマヌエル「神、我らと共にいます」ということが、この「私についてきなさい」という言葉に含まれているから。

210512 Ⅰ歴代誌11:22-47 「ダビデのもとに勇士がいる」

Ⅰ歴代誌11:22-47 「ダビデのもとに勇士がいる」

 少し前から見ますと、4節からエルサレム攻略とそこで戦功を挙げたヨアブが記されます。ダビデの部下の中で彼に関しては別格で、彼はダビデ王朝の大将軍とされました。
 10節からは、ダビデ王のもと、勇士として名を挙げた者たちの名が記されています。最初に3勇士ヤショブアム、エルアザル、(シャマ)の名が記されます。彼らはそれぞれに武功を上げた勇士でありましたが、中でもダビデに評価されたのは、サウルの追手から逃れるためにアドラムの洞穴に閉じこもるダビデのもとに、ペリシテ陣営を突っ切った先にあるベツレヘムの門から水を汲んできたという出来事でした。しかし彼らがせっかく汲んできた水をダビデは飲めません。この水を汲むために懸けられた3人の命の重さを実感したからです。命を懸けてダビデに従う彼らの振る舞いを、ダビデは最も誉れ高い3勇士に数えます。
 次にヨアブの兄弟アブシャイ、ダビデの護衛長となったエホヤダの子ベナヤ。そして、26節からは30人の勇士と呼ばれる者たちのリスト(実際にはそれ以上の人数が挙げられているので、死んだ者の補充がされた可能性があります。事実、アサエルやウリヤは不慮の死を遂げています。)が記され、その後にも14名の名前が追記されています。 
 この記述は元々は第2サムエル記の巻末に当たる23章で記されるところで、それゆえ、ダビデが王となったときに限ったことではなく、ダビデの生涯で幅広く仕えた者たちが選ばれています。出身地もばらばらです。ユダの地出身の者だけでなく、ベニヤミンの地から来た者、エフライム地方出身の者、キルアテ・エアリム出身の者、さらにはアンモン人やヒッタイト人といった敵国出身の者まで含まれておりました。
 このことから、ダビデが世代も場所も違う幅広い者たちに支持されていたこと。ダビデ自身が新しい才能を偏見なく受け入れていたということが見て取れます。ダビデは主に愛された偉大な王ですが、その偉業はダビデ個人のものでは決して無かったということです。かつてモーセが民を引き連れて出エジプトを図ったとき、しゅうとのイテロが助言しました。「あなたも、あなたとともにいるこの民も、きっと疲れ果ててしまいます。このことは、あなたにとって荷が重すぎるからです。あなたはそれを一人ではできません。」(出エジプト18:18)そして、「あなたはまた、民全体の中から、神を恐れる、力のある人たち、不正の利を憎む誠実な人たちを見つけ、千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長として民の上に立てなさい。いつもは彼らが民をさばくのです。大きな事件のときは、すべてあなたのところに持って来させ、小さな事件はみな、彼らにさばかせて、あなたの重荷を軽くしなさい。こうして彼らはあなたとともに重荷を負うのです。」(出エジプト18:21-22)と言うのです。 モーセはこの助言を聞き入れて、「イスラエル全体の中から力のある人たちを選び、千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長として、民の上にかしらとして任じ」ました。そうでなければあの大勢の民を引き連れて、荒野を旅することなどできるはずもないのです。
 教会も同じです。教会は牧師一人が担うのではありません。役員だけが担うのではありません。一部の者だけが担う教会が、上手くいくはずがありません。教会は皆で担うのです。一人ひとりそれぞれに与えられた天よりの賜物があります。欠かすことのできない賜物がそれぞれに分け与えられています。しかし、だからこそ、どれだけ大切な賜物も一人では足りるはずもありません。それぞれの賜物が噛み合う時、教会は建て上げられていくのです。ダビデを支える勇士がおりました。モーセを支える長老がおりました。教会にはあなたがいます。私たちが御霊によって一つとなる時、私たちは主なる教会を建て上げていくのです。

210509 イザヤ65:17-25 「新しい天地の関係」

イザヤ65:17-25 「新しい天地の関係」

イザヤ書65章は終末の預言です。その冒頭、「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。」とあります。天地創造に匹敵する新しい神の御業がなされるとの宣言です。そしてそれに続く新天新地の祝福の様子が明らかにされています。「そこではもう、泣き声も叫び声も聞かれない。」と言うのです。ここはもう余計な解説はいりません。読めば読むほどに心が弾んでくるような神の新しい創造の御業が語られています。「数日しか生きない乳飲み子も、寿命を全うしない老人もいない。」とあります。また「彼らは家を建てて住み、ぶどう畑を作って、その実を食べる。」ともあります。そこには誰もが安心して暮らすことのできる日常があるのです。「彼らが呼ばないうちに、わたしは答え、彼らがまだ語っているうちに、わたしは聞く。」とあります。その日常はいつも神を身近に覚え、神の御声を聞くことができる。いえ、それどころか、神がご自身の民を一人ひとりご覧になられて、喜び、楽しんでくださると言う。そういう神と人、新しい天と新しい地との麗しい関係が創造されると語られる。新しい天と新しい地の創造。そこには古いそれとは違った天地の関係があります。天の父と地に住む私たちの関係が全く新しいものにされるのです。なんと素晴らしい幻ではないでしょうか。
 けれどです。彼らの置かれた現実はそうではありません。この終末の預言は、一義的には、後に来るバビロン捕囚とそこからの回復の預言だと言われています。ユダの民は多くの預言者たちによって罪を指摘され、道を正されますが、それでも尚、神のことばを無視して滅びの道を邁進していったのです。神に聞くことをせず、己の感と欲に身を任せて過ごす神の民ユダ。しかしその行き着く先は、国が蹂躙され、生まれたばかりの乳飲み子が命を失うという現実を迎えるようになる。安らかな死を迎える者は一人もおらず、住む家もなく、仕事も、食べるものすらもない。そういう極限の状況を迎える事となっていくのです。もうダメだ。もう神様は私たちをお見捨てになった。そういう絶望の中で、彼らはこの絶望が終わりではないことを知るのです。彼らにとって、当の昔に語られたイザヤの預言が、絶望の中の光となって彼らを支えるのです。
 新天新地の預言は、困難の中に生きる者にこそ励ましとなるものです。なぜなら、困難の中で主に立ち返る者は、やがて来る新天新地の完成を夢見るだけでなく、すでにその恵みを先取りしていることに気付くからです。新天新地と聞きますと、何か遠い未来の世界。別の次元の話を想像しますが、それは天におられる神と地に住む人々の関係が全く新しくされた世界。いえ、本来のあるべき関係とされるということです。天地創造において人は神の前に何ら恥じること無く、そのご栄光の前に身を晒して生きたことでした。神と直接顔を合わせ、声を交わし、麗しい関係がそこにはありました。神は人を信頼してこの世界を治めさせ、人はその使命に生きることを何物にも代えがたい充実を得て過ごしておりました。しかし罪のゆえにそれらは失われたのです。人にとって労働は苦しみとなり、神との間には致命的な断絶が生じてしまいました。けれどです。その関係が再び回復される。いえ、新しく築かれるとイザヤは言うのです。
 そして、このように理解すると、この新天新地の祝福が、やがて来る祝福であると共に、すでにある恵みであることがわかるのです。それは私たちにとって馴染みのあるもの。イエス様の十字架の贖いによって神の民とされた者への特権です。新しい天地は、神を王とした恵みの王国です。神がご自身の民を喜び楽しんでくださり、私たちもまた恐れではなくて信頼を持って主の御顔を仰ぎ見る。そのような麗しい関係がここにはあります。それはつまり地上の教会においてです。もちろん、それはまだ完成とは程遠いものです。その完成は主が再び来られる時に恵みとしてもたらさるものです。けれど私たちは御霊を受け、イエスの名によって祈り、神の御言葉に聞き従うことができるのです。

210502 エペソ2:19 「同じ国民、神の家族」

エペソ2:19 「同じ国民、神の家族」

 教会とは何か。単なる会堂のことを指すわけではありません。教会とは人の集まりです。けれどそれは単なる人の集まりではありません。それは信仰者の群れです。もともと教会の語源となるエクレシアという言葉は召された者の集まりという意味です。
 今日の箇所のエペソ書2:19には、教会の特徴として「聖徒たちと同じ国民であり、神の家族」とあります。なぜなら、それは16節「十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされ」たからです。私たちはキリストの十字架の贖いによって、神の国の住人とされ、神の家族とされ、神の教会に召し出されたのです。
 神の国の民とされたとは、言い換えると、もはや私たちが地上の民ではないということでもあります。私たちは神の国においては、もう他国人でも寄留者ではない。神の国こそがホームとなり、この世界においては逆に寄留者とされるのです。入れ替わったのです。ヘブル 11:13には、地上における私たちの存在が「旅人であり、寄留者である」と逆の視点が記されています。私たちは今や、地上の歩みこそが、価値観の違う異国の地を過ごす者となりました。この世界は真の神を否定し、自らを神と称しておのれの人生の主人公を決め込みます。そして、自分が作り出す世界に酔いしれます。一方で、私たちの国籍はもはや天国にあります。私たちはもはや自分のために生きるのではなく、神のみこころに生きることを目指す者です。私たちの人生の主人公はイエス・キリストただお一人であります。ですから私たちキリスト者の存在は、根本的にこの世界にあって相容れないものなのです。
 ですから私たちは少なからず体感しています。自分の最も大切に思う部分を理解されることのない寂しさや、大っぴらにできないもどかしさをです。こんなことを言えば、変に思われるかもしれない。めんどくさがられるかもしれない。私たちは無駄な争いを避けるために、平和な関係を維持するために、知らず知らずのうちに相手に合わせることを強いられるのです。価値観の違う異国の地で暮らすことは緊張を伴うものです。そんな異国の地でも唯一気が休まるところがあるとすれば、それは我が家に帰ったときでしょう。仮住まいかもしれませんが、そこに家族がいるなら、それは立派な我が家です。私たちの国籍は天国にあります。しかし、教会は地上における私たちのホームなのです。
 教会が異国の地における我が家だとすれば、当然私たちの関係は家族です。けれど神の家族の特徴は、あくまでも同じ父を持つ養子同士の関係だと言うことです。つまり兄弟姉妹の間に直接の繋がりはないということです。ここをわきまえていないと教会の交わりは崩壊してしまいます。私たちは家族といえど同じではないのです。生まれた場所も環境も、好みも、全く違う私たち。けれど私たちはそのことを忘れて、家族なんだからと、私と同じであることを過度に期待し、強制してしまうことがあります。私が良いと思う教会、私が理想とするクリスチャン。そして自分勝手に失望し、相手を裁いてしまうのです。
 コリント教会は分裂の危機を迎えていた教会でした。彼らは分派争いをしていました。なぜでしょう。それは彼らの正義心から来るとことでした。理想の教会を求めての結果でした。一人ひとりは教会の分裂を望んでいるわけではありません。むしろ一致を望んでいました。けれど、その一致は、自分の望む形での一致でなければ我慢がならなかったのです。これは彼らの正義感によるものです。しかしこれは間違った正義感です。
 エペソ4:3-5には「平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に保ちなさい。あなたがたが召された、その召しの望みが一つであったのと同じように、からだは一つ、御霊は一つです。主はひとり、信仰は一つ、バプテスマは一つです。」とあります。
 私たちは互いの性格を一つにすることはできません。立場や役割で一つになることもできません。感情や好みや正義心でも一つにはなれません。それらを一つにすることで教会の一致を図ろうとしても、どだい無理な話です。そもそも私たちはそのようには造られていないからです。私たちは個性ある存在として造られました。工場で大量生産されたのではなく、一人ひとり特別のご計画を持っていのちと賜物を与えられました。生まれた場所も環境も、好みも、全く違う私たち。けれど同じものがあります。「からだは一つ、御霊は一つです。主はひとり。信仰は一つ、バプテスマは一つです。」これしか私たちの共通するものはありません。けれどこれで十分です。同じ恵みを共有する家族として、一つなる御霊をいただく者として、教会は一つとされるのです。