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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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210630 Ⅱ歴代誌7 「わたしの心は、いつもそこに」

Ⅱ歴代誌7 「わたしの心は、いつもそこに」

 奉献式を終えた、ソロモンに主からのことばが語られています。「今、わたしはこの場所でささげられる祈りに目を開き、耳を傾ける。今、わたしはこの宮を選んで聖別した。それはとこしえにわたしの名をそこに置くためである。わたしの目とわたしの心は、いつもそこにある。」(7:15-16)
 実はこの7章の主のことばは、6章で記されるソロモンの奉献の祈りに返答となっています。ソロモンは祈ります。「そして、この宮、すなわち、あなたの御名をそこに置くと言われたこの場所に、昼も夜も御目を開き、あなたのしもべがこの場所に向かってささげる祈りを聞いてください。あなたのしもべとあなたの民イスラエルが、この場所に向かってささげる願いを聞いてください。あなたご自身が、あなたの御住まいの場所、天からこれを聞いてください。聞いて、お赦しください。」(6:20-21)奉献式で、民たちは神殿が完成したことの喜びに浸っておりました。先王以来の悲願の神殿がようやく完成したのです。事情の知る年寄りたちは感無量。金銀財宝を惜しみなく装飾した神殿は、事情の知らない若者たちの心をも捉えて離しません。皆がこの国の輝かしい行く末を確信したのです。ところが、ソロモンだけは違います。ソロモンは、むしろこの国の行く末を案じるのです。様々な将来起こるであろう危機を想定し、民が神に立ち返る道筋を整えようといたします。敵に打ち負かされたり、飢饉などの災いや病気にあったり、捕囚されるその時に、「彼らが立ち返り、御名をほめたたえ、この宮で御前に祈り願うなら、あなたご自身が天からこれを聞き、あなたの民イスラエルの罪を赦し、あなたが彼らとその先祖たちにお与えになった地に、彼らを帰らせてください。」と執り成しの祈りをするのです。
 このソロモンの祈りに対する主の答えが冒頭の言葉でした。「今、わたしはこの場所でささげられる祈りに目を開き、耳を傾ける。今、わたしはこの宮を選んで聖別した。それはとこしえにわたしの名をそこに置くためである。わたしの目とわたしの心は、いつもそこにある。」主はこの宮でささげられる祈りを聞くとおっしゃられるのです。主の関心は主の宮と共にある民に向けられています。それはたとえ宮が瓦礫となっても同じです。目に見える建物が無くても同じです。そして新約において主は、「あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。」(Ⅰコリント6:19)と語られるのです。それはつまり主の関心が私たちに向けられているということです。ソロモンは神さまからの約束を引き出して、ようやく安堵したことでした。背景には彼の独特な人間理解があります。ソロモンは祈ります。「罪に陥らない人は一人もいません。ですから、・・・あなたに立ち返ってあわれみを乞い、『私たちは罪ある者です。不義をなし、悪を行いました』と言い、・・・心のすべて、たましいのすべてをもってあなたに立ち返り、・・・私が御名のために建てたこの宮の方に向かって祈るなら、・・・彼らの祈りと願いを聞き、彼らの訴えをかなえて、あなたの前に罪ある者となったあなたの民を赦してください。」ソロモンは人の義しさを信用していません。罪に陥らない人は一人もいません。彼は天よりの知恵を頂いて、そのことを認めざるを得ません。ですから罪を侵さないようにとは祈りません。それは土台無理な話です。大事なのは主の前に罪を告白し、ひれ伏すことです。心から悔い改めるなら、主はその者の罪を赦すと約束してくださっています。これはソロモンの執り成しに由来する主の不変の約束なのです。

210627 ルカ8:43-48 「あなたの信仰が」

ルカ8:43-48 「あなたの信仰が」

 ゲラサの地から戻って来たイエス様一行を群衆たちはいち早く知って駆けつけます。ガリラヤでは皆がイエス様の帰りを待っていたのです。今日の箇所に登場する長血の女性もそうでした。彼女はもう12年もの間長血を患い、苦しんでおりました。もちろん12年間、何もして来なかったわけではありません。病を直そうとあらゆる手を尽くしました。あっちに良い医者がいると聞けば出かけ、こっちに新しい治療方法があると聞けば試してみる。けれど、彼女はその度に裏切られてきたのです。病状は良くなるどころかかえって悪くなり、持っていた財産もお金も全てを使い果たしてしまった。万策尽きてしまったのです。
 彼女の苦しみはこれが単なる病ではなく、長血を患っているということにも理由がありました。なぜなら当時のユダヤ社会では、長血は汚れとされていたからです。レビ記15:25-27を見ると、長血の女性が床につけば床が、椅子に座れば椅子が汚ると言います。そしてさらに、その寝床や座った椅子に触れる者すらも汚れると言うのです。ですから当然のことながら、彼女は人々の中で暮らすことはできません。前回の悪霊に憑かれた男もそうでしたけれども、この女性もまた、社会から除け者にされていた一人でした。彼女は神殿に通うことも、神を礼拝することもできません。およそ人の集まる所に出て行くことができませんでした。彼女の12年間は絶えず長血の痛みに耐えながら、家族以外の誰とも交わることなく、病が癒されることだけを願って指を数える毎日であったわけです。
 その彼女がイエス様のもとにやって来た。これはただならぬ出来事です。当然そこは大勢の人だかりです。もし仮に人込みの中に出て来たことが見つかったら、どうなるか。人々の非難と好奇な視線の前に出て行くということがどれほど危険で辛いことか、想像に難くありません。けれど彼女はイエス様のもとに向います。彼女にはもう他に頼るものはありません。彼女はもう他に何の手立てもなくなって、それ故に、イエス様への信仰を育んだのです。イエス様なら癒してくださるに違いない。イエス様にはその力がある。彼女の信仰をここに見るのです。
 すると何が起こったでしょう。44節「彼女はイエスのうしろから近づいて、その衣の房に触れた。すると、ただちに出血が止まった。」あれ程、彼女を苦しめた長血はたちどころに癒されたのです。マルコ5:28を見ると、この時彼女は「あの方の衣にでも触れれば、私は救われる」と考えていたことがわかります。イエス様が直接自分に触ってくださらなくても、ただただその着物に触るだけでも、私は癒される。それほどまでに彼女はイエス様の聖さと御力を信じたのです。そして、彼女の期待通りに、彼女の病はすっかりと癒されたのです。
 さて、一人の女性の素晴らしい癒しの出来事ですが、話はここで終わりません。イエス様は「わたしにさわったのは、だれですか」「だれかがわたしにさわりました。わたし自身、自分から力が出て行くのを感じました。」とおっしゃられたのです。
彼女は群集に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわりました。この彼女の心境はよくわかります。彼女は人知れずにいたかったのです。イエス様の御力を信じています。その着物にさわることでもできれば、きっと直る。と信じておりました。けれど、そのために人々に自分の姿を見せることはできなかったのです。ですから、一秒でも早くこの場を離れたかったに違いありません。けれどイエス様は彼女に名乗り出るようにおっしゃるのです。なぜイエス様はこのようなことをなさるのでしょう。そっと行かせてやればいいのに。それはイエス様が単なる病気の癒やしではなく、彼女の魂の救いを願ったからに他なりません。名乗り出た彼女にイエス様は言います。「あなたの信仰があなたを救ったのです。」この信仰とは、イエス様のお着物にさわることができればきっと治ると信じたそのことではありません。それは47節に書かれるもの「彼女は隠しきれないと知って、震えながら進み出て御前にひれ伏し、イエスにさわった理由と、ただちに癒やされた次第を、すべての民の前で話した。」です。
 彼女はイエス様の後ろではなく、前に進み出てひれ伏し、イエス様に真実を余すところなく打ち明けたのです。罪深い、汚れた己を人前にさらけ出して、どのような仕打ちを受けるかも覚悟して、震えながらイエス様の前にひれ伏したのです。彼女は自らの思いを、悲しみを、人生を、罪深さを、信仰を、一切をイエス様の前にさらけ出して告白したのです。この信仰をイエス様は見られた。そしてこのことの故に彼女は救われたのです。
 今朝覚えておきたいことは、癒しというものは一時的だと言うことです。癒されたから信じるのでは、癒されない現実に信仰を見失います。しかし赦しは永遠であります。主の前にひれ伏し、自らの罪と信仰を告白する者は、二度と責められることのない、永遠の赦しに与るのです。後ろから癒しだけ、ご利益だけを求めても、救いには繋がりません。前に出てひれ伏すのです。罪を告白するのです。そのような者にイエス様は優しく語られます。「あなたの信仰があなたを救ったのです。」

210623 Ⅱ歴代誌1 「公正と謙虚」

Ⅱ歴代誌1 「公正と謙虚」

 歴代誌第一はダビデに関する記録でした。続く歴代誌第二の1章は、そのダビデの息子ソロモンの記述から始まります。ダビデの子であり、その後を継いで偉大な王となったソロモン。その原点が、彼の就任当初の願いごとに見ることができます。王となり、祭壇でいけにをささげた日の夜、ソロモンのもとに神が現れて問います。「あなたに何を与えようか。願え。」すると、ソロモンは言います。「今、知恵と知識を私に下さい。そうすれば、私はこの民の前に出入りいたします。さもなければ、だれに、この大いなる、あなたの民をさばくことができましょうか。」彼は、知恵と知識を願ったのです。
 ソロモンの治世はダビデ王朝においてもっとも豊かで輝かしい時代です。その原点となるのが神よりの知恵と知識を求めることにあると言うのです。知識というのは語彙力であったり、経験であったり、つまり情報力のことですね。一方、知恵というのは応用力です。学校のテストなどには、その両方が問われます。たとえば英単語や漢字などは、知識の問題です。これはもう知っているかいないかを問う問題。知らなければいつまで考えてもできないですし、知っていれば考えなくてもできるという問題です。一方、文章題は知恵の問題です。覚えている公式や定理を当てはめてどのように回答を導き出すか。その過程が問われる問題です。物事を判断する時、知恵と知識のどちらが欠けても正しい判断はできません。王としてその職務を引き継いだソロモンは、その責任の重さを重々承知しておりました。そして、自分の判断に頼ることの危うさを承知しておりました。それゆえ、彼は何よりもまず知恵と知識を願います。それは王としての職務を全うしたいという彼の使命感から来ています。
 それにしても不思議なのは、神よりの知恵と知識を願い聞き遂げられたソロモンが、なぜその後、罪を重ね、道を誤ったのかであります。第一列王記11:3-4には「彼には、七百人の王妃としての妻と、三百人の側女がいた。その妻たちが彼の心を転じた。ソロモンが年をとったとき、その妻たちが彼の心をほかの神々の方へ向けたので、彼の心は父ダビデの心と違って、彼の神、【主】と一つにはなっていなかった。」とあります。彼ほどの人物がその危険性を理解していなかったのでしょうか。神よりの知恵と知識は、彼に罪を思い止まらせはしなかったのでしょうか。この背景には、彼の成功体験がありました。エジプトとの政略結婚です。ソロモンはファラオの娘を娶ることで、強大な国エジプトとの和平を築くことに成功したのです。彼はこれに味をしめたのです。彼は近隣諸国との政略結婚を繰り返します。その知恵と知識はイスラエルの平和と繁栄をもたらしました。彼の王国は世界で最も豊かな国となりました。けれど、神のみこころからは逸れてしまった。
 有り余る知恵と知識も、神のみこころから離れてしまうと、間違った結果をもたらすのです。主は言われます。「そのようなことがあなたの心にあり、富も、財も、名誉も、あなたを憎む者たちのいのちさえ願わず、また長寿も願わず、むしろ、わたしがあなたをその王として立てたわたしの民をさばくための知恵と知識を願ったので、その知恵と知識があなたに授けられる。またわたしは、あなたの前の王にも後の王にもないほどの富と財宝と誉れをあなたに与える。」神の民をさばくため。正しさを示すため、知恵と知識は用いられるべきでした。けれど、王として、彼は国の繁栄を第一と求めるようになった。それはある意味で間違いではないように見えます。それは統治者として、政治家として問われる資質なのかもしれません。けれど聖書は言います。富も、財も、名誉も、それらは正しく神の民をさばく先に与えられるものです。オリンピックを開催することには経済が深く関わっています。国の繁栄を考えればそれは一つの選択肢です。知恵も知識もある人たちが色んな観点から検討しているのでしょう。けれど、彼らに決定的に欠けているのは、公正さです。知恵と知識は正しく民をさばくために用いられなければなりません。
 神の前に遜り、知恵と知識を授けて下さいと、さもなければ、だれにこの大いなるあなたの民をさばくことができるでしょうか。と乞い願ったソロモンに嘘偽りはありません。問題は与えられた知恵と知識に頼り、神の判断を仰がなかったということにあるでしょう。経験は時に私たちを慢心させます。モーセが過去の成功体験に甘んじて、岩に命じるべきところを、杖で打った。確かに水は出ました。けれど、このことのゆえに彼は神の怒りを買ったのです。「あなたがたはわたしを信頼せず、イスラエルの子らの見ている前でわたしが聖であることを現さなかった。それゆえ、あなたがたはこの集会を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることはできない。」
 ですから、大事なのは、知恵と知識ではなくて、知恵と知識を願うソロモンの謙虚さではなかったか。「だれに、この大いなる、あなたの民をさばくことができましょうか。」とひれ伏すソロモンの姿。私たちはどれだけ歳を重ねようと、経験を得ようと、この初心に立ち返って、主のみこころに尋ね願うということが大事です。祈りとみことばをもって事に当たることが大事です。

210620 ルカ8:26-39 「一人のために」

ルカ8:26-39 「一人のために」

 命がけで湖を渡った先はゲラサの地でした。そこでイエス様一行は一人の男の出迎えを受けます。裸で、体中傷だらけで、足かせの跡が生々しい男。実は彼は悪霊に憑かれており、それゆえに人々から恐れられ、忌み嫌われて町を追われ、墓場に住み着いていたのです。彼に取り憑いていた悪霊は自らをレギオンと名乗りました。レギオンとはラテン語で軍団を指す言葉です。何千という悪霊の大群が、この男に捕り憑いて心身を隅から隅まで縛り付けていたのです。つまり、彼が犯罪を犯したとか、誰かを殺めたとか、そういった理由で鎖に付けられ、墓場に追いやられたのではないんですね。本来、彼には人々からこんな仕打ちを受ける言われはないんですね。悪霊が突然、彼に捕り憑き、それゆえこのような身になってしまった。自分自身を制御できない苦しみの中で、彼はどこにもぶつけ様のない理不尽な怒りと、誰にも理解されない孤独な悲しみに押しつぶされそうになって、日々を過ごしていたのです。
 そんな彼がイエス様の出迎えに来たのはなぜでしょう。それは彼の意思ではありません。悪霊の意思でした。悪霊は言います。「いと高き神の子イエスよ、私とあなたに何の関係があるのですか。お願いです。私を苦しめないでください。」悪霊はイエス様の権威を認め、イエス様の前に平伏したのです。
 皮肉なことに、ゲラサの地で最初にイエス様を迎え、拝したのは悪霊でした。それは悪霊どもがイエス様の権威を認め、恐れたからに他なりません。イエス様が命じれば、たとえ人に絶大な影響力を持つ悪霊といえども、その命令に逆らうことはできないのです。ですから、私たちは必要以上に悪霊の存在を恐れる事はありません。必要なのは悪霊の仕業に絶えず脅え構えることではなく、悪霊ですら平伏させる権威あるお方をあがめることです。
 イエス様は悪霊どもを追い出すときに、悪霊どもの願いを聞き入れて豚に乗り移ることを許されました。「ちょうど、そのあたりの山に、たくさんの豚の群れが飼われていたので、悪霊どもは、その豚に入ることを許してくださいと懇願した。イエスはそれを許された。悪霊どもはその人から出て、豚に入った。すると豚の群れは崖を下って湖へなだれ込み、おぼれて死んだ。」マルコの福音書を見ると、その数二千匹とあります。二千匹もの豚の資産がいったいどれほどになるのか見当もつきません。ですからイエス様のこの行為はとんでもない事件です。現象だけを見れば、イエス様が悪霊を豚に乗り移らせて、湖で溺れさせたようなものです。イエス様のおかげで、飼い主たちは大きな損失を被ったのです。ですから、イエス様たちは人々から出ていってほしいと懇願されます。これ以上この地にとどまることができなくなりました。あれだけ苦労して湖を渡って来たのにです。ようやく着いたゲラサの地での働きは、町に入ること無く終わるのです。
 イエス様にはこうなることがわからなかったのでしょうか。そうではありません。つまりイエス様はその一人の救いのために、どのような犠牲をも厭わないということです。そこに救いを必要とする人があるなら、たとえ嵐に遭おうと、たとえ多くの犠牲を払おうと、たとえそのことで自分が責められることになろうとも、イエス様は一人の魂が救われることを望まれるのです。
 さて、悪霊から救われたこの男はお供をしたいと願いますが、イエス様はその申し出を断ります。なぜなら、この地方で彼ほど主を証しするのに適した者はいないからです。誰もが彼のことを知っています。人々はこのゲラサの地を訪れると、夜な夜なこの世のものと思えない叫び声を聞いたのです。道で彼の引きずる鎖の音を聞くと、皆、一目散に逃げ出したのです。その彼が、今や落ち着きを取り戻し、目に生気を宿らせ、声高らかに主を賛美しています。人々は彼の身に起きた神の御業を認めざるを得ません。過去に自分を苦しめた事が、彼を神の栄光をあらわす器とならしめたのです。主は流した涙すらも、喜びと変えてくださるのです。
 イエス様のこの地で為した救いはたった一人でした。あれだけ激しい嵐の中を漕ぎ出して、ようやく着いた町には入ることすらできずでした。救い主の働きとしては、大変実りの少ない、まるで失敗のような結果。しかし、そうではありません。イエス様は一人の救いを決して小さく見てはおられない。なぜなら、一人の救いの向こうには、大勢の魂がいるからです。主の福音は一人の救いを通して広まるからです。

210616 使徒10:1-16 「神の選びは神に任せて」

使徒10:1-16 「神の選びは神に任せて」

 イタリア隊の百人隊長であるカイサリアのコルネリウスに与えられた主のことばと、ペテロに対して与えられた幻が記されます。
 コルネリウスは、敬虔な人と紹介されています。敬虔な人とはどういう人のことでしょう。異邦人がユダヤ教徒になるための条件は、教理を受け入れ、宗教的慣習を守り、そして割礼を受けることでした。けれど異邦人にとって割礼を受けることはなかなかに覚悟のいることです。ユダヤ人はそれこそ赤ん坊の時に無自覚の内に割礼を受けています。けれど、異邦人は違います。異邦人でユダヤ教に入信するためには、その時点で割礼を施し、神の民に加えられなければならないのです。そこで、信じているけれど、まだ割礼を受けていない人たちは、ユダヤ教の視点から「敬虔な人」と呼ばれました。コルネリウスは割礼こそ受けてはいませんが、家族に信仰を継承し、民に施しを行ない、いつも神に祈る、ある意味でユダヤ人以上に敬虔な人でありました。けれど、割礼は受けていない。実は今日の箇所を皮切りに、この異邦人の救いをどう取り扱うのか。教会では喧々諤々議論が交わされ、やがてキリスト教がユダヤ教から袂を分かつ決定的な分岐点となっていくのです。
 ペテロの見た幻は大変不思議なものでした。「天が開け、大きな敷布のような入れ物が、四隅をつるされて地上に降りて来るのが見えた。その中には、あらゆる四つ足の動物、地を這うもの、空の鳥がいた。そして彼に、「ペテロよ、立ち上がり、屠って食べなさい」という声が聞こえた。」とあります。旧約聖書の律法の中には、ある種の動物は汚れているので食べてはならないという規定がありました。ユダヤ人たちはこれを厳格に守り、従ってきました。ところが、屠って食べなさい。という声が聞こえたのです。ペテロは戸惑います。「主よ、そんなことはできません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません。」すると、もう一度、声が聞こえます。「神がきよめた物を、あなたがきよくないと言ってはならない。」しかも、このやり取りが、3回繰り返されます。幼いサムエルに主の呼び声が繰り返された出来事や復活のイエス様から「あなたは私を愛しますか。」と3度問われた出来事を彷彿させます。明らかにただの夢ではありません。主から与えられた幻でした。これはいったいどういうことか。ペテロが思い惑っているとコルネリウスのしもべが来て、コルネリウスがペテロを招くように御使いから示された。と報告します。ペテロは彼らとともに行き、コルネリウスと出会い、先程の幻の意味を悟ります。28節「ご存じのとおり、ユダヤ人には、外国人と交わったり、外国人を訪問したりすることは許されていません。ところが、神は私に、どんな人のことも、きよくない者であるとか汚れた者であるとか言ってはならないことを、示してくださいました。」それはつまり「どこの国の人であっても、神を恐れ、正義を行う人は、神に受け入れられます。」ということです。なぜなら、コルネリウスの祈りは神に聞き入れられ、彼の施しは神の前に覚えられているからです。神が彼に目を留められたのです。
 全ては今日の箇所で語られる「神がきよめた物を、あなたがきよくないと言ってはならない。」という一言に尽きます。伝統や体制を守るために、神のみこころを遮ってはならないのです。自分にとって居心地の良い常識を守るために、神が認めたものを否定することはできないのです。確かに律法は神が与えられたものです。けれど、その律法に込められたみこころは何だったでしょうか。割礼を受けることはイスラエルが神の民とされた印でした。けれどそれは、神の民イスラエルがもはや何をしても救われるということを意味しているのでは有りません。神の民と選ばれた者が、神に従う時祝福を受け、神に逆らう時罰を受ける。その民の生き様が永遠なる神の証明とされるために選ばれたのです。世の光となるためにです。ですから神の内に、救いをイスラエルだけのものとしようという御心はそもそもありません。割礼は神の民のしるしですが、割礼を受けることが救いの条件ではありません。全ての悔い改める民にイエスの救いはもたらされるのです。
 ですから、私たちの判断で、神の選びを決めつけてはいけません。救われる救われないは、神のみこころの内です。その人がどのような者であっても、たとえ受刑者であったとしても、信仰によって救われるのです。ですから私たちは私たちの常識や私たちの感覚でそのことを決めつけてはいけません。誰であろうと求めるものには福音を語る用意をしていなければなりません。ペテロは一連の会話の後、コルネリウスにパプテスマを施します。けれど、大事なのは、その時、キリストの福音が語られたということです。コルネリウスは敬虔さのゆえに救われたのではありません。敬虔な人だからバプテスマが許されたのでもありません。福音を受け入れ聖霊が下ったので、パブテスマを授けられたのです。私たちに求められているのは、この福音を知らせるということです。誰もが救われるわけではありません。けれど誰であろうと福音は語られるべきであります。きよいきよくないは、主が判断されれば良いのです。

210613 ルカ8:22-25 「嵐の中で」

ルカ8:22-25 「嵐の中で」

 イエス様が「湖の向こう岸に渡ろう」と言われた時、彼らが何の躊躇もなく舟を漕ぎ出したことは驚くべきことです。ガリラヤ湖は山から吹き降ろす冷たい空気と、湖面からの温かい空気がぶつかり合って、激しい突風や嵐が起きることで有名だったと言われています。この湖の漁師にとって、風を読み、雲の流れを観察し、いつ嵐が起こるかと見定めることは死活問題でした。12弟子の多くは漁師ですから、もしかするとこのときも、彼らには嵐の予感があったかもしれません。けれど彼らは黙って舟を漕ぎ出しました。なぜでしょう。他ならぬイエス様がお命じになったことだからです。彼らは信仰をもって従ったのです。
 「ところが突風が湖に吹きおろして来たので、彼らは水をかぶって危険になった。」こんなショックなことは無いと思うのです。イエス様の命令に従うことは、私たちには大きな決断を要します。私たちはそんなに簡単にその命令に従っているのではありません。心に葛藤を覚えながら、不安を抱えながら、しかし、それでも主の命じるままにと信仰を持って決断をするのです。ですから、私たちは主の命令に従う時に、当然その結果は順風満帆。平穏が待っていると期待するのです。・・・しかし現実には突風が吹くし、水をかぶって危険にもなる。このようなことはしばしば、私たちの身にも起こる現実であります。
 しかも、それだけではありません。この一大事に、イエス様は呑気に眠っておられたのです。彼らは必死に舟の中の水をかき出します。今にも沈みそうな舟の上で、生きるために精一杯あがきます。けれど、イエス様は眠っておられたのです。そうじゃなくて、せめてイエス様が一緒になって水をかき出して、彼らに向かって頑張れと言ってくだされば、まだ、彼らの思いは満たされたのです。イエス様が共に苦しんでくれていると思えばこそ、どんな苦労も乗り越えられます。けれど、イエス様はそんな弟子たちの頑張りにも、必死にも、我関せずに眠っておられる。こんなにショックなことはありません。もしも、イエス様が私たちに降りかかる困難に対して、何の関心も持っておられないと想像するなら、どうでしょうか。これほどショックなことは無いのではないでしょうか。「先生、先生、私たちは死んでしまいます」彼らは悲痛な叫びをもって、イエス様を揺り起こします。けれど、それは当然のことだと思うのです。
 すると、「イエスは起き上がり、風と荒波を叱りつけられた。すると静まり、凪になった。」のでありました。イエス様は弟子たちの危機を救われたのでありました。けれどこれで終わりではありません。イエス様は言われます。「あなたがたの信仰はどこにあるのですか」
 果たして弟子たちの信仰は叱責されるほどだったでしょうか。目の前の嵐にイエス様を信じ続けることができなかったのは事実です。けれど、怖くなって当たり前の場面ではなかったでしょうか。この根本には、彼らがイエス様を理解していなかったということがあります。彼らはつぶやきました。「お命じになると、風や水までが従うとは、いったいこの方はどういう方なのだろうか。」つまり、弟子たちはイエス様がまさか風や湖までも支配される方であるとは思っていなかったということです。彼らにとってのイエス様は素晴らしいですが、人の域を超えたものではなかったのです。彼らはイエス様を過小評価し、また神の子としてのイエス様に信頼を持ち続けることができなかったのです。
 しかしです。彼らのつぶやきからもう一つの大事なことがわかります。つまり、彼らはまさに今、この出来事を通して、その事実を知ったということです。主の言葉に意気揚々と従い、舟を漕ぎ出した弟子たちは、しかし嵐に遭い、意気消沈して、挙句、イエス様に叱責される結果となりました。しかし彼らはこの惨憺たる経験を通して、神の権威を持つイエス様に出会うのでした。自分たちがついて行こうとするイエス様のまことの姿を知ったのでした。信仰生活とはまさしく、この向こう岸へと渡る航海のようではないかと思います。それは順風満帆な、平穏な歩みを約束してはいません。主に従うこともまた、時に嵐に遭いますし、時に主の叱責を受けるのです。失敗の連続です。けれど、私たちはそのような中でこそ主と出会うのです。穏やかな海では見たことのない主の権威あるお姿を私たちは嵐の内に見るのです。消してしまいたいような失敗を通して、しかし私たちは神の御教えに平伏すことを学ぶのです。

210609 Ⅰ歴代誌29:20-30 「幸せな晩年」

Ⅰ歴代誌29:20-30 「幸せな晩年」

 歴代誌第1の最後の部分となりました。ダビデは祈りを終えて、全会衆に命じます。「あなたがたの神、【主】をほめたたえよ」そして翌日、おびただしい数の生贄をささげ、手の前で宴を持ち、改めて王の交代を正式に油注ぎを行ないました。王の引き継ぎをもって、ダビデは表舞台から退きます。ソロモンの治世が始まるのです。
 ダビデの晩年の記録で最も目が留まるのは28節ではないでしょうか。「彼は幸せな晩年を過ごし、齢も富も誉れも満ち足りて死んだ。彼の子ソロモンが代わって王となった。」幸せな晩年を過ごし、齢も富も誉れも満ち足りて死んだ。とあります。それはもう何の心残りもないということです。やりきった。思い残すことはない。私たちもまた、このような地上の最後を迎えることができるならば、それは何と素晴らしいことかと思います。
 しかしです。彼の晩年は幸せと一言で語るには、なかなか一筋ならではいかなかい日々であったと思うのです。列王記第一の1章には晩年のダビデの姿が記されています。まず、年老いたダビデは体が冷えて、夜どれだけ衣服を着ても暖まらなかったとあります。そこで家来たちは、アビシャグという若い娘を身の回りに仕えさせ、ふところに寝させて暖めるようにいたします。おじいちゃんの側に孫ほどの少女を添い寝させたという場面です。ダビデの冷えは単に体の冷えだけのこととは思えません。人恋しさがあったのでしょう。年老いたダビデの就寝に多くいた妻たちの一人もいないということに、ダビデの晩年の様子がうかがいしれます。妻たちでも、息子たちでもない、縁もゆかりもない少女アビシャグがダビデに仕えたということに、ダビデの寂しさが滲んでいます。
 また、歴代誌29:22には「その日、彼らは大いに喜んで、【主】の前で食べたり飲んだりし、改めてダビデの子ソロモンを王とし、【主】の前で油を注いで君主とした。また、ツァドクを祭司とした。」とあります。けれど、この背景には、彼の4男のアドニヤの反乱がありました。アドニヤは野心を抱いて王になる宣言をし、このアドニヤを将軍ヨアブと祭司エブヤタルが支持したのです。ダビデはアブシャロムに続いて息子アドニヤの反乱を経験しました。ダビデはこのことの故に、祭司エブヤタルを失脚させて、ツァドクを祭司として重用し、預言者ナタンとエホヤダの子ベナヤと共に命じて、ソロモンに油を注ぎます。改めて王であることを宣言したのです。
 歴代誌の記述の背景には、決して幸せな晩年とは呼べないような状況があったのです。けれど、それでも尚、歴代誌がダビデの晩年を幸せな晩年と呼ぶのはなぜでしょうか。それは、彼自身に心残りがないということでありましょう。困難はあった。試練は多かった。けれど、その時その時に彼は後悔なく歩んだ。失敗をしても、主の前にへりくだり、解決を得た。精一杯やり遂げた。だから、彼には心残りがありません。周りの状況がどうだから、ではなく、自分自身がその時その時に悔いなくやりきったかどうか。自分の生き方に言い訳をしないからこそ、彼は満足した晩年を過ごすことができたのです。
 列王記2:2-4にダビデの死を前にしたソロモンへの言葉があります。「私は世のすべての人が行く道を行こうとしている。あなたは強く、男らしくありなさい。あなたの神、【主】への務めを守り、モーセの律法の書に書かれているとおりに、主の掟と命令と定めとさとしを守って主の道に歩みなさい。あなたが何をしても、どこへ向かっても、栄えるためだ。そうすれば、【主】は私についてお告げになった約束を果たしてくださるだろう。すなわち『もし、あなたの息子たちが彼らの道を守り、心を尽くし、いのちを尽くして、誠実にわたしの前に歩むなら、あなたには、イスラエルの王座から人が断たれることはない』。」これは、まさしくダビデ自身が心掛けてきたことです。彼はどのような困難の中でも、主の掟と命令と定めとさとしを守って主の道に歩みました。それゆえに彼は栄えたのです。これは彼の経験からくる確信です。
 たとえば、私たちの人生にも、様々なことが襲いかかります。試練があります。困難があります。信頼していた人から急に裏切られることもあります。けれど、雲がぶ厚く掛かっているからと言って、太陽が無くなったわけではないし、太陽なんていらないと言うことはできません。人生の酸いも甘いも、それが神を礼拝しない理由とはなりません。みこころに背く言い訳にしてはいけません。どんなに厚い雲の上にも、太陽は変わらずに輝いています。主のみこころを信頼して、精一杯にその日その日を過ごしていく。その変わりない懸命な日々の先に、私たちはこの日常が満たされていることを見出すのです。

210606 黙示録22:1-2、詩篇1:2-3 「いのちの木」

黙示録22:1-2、詩篇1:2-3 「いのちの木」

 教会の取説。いのちの樹教会はこういう教会ですよ。という紹介を皆さんだったらどのようにされることでしょうか。私たちの教会はこういう教会で、私たちの教会はこういう教会を目指してるんですよ。と皆が共有できるようになれば、私たちは教会をもっと愛することができるんじゃないかなと思うわけです。で、そのカギとなるのが、私たちの教会の名前にあるのです。
 「いのちの木」と聞いて、まず思い浮かびますのは、その昔、園の中央にあった2本の木ですね。一つは食べてはならないと命じられた善悪の知識の木。そしてもう一つがいのちの木です。このいのちの木に実る果実がいのちの実でして、これを食べると永遠に生きると言うものでした。人は罪を犯し園から追い出されるわけですが、それはこの永遠のいのちの木の実に至る道が閉ざされるという意味がありました。けれど、イエス様が再び来られる時、それは神の国の完成のときでありますが、都の中央には水晶のように光るいのちの水の川が流れ、その両岸にはいのちの木があって、十二種の実がなり、毎月実ができた。その葉は諸国の民をいやしたと黙示録に描かれます。
 具体的なこの木を想像してみましょう。12種の実が毎月なり、その葉は諸国の民をいやすのですから、この木は詩篇1篇にありますような、水辺に植わった常緑樹でありましょう。たとえ風や嵐が吹こうとも、どっしりと地中深く根を張り巡らせ、その幹は構えて揺らぐことがなく、たくましい枝葉を四方八方に伸ばして、美しい花を咲かせ、そこに住む者全てを養うだけのたわわな実を実らせる。動物たちはこの木陰でひとときの休息を取り、小鳥たちはその枝に巣を作って新しい命を育み、生涯の時々に味の違う12種の実に養われながら、酸いも甘いも噛み分けて過ごしてまいります。葉には鳥たち、幹には虫たち、木陰には動物たち。生まれも育ちも種別も違うけれど、この木にあっては同じ棲み家を持つ仲間として、家族として、協力し、分担しあって、この木を守り、この木とともに成長するのです。その実の種はやがて風に乗って別のところへと運ばれ、落ちた所で根を張り、花を咲かせ、さらに新しい大樹を生みだして、やがてはこれが林へ、そして森へと増え広がって行く。私たちが目指すべき教会のあり様が、この「いのちの木」の幻に見られるかと思うのです。
 この樹は、そこに住む者たちにとって、安息の場であり、帰るべき家であり、恵み豊かに育まれる所です。ここで新しい命が誕生し、仲間が加えられ、共に喜び、時には涙し、一喜一憂しながらも、絶えずいのちの実なる御言葉をいただき、共に成長し、それぞれの使命へと旅立ち、また休息し、そしてやがては主の御許へと召されて行く。この「いのちの木」の名前をいただいたのが、私たちのいのちの樹教会です。何と希望ある誇らしい名前ではないでしょうか。
 だからこそです。私たちはこの素晴らしい名前に相応しい教会となりたいものです。どうすれば、この名前に相応しい教会となれるでしょうか。まず、何を措いても大事なのは水路の側に立つこと。そして、地中深くしっかりと根を下ろすということです。どれだけ立派な幹を持ち、豊かな葉を繁らそうと、根が腐ればその樹は倒れてしまいます。しかし、根が丈夫であるならば、多少枝が折れようと、幹が傷つこうと、時間が経てば立派に再生することができるのです。しかし、そもそもの話、水路の側に植わっていなければであります。たまに降る雨だけを頼りにして過ごせるほど、私たちは強くはありません。また水路の水がどんな水かも重要です。汚染された水を吸うわけにもいきません。輝く水路の側にあって、しっかりと根を下ろしてこそ、絶え間なく綺麗な水を吸い上げることができるというものです。
 大事なのは、輝く水路の側に立っているか。地中深く根を張り巡らせているか。つまり私たちの教会の土台が何で築かれているかであります。エペソ2:20には次のようにあります。「使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられていて、キリスト・イエスご自身がその要の石です。」使徒たちや預言者たち。つまり新約聖書と旧約聖書。神のみ言葉なる聖書という土台の上に、教会は建てられます。そしてキリスト・イエスご自身こそ信仰の要の石です。
 ですから最初の質問。いのちの樹教会はどういう教会かの答えは「神のみことばである聖書に聞き、聖書に学び、聖書によって養われる教会です。」となるでしょう。私たちは人の経験や知恵や常識に聞くのではありません。世の人々が頼りとするその土台が通用しない出来事が起きています。神のみことばに聞く。聖書に信頼する。これこそが教会の土台。いのちの樹教会はここに立っているのです。

210602 Ⅰ歴代誌24 「原点に立ち返り」

Ⅰ歴代誌24 「原点に立ち返り」

 23章の冒頭に「ダビデは日を重ねて年老い、その子ソロモンをイスラエルの王とした。彼はまた、イスラエルのすべての長たち、祭司、レビ人を集めた。レビ人のうち、三十歳以上の者を数えたところ、その男子の頭数は三万八千人であった。」とあります。ですから、このところはダビデの最後の努めが記されているのです。ダビデは王としての最後の努めに、人々を集め、その人々を数え上げ、組分けをし、組織を整えるのです。もちろん自分のためではありません。息子ソロモンのため。残される民のため。国としての筋道を立てるためにです。
 23章にはレビ族のかしらたちが登録され、24章ではレビ族の中でも、ケハテの子アムラムの子であるアロンの子ら、つまり祭司の家系が組み分けられていきます。アロンの子のエルアザルとイタマル。もちろんこの二人は遠い遠い昔の人物です。ダビデの時代には、その子孫であるツァドクとアヒメレクがそれぞれの長となり、ダビデに仕えておりました。この祭司体系をダビデは整えるため、それぞれの家の子孫たちを組分けいたします。エルアザルの家が16組。イタマルの家が8組。計24組がくじの順番通りに、交代で主の宮に入り奉仕するのです。各組は1週間毎の交代で、1年で2度奉仕を担当します。ちなみに、当番の中からくじで一人が選ばれて、至聖所での奉仕を担当いたします。それは一度当たるとくじから外されるという一生に一度きりの奉仕で、祭司にとっては最高の晴れの舞台。中には一度もくじに当たらずに生涯を終える祭司もおりました。ご存知、ヨハネの父ザカリヤは第8のアビヤの組に属していた祭司の家系であり、くじによって至聖所の奉仕が当たり、御使いガブリエルと遭遇することになるのです。
 ザカリヤに預言が授けらたのはダビデの死から960年ほど経ってのことです。ソロモンによって神殿は建てられますが、彼の死後は国が分裂、神への不信仰を繰り返し、やがてそれぞれの国は滅ぼされていきます。神殿は破壊され、ユダの主だった民はバビロンに捕囚され、捕囚後に帰還した民によって再び神殿は再建されますが、その後も、ユダヤは多くの国に支配され、神殿礼拝は幾度となく途切れたのです。にも関わらず、イエス様の生まれるその時代、遥か昔に定めたダビデの規定に則って、祭司の職務が未だ全うされているというのは、これは本当に凄いことです。時代が代わり、支配者が変われば、世の価値観や基準は幾らでも代わります。礼拝のあり方、守るべきもの、変わっても良いもの。それらの基準を正確に引き継いでいくことは難しいものです。それが可能であった背景には、ダビデが前もって言語化し書き記すことによって、いつでも立ち戻る礼拝様式を後世に残したということ。そして、折々の民が、この規定に立ち戻って、我が身を正したということです。
 歴代誌はバビロン捕囚から帰った帰還民が神殿を再建し、これから神殿礼拝を再開するために、歴史を振り返り書物にまとめ上げたものです。エズラたちは神殿での礼拝を始めるにあたって、自分たちの思うところではなくて、まず原点を調べることから始めました。人は完璧ではありません。教会もまた然りです。失敗も、過ちも犯します。今の常識すらも時代の価値観かもしれません。ですから、私たちは常に自らを吟味し、基本に立ち返る備えをしておくべきなのです。
 
 さて、20節からは残りのレビ族についてが、23章と重複して記されています。ケハテ族、メラリ族が記されますが、ゲルション族については記されていません。理由はわかりませんが、このことでゲルション族だけが冷遇されていたと考える必要はありません。続く25章では奏楽の奉仕者、讃美の奉仕者の名前が上がっておりますが、それらはゲルション族、ケハテ族、メラリ族、それぞれの名が記されています。26章の門衛の組分けでも同様にゲルション族、ケハテ族、メラリ族の名が挙げられます。そしてどの奉仕もくじによって選ばれているのです。主への奉仕が先天的な才能によって選ばれているのではないということです。あくまでも主の導きによって。しかし、それが専属の奉仕者一族へと引き継がれていくことを見ると、奉仕は才能によって選ばれるのではないけれど、努力と研鑽が求められるということではないでしょうか。