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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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210725 ルカ9:7-9 「信仰の一歩」

ルカ9:7-9 「信仰の一歩」

 ここに記されるヘロデとは、父であるヘロデ大王亡き後、ガリラヤとペレヤの地方の領主となったヘロデ・アンティパスです。彼と彼の妻の結婚に関して律法違反を犯していると指摘されて、バプテスマのヨハネ投獄、後にその首を刎ねた人物です。ところが聖書をよくよく見ますと、アンティパスはヨハネの生前、彼を投獄するんですけれども、一方で彼を保護し、その教えに耳を傾けていた。とあります。ここらへんが複雑なところです。つまり、彼としてはヨハネを殺そうとまでは考えてなかったわけです。ヨハネを殺したかったのはむしろ妻のヘロディアでした。アンティパスはそんな妻からヨハネを保護します。けれどその後、ヘロディアの連れ子サロメの舞に褒美をとらせるとき、母ヘロディアの指図でサロメからバプテスマのヨハネの首を求められます。公衆の面前で引くに引けない彼は、結局ヨハネの首を刎ねさせました。
 さて今日の箇所でイエス様がヨハネのよみがえりだという噂を聞いて、アンティパスの内心はどうだったでしょうか。マタイやマルコを見るとはっきりしていますが、アンティパスはイエス様のことを確かにヨハネのよみがえりだと信じたようです。ならば普通は、報復を恐れて遠ざけるところではないでしょうか。ところが、アンティパスは、むしろイエス様に会ってみたいと思うのです。また、後になって、イエス様が捕らえられて、その罪状を検分をする折りの話、ルカ23:8には「ヘロデはイエスを見ると、非常に喜んだ。イエスのことを聞いていて、ずっと前から会いたいと思い、またイエスが行うしるしを何か見たいと望んでいたからである。」ともあります。なんと言うんでしょうか。ちょっと感覚がずれていると言うんでしょうか。イエス様のことを自分が首をはねた人物のよみがえりだと聞いて、それでも尚、恐怖よりも興味が先行する。会ってみたいと思う。実はここに決定的なアンティパスの人物像が浮き彫りになってくるようです。
 つまり、彼の内には全く罪意識が無いのです。先にヘロディアとの結婚に関しても、ヨハネの首を刎ねたことに関しても、彼には何の後ろめたさもありません。しれっとしてヨハネの話を聞き、何食わぬ顔でそれを喜べるのです。ヘロディアは違います。彼女があんなにもヨハネを憎み、殺そうとしたのは、彼女の内に後ろめたさがあったからです。罪悪感があった。だからこそ、彼女はそれを隠そうと必死です。歯向かう者を全て排除してでも、自分の身を守ろうといたします。それが良いか悪いかは別として、彼女の反応はある意味、当たり前の反応です。親に叱られて咄嗟に嘘をつく。その延長線上にある反応です。
 けれどアンティパスの場合は全く違うのです。そもそも罪意識がありません。だから、彼は自分が殺したヨハネのよみがえりと噂されるイエス様に平気で会ってみたいと言えるのです。それは、単純に彼の好奇心です。死者がよみがえったという奇跡を見たいだけです。だから、他に興味があることがあればそちらを優先しますし、イエス様を探し出してまで会おうとはいたしません。娘の病気を癒してもらおうと公衆の面前でひれ伏したローマの100人隊長とは全く切迫度が違います。アンティパスにとってイエス様の存在は、数ある興味の内の一つ。だから、気に入っていたヨハネの首も簡単に切れるし、罪の見つからないイエス様の処遇を簡単に投げ出せるのです。
 罪意識がないということがどれほど罪深いことかと思わされます。イエス様に興味はあります。ヨハネの教えにも耳を傾けます。けれど、どこまでも他人事なのです。聖書を読んで、説教を聞いて、なるほど面白い、為になると興味を持ちはするけれど、自分のこととして読むことは決してない。これではどれだけ御言葉に聞こうとも、信仰に結びつくことはできません。イエス様はある時言われました。ルカ5:31-32「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためです。」イエス様がなぜ正しい人ではなくて、罪人を招くのか。それは罪人と自覚している人は、心から救いを欲するからです。自らの滅びを自覚して切迫しているからです。けれど自分を正しいと主張する人は違います。自分は関係がないと他人事にしてしまいます。そうでなくて、聖書を読む時、御言葉に聞く時、他人事にせず、これは自分のことではないだろうかと問い質すことが大事です。御言葉を私のこととして聞く。これが信仰に連なるための初めの一歩です。

210718 ルカ9:1-6 「手に何も持たず」

ルカ9:1-6 「手に何も持たず」

 イエス様は弟子たちを派遣するに伴って、特別の権威を授けられました。汚れた霊を追い出す権威と病気を癒す権威です。この力さえあれば、奇跡が起こせれば、伝道は間違いなく成功するに違いないと喜び、確信したに違いありません。
しかし、そんな彼らに、イエス様は浮かれてはいけないよと、使命の厳格さを続けて語ります。旅のための必要な一切を持って行ってはならないと言うのです。杖も袋もパンもお金も。下着すら二枚持ってはいけない。と言います。つまり着の身着のまま、そのままで行きなさいと言うのです。
 私たちは普通、旅に行く前には念入りな準備をするでしょう。けれども、イエス様の使命を担って遣わされる伝道の旅には、何一つ、余分な物は持ってはならないと言われるのです。では実際、食べ物はどうするのでしょう?着替えは?住むところはどうするのでしょう。それらは必要のない、望んではいけない物なのでしょうか。もちろん、そうではありません。食べてはいけないとか、着替えてはいけないとイエス様は言いたいのではなくて、つまり、食べ物も衣服も住むところもお金も、一切は神が用意して下さると信じて出かけなさいと言うのです。
 続けてイエス様は、「どの家に入っても、そこにとどまり、そこから出かけなさい。」と言われます。あちらこちらと何軒も家を変えるのはいけないと言うのです。つまり、自分への待遇や好みで、住むところをころころと変えないようにしなさいという意味です。もし自由に家を変えても良いのなら、弟子たちはおそらく、より待遇の良いところ、より居心地の良いところへと家を渡り歩くことでしょう。しかし、そのように人を頼りにした伝道をしてはいけないとイエス様は言います。
 物に頼るのでも、人に頼るのでもない。ただ神だけに頼る。ここに、主の弟子への本質的な命令があるように思います。弟子たちには悪霊を追い出す権威や病気を癒やす権威が与えられました。私たちには、そのような権威は与えられていませんが、それぞれに特有の賜物が与えられていることかと思います。人の話をよく聞ける人、筆まめな人、配慮が行き届いた人、御言葉をとりつぐ人、賛美の賜物を持っている人、祈りの人、子ども好きな人、楽しむことが上手な人、それぞれの人にそれぞれの賜物が与えられているのです。そして、それらの賜物は伝道において、おおいに用いられることでありましょう。
 しかし、私たちはそれだけでは足りないと不安になるのです。他の人を見ますと、あの人にはこんな賜物がある。あんな賜物がある。自分にはそんな賜物は与えられていない。だから伝道はできません。と、まるでそのことが唯一の理由のように感じるのです。だから物に頼り人に頼ろうとします。けれど違います。伝道する者は、物にも人にも頼るべきではないのです。ただ神様が与えて下さった賜物を信じ、神様がこの伝道を導いてくださると信じることが大事です。
 それにしても替えの下着も無いなんて、やりすぎじゃないかと思うかもしれません。それほど伝道する者は神様に頼ることが求められるということです。
 弟子たちの伝道の結果はどうだったでしょう。6節を読むと、多くの人に悔い改めがのべ伝えられ、悪霊の追い出しや病気の癒しがあったことが分かります。つまり、多くの人が弟子たちの働きを受け入れたわけです。しかし、受け入れなかった人々はどうなったのでしょうか。5節「人々があなたがたを受け入れないなら、その町を出て行くときに、彼らに対する証言として、足のちりを払い落としなさい。」とイエス様は言います。当時、ユダヤ人は異邦人の地から帰って来るとき、足のちりを落としました。それは、異邦人のものはちりですら関わらない、という決意の表明でした。ですから「証言として、足のちりを払い落としなさい。」とは、その人を救いの外に定めるということなのです。伝道とは人々を救いに招くこと。しかし同時に、福音を受け入れない人々の滅びを定めていくことでもあるのです。
 だからこそ、このことは物や人に頼ってできることではありません。神に頼らなければなりません。物に頼って、人に頼っての伝道で、挙句その人を罪に定めてしまってはどれだけ後悔しても後悔しきれません。その人を救いに定めるのは私たちではありません。神ご自身です。だからこそ、私たちは神に頼って出ていくのです。
 主が弟子たちをそれぞれの地へと送り出したように、私たちもまたそれぞれの宣教地へと遣わされている者であります。ある人は学校という場に。ある人は職場という宣教地に。ある人は家庭に。そこには、もし私たちが伝えなければ、知らずに滅んでしまう人々がいるのです。私たちにしか伝えることのできない、任された民がいるのです。

210714 Ⅱ歴代誌19 「悪いことも、良いことも」

Ⅱ歴代誌19 「悪いことも、良いことも」

 南ユダの王ヨシャファテについては、17:3-4で「【主】はヨシャファテとともにおられた。彼がその先祖ダビデの最初の道に歩んで、バアルの神々に求めず、父祖の神に求め、その命令にしたがって歩み、イスラエルの行いに倣わなかったからである。」と記されています。また彼はバアルを排除し、アシェラや高き所を取り除き、その上でユダの町々に律法の書を教えまわります。また彼は北のイスラエルに対して守備を固め、勢力を増し加えます。主は彼とともにあり、彼もまた主の目に適う王でありました。
 そんな彼が一度だけ、主のみこころから離れて、主ならざる者を頼ろうとします。北イスラエルの王アハブです。彼はアハブとの縁を結びます。彼の息子ヨラムをアハブとイゼベルとの間に生まれた娘アタルヤを結婚させたのです。アハブとイゼベルは北イスラエルでのバアル信仰の守護者です。主の預言者エリヤと対立したアハブとイゼベル。なぜ、主に従うことを良しとしたヨシャファテが、彼の娘を息子の妻に迎え入れたのか。単に平和を求めてのことかもしれませんし、野心のゆえかもしれません。たとえば、彼はこれまでの王が成し遂げなかった北との融和を計る王として、名声を得ようとしたというのはあながちありえない話ではありません。王族同士の結婚は後々のイスラエル統合の布石です。いずれアハブとイゼベルの亡き後、アタルヤは王位継承権を持つ南ユダの女王となるのです。中世ヨーロッパのハプスブルク家のようにです。ですからヨシャファテは尊敬するダビデ以来の国の統一を野心に抱いていたのかもしれません。しかし、アハブには別の思惑があります。アハブはアラムとの戦いに備え、ヨシャファテの下、力を蓄えている南ユダを味方に引き入れようとしたのです。結果、南ユダは、北イスラエルとアラムとの戦いに巻き込まれることとなり、しかもアハブの策略でヨシャファテはアラム軍の矢面に立ち、命の危険に陥ります。主がヨシャファテを助けたので、急死に一生を得ましたが、戦いはアハブの戦死を伴うほど、イスラエル・ユダ連合軍にとって惨敗となりました。
 19章はこの戦いから帰国したヨシャファテに、先見者ハナニの子エフーが忠告するところから始まります。19:2「悪者を助け、【主】を憎む者を愛するというのですか。このことのゆえに、あなたの上に、【主】の前から怒りが下ります。」エフーはヨシャファテに主が怒りを忠告します。しかし、それだけではありません。19:3「しかし、あなたには良いことも認められます。あなたはこの地からアシェラ像を取り除き、心を定めて神を求めてこられました。」と彼のこれまでの誠実な姿をも認めるのです。
 ヨシャファテの過ちは将来大きな付けとなって帰ってきます。イスラエルの統一を夢見た彼の野心は、結果、バアル信仰を南ユダにもたらす大きなきっかけとなるのです。あれほどバアルを排除し、アシェラを取り除いたヨシャファテであるのにです。たった一度の誘惑が取り返しの聞かない災いに発展する。アダムとエバを彷彿させる出来事です。しかし、だからといって彼のこれまでの功績を無かったことにはしないと、主は言われるのです。確かに大きな大きな失敗。けれど、失敗のゆえに、その人の良かったところまで無しにはしない。ちゃんと見てくださっている。ちゃんと評価してくださる。過ちは過ちとして見過ごさず、しかし、その人の頑張りを無下にはしない。つまり、主はそのままを見てくださる方なのです。私たちはその人の短所を見て、全てを否定してしまいがちです。もうその人の存在を受け入れないということがあります。もし主がそのように私たちを見ているのなら、私たちに救いはありません。けれど、主は違います。私たちの罪を見過ごすことはしませんが、同時に、私たちの功績もきちんと見て評価してくださる。だからこそ、もう一度、頑張ろう。やり直してみようと立ち返ることができるのです。
 ヨシャファテは神の都エルサレムに住み、自ら国中を回り、父祖の神、主に立ち返らせます。そして町々に裁き司を立てて、主の裁きを国の統治の根幹とします。彼は今一度、主にだけ頼って生きるのです。もちろん、だからといって彼の過ちが無くなるわけではありません。けれど、その逆もまた然りです。彼の過ちによって、彼の信仰が否定されるわけでもありません。私たちは過去の生き方云々で、未来を決めつける必要はないのです。その時、その時に、主と共にあるかを問い続けるのです。道を間違えれば立ち返り、転んでしまったら再び立ち上がる。転ぶことを恐れて、一歩も進めなくなることのほうが問題です。ヨシャファテの生涯の総括が20:30に記されています。「ヨシャファテの治世は平穏であった。神は周囲の者から彼を守り、安息を与えられた。」弱い自分、罪深い自分を認めることから全ては始まります。日々主に吟味し、立ち返る者でありたいと思います。

210711 ルカ8:40-42、49-56 「信じ続ける秘訣」

ルカ8:40-42、49-56 「信じ続ける秘訣」

 ゲラサの地から帰ってきたイエス様の前に、ヤイロという男が娘の癒しを願ってひれ伏します。彼は会堂司でした。会堂司が人前で平伏して懇願するなんて普通では考えられないことです。けれどヤイロはイエス様にひれ伏します。それはひとえに娘を愛するがゆえにです。そしてイエス様を信じるがゆえにです。彼は会堂司ですから、これまでにも沢山の人たちを間近に見てきたことです。祭司や医者、律法学者や職人たち。およそ人々から賞賛を受け、尊敬される人たちを彼はこれまで何十、何百と見てきました。けれど、いざ自分の愛娘が死に瀕したとき、彼は他の誰でもなく、イエス様のもとに来て平伏しました。それはイエス様の力こそが本物と信じていたからです。イエス様の為さる奇跡が神よりの御業であることを信じたからに他なりません。
 このヤイロの訴えに、イエス様はお応えになられます。イエス様は彼とともに、彼の家へと向かわれるのです。これでイエス様が娘に手を置いてくだされば大万歳です。ところが、事態は思わぬ展開を見せます。大勢の群集がイエス様について来て、押し迫ったのです。そして、汚らわしい一人の女が騒動を起こすのです。
長血の女の出来事は、大変美しい、そして優しさに満ちた出来事です。周りに押し寄せていた群衆も、イエス様の偉大さや寛容さ、奇跡の出来事に惚れ惚れしたことと思います。けれど、ヤイロにはこれを穏やかに観ている余裕はありません。1分1秒でも惜しいこの状況です。長血の女がたとえどのような苦しみの日々を過ごしていたとしても、命が尽きようとしている娘のことと比べれば、優先順位は自ずと知れると言うものです。なのに、イエス様は長血の女にかまわれる。娘の危機がもしイエス様に軽く見られているとしたら、こんなに辛いことはありません。自分の切実な訴えが適当に聞かれているとしたら、大変心騒いだに違いありません。
 ところがヤイロは我慢したのです。彼はイエス様にも、弟子たちにも、長血の女にも、一切非難めいたことを言いません。さすがはヤイロと言ったところです。しかし自体は最悪の結果を迎えるのです。娘は死んだのです。イエス様を信じて、その足もとに平伏して、憐れみを請い願って、しかし、それでも娘は死んだのです。その知らせを聞いた彼の胸中はいかほどだったでしょう。絶望と諦め、そして怒り。何のためにイエス様の下にやって来たのか!来るんじゃなかった!意味がなかった!こんなことなら娘の所で最期を看取ってやればよかった!
 私にはこの一連の出来事が、私たちの信仰生活そのものだと思わされます。私たちはイエス様こそが唯一の救いと信じて、信仰生活に足を踏み入れました。しかしです。イエス様を信じようとも、私たちの日常には様々な試練が降りかかり、心が騒がされるのです。私は神様に後回しにされているんじゃないだろうかと焦ったり、私の価値は軽く扱われているんじゃないだろうかと疑ったりしてしまうことがある。これが私たちの信仰生活の現実です。しかもです。それでも必死にイエス様にすがりついて歩んでおりますのに、私たちは行き着くところは例外なくこの肉体の死なのです。信じ続けることの、何と難しいことでしょうか。
 絶望にうちひしがれたヤイロに対するイエス様の取り扱いにそのヒントが見て取れます。一つは、イエス様は彼らを人々から分けられたということ。そしてもう一つは、イエス様は死んだ者に再び命を与えられたということです。
 イエス様一行がヤイロの家に着いて、子どもは眠っているとおっしゃった時、人々はあざ笑いました。娘の死に痛み苦しんでいる両親の前でです。イエス様はそういう人たちの心無い言葉や噂話から、彼らを引き離されたのです。実はこれが信仰を見失わないための秘訣です。と言いますのも私たちには日々あまりにも多くの言葉が向けられており、私たちはその影響を諸に受ける者だからです。この世の常識や意見が、私たちの霊的価値観を退けることがあります。だからこそ、神の前に一人静まるということが大事です。人々から分けられることが必要なのです。そして、もう一つ。私たちがイエス様を信じ続けるために覚えておきたい事。それはこの世の出来事ではなくて、永遠の命の約束に希望を置いて生きるということです。日常とは違う永遠の希望に目を向けておくことが大事です。それはつまり今の試練や困難は永遠ではないと知ることだからです。やがて終わると知れることは、私たちがそこで絶望しない、信じ続けるための大切な根拠だからです。

210707 Ⅱ歴代誌13 「一心不乱に」

Ⅱ歴代誌13 「一心不乱に」

 ダビデ王国はソロモンの死後分裂し、ダビデ王家に連なるレハブアムが南ユダ王国を、ソロモンの将軍であったヤロブアムが北イスラエル王国をそれぞれ樹立いたします。そのヤロブアム王の治世第18年に、ユダではレハブアムに替わってアビヤが王に就きました。王に就任したアビヤは北の王ヤロブアムに戦を仕掛けます。
 ツェマライム山というのは北イスラエルと南ユダの国境に近い山地です。ここで南ユダの精鋭40万と北イスラエルの精鋭80万の軍勢が衝突したのです。アビヤはヤロブアムと全イスラエルに向けて戦口上を語ります。自分たちがダビデの子孫でありイスラエル王国の正当な後継者であること。ヤロブアムが主君に反逆したものであること。父レハブアムは残念ながら対抗することができず、ヤロブアムは今また主の王国に対して敵対しようとしていること。ヤロブアムが祭司やレビ人を追放し、自分勝手に祭司を立てていること。一方、自分たちは神の律法を守り務めを果たしている。だから神は我らとともにあり、あなたたちが戦うのは主ご自身だと訴えるのです。
 アビヤの訴えは若者によくある正義の訴えです。理想を旗印に彼は強大なイスラエル軍と対峙します。けれどアビヤが気持ちよく戦口上をしている間に、レハブアムは軍を2つに分けて、伏兵をユダの背後に回し、前後からの挟撃の体制を整えてしまうのです。そもそもがユダの倍の兵を用意したレハブアム。今、挟撃体制も整え、盤石の布陣を敷きおわります。堅実で老獪なレハブアムと、血気盛ん、理想と情熱を掲げる若者アビヤという構図が見て取れます。この盤面を見れば、戦略的にも、戦術的にも、すでに戦は詰んでいるのです。ところが結果は違いました。自分たちが窮地に立たされていることを知ってユダの民は主に叫び求めます。すると「神はヤロブアムと全イスラエルを、アビヤとユダの前に打ち破られた」のです。ユダはイスラエルに大打撃を与え、イスラエルの精鋭50万人が剣で倒れました。ユダの圧勝で幕を閉じるのです。
 戦場の王として、若王アビヤの理想に兵たちは不安しかありません。一方、レハブアムの慎重で老獪、経験豊かな姿に兵たちは安心したことでしょう。兵にとって、どちらが優れた指揮官かは一目瞭然です。けれど主はそのようには見ておられません。確かにアビヤの理想は地に足を付けてはおりません。若者特有の危なっかしい、世間知らずの夢想家。けれど、がむしゃらに、主のために理想を掲げて挑もうとするその姿を主は良しとされました。
 学生の頃、救われたばかりで理想に燃えていた私は、見ず知らずの学生に手当り次第声をかけては、聖書を勧め、聖書研究会に誘っておりました。今考えると、無茶なことをやっていたものだと思います。同じことを今やれと言われても、とてもできません。けれどあの頃はとにかくそうするしか無いと思っていました。どれだけ危うくとも、考えなしでも、理想のために一心不乱になれるのは若者の特権です。私たちは歳を重ね、色んな経験を重ねて、実は身動きができなくなっていくことはないでしょうか。現実と常識と経験は私たちにとって大切な日常の物差しです。けれど、それらは時に私たちの足枷となることがあるのです。考えてみますと、80万という軍勢に対して40万の軍しか集められなかった段階で、私たちなら戦うこと以外の手立てを考えるのではないでしょうか。理想など早々に引っ込めて、生き延びる道を探ることではないでしょうか。けれど、彼は理想を掲げて戦場に赴きます。それは単なる若者の浅はかさとは言えません。彼が主に信頼していたからです。状況が不利なことは彼も知っていたでしょう。それでも引けない一線がある。彼の信頼と覚悟を見て、主はそれを良しとされたのです。主の戦いに必要なのは常識や経験ではありません。従順であり信頼です。主が共におられることを信じて進み行くのです。
 ピリピ3:13-14 「兄弟たち。私は、自分がすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ一つのこと、すなわち、うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです。」

210704 ピリピ3:3 「私たちは礼拝する民」

ピリピ3:3 「私たちは礼拝する民」

 信仰者が共に集うところ。それが教会です。けれど、共に集まって何をするかというところまでが大事です。教会に集まって一緒にご飯を食べる。スポーツをする。大きく見れば、それらも教会活動の一部ですが、それらが無くても教会は成り立ちますし、それらが行われる場所が教会である必要もありません。クリスチャンの友人とボーリングに行ったとしましょう。信仰者の群れだから、そこも教会だと言うかと言いますと、もちろん言いません。スケートをするところはスケート場ですし、映画を観るところは映画館です。では教会は信仰者が集まって何をするところでしょう。もちろん礼拝です。教会から礼拝を取ったら、もうそこは教会ではありません。日本にはそういう教会風の建物がブライダルとして沢山あります。それは教会風であって教会ではありません。ですから、教会とは礼拝を共にする者の群れ、礼拝共同体なのです。
 ピリピ3:3には「神の御霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇り、肉に頼らない私たちこそ、割礼の者なのです。」とあります。「割礼の者」というのは、旧約における神の民の印を持つ者です。割礼を施した私たちこそが神の民とユダヤ人たちは誇っていたわけです。けれど、そうでしょうか。そもそものイスラエルが神の民を選ばれたのは、彼らを通して、神の臨在が証しされるためです。彼らが神を第一として従い、礼拝して過ごす時、神は彼らを祝福し、彼らが神を裏切り、自分を優先して生きる時、神は彼らに罰を与えられる。その彼らの結末を通して神はご自身の存在を明らかにされるのです。つまり彼らは世に対するモデルケースなのです。「神の御霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇り、肉に頼らない私たちこそ、割礼の者」とあります。つまり、私たちもまた世に対して神の臨在を証しするモデルケースだと言うことです。ですから私たちが礼拝することは、世に対する責任であり使命です。しかしそれ以上に思うのは、礼拝は恵みであり、祝福だということです。
 礼拝に出席できるということは、当たり前のことではありません。体調が許さなければ教会に集うことは叶いません。あらかじめスケジュールを空けておく必要がありますし、急な友人の誘いも断らなければなりません。サタンの手口は私たちを牢獄に監禁して、無理やり引き止めるものではありません。色んな小さな言い訳と誘惑を用意するのです。仕方ないよね。と自分自身に言い聞かせることの出来る様々なこの世の出来事に目を向けさせます。けれど、そういう様々な誘惑と闘って、礼拝に出席することを選び取って、私たちはこの所に集っているのです。
 凄いことだなぁと思います。多くの日本人がお盆と正月、それに特別な願い事があるときだけ神社仏閣を訪れるところ、私たちキリスト者は毎週毎週、礼拝を献げるのです。このことはもっと褒めて良いことだと思います。素晴らしい信仰の決断だと思います。私たちは霊的な戦いに身を投じているのです。平日の私たちは、さらに過酷です。この異教の蔓延る国においては、私たちの日常は極めて孤独な霊的戦いを強いられています。
 だからこそ、私たちは週の初め、神からの祝福をいただくことが大事なのです。昨年は新型コロナの影響で、礼拝を休止せざるを得なかった教会が多く起こりました。私たちの教会でもどうするか決断が迫られました。役員の方には臨時に何度も集まっていただいて、話し合いを続けました。そして出した結論は、礼拝だけは続けるということでした。その結果、ライブ礼拝を開始し、後に分散礼拝と併用して、現在に至っています。そこにはやはり、このような先の見えない不自由な中だからこそ、礼拝の祝福を絶やしてはいけないという切なる思いがあったからでした。
 私は礼拝の中で最も重要なのは、祝祷であると考えます。神の招きによって集い、祝福によって派遣される。ここに世の教会としての目的と意味があるのです。信仰生活の主戦場は世です。私たちは信仰生活の中心は教会にあると思うかもしれません。けれど、実際は信仰生活の大半を私たちは世の中で過ごすのです。だからこそ、神は信仰のゆえの喜びと苦難を共有する兄弟姉妹として私たちを教会に招き、そして派遣されるのです。