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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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210829 ルカ9:28-36 「主イエスの真の姿」

ルカ9:28-36 「主イエスの真の姿」

 イエス様は、このヘルモン山にて、祈りの内に、ご自身を栄光ある姿へと変貌された。だからこの一連の出来事を変貌山の出来事と言われたりしています。けれど、厳密に言うとこれは逆でして、イエス様は本来の栄光あるお姿へと戻られたというのが正解です。今、イエス様はお姿を変えられたのではなく、元のお姿をお示しになったということです。主は本来、栄光をまとっておられるのです。さぞかし、恐ろしかっただろうと思います。マルコの福音書では、はっきりと「彼らは恐怖に打たれた」と記されています。そりゃそうです。主のご栄光は本来、罪深い私たちは直接見ることができないものだからです。太陽の下で影がはっきりと映し出されるのと同じです。神の栄光の前に私たちは自分の醜さや卑しさ、自分のうちに救われる要素がないことを見るのです。
 イエス様は、この時、エリヤとモーセを従えて、エルサレムでの最期の使命についてを語り合っておりました。人々はイエス様のことを様々に言いました。ある人はエリヤだと言い、ある人はモーセだと言った。それは当時の人々の最大限の称賛です。しかし、イエス様はそのような人と置き換わるような方ではありません。イエス様は「神のキリスト」です。イエス様は人々の誤解を目に見える形で解かれているのです。また、この三人は最期の御業についてを語り合っておりました。最後の御業とは、すなわち死と復活の出来事についてです。神の救いのご計画が死と復活の奥義にあるということを、再度明らかにするのです。
 イエス様が語っても理解せず、まるでちんぷんかんぷんな心配をしている弟子たち、ペテロに至っては「下がれ、サタン」とまで言われたわけですけれども、そんな弟子たちに対して、イエス様はこれ以上無い形でご自身の使命と本性を明らかにされたのです。しかし、弟子たちはそのイエス様のみこころを図り知ることができません。ご自身を明らかにされようとしているイエス様に対して、彼らはただただその栄光ある姿に、恐れと憧れを感じていたのです。そしてそのご栄光をいつまでも自分たちの側に留めておきたいと思い、幕屋を三つ造りますと申し出るのです。
 すると、雲がわき起こって彼らをおおいます。「雲の中に入ると、弟子たちは恐ろしくなった。」とありますのは、雲の中に神の臨在を感じ取ったからでしょう。そして案の定、その雲の中から「これはわたしの選んだ子。彼の言うことを聞け。」という声がいたしました。そして、目映いばかりの奇跡は納まり、いつものイエス様がそこにはおられました。これが変貌山の出来事の全貌でありました。
 さて、この一連の出来事を振り返りまして、これをイエス様の変貌と捕えるとき、その光り輝くご栄光に目を留めるとき、私たちはペテロと同じ失敗をしてしまうのではないでしょうか。イエス様が栄光を帯びられた。だから栄光を帯びたままのイエス様をいつまでも自身の傍らに置いておきたいとです。しかし、実際はこれはイエス様が本来のお姿を現されたという出来事であります。ですから、この光り輝く栄光を帯びたイエス様の姿を見ましたら、私たちはこの変貌振りに驚き喜ぶのではなくて、この本来栄光あるイエス様が、その栄光を捨ててまで人となられて地上に来られたということ、このイエス様があろうことか人の罪の身代わりとして死を遂げられるということにこそ、目を留めなければなりません。
 イエス様が、栄光あるお姿をお捨てになってまで人々の贖いとなられた。これは、すごいことです。目の前の出来事に浮き足立ってる場合ではありません。イエス様が栄光ある姿を捨ててまで、人に寄り添って下さったのはなぜでしょう。それは私たちの身代わりとなられるためであります。身代わりに罪の刑罰を受けられるために、いけにえの犠牲となられるために来られたのです。私たちはこのイエス様の栄光ある姿に、イエス様がお捨てになったものの大きさを見なければなりません。なぜならそれこそがイエス様の私たちへの愛の深さだからです。ピリピ2:6-8には「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。」とあります。ここに救いがあるのです。私たちは今朝、この人の姿を取りて来られたイエス様の愛と憐れみの深さを覚えて感謝する者でありたいと思います。

210822 ルカ9:22-27 「誰のために生きるのか」

ルカ9:22-27 「誰のために生きるのか」

 イエス様がご自身の使命についてを明らかにされる場面です。「人の子は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日目によみがえらなければならない。」イエス様はとても慎重に、この話をしています。弟子たちを身近に置いてご自身の働きをつぶさに見させ、次に弟子たち自身にその働きを任せて遣わし、そして帰ってきた彼らに人々の噂を確認させた後に彼らの本音を尋ねます。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」なぜなら、これから話すイエス様の使命は、イエス様を本気で救い主と信じている者でしか到底受け止めきれるような話ではないからです。特にここガリラヤは、政治の中枢であるエルサレムとは違い、反ローマの気運が強く、暴力を持って事を成そうとする物騒な熱心党と呼ばれる人たちが多くおりました。彼らにとって救い主とは、ローマの圧政からの脱却を図り、神の国イスラエルの独立を導く者を指しました。けれど、それは救いというものを誤解しています。今の苦しみから脱却することが、救いなのではありません。救いとは、罪のゆえに神との関係が絶たれた人類が、今一度、永遠の神との関係を取り戻して生きる、ということです。つまり救いとは、神との関係の回復です。このために救い主であるイエス様は来られたのです。ご自身を生贄として神との和解をもたらすためにです。
 ですからイエス様はご自身の使命を誰彼とは無しに語ることをいたしません。わざわざ弟子たちの覚悟を確認してから語るのです。そして、このタイミングで明らかにされるのは、間違いなく、迫りくる十字架を見据えておられるからです。イエス様は十字架で死なれ、よみがえり天に昇られる。けれど弟子たちは尚も地上に残るからです。イエス様はその時に備えさせたいのです。
 「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。」とあります。イエス様の弟子として生きるためには、自分を捨て、自分の十字架を負う必要があると言われています。なんて重たい言葉でしょうか。自分を捨てるとは、自分の欲望や願望を捨てるということです。十字架を負うというのは、十字架刑に掛かる前に、その自分が架けられる木の柱を自ら背負わされて処刑場まで歩くことを連想させる言い方。つまり、死をも覚悟して歩みなさいという意味に取れます。どちらも簡単とは思えません。
 けれど、イエス様は続けられます。「自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを救うのです。」それはむしろ、いのちを救うためだと言うのです。自分を捨てて、自分の十字架を負って、イエス様に従う。それは一見すると危険で、苦しくて、面倒な道に思えます。けれど、そうじゃないと。主イエスのために生きる者は、たとえいのちを失おうとも救われるのだと。しかし、自分のために生きる者は救いを失うんだと。こうおっしゃるのです。
 自分のために生きることはいのちを失うことなのです。私たちの内に救いはないのです。救いというのは単なる状況の改善ではありません。救いとは神との和解です。イエス様は今、ご自身の十字架の死と復活を語られています。十字架というのは、罪の刑罰です。それはつまり犯した罪と釣り合いの取れる罰を受けることで、その罪を精算するという意味です。つまり十字架は死をもって釣り合う罪の精算というわけです。しかし、その十字架をイエス様が代わりに背負われた。ですから、私たちが自分の十字架を負うとは、つまり死をもって罪の精算をするということであり、それはその罪の精算のためにイエス様が十字架で犠牲となられたということであり、そのイエス様の犠牲の上に今日を生き、明日を生きるということなのです。
 この誰のために生きるのか、という信仰のテーマは、特にルカの福音書が書かれた当時、教会に問われた大きなテーマでした。なぜなら、その時代はまさに迫害の時代。イエス様を信仰するがゆえに、命が奪われるという時代だったからです。ですから、自分の命を守るために信仰から離れるという者たちも少なからずおりました。けれど、それは命を守るようでいて、実は失っているのです。自分だけを求める先に救いはありません。自分に執着して、永遠を失うわけにはいきません。私たちは主イエスの十字架と復活の御業に、主のために生きる喜びを見出していきましょう。
 ヨハネ6:27「なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。それは、人の子が与える食べ物です。この人の子に、神である父が証印を押されたのです。」

210818 ルカ9:18-21 「主イエスの名を」

ルカ9:18-21 「主イエスの名を」

 有名なペテロのキリスト告白の場面です。イエス様の弟子として、あるときはイエス様の代わりとなって町に派遣され、あるときはイエス様の側で教えに聞き入り、あるときはイエス様から直接指導を受ける。弟子として日々成長する彼らに、ある時、イエス様は尋ねられます。「群衆はわたしをだれだと言いますか。」弟子たちは答えます。「バプテスマのヨハネだと言っています。エリヤだと言う人たち、昔の預言者の一人が生き返ったのだと言う人たちもいます。」
 人々はイエス様の奇跡を見聞きし、その力や権威を十分に認めておりました。バプテスマのヨハネ、エリヤ、昔の預言者の一人。いずれも救い主の先駆者として民衆が尊敬していた人物です。ですから預言者の一人と並び称されるのは、当時の最高の賛辞だと考えても良いでしょう。しかし、一方で、当時の人々の間ではイエスが気が狂ったのだという噂や、悪霊どもの頭によって悪霊を追い出しているという否定的な噂も流れておりました。つまり、人々の噂は様々であったわけです。共通しているのは、イエス様が良きにせよ悪きにせよ話題の中心人物であったということです。
 さて、イエス様は次に「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」と尋ねました。これこそがイエス様が問い質したかった質問でした。イエス様は何も世間一般の噂を気になさって尋ねたのではありません。イエス様は「あなたは」と聞きたかった。何度奇跡を体験しようと、一向に悟らない弟子たちの本心を尋ねたかったのです。世間の評判はわかった。ある人たちは私を否定し、ある人たちは私を預言者とあがめている。それはわかった。では、あなたはどうか、あなたは私をどのように信じているのか。そのために、わざわざ人々の評判をまず先に尋ねたのです。
 どういうことでしょうか。それは私たちが、あまりにも周りの声に左右されやすいものだからです。ただ単に、神さまはおられると思いますか?と聞かれれば、私たちは自信を持って神さまは今も生きて働かれておられますと答えることでしょう。今ここで、あなたはイエス様を信じていますか?と問われれば、「はい。私はイエス様が救い主であることを信じています。」と答えられるでしょう。けれど、そこに周囲の目が加わったらどうでしょうか。世間の目、友や知人の噂。家族のプレッシャー。そういったものが加わったとき、いかがでしょうか。私たちはキリストを告白するのに抵抗を感じることはないでしょうか。
 事実、私たちは周囲からイエス様に対する様々な噂を耳にします。偉大な教師、革命家、思想家、キリスト教の教祖、ペテン師、犯罪人。周りの人の意見は、必ずしも良い噂ばかりではありません。そのような中でキリストを告白するというのは、決して簡単な話ではありません。周りの人はどう思うだろう。キリストを告白する自分はどう見られるだろう。世間の人はイエス様なんて言うと引くんじゃないだろうか。私たちは絶えず、周囲の反応が気になります。
 私は、高校3年生の春に教会に導かれ、その年の夏のキャンプでイエス様を私の罪のために死んで、蘇って下さった救い主であると信じました。けれど、そのことを家族に話すことはなかなかできませんでした。家族にどう思われるかが恐かったからです。イエス様を証しすることに自信がもてなかったのです。
 第3者にイエス様を説明することは容易いことです。イエス様とはこのようなお方だったと、聖書にはこのように書いてあると、説明することは簡単です。けれど、私はイエス様を救い主と信じていると、自らの告白として語ることは、これは難しい。イエス様は私の罪のために死んで蘇ってくださったと告白することは大変難しいのです。
 けれど、イエス様が問うているのは、まさにこの私の告白です。イエス様にもその噂は聞こえていたはずです。けれどイエス様はわざと人々の評判を問いました。その人が置かれている周りの常識や偏見というものをもう一度思い返させるためにです。そして、その上でイエス様は問われる。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」人々は好き勝手に言っているけれども、だから何ですか。人がどう言おうと関係がない。あなたはどう言うのか。周りに左右されないで、あなたの本心を聞きたいと問うておられるのです。
 皆さんは、なんと告白されますか。人々の中で、家族の中で、皆さんはこの方を何と告白していますか。色んな言葉が氾濫しているこの世の中で、私たちはただ主イエスを誇りとして、胸を張ってその名を告白したいのです。

210808 ルカ9:10-17 「人には不可能なことも」

ルカ9:10-17 「人には不可能なことも」

 イエス様が群衆の前で話をされている間、弟子たちは必死に食べ物を探しました。これに先立って、イエス様が弟子の一人のピリポに「どこからパンを買って来て、この人たちに食べさせようか。」(ヨハネ6:5)とおっしゃられたからです。けれど、男だけで5000人は下らない人々の腹を満たす食べ物など用意できるはずもありません。気が付くとすでに夕刻。群衆が騒ぎ出してもおかしくありません。彼らは言います。「群衆を解散させてください。そうすれば、彼らは周りの村や里に行き、宿をとり、何か食べることができるでしょう。私たちは、このような寂しいところにいるのですから。」するとイエス様は念を押すように言われます。「あなたがたが、あの人たちに食べる物をあげなさい。」弟子たちの挫折感はいかほどだったでしょう。見つけたのは、少年が持っていた5つのパンと2匹の魚のみ。これっぽっちではせいぜい2、3人が食べてお終いです。もうどうしようもない。だから彼らは群集を解散するようにとイエス様に提案したのです。それは彼らなりにあれこれと手を尽くした上での最善の結論でした。わずかな食べ物を差し出して、えこひいきだとか、足りないとか、あれこれと文句が出るよりは、いっそのこと解散させた方が良い。事情を説明すれば彼らも納得するだろう。これが彼らの結論でした。
 イエス様はこの後、5つのパンと2匹の魚を自ら祝福して、弟子たちに配らせます。すると、どれだけ配ってもパンと魚が尽きません。何と、皆が食べて満腹となり、尚パン切れが余って、12かごありました。人々はイエス様の奇跡を体験し、驚き、主を褒め称えながら家に帰ったことでありました。
 イエス様の素晴らしい奇跡の御業。けれどわからないのは、なぜ弟子たちに食べ物をあげるようにと命じられたのかということです。イエス様は彼らには無理だとわかっていたはずですし、ご自身が食べ物を用意するつもりでいたと思うのです。なのに、わざわざ弟子たちに命じられた。それは彼らに自分たちの無力さを知らしめるための教訓でありました。
 彼らを試して言われたのです。つまり、イエス様は目の前のおびただしい群集の腹を満たすという課題を通して、それは人には不可能なこと。弟子たちの手に負えないこと。自分たちを用いてくださるのは主イエスに他ならないということを教えようとされたのではないでしょうか。考えて見ますと、弟子たちが人々を癒し、悪霊を追い出し、多くの悔い改めの者を出したのも、全てイエス様がその権威を与えられたからでありました。彼らが何か修行をして手に入れた力でも、培ってきた知識や経験によるものでもありません。けれど、実際にそれができたとき、彼らは有頂天になって、競い合って自らを誇ったのです。だから、彼らにはどうすることもできない課題が与えられました。主に拠り頼まなければ成すことができない課題が与えられたのです。
 この5千人給食の出来事は、弟子たちに、自分の働きではない。主が働かれることこそが解決であることを強烈に教えたのです。そしてだからこそ、福音書記者は皆、この出来事を欠かさなかったのです。この後、彼らはイエス様の十字架と復活、そして昇天を経験し、イエス様から託された福音を携えて出て行きます。けれどその働きは簡単にはいきません。多くの迫害や困難に直面し、失敗にも思える出来事を経験します。人々はこの新しい教えを馬鹿にし、ユダヤ人たちはこれを目の敵にしました。そんな彼らが、この5千人給食の出来事に慰められ、支えられるのです。この働きは私の力によるのではないこと。主の働きのゆえに、主が責任を取ってくださるだろうこと。だから、心配しないで、精一杯に主に仕えることができたのです。
 私たちに大切なのは、これが主の働きだと認めるということです。福音宣教は私の働きではありません。私が頑張ったから成し得ることではありません。主の働きです。だからこそこれは主が責任を取って下さる働きなのです。

210801 Ⅱテモテ4:2 「伝道に突き動かす衝動」

Ⅱテモテ4:2 「伝道に突き動かす衝動」

 Ⅱテモテ4:2「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」この御言葉は教会に向けられた使命であると同時に、一人ひとりのキリスト者に向けての言葉です。私たちはまず教会の使命としての伝道を誤解しないために、一人ひとりの使命としての伝道を考えたいと思います。なぜなら、教会としての伝道という考えには、どうしても、個人の責任を曖昧にする誘惑があるからです。教会という群れとして、この使命を捉える時、教会には語るのが上手な人もいれば、苦手な人もいます。もてなすのが得意な人もいれば、影になって準備するのが上手な人もいます。様々な賜物を持った兄弟姉妹が互いに協力しあって、教会の使命を担っているわけです。これは教会の働きの重要な要素でして、それぞれが補い合って、一つの目的に向かって励むことを通して、一人では決して担いきれない働きを私たちは担っていくことができる。これは事実です。しかし、どうでしょう。私たちはともすると、互いを担いあい、分担するということを言い訳にして、神様からの使命をどこか他人事にしているということはないでしょうか。教会には賜物豊かな人、経験豊かな人、若くて元気な人、思慮深い人、あの人こそ相応しいという人が沢山います。そういう人たちを目にしますと、いつの間にか、自分自身がしゃしゃり出なくても、伝道ってのは何とかなるんじゃないか。それは私のやることではないのではないか。と思ったりはしないでしょうか。
 けれど、私たちの信仰生活の主戦場は教会ではなくて世です。私たちの日常において、たとえば職場であったり、学校であったり、家庭であって、私たちの出会うその人に福音を伝えるのは、教会の誰かではないはずです。けれど、私たちは恐れるのです。なぜなら福音を語ることは、私とその人の関係をこれからも続けていけるか否かがふるわれることだからです。だから、そう簡単には伝えられない。もう少し状況が整ってから、もう少し年を重ねてから、もう少し関係が強まってからと思うのです。
 しかし、それはあまりに安易な考えではないでしょうか。なぜなら、主のときはいつやって来るかわからないからです。なのに私たちはそれを先延ばしにしてしまいます。そして身近なその人たちの方から、たとえばどうしようもない試練にあって自分に助けを求めて来る。そういった状況になるのを期待して、ただひたすらに待ってしまいがちです。しかし、敢えて言わせてもらうなら、そういう火急のときに福音を語ることができるのは、常日頃から語っている人だけだということです。
 伝道を妨げる大きな要因が二つあります。一つは危機感の欠如。もう一つは感動の欠如です。聖書は死後の裁きと永遠の刑罰、そして救いをはっきりと記します。貧乏人ラザロと金持ちが死んで後、罪人と罪赦された者との間には、どうやっても超えることのできない永遠に隔てがあると記されています。聖書は全ての者が救われるとは言いません。滅び行く霊があるとはっきりと言います。だからこそ、私たちは、恐れを持って、危機感を持って、語り続けなければならないのです。
 いえ、受けた恵みの大きさを本当に知るなら、私たちは語らずにはいられないのです。ピリポが友人のナタナエルにイエス様のことを伝えます。「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。」するとナタナエルは「ナザレから何か良いものが出るだろうか。」と反論しました。しかしピリポは言うのです。「来て、見なさい。」このピリポの伝道は理屈ではありません。衝動です。しかし、それが大事です。ピリポの言葉には何の裏付けもありません。けれどもナタナエルを動かしてしまうだけの説得力があります。それは彼の内には救い主に会ったという感動と確信があるからです。そこには何の迷いも、恥じらいもない。だからこそ聞く者は動かされるのです。
 私たちは余りにも相手に気を使いすぎてはいないでしょうか。こんなことを言ったら変に思われるかも。教会に誘ったら鬱陶しがられるかも。だから、たとえ誘うとしても「無理しないでもしも暇なら来て下さいね。」となるのです。けれど、私たちが受けた恵みは「暇なら来てね。」という程度のものでしょうか。それは私たちの人生を一変させた素晴らしい出会いだったはずです。そうでないとすれば、確かに、それは伝わらないでしょう。私たちの内に、滅びゆく魂への危機感はあるでしょうか。そして感動と確信はあるでしょうか。それらこそが私たちを突き動かす衝動です。