fc2ブログ
プロフィール

Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

最新記事
カテゴリ
月別アーカイブ
最新コメント
検索フォーム
リンク
QRコード
QR

210926 ルカ9:49-50 「真の仲間とは」

ルカ9:49-50 「真の仲間とは」

 使徒19:13-16には、ユダヤ人の巡回祈祷師が悪霊に憑かれている人たちに向かって、試しに主イエスの名を唱えて追い出そうと試み、逆に悪霊に打ち負かされた出来事が記されています。彼らの悪霊追い出しは、、明らかに信仰から来ることではありませんでした。ためしに唱えた。軽い気持ちで乗っかってみた。このような主の御名を軽々しく用いようとする行為は、主の御心に適うことではありません。第一、悪霊こそが主の御名の偉大さを知っておりましたから、その悪霊どもが恐れなかったというのは、この者たちが信仰無く、形だけ真似しているだけだと見抜いているからでありました。
 ですから、今日の箇所で、ある人がイエスの名を唱えて悪霊を追い出していたとあるのは、キリストに敵対する人々が、無断でその名前を借用して奇跡を行い、それゆえに自らを誇っていた。というような出来事ではないわけです。むしろ彼は主の御業を信じ、主への謙遜を持ってこの業を行なっていた。悪霊に憑かれているその人を心からうれいて、慈愛の心をもって、奇跡を為していたのです。もしかすると彼自身、イエス様から悪霊を追い出された経験があったのかもしれません。確かに、彼はヨハネと一緒に旅をすることはいたしません。しかし、それは別に彼がイエス様たちをないがしろにしていることを意味しません。悪霊の憑かれた人々の中で彼が用いられていたということがその証拠です。
 ヨハネは自分たちと行動をともにしないその人の行いを止めさせました。その行いの良し悪しは別にしてです。この背景には、少し前に、同じ弟子たちが悪霊を追い出すことに失敗したことがあったのでしょう。つまり、ねたみや、やっかみがあったのです。自分たちに出来なかったことを、主の一行でもない者がやすやすと為している。恥かしさと、悔しさと、みじめさと腹立たしさの向かう先は、自分は主イエスの仲間であるという帰属意識。そして、あの者は仲間ではないという排他的な思いです。ヨハネは自分たちの仲間グループに入らないその人を責めることで、自分の優位性を保とうとしてる。ここに彼が他の働きを認めることが出来なかった原因があります。イエスの一番弟子である自分たちですら出来なかったことを、イエス様に従うこともしない者たちが行なっている事実は認められないのです。誰が偉いかと言い争っていた自分たちを飛び越えて、主の業をなしているその人に腹立たしい思いをしたのです。
 イエス様一向というのは、ある意味、非常に強い結びつきを持ったグループでした。彼らは「わたしについて来なさい」とのイエス様の召しに、家族も仕事も全て置いて、着の身着のままで従った人々です。旅を続けまして、イエス様の奇跡を間近で見て感動したり、また律法学者やパリサイ人たちとの論争にも巻き込まれて、より一層結束を強める一行でありました。しかし、この団結、連帯感というものが曲者でして、ともするとその集まりは独善的、排他的にもなりやすいのです。自分たちと行動を共にする者以外は仲間ではない。いつの間にか、彼らはそういう感覚になっていたのです。これは私たちも気をつけなければなりません。教会の交わりというのは神の家族に例えられるほどに、非常に親密な間柄です。しかし、それだけに私たちは、私たちのこの連帯感が人々を阻害してしまってはいないか。誰かを締め出してはいないか。と注意しなければなりません。
 イエス様とヨハネとでは「仲間」という定義に根本的な違いがありました。ヨハネは自分たちと行動を共にしない者たちにいらだちを覚えました。彼にとっては、共に同じ生活を過ごし、同じ体験を共有するということこそが仲間だったからです。けれどイエス様は違います。イエス様はその使命をご覧になっておられます。その者が、正しい願いを持って主の業に就こうとするのなら、たとえ一緒にいなくとも、態度や方法が違っていようとも、その者は仲間なんだとおっしゃられるのです。
 私たちもこの主の寛大さに習いたいと思います。主はこんな私たちをも、味方だと言ってくださっているのですから、私たちこそ主の寛大さに触れた者であります。ちっぽけな連帯感にしがみつかず、広い心を持って、むしろ互いの違いを受け入れ合う者となりたいのです。

210922 ローマ1:18-32 「神の怒り」

ローマ1:18-32 「神の怒り」

 「というのは」という書き出しで、今日の箇所は始まります。なぜ正しい人は信仰によって生きるのか。パウロの答えはかなりショックです。それは「不義によって真理を阻んでいる人々のあらゆる不敬虔と不義に対して、神の怒りが天から啓示されているから」だと言うのです。不義には神の怒りがもたらされる。だから必然的に、信仰によって生きる人は正しいと言うのです。信仰によるとは、自分の力に頼らないということです。神の憐れみに頼るということです。だからこそ、その人は義人と呼ばれるのです。ここで言う義とは、私たちが考える正義のことではありません。人によって、立場によって、時代によって代わる正義、自分にとって都合の良いことを貫くための正義を言っているのではありません。それは永遠に代わるところのない正義。つまり神の義です。義人とは、神の義に頼って生きる人なのです。逆に、自分の正義にこだわり、自分の我を通して生きようとする人は、神の義に頼らないわけですから、それは不義なのです。
 神は不義である者を怒り、滅ぼされる。この大前提をパウロはまず記しています。パウロはこのローマ書で救いとは何たるかを説明しようとしています。しかし、その前に罪のもたらした悲惨を記すことで、人類はその罪のゆえに神の前に滅ぶべき存在であること、自らでは救いに至らない存在であることを語るのです。
 あなたは罪人ですよ。キリストを信じない人は救われませんよ。こんなことを言うと、だからキリスト教は排他的で嫌いだ。という声をよく聞きます。いきなり神が怒ってるなんて言われても困ると言われます。けれど、それはもう前もって明らかにされていることなのです。「神の見えない性質、神の永遠の力と神性は、世界が創造されたときから被造物を通して知られ、はっきりと認められる」とあります。神の創造の御業、その被造物を見れば、それは紛れもなくこの世界に啓示されているのです。登山をして山頂から眼下に広がる雄大な自然を見る時、また野生の動物が愛を育み、子を育て、群れをなして駆け抜ける雄大な景色を見た時、私たちは確かにそこに神の創造の御業を見るのです。神はこの世界のあらゆるところにご自身を啓示されています。ですから、神など知らないとは誰も言えません。そして、その素晴らしい世界に蔓延る悲惨な現実を見れば、私たちはそこに罪の影響を見ないわけにはいきません。人は本来、あらゆる自然の中に、そこに生きる全ての命の内に、神の御業を見ることができたはずです。この世界は神の栄光で満ちています。にも関わらず、人々はこの世界に神の御業を見ることができないでいます。それは罪のゆえです。罪とは神の否定です。自分自身の正義を神の前に置く行為です。神抜きにこの世界を説明しようとする時、それは継ぎ接ぎとこじつけだらけの、世界になってしまいます。素晴らしい創造の御業は、人の罪のゆえに歪められてしまったのです。
 あらゆる被造物を神の代わりとし、自らの欲望に身を委ねて、創造の秩序は破壊されています。絶対的な価値観を失い、思い思いの正義に身を委ねた先は、「あらゆる不義、悪、貪欲、悪意に満ち、ねたみ、殺意、争い、欺き、悪巧みにまみれ」、陰口、中傷、神を憎み、人を侮り、高ぶり、大言壮語し、悪事を企み、親に逆らい、浅はかで、不誠実で、情け知らずで、無慈悲な現実です。神を捨てて好き勝手に生きる自由を選んだ結末が、この現実なのです。
 私たちは今一度、この世界に創造の御業を取り戻さなければなりません。そして、私たちが滅ぶべき罪人であることを認めなければなりません。パウロは福音の素晴らしさを告白しています。「私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。」(ローマ1:16)この福音の恵みに与るために、私たちはまずこの世界の現実を認める必要があるのです。

210919 ルカ9:46-48 「大志を抱け」

ルカ9:46-48 「大志を抱け」

 イエス様による度重なる受難の告知。しかし、それを聞いた弟子たちの心を占めたのは、救い主なるイエス様を死に追いやる自らの罪深さへの悔い改め…ではなくて、救い主の活動の最期に訪れる御国においての自分たちの席次でありました。弟子を想う師の心は弟子には響きません。
 この先の結果を知っている私たちにとっては、ほんと呆れてしまうほどの弟子たちの鈍感さです。しかし、考えて見ますと、私たちの日常はこの弟子たちと何ら変わりません。誰が一番か。自分はこの集まりの中で、どれくらいの順序か。私と隣の人の力関係はどうなのか。私たちは常に周りを気にしながら、自分のポジション争いに関心を寄せています。企業に務める会社員にとって、受験を控えた学生にとって、生活のあらゆる場面で私たちは他人と競い合うことを強要されているからです。
 しかしながら、人生の成功を目指す。他人と競い合う。これらが一概に悪いことなのではありません。早く生まれた雛が、まだ孵らない卵を巣から落とすことが自然界ではあります。そうすることによって餌が乏しくて厳しい環境の中でも、雛は十分な栄養を親からもらうことが出来るからです。生きるために必死になる。上を目指す。神の国の席次を願う。これは何も全てが全て間違った話ではありません。
 だからでしょう。イエス様は弟子たちの論議を聞いて頭ごなしに叱り付けることはなさいません。弟子たちを責めるのではなく、その目指し方が間違っていると教えるのです。
 とかく、クリスチャンは野心を持ってはいけないと思われがちですが、そうではありません。人の上に立つために、人を蹴落とし、落としいれ、他人よりも自分が偉いかのように振舞おうとする。これが間違いなのです。弟子たちは自分の優れたところを自慢しては、自らの地位を競っておりました。自分はあいつよりも偉い。こいつよりも役に立っている。しかし、そうではなくて、人の先に立つ者とは、実は、皆のしんがりとなり、皆に仕える者であるとイエス様は語っておられます。目指すことが悪いのではなくて、目指す方法が違うと言っているのです。積極的な向上心は時に人々を奮起させる力となります。何かに向かって頑張ろうとする。それは人としてのあるべき姿です。私たちの希望が神の御国に入れられることならば、それは私たちが持つ正しい願いです。しかし、そこでの席次は、誰かに先んじて得られるものではありません。
 「Boys, be ambitious!」北海道開拓期、新島襄の推薦で、日本政府の熱烈な招聘を受け、北海道の札幌農学校の初代教頭に就任したクラーク博士の言葉です。彼は自然科学全般の教授でしたが、それ以上に、キリストに生きる道を説き、そして、その教えと信仰者としての姿は札幌農学校の校風として根付き、後に内村鑑三、新渡戸稲造といった名高いキリスト者たちが世に排出されました。彼が生徒との別れの際に語ったのが、「Boys, be ambitious」「少年よ、大志を抱け」。この「大志」と訳された「ambitious」という言葉は「野心がある」とか「意欲的」と訳せる言葉です。
 クリスチャンは野心と言いますか、大きな志を持って良いのです。現にクリスチャンで人の上に立つ人物、大事業を成した人物は沢山います。しかしそれをどのようにして成し遂げるかには注意しなければなりません。人の上に立ちたい。偉くなりたい。そうであるならば、私たちは自らの能力を誇ったり、相手を蹴落とそうとするのではなくて、実は人に仕える。見返りを求めずに、謙遜に遜るということを通して人の上に立つのです。これこそがイエス様が持たれた大志です。キリストは人類の罪の贖いを成し遂げるという大きな大きな志を抱いておりました。エルサレムへと急がれるその旅の姿は、まさにこの一事を成し遂げるという大志であります。それは、みなのしんがりとなり、みなに仕える、志です。人々のためにご自身を捨てる志です。
 私たちクリスチャンはこの志を胸に抱いて暮らすのです。イエス様はひとりの子どもを腕に抱き寄せて言いました。「だれでも、このような子どもを、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。また、だれでもわたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。」今のように幼子に対して、かわいい、素直、といった認識は当時はありません。むしろ、幼子は役に立たない。それどころか世話に手がかかる存在です。幼子を受け入れることは犠牲を強いられることです。しかし、だからこそ、イエス様はそのような幼子をご自身と同一視して語られます。見返りを求めず、損を掴み、列の最後となって、後始末をする者こそが、キリストに倣う者であり、神の御国において人の先に立つ者であると教えておられるのです。

210915 Ⅱ歴代誌36 「主の目にどう映るか」

Ⅱ歴代誌36 「主の目にどう映るか」 

 歴代誌の最後はユダの滅びに至らせる幾人かの王たちが簡素に記されています。エジプトとの戦いの中で戦死したヨシヤ王に代わって、民衆はエホアハズを王としました。けれど戦勝国エジプトはユダの許可なき即位を許さず、わすか3ヶ月でエホアハズを退位させて、異母兄のエルヤキムを王とし、エホヤキムと名を改名させます。一方、弟のエホアハズは捕らえられてエジプトへと連れて行かれ、そこで死ぬこととなります。
 このエホヤキムの時代にバビロンが影響力を持つようになって来ました。エジプトに代わってユダヤを従わせたバビロンに、堪りかねたエホやキムは反乱を起こしますが失敗。エホヤキムは捕らえられ、主の宮の財宝と共に、バビロンへと連行されて行きました。このときはまだ、ネブカデネツァルはユダを滅ぼすまではいたしません。エホヤキムに代わる適当な者をユダの王とし、形式上ユダヤ人による統治を続けさせるつもりでした。
 エホヤキムの後、息子のエホヤキンが王を名乗りますが、エレミヤの預言の書を燃やすなどの傍若を繰り返し、統治能力が無いと判断されたのでしょう。ネブカデネツァルによって退位させられ、主の宮にあった尊い器とともにバビロンへと連行されて行きました。ネブカデネツァルは、後釜にエホヤキンの親戚のゼデキヤを王といたします。エレミヤのもと、バビロンに従うゼデキヤでしたが、周辺諸国は反バビロンでまとまり、国内の主戦派を抑えきれず、結果ゼデキヤもまたバビロンに反逆いたします。けれど、その結果、神の宮は焼かれ、財宝も持ち去られ、多くの者が殺され、残ったユダの主だった民はバビロンへと捕らえ移されることとなりました。そしてゼデキヤ自身もまた目の前で子供を虐殺され、両眼を抉り取られ、死ぬまで鎖につながれて、生涯を終えるのです。

 さて、歴代誌の最後の章の特徴は、各王たちの結果のみを極めて簡素に記していることでした。同じ出来事の記録を記した列王記と比べると、その内容の薄さがよくわかります。列王記ではもう少し、王の人となりがわかるように、エピソードを交えて記されています。しかし、歴代誌ではそのような情報は一切ありません。歴代誌が書かれた背景には、エズラによる神殿礼拝の再開がありましたから、彼らの記録のピークはヨシヤ王であったと言えるのかもしれません。ヨシヤ王は律法の再発見による神殿礼拝の改革をもたらした人物で、もう一度神礼拝を復活させようと尽力を注いだ人物です。捕囚から帰って神殿を再建し、けれど神殿礼拝の滞っていたユダヤの現状とちょうど重なり合うのです。もう一度神礼拝を。ですから歴代誌は自分たちがダビデ由来の神の民であることの再確認と共に、ヨシヤ王の時代の神礼拝の復活の様子を伝えたいがために書かれたのではないかと思えるほどです。
 何が言いたいかと言いますと、歴代誌のヨシヤ王以降の記録は、本当に簡素で、何かこれらの王について紹介しよう。記録を残さなきゃというような情熱が見えないんですが、そんな中で、それぞれの王が主の目にどうであったかという点だけは欠かさずに記されているのです。王たちの功績や、人柄、当時の評価などには一切関心を寄せない歴代誌の記録者が、唯一関心を持ち、重要視したのは、その王が主の目にどう映っていたかということでした。
 人は死後、どのように評価されるのか。それは時代によって、立場によって、大きく変わります。例えばマナセ王はアッシリアに従属し、宗主国の宗教を取り入れてバアル信仰に傾倒しました。預言者イザヤをのこぎりで切り割いて殺したのは、彼の命によることです。聖書では彼を悪王として数えます。けれど、列強諸国の影響が強く、一つ間違えれば国を失うという難しい舵取りの中、55年という最も長い期間、王に在位し、国を保った。という意味では、当時の人々からは一定の評価もあったことでしょう。ソロモンの妻の数も、評価が分かれるところです。異教文化の混入を招いた決定的出来事と見ることもできますし、戦争をせずに他国との協力体制を築いた賢い政策とも取れるでしょう。見る者が何を重視するかによって、後の人の評価は幾らでも変わるのです。
 だからこそ、この歴代誌がどういう視点でユダの歴史を見てきたのか。それは、主の目にどう映ったか。という一点に限っておりました。そして、この視点を持つことが私たちにとっても大切です。私たちの生き方は、生涯は、主の目にどう映るのか。人の目にではありません。誰かに受け入れられようとする時、別の人には反発を生んでいます。人の評価を気にする生き方にゴールと平安はありません。けれど、主の評価は変わることがありません。私たちの今日という日は主の目にどう映っているのか。「よくやった忠実なしもべだ」と言っていただくために、今日できることに励んでいきたいと思います。

210912 ルカ9:37-45 「主イエスの嘆き」

ルカ9:37-45 「主イエスの嘆き」

 イエス様一行が山を降りて来るより前に、実は麓では一騒動が起きていました。一人の父親がイエス様に助けを求めて来たのです。しかし、イエス様はおりません。仕方が無いので残った弟子たちが応対しますと、息子が霊に憑かれているので助けて欲しいとのこと。弟子たちには自信がありました。以前、イエス様の代わりに町に遣わされ、病を癒やし、悪霊を追い出した経験があったからです。けれど、今回は勝手が違いました。悪霊を追い出すことができないのです。一人また一人と試しますが、誰一人成功する者はおりません。その度に、冷ややかな声に変わっていく群集の野次。マルコの福音書を見ると、その中には律法学者たちも紛れ込んで、弟子たちと論じ合っておりました。
 イエス様一行はちょうどそのようなところに帰ってきました。父親はイエス様を見つけると走り寄って事の次第を説明いたします。するとイエス様は第一声に「ああ、不信仰な曲がった時代だ。」と嘆かれたのです。
 この場面、弟子たちが子どもを癒せなかったということだけをもって、イエス様が不信仰だと言っているのではありません。群集も、律法学者も、この子のために何をしたのか。この子のために一言でも神に祈ったのか。おそらくは皆無でしょう。全能の神を信じ、自らを神の民と自負しながら、目の前に苦しみもがく人がいても心が痛まないとしたら、それは信仰者として曲がっていると言えるでしょう。発作を起こしたこの息子を尻目に、弟子たちを問い詰めるチャンスとばかりに、議論に花を咲かせているのですから不信仰と言わざるを得ません。
 弟子たちもまた同じです。弟子たちはなぜ、霊を追い出すことができなかったのでしょう。以前はそれができたのにです。それは彼らの不信仰が関係します。つまり、これはマルコの福音書に記されますが、「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出すことができません。」(マルコ9:29)ということです。祈りによるとは、つまり、自分の力に頼らないということです。神との深い交わりの中での、神の力に委ねるということです。彼らは以前、確かに霊を追い出す権威を授かりました。しかし、それは彼らに霊を追い出す力が彼らの内に備わったというのではなく、あくまでも力や権威は主のものだったわけです。今、彼らの内には高慢がありました。前にもできたんだから今回も出来るはずという高慢です。イエス様を待たずしても、自分達だけで悪霊を追い出してみせる。自分達だけで解決できるという高慢です。しかし、祈りと謙遜を忘れた行為に、神の癒しは起こりませんでした。
 ここに至るまで、イエス様は弟子たちに十字架と復活を語り、ご自身の本来の栄光ある姿をペテロたちに明らかにされました。イエス様はすでにご自身がいなくなるその時に備えられております。なのに、ペテロたちは栄光ある姿を自分の側に留めようとして、一向にイエス様の言葉を聞こうとはせず、一方で山の麓では他の弟子たちは神の御力に頼らずに、自分たちで事を納めようといたします。そして、それが上手く行かないことに群衆たちは騒ぎ立てる次第です。イエス様の心持ちと、あまりにもギャップがあると言いましょうか。イエス様の心中は、情けなさと寂しさでいっぱいだったのです。
 このような不信仰な中で、実は、一人だけ、信仰を見せる者がおりました。ルカの福音書ではバッサリと削除されていますが、マルコの福音書では、イエス様のこの「あなたの子をここに連れて来なさい」という言葉の後の様子と、そこで交わされるイエス様と父親との会話が詳細に記されています。「おできになるなら、私たちをあわれんでお助けください。」「できるなら、と言うのですか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」「信じます。不信仰な私をお助け下さい。」ここに彼の信仰が見て取れます。「信じます」と「不信仰な私」という告白は矛盾する言葉です。けれど、これが正しい信仰者の姿なのだと思うのです。つまり、自らを不信仰と認めつつも、一切を委ねて、信じます、と告白する姿です。罪人だと知った者は、罪を犯さないように努力して、聖い生活を送ることができたから救われるのではなく、自らが罪人であることを認め、胸打つときにこそ救われるのです。ですから弟子たちでも、ましてや群衆でもない。この父親の告白こそ、私たちキリスト者の倣うべき姿があります。自分の力に頼るのでも、全てをあきらめて投げ出すのでもない。それがお出来になる方に頼る。これが私たちの信仰のあり方です。

210908 Ⅱ歴代誌31 「献げ、管理し、用いる」

Ⅱ歴代誌31 「献げ、管理し、用いる」

 「これらすべてのことが終わると」とあります。ヒゼキヤ王による宮清めが行われた後、過ぎ越しの祭りとそれに続く7日間の種無しパンの祭り。さらに7日間延長された祭りの出来事です。
 ヒゼキヤの父アハズは、父ヨタムへの反発のゆえか、父とは真逆の政策を取ります。バアルの像を造り、香を炊き、子どもたちを火に焚べました。異教の風習にのめり込んだのです。アラム・イスラエル連合軍に攻め込まれ、大敗北を喫したことは彼に大きな影を落とします。アハズはアッシリアに援軍を要請しますが、逆にアッシリアに付け込ませる隙きを与え、攻め込まれます。頼りのアッシリアに裏切られたアハズは、先の戦いで破れたアラム(ダマスコ)の神々に生贄を捧げて頼ろうとするのです。アハズによって主の宮は閉ざされ、町の至る所に、ダマスコの神々への祭壇と香を焚くための高きところが造られました。当然、それらの行為は主の怒りを引き起こすこととなるのです。
 25歳で王となったヒゼキヤはこの父の悪業を断ち切って、もう一度、主の前にひれ伏します。この種無しパンの祭りを機に、全イスラエルはユダの町々に出て行き、石の柱を打ち壊し、アシェラ像を切り落とし、高き所と祭壇を取り壊して、たち滅ぼしたのです。
 その後、ヒゼキヤは具体的に、神殿礼拝を再開させていきます。まず祭司とレビ人を組織して、彼らに和解の生贄をささげさせ、一方で彼ら祭司とレビ人を養うようにと民に命じました。祭司とレビ人は幕屋の奉仕のために選り分けられた民なので、相続地を持っておらず、各部族の中にわずかな町だけが与えられている状況でした。ですからアハズの時代、彼らは本当に困窮したわけです。けれど、神殿礼拝は彼らがおらずしては始まりません。まずは彼ら宮の奉仕者が存分に奉仕できる環境を整えることから始める。おそらくこれは現代の社内コンプライアンスにも通づる考えではないでしょうか。労働者を倒れるまで追い込むというブラックなやり方は、長い目で見れば、労働者を潰し、会社全体の働きを停滞させてしまいます。これは教会においても同様です。奉仕者の環境を整えるということは、贅沢をするとか、楽をするということではなくて、主の律法に専念するため、精一杯奉仕するために必要なことなのです。
 さて、ヒゼキヤの呼びかけに応えて、民はすべてのものの十分の一を携えて来たとあります。その奉納は何と、第三の月から第七の月までかかるほどでした。しかも、それらは食べて、満ち足りて、尚残った分であると言いますから、どれほど莫大な捧げものが集められたか想像もできません。すべてのものの十分の一を献げることは、簡単なことではありません。これを例えば、祭司やレビ人のためと捉えれば、献げることに惜しむ思いが出てくるでしょう。見返りを求めたくなります。けれど、そうではありません。これは主の働きのためです。ここを履き違えると、私たちは自らが主人となって祭司やレビ人を雇用しているかのように誤解するでしょう。
 集められた捧げものは、主の宮に脇部屋が設けられて、そこには管理者が立てられ、祭司の町々にとどまる各組の祭司レビ人にも分配されました。これらは系図に照らし合わせて、厳密に分配されました。皆から集められた捧げものの扱いを、内々にだとか、秘密裏に分配するということではなく、公に、正しく分配されます。そしてそれぞれの生贄の儀式として用いられていきました。新興宗教団体の多くは、会計が不透明なことが多いですね。裏帳簿だとか、隠し金庫だとか、色々と問題が発覚して度々事件が明るみに出たりします。お金の問題は、力の問題。権力の問題に直結するので、それだけ誘惑の種となるのです。これは教会においても例外ではありません。溢れるばかりの隠し財産を築き上げるという教会は日本ではあまり聞きませんが、貧しさのあまりに、献金に手を出してしまうという話は聞かないわけではありません。止むに止まれぬ状況。心痛む出来事。それでも、そういうことが起きてしまうと、もう宣教はできなくなってしまいます。信仰に会計は無粋だという意見もあったりします。しかし、そうではありません。会計を明瞭にすることは、主の目に良いこと。正しいこと。誠実なことなのです。
 私たちは心から献げ、公正に管理し、大胆に用いる。ヒゼキヤは「神の宮の奉仕において、律法において、命令において、彼は神を求め、心を尽くして行い、これを成し遂げた」とあります。このヒゼキヤに倣いましょう。

210905 第1ペテロ3:15 「伝道は備えで決まる」

第1ペテロ3:15 「伝道は備えで決まる」

 私が伝道に一番がむしゃらだったのは、大学生の時代です。当時救われたばかりの私は、内から湧き出る喜びを伝えずにはいられなくて、学内の中庭で、手当たり次第「聖書に興味はありますか?」と声をかけておりました。けれど今思うと、その伝道の仕方は随分と不十分でした。と言うのも、大抵の人はそっけない態度ですが、中には興味を示す人もいます。色々と質問してくださる。けれど、私にはその質問に対する答えの用意がないのです。私自身がよくわかっていないのです。あの時、もう少し備えていれば。事前に用意していれば。と悔やまれます。
 また、これはある婦人の話ですけれども、彼女の旦那さんは信仰を持っておられませんが、理解のある人で、彼女が教会に行くことについて何も咎めることは無かったそうです。ただ、自分は誘わないで、と常々言っておられた。ですから、この旦那さんの救いは彼女の長年の祈り。ことある毎に、夫が救われるようにと祈っておられました。そんな旦那さんがある日、今日は教会に行ってみようかな。ポロッと言ったのです。凄いですね。長年の祈りの成果です。ところが彼女は旦那さんに「急にそんなこと言ってあなた何かあったの?」「別に無理して来なくてもいいのよ」とこう言ったんだとか。旦那さんは、ムスッとして、結局教会には来ず、彼女はがっかりして報告に来られました。何で、彼女はそんなことを言ったのか。それは突然の旦那さんの嬉しい言葉に動揺したのです。ずっと祈ってきました。そうなるようにと願っていた。でも、どこかで、そんなことは起こるはずがないとも考えていた。ですから、思いがけずの急な展開に慌ててしまったのです。
 どちらのケースも、咄嗟の場合に十分な備えができていなかったがために起きた失敗です。「だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。」とは聖書の言葉ですが、本当に伝道のチャンスというのはいつやって来るのかわかりません。いつその時が来るかわからないのですから、私たちはいつ来ても良いように用意をしておかなければなりません。
 では、どうすれば良いのでしょうか。注解書や辞典を丸暗記して聖書の知識を増やせば良いのでしょうか。救いの教理の学べば良いのでしょうか。もちろん、それらが無駄だとは言いません。それらは私たちの信仰を確かなものとし、感情に左右されない救いの確信を与えてくれます。求道する人々には救いの根拠と救いに至る過程をきちんと教える必要があります。けれど、それはあくまでも信仰に興味を持ち、どうすれば救われるのかと問い続ける求道者に対してであって、それ以前の人々。多くの神を知らない人たちには、それ以前に伝えるべき事柄があります。
 と言いますのも、この日本はあまりにも神々が溢れていて、そもそも聖書の神に対する理解がないからです。日本人にとって、神は数多くいる、限界のある存在に過ぎません。困ったときにだけ頼る、頼っても気休め程度にしかならない。そのように割りきって付き合うべき存在です。そういう神観に置かれている人たちに対して、まず最初に伝えるべきことは、悔改めよ、とか、イエス様を信じなさい、というような救いの云々ではなくて、聖書の神が今も生きて働かれる神であること。信頼に値する神であることを伝えなければならないのです。もっと端的に言えば、神は本当にいる。ということを伝えなければなりません。
 ではどうすれば、生きて働かれる神を伝えることが出来るのでしょう。ゲラサの地で墓場に縛られていた男がレギオンと名乗る悪霊共をイエス様に追い払ってもらったことがありました。感動して付いて行こうとする彼にイエス様は言います。「あなたの家、あなたの家族のところに帰りなさい。そして、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを知らせなさい。」(マルコ5:18-20)つまり、あなたの人生に関わられた神様をそのまま証しなさい。ということです。彼はデカポリス地方に自分が体験した奇跡を言い広めました。墓場に鎖で縛られていたほどの彼が、堂々と主イエスを証しする。彼の生まれ変わったその様が、生きた神の証となったのです。ですから、伝道とは、まず救いの教理を教えることではなくて、主がわたしに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなに憐れんでくださったか、その恵みを伝えることなのです。
 ならば、私たちは私の人生に関わる主の御業を、蓄え、語れるようにしておくことが、備えと言えるでしょう。経験したこと、学んだこと、実感したことを、的確に相手に伝えるというのはある種の訓練が必要です。そのためには、常日頃から恵みを分かち合う。言語化して相手に伝えるということを繰り返しておくのです。たとえば祈祷会で。主にある交わりはその時の備えとなるのです。

210901 Ⅱ歴代誌25 「全き心で」

Ⅱ歴代誌25 「全き心で」

 今日の箇所はヨアシュの子アマツヤの記述です。彼は王国が強くなると、父ヨアシュに謀反した者たちを粛清しますが、彼らの子どもたちは殺さなかった。とあります。なぜなら、それはモーセの律法で禁じられているからです。単なるヒューマニズムで殺さないのではなく、そこには律法に従うヨアシュの意志があります。また、エドム人討伐の際、足りない兵士を補充すべく(アマツヤの時代30万人。ヨシャファテの時代は116万人。)、北イスラエルから10万人を銀百タラントで雇い入れます。しかし、預言者から、主が共にいないイスラエルの民を従軍させてはいけない。神にこそ頼るべき、だと。「神には助ける力があり、つまずかせる力もある。」と指摘を受けますと、直ちに自らの非を認めてイスラエル軍を解体し、自国ユダの軍隊のみを率いてエドムと戦い、これを討ち取ります。ヨアシュの行動は主の目に大変適っているように思います。
 ところが、ヨアシュはエドム人を討った後、セイルの神々を持ち帰り、これを自分の神々として立て、その前に伏し拝み、これに香をたいたのです。さらには、このことを非難する預言者を退け、北イスラエルのエフーの子ヨアシュに宣戦布告します。主の目に適って、律法と預言者に従っていたヨアシュは、エドムとの戦争に勝利した瞬間から、堰を切ったかのように、己の欲に流されていったのです。北イスラエルの王ヨアシュはアマツヤの過度な方針転換の理由をエドムを討ったことによる「心高ぶり」だと見抜いています。つまり、それまでの彼の従順な態度は、彼の小心から来ていたことで、エドムを討ち取り、自らの力に自信をつけた彼は、もう主に頼る必要を感じなかったのです。それほどまでにエドム討伐は彼に自信を植え付けました。そして、自信を持った彼が、セイルの神々を自分の神々として立て、拝むのは、それが自分にとって都合の良い神々だったからです。
 唯一全能の神を信じることと、世の神々を信じることは、同じ信仰のようでいて全くその質は異なります。全能の神を信じるとは、この世界に依存しない神。私の存在の前におられる神を信じるということです。この神の前にして人は被造物でしかなく、問われるのは従順です。けれど、世の神々は違います。それらは並び立つ神々であり、それぞれの特徴を持ち、同時に限界を持つ神々です。人はその限界ある神々の中から、自分の好む神々を選び取るのです。時には自分に都合の良い神々を作り出すことすらします。つまり世の神々と人との関係の主体は人にあるのです。今、アマツヤが真の神ではなくて、セイルの神々を選び取った。これはつまり、神に従うことから、神々を選び取り利用する関係を望んだということです。彼は自らに神々を従わせようとしたのです。しかし、彼の高ぶりの代償は大きすぎました。イスラエルのヨアシュとの戦いは大敗北で終わり、エルサレムの城壁は打ち壊され、神の宮の金銀、王宮の財宝と人質を奪われます。さらには、完全に人心を失ったアマツヤは民の謀反によって討ち取られることとなるのです。
 25:2には「彼は【主】の目にかなうことを行ったが、全き心をもってではなかった。」と評されています。これが全てです。彼の従順は全き心をもってではなかったのです。彼の従順は、臆病であり、義務であり、我慢であり、自信のなさから来ることでした。それゆえ、彼は成功による自信が加わったとき、簡単に神に従うことを放り出したのです。何が間違えているのか。それは神への従順の根拠を感謝ではなく、報酬に置いていたということです。神の助け。神の守り。神の祝福。それらを得るために神に従う。現実の欠けを埋める手段として神を見ていた。つまり、神々を選び取る前から、彼の信仰は打算的だったということです。しかし、神の恵みは私たちの従順に先立ってすでに与えられているのです。
 私たちの従順、奉仕、献身は感謝の応答であったはずです。けれど、それがいつの間にか義務となり、報酬を求める手段と代わってしまうのです。いろんな経験や成功が積み重なってきて、いつの間にか、自分ひとりで生きている気持ちになってくるのです。ですから、私たちはいったい何から救われたのか。いつも最初の喜びに立ち返る必要があります。私たちの高ぶりは初めの喜びを忘れてしまうことにあるのです。