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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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211031 ルカ10:21-24 「私たちが見ているもの」

ルカ10:21-24 「私たちが見ているもの」

 イエス様は「あなたはこれらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子たちに現してくださいました。」と言われました。知恵ある者や賢い者というのは、自らの内にある知恵や考えを持ってこれらのことを探り求めようとする人たちのことです。幼子というのはその反対で、無知ではあるけれども聞く耳はもっており、素直に教えを請う人のことです。神は知恵ある者には「これらのことを」隠し、無知な者には現してくださったとあります。では、「これらのこと」とは何でしょう。文の流れを素直に読めば、それは一番直前に記されている「あなたがたの名が天に書き記されていること」を喜ばれた。つまり弟子たちの救いが確かなのを見て喜ばれた。ということでしょう。そしてまた、弟子たちの信仰が、素直に忠告を聞き入れ、自らを恥じることができる幼子のような信仰であったということを喜ばれたのでありましょう。
 私たちの知恵が逆に真理を遠ざけるということがあるのです。経験や常識というものは、世を生きていく大事な知恵ですが、そういった知恵や先入観が私たちから素直さを奪い取ってしまうのです。何も知らない新入社員だった頃、私たちは先輩の言うことに素直に聞き従ったと思います。けれど経験を積むに連れ、そうじゃないんじゃないかと疑問を持つようになるのです。先輩だって絶対じゃない。何より、素直に聞き従ったのに、逆に利用されるとか、失敗をするとか、そういう経験をいたしますと、やっぱり自分で考えなきゃ。自分で解決しなきゃと、こうなるわけです。これは私たちにとって必要な成長の過程でして、私たちはそうやって独り立ちしていくわけです。けれど、こと救いに関してはそうはいきません。なぜなら、そこには私たちの経験や知恵は通用しないからです。考えてみてください。自分の知恵を駆使して、自ら救いを得ることに成功した人が誰かいたでしょうか。自分の経験を生かして、死の問題を解決できた人がいたでしょうか。それは私たちにとって経験や知恵が全く及ばないことです。
 だからこそイエス様は言います。「すべてのことが、わたしの父からわたしに渡されています。子がだれであるかは、父のほかはだれも知りません。また父がだれであるかは、子と、子が父を現そうと心に定めた者のほかは、だれも知りません。」つまり、それはイエス様の側から私たちに明らかにしてくださることなのです。イエス様のこと、父なる神のこと。そしてそのみこころとご計画。これらは決して私たちの知恵や経験によって明らかになることではありません。けれど、少なくともイエス様が明らかにしてくださったことに関しては、私たちは知ることができます。イエス様が残してくださった御言葉を通して、聖霊は私たちに神のご計画を明らかにしてくださいます。ですから、イエス様は幼子のようであれとおっしゃられるのです。大事なのは私たちの知恵ではありません。素直に聞く耳です。素直に受け取る心です。
 さて、イエス様は弟子たちの方を振り向いて言葉をかけられます。「あなたがたが見ているものを見る目は幸いです。あなたがたに言います。多くの預言者や王たちは、あなたがたが見ているものを見たいと願ったのに、見られず、あなたがたが聞いていることを聞きたいと願ったのに、聞けませんでした。」敬虔な信仰者を代表する預言者や王ですら、願っても叶わなかったものを、あなたたちは今見聞きしているとおっしゃられるのです。ヘブル11章には旧約の信仰者列伝が記されますが、名だたる彼らですら、その結末は「これらの人たちはみな、その信仰によって称賛されましたが、約束されたものを手に入れることはありませんでした。」(11:39)とある通りです。けれど、あなたたちは見ているとイエス様はおっしゃいます。何をでしょうか。もちろんイエス様であります。この「見ている」とは単にその外見が見えるということではありません。このお方は、父なる神の見えるお姿となられたお方です。救いの御業を完成すべくこの地に降りられたお方であり、「あなたがたの名が天に書き記されている」ことの根拠となられたお方です。彼らはイエス様を通じて、神のご計画を見ているのです。これは本当に凄いことです。
 私たちもまた、このイエス様を見ているのです。私たちはイエス様が成就された神のご計画を見ています。十字架の勝利を見ています。神の救いを揺るぎない確信を持って受け取ることは、預言者や王たちですらできなかったことです。私たちは、私たちの名が天に書き記されていることに、何の不安も持つことなく信頼することができるのです。私たちはこと、救いに関して、もはや何の心配もすることなく信頼して過ごすことができます。死の問題について、もはや心を騒がせることはありません。なぜなら、この救いは私たちの知恵でも経験でもなく、イエス様の犠牲に裏付けされた、永遠の神による決定事項だからです。

211027 ヨブ17 「同情されるお方」

ヨブ17 「同情されるお方」

 3人の友人とヨブとのやり取りが記されているわけですが、15章からはなんと2巡目が始まります。今日の箇所は2度目のエリファズの言葉に対するヨブの反論の後半部分となります。
2度目のエリファズの言葉は、1度目とは違い最初からヨブを黙らせようとする勢いです。ヨブの年長者を敬わない態度に怒りを覚え、反抗的な態度を非難します。15:11-12に「神の慰めは、あなたには不十分なのか。あなたに対して優しく語られたことばは。なぜ、あなたは自分を見失っているのか。なぜ、あなたの目は、ぎらついているのか。」とあります。私にはこのように思うエリファズの気持ちに思い当たりがあります。けれど、客観的にヨブ記を読む時、ヨブの目をぎらつかせているのは、友の言葉がヨブを追い詰めているがゆえとも気付くのです。
 16章、17章とヨブの反論がなされます。16章の冒頭、「そのようなことは、私は何度も聞いた。あなたがたはみな、人をみじめにする慰め手だ。むなしいことばには終わりがあるのか。あなたは何に挑発されて答え続けるのか。私も、あなたがたのように語ることができる。もし、あなたがたが私の立場にあったなら、あなたがたに向かって私は多くのことばを連ね、あなたがたに向かって頭を振ったことだろう。この口であなたがたを強くし、唇による慰めを惜しまなかったことだろう。」結局の所、ヨブの気持ちは同じ境遇の者でしかわかり得ないことなのです。友が語ることなど、ヨブにとっては何ら目新しいことではありません。それらはもう何度も聞いている言葉です。もしも立場が逆だったなら、自分も同じ様に語ったことだろう。けれど、たとえどれだけ慰めの言葉をかけたとしても、痛みは押さえられないし、忍んでも、それらが去ることはない。ヨブははっきりと友の慰めが何の意味を成さないことを告げ知らせます。
 そして、そのような苦しみの中で、ヨブは本当に頼るべき方に思いを馳せるのです。16:19-21「今でも、天には私の証人がおられます。私の保証人が、高い所に。私の友は私を嘲る者たち。しかし、私の目は神に向かって涙を流します。その方が、人のために神にとりなしてくださいますように。人の子がその友のためにするように。」ヨブはもちろんイエス・キリストの存在を知っているわけではありません。ヨブとイエス様では時代が違いすぎます。けれど他に何の救いも見いだせない、苦しみと孤独の内にある者が心から願うのは、まさにイエス様その人だったということです。
 
 17章に入ってもヨブは言います。「実に、嘲る者たちが私とともにいます。私の目は彼らの敵意の中で夜を過ごします。」ヨブには考えられない様々な困難が降りかかりました。財産を失い、家族を失い、健康を失って、本当に信仰を無くしてもおかしくない試練の中に身を置くしかありませんでした。けれど、今、ヨブが本当に辛いのは、一人静かにこの困難と向き合えないという状況です。嘲る者たちが共にいます。敵意がずっと向けられています。嘲る者とは、ヨブを罪人と決めつけて今の困難な状況はヨブの自業自得であると見下す者です。敵意を向けると者は、ヨブの自暴自棄で神に対する不敬な発言に対して、自身の正義が許せない者のことです。ヨブとのやりとりで、友人たちの本性が炙り出されているのです。5節以降はヨブの望みなき日々であることの告白です。8節9節「心の直ぐな人はこのことに驚き恐れ、潔白な人は神を敬わない者に向かって憤る。正しい人は自分の道を保ち、手のきよい人は強さを増し加える。」素直さが恐れに繋がり、潔白が憤りとなるのです。これは本当に気を付けなければと思います。つまり、正しさというアプローチは罪ある者に決して寄り添えないということです。ヨブ記を読むのは私にとって本当に気が重いです。私の愛のない姿がむき出しになるからです。エリファズの姿は私自身です。正しい人は自分の道に従わせようとします。手のきよい人はその人をより力強く引っ張り出そうとします。つまりそれは相手を変えようとするアプローチです。けれど、思い出したいのはイエス様はそれとは真逆の方であられたということです。ヘブル2:18「イエスは、自ら試みを受けて苦しまれたからこそ、試みられている者たちを助けることができるのです。」とあります。同じくヘブル4:15「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。」ともあります。自分の正義や常識ではなくて、相手の立場になるということが、寄り添うということです。そのためには、私たちは一旦、自身の正しさをも脇に置く必要があるのです。
 ヨブの唯一の救いは、ヨブを保証してくれる方が実際におられるということです。先程も言いますたように、ヨブはその方が誰かは知っていません。それはただ望みのない中での願望でしかありませんでした。けれど、その御方は確かにいるのです。ヨブの潔白を保証し、神にとりなしてくださるお方は確かにおられる。つまり、ヨブの救いは絵に描いた餅ではないのです。その方がおられるか、おられないか、この違いはとても大きなことです。
 私たちの罪を贖うために、栄光を捨てて、人としてお生まれになったお方が確かにおられます。あらゆる試みに苦しまれ、それゆえ、私のこの苦しみを自らのことのように共感してくださるお方がおられます。私たちの救いは単なる私たちの自己満足ではありません。現実から目をそらすためでも、脳みそをごまかすためのものでもなくて、確かにそこにある救いなのです。

211024 ルカ10:17-20 「成功こそ戒めを」

ルカ10:17-20 「成功こそ戒めを」

 それぞれの町に遣わされていた72人の弟子たちが、方々から帰ってきて、その宣教報告をする場面です。意気揚々と、満面の笑みを携えて帰ってくる弟子たちは、口々に声を合わせて言います。「主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。」突如として与えられた力の効能に、彼らは今までにない高揚感を味わったのです。彼らの働きのおかげで沢山の人々が救われます。病が癒やされ、悪霊が追い出され、神の国の福音が語られます。彼らは初めての宣教活動で多くの成果を上げて凱旋するのです。
 ところがイエス様は「よくやった。忠実なしもべだ。あなたたちは私の代わりを立派に果たした。これからも頼むよ。」とは言ってくれませんでした。「しかし、霊どもがあなたがたに服従することを喜ぶのではなく、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」と戒められたのです。なぜでしょうか。頑張った成果を喜ぶことはいけないことなのでしょうか。もし、そうだとすれば、キリスト者として生きることはなんと窮屈なのでしょうか。けれど、よくよく考えてみれば、悪霊は弟子たちに服従しているのではないですね。悪霊は弟子たちが授けられた主イエスの権威に服従しているわけです。主イエスの名にひれ伏している。そして、弟子たちの名が天の御国の名簿に記されている。つまり神の国民であるために服従したわけです。つまり、民に手を出すと、国王である天の神の怒りに触れるからですね。王と民の関係はそういうものです。民は王に従い、王は民を守るのです。ですから悪霊が私たちに服従する。それを喜ぶのではなく、感謝するという私たちでありたいと思うのです。
 これが初めてのケースだったからこそ、イエス様は弟子の気を引き締めさせるのです。今の内に気付いて欲しいと思われたのです。なぜなら、2回目3回目となるにつれ、今は喜ぶだけの無邪気な彼らも、自らの成功に溺れ、過ちを犯してしまうかもしれないからです。現に、12弟子たちは失敗しました。72人に先立って権威を授かった12弟子は町々へと派遣され、やはり大成功を納めました。けれど、帰ってきた彼らは有頂天となり、自分は何人の人を癒やした。自分は何人の人の悪霊を追い出した。自分は何人の人を回心に導いた。だから自分はあなたよりも優れている。と互いに弟子の中での順位争いに関心を寄せたのです。そして、イエス様の留守中に運び込まれた病人を彼らは癒やすことができなかった。癒やす権威を授かりながらです。一度目は大変不安で、臆病で、精一杯に祈らざるを得ませんでした。けれど2回目はそうではありません。もはや彼らには成功体験がありますから、以前のような緊張感はありません。不安もないし、祈りを必要とする危機感もない。遂にはイエス様抜きでも自分ならできると考えたわけです。成功体験は弟子たちに自信を与える代わりに、彼らから祈りを奪い、主イエスの助けすら必要としなくなっていきました。ですから、成功のときにこそ自らを戒める必要があるのです。
 あのモーセすら同じ過ちを犯したのです。偉大な先導者モーセですが、彼は約束の地に入ることは適いませんでした。その原因の一つが、彼の成功体験による慣れにありました。荒野での旅路、イスラエルの民は水不足に不満の声を上げます。モーセが彼らの前で奇跡を起こし、水が湧き出て民は潤うのですが、この時、モーセは神が命じることと反して振る舞ったのです。「岩に命じよ」と言われたところを「岩を叩いた」。この僅かな違いに神はモーセの高ぶりを感じ取られたのです。なぜモーセが岩を叩いたのか。それは以前、神が命じるままに岩を叩いて水が湧き出たという成功体験があったからです。だから、彼は神の命じられる言葉を曖昧に聞き流してしまった。以前と同じように振る舞えば、奇跡は起こると考えていた。この気の緩み。神を軽んじる行為のために、モーセは約束の地に入ることなく死んでいったのです。
 成功のときにこそ、私たちは戒めなければなりません。その成功は私の手柄ではないからです。それは私の内に与えられた権威によるもの。賜物のおかげです。私たちに与えられている賜物を感謝し喜びたいのです。私たちの名が天に書き記されている。つまり私たちがすでに神の民とされているということです。神の民の名簿に私たちの名が書き記され、それは決して変わることはありません。移り変る世にあって、決して変わらない救いの約束がもたらす安心感。私たちはこれを喜び、そして感謝してまいりましょう。

211020 ヨブ11 「叫ぶ人に寄り添って」

ヨブ11 「叫ぶ人に寄り添って」

 ナアマ人ツォファルは前の2人の説得を言葉数を多く否定するヨブに、最初から苛立ちを隠しません。彼の語り始めは、ヨブの反論をたしなめる言葉です。「ことば数が多ければ、言い返されないだろうか。人は唇で義とされるのだろうか。あなたの無駄話は、人を黙らせるだろうか。あなたが嘲るとき、あなたに恥を見させる者はいないのだろうか。」
 ヨブの反論は、エリファズやビルダデの正論に対する必死の抵抗であり、打ちのめされた者の断末魔でありました。10章18-19節「なぜ、あなたは私を母の胎から出されたのですか。私が息絶えていたなら、だれの目にも留まらなかったでしょう。私は、存在しなかったかのように、母の胎から墓に運ばれていたらよかったのに。」自分なんて生まれてこなければ良かった。。。極限まで追い詰められた者の叫び声です。しかし、ツォファルはこのヨブの渾身の訴えを、無駄話と切って捨てるのです。
 ツォファルの言い分は全て的を得ているように思います。6節では神を畏れ敬う信仰を神が受け入れてくださることを説き、7節からは全能の神の無限性を説きます。13節からは悔い改めによってもたらされる神の祝福を説いています。
 しかしです。ツォファルの説得は、全てヨブの罪を予め想定して始まっているのです。冤罪によって捕まった人が長い取り調べの中、遂にやってもいない罪を認めて有罪になるということがあります。罪があるという前提で長く取り調べを受けていると、次第に自分でも何が真実であるかわからなくなってしまう。しかも、その説得が理路整然とした逃げ場のないものであるならば余計にです。ツォフォルにはそんなつもりは無いのかもしれません。彼はただ正義感で言っているだけでしょう。20節で悔い改めない罪人の運命を語りますが、これは悔い改めないヨブの行き着く先を無意識の内に想定してのことです。悔改めよと語るその内容に間違いはないとしても、やはりそこに愛はありません。

 12章に入るとヨブの返答がありますが、3節にこうあります。「私にも、同じように良識がある。私はあなたがたに劣っていない。これくらいのことを知らない者がいるだろうか。」そんなことはわかってるんだ!と言うんですね。そうなんです。多くの正論は、もう十分に知っているのです。けれど、知ってはいても心がついて行かない。だから苦しいのです。答えは知っているのですから、ヨブに必要なのはその答えと向き合うための平穏な時間です。それを急がせるのではなくて、待ち続けることが必要です。その人の回復をただ待つ。というのは、決して簡単なことではありません。特に、その人が自暴自棄になり、叫びの声をあげているなら、何とかして救ってやりたいし、答えに導いてやりたい。こう思うのは当然です。否定的な言葉は側で聞いているだけで、苛立ちますし、心が挫けそうになります。けれど、答えはすでにあるのです。その人もわかっています。ですから私たちは身の丈を忘れて神の代わりになってはいけません。私の言葉の正しさがその人を導くのではありません。神が導かれるのです。私たちはその時を信じて祈るしかありません。黙って寄り添うしかありません。想いが強い人ほど、ツォファルになる誘惑があるということを忘れないようにいたしましょう。

211017 ルカ10:1-16 「狼の中に」

ルカ10:1-16 「狼の中に」

 これから派遣する72人の弟子たちを前にイエス様は言われます。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、ご自分の収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」収穫は多いが働き手が少ない。だから、あなたたちが直ちに行って手伝いなさい。と言うのならわかるのですが、これでは、まるで、自分は行かなくてもいいと言っているように聞こえます。なのに、続く言葉は「さあ、行きなさい。」なのです。何ともちぐはぐな感じがするイエス様のお言葉です。けれど、これは確かにこの通りなのです。実際の場合、この「祈りなさい。」と「さあ、行きなさい。」との間は、長く、大きな隔たりがあるかもしれません。けれど、主の弟子として遣わされる者は、すべからくこの過程を経て遣わされます。まず祈り、それから派遣されるのです。
 私の知り合いの牧師で定年退職後に献身されて牧師となられた方がおります。無牧の教会を長く役員として支え、働き人が与えられるようにと祈っておりました。けれど一向に牧師が送られてくることはなく、町の過疎化は進み、教会も高齢化が進み、いよいよ教会を閉じなければならないかと覚悟するようになって、この「さあ、行きなさい。」という御言葉が心に迫ってきたのです。今まで、ずっと働き手を送ってくださるようにと祈ってきた。けれど、祈っているそのことにどこか満足し、それで十分だと思っていた。祈って与えられないならば、それは仕方がないことだと納得してきた。けれど、主は「さあ、行きなさい。」と言っている。私は今までこの主の呼びかけに真剣に向き合ったことがあっただろうか。とであります。
 ここではイエス様は続けざまに言っているので、何かちぐはぐな感じもしますが、確かに主は必要を覚えて祈るそのところに働き人を送ってくださるのです。その働き人は、外から送られてくるかもしれないし、祈りの中から起こされるかもしれない。しかし少なくとも、祈りが積まれていなければ、主の働き人が起こされることはありません。必要を覚え、そのために祈りを積む。主の宣教の御業はここから始まるのです。
 さて、「さあ、行きなさい。」と命じられるイエス様はまたしても耳を疑う言葉を続けられます。「いいですか。わたしがあなたがたを遣わすのは、狼の中に子羊を送り出すようなものです。」こんなこと言われれば戸惑いますね。なんでわざわざ出発を前に弟子を脅さなければならないのか。これが可能性の問題なら、脅す必要なんてありません。けれど、必ず待ち構えているならば、やはりきちんと備えて行くべきです。主は大丈夫大丈夫と安易な慰めを語られません。なぜなら、イエス様の心はすでにエルサレムにあるからです。十字架と復活に向けられている。その困難を知っているし、それが避けられない出来事であることを知っています。イエス様が共にいるうちはそれでも良いのです。けれど、やがて共にいられなくなる。だからこそ、子羊である弟子たちに、この世のものではない、まことの神を頼らなければならないと教えられるのです。
 続くイエス様の言葉は、9章の12弟子の派遣の折にも語られた教えと重なりますので、ここでは詳しくは触れませんが、簡単に言うと、物や人に頼らず、ただ神だけを頼って行きなさい。ただ神だけを恐れて語りなさい。ということです。
 私たちが送り出されるのは狼の中ですから、人々の反応はむしろ反発と威嚇。多くの場合、私たちの言葉は聞き入れられないことでしょう。ですから私たちが届ける福音は人々を救う代わりに、人々の滅びを決定付けることになるかもしれません。けれど、それを選ぶのはあくまでも本人です。もし、それを聞いて尚、拒み続けるのだとしたら、それはもう硫黄の火によって滅ぼされたあのソドムよりもひどいことであって、その者に弁解の余地はありません。そこは私たちの責任ではなくて、その者自身の責任です。私たちは、それでも語り続けるということが大事です。
 イエス様は言われます。「あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾け、あなたがたを拒む者は、わたしを拒むのです。わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒むのです。」イエス様は私たちをただ狼の中に放り出すのではありません。イエス様は弟子たちをご自身と重ね合わせておられます。弟子たちがどこにいようと、心配し、見守っておられるのです。「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」(ローマ8:31)とパウロは言いますが、まさにイエス様は私たちの味方です。人を恐れず、主を畏れて、大胆に主の業に励んで参りましょう。

211013 ヨブ5 「苦難の中で」

211013 ヨブ5 「苦難の中で」

 次々と襲いかかる苦難のゆえに、信仰者ヨブといえども、嘆きの声を上げざるを得ません。ヨブ記の命題は「正しい人がなぜ苦しまなければならないのか」というものです。ヨブはその原因に思い当たることがなく、それゆえもたらされた現状に苦悩します。そして、その苦しみをより一層増し加えさせたのは、彼を慰めようと遠路はるばるやって来た3人の友人の存在でした。
 3人の内の一人、テマン人エリファズの言葉が4章から続けて記されています。エリファズは4:7-9で次のように言ってます。「さあ、思い出せ。だれか、潔白なのに滅びた者があるか。どこに、真っ直ぐなのに絶たれた者があるか。私の見てきたところでは、不法を耕して害悪を蒔く者が、自らそれらを刈り取るのだ。彼らは神の息吹によって滅び、御怒りの息によって消え失せる。」エリファズの主張はつまるところ、不幸には必ず原因があると言いたいのです。そして、その原因は自らの罪にあるとです。5:6-7では「まことに、不幸はちりから出て来ることはなく、労苦は土から生え出ることはない。まことに、人は労苦のために生まれる。火花が上に向かって飛ぶように。」と言っています。原因のない不幸はあり得ないのです。不幸がちりから出てくることはないのです。8-9節でエリファズは言います。「私なら、神に尋ね、神に向かって自分のことを訴えるだろう。神は、測り知れない大いなることをなし、数えきれない奇しいみわざを行われる。」自分なら罪を悔い改める。と言っているのです。そうすれば神は祝福してくださるに違いない。なのに、あなたはなぜそうしないのか。と断罪しているのです。
 このエリファズの主張は何ら特別なものではありません。当時として当たり前の常識として理解されていたものですし、私たちもまた同じように考えます。今のこの時の不幸の原因は、私たちの日々の行いによるか。それとも前世の悪行のゆえか。祖先の祟りによるものか。けれど、思い出したいのは、ヨブの不幸の原因はヨブ自身にあったのではなくて、サタンの試みと神の信頼の結果でした。時として本人には理由の全くわからない不条理な出来事があります。全てが全て原因と結果に集約されるものばかりではありません。不摂生が祟って病になる人がいる一方で、人一倍健康に気を付けている人が突然病に倒れることもあります。ある日突然、災害に巻き込まれるということもあります。私たちには、なぜと思うその不幸の原因を探っても、時として答えに辿り着かないということがあるのです。
 エリファズの主張に何か間違いがあるわけではありません。10-16節でエリファズは、神は強い者を懲らしめ、弱い者を助けるお方であることを語ります。そして17節以降では再び、ヨブが悔い改めるなら神は必ず祝福してくださる。と確信を持って語っています。このエリファズの言うことは正しいのです。けれど、世の中には不条理があります。私たちの常識や理解の枠外にある出来事が時に起こり得るのです。
 ですから、大事なのは苦難の原因を探ることではありません。苦難の原因をいつも探らなければならないのなら、私たちは自分に絶望するしかありません。自分の中の欠点ばかりを見つめて、悔い続けなければなりません。けれど、それでは心のバランスがとれません。自分の中にあるのは欠点ばかりではありません。賜物があります。御霊があります。私たちの内には否定するものばかりではないはずです。
 不条理な苦難があるという現実は、理不尽で、納得がいかないかもしれません。けれど、それが事実です。私たちはそういう苦難があるということを受け入れていきましょう。そしてこのことは、本当に理不尽で納得の行かない現実の中で、自分自身を責めることのない私たちの慰めとなります。ヨハネ9:1-3には次のようにあります。「さて、イエスは通りすがりに、生まれたときから目の見えない人をご覧になった。弟子たちはイエスに尋ねた。「先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。もしも全てが原因と結果であるなら、この両親は一生自分を責めたことでしょう。この盲目の人もまた、親を恨み、自分を憎んだことでしょう。けれど、それはその人に与り知らない神のご計画です。苦難は、神の業が現れるためだと聖書は言っています。ですから、私たちは苦難の中で犯人探しは止めましょう。むしろ神の御業を探すべきです。私たちは苦難の中でこそ神とお会いするからです。

211010 ルカ9:51-62 「覚悟の旅路」

ルカ9:51-62 「覚悟の旅路」

 ルカはまずサマリアの町でのイエス様と弟子たちの様子を紹介します。ユダヤとサマリアは歴史的な因縁もあって犬猿の仲でした。ですから弟子たちはサマリアを通ることに不安だったと思います。そして案の定、一向はサマリアの人々に歓迎されなかったわけです。町の人の敵意を込めた視線や横柄な態度に辟易し、時に身の危険も感じながら、サマリアを縦断いたします。ですから、ヤコブとヨハネが「主よ。私たちが天から火を下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。」と言うのですが、そこには彼らの偏見や恐れ、緊張感というものがピークとなっていたわけです。イエス様は前回「あなたがたに反対しない人は、あなたがたの味方です。」とおっしゃいましたが、このサマリアのケースは明らかに反対している人たちなのです。ですから彼らとしては当然の訴え。けれど、イエス様はそうではありませんでした。なぜなら、彼らとイエス様では見ているものが違っていたからです。弟子たちは人々の敵意を見ていました。けれど、イエス様はその敵意にご自身の使命をご覧になっておられます。イエス様は御顔をエルサレムに向けて進まれます。それは単にエルサレムという町に思いを馳せるということではありません。そこでの受難の出来事に、十字架の御業に思いを馳せるということです。それはつまり「エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで」をも救うために歩みを定められたということです。弟子たちが焼き滅ぼしましょうと言う、その者たちのためにも命を投げ出す覚悟でいるのです。ですからイエス様は弟子たちを叱られます。私の弟子であるのなら、あなたたちも覚悟してついて来なさいと諭されるのです。
 さて、この弟子としての覚悟を問われた具体例をルカは続けて3つ紹介します。
 別の村で、ある人がイエス様に言いました。「あなたがどこに行かれても、私はついて行きます。」するとイエス様は言います。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもありません。」これは物理的な眠る場所がないという意味ではありません。心休まるところがないという意味です。それほど過酷な道だとおっしゃられる。イエス様について行くとは同じ境遇に身を置くということです。敵意の中に身を置くことになる。その覚悟でついて来なさいと言われるのです。
 続いてまた別の人にイエス様が「わたしに従って来なさい」と言われたときのことです。この人は「まず行って、父を葬ることをお許しください。」と答えました。けれどイエス様は言います。「死人たちに、彼ら自身の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。」イエス様はなんて親不孝なのかと驚いてしまいます。しかし、そうではありません。これはつまり福音を伝えるとはそれほど切羽詰まった話なんだと教えておられるのです。とても大事な親の葬りです。けれど、それにもまして大切なのは神の国を言い広めることです。今日を死者を葬ることに費やすことで、今日失われてしまう魂があるのです。
 また別の人が言いました。「主よ、あなたに従います。ただ、まず自分の家の者たちに、別れを告げることをお許しください。」すると、イエス様は彼に言われた。「鋤に手をかけてからうしろを見る者はだれも、神の国にふさわしくありません。」これもまた何と冷たいイエス様の言葉かと思うわけです。けれどイエス様は家族に別れを告げてはいけないとは言ってません。鋤に手をかけてから後ろを見るなと言っているのです。イエス様はゲラサの地で悪霊を追い出した男性に「あなたの家に帰って、神があなたにしてくださったことをすべて、話して聞かせなさい。」と命じられました。つまり、鋤に手をかけて正面から家族に向き合うことは大事なことなのです。問題は後ろに気をかけながら鋤を下ろそうとすることです。つまり二心では従えないと言っているのです。
 さて、ルカは弟子となる者に問われる覚悟についてを記します。覚悟覚悟覚悟、正直うんざりかもしれません。ああ、イエス様について行くことの何と窮屈なことでしょうか。しかし、この覚悟とは、私の大事なものを捨てるという覚悟ではありません。一番大事なこととして神の国を選び取るという覚悟です。神に従う先にこそ、他のあらゆる祝福が用意されていると信じる覚悟です。今日の箇所を見る時私たちは、私たちに問われている覚悟以上に、イエス様が覚悟を持ってエルサレムへと向かわれたことを見ます。それは決して楽な道ではありません。御心ならば取り去ってくださいと願うほどの苦しみ。けれど、イエス様が見ておられるのは、その苦しみのさらに先。人類の救いの成就を見ておられます。私たちが見るべきも同じです。イエス様について行く道とは、我慢し、捨て去るだけの道ではありません。より素晴らしい栄光を受け取る道です。だからこそ私たちは心配することなく、この御方に全身全霊を持ってついて行くことといたしましょう。

211006 ローマ8:1-17 「新しくされた者の歩み」

ローマ8:1-17 「新しくされた者の歩み」

 ローマ書7:15-17でパウロは「私には、自分のしていることが分かりません。自分がしたいと願うことはせずに、むしろ自分が憎んでいることを行っているからです。自分のしたくないことを行っているなら、私は律法に同意し、それを良いものと認めていることになります。ですから、今それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住んでいる罪なのです。」と語り、自分自身の内に罪深い性質が根ざしていることを告白しています。パウロは言います。「私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」しかし、これこそが救いへの正しい工程なのです。自分ではどうしようもない。自分の内に救いの要素は一つもない。この敗北と降参があって初めて、人は自分が救われる必要があるということに気付くのです。少しでも自分が残っているうちは無理です。自分の力で何とかしよう。と考えてしまうからです。けれど何とかできる問題ではないのです。私たちが救いに至るのに、一番厄介なのはプライドです。勤勉な日本人は特にこの傾向があります。努力もせずに救いに与るなんてずるい、と思うのです。けれど、実はこう思うのはまだ努力をしていないからです。努力をしている人は、自分が如何に罪深いかを知っています。愛そうと励むほどに、打算的で愛にほど遠い自分を見るのです。奉仕に励むほどに、誰かの労いを待っている自分に気付くのです。良いものを目指すほどに、至らなさ、真逆の性質を見る。これが私たちの罪の結果なのです。ですから、パウロの嘆きは行き着いたところの嘆きです。やれることは全部やって、それでも気付くと、したくない悪を行ってしまっていると気付いた嘆き。ところが、その嘆きは一転。主イエス・キリストの救いによって、感謝へと変わるのです。

 こんな愚かであった自分が、今や、キリスト・イエスにあるがゆえに罪に定められることはない。パウロは自身に起きたこの劇的な変化を、8章で知らしめているのです。肉と書かれるところは、「欲」とか「自我」とか「今のこの世」という意味で捉えるとわかりやすいかもしれません。私たちの自我は神に敵対するのです。そもそも罪はアダムとエバに由来します。それは神に従って生きるのではなく、自分の欲するままに自由に生きる。という選択でした。自分の思いのままに生きる結果は、神との離別であったわけです。そして聖書ではこれを罪と言っています。ですから私たちの行き着くところは死なのです。ところが、御霊を頂いている者は違います。神の御霊が内住しているなら、神はこの御霊のゆえに私たちを永遠の命に加えてくださるのです。御霊を受ける。聖霊を迎える。これは私たちが思う以上に素晴らしいことです。なぜなら、私たちの内にある御霊は、神の御霊であり、キリストの御霊だからです。イエス様を死者の中からよみがえらせた方の御霊。まさにその御霊が私たちの内に住み、私たちの義の証明となってくださり、私たちに永遠の命をもたらされるのです。

 ですから、と言って、パウロは御霊をいただいたキリスト者としての義務があると語るのです。ではその義務とは何か。実はこのことについての結論は随分と待たされまして12章1節「ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。」と記されています。この8章でパウロが記すのは、私たちの行いの根拠は、救われるための努力ではなく、すでに神の子とされたことの感謝の応答だということです。御霊を受けていない人は、罪による断絶があり、神に頼って生きることはできないのです。ですから、彼らは自分で生きるしか無い。自分の望むままにと願って知識の木の実を食べた結果、全てを自分の責任で生きるしか無くなってしまったのです。よく、キリスト者は何でも神に依存して、無責任だと言われたりします。けれどそれは仕方ないのです。彼らは自分たちが神に頼ることができないので、そう言わざるを得ないのです。死という人生の終わりを恐れて、その解決を得ず、彼らは地上の生活にしがみつくしかないのです。けれど、私たちには別の生き方がある。苦しい時、神に苦しいと叫ぶ生き方です。神の子として、後に用意されている栄光に思いを馳せる生き方です。8:18には「今の時の苦難は、やがて私たちに啓示される栄光に比べれば、取るに足りないと私は考えます。」と続けられています。
 自分の好きなように、望みのままに生きる。とは、とても自由で甘美に聞こえます。知識の木の実はどれほど美味しそうだったのでありましょう。けれど、その結果はむしろ不自由をもたらしました。罪と死と欲により、身動きができない生き方です。終わりの恐怖に繋がれた奴隷のような生き方です。けれど、御霊は私たちをそれら一切の恐怖から解放してくださったのです。どのような苦難も、やがて啓示される栄光を遮るものではありません。私たちは試練の中で、本当に喘ぎ声しか出ないような状況で、それでも私たちは真っ逆さまに倒されはいたしません。
 8章の終わりは次のように結ばれています。35-39節「だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。こう書かれています。「あなたのために、私たちは休みなく殺され、屠られる羊と見なされています。」しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」他でもない主がその手を支えておられるのです。

211003 ヘブル10:23-25 「地上の宿り木」

ヘブル10:23-25 「地上の宿り木」

 私たちキリスト者の使命が伝道にあるということ。そして、その伝道の場とは、私たちの日常なんだということを以前確認しました。私たちはこの地上における神の国の大使です。私たちが行くところで、私たちがキリスト者であること。神を認め、神を意識し、神とともに生きる。つまりキリスト者として悩み、呻き、祈り、感動し、そして礼拝する。そういう私たちの神ありきの日常の姿が、生ける神の証となって、神の権威の及ぶ所、すなわち神の国の拡大へと繋がっていくのです。これは本当に凄いことです。
 けれど、私たちの日常を見る時、本当に神の国は拡大しているのか。と疑問に思うわけです。それは私たちの日常生活が証にならない。神の名を背負うに相応しくない。ということだけにとどまらず、信仰者にとって異教社会で信仰を持って生きるということが、本当に窮屈で息苦しいことだからです。キリスト者はこの国においては圧倒的少数派です。ですから私たちは主日の教会を一歩出たその瞬間から、常に孤独な信仰の戦いを強いられているのです。周りの人たちが自分の損得で判断する中、私たちは「神は何を望んでおられるか」と自問しながら、時に周囲の人たちとの違いに怯え、時に長いものに巻かれる誘惑と戦いながら、それでもキリスト者として生きることの孤独な戦いをしているのです。それは私たちにとっては誇りであり、喜びです。しかし同時に、それは確かにプレッシャーでもあるのです。信仰と妥協の間で、私たちは日々どれだけの葛藤を抱えていることでしょうか。
 だからこそです。「ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。」というパウロの言葉が、私たちの胸に刺さるのであります。私たちは励まし合っていくのです。教会はそのためにこそあるのです。それぞれの日常という伝道の場で心をすり減らしながら霊的戦いに励んでいる私たちが、教会という宿り木でひととき羽を休める。互いに注意を払い、励まし合う。私たちにはそういう交わりが必要なのです。息継ぎを無しに泳ぐことはできません。息継ぎの間隔が長ければ長いほど苦しいし、溺れる可能性があります。どれだけ我慢して泳いでもすぐに限界が来ます。定期的に息継ぎをすることで、私たちはより遠くに伸び伸びと泳ぐことができるのです。教会の交わりもまた息継ぎのようなものです。霊の呼吸です。礼拝を献げ、祝福をいただき、互いを励まし、祈り合う。日常生活とは切り離された霊の交わりに身を置くことで、私たちは信仰を新たにし、それぞれの場、学校へ、職場へ、家庭へと出ていけるのです。
 このことはコロナ禍にあって、つくづく実感するところではないでしょうか。最初の緊急事態宣言から、もう1年半以上が経ちます。この間、私たちは一人でいることが、どれほど心細く、そしてどれほど流されやすいかを思わされたことではないでしょうか。私たちは私たちが思っている以上に、弱いのです。そして私たちが思っている以上に、この交わりに支えられています。ここに共に集まることの意味があるのです。
 もちろん、それができない現状があります。集まりたくても集まれない、会いたくても会えない。そういう試みの中を私たちは過ごしています。けれど、だから交わりが必要ないということにはなりません。パウロも似た苦しみを味わいました。会いたくても会えない不自由の中、しかし彼はピリピの兄弟姉妹に向けて言います。「私は、あなたがたのことを思うたびに、私の神に感謝しています。あなたがたすべてのために祈るたびに、いつも喜びをもって祈り、あなたがたが最初の日から今日まで、福音を伝えることにともに携わってきたことを感謝しています。」(ピリピ1:3-5)祈りが互いの心を結び合わせたのです。いえ、祈りの内に働かれる御霊が一つなのです。私たちが安全な日常を取り戻せるのは、いつになるでしょうか。けれど、それをただ待っているわけにはいきません。互いを祈ることは、できたらやったほうが良いという程度のことではありません。今は祈るときです。祈りの内に互いを思いやる時。この祈りの交わりが、私たちの再開をより喜ばしいものにするのです。