fc2ブログ
プロフィール

Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

最新記事
カテゴリ
月別アーカイブ
最新コメント
検索フォーム
リンク
QRコード
QR

211128 マタイ11:2-6 「待つべき方は誰ですか」

マタイ11:2-6 「待つべき方は誰ですか」

 牢獄に捉えられたバプテスマのヨハネが弟子を通じてイエス様に問いかける場面です。「おいでになるはずの方はあなたですか。それとも、別の方を待つべきでしょうか。」これがバプテスマのヨハネの言葉であることに驚きを覚えます。ヨハネは他の誰よりもイエス様を理解していた人物です。彼は救い主がもう来ていると語ってきたのです。その御方こそイエス様に他ならないとです。罪を悔い改め、救い主を信じる者は救われる。これが彼の語ってきた教えです。その彼が今、牢の中に置かれる。懸命に仕えた結果がこれだとすれば、本当に自分の生き方は正しかったのか。このままイエス様を信じていても良いものか。ヨハネはこれまでにない試練の中で、自分の人生の答え合わせを求めているのです。
 けれど、この不安や迷いは決してヨハネだけの話ではありません。私たちもまた同じ様に悩み、迷う者ではないでしょうか。人は、若い頃がむしゃらに懸命に生きてきた、その結果合わせをやがてするようになります。自分の信じる所に従って、毎日を必死に生きたその結果合わせ。それが自分の思い描いていたものと明らかに異なっていた時、私たちは尚も安心して時を費やすことはできるでしょうか。もっと別の選択、別の生き方があったんじゃないだろうか。今まで信じて生きてきたこの人生は間違いだったんじゃないだろうか。と思わないでしょうか。もちろんいつもそんなふうに考えるわけではないでしょう。けれど、人生の試練の中で、困難の中で、日々の忙しさの隙間を狙うかのように、そういう不安や迷いが忍び込んでくる。そういうことって誰しもが経験することではないでしょうか。
 自分の生き方が本当に正しかったのか、待つべき方はイエス様なのか、その人生の答え合わせを求めるヨハネに、イエス様は言います。「あなたがたは行って、自分たちが見たり聞いたりしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない者たちが見、足の不自由な者たちが歩き、ツァラアトに冒された者たちがきよめられ、耳の聞こえない者たちが聞き、死人たちが生き返り、貧しい者たちに福音が伝えられています。だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。」イエス様がおっしゃるのは、イザヤの預言が成就されているという結果合わせです。目の見えない者たちが見、足の不自由な者たちが歩く。それは救い主の到来のしるしなのです。そしてそれらはイエス様によって現実となっている。今まさに預言が成就している。ここを見なさい。とこうおっしゃっているのです。
 私たちも思い通りにいかない日々の歩みに、本当にこのままでいいのか?と不安に思うこともあるでしょう。けれど、果たしてそれだけなのでしょうか。その人生に神の恵みは無かったでしょうか?イエス様はおられなかったでしょうか?私の人生にある恵みの一つ一つは嘘だったでしょうか?いやむしろ、色んなことがあった人生を振り返る時、もうダメだと諦めた、なんでこんなことがと絶望した、そのような試練の中にこそ、イエス様が共にいてくださったということを思い出すのではないでしょうか。私たちの日常の困難は、神の不在を意味するのではありません。私たちは試練にばかり目を落としてしまいがちですけれども、やはりそこには神の恵みがある。慰めがある。後になって振り返る時、渦中では気付けなかった神の守りがあるのです。
 たとえ今私たちが困難の中に置かれていようと、それが私たちのこれまでの歩みを否定するものではありません。なぜなら、その困難の中で、主は十字架の御業を成し遂げられたからであります。ヨハネが思い浮かべた救い主はもっと違ったお方だったかもしれません。もっと力強い、圧倒的な支配者だったかもしれません。主イエスに従うことが、まさか十字架に繋がる道だとは思ってはいなかったかもしれません。けれど、そのお方が人類の救いとなられたのです。罪の贖いを成し遂げたのです。
 自分の人生を間違いだったと嘆く者は本当に不幸ですね。けれどその答え合わせは早急です。いつだって私たちには、渦中に合っては見えないことがあるからです。ですから、私たちはわかることに目を向けるべきです。すでに成就した恵みに目を向けるべきです。今までだって、私たちの人生には数しれない困難がありました。しかし、その困難は主の恵みと変えられました。より主を身近に覚え、生かされることの幸いを覚えた出来事と変えられました。この恵みの数々が、私たちを試練の内に強くします。主が生きて働かれることの経験が、今日主が共におられることの確信に変わる。明日恵みに導かれることの信頼に変えられるのです。待つべき方はイエス様です。アドベントを過ごす私たち、恵みの星を見上げて過ごしてまいりましょう。

211124 ローマ14:1-12 「感謝できているか」

ローマ14:1-12 「感謝できているか」

 信仰の弱い人を受け入れなさい。とあります。その例として、野菜しか食べない人を上げています。なんだかよくわからない例えに思えますが、当時の教会ではこれが大きな問題となっていたわけです。実はコリント教会でも同様の問題がありました。それは偶像に献げられた肉を食べるか食べないかという問題です。それは偶像礼拝ではないかというわけです。パウロはコリント10:23で「「すべてのことが許されている」と言いますが、すべてのことが益になるわけではありません。「すべてのことが許されている」と言いますが、すべてのことが人を育てるとはかぎりません。」と言っています。そして「あなたがたが、信仰のないだれかに招待されて、そこに行きたいと思うときには、自分の前に出される物はどれも、良心の問題を問うことをせずに食べなさい。しかし、だれかがあなたがたに「これは偶像に献げた肉です」と言うなら、そう知らせてくれた人のため、また良心のために、食べてはいけません。」(10:27-28)とも言っています。つまり、食べるか食べないか。それは相手への配慮の問題だと言うのです。それをつまづきと感じる人がいるなら、食べてはいけないと言っています。
 パウロは野菜しか食べない人を弱い人だと言います。野菜しか食べないとは、偶像に捧げられたかもしれないので、その可能性を排除する人たちのことです。つまり律法を厳格に守ろうとする人たちです。そういう人こそ信仰深い人と普通は思いがちです。しかし、パウロはそのようには言いません。偶像は真の神ではないので、実際にはおりません。それは色々な形を持った石であり木であり、被造物に他なりません。それを偶像たらしめているのは、それを見る者の心です。真の神のみを信じ、その赦しをいただいたならば、本来信仰者は自由です。けれどそのことにつまづきを覚える人たちがいる。そんなのは信仰者として相応しくないと訴える人たちがいる。律法の鎖に縛られて、未だに不自由な人達がいる。そう言う救いの確信に立てない人をパウロは弱い人と呼んでいるのです。
 しかしパウロはそのような人たちがダメだと言っているのではありません。そう言う人たちを裁いてはいけないと言っているのです。それは逆もまた然りです。つまり、互いの信仰の違いを裁いてはいけないと言っているのです。自分の正義を押し付けない。他人の正義を評価しない。ある日を、他の日に比べて、大事だと考える人もいますが、どの日も同じだと考える人もいます。これは安息日を想定してのことでしょう。パウロはそのどちらかを否定してはいけないと言います。大事なのはその信仰が、神への感謝に基づいているかです。なぜ律法を大事とするのか。なぜ律法を気にしないのか。どちらも神への感謝に基づいているかと問うているのです。主イエスの救いに与って、この救いに感謝し、それに相応しく生きたいと願う。信仰の応答において律法は私たちを正しく測る物差しとなります。一方で主イエスの救いに感謝し、赦しを確信し、目に見える律法により頼まない。これもまた信仰の応答の一つの姿です。パウロはそのどちらも否定しません。それは神の憐れみの範疇に置かれると言うのです。そもそもの話、私たちに完璧な正義はありません。私たちの理想はそれぞれにあるでしょう。しかし、その理想に叶う人など自分を含めて誰一人おりません。なのに、なぜ他人の信仰を裁くのか。それはどこかに自分が正しいという思いがあるからです。聖書はことある毎に言っています。正義は私たちの内に無いとです。正義はただイエス・キリストにある。その正義は律法の字面ではなくて、その御心を汲み取り、愛に基づく寛容と自己犠牲の正義です。自分の目の中に大きな梁があるのに、他人の目の埃を払おうとするのは、なんと醜い光景でしょうか。私が問うべきは他人の信仰の是非ではありません。私自身が今、主の恵みに感謝できているかどうかです。

211121 ルカ10:38-42 「どうしても必要なこと」

ルカ10:38-42 「どうしても必要なこと」

 イエス様を迎えてもてなしの用意に追われる姉マルタと、イエス様の側を離れず、じっとその言葉に耳を傾けるマリヤ。対象的な二人の様子が記されます。用事に追われるマルタは、マリヤが一向に準備を手伝おうとしないことに苛々して仕方ありません。そこでマルタはイエス様に言います。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」このマルタの思いは、よくわかります。実際、準備をしているのはマルタばかりで、マリヤは全然手伝っていないのです。私たちも、何か仕事をしているとき、あるいは教会で奉仕をしているとき、働かない人の存在が気になるところです。特に、頑張っている人ほどそうですね。
 しかしイエス様はマルタをたしなめておっしゃいます。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」
 なんだかちょっと理不尽に感じます。頑張っている者が正しく評価されないというのは、どうなんでしょうか。イエス様がマルタに「よくやってくれてありがとう」と一言言ってくだされば、きっとマルタの気持ちは収まったでしょう。マルタがマリヤ本人ではなくて、わざわざイエス様に訴えるのは、私はこんなにも忙しくあなたの役に立っているんですよ。というアピールに他なりません。そして、イエス様はそんなマルタの気持ちを察していないはずがないのに。。。けれど、やはり私たちはその非難を、主が良しとはされなかったという事実を見ていかなければなりません。
 このところを、よく肉の奉仕と霊の奉仕という分け方をしまして、奉仕には優先順位があるんだというメッセージを聞いたりします。霊的なことは一流。肉的なことは二流という考えです。たしかに「その良い方を」とありますから、それはマルタの奉仕をマリヤの奉仕を比べてというように聞こえます。けれど、本当にそうでしょうか。私はこのところは奉仕の優劣を語っているのではなくて、奉仕の姿勢についてが語られているのだと思うのです。どの奉仕が、ではなくて、どのような奉仕においても必要なこと。マリヤはその良いほうを選んだ、ということです。
 なぜなら、それは彼女の後の姿を見ればわかります。イエス様の十字架の直前、再びこの家を訪れたイエス様に妹のマリヤが高価なナルド油を塗りたくるという事件を起こします。弟子たちは憤慨し、弟子の一人のユダは「なぜこんな無駄使いをするのか。」と責め立てます。けれど、この騒動のさなか、姉のマルタは相変わらず給仕していたのです。ナルド油であたり一面は強烈な匂いで充満しました。その中心では弟子たちの怒号が飛び交っていました。客をもてなすために気を張り巡らせていた彼女が、この事件に気付いていないはずがありません。けれど、彼女はこの時、何も語らないのです。彼女は淡々と自分にできることに励みます。かつて、妹の態度に心を騒がせて、イエス様に訴えたマルタとは別人のようです。彼女には妹の意図がすぐに汲み取れました。妹を非難しないのがその証拠です。つまり、イエス様の葬りのために何かしたい。それは、この姉妹共通の思いだったのでしょう。二人の女性はそれぞれのできることを行い、互いに協力して、主の御心を理解して、主に仕えたのです。そして、主はその奉仕を喜ばれました。与えられた賜物に従って、自分にできることを、ただ黙々とささげる。この姉妹の姿に、私たちも倣いたいと思うのです。
 とは言え、なかなか思う通りには出来ないということも、私たちは知っています。かつてのマルタのように、いつの間にか自分の満足を優先させてしまう私たちではないでしょうか。主のためにと懸命になればなるほど、他人を裁いたり、見返りを求めてしまう私たちではないでしょうか。もちろん、マルタも一度の注意で変われたわけではありません。彼女の変化は、ラザロの復活を契機にです。その出来事は彼女たちにイエス様が真に命の権威あるお方と悟らせるに十分でした。彼女たちはイエス様がご自身を「よみがえりである」と言った、その言葉の意味も悟ったでしょう。だからこそ彼女達は埋葬の準備にとナルド油を注ぎ、黙々と給仕に励むことができたのです。
 奉仕をささげる上で、必要な事は一つだけだとイエス様は言われました。それはこの復活の主、イエス・キリストへの疑いなき信仰です。奉仕をささげること。それは復活の主と出会うことなしにはありえません。私たちは奉仕を通して、他人の評価を目指しているのではなくて、主の御心に従う事を目指しているからです。救い主を信じ見上げる時、私たちの心は騒がされる事はありません。私たちの奉仕は主の喜ばれるものとされるのです。

211117 ローマ10:14-21 「後のことは主に委ねて」

ローマ10:14-21 「後のことは主に委ねて」

 10:13に「『主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる』のです。」とあります。けれど宣べ伝える者がいなければ聞くことはできないし、聞くことができなければ信じることなどできません。信じることができなければ、もちろん呼び求めることはできません。主の御名を呼び求める者はだれでも救われるとは、まさにその通りですが、だからこそ、宣べ伝える者の必要が語られるのです。なぜなら、神は人をして御自身の宣教の業をなされるからです。第1コリント1:20「事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。」とある通りです。
 そして、何を宣べ伝えるのかということは、ちょうど礼拝で確認したところでした。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」パウロが引用したイザヤ52:7のみ言葉からは、それはまず平和であり、次に喜びであり、そして救いだとわかります。私たちは何をおいてもまず救いと思いがちです。しかし、そうではありません。私の内に平和がなければ、その人は心を閉ざします。喜びがなければ、聞く耳を持ちません。救いの知らせはとても素晴らしいものですが、宣べ伝える私たちがその恵みを享受していなければ、誰がその言葉に聞き入ることでしょう。誰がその言葉に希望を見ることでしょう。福音宣教は、人と人との関わりです。わざわざ、「良いことの知らせを伝える人々の足」と表現するのは、福音が関係性の中で伝わるということです。そうでなければ同じことを繰り返すだけのロボットで十分です。私たちがその人と関わるそのときに、私たちの内にある平和と喜びが本物であるか、人々は生きた神の証として見るのです。

 さて、パウロはイゼヤ書53:1の言葉を引用しています。「私たちの聞いたことを、だれが信じたか。【主】の御腕は、だれに現れたのか。」この53章は苦難のしもべの預言です。イザヤ53:5「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」とあります。罪の贖いとして十字架にかかられるキリストの預言です。しかしイエス様が来られる以前、イスラエルはこれを救い主の預言とは理解できませんでした。この救い主は彼らが願い求める姿とは違っていたからです。何が言いたいのでしょう。
 これまでパウロは伝える人の必要を語ってきました。あなたもその一人となるようにという期待を込めてです。しかし、どれだけ伝える人が起こされようと、全ての人が福音に従ったわけではありません。このことは、私たちの努力不足でしょうか。熱心さが足りないということでしょうか。そうではありません。どれだけ熱心であろうと、平和と喜びを持って関わろうと、その本人が聞こうとせず反抗するならば、その人が救いに至ることはないのです。誤解しないでいただきたいのは、だから宣べ伝える必要はないと言っているのではありません。先に救われた私たちには福音を宣べ伝える責任があります。伝える者がいなければ聞くことはできず、聞くことがなければ、信じることもできないからです。私たちのことばをもって福音を宣教される。これは主の素晴らしいご計画です。けれど、それでも信じない頑なな者がいます。決して耳を貸さない人たちがいます。これはもうその人の責任です。
 語っても尚、聞かれない。熱心に関わっても、信じてもらえない。私たちはその状況に落ち込みます。自分を責めます。けれど、イスラエルが救い主を信じなかったのは、彼らが聞こえなかったからではありません。「その声は全地に響き渡り、そのことばは地の果てまで届いた。」とあります。むしろ彼らには幾度となく語られておりました。けれど、彼らは聞こうとはしなかったのです。苦難のしもべを救い主とは聞きたくなかった。救い主が自分たちの罪のために刺し通されるとは認めたくなかった。ですから、彼らが聞かないのは彼らの責任です。苦難のしもべは、むしろ異邦人に見いだされていくのです。
 私たちの責任は福音を宣べ伝えることにあるのです。救いと滅びは私たちの責任ではありません。結果は主のものです。しかし私たちがやるべきことをやりきらなかったら、きっと後悔が残ります。やるべきことをやり、結果は主に委ねる。その先を決めるのは、あくまでもその人の信仰だからです。

211114 ルカ10:25-37 「憐れみ深い愛」

ルカ10:25-37 「憐れみ深い愛」

 この話は律法の専門家がイエス様を試そうとして言った言葉から始まっています。「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」これはいったい何を試しているんでしょうか。イエス様はこう答えています。「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」ユダヤ人なら律法は皆知っていて当然なわけです。けれど、その読み方、解釈の仕方は違っている。例えば、サドカイ派とパリサイ派の人たちは、復活の教理一つとっても議会が紛糾するほどに律法の解釈が違っておりました。つまり永遠のいのちについての解釈もその人の立場によって違っているわけで、あなたは律法をどう読んでいるのか。と律法学者は質問をしているのです。
 それに対してイエス様です。質問に質問を重ねるのは、あまり良い答え方ではないかもしれませんが、このイエス様の答え方で、イエス様が質問の意を汲んだことが伝わります。つまり彼は律法解釈の立場を聞いているんだなと、イエス様が理解した。ということが伝わる。ですから、彼は質問をより具体化して進めます。
 レビ記18:5に「あなたがたは、わたしのおきてとわたしの定めを守りなさい。それを行う人は、それによって生きる。わたしは【主】である。」と書かれているように、ユダヤ人にとって永遠のいのちは、おきてと定めを守ることによります。そして、そのおきてとは「神を愛し、隣人を愛せよ。」であると。ここまではユダヤ人なら周知な事実です。あとは解釈の問題でして、じゃあこの律法をどこまで守ればいいのか。愛せよという命令をどこまで実践すれば良いのか、あなたの見解を聞かせてください。と問うのです。
 イエス様は「そのとおりですよ。」と答えられます。それを実行すればいのちを得ると。けれどそれ以上は何も言いません。いや、違うんです。ここまではもうわかっているのです。その先が聞きたいんです。例えば、私たちは小さな子どもに嘘をついちゃダメですよって教えます。けれど大人には、ついていい嘘と悪い嘘があると語ったりもするわけです。もしくは、法律に抵触するような嘘はついちゃダメですよ。と言いながら、法の網をすり抜けようとしたりもする。嘘はダメという大枠は皆変わらないけれど、私たちの日常においては様々な解釈があるわけです。それを聞きたい。ですから、彼は再度尋ねます。10:29「しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とは、だれのことですか。」
 こういった流れの中でイエス様は良きサマリヤ人の譬え話をされるのです。強盗に襲われた人の脇を通り過ぎる祭司とレビ人。そして近寄って介抱するサマリヤ人。対象的な様子が語られます。誰が正しいかと聞かれれば、それこそ、律法の解釈の問題となってきます。汚れの規定を重要視すれば、祭司やレビ人の選択が正しいわけです。けれど、イエス様はだれが強盗に襲われた者の隣人になったのかと問われます。これなら答えは明白です。サマリヤ人です。律法の専門家である彼は答えました。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエス様は言われました。「あなたも行って同じようにしなさい。」
 「3番目の人です」「サマリヤ人です」答え方は幾らでもありますが、彼は「その人にあわれみをかけてやった人」と答えます。これは彼が事の本質に触れたということでしょう。つまり目の前にいる傷ついた人を前に、律法だなんだという解釈は問題じゃないんだと。その人をあわれむのかどうか。別の訳で言うと「気の毒に思う」かどうか、その心が問われているんだと言うことです。人を助ける理由に、これ以上もこれ以下もいらないんですね。「かわいそうに思い」という言葉は、もともとは「はらわたが痛む」という意味で、私たちが胸が痛むというのと同じです。その人の痛み悲しみが、まるで自分のことのように感じて胸が痛い。だから放っておけない。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』というのは、まさにそういう衝動的な思い、関心を持って関わればいいんだと。打算や規定ではないんだと言われているのです。
 イエス様はある安息日に、会堂にいる右手の萎えた人を前にして言われます。「あなたがたに聞きますが、安息日にしてよいのは、善を行うことなのか、それとも悪を行うことなのか。いのちを救うことなのか、それとも失うことなのか、どうですか。」人を愛し、あわれむということに、理由はいらない。これがイエス様の律法の読み方です。そして、まさしくその通りに、私たちが愛された。ということも覚えておきたいものです。罪に歯向かうことのできない惨めな私たちが救われたのは、ただ主の憐れみの故です。だからこそ願います。私たちもまた良きサマリヤ人とならせてくださいとです。

211110 ヨブ30:1-15 「変わるもの、変わらないもの」

211110 ヨブ30:1-15 「変わるもの、変わらないもの」

 ヨブと3人の友人とのやり取りは3巡目を終わります。友人たちの説得は結局ヨブを慰めることはできず、議論は平行線のままに終わりました。もはや友人たちにヨブに掛ける言葉はありません。
 27章から31章までは、ヨブの独白がなされる場面です。格言というのは、自身の主張の中心主題のことです。27章はヨブの潔白の主張がなされ、28章では真の知恵はただ神のみが知ることを語ります。29章に入ると、ヨブは自身の幸せだった日々を振り返って思い起こしています。29:21「人々は、私に聞き入って待ち、私の意見にも黙っていた。私が言ったあとでも言い返さず、私の話は彼らの上に降り注いだ。彼らは雨を待つように私を待ち、後の雨を待つように彼らは口を大きくあけて待った。」今ヨブに反論を繰り返していた3人の友人との対比がこのところで明らかにされます。ヨブがまだ社会の指導的立場にあった頃、人々はヨブの言葉に逆らうことなく、聞き入っていたのです。それが今、ヨブの言葉には誰も耳を貸さず、友人たちも反論を言うばかり。

 30章に入ってヨブは言っています。「しかし今は、私よりも若い者たちが、私をあざ笑う。彼らの父は、私が軽く見て、私の群れの番犬とともにいさせたものだ。」かつての使用人の子どもたちですらあざ笑います。世間から追い出されたような者ですらです。彼の不満はピークを迎えます。30:9「それなのに、今や、私は彼らのあざけりの歌となり、その笑いぐさとなっている。」今をより一層不幸にするのは、過去の栄光です。ヨブの中には忘れられない幸せだった過去の記憶があります。しかし、そのことが余計に彼を苦しめているのです。これは何もヨブだけに限ったことではありません。一度得た栄光を失う。これは最初から持たない者よりもより一層辛いことなのです。ヨブは今無一文で、病気を患って、孤独の内にここにいます。けれど、そのような境遇に生まれ持って置かれる人もいるわけです。けれど、じゃあ、その人がヨブと同じだけの絶望にいるのかと言うと、恐らくは、そうはならないでしょう。ヨブの苦しみの正体は、持っていたものを失うという苦しみです。過去の自分と比べてしまうことに起因するのです。
 ヨブの体験ほどにはいかなくとも、私たちは皆、似たような経験をいたします。なぜなら人はやがて老いていくものだからです。今まで当たり前にできていた事ができなくなる。若い頃の輝いていた生活は失われ、変化のない、いや徐々に徐々に失われていく日常を過ごすようになる。もし、私たちがそのような境遇にあって、ただ過去の栄光だけに目を向けるなら、この現実のなんと苦しく、辛いことかと思わされるのです。
 花の詩画作家、星野富弘さんは24歳のときに、中学の体育教師として体操の模範演技で着地に失敗し、頚椎を損傷して、首から下が全く動かなくなりました。食事を取ることも、寝返りをすらことも自力ではできず、ただただ、天井を見つめるばかりの日々が9年間続いたと言います。どれほど過去の自分を呪ったでしょう。どれほど自由に動いた時の体を羨んだことでしょう。けれど、彼は聖書と出会い変わっていきます。マタイ6:30「きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。」小さな草花の中に命の尊さを発見し、今日を生かされている恵みに目を留めるようになるのです。その後、口でペンをくわえて、字を書くようになり、絵筆を持つようになり、やがては詩画を描くようになって、多くの人に感動を与えるようになったのは、私たちも知るところです。
 ヨブは過去の自分と今の自分の境遇の違いに苦しみました。富弘さんも同じです。けれど、絶望的な状況の中で、富弘さんは逆に命の尊さに触れていきます。生かされていることの幸いに目が留まるのです。別にこれは、体が動かなくなったから与えられた特別の恵みではありません。以前からもその恵みはあったものです。動こうと動かまいと命の尊さに変わりはありません。けれど、気付けなかった。ここが大事です。私たちは変わっていくことに不安になります。けれど、変わっていくものではなくて、変わらないものにこそ目を向けるべきです。目に見えるものは変わっていきます。あらゆるものは朽ちていきます。そこに目を向ければ、私たちはその変化に戸惑い、不安になります。けれど、変わっていないものがあるはずです。どのように周りの人々の反応が変わろうと、自分の置かれた状況が変わろう、変わらないものがある。ここに目を留めるのです。
 ヘブル13:8「イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません。」

211107 ローマ10:13-15、エペソ4:1-3 「平和の絆」

ローマ10:13-15、エペソ4:1-3 「平和の絆」

 ローマ書10:13-15は私たちに福音宣教を促す重要な箇所です。主の御名を呼び求める者はみな救われる。神様の救いは決して難しいことではありません。ただ主の御名を呼び求めるだけで、信じるだけで与えられるんだと語っています。その他の何も求められることはありません。けれど、どれだけ素晴らしい救いの知らせも、聞いたことがなければ信じることはできません。伝える人がいなければ聞くことはできませんし、そもそも遣わされなければ伝えることはできません。だから、良い知らせを伝えるために、まず一歩を踏み出す、まず一声をかけるということが大事なわけです。ところでパウロはここで、イザヤ書の御言葉を引用しています。「平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、「あなたの神は王であられる」とシオンに言う人の足は。」パウロは「良い知らせを伝える人」とまとめて言っていますが、元々は、「平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、「あなたの神は王であられる」と言う人」と言っているんですね。当然パウロが引用する時、熱心なユダヤ人であれば、このイザヤ書の言葉が頭に浮かんでいます。どれだけ素晴らしい救いであろうと、それを語る人に喜びがなければ、伝わることはありません。どれだけ喜びに満ちていようと、それが強要されて伝わるものではありません。語る者と聞く者の間に平和があり、その人の幸いがにじみ出ている。だからその救いの知らせは人々に聞かれていくのです。救いを語る前に、そこに平和と喜びがなければ、その救いは証明されることなく、伝わらないのです。
 パウロもまた、事ある毎に、教会の平和を勧めています。エペソ書でパウロは「平和の絆で結ばれて」と言っています。そこに平和がなければ、私たちが抱く喜びや、いただいた救いは証明されないからです。イエス様の救いの御業を信じて行き着くところが、教会内の派閥争いや権力闘争だとしたら、皆、そんなことに巻き込まれるのはまっぴらだと言うことになるでしょう。誰かと争っている中で、私たちは心から救いを喜ぶことはできません。私たちは救いを語る前に、喜ぶことが大事です。そして心から喜べるために、平和を築くことが大事です。逆に言いますと、私たちが平和を共有し、心から喜びを持つ時、この交わりは何よりも救いの確かさを証明するのです。
 パウロは召しにふさわしい歩みとは、「謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに耐え忍」ぶことだと言っています。強い者がその余裕の内に相手の弱さを受容するということではありません。まず自分の弱さを認め、そして相手の弱さ認めるのです。私たちは主の贖いの御業がなければ、所詮何一つ救われる要素のない者です。自らの弱さを認めることができて初めて、私たちは隣りにいるその人を心から尊敬することができます。目の前にいるその人を頼りとすることができるのです。
 ピリピ2:3にも「何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。」とあります。「利己的な思い」とは「自己中心」という意味です。私たちが自分を中心に置く時、そこに平和は築かれません。私が私の中心を主に明け渡すこと。私たちが心から自分の弱さを認めて、主にへりくだる時、私たちは初めて目の前にいるその人を、その強さも弱さも含めて尊敬し、喜べるようになるのです。教会の平和は、互いが罪赦された者であることが根底であります。私たちの能力や功績、熱心さで築かれるものではありません。私たちは互いを見るときに、主の十字架の御業を通して見るのです。主の尊い犠牲を覚えて見るのです。だからこそ、キリストの救いはここにあるのです。
 パウロは最後に御霊の一致を熱心に保ちなさい。と言います。私たちを結び合わせるのは、私たちの内の何かではありません。ただ御霊によるのです。ですから、祈りを無くして私たちが平和を築くことはできません。もしも私たちが平和の絆で結ばれないとしたら、目の前にいるその人に寛容を示せないとするなら、憎しみと猜疑心を持って見るとするならば、私たちはまずその人のために祈ることから始めましょう。平和は私たちの内にはないからです。それは御霊によるからです。私たちがバラバラなのはある意味で当然です。好みも考えも違う私たち。けれど、御霊は一つです。私がもうどうしようもない罪の中から救われたように、ここにいる皆が救われたのです。この一点で、私たちは平和を築くことができるのです。