マタイ2:1-12 「礼拝を献げるために」
旧約聖書の民数記24:17には「私は見る。しかし今ではない。私は見つめる。しかし間近ではない。ヤコブから一つの星が上り、イスラエルから一本の杖が起こり、モアブのこめかみと、すべての騒ぎ立つ者の脳天を打ち砕く。」とあります。これが救い主到来に見られるしるしの一つです。けれど、外国の占星術師が、そう簡単に、この預言に思い至るものでしょうか。
歴史的な背景を考えるなら、この者たちはペルシャの占星術師である可能性が高いでしょう。ご存知のように、ペルシャの国は、王妃エステルの活躍によりユダヤ人たちの生活が安堵され、叔父のモルデカイはクセルクセス王の側近に取り立てられたという経緯があります。つまり、ユダヤ人たちはペルシャにおいては、自国と同じように自由に取り立てられ活躍する機会があったということです。当然、国お抱えの占星術士たちとも交流があったことでしょう。そして、その博士たちがこのイレギュラーな星の出現の意味を探り求め、あらゆる文献にあたりながらも一向にその意味が知れずにいるそのとき、彼らと親しいユダヤ人の一人が、この民数記の言葉を博士らに伝えたのではなかったか。そしてこの御言葉に無視できない何かを感じ取って、博士たちは旅に出る決意をしたのではないか。もちろん、これらは想像に過ぎないわけですが、あながち間違いではないように思います。
博士たちは、エルサレムでヘロデ王に謁見し、そのところで救い主誕生の預言がベツレヘムであることを聞きます。その後、星に導かれて、ベツレヘムに滞在していた幼子のイエス様と出会います。そして持ってきた宝の箱、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げて、そのままあっさりと自分の国に帰っていったのであります。
ヘロデ大王が自ら謁見を許すのですから、彼らはそれなりの規模を持った使節団であったと考えられます。黄金・乳香・没薬などの高価な品々を持って長旅をするのですから、荷車かラクダを用意したことでしょうし、賊に襲われないように、護衛たちも雇っていたことでしょう。通る先々で宿の手配やら何やらと計画しなければなりませんし、旅に出た後の留守の手配や、仕事の引継ぎも必要です。最初に星を見てから、1年以上が経っていたと考えられています。それだけ周到な準備と手間、時間とリスクをかけて、彼らは旅に出たのです。なのに彼らはイエス様をひと目見るだけで帰っていきます。イエス様に贈り物を献げて満足いたします。引き換えに何かを要求することもありません。ここが凄い。彼らはただ一度救い主を礼拝するだけのために、この莫大な規模の犠牲を惜しみなく献げたのです。
救い主に出会うということには、それだけの価値があるということです。礼拝をすることには、それだけのものをささげる意味があるということです。持ってきた宝物だけではありません。時間も手間も、労力も、全てを献げるだけの意味がある。人生を献げる価値がある。少なくとも、博士たちはそういう決意の下で旅に出たのです。そして事実、彼らは満足をして帰っていったのです。
救い主と出会うためなら、それらを献げる価値は十分にあります。救い主と出会わなければ、絶対に手に入らないものがそこにはあります。どれだけお金を積もうと、どれだけ時間をかけようと、どれだけ労力をかけようと、どれだけ名声を得ようと、私たちは死を免れません。生きることの乾きを満たすことはできません。誰に依存しようとも、どんな手段を取ろうと、それは手に入りません。伝道者は言います。「空の空。すべては空。」けれど、主は唯一それを満たすことのできるお方です。主はご自身を献げることを通して、私たちに生きる目的と、生かされることの感謝、そして委ね切ることの幸いを与えてくださるのです。
私たちは日曜日の朝、それはそれは戦いですね。寒い日はもう布団から出たくない。今日くらいは良いんじゃない?神さまだってわかってくれるよ。礼拝を妨げる誘惑の声は、いつも私たちにささやいてきます。けれど、そう言っている私たちは、神さまには休みを許しません。祈りはすぐに聞かれたいし、試練はすぐに解決してほしい。少しでも返事がないと、あなたは私を見捨てたのかと恨み言を言う。いやいや、どの口が言うのかという話であります。「見よイスラエルを守る方はまどろむこともなく眠ることもない。」(詩121:4)主は今日もまどろむことなく、眠ることなく、私たちを守ってくださっています。私たちを祝福してくださっています。救い主と出会うことの幸いに目を向けるなら、私たちはもはや礼拝を献げなければならないのではありません。私たちは礼拝を献げずにはいられないのです。私たちはまず受けたのです。だから応答するのです。一方的な愛が、双方向になる時、私たちは心から主の平安に満たされるのです。

イザヤ59 ヨハネ1:9-13 「すべての人を照らすまことの光」
ヨハネは「すべての人を照らすまことの光が来ようとしていた。」と言います。その背景には、すべての人を照らす光がなかったという現実があるわけです。そこには闇があった。まことの光が必要だった。だから、イエス様が来られたのです。
私たちの人生で闇と感じるときはどんなときでしょうか。光が差さない。希望がない毎日。誰かの悪意にさらされ、何をやっても自分の思い通りに行かず、もうどうしていいかわからないそんな状況の中で闇を感じることでしょうか。イザヤ59章にあるように、明日に希望が持てず、今日を生きることに何の意味も見いだせないで、ただ死人のように無為に過ごしているとすれば、それはまさに闇であります。私たちはまっとうな扱いを願っているだけなのに、現実には偏見や贔屓や思惑が様々にあって、不当な扱いがあって、その出口の見えないとすれば、それもまた闇です。助けてくれる人は誰もおらず、慰めてくれる人もいない。挙げ句、私たちの最後の砦、神にまで見放されるとすれば、私たちはどうしようもない闇を実感するのです。
けれど、そうじゃないとイザヤは言います。問題は闇じゃないんだと。問題は闇をもたらしたものにあるんだと、こう言うわけです。私たちは闇を恐れます。不満を感じます。なんで私を助けてくれないのか。と叫びたくなります。けれどその闇は、私たちの罪がもたらした結果なんだとイザヤは言うのです。神が私たちを闇に置いているのではありません。私たちが自らを闇に置いているのです。闇に身を潜めれば、罪を隠せるからです。私たちは闇を恐れていながら、決してそこから抜け出そうとはしないのです。咎を認めたくないのです。罪を明るみに出したくないのです。神の前に不用意に出ることを恐れているのです。だから自らを闇の中に置いて、不満を言っているくらいが居心地いいのです。私たちは自ら罪人だと言いながら、本当にその罪を嫌っているでしょうか。悔いているでしょうか。どこかで、その罪を手放せず、闇の中に身を潜める思いがあるのではないでしょうか。けれどその闇は、私たちが思っている以上に私たちを貪ります。縛り付けます。私たちは闇に身を隠し、息を潜める内に、そこに同化し、そこから抜け出せなくなってしまうのです。
嘘を隠すために嘘を塗り重ねるということがありますが、自らの罪を明るみに出さないために、誰かの罪を断罪し、陥れ、自らの義を謀ることで、私たちはより深いその闇に身を潜めるのです。本当は気付いているのです。けれど、認めたくないのです。被害者ぶっていたいのです。「そこでは真理は失われ、悪から離れる者も、そのとりこになる。」(59:15)本当にどうしようもない闇が私たちの内にあります。
この闇の中に、まことの光が生まれた。この闇を照らすために、イエス様がお生まれになった。これがクリスマスです。主は、私たちが闇の中に身をゆだねているのを放っては置けなかったのです。私たちは自分ではもう抜け出せないほどに悪のとりことなっているからです。「主はこれを見て、公義のないのに心を痛められた。主は人のいないのを見、とりなす者のいないのに驚かれた。そこで、ご自分の御腕で救いをもたらし、ご自分の義を、ご自分のささえとされた。」(59:15b-16)これこそがクリスマスの全てです。それは主が私たちを見て心を痛められたという出来事です。悪のとりことなって、そこから抜け出さないでいる私たち、滅びに身を任せている私たちを憐れまれたという出来事。それゆえご自身の身を死に差し出されたという出来事であります。
イエス様誕生の背景には、イエス様の並々ならない覚悟と憐れみがあります。このイエス様の姿に照らされて、私たちは歩むのです。光は闇を照らすために来ました。イエス様は私たちの罪を明るみに出すために来られました。イエス様の人としての歩みが、十字架の御業が、私たちの今日の歩みを白日のもとに導くのです。それはもしかすると私たちにとっては見たくない部分かもしれません。できることならごまかしていたかったことかもしれません。少しくらい良いじゃないかという内なる声が聞こえてきます。けれど、イエス様はその少しのために命を捨てられたのです。イエス様はその少しのために、私たちが滅びることを放っては置けなかったからです。
イザヤの預言は続きます。60章の1-3節「起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ。見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。しかし、あなたの上には主が輝き、その栄光があなたの上に現われる。国々はあなたの光のうちに歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩む。」あなたの上には主が輝き、その栄光があなたの上に現れる。この光は私たちを断罪するための光ではありません。この光は私たちを導く光。これこそが私たちの希望なのです。

ヨブ40 「天にも地にも満ちている愛」
38章から続く主の語りかけに、自分の無知をしめされたヨブはへりくだって初めての言葉を主に語ります。「ああ、私は取るに足りない者です。あなたに何と口答えできるでしょう。私はただ手を口に当てるばかりです。一度、私は語りました。もう答えません。二度、語りました。もう繰り返しません。」(40:5)
主はヨブがどれほど義を誇ろうと、主に比べうるもないことを改めて指摘します。どれだけヨブが義を唱えても、すべての悪者を改心させることなどできません。自らの手で、自らを救えるはずもありません。どれだけ己を誇ろうと、河馬も人間も等しく神の被造物に過ぎません。神の被造物にその差はありません。神は一切の被造物に、ご計画を持っておられる。この神の秩序の中で私たちは生きているのです。
38章、39章に記された主の問いかけに圧巻いたします。
この地の基を定めたのは誰か。この海を統治しているのは誰か。死の陰の門を見たことがあるか。光の住む所に至る道はどこか。雨は。氷は。水は。星星は。岩間の野ヤギは。野ロバは。野牛は。だちょうは。主はヨブにこの世界のあらゆる理を問いかけます。あなたは知っているとでも言うのか。その質問はあまりにも多種多様で、問われるヨブはどれほど己の無知を思い知らされたことでしょう。しかし主の問いかけはヨブの無知と同時に主の無限の知恵を明らかにしています。自分のことだけで精一杯であったヨブと、全世界を統べ納められる主。その隔たりは天地の隔たりよりも大きなものです。誰も主の前に己を義も誇ることなどできません。エリフが言ったヨブの罪は、神よりも自分自身を義としたことでした。主はヨブの無知を指摘します。あなたは神ではないと思い知らせます。それは単にヨブを黙らせるために問いかけではありません。ヨブに問いかけながら、御自身がどれほどこの被造物に慈しみを持っておられるかを語られておられる。あなたが知らないこれらの営みに、私は関心を寄せ、計画しているのだと。この世界の秩序の基に主がおられると。そして今、その主がヨブにどれほど心を砕いて声をかけられているのかをです。
新潟にいる頃、教会員の方と一緒に登山をしました。そんなに高い山ではありません。けれど海風によって侵食された尾根は険しく、尖った足場を上り下りしながら、下山していきますと、急に視界に海が広がるのです。本当に美しい光景。太陽の光が海の波に照り返し、眼前に広がる日本海に、何とも言えぬ感動を致しました。神さまの創造の御業の素晴らしさを実感しました。井のなかの蛙。自分の抱える不平不満が、どれほど狭い日常の視点に由来しているかを思い知らされました。祈りが聞かれない。願った通りの現実でない。試練の中で私たちは神の不在を嘆きます。神さまは私を見放された。神さまは雲隠れされた。私たちはそんな風に絶望を装います。けれど私たちの周りには、どれほど多くの神の御業が溢れていることか。私たちはどれほどの神の奇跡に取り囲まれていることか。神はいないと言うならば、私たちは目をつむっているに違いありません。私たちが見ようとすれば、神は至る所に、御自身を証明されておられるのです。
エレミヤ23:23-24「わたしは近くにいれば、神なのか。──【主】のことば──遠くにいれば、神ではないのか。人が隠れ場に身を隠したら、わたしはその人を見ることができないのか。──【主】のことば──天にも地にも、わたしは満ちているではないか。──【主】のことば。」
目を上げて、見渡してみましょう。そこには見渡す限りの神さまの創造に満ちています。神さまはこの地に満ち満ちています。私たちは否定できない主の奇跡を見るでしょう。

Ⅰテサロニケ5:1-11 「何をすべきですか」
主イエスの再臨をどのように待つべきか。私たちはその見本となる姿を、クリスマスの出来事から見ることができます。それはイエス様の母となるマリアの姿からです。御使いのお告げで救い主の母となることを告げられたマリア。ヨセフとの婚約期間中でありました。律法によりますと、婚約中の女性が夫以外の子を産むというのは、石打にあってもおかしくありません。ガブリエルのお告げは、おいそれと、めでたいと受け止められるような内容ではないのです。
戸惑うマリアは声を振り絞って問いかけます。「どうしてそのようなことが起こるのでしょう。私は男の人を知りませんのに。」これに対して御使いガブリエルは、それは聖霊の力によると言います。そして神にとって不可能なことは一つもないとです。そして、主には不可能なことがないという証拠として与えられたしるしが、不妊の女エリサベツの胎の実であると言うのです。エリサベツはマリアの親戚にあたります。子が産めなかったエリサベツは、きっと幼いマリアを実の子のようにかわいがっていたことでしょう。そして、マリアもまた、不妊の女の悲しみを身近に見ていたことでしょう。そのエリサベツに子が与えられた。本当だとしたら、それは何と素晴らしいことでしょう。自分のことで言えば、戸惑いしか無い御使いの知らせ。けれど、エリサベツの身に起きた奇跡ならマリアは心から喜べます。神のなさることは全て時にかなって美しい。それは間違いなく主がなさることに違いありません。そして主がなさるのなら、私に告げられたことも、その通りになるしかない。マリアはエリサベツの出来事を聞いて、この御使いの言うとおり、ただ主を信じて受け入れる決心をしたのです。38節「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」
では、御使いのお告げを受け入れたマリアはどうしたでしょう。救い主誕生までの日々をどのように待ち続けたのでしょう。彼女はすぐさまエリサベツの元に駆け付けます。そして、そのお告げの正しさを確認するのです。そこには半年後の自分の姿がありました。認めざるを得ない、御使いの知らせの正しさがありました。不妊で悩み続けた叔母の穏やかで喜ばしい姿がありました。そして何よりも、誰にも相談できない突然の重荷を、ひと目で認め合い、励まし合い、理解し合える交わりがありました。他の誰に言っても信じてもらえない。話せない。けれどエリサベツになら話せます。彼女だけは、この世界で唯一、マリヤの置かれた状況を理解してくれる。同情してくれる。そういう安全で平和な交わりに、マリアは3ヶ月の間身を置いて、来る結婚と出産に備えたのでありました。
さて話は変わりますが、今日の箇所第1テサロニケ5章では、イエス様の再臨を待ち望むキリスト者の有り様が教えられております。主の日は盗人が夜やって来るように来ると言います。つまり主は予期しない時に、突如としてやって来るという意味です。その日、突然の破滅が襲います。主の日とは、主のさばきの日です。妊婦に産みの苦しみが臨むように、誰もこれを逃れることはできません。けれど備えることはできます。「眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うのです。」ですから目を覚ましておけば良いのです。常日頃から光に留まっていれば良いのです。そうすれば、その突然の日を恐れることはないし、慌てることもありません。
パウロは主の日に備えるにあたって、目を覚まし、身を慎んでいましょう。信仰の武具を身に着けましょう。そしてそのために互いに励まし合い、互いに高め合いましょう。と、こう言っています。目を覚ましというのは、昼に活動する、光に側に立つということです。慎むというのは、過ちや軽はずみなことを避けるということです。信仰と愛、救いの望みにしっかりと目を向けて、罪の誘惑に身を委ねないで過ごしましょうというのです。
そして、そのために大事なのが、互いに励まし合い、互いを高め合うということです。私たちはどれだけ高い志を持とうと、一人では弱いからです。欠けだらけだからです。励まし合い、高め合うことをもって私たちはようやく主とともに生きるのです。私たちはキリストの部分であります。それぞれを担う掛け替えのない部分。しかしそれは同時に、一つだけでは機能しないということです。励まし合い、高め合い、補い合って、私たちはキリストの体とされていくのです。マリアにはエリサベツが必要でした。エリサベツが共感し、受け入れ、喜んだことが、孤独のマリアを主の内に生かしたのです。私たちにも主にある兄弟姉妹との交わりが必要なのです。声を掛け合って、目を覚まし合って、今日、主とともにあることの幸いを積み重ねてまいりましょう。

ヨブ36:1-14 「世界の全ては神のことば」
私たちには突如として不条理と思えるような試練が降りかかる。と、ヨブ記を読んで学びました。けれど、エリフはその試練は無意味ではないと言うのです。私たちの側で不条理に思える出来事でも、神の側には意味があると言うのです。
7節には「神は正しい者から目を離さず、彼らを王座にある王たちとともに、永遠に座に着かせる。こうして彼らは高くなる。」とあります。神は正しい者の決断を見ていて下さると言います。そしてそのような者に相応しい祝福を用意してくださっています。正しい者とはどういう者でしょう。それは、この神に信頼して応じる者と言えるでしょう。神は私たちに正しくあってほしいと願われます。そして、正しい者には祝福を与えるとです。誰が見ているわけではないけれど神さまが見てくださっている。信頼してくださっている。神の眼差しを見守りと取るか、監視と取るかで、随分と印象が違います。正しい者とは、この神の眼差しに信頼する者。信頼して応じる者であります。
しかし、時に私たちは迷い、苦しむのです。どんな時にも神に信頼できれば良いのですが、そうはできない時がある。ヨブがそうです。神に忠実であったヨブが、不条理な試練の中で迷い苦しむのです。彼は自らの義を主張し、神の取り扱いに不満をぶつけます。しかし、逆なのです。神は、そのような試練を設けて、その者の背きや驕り高ぶりを告げておられるのです。もしも神が試練をくださらなければ、その人にもたらされるのは予告のない滅びです。けれど神は試練を設けます。試みを用意します。その中で、彼が自らの驕り高ぶりに気付き、神の忠告を聞き入れて、不法から立ち返るようにです。あくまでも神の目的はその者を立ち返らせることにあります。苦しめることではありません。その証拠に、神は試練に先立って、聞き入れる者の日々の幸せを、年々の楽しみをすでに用意されておられるのです。
続く15-21節で、ヨブの驕り高ぶりの正体が語られます。それは悪しき者へのさばき。さばきと公正が、彼を憤りに誘い込んでいるのです。自分が正しいと主張するとき、すでに驕り高ぶりに捕らわれています。しかし、私たちが真の神に目を向けるとき、いったい誰がその正しさを誇ることができるでしょうか。
エリフは言います。「見よ、神は力にすぐれておられる。神のような教師が、だれかいるだろうか。だれが神にその道を指図したのか。だれが「あなたは不正をした」と言ったのか。」(36:22-23)試練にあって神に助けを求めることはあっても、神の御業を不正と評することは誰にもできません。神を前にして、私たちにできるのは賛美だけです。「神はいと高く、私たちには知ることができない」のです。事故で動けない身となった星野富弘さんは、ある日、聖書に書かれた野の花の記事から関心を持つようになり、窓辺に飾られた小さな花に目が留まりました。その精一杯に咲く小さな花の命に感動し、励まされ、生かされていることへの感謝が生まれたのだそうです。神のご威光は地の隅々に満ちています。この世界の全ての命の営みが、神の摂理の中で育まれています。雨一つ、しずく一つ、人の手によるものではありません。私たちは降りかかる試練だけが神のことばと思うでしょうか。しかし、そうではありません。今日、私を生かし、私を育むこの世界の全てが神のことばであり、神のみこころです。私たちはこの神に聞いて、賛美する者でありたいのです。

詩篇13:1-6 「いつまでですか」
先週私たちは、イザヤの預言の成就から、待つべき方がイエス様であることをご一緒に確認しました。私たちが次に確認したいことは、いつまで待てば良いのかということであります。なぜならイエス様はまだ来ていないからです。私たちは確かに主の再臨を待っております。けれど正直に申せば、主の再臨がいつかはもうあまり気にしていないのではないでしょうか。なにせ、もう2000年、イエス様は来られていないのです。アウグスティヌスもルターもカルヴァンも、キング牧師も、皆、信仰のために戦いましたが、その生涯は遂にキリストの再臨を見ずに終えました。いえ、彼らだけではない。実は人類の内、誰一人として、イエス様の再臨を見た者はおりません。ですから私の人生の中でそれが起こるとはどうしても思えないのです。
詩篇13篇はダビデの賛歌とあります。もちろんダビデは主イエスの再臨を待っているわけではありません。イエス様が生まれるずっと前の話であります。彼が待っているのは、神の助け、神の救いです。けれど、その助けが与えられないことの嘆きがここにあるのです。サウルに追われて行き場を失っていったその時のことでしょうか。それとも、息子アブシャロムに追われたときでしょうか。何にせよ、彼の人生の中もっとも危険が差し迫った時の詩だったと思われます。孤独で明日に不安を抱えていた時。いつまでですか。とは、遠い先の未来の希望を想像しての話ではなくて、神の到来を待望する今、そしてその今に繋がる「いつ」であります。ダビデはいつでもいいという祈りをしているのではありません。今、来てください。早く、来てください。そういう危機感の中で、神に問うているのです。そして、この切羽詰まった祈りの根底には神は救いをもたらされる。という神への信頼がある。いつまでですか。と祈るダビデは、神の内には「いつ」というご計画があることを確信しているのです。だから、彼の祈りは主への賛美で終わるのです。苦難の中にあって、このように祈れることが、どれほどの支えとなることでしょうか。もしも私たちが主が再び来られるということに確信を持てないとするならば、私たちは人生の苦難にあって、祈る言葉を失ってしまうに違いありません。
私たちは2000年の主の沈黙を思います。なぜ主は来てくださらないのか。なぜ主は約束を実現されないのか。いったいいつまで待っていなければならないのか。そう思って、疑って、やがて、祈る言葉を失ってしまいます。けれど、それは実は根本が間違っているのです。私たちは神の内にある「いつ」というご計画を見なければなりません。
ルカ18:1-8で、イエス様は不正な裁判官のたとえ話されています。私たちは神の沈黙に、神が私たちを見放したと思います。神は全世界のことで忙しくて、私のちっぽけな人生など気にも留めていないのだと思ったりします。その沈黙に込められた神の御心に思いを馳せることなどいたしません。けれど、イエス様は言われます。神がその叫びを放っておかれるはずがないとです。「人の子が来るとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」実は、そのさばきを待っておられるのは神の憐れみに他ならないんだとおっしゃるのです。
私たちは2000年も待っているんだと言うでしょう。なぜ神は2000年も放って置かれるのかと文句を言うでしょう。けれど、それは違います。待っておられるのは神さまなのです。いつまでですか。と私たちは思います。けれどその問いは、むしろ神さまのものです。「なぜ、この民エルサレムは、背信者となり、いつまでも背信を続けているのか。彼らは偽りを握りしめ、帰って来ることを拒む。」(エレミヤ8:5)、「わたしは彼らを刈り入れたい。──【主】のことば──しかし、ぶどうの木には、ぶどうがなく、いちじくの木には、いちじくがなく、葉はしおれている。わたしはそれらをそのままにしておく。』」(エレミヤ8:13)
私たちは主の沈黙を履き違えてはいけません。主は沈黙されていますが、関心を寄せておられないのではない。むしろ、私たちの帰りを今か今かと待っていてくださるのです。放蕩息子の父親の思いであります。聖書を見ると、よくもまぁ神はイスラエルをご自身の民として選ばれたことかと関心をいたします。それほど、イスラエルの不信仰は目に余ります。けれど、私たちも同じです。一人として神の前に己を誇れるものなどおりません。そんな私たちが今、主の宮に集い、主を賛美しているのは、ひとえに、神の憐れみであり、神の裁きが今に至るまで待たれているからに他なりません。いつまでですか。この問いに応えるべきは神ではありません。実は私たちです。私たちは今こそ主の前に立ち返るのです。

ヨブ32 「前を向いて歩こう」
32章から37章まではエリフの論述です。突然湧いて出たようなエリフですが、ヨブと3人の友人とのやり取りを見知っていることから、かなり初めから3人と共にいたようです。3人の友人の説得が失敗に終わり、やり取りが終わったのを機に、彼はヨブに語りかけます。彼は若さゆえの正義感に燃え、湧き出る怒りを押さえ切れません。しかし、その怒りはヨブにだけ向けられているのではなく、ヨブを説得しきれない3人の友人の不甲斐なさに対しても向けられるのです。エリフの3人の年長者に対する意見は大変辛辣です。「だが、年長者が知恵深いわけではない。老人が道理をわきまえているわけでもない。」(32:9)「今まで私はあなたがたの言うことに期待し、あなたがたの意見に耳を傾けていた。あなたがたがことばを探している間、私はあなたがたに細心の注意を払っていた。しかし、あなたがたのうちには、ヨブを叱責する者も、彼のことばに答える者もいなかった。」(32:11-12)
32章は彼がなぜこれまで黙っていたのか、そして、なぜ今口を開くのかを彼自身が語っています。それは若さゆえに控えていたのだと言うのです。けれど年長者である3人の説得はヨブには届かない。それどころか、打つ手がなく、黙りこくってしまった。見放してしまった。だからこれからは私が意見を述べると、こう宣言するのです。
エリフは何を語るのでしょう。それはヨブが神よりも自分自身のほうを義としたことの過ちです。このことはビルダデがすでに指摘したことです。しかしビルダデはそのことをヨブを責めるために語っておりました。基本的に、これまでの3人の友人は、なぜこの不幸が起きたのか。その理由を指摘し、それは総じて、ヨブの過去の罪にある。だから悔改めよという論調でした。けれど、エリフは不幸の原因のためにヨブを責めようとはいたしません。むしろエリフは続く33章で言っています。「聞け。私はあなたに答える。このことであなたは正しくない。神は人よりも偉大なのだから。なぜ、あなたは神と言い争うのか。自分のことばに、神がいちいち答えてくださらないからといって。神はある方法で語り、また、ほかの方法で語られるが、人はそれに気づかない。夢の中で、夜の幻の中で、深い眠りが人々を襲うとき、また寝床の上でまどろむとき、そのとき、神はその人たちの耳を開き、彼らを懲らしめて、それを封印される。神は、人間がその悪いわざを取り除くようにし、人から高ぶりを離れさせ、人のたましいが滅びの穴に入らず、そのいのちが投げ槍で滅びないようにされる。」(33:12-18)とです。神はあらゆる方法で語りかけている。というのです。それは時には懲らしめをもってであると。なぜなら、神は人のたましいが滅びの穴に入ることを放っておけないからだと。神は人のいのちが滅びることを黙ってはおられないのだと。だからその人が大事であるゆえに、あらゆることを用いて語られると言うのです。
面白いですね。3人の友人も、おそらくはヨブ自身すらも、不幸の原因はヨブにあると考えていました。だからヨブは必死に自分の義を主張しました。けれど、ヨブ記を見る時、不幸の原因はある一面ではサタンに由来し、そしてある一面では神に由来する。と明らかにしています。因果応報の考えでは、不幸の原因は過去の自分一択でした。けれどヨブ記は、自分以外にある不幸の原因を語ります。それはサタンの策略であり、同時に神の憐れみなのです。何かに失敗をすれば、その原因を突きつめて、未来に活かす。こういう考えに私たちは馴れていますので、今の不幸に対しても原因を突き詰めようといたします。けれど、ヨブ記は全く別のアプローチで語ります。それはもう神のみこころの領域だということです。それは神とサタンとの取り決めの中での話なのだとです。つまり、原因探しをしても仕方がない。と言うのです。無責任に聞こえるでしょうか。でも、私たちは原因探しのスパイラルに陥ると、どこまでも脱出の道が見えません。それはもう神に委ねる領域です。なぜということよりも、現状をどう受け止めるかに心を向けるべきなのです。ですから、エリフは神の偉大を語ります。「神の霊が私を造り、全能者の息が私にいのちを下さる。」(33:4)と言います。「神はある方法で語り、また、ほかの方法で語られるが、人はそれに気づかない。」(33:14)と言います。私には計り知れない神の全能を語り、そして、この偉大な御方は私たちのいのちが滅びることを良しとはしないと語るのです。私たちは試練にあって、この神の御心にこそ目を向けるべきなのです。
