ルカ11:27-32 「この時代のしるし」
「イエスがこれらのことを話しておられると」とあります。これらのことというのは、悪霊追い出しをされておられたイエス様とパリサイ人とのやりとりのことです。サタンの力によって悪霊を追い出していると言いがかりをつけるパリサイ人たちに向かって、イエス様は言われました。「わたしが神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。」悪霊を追い出すことがイエス様の最終的な目的じゃないのです。目の前の奇跡は神の国の到来を知らせるしるしなのです。このイエス様とパリサイ人のやり取り。そして、目の前で起こる奇跡の数々。これらを目の当たりにした一人の女性が、今、群衆の中から声を上げます。「あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は幸いです。」彼女はイエス様の驚くべき御業に感嘆したのです。
さて、これに対するイエス様のお答えを見る前に、先に29節以下の箇所を見ておくのが良いかと思います。「この時代は悪い時代です。しるしを求めますが、しるしは与えられません。ただし、ヨナのしるしは別です。ヨナがニネベの人々のために、しるしとなったように、人の子がこの時代のために、しるしとなるからです。」(11:29-30)悪い時代とあります。共同訳聖書では「よこしま」と訳されています。よこしまというのは、うっかりとか、意図せずということではなくて、意図的に正しい道から逸れることを言います。つまりこの時代は、意図的に道を逸れて、やりたい放題だと言うのです。そんな時代にしるしを求めても与えられません。けれど、ヨナのしるしは別です。
31-32節にこうあります。「南の女王が、さばきのときに、この時代の人々とともに立って、この時代の人々を罪ありとします。彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果てから来たからです。しかし見なさい。ここにソロモンにまさるものがあります。ニネベの人々が、さばきのときに、この時代の人々とともに立って、この時代の人々を罪ありとします。ニネベの人々はヨナの説教で悔い改めたからです。しかし見なさい。ここにヨナにまさるものがあります。」南の女王とはシェバの女王のことです。ソロモン王が神殿を建設し、イスラエルが最も繁栄した時代、ソロモンの知恵の名声は諸国にまでとどろき、シェバの女王はこのソロモンが噂通りの人物か、親交を結ぶに値する人物かを見定めにやってまいりました。そして、ソロモンと言葉を交わし、国の様子をつぶさに見て言います。「私が国であなたの事績とあなたの知恵について聞き及んでいたことは、本当でした。」(Ⅰ列王記10:6)このシェバの女王がこの時代の人々を罪ありとすると言われます。ニネベの人々はヨナの説教で悔い改め滅びを免れたあの人々です。しかし説教と言いましても、ヨナにニネベの人々を思いやる気持ちなどありません。ヨナは敵国アッシリアを憎んでいます。滅びてほしいとまで思っている。けれど、主が命じられるので渋々語ったのです。「あと四十日すると、ニネベは滅びる。」(ヨナ3:4)ニネベの人々はこの敵であるヨナの、熱心とは程遠い説教を聞いて即座に悔い改めたのです。このニネベの人々がこの時代の人々を罪ありとすると言われます。
なぜならこの時代の人々には、ソロモンの知恵にまさるしるしがあるからです。ヨナの説教にまさるしるしがあるからです。にも関わらず、彼らは聞こうとしない。悔い改めることをしない。だから、罪ありとされるのです。イエス様は言いました。「幸いなのは、むしろ神のことばを聞いてそれを守る人たちです。」悪霊が追い出されたり、病が癒やされたり、目に見える奇跡を見て、イエス様の母をうらやみます。けれど、違います。福音こそが今の時代に与えられる唯一のしるしなのです。
派手なことをすれば人々は教会に目を向けるかも知れません。悪霊が追い出され、病が癒やされる。それはいたって聖書的です。けれど、それは手段であって結果ではありません。ある方は確かに癒やしを経験されます。そして、神さまの恵みだと感謝します。それはその通りだと思います。癒やしを手段として信仰に至る。そういうことはあり得ます。けれど、信仰を持っているから癒やされる。と結論づけますと、話は違ってきます。癒やされないケースもあるからです。目に見えるところのしるしを求めて信仰を得るなら、目に見えるしるしが無ければ信仰を失うということになります。人は老い、人は死んでいくという私たちの現実を前にすれば、いっときの目に見えるしるしは決して私たちを救うものとはなりません。主は言われます。「幸いなのは、むしろ神のことばを聞いてそれを守る人たちです。」私たちには永遠の神のことばが与えられています。ソロモンの知恵にも、ヨナの説教に優る主のことばが語られます。私たちの信仰はここにこそ建つべきです。

ルカ11:14-26 「神の霊に満たされて」
私が神学生の頃、夏休みの一ヶ月間、インターンでとある教会で奉仕をしたときのことです。そこで悪霊追い出しの集会に参加したことがあります。ある日の夕方のこと、別の教会と合同で開かれる集会で私はギターで奏楽の奉仕を頼まれました。立ち上がって30~40分ほどぶっ通しで賛美をして、皆さんすごいエネルギーだなぁと感心しておりますと、何人かの牧師が前に進み出て「イエス・キリストの名によって命じる。悪霊よ。出ていけ。」そう言って、参加している方々を順々に床に倒していくのです。最初、何をやっているのかわからなかったのですが、倒れた人の中には口から泡を吹いたり、奇声を発したりする人もいて、とても混沌とした状況になりました。そのうち、こっちに来て一緒に命じて。と誘われるんですが、いやいや、私にはそんなことはできません。ともかくギターを弾くことにしがみつくように、頑なにその場に留まり続けたことでした。3時間ほどで解散となって、悪霊を追い出された方々は皆、穏やかに帰っていかれました。衝撃の体験でした。
私にはそれが聖書の記すところの悪霊追い出しなのかどうかはわかりません。そこは土着の霊媒信仰の強い地域ですから、そういう手段が必要だったのかも知れません。私は別にそれを否定しようとは思いません。けれど、私には一つ疑問が残りました。実は、後日、この悪霊を追い出されたはずのお一人が、再び白目を剥いて、奇声を上げながら、それこそ悪魔に取り憑かれたのかと思える、どす黒い声で罵声を浴びせながら、教会に運び込まれて来たのです。そして教会の一室で再び牧師から悪霊追い出しがなされます。聞けば、定期的にそのようなことがあるのだそうです。そのことをどうこう言うつもりはありません。ただその様子を見た時に、じゃあ自分がこの先牧師になっていく上で、このような悪霊追い出しの業を教会の根幹とするかと考えた時、私はそれはないなと思ったわけです。
イエス様は悪霊を追い出しておられました。群衆の中のある者たちは、これを見て「悪霊どものかしらベルゼブルによって、悪霊どもを追い出しているのだ」と噂しました。しかし、イエス様はそれではサタンの国は仲違いをして立ち行くことができなくなると指摘いたします。そして、もし仮にあなたたちの言うとおりだとしたら、あなたたちの仲間がやっている悪霊追い出しも否定することになるのではないですか?そうしたらあなたたちも仲違いすることになりますよ。とです。「しかし、わたしが神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。」それはサタンのゆえではなくて、神の指による。これがイエス様のおっしゃるところです。神の指による悪霊の追い出しは聖書の証言するところです。
けれど、イエス様は続けて言います。「汚れた霊は人から出て行くと、水のない地をさまよって休み場を探します。でも見つからず、『出て来た自分の家に帰ろう』と言います。帰って見ると、家は掃除されてきちんと片付いています。そこで出かけて行って、自分よりも悪い、七つのほかの霊を連れて来て、入り込んでそこに住みつきます。そうなると、その人の最後の状態は、初めよりも悪くなるのです。」(11:24-26)インターンの教会で見た悪霊追い出しについての違和感がここにあります。悪霊は追い出しても、また帰ってくるんだと。しかも自分よりも悪い、七つのほかの霊を連れて来て、入り込んでそこに住み着くんだと。こう聖書には書かれているのです。
悪霊は追い出すだけではいけないのです。悪霊を追い出して、むしろその後こそが大事です。なぜなら悪霊は自分よりも悪い、七つのほかの霊を連れて戻って来るからです。ですから、大事なのは悪霊とは違う別の霊を住まわせるということです。そうです。聖霊です。聖霊が私たちの内に住み、私たちが神の宮である限り、私たちは悪霊を恐れる必要はないのです。悪霊は神の前にはただ平伏すしかできない存在であります。「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」(ローマ8:31)これが聖書の結論です。
ですから私たちは、悪霊を払うこと以上に、聖霊に心を開くことこそが大事です。それは聖なる言葉に耳を傾けるということでもあり、また聖なる御業に目を向けるということでもあります。みことばに聞き、主イエスの十字架と復活の恵みを覚え、祈りの内に主の御名を讃美する。私たちの日々のディボーショナルな歩みこそが、悪霊を寄せ付けない決め手となるのです。

ルカ11:5-13 「あきらめない祈り」
前回の主の祈りに続き、イエス様は祈りについて教えておられます。イエス様は一つのたとえ話をされました。ある人のところに友人が旅をしてやって来ましたので、歓迎しようと思った。けれども、歓迎するパンがない。そこで、その人は別の友人の家に行って、パンをくれないかと頼んだというのです。けれども、もう夜遅くになっていました。もう友人は戸締まりをして、子どもたちも寝静まっていたわけです。さすがに非常識な時間です。友人は言います。「面倒をかけないでほしい。もう戸を閉めてしまったし、子どもたちも私と一緒に床に入っている。起きて、何かをあげることはできない。」そりゃそうだと思います。けれどもイエス様は言うのです。「この人は、友だちだからというだけでは、起きて何かをあげることはしないでしょう。しかし、友だちのしつこさのゆえなら起き上がり、必要なものを何でもあげるでしょう。」つまり、この後この人はしつこく頼んで遂に友人からパンを分けてもらったと言うわけです。
さて、「しつこさのゆえなら起き上がり」とあります。皆さんはこれをどのように読まれることでしょうか。しつこくしつこく頼み続ければ、いつかは煩わしくなって、厄介払いをするために願いを聞いてくれる。こういう話でしょうか。私はそうは思いません。そもそも、この人はなぜ非常識にも夜中にパンをもらいに行ったのでしょうか。それがどれだけ迷惑であるかは、彼ももちろんわかっていたことでしょう。けれども彼は朝を待てなかった。それはなぜかと言いますと、友人にどうしてもパンを食べさせたかったからです。どうしても歓迎したかった。疲れた友人を空腹のまま放っては置けなかった。だからパンを貰いにやって来たのです。決して自分のためにでは無いんですね。ですから彼がしつこく願う。そのとき、彼はどれだけこの旅の友人が自分にとって大切な存在か。そして、この友人がどれほど疲れて空腹でいるかを訴えたことでした。
この彼の訴えには2つの大切なものがありました。それは旅の友を想うがゆえに諦めないしつこさ。そしてもう一つは頼んだ友への変わらない信頼です。一度断られているのです。そして、その理由はいたって正当なものです。この友人は「非常識なことを言ってくれるな。」と言っている。彼もそれは重々承知しているわけです。けれども引かなかった。絶対に自分の頼みを聞いてくれるはず。自分を見捨てないはず。この友に対して揺るがない信頼があるのです。だから彼は一度断られても、尚、その場を離れず立ち続けたのです。きっとこの扉を開けてくれるはず。きっと私の願いに応えてくれるはず、であります。
もちろんこの譬話は、私たちと神との関係についてを言っているわけです。「ですから、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。」これがイエス様の真に言いたいことであります。言い換えるなら、「もっと信頼しなさい。」ということでありましょう。「ですから、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っています。それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。」だから、信頼して祈って良いんだと。こう言うのです。
・・・そして、イエス様にこのように言わせるほどに、あなたたちは信頼していないんじゃないですかという話でもあるわけです。私たちはどれほど信頼して祈っていることでしょうか。祈りながら、どこかでこんな祈り聞かれるはずがないと思ってはいないでしょうか。いや、祈ることすら無いのに、結果だけを要求してはいないでしょうか。思春期の男の子のように、何も言わないのにわかって欲しい。そういう態度でいるんじゃないでしょうか。もちろん、神さまは私たちがそれを口に出さなければ聞かれない方ではありません。でも、求めなければ、であります。探さなければ、叩かなければ、であります。勝手に諦めて、勝手に終わらしてはいけません。父は放蕩息子の帰りを待っているのです。なのに、どうせ自分なんて見捨てられたんだ。と見限るのは勝手ですが愚かです。父は求めるものを与える用意をしているのです。いえ、求める以上を用意してくださっています。私たちの本当に必要とするところ。私たちの空虚を満たし、私たちの道標となってくださる聖霊を用意してくださっています。私たちは父のもとに帰るべきです。天の父に素直に求めるべきなのです。

Ⅰテモテ6:1-10 「満ち足りる心」
5章から具体的な牧会上の注意が幾つもなされています。教会員に接するときの注意事項。やもめについての注意事項。長老についての注意事項。そして今日の箇所では、奴隷について。違ったことを教える人について。金銭についての注意事項が記され後半に続いています。
奴隷と聞くと、何か特別に野蛮で非人道的なイメージに聞こえますが、現代的に言えば雇用主と従業人の関係に近いものがありました。奴隷たちは賃金をもらって主人に労働力を提供し、主人は労働力を得る代わりに奴隷たちを養います。パウロは「奴隷としてくびきの下にある人はみな、自分の主人をあらゆる面で尊敬に値する人と思わなければなりません。」と言いますが、現代風に言えば、労働者は雇い主を軽く見ることをせずに尊敬して仕えなさいと言うことです。企業の論理は時に信仰者の論理を踏みにじります。清濁併せ呑むと言いますが「仕事は綺麗事だけではできない。」というのは私が社会人時代に何度も耳にした言葉です。そして、若い私にはそのことを受け入れるのが大変心苦しく悩んだことでした。今だとわかるのです。企業はボランティアではなくて収益を得なければなりません。なぜなら従業員を養わなければならないわけです。だから企業は利益を追求する。それは何も間違ったことではありません。けれど若い人は、もっと別の論理で働こうとします。利益よりも情を優先する。そして私の場合さらに信仰という正義が加わるわけで、そうすると何か仕事が汚らわしいもの、間違ったもののように思えてくるのです。けれど、パウロは主人を尊敬しなさいと言います。まず与えられたところを感謝し従うのです。文句を言って仕事を放棄することは、何の証にもなりません。「やっぱりクリスチャンなんて」と言われるのがオチです。正しいことを貫くためには、貫けるだけの信頼を得ていなければなりません。仕事で一目置かれる。誠実さで一目置かれる。私が信頼されなければ、誰も私の中にキリストを見ることはありません。
さて話は変わって、違ったことを教える人についてです。「高慢になっていて、何一つ理解しておらず、議論やことばの争いをする病気にかかっているのです。」ともあります。違ったことを教えるというのが、相手にとって新しい発見に繋がる建設的な議論であれば良いのですが、問題は議論やことばの争いを目的とする人がいることです。今風に言うと言葉でマウントを取りたい人と言うんでしょうか。相手を打ち負かすことを目的として議論をふっかける人のことです。どちらが言い負かすか。どちらの主張が正しいか。こういう議論は大変不毛です。議論すべき本質を見失っています。そこには争いが絶えません。
パウロは「満ち足りる心を伴う敬虔こそが、大きな利益を得る道です。」と言っています。敬虔とは「信心」とも訳されている言葉です。つまり信じる心は満ち足りる心を伴うということです。そして、この満ち足りるということが大きな利益に繋がるのです。どれだけ利益を上げましても、満ち足りることがなければ、人は乾いたままです。足りないものばかりを見る人は、決して満足することはできません。それは、置かれた環境に対しても、人への期待に対しても、お金に対してもです。思い通りにいかない環境を他人のせいにしていても決して満足はできません。どれだけ相手を打ち負かして自分の優位を誇っても、それで心を満たすことはできません。どれだけ金銭を手にしたとしても同じです。私たちの欲望は常に足りないものを探します。けれど、あるもので足りることこそが幸いなのです。
足りないのは他と比べるからでしょう。けれど、本当に必要なものは満たされています。コップの中の水が半分になった時、まだ半分残っている。と見るか、もう半分しかない。と見るかで、見える世界は全く違ってきます。足りることを知らなければ、人は決して満足することはできません。主は私たちの必要を満たしてくださいます。それは他人と比べて多くを与えくれるということではありません。誰とも比べることなく、私の必要を過不足なく与えてくださるということです。私たちは今日も生かされています。主にあって赦されています。衣食が与えられ、出会いが用意されています。当たり前の日常の中にある恵みに目を留めるものでありましょう。

ルカ11:1-4 「主の教えられた祈り」
私たちの世代のヒーローと言えばメジャーリーガーで活躍したイチロー選手ですが、彼は現役時代、必ず同じルーティンで打席に立ち、また同じルーティンの練習をオフシーズンも含めて365日毎日欠かすことなく続けていたそうです。同じ型を繰り返すことで、日によってばらつくことのないよう、コンディションを整えていたのです。
実はあらゆる分野の達人が、この同じことを繰り返す。基本を忠実に続ける。ということに徹しているわけです。基礎がなければ応用もありえません。そして型というのは、まさにこの基礎を固めるための訓練であるわけです。
今日の箇所は、弟子たちがイエス様に祈り方を教えて下さいと尋ねた折、イエス様直々に「祈るときには、こう祈りなさい。」と教えてくださった場面です。私はこれは祈りにおける型だと思うのです。つまり、ここには祈りの基礎が詰まっているということです。
主の祈りは大きく分けると2つの部分から成り立っています。神の御心を願う祈りと私たちの日毎の必要を願う祈りです。一つ一つ詳しく見ることは今回は省きます。祈りの型として覚えておきたいのは、主の祈りには2つの部分があり、この順序で祈ることが大事だということです。と言うのも、私たちの祈りはともすると日毎の祈りに終始してしまうことが多いからです。「あれをください。これをください。赦してください。この問題を取り去ってください。」イエス様はそのような祈りをもちろん否定いたしません。けれど、それに先だっての祈りがあると言います。それが「父よ。御名が聖なるものとされますように。御国が来ますように。」という祈りです。
私たちの祈りはまずこの神を神として認め、へりくだるということから始まるのです。この後、祈りは私たちの日毎の祈りへと移ってまいります。日毎の糧を。日毎の赦しを。日毎の平安を。それは非常に差し迫った祈りです。切羽詰まった祈り。私たちが祈るのは、そこにどうしようもない現実があるからです。しかし、それでも私たちはまず神の御名が崇められるようにと祈ることが大事です。
私たちは神に祈りますが、その祈りが神を脅迫するものであってはいけません。私たちの願いを実現させるために、神がおられるのではありません。私たちこそ神によって造られた者です。造られた者として、正しく神を讃え、神に平伏す。私たちの祈りの初めは、この正しい関係を認めてへりくだることです。
だからこそ私たちは続けて祈ることができます。日毎の糧を祈ります。そこに神が私の必要を満たして下さるという確信があるからです。罪を赦してくださいと祈ります。その御方は罪を赦す権威があると信頼しているからです。試みに合わせないでくださいと祈ります。この御方は試練にあって必ず私を守って下さると信じているからです。大事なのは祈りの量ではありません。祈る先におられるの神への信頼です。全知全能の神、生ける神が私たちの祈りを聞いて私たちの最善に導いて下さる。この確信が、私たちをさらなる祈りへと導いてくれるのです。
さて。これは祈りの型であると言いました。型と理解することの利点は幾つかあります。一つはこの型によって祈りに馴染み、祈りを身に付けることができます。最初のうちはどう祈って良いのかわからず祈れないことがあります。けれど、イエス様はそれで良いと。この祈りを真似て祈れば良いと言われるのです。逆に、祈りに馴染みが深い者は自らのフォームが崩れていないかをこの型によって知ることができます。また型ですから、私たちはこれを共に祈ることができます。そして型ですから、この祈りは私たちの気分に左右されずに祈ることができるのです。どれだけ信仰生活を重ねましても、どれだけ祈りに馴染みを持っても、私たちは時に祈る言葉を失うことがあります。色んな心患う出来事が私たちを覆って、もう祈れなくなることがあります。けれど、そんなときでも、私たちはこの主の祈りだけは祈ることはできます。なぜなら型があるからです。
私たちはいつだって祈れます。型どおりの祈りに、熱心さも、美しい言葉遣いもありません。私たちは勝手にハードルを上げて、祈りを難しくしてしまいます。けれど、真似れば良いのです。型を真似ることは、師を真似ることです。主の祈りは、足りない祈りではありません。退屈な祈りでもありません。過不足の無い、整えられた祈りです。主が私たちに祈るようにと命じられた祈りです。

ピリピ4:6-7 「まず祈る。絶えず祈る。」
試練にあって嘆くことは簡単です。困難な状況を誰かのせいにして、時代を呪い、世の中を呪い、特定の誰かを呪うことは、みんなやっています。けれど、その同じ状況で、ある人々は感謝するのです。大変なのは変わりないのにです。困難がない人などいないのにです。けれど、ある人々はその時呪いの声をあげ、ある人々は讃美の声をあげるのです。何がそれらを分けるのか。それが神への信頼であります。神さまがおられるから大丈夫。そのように信頼できるからこその感謝です。そして、見えない神にそのような信頼を置くことができるとしたら、その人はどんな状況にあっても決して慌てることはありません。私たちはどうでしょうか。困難にあっても尚感謝することができるなら、こんなに幸いなことはありません。
荒唐無稽な話に聞こえるでしょうか。けれどそんなことはありません。友人から勧められた食事がことごとく美味しい。もしもそういう経験を積み重ねていたとしたら、私たちはもうその友人が勧めるものならどんなものでも美味しい。たとえどれだけ美味しくなさそうでも、他の人が避けるものでも、この友人を信頼していただくことができるでしょう。神を信頼するということも実は同じです。神がいかに私たちに恵み深い方であるかを知っていれば、自ずと信頼するようになるのです。大事なのは恵みの体験の積み重ね。これが神への信頼を深めるのです。
では具体的には、どうすれば良いのか。そのカギとなるのが「祈り」です。日々繰り返される信仰生活の中で、一つ一つ恵みを積み重ねるには、目の前の現象を恵みと受け止められるかどうかにかかっています。そのために「祈り」が重要なのです。信仰者と言っても、そこには2通りの人がいます。恵みに疎い人と敏い人です。同じことを体験しましても、これをラッキーと言って見過ごしてしまう人と、これは神様からの恵みと感謝して受け止める人がおります。私たちがもしこの後者の人になることができるならば、私たちの日々の生活は神への信頼を積み重ねる日々となりましょう。
学生時代に初めてのバイト代で買ったデジカメを無くしたことがあります。あちらこちら探して、ようやくベンチに置き忘れていたデジカメを見つけた時には、本当に安堵したことでした。ところが、この話を後で友人にすると、神さまのおかげだね。と言うのです。正直に言いますと、私はこのときちょっとむっとしたのです。何でもかんでも神様のおかげと言って片付けてしまうのはクリスチャンの悪いところではないかと、そう思ったのです。カメラが見つかったのは私が必死になって探した結果です。そのために私は午後の数時間を潰したわけです。何かその頑張りを無視して神様ばかりちやほやするのは何か違うんじゃないか。
しかし、そうではないのです。実はその友人は私がカメラをなくしたと聞いて、まっ先に祈ってくれていたのです。そして一緒に探してくれました。だから彼はこれが祈りの結果であるとして受け止めることができました。だから彼は神様のおかげだねと言ったのです。私はと言いますと、目の前の出来事に動揺して祈る余裕すらありませんでした。とにかく一刻も早く探さなければ、誰かに取られてしまうかもしれない。そんな思いでいっぱいでした。
つまりこれが恵みに疎い人と敏い人の違いです。
祈らずに起きたことを、私たちは偶然か、もしくは自分の手柄と理解します。しかし祈って起きることは神様からの答えです。祈ることを通して、私たちは目の前の出来事を神様の返答として数えることができます。神様を体験することができます。そして、こういう体験を繰り返していきますと、たとえ願ったことが適わないときにも、それが神のみこころと受け止めることができるのです。
自分で何とかしようと思うその時、そこに神の働きがあるということを意識の外に追い出してしまいます。しかしそれはあまりにも勿体ないことではないでしょうか。起こった事柄を感謝と受け止められないからです。神の恵みと知らなければそれは感謝にはつながりません。本来、私たちは全ての事柄を通して神を体験できるのです。まず祈りを持つ。この習慣を築いてまいりましょう。
