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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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220227 ルカ11:45-54 「預言者を殺す者たち」

ルカ11:45-54 「預言者を殺す者たち」

 イエス様がパリサイ人をひとくくりにして「愚かな者たち。」と言い「わざわいだ。」と言ったのを聞きまして、それは私たちまで侮辱しているんですか?と、こう口を挟んだ律法学者であります。するとイエス様は言います。「おまえたちもわざわいだ。律法の専門家たち。人々には負いきれない荷物を負わせるが、自分は、その荷物に指一本触れようとはしない。」ここで言う「負いきれない荷物」というのは律法の解釈のことです。聖書の最初から最後までを貫く一本の柱と言いましょうか、その目的は罪人の救いであります。聖書が厳しい律法を語る時も、罪人の滅びを語る時も、その背後には御下に立ち返ることを願われる神の愛があります。けれど律法学者たちはその目的を忘れて、根拠のない重荷を負わせていたのです。たとえば十戒の第4戒は「安息日を覚えてこれを聖なる日とせよ。」です。これは神への礼拝を勧める大切な戒めですが、ここから労働の禁止条例、更には、安息日に歩いて良い歩数だとか、書いても良い文字数だとか、書かれたことを越えた決まりを沢山設けて指導したわけです。けれどできもしない戒めは、結局人々を裁くことにしか使われないのです。同じ罪の指摘でも旧約の預言者たちのそれは違います。彼らは厳しい言葉で罪を責めますが、そこには神のもとに立ち返らせようとする熱心があります。けれど律法学者にはそれはありません。それでも戒めを増やし続けるのは、自分があくまでも裁く側でいたいからです。人々を裁くことで自らの正しさに気を良くしていたいのです。ここに彼ら律法学者たちのわざわいがあります。
 自らを誇るためには2通りの方法があります。一つは自らを研鑽して、吟味して、研ぎ澄ますということです。けれどこれは大変です。神の前に誇れるまでとなれば、もう無理な話です。もう一つは自分よりも明らかに罪深い者を身近に置くことです。そしてその人たちを指さして、私はあの人ほどに罪人ではありません。と自らを誇るのです。あの人は神に相応しくない。そう言って誰かを責めるとき、私たちは自分をとても偉く誇らしく思えるのです。姦淫の現場で捕らえられた女性を皆で糾弾するとき、彼らには自分が神の代理人にでもなったような誇らしさがあったのです。だから彼らにはイエス様が邪魔で仕方なかった。イエス様の隣に立つと、自らの卑しさや醜さが浮き彫りになるからです。彼らはイエス様の正しさを妬ましく思ったのです。
 イエス様は言います。「わざわいだ。おまえたちは預言者たちの墓を建てているが、彼らを殺したのは、おまえたちの先祖だ。こうして、おまえたちは先祖がしたことの証人となり、同意しているのだ。彼らが預言者たちを殺し、おまえたちが墓を建てているのだから。」彼らは預言者たちの墓を建てて、如何にも自分が預言者を敬っているように見せようとします。けれどその内実は預言者を殺した先祖たちと何ら変わりません。なぜ預言者は殺されたのでしょうか。預言者は人々の救いのために、罪を告げ知らせ、悔い改めを求めただけではなかったでしょうか。預言者の忠告は彼らを憐れんだゆえではなかったでしょうか。
 アベルは兄の嫉妬で殺されました。祭司ゼカリヤはその滅びの預言により、王の不興を買いました。王の権威を超えて糾弾する預言者の正論に、王は苛立ったのです。妬みが目の前の人を殺す十分な動機となったのです。そして、この本質が律法学者の中にもあるし、私たちの内にもあるのです。
 預言者を殺したのは、ギリシャ人でも、フェニキヤ人でも、ましてやローマ人でもありませんでした。同朋のユダヤ人でした。近しい存在は妬みの対象となるのです。あんなやついなければいい。と心で殺す対象となるのです。私たちにも妬みがあるでしょう。私たちは正しさを誇るほどに妬みに囚われます。精一杯やるほどに報われない不満を覚えます。私たちもまたカインの末裔なのです。私たちは自らの弱さと向き合わなければなりません。自らの醜さを認めなければなりません。私たちが自らの弱さの上に信仰を建てるとき、初めて私たちはキリストの犠牲が誰のためであったかを知れるのです。イエス様は言います。「『わたしは預言者たちや使徒たちを彼らに遣わすが、彼らは、そのうちのある者たちを殺し、ある者たちを迫害する。それは、世界の基が据えられたときから流されてきた、すべての預言者の血の責任を、この時代が問われるためである。」しかし驚くべきことは、このように言いながら、そのすべての責任を負われたのは他ならぬイエス様だったという事です。ですから私たちは傲らず、主の前にへりくだるところから始めましょう。

220220 ルカ11:37-44 「外側がきよくとも」

ルカ11:37-44 「外側がきよくとも」

 ここでいう食事の前のきよめの洗いとは、簡単に言えば水による手洗いですけれども、それは衛生的観点からの理由ではなくて、極めて儀式的なものです。当時のユダヤ人にとって食事をするということは、神から与えられた命の糧をいただくということであり、神の民の交わりに属するということでした。彼らは食材にも気を配り、聖いものか汚れたものかと区別していたほどです。たとえば、彼らにとっては豚は汚れた動物なので豚肉を食べるということは絶対にありません。それは神の民として汚れたものに触れないという厳格な掟でありました。それほど食事に気を配る彼らでしたので、食べる者たちも、もちろんそれ相応の気構えで食べなければならない。この世のあらゆる汚れに触れたその手のままで食事をするということは避けなければならない。ですから、その象徴的な儀式として、この食前のきよめの洗いというものが推奨されていたわけです。
 ルカの福音書ではこのパリサイ人はイエス様がきよめの洗いをしないことに「驚いた」と、控えめな表現をしていますが、マタイの福音書でははっきりと非難しています。それは彼らの熱心さのゆえでした。パリサイ人は本当に熱心な信仰者たちでした。彼らは食前のきよめの洗いを徹底します。あるパリサイ人の記録では、きよめのための水が確保できないために食事自体を断念したのだそうです。また彼らは十分の一を献げます。それは単に献金だけでなく、はっか、うん香、あらゆる野菜にまで至ります。ところがイエス様はそんな彼に「おまえたちは・・・正義と神への愛をおろそかにしている。」とおっしゃられる。なぜでしょうか。それは彼らの奉仕や献げ物の動機が神様に向けられたものでは無かったからです。
 イエス様は言います。「おまえたちは会堂の上席や、広場であいさつされることが好きだ。」つまり目に見えるところの評価を求めていると言うのです。外側ばかりを気にしていると言うのです。彼らは自分の評価のために振る舞うのです。もしも、この場が彼一人で、きよめの洗いの水が充分になかったとしたらどうでしょう。果たして彼はその食事を断念したでしょうか。誰かに見られているときは、いつも精一杯の厳格さで振る舞っている彼。けれど、もしも彼の振る舞いの動機が人の評価にあるのなら、誰もいないそのところで、尚も厳格でいられるかは疑問です。そして、イエス様がこのように言われるのなら、きっと彼は自分には甘く、他人には厳しい。そういう正義を振る舞っていたのでしょう。
 イエス様はそんなパリサイ人の信仰の有り様に疑問を持たれた。見えるところばかりをきよめようとする彼らの信仰の姿勢。そして見えるところさえ、きよめていれば、それで良いと思っている彼らの考え方。イエス様はそれらに大きな疑問符を打たれます。いったいあなたたちは何のために、誰のためにやっているのか。と、問うているのです。
 最初から彼らが間違っていたとは思いません。最初は精一杯の奉仕だったでしょう。神様のために全力で献げる彼らだったでしょう。けれど、その見えるところの献げ物の評価は、見える人たちから寄せられるのです。人々の評価の声は、自分の振る舞いへの評価です。人々が喜べば、自分の振る舞いが役に立った証しですし、人々が嘆けば、自分の振る舞いが間違っていたことの証しです。神様のために献げることが、人々のためにも役立っていく。これはとてもやりがいのあることです。けれど、そこに誘惑がある。やがて、その目的の順序が入れ違っていきました。人々の評価こそが彼らの行動の原理となっていったのです。
 だから人の評価なんてどうでもいい。という話ではありません。そこだけを追いかけると、本当に大事なものを見失うという話です。見てくればかり気にしても、中身が伴わないと意味がないという話です。見えるところの評価は大事ですが、逆に言うと見えなければ何をしてても良いのか、という話でもあります。私たちは他人の目の塵を追いかけている場合では無いのです。人の本質は見えないところに出ます。そして、その見えないところを見ておられるお方がいるのです。人の評価と主の評価は必ずしも一致しません。他人がどうするかは関係がありません。今日主の前に恥じることのない私であるかが問われているのです。

220213 ルカ11:33-36 「偏見という色眼鏡」

ルカ11:33-36 「偏見という色眼鏡」

 イエス様は明かりをどこに置くかという例えを語られます。せっかくの明かりを誰も穴蔵の中や升の下には置きません。部屋全体を照らすように燭台の上に置きます。せっかくの明かりの意味が無いからです。同様に、私たちの体は世の光となるものです。周囲を照らし、暗闇を追い払って、人々を導くものです。私たちも光として世を照らすことで初めて、救われた者の意味を成すのです。なのに、あなたたちはその体を升の下に置いてないですか、と問われるのです。
 なぜ、私たちは世の光として出ていけないのでしょう。それは光であるはずの私たちに闇があるからです。だから全然、自分が持っているものを誇れないのです。赦されて尚、罪が私たちに影響しているのです。私たちは出ていくことを恐れます。闇の中に留まろうとします。なぜなら、闇の中に留まっていれば、私たちは自分自身の闇を見なくて済むからです。
 ローマ13:3に「支配者を恐ろしいと思うのは、良い行いをするときではなく、悪を行うときです。権威を恐ろしいと思いたくなければ、善を行いなさい。そうすれば、権威から称賛されます。」とあります。自らの振る舞いに恥じるところが無ければ、支配者を恐れる必要はありません。むしろ、その者は称賛されます。支配者を恐ろしいと思うのは、悪を行っている後ろめたさが原因なのです。私たちは自らの内に抱える闇のゆえに、世の光として用いられることに自信が持てないのです。自らの持つ明かりを信じきれないのです。だから世の光を穴蔵に隠そうとする。楽だからです。闇は闇に寛容です。罪の世に混ざれば自分を責めなくて済みます。キリスト者であることを隠せば、要らぬ責任を負わなくて済みます。けれどどうでしょう。穴蔵の中、升の下に置けば、そもそもの明かりの意味は失われます。私たちは救われた目的を手放すことになるのです。
 さて、「目が悪いと、からだも暗くなります。」とあります。それはからだの問題でもありますが、同時に目の問題でもあるのです。いやむしろ、目の問題がからだの問題の原因です。
 古い家屋の写真を撮ると柱に黒いシミのようなものが写り込んで、やれ心霊写真だと大騒ぎする人がいます。けれど多くの場合、それはカメラのレンズについている汚れだったりするわけです。世界が歪んでいるのではなくて、本当はレンズが汚れているだけ。実は同じことが私たちの日常でも頻繁に起こっているのではないでしょうか。
 私たちは色眼鏡を着けて、この世界を見てはいないでしょうか。目の前にいる人をフィルター越しに見てはいないでしょうか。フィルターとは限定するものです。色眼鏡は一定の色素を透過させないことで目を守ります。掃除機のフィルターは一定の質量のものを通さないで溜め込みます。同じように、誰かに対して一度敵意のフィルターを作ってしまいますと、もう次からは敵意以外のものは通さなくなるのです。あの人苦手だなと思います。すると、その人の言うこと成すこと、全てに裏があるんじゃないかと疑えてきます。囁く声の全てが自分への悪口に聞こえます。やがて、もうその人が何を言おうと信じられなくなってしまいます。逆に大好きな人のことは、たとえ、どれだけ邪険に扱われても好意でしか受け取りません。
 何が言いたいかと言いますと、私たちは見たいようにしか見ないのです。都合良くしか聞かないのです。けれど、それが真実とは限らないのです。イエス様は「目が悪いと、からだも暗くなります。」とおっしゃいました。イエス様が人々を癒やします。多くの人々がそのことで生きる希望を取り戻します。喜びが溢れます。けれど、ある人達にはそれが悪霊の力と映るのです。別の何かを見ているのではありません。同じ場面、同じものを見ています。けれど受け止め方は千差万別。ある人達にはそれが神の奇跡と映り、ある人達には悪霊の力だと映る。それは、その人がかける偏見という色眼鏡によるのです。私たちが偏見や先入観で見ると、見えるものが変わってきます。そのものを正しく受け取れなくなります。今日神様がなさることに心が動かなくなります。
 まずは、その色眼鏡を外してみよ。という話です。それは簡単ではありません。それはある種、私たちの自己防衛だからです。どうせこうなんでしょ。と、前もって構えておくことで、私たちは期待が裏切られることに事前に備えることができます。色眼鏡とは過去に失敗した経験。裏切られた経験から来る私たちの知恵。けれど、その色眼鏡を外した時、私たちはもっと色鮮やかな世界を見ることができます。私たちが見たいものは、所詮、私たちの想像の域を超えません。けれど、主のなさることは私たちの想像を遥かに超えます。私たちが偏見という色眼鏡を外す時、確かに世界は変わるのです。

220206 申命記6:1-9 「教会の務め」

申命記6:1-9 「教会の務め」

 教会の使命の一つは教育であります。と言っても、算数を教える。国語を教える。という教育ではもちろんありません。人としてどのように生きていくか。どうすれば誇り高く、自信を持って生きていけるかということであります。どうやって自分を肯定するかと言い換えても構いません。これは学校教育ではなかなか教えてくれることではありません。
 学校で教えるそれは教会とは全く別ものです。いえ、学校だけに留まりません。それは社会の教えであり、人生の教えも同じです。つまりそれは相対的価値観によって自分が決まるという教えです。他人と比べて何かで勝っている者は、誇り高く自信を持って生きていける。けれど他人と比べて劣っている者は、その人の存在する価値が乏しいという教えです。本当に嫌になりますけれど、これがこの世界の価値基準なのです。私たちの生きている世界は競争の強いられる世界です。人より頭が良いとか、運動が出来るとか。誰かと比べて優れたところをもってその人の価値が評価される。これが私たちの置かれている世界です。けれどそれは本当なのでしょうか。では勉強が苦手な人。運動神経が無い人。歌が下手で特技も無い。取り立てて面白くもないし、人が振り返るようなかっこ良さもない。財力もない。そういう人には価値がないのでしょうか。実は世の価値観で言えばそうなのです。命の価値には順位がある。そういう結論になってしまいます。
 教会が持つ教育の使命、子どもたちに伝えるべきこととは、教理とか、信仰とか、もちろん色々ありますが、何よりもまずこの間違った価値観を正すということにあるのです。あなたの価値は他人と比べて測れるようなものじゃないよと。あなたが人よりできるから、あなたが大事なのではないよと。そのように語ることから始まるのです。
 冬季オリンピックが始まりました。早くも日本人選手の活躍が大々的に報道されています。あそこにいる人たちは他人との競争に勝ち抜いてあの場に立っています。それは評価されるべきことであり、称賛されるべきじゃないか。とおっしゃるでしょうか。それはそのとおりです。彼らの努力は評価されるべきです。彼らの生き方は称賛されるべきです。けれど、それは努力の価値ではあるけれど、命の価値ではありません。私は彼らをとても誇りに思いますが、あの人達だけが素晴らしいというわけではありません。競争に勝った人が価値ありと言うなら、老いを重ねるほどに価値を失うということでしょうか。誰かの役に立つから存在する意味があるんだと言うなら、泣くしかできない赤ん坊には価値がないということでしょうか。競技という一面、労働という一面ではそうかもしれませんが、それはほんの一面でしかありません。命の価値とはもっと根本的なところにあります。それは創造主なる神と被造物である私たちとの関係の中で見出すことが出来るものです。
 イザヤ43:4aには「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」とあります。神様の目には、私たちは宝物として映っていると言います。他の誰が何と言おうと、あなた自信があなたを愛せなくとも、わたしはあなたを愛していると言います。なぜでしょうか。イザヤ43:7に「わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った。」(新改訳第3版)とあります。それはこのお方が私たちをお造りになったお方だからだと言うのです。私たちに命を吹き込まれたお方だからです。つまり神様が私たちを愛される理由。私たちを評価される理由は、私たちにあるのではなくて、神様の内に一方的にあるんだとおっしゃるのです。
 私たちが私たち自身を愛せない理由は何でしょうか。誰かと比べて劣っているからでしょうか。理想通りにいられない現実があるからでしょうか。けれど、それは神が私たちを愛さない理由とはなりません。神は私を必要としている。神は私を大切でいてくださる。神のよって造られた事実がそれを物語っています。今、生かされてあるということに意味があります。この神様の愛は、何によっても打ち消されることはありません。
 申命記6章は子どもたちに信仰を継承しなさい。と教えています。いつでも、どこでも、何度でも。それほどまでに世の価値観が彼らを取り巻いているからです。勝ち負けで評価する世の声があります。役に立つ者だけがもてはやされ、役に立たない者は必要がないと切り捨てるこの世の声があります。それはもう浴びるように降り注いでいます。だからこそ、座っている時も、道を歩く時も、寝る時も起きる時も。世の声を上塗りするほどに、何度でも、どこででも、私たちは主の愛を語り続けなければならないのです。