ルカ11:45-54 「預言者を殺す者たち」
イエス様がパリサイ人をひとくくりにして「愚かな者たち。」と言い「わざわいだ。」と言ったのを聞きまして、それは私たちまで侮辱しているんですか?と、こう口を挟んだ律法学者であります。するとイエス様は言います。「おまえたちもわざわいだ。律法の専門家たち。人々には負いきれない荷物を負わせるが、自分は、その荷物に指一本触れようとはしない。」ここで言う「負いきれない荷物」というのは律法の解釈のことです。聖書の最初から最後までを貫く一本の柱と言いましょうか、その目的は罪人の救いであります。聖書が厳しい律法を語る時も、罪人の滅びを語る時も、その背後には御下に立ち返ることを願われる神の愛があります。けれど律法学者たちはその目的を忘れて、根拠のない重荷を負わせていたのです。たとえば十戒の第4戒は「安息日を覚えてこれを聖なる日とせよ。」です。これは神への礼拝を勧める大切な戒めですが、ここから労働の禁止条例、更には、安息日に歩いて良い歩数だとか、書いても良い文字数だとか、書かれたことを越えた決まりを沢山設けて指導したわけです。けれどできもしない戒めは、結局人々を裁くことにしか使われないのです。同じ罪の指摘でも旧約の預言者たちのそれは違います。彼らは厳しい言葉で罪を責めますが、そこには神のもとに立ち返らせようとする熱心があります。けれど律法学者にはそれはありません。それでも戒めを増やし続けるのは、自分があくまでも裁く側でいたいからです。人々を裁くことで自らの正しさに気を良くしていたいのです。ここに彼ら律法学者たちのわざわいがあります。
自らを誇るためには2通りの方法があります。一つは自らを研鑽して、吟味して、研ぎ澄ますということです。けれどこれは大変です。神の前に誇れるまでとなれば、もう無理な話です。もう一つは自分よりも明らかに罪深い者を身近に置くことです。そしてその人たちを指さして、私はあの人ほどに罪人ではありません。と自らを誇るのです。あの人は神に相応しくない。そう言って誰かを責めるとき、私たちは自分をとても偉く誇らしく思えるのです。姦淫の現場で捕らえられた女性を皆で糾弾するとき、彼らには自分が神の代理人にでもなったような誇らしさがあったのです。だから彼らにはイエス様が邪魔で仕方なかった。イエス様の隣に立つと、自らの卑しさや醜さが浮き彫りになるからです。彼らはイエス様の正しさを妬ましく思ったのです。
イエス様は言います。「わざわいだ。おまえたちは預言者たちの墓を建てているが、彼らを殺したのは、おまえたちの先祖だ。こうして、おまえたちは先祖がしたことの証人となり、同意しているのだ。彼らが預言者たちを殺し、おまえたちが墓を建てているのだから。」彼らは預言者たちの墓を建てて、如何にも自分が預言者を敬っているように見せようとします。けれどその内実は預言者を殺した先祖たちと何ら変わりません。なぜ預言者は殺されたのでしょうか。預言者は人々の救いのために、罪を告げ知らせ、悔い改めを求めただけではなかったでしょうか。預言者の忠告は彼らを憐れんだゆえではなかったでしょうか。
アベルは兄の嫉妬で殺されました。祭司ゼカリヤはその滅びの預言により、王の不興を買いました。王の権威を超えて糾弾する預言者の正論に、王は苛立ったのです。妬みが目の前の人を殺す十分な動機となったのです。そして、この本質が律法学者の中にもあるし、私たちの内にもあるのです。
預言者を殺したのは、ギリシャ人でも、フェニキヤ人でも、ましてやローマ人でもありませんでした。同朋のユダヤ人でした。近しい存在は妬みの対象となるのです。あんなやついなければいい。と心で殺す対象となるのです。私たちにも妬みがあるでしょう。私たちは正しさを誇るほどに妬みに囚われます。精一杯やるほどに報われない不満を覚えます。私たちもまたカインの末裔なのです。私たちは自らの弱さと向き合わなければなりません。自らの醜さを認めなければなりません。私たちが自らの弱さの上に信仰を建てるとき、初めて私たちはキリストの犠牲が誰のためであったかを知れるのです。イエス様は言います。「『わたしは預言者たちや使徒たちを彼らに遣わすが、彼らは、そのうちのある者たちを殺し、ある者たちを迫害する。それは、世界の基が据えられたときから流されてきた、すべての預言者の血の責任を、この時代が問われるためである。」しかし驚くべきことは、このように言いながら、そのすべての責任を負われたのは他ならぬイエス様だったという事です。ですから私たちは傲らず、主の前にへりくだるところから始めましょう。
イエス様がパリサイ人をひとくくりにして「愚かな者たち。」と言い「わざわいだ。」と言ったのを聞きまして、それは私たちまで侮辱しているんですか?と、こう口を挟んだ律法学者であります。するとイエス様は言います。「おまえたちもわざわいだ。律法の専門家たち。人々には負いきれない荷物を負わせるが、自分は、その荷物に指一本触れようとはしない。」ここで言う「負いきれない荷物」というのは律法の解釈のことです。聖書の最初から最後までを貫く一本の柱と言いましょうか、その目的は罪人の救いであります。聖書が厳しい律法を語る時も、罪人の滅びを語る時も、その背後には御下に立ち返ることを願われる神の愛があります。けれど律法学者たちはその目的を忘れて、根拠のない重荷を負わせていたのです。たとえば十戒の第4戒は「安息日を覚えてこれを聖なる日とせよ。」です。これは神への礼拝を勧める大切な戒めですが、ここから労働の禁止条例、更には、安息日に歩いて良い歩数だとか、書いても良い文字数だとか、書かれたことを越えた決まりを沢山設けて指導したわけです。けれどできもしない戒めは、結局人々を裁くことにしか使われないのです。同じ罪の指摘でも旧約の預言者たちのそれは違います。彼らは厳しい言葉で罪を責めますが、そこには神のもとに立ち返らせようとする熱心があります。けれど律法学者にはそれはありません。それでも戒めを増やし続けるのは、自分があくまでも裁く側でいたいからです。人々を裁くことで自らの正しさに気を良くしていたいのです。ここに彼ら律法学者たちのわざわいがあります。
自らを誇るためには2通りの方法があります。一つは自らを研鑽して、吟味して、研ぎ澄ますということです。けれどこれは大変です。神の前に誇れるまでとなれば、もう無理な話です。もう一つは自分よりも明らかに罪深い者を身近に置くことです。そしてその人たちを指さして、私はあの人ほどに罪人ではありません。と自らを誇るのです。あの人は神に相応しくない。そう言って誰かを責めるとき、私たちは自分をとても偉く誇らしく思えるのです。姦淫の現場で捕らえられた女性を皆で糾弾するとき、彼らには自分が神の代理人にでもなったような誇らしさがあったのです。だから彼らにはイエス様が邪魔で仕方なかった。イエス様の隣に立つと、自らの卑しさや醜さが浮き彫りになるからです。彼らはイエス様の正しさを妬ましく思ったのです。
イエス様は言います。「わざわいだ。おまえたちは預言者たちの墓を建てているが、彼らを殺したのは、おまえたちの先祖だ。こうして、おまえたちは先祖がしたことの証人となり、同意しているのだ。彼らが預言者たちを殺し、おまえたちが墓を建てているのだから。」彼らは預言者たちの墓を建てて、如何にも自分が預言者を敬っているように見せようとします。けれどその内実は預言者を殺した先祖たちと何ら変わりません。なぜ預言者は殺されたのでしょうか。預言者は人々の救いのために、罪を告げ知らせ、悔い改めを求めただけではなかったでしょうか。預言者の忠告は彼らを憐れんだゆえではなかったでしょうか。
アベルは兄の嫉妬で殺されました。祭司ゼカリヤはその滅びの預言により、王の不興を買いました。王の権威を超えて糾弾する預言者の正論に、王は苛立ったのです。妬みが目の前の人を殺す十分な動機となったのです。そして、この本質が律法学者の中にもあるし、私たちの内にもあるのです。
預言者を殺したのは、ギリシャ人でも、フェニキヤ人でも、ましてやローマ人でもありませんでした。同朋のユダヤ人でした。近しい存在は妬みの対象となるのです。あんなやついなければいい。と心で殺す対象となるのです。私たちにも妬みがあるでしょう。私たちは正しさを誇るほどに妬みに囚われます。精一杯やるほどに報われない不満を覚えます。私たちもまたカインの末裔なのです。私たちは自らの弱さと向き合わなければなりません。自らの醜さを認めなければなりません。私たちが自らの弱さの上に信仰を建てるとき、初めて私たちはキリストの犠牲が誰のためであったかを知れるのです。イエス様は言います。「『わたしは預言者たちや使徒たちを彼らに遣わすが、彼らは、そのうちのある者たちを殺し、ある者たちを迫害する。それは、世界の基が据えられたときから流されてきた、すべての預言者の血の責任を、この時代が問われるためである。」しかし驚くべきことは、このように言いながら、そのすべての責任を負われたのは他ならぬイエス様だったという事です。ですから私たちは傲らず、主の前にへりくだるところから始めましょう。