fc2ブログ
プロフィール

Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

最新記事
カテゴリ
月別アーカイブ
最新コメント
検索フォーム
リンク
QRコード
QR

220327 ルカ12:13-21 「果てのない欲」

ルカ12:13-21 「果てのない欲」

 このたとえ話に登場する金持ちの男は大変用意周到な、手堅い人生を送っていました。農業というのは大変手のかかる仕事です。病や害虫、天候にも左右され、決して計画通りにはいきません。それでも沢山の作物が収穫できたのは、単に豊作だったということだけでなく、彼の地道な努力があったからです。彼は努力家であり、倹約家です。そして計画したことを実行するだけの力があります。世の中ではこういう人をこそ人生の成功者と呼ぶのではないでしょうか。ところがイエス様はこの男のことを「愚か者」と呼ばれます。これはいったいどうしたことでしょうか。将来のための貯蓄は私たちもやっている賢明な人生設計ではないでしょうか。
 イエス様はここで彼の生き方を責めているわけではありません。努力家で倹約家で堅実な彼の生き方を愚かと呼んでいるのではありません。そうではなくて、彼が蓄えた財産によって心配が無くなると考えたことに対して愚かと呼んでいるのです。彼は2つの点で間違っていました。一つは、私たちはどれだけ蓄えようとも、それでは満たされないということ。そして、もう一つはどれだけ蓄えようと、いのちの保証はないということです。
 何かを満たすことで幸せを得ようとする人生は、いつも満たされない不満を抱えることになります。なぜなら満たそうとすることは、足りなさを数えることでもあるからです。もっともっと満たされたいは、まだまだ足りないと同義です。常に新しいスマホを持ち続ける人がいますね。正直に言って、その新しいスペックを使いこなす機会はほとんどないと思うのですが、それでも新しさを追い求めるのは、今あるものが古臭く感じて不満だからです。けれど新しいものは次々に出てきます。するとそのたびに現状に不満を感じます。欲を満たすことに際限はありません。
 今、彼はもう安心。もう大丈夫。と自分のたましいに言い聞かせようとしています。この先何年も遊んで暮らせるほどに蓄えた。だからもう何の心配もない。けれど、それは叶わぬ夢であります。「しかし、神は彼に言われた。『愚か者、おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』」どれだけ蓄えようと、どれだけ人生を謳歌しようと、それが私たちの人生を保障してくれるわけではありません。人は死の問題から決して逃れることはできないからです。
 このたとえ話は、もともと、群衆の一人がイエス様に調停を願ったことが発端となっています。群衆の一人が言います。「先生。遺産を私と分けるように、私の兄弟に言ってください。」これに対して、イエス様は「いったいだれが、わたしをあなたがたの裁判官や調停人に任命したのですか。」と言って調停を拒まれます。そして人々に向かって言うのです。「どんな貪欲にも気をつけ、警戒しなさい。人があり余るほど持っていても、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」ここで貪欲とあります。貪欲というのは、持たざる者が、生きるために欲するということではありません。すでに持っている者がさらに欲する。という意味です。この群衆の一人はもう十分に持っている人です。けれど、もっと欲しいと思ったのです。そうすることが自分の人生を保証してくれると考えたわけです。けれど実際はどれだけ蓄えようとも、今晩いのちが取られるかもしれません。
 イエス様はおっしゃいます。「自分のために蓄えても、神に対して富まない者はこのとおりです。」神によって富んでいる者はすでに満たされているのです。私たちは無いものを求めて、不十分だと言っています。けれど、本当に不十分なのでしょうか。私たちは神によって与えられているものの大きさを理解しているでしょうか。私たちのいのちを保証されるのは、いのちを創造されたお方ご自身の犠牲によるものです。私たちはそれを知って尚、まだ不十分と言うでしょうか。違います。この恵みを知って尚欲しがるのは貪欲です。私たちはすでに満たされています。

220320 ゼカリヤ9 「あなたの王が来られる」

ゼカリヤ9 「あなたの王が来られる」

 ゼカリヤ書の内容は大きく分けて2つに分かれており、1~8章の前半部分は当時の人々に直接関わりを持つ幻が語られ、9章からの後半部分では、終末の出来事についてが語られています。
 9章ではメシヤの来臨が語られますが、その前にまず諸外国の取り扱いについてが預言されます。ダマスコはアラムの首都。ツロは独立都市であり、アシュケロン、ガザ、エクロンなどはペリシテ人の重要都市。これらの諸外国が廃れる様子が預言されています。その一方で、9節からは、シオンとエルサレムの喜びが語られます。2つの陣営の対象的な様子が預言されるのです。それはメシヤの来臨によってエフライムとエルサレムに平和がもたらされるという預言。初代北イスラエルの王ヤロブアムがエフライム出身であったことから、北イスラエルのことをエフライムと呼び、南ユダは首都エルサレムの名で呼ばれます。つまりメシヤの恩恵は、滅びた北イスラエルにまでも適用されるということです。なぜなら、それはモーセとの契約に基づくことだからです。彼らの行いが認められたからでも、彼らの信仰が主の目にかなったのでもありません。神はご自身の言葉に対する誠実のゆえに契約を遂行されるのです。北イスラエルは彼らの罪ゆえに滅ぼされましたが、その散り散りとなった民は未だ主の憐れみの中に置かれているのです。もちろん、ユダである帰還民は神の約束の中に置かれています。モーセとの契約を決して忘れることなく遂行される神の姿に、現実の彼らの姿が対比されます。彼らは今、神の約束を忘れ、目の前の生活を守ることに追われているからです。
 クロス王の解放令に応じて、凡そ5万人もの民が、ユダの帰還を果たしました。ユダの民がバビロンに捕囚されていた期間は70年間であります。その地で生まれ、その地で結婚をし、家庭を持ち、財産を築く人たちも多くいたことでしょう。その地で家族を失い、葬った者も多くいたでしょう。ユダの地に帰るということはそれらの生活を全て、捨てることでもあります。亡国に帰り、崩れ去った神殿を再建するということは並大抵なことではありません。しかし、彼らは神殿の再建をするために、このプロジェクトに参加したのでした。彼らはダビデの家系に連なるゼルバベルと、祭司ツァドクの家系に連なるヨシュアとをリーダーとし、エルサレムに辿り着きました。崩れ落ちたその神殿の土台に祭壇を築いて、礼拝をささげ、そしてエルサレム帰還の半年後、ついに神殿の礎を据えたのです。民達の喜びの声は遠い地にまで聞こえたと言います。そうでしょう。彼らはずっと、イザヤやエレミヤによるエルサレム帰還の預言を希望とし、いつかはその地に立つと信じて捕囚の地で過ごしてきたのでした。その時を見ぬまま死んでいった仲間たちを思い出しながら、感慨深くその礎を眺めたことでしょう。けれど再建工事は頓挫するのです。ユダの残留民やサマリヤ人たちの妨害に会ったのです。そして何より彼らの心が萎えてしまったのです。
 けれど、 ゼカリヤを通じて「あなたの王があなたのところに来られる」と語られ、またハガイを通じては「しかし今、ゼルバベルよ、強くあれ。──【主】のことば──エホツァダクの子、大祭司ヨシュアよ、強くあれ。この国のすべての民よ、強くあれ。──【主】のことば──仕事に取りかかれ。わたしがあなたがたとともにいるからだ。──万軍の【主】のことば──」(ハガイ2:4)と語られます。神は忘れてはおられないのです。神は見捨てられません。新天新地。希望を胸に抱いた彼らの現実は、パラダイスではありませんでした。妨害と敵意。それらは彼らの希望をいとも簡単に萎えさせるものでした。彼らは慣れぬ地で生きるのに精一杯でありました。けれど、主は言われます。わたしがあなたとともにいる。あなたの王があなたのところに来られる。だからもう一度立ち上がろうと言われるのです。
 「義なる者で、勝利を得、柔和な者で、ろばに乗って。雌ろばの子である、ろばに乗って。」私たちはメシヤの預言がイエス様によって成就されたことを知っています。この御方のもとに、戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和を告げ、その支配は海から海へ、大河から地の果てに至ると言われるのです。私たちの希望を奪いとる不条理な日常があります。生きることに必死で主を見上げることが後回しになってしまうことがあります。けれど、主の約束は絶対です。信仰の行き着く先は勝利です。私たちはこの約束に奮い立たされて参りましょう。心が萎えるたびに、主の御言葉に耳を傾けてまいりましょう。

220320 民数記13 「信仰をもって進もう!」 東北宣教プロジェクト・グレイスハウス教会 斎藤満師

民数記13 「信仰をもって進もう!」 斎藤満師

 主の年2022年、私が所属しているグレイスハウス教会は信仰の岐路に立っています。昨年は教会の活動拠点兼会堂を失い流浪の民となりました。震災からもうすぐ11年になり、人々の関心は薄れ、さらにコロナ禍が追い打ちをかけています。状況はあまり良くないかもしれません。しかし、聖書にはこのようにあります。「わたしの義人は信仰によって生きる。 もし恐れ退くなら、 わたしの心は彼を喜ばない。」ヘブル10章38節。私たちは信仰をもって、主の御心を選び取っていかなければなりません。今日、この箇所から私たちもまた、主に信頼し、選択していくことを学びたいと思います。
 今日は2つの段落でお話します。① 信仰的ポジティブ ② 信仰は私たちの選択を変える 
 この箇所において、まず最初にみておきたいのは1節。この偵察は誰の命令でなされているでしょうか。そうなのです。神様が、あの約束の地をどんな所か見てきなさいと言われたのです。それはなぜでしょうか。少なくとも2つ理由があります。
 1つ目。神様は出エジプト記3章8節でイスラエルにこういう約束をくださっているのです。「わたしが下って来たのは、エジプトの手から彼らを救い出し、その地から、広く良い地、乳と蜜の流れる地に、カナン人、ヒッタイト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のいる場所に、彼らを導き上るためである。」つまり神様はイスラエルの民に、偵察してもらうことによって今神様の約束がそのとおりになろうとしていることを、知ってもらおうとしたのです。
 2つ目は、約束されたカナンの地がいかに素晴らしいかをイスラエルの人々に見てもらうためであった。もちろん、これから入って行くために、実際の土地や地形を知るためでもあったでしょう。
 信仰は私たちの選択を変えます。では、信仰的選択とはどんなものか。カレブやヨシュアは、自分の力を過信していたのであのように言ったのでしょうか。そうではないでしょう。では彼らはなぜその状況をポジティブにうけとめられたのでしょうか。それは彼らは神様が「わたしが下って来たのは、エジプトの手から彼らを救い出し、その地から、広く良い地、乳と蜜の流れる地に、カナン人、ヒッタイト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のいる場所に、彼らを導き上るためである。」と言われた、その約束を信じたからでありました。
 ヘブル人への手紙を書いた著者は11章1節でこう言っています。「信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです」これはどういう意味なのでしょうか。「望んでいることを保証し」の「保証」とは、そのものをささえる土台を意味する言葉であり、「実体」とか、「確信」を意味することば。それが転じて、土地家屋の権利保証書を表すようになった。権利保証書とは、それをもっているなら、離れたところにいてもそれがその人のものですよと証明するものです。
 また「目に見えないものを確信させるもの」の「確信」という言葉は、「証拠」や「とがめ」を表すことばで、これも転じて「検分済み確認書」を表すようになったことば。つまり、簡単に言い換えると、「信仰」はまだ手にしていないものが、必要な検査を終え、すでにあなたのものとなったことを保証する、証明書のようだといっているのです。
 信仰は聖書の奥義であり、神の知恵です。そして、神さまが私たちに唯一求めているもの。私たちの生活において、普通、保証書は買ったもの、すでに手にしたものに発行されます。しかし、このみ言葉は、信仰とは、まだ見ていないものの保証書だと言っているのです。聖書が私たちにくださっている約束、「救い、天の御国、神の子どもとされる特権、復活」。これらは、すべてまだ目にしていない、まだ完全には手にしていないもの。しかし、聖書は、信仰によって、それにはすでに私達のものと保証されているのだ。信仰こそ、それがそのとおりになるという保証書なのだと教えているのです。
 私は被災地だからこの地を任地に選んだわけではありません。主がこの地にお前を遣わすと言われ、遣わされて来たのです。私は主の約束と御心を信じたいです。 また私はグレイスハウス教会がやがて、この地に根ざし、多くの人々とともに歩む教会になることを信じています。三陸沿岸の状況、また現在の状況は良いときではないでしょう。しかし、恐れて退くのではなく、行こう必ず主がそうさせてくださると、この2022年さらに踏み出したいのです。ぜひ皆様も共に心合わせ、約束の地に登ってくだされば幸いです。

220313 ルカ12:1-12 「全てをご承知の方」

ルカ12:1-12 「全てをご承知の方」

 一連のパリサイ人とのやり取りを終えて、イエス様は弟子たちに向かって言われます。「パリサイ人のパン種、すなわち偽善には気をつけなさい。」パリサイ人を形成するその中身、彼らの中で膨れ上がっていくもの。それが偽善だと指摘されたわけです。そして、あなたがたの中にも同じパン種、つまり偽善があるんですよ。とおっしゃっているわけです。
 偽善とは何でしょう。偽物の善。表面的な善。上っ面の善。けれど、それは本当にいけないことなのでしょうか。上っ面であっても善を行うことは、全く善を行わないという人よりもよっぽど良いのではないでしょうか。たとえ綺麗事と言われようと、結果それが誰かの役に立つならそれでいいじゃないか。とも思ったりするわけですが、いかがでしょうか。偽善とは、少なくともその人が善であろうとする努力の現れです。なのに、ああ、これは偽善になるからやる必要ないわ。と言って、誰もが善に励もうとしない。自分の欲望だけに身を委ねるということになれば、これは逆に酷いことにはならないでしょうか。
 けれど、イエス様は偽善には気をつけなさいと言います。なぜならその偽物の善が暴かれそうになる時、人はそれを何としても守ろうとするからです。そのためには多少の暴力、多少の犠牲、多少の悪。それら全てを許容してしまうからです。パリサイ人はイエス様という本物を前にして、自身のメッキが剥がれるのを恐れました。けれどイエス様は言われます。その偽善は、その恐れは、その本心は、神の前にはもうとっくにばれてるんですよ。と、であります。目の前にいる人にはそれで隠せるかもしれません。けれど全能の神を前にして、それらは隠しおおせるものではありません。イエス様は言います。「殺した後で、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。」その通りだと思います。私たちは恐れるべき方を恐れず、恐れるに足りない者を恐れているのです。それゆえ、表面を取り繕うことにばかり気を取られています。それは恐れる方を間違えています。私たちは全てをご存知で、死の先にも権威を持っておられる、神を恐れなければなりません。
 しかしながら、神を恐れる。というのは決して萎縮するという意味ではありません。全てをご存じの方と聞きますと私たちは大変恐ろしく思います。けれど違うのです。神に見られているというのは、神が監視されているということではありません。神の憐れみの中に置かれているということです。神の赦しの中で生きているということです。
 アサリオンというのは当時の最も小さい単位のお金です。5羽の雀が2アサリオンとありますから、1アサリオンでは2羽か。3羽か。ともかく雀1羽では値段が付かないということです。値段も付かない雀一羽。けれどこの一羽ですら、神の御前に忘れられることはありません。
 パリサイ人たちは、必死に自分をよく見せようといたしました。仮面を被り、善行に励み、自分はこんなにも価値ある人間なんだと必死にアピールしました。なぜなら価値がある人間でないと認められないと考えていたからです。だからその価値を揺るがす存在を否定します。イエス様を受け入れられなかった。けれどイエス様は言います。1アサリオンの価値もない雀一羽すら、神のみ前に忘れられることはないのだから、多くの雀よりも価値あるあなた達は尚のこと忘れられるはずがありません。と、です。父なる神は、私たちの全てをご存知です。神は全てをご承知の上で、尚、私たちを受け入れてくださっている。父なる神は、私たちがこのお方を認めるなら、たとえ私たちがどれほど情けなくても、弱くとも、変わりなく私たちを認めてくださるのです。
 だから善に励まなくていいという話ではありません。だから卑屈にならなくてもいいという話です。人々の評価に振り回されなくていいという話です。日々の生活の中で、色んな批判や評価の中で、私たちはいつもその存在を揺るがされます。自分はここにいて良いんだろうか。そんな不安が押し寄せてきます。だから私たちは不安を埋めるために、必死に他人の顔を伺い、他人の評価を求めます。けれど見るべきはそこではありません。全てをご存じのお方が、神の御使いたちの前で、あなたを認めるのです。あなたを自慢しているのです。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。」(イザヤ43:4)とおっしゃっておられる。だから自分を卑下して、仮面を被って、他人の評価にしがみつかなくてもいいとおっしゃられるのです。失敗を恐れず、卑屈にならず、堂々と、神と共にあっていいのです。あなたはそのままで価値ある尊い存在なんだとおっしゃってくださるのです。

220306 Ⅱテモテ3:14-17、コロサイ2:6-8 「学んで確信したところ」

Ⅱテモテ3:14-17、コロサイ2:6-8 「学んで確信したところ」

 教会教育の目的は信徒一人ひとりが自ら聖書を読み解くことができるようになることです。宗教改革以前、聖書は教会のものであり、限られた聖職者のものでした。信徒は聖職者によって語られる教えを聞くことしかできませんでした。けれど、宗教改革と活版印刷の発明により、聖書は信徒の手に届くものとなったわけです。皆が自由に聖書を読むことができるようになった。それは、各自が好きなように聖書を読み解くようになったということでもあります。けれど聖書はただ読んで理解するには、なかなか難解な書物なのです。もちろん、わからないままに読んだとしても、御霊の導きの中で、恵みを受け取ることはできるでしょう。けれど歴史の中で記された聖書は、私たちの日常とはあまりにもかけ離れた文脈の中で記されているのです。
 教会の歴史は異端との戦いの歴史です。コロサイ書に「あの空しいだましごとの哲学」とあります。初期の教会の中にすでに異端が入り込んでいたのです。異端は全くかけ離れたことを教えるわけではありません。聖書の御言葉を、使徒と預言者の教えから逸れた、別の解釈で語るのです。それも全部が全部そうなのではなくて、混ぜものをするように、少しずつ、こっそりと。だから、見分けが付けづらいのです。そして、そのような教えほど、都合の良い、耳に優しい、ヒューマニズムの言葉で語られる。異端の教えは、強制的に口を開けて押し込まれる教えではありません。もちろん例外はあります。けれど多くの場合、人々は自ら好んで口に入れたのです。結果、人々は何が正しくて何が間違っているか判断ができなくなったのです。
 ですから聖書は個人ではなくて、教会で読むことが大事です。使徒と預言者に基づく、聖書の読み方とは何かを、共に学ぶ必要があります。そうでないと、私たちは自分勝手に、自分の好きなように解釈する危険があるからです。そして、その結果、神様のみこころとは全く違う読み方をして、別の結論にいたってしまう恐れがあるからです。
 教会では時折に、礼拝説教を用いて教理の学びをいたします。主の祈り、使徒信条、ハイデルベルク信仰問答。これらは教会が様々な異端の教えと戦ってきた歴史の中で培われたものです。聖書をこの枠組の中で読みましょう。解釈しましょう。聖書全体からその教えを抽出し、まとめ上げたのが教理であります。読み方に枠組みを決めるなんて、窮屈で、つまらないとおっしゃるかもしれません。もっと自由に読みたいと思われるかもしれません。けれど、独りよがりで聖書を読むときに、私たちは常に自分の都合の良いように読んでしまう誘惑があります。自分の耳に優しい部分だけを読みたくなります。そして、そういう欲にサタンは付け入ってくるのです。
 また、時々こういうお方もおられます。難しいことは知らなくていい。あの人が言うんだったら私も信じます。とです。きっと、その方が言う「あの人」とはとても素敵なキリスト者なのでしょう。けれど、それはあの人を信じているのであって、イエス様を信じているとはなりません。あの人頼みの信仰はあの人に失望すれば瞬く間に失われてしまうものです。私たちはイエス様を頼みとしなければなりません。イエス様以外に期待してはいけません。私たちはイエス様を知らなければであります。イエス様はなぜこの世に来られたのか。何を語られたのか。何をもたらしたのか。私たちはこのお方を何と告白するべきか。一つ一つ、丁寧に、私たちは共に聖書から学ぶのです。
 教会の教えは今の時代にそぐわないとおっしゃる方もいます。もっと目新しい、流行りの教えを紐解こう、とです。そして言います。だから教会はこの時代に見向きもされないとです。もちろん、時代時代に要請される教会の使命があるかとは思います。キリスト教化した中世ヨーロッパと異教蔓延る現代の日本では求められる働きに違いはあります。けれど、私たちが立つべきところは一つです。
 Ⅱテモテ3:14に「学んで確信したところにとどまる。」とあります。このとどまるということが大事です。敢えてとどまるのです。聖書の読み方は独りよがりでも、あの人頼みでも、知的好奇心でもありません。私たちに突飛な教えはいりません。目新しい解釈や流行りの教えもいりません。それらはいずれ古くなるものです。移り変わるものです。私たちに必要なのは時代によって変わることのない「使徒たちや預言者たちという土台」。イエス・キリストという土台です。