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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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220427 ダニエル11:20-45 「預言の中に生きる」

ダニエル11:20-45 「預言の中に生きる」

 ダニエル書の後半、7章からは幻と預言が記されています。
11章はこれから起こるユダヤの現実が記されています。この預言が語られたのがメディア人ダレイオスの元年のこと。1-19までで、ペルシャ、マケドニアの興隆と衰退が語られます。クロス王から続くペルシャの4人の王の後、戦の天才ギリシャ・マケドニアのアレクサンドロス大王が瞬く間にこの地域いったいを征服し、その版図は遠くインドにまで届きます。けれど、アレクサンドロス大王はこの遠征中に死に帝国は4つに分裂。特に南のプトレマイオス朝と北のセレウコス朝の間で戦争が繰り広げられ、その戦場となったのがカナン地方であり、イスラエルでありました。
 この戦いの間隙を縫って、セレウコス朝シリアの王座を掠め取ったのが、ここに卑劣な者として記されるアンティオコス4世・エピファネスであります。彼の政略はまさに卑劣そのもので、小勢力との間で同盟を結んでは、それを一方的に破って攻め入り搾取することで自勢力の拡大を図ります。存分に力を蓄えたエピファネスは二度のエジプト遠征を決行します。一度目はエジプトの部下の反乱を企ててこれに勝利し、戦場となったユダヤの神殿の多くの財宝を持ち帰ります。しかし二度目の遠征はローマ艦隊の参戦により、退却せざるを得ませんでした。そしてこの腹いせに、ユダヤを侵略し、聖所を偶像や忌むべきもので汚し、大規模な迫害をもたらしたのです。
 エピファネスの巧みさは、その陣営を内部から破壊することです。彼の迫害がユダヤを滅ぼすのではありません。彼の巧みな言葉に、ユダヤの人々の中から聖なる契約を捨て、進んでエピファネスに従う者たちが出てきたのです。一度目の遠征の折、エピファネスはユダヤの大祭司オニアス三世を殺害し、傀儡となるヤソンを大祭司に就任させました。また、聖なる器具を奪った際、これを案内したのは大祭司メネラオスでありました。内部の有力者を懐柔し、内から腐らせる。もしくは、不意を突いて攻め入る。これがエピファネスの常套手段でした。ユダヤ人のギリシャ化は苛烈を極め、毎月25日はエピファネスの誕生日を祝う日としてゼウス神を拝むことが強制され、豚を食べさせたり、赤ん坊に割礼を授けた母親は、さらし者として高所から赤ん坊と一緒に突き落とされたと言います。
 さて、この出来事に対するユダヤの民の反応は二つでした。エピファネスの巧みな言葉に誘われて、信仰を捨て進んで従う人たちと、これに最後まで対抗する懸命な者たちです。「彼らは、一時は剣にかかり、火に焼かれ、捕らわれの身となり、かすめ奪われて倒れる。彼らが倒れるとき、彼らへの助けは少なく、彼らにくみする者には巧みなことばを使う者が多い。賢明な者たちのうちには倒れる者もあるが、それは終わりの時までに、彼らが錬られ、清められ、白くされるためである。それは、定めの時がまだ来ないからである。」
 ここで、預言は終わりの時に言及いたします。つまり、これまでのユダヤ人に起こる出来事の預言は、そこで終わるのではなくて、その先がある。続きがある。まだ終わっていないということです。賢明な者たちの歩みは、決して楽なものではありません。剣にかかり、火に焼かれ、捕われの身となり、かすめ奪われて倒れるとあります。36節で「この王は」と記されるのは、誰か特定の王と言うよりは、反(アンチ)キリストの者のことです。ここには反キリストの興隆の様子が預言されています。この世の春を謳歌する反キリストの時代。これが終末の時代だと言うのです。そしてこの預言は現在進行形として成就していると言うのです。私たちはエピファネスに至る預言が如何に的確に歴史を言い当てたかを知っています。ユダヤ人は後になって、ダニエルの預言の確かさに唸ったのです。そしてだからこそ、まだ終わらない預言の成就に身を引き締めたのです。
 終末の時代の中で、私たちもまたどういう態度をとるのかが問われているのです。この世の実質支配する反キリストに対して、私たちはどう過ごすのでしょうか。妥協して、取り入って、同じ汁を啜ることが賢い選択でしょうか。けれど、私たちは決して忘れてはいけません。ついに彼は終わりを迎えるということをです。神の預言の終着点は、反キリストの栄華の終わりなのです。目に見える出来事が全てではありません。地上の悪事は必ず精算されるときが来ます。しかし、神の御心は永遠です。私たちは預言の中に生きているのです。

220424 使徒8:1-8 「文化ではなく福音を」 ウィーン日本語教会 高橋真治師

使徒8:1-8 「文化ではなく福音を」 ウィーン日本語教会 高橋真治師

220420 ダニエル5:17-31 「権力に負けず」

ダニエル5:17-31 「権力に負けず」

 ベルシャツァル王が千人の貴族を集めての大宴会を催したその日、王は壁に文字を書く指の幻を見ました。王は非常に怯えて、その道に通じた者たちを連れて来させて、この幻の解き明かしを命じます。けれど誰も解き明かすことができません。王の怯えた様子に王母ニトクリス(ネブカデネツァルの娘)は、亡き父の幻を解き明かしたダニエルを思い出して王に知らせます。ネブカデネツァル王がひととき獣のようになったことはバビロンの中枢にいて知らない者はおりません。あの出来事を言い当て、そして回復も預言した呪術師がいる!王母が言うまで、誰もダニエルに思い至らなかったのは不思議かもしれませんが、この時ダニエルは80歳前後。もうとっくに政治からは引退し、当時の人々、特に新しい世代からは忘れられた存在でありました。
 ベルシャツァル王はダニエルに言います。「今、もしおまえが、その文字を読み、その意味を私に告げることができたなら、おまえに紫の衣を着せて首に金の鎖をかけ、この国の第三の権力を持たせよう。」(5:16b)第三の権力と言いますが、これはナボニドス、ベルシャツァルに続く第三位。つまり臣下のトップの座を用意するということです。破格の提案です。どれほど王がこの幻に怯えたかがわかります。けれどダニエルは報酬には興味を示さず、「贈り物はご自分で取っておき、報酬はほかの人にお与えください。しかし私は、その文字を王のために読み、その意味を告げましょう。」と言って、解き明かしを始めるのです。
 ダニエルはまず、前王ネブカデネツァルがその高慢さのゆえに罰せられたことを言及します。ダニエルは「彼は思いのままに人を殺し、思いのままに人を生かし、思いのままに人を高め、思いのままに人を低くしました。」と言います。思いのままに人の生き死にを左右する。それは唯一神にのみ許された行為です。つまり神のごとく振る舞う高ぶりのゆえに、ネブカデネツァル王は罰せられたのです。そして今、ベルシャツァル王はこれらすべてを知っていながら、宴会に身を興じ、主にへりくだることをいたしません。だからこの不吉な文字が書かれたのです。『メネ、メネ、テケル、ウ・パルシン。』『メネ』とは、神があなたの治世を数えて終わらせたということです。『テケル』とは、あなたが秤で量られて、目方の足りないことが分かったということです。『パルシン』とは、あなたの国が分割され、メディアとペルシアに与えられるということです。」書かれた文字は滅びの宣告です。けれど文字の解き明かしの前に書かれた理由を説明しているのは、王に猶予を与えているのです。高ぶりを捨てて、神にへりくだるための猶予です。
 これを聞いてベルシャツァル王はどうしたでしょうか。憤ったでしょうか。それともへりくだったでしょうか。王は先の提案どおりに、ダニエルをこの国の第三の権力者として布告させたのです。これは、たとえ自分に都合の悪い解き明かしだろうと言ったことは必ず守る義に厚い王ということでしょうか。そうではありません。これはつまり厳しい解き明かしの内容に対して、これでよろしく頼むよ。と賄賂を贈ったのです。神の怒りを金で鎮めようとしたわけです。ネブカデネツァル王は高慢のゆえに罰を受けました。けれど、ベルシャツァル王はその事情を知っていながら、その態度を変えません。神の怒りすらなんとかできると思っている。恐らくは万事が万事そうだったのでしょう。あらゆる出来事、問題、トラブルを、金で、権威で片付ける。そういう政治をしてきたのでしょう。神をすら従わせようとする高慢さのゆえに、彼はその夜討たれるのです。
 ネブカデネツァル王やベルシャツァル王の高ぶりに、どうしてもロシアのプーチン大統領が重なります。「思いのままに人を殺し、思いのままに人を生かし、思いのままに人を高め、思いのままに人を低く」する。独裁者の思いのままにウクライナの惨劇が生み出されています。いったいプーチン大統領はどういう思いでこのダニエルの警告を聞くことでしょう。権威ある者が忠告を聞かない悲惨は歴史が証明しているのにです。
 注目すべきはダニエルの真摯な態度です。巨額の報酬に目を奪われること無く、独裁者にも臆せず、神の言葉を堂々と語る。普通は忖度してしまうかもしれません。時の権力者を前にして、都合の悪いことを語れば、怒りを買う恐れがあります。思いのままに殺されるかもしれません。どうせ誰も解き明かせなかったのです。適当に王が喜ぶことを伝えてもばれません。ならば敢えて不興を買わずにいようと思ってもおかしくありません。けれど、ダニエルは主の言葉を偽りません。ダニエルは王ではなく、主をおそれているからです。ペテロとヨハネは言いました。「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従うほうが、神の御前に正しいかどうか、判断してください。」(使徒4:19)時代が変わり、権力者が変わろうとも、私たちの仕えるべきお方は変わりません。私たちは福音を曲げること無く、主の御心に聞き従う者でありましょう。

220417 ヨハネ21:1-19 「やり直しの朝」

ヨハネ21:1-19 「やり直しの朝」

 使徒の働きを見ると、イエス様は苦しみを受けた後「四十日にわたって彼らに現れ、神の国のことを語られた。」(使徒1:3)とあります。そしてイエス様が天に昇られるのを見送った場所は40日後エルサレムにあるオリーブ山であります。そのたった40日の間で、イエス様はガリラヤで会おうとおっしゃる。大切な日数を削ってでもガリラヤで弟子たちと会うのは、そこに大切な意味があるからです。
 ではガリラヤでいったい何があったのでしょうか。夜通し漁をして一向に魚が取れなかった弟子たちが、岸辺の人の指示通りにすると大漁となったという話です。その岸辺の人は実はイエス様で、それに気付いた弟子たちは慌てて岸辺に向かいます。するとイエス様は炭火を用意し、パンと魚を焼いて、食事の用意をして待っていてくださったのです。彼らはイエス様と食事を取ります。そしてその後がクライマックスです。イエス様はペテロに三度「あなたはわたしを愛しますか」とお尋ねになるのです。
 これがこのガリラヤ行きの全貌です。イエス様がしたかったのは、このガリラヤにおいて彼らにこれまで体験した信仰の節目をもう一度追体験させることでした。ペテロやヤコブやヨハネが最初に召されたその出来事を再現されるかのような大漁の奇跡がなされ、湖畔での食卓においてイエス様は5000人給食を思い起こさせるパンと魚を食させます。それもわざわざイエス様が一人ひとりに取って与えることにより、最後の晩餐を思い起こさせる食事の交わりといたします。なぜそうするのか。それは彼らが失敗を経験した者だからです。罪深さ、後ろめたさを引きずるものだからです。彼らはイエス様が最も苦しんだその時、蜘蛛の子を散らしたように逃げ出したのです。そんな彼らをもう一度、ご自身の弟子として立ち上がらせるためにです。弟子たちは食事を取りながら、目の前の感動の出来事と共に、栄光に満ちたあの日々を思い起こしたことでした。初心に帰る如く、彼らはイエス様への信仰を新たにいたします。そしてその極めつけがペテロでした。
 イエス様はペテロに問います。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか。」「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」「わたしの子羊を飼いなさい。」ところが、イエス様はこの一連のやり取りを三度繰り返されるのです。これは明らかに異常です。ここには質問以上の意味が込められています。ここで思い出されるのは、三度イエス様を否んだあの大祭司の庭での出来事です。
 最後の晩餐の折、イエス様は弟子たちの下を去ること、そして弟子たちがご自身についていけないことを話されました。しかしそれを聞いたペテロは言います。「あなたのためにはいのちも捨てます。」するとイエス様は言います。「わたしのためにいのちも捨てるのですか。まことに、まことに、あなたに言います。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」そしてその後、イエス様は捕らえられ、ペテロは大祭司の庭で確かに三度イエス様を知らないと否認するのです。一度目、二度目、彼は自分の言葉の意味を全くわかっていませんでした。ただ必死に降り掛かった火の粉を払うのみです。しかし三度目の「そんな人は知らない。」とペテロが口にした瞬間、鶏が声を上げたのです。その時、ペテロは自分が躍起になってイエス様を否定していた事実に気付かされたのです。同様に、復活されたイエス様はペテロに問います。「あなたはわたしを愛していますか。」一度目、二度目、彼は何も考えずに返事をします。けれど三度目の質問に答えるとき、彼は自分の弱さと直面して答えざるを得ないのです。そして、その弱さと向き合わせて尚答えさせるために、イエス様は敢えて三度繰り返されるのです。
 犯した罪と向き合わせて尚問いかけるのは、そこにはイエス様の赦しが用意されているからです。「あなたはわたしを愛していますか。」この問いかけには前提があります。「わたしはあなたを選んでいるよ。」「わたしはあなたを愛しているよ。」「わたしはあなたを赦しているよ。」です。三度の問いは三度の赦しの宣言です。ここがペテロのやり直しの第一歩です。復活のイエス様と出会った興奮ではなくて、自らの弱さと向き合い、その罪に打ちひしがれ、そしてその罪を赦しておられるイエス様と出会い、このイエス様を信じて告白する。私たちの信仰の第一歩はイエス様の赦しに出会うということにあるのです。いつまでも罪を赦せないのは、神ではなくて自分なのです。赦しは自分で言い聞かせるものではなくて、相手から宣言されて初めて得るものだからです。イエス様は私たちが罪と向き合うたびに問いかけてくださいます。三度罪を犯せば三度、百度罪を犯せば百度。「あなたはわたしを愛しますか。」それはイエス様の赦しの宣言。私たちのやり直しの一歩です。

220409 ヨハネ15:13 「愛する友のために」 受難日礼拝

ヨハネ15:13 「愛する友のために」 受難日礼拝

 少し前のことになりますが、TVのニュースを見ていますと信じられない報道を耳にいたしました。それはロシアのプーチン大統領がクリミア併合8周年の記念集会を開き、その集会の演説の中で「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」(ヨハネ15:13)というヨハネの一節を引用して自国の軍事侵攻を正当化したことであります。そして、この御言葉を引用した後「われわれはこの作戦における仲間の英雄的行為を目の当たりにしている」と戦争賛歌のことばを掲げたのです。まことに聖書を自分勝手に用いる危険の最たるがここにあります。プーチン大統領は「しかしすべては、この普遍的な価値が、ロシアのすべての民族とすべての信仰、そして何よりも自国民のものであるという事実に帰結する。そして、その最大の証明は、この軍事作戦の過程で、われわれの仲間が肩を並べて戦い、互いに助け合い、支え合っている姿だ」。また「いざとなれば、兄弟として戦場で銃弾から互いをかばい合う。このような結束は長い間なかった」とも言っています。
 だから自分たちの行為は正しいと主張するのです。しかしご承知の通り、ヨハネ15:13は人類の罪を贖うべく自らを生贄とされるイエス様を預言した御言葉です。この御言葉から、国民を戦地に赴(おもむ)かせるための戦意発揚(せんいはつよう)は、ましてや国のために命を捨てよ、とは決して導き出されることではありません。けれど、その「決して」が堂々と語られているのです。自らの行為を押し通すために、他国を侵略し、自国民を欺き、聖書が捻じ曲げられているのです。これは大変恐ろしいことです。
 聖書は私たちの内には正義がないことを語っています。正義はただお一人、イエス様にしかありません。だからこそイエス様が罪の身代わりとして死なれたのです。「キリストも一度、罪のために苦しみを受けられました。正しい方が正しくない者たちの身代わりになられたのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、あなたがたを神に導くためでした。」(Ⅰペテロ3:18)正しい方が正しくない者たちの身代わりになる。これが聖書の語る正義の真実です。ですから戦争はこの聖書の正義とは真逆の行為です。戦争というのは自分の主張を通すために相手の主張を力尽くでへし折る行為です。けれどやっかいなのは、相手には相手の正義があるということです。それは時代によっても、立場によっても、人の数だけ違うものです。だからぶつかります。正しさは間違いを許しません。正義は違いを受け入れません。そこには異なった考えを受け入れる余地がありません。
 違いがあるというのが私たちの個性です。私たちの特別は他人とは違うということにあるのです。けれど、私たちの掲げる正義はこの違いを受け入れません。ですから私たちの関係は、実は正義によっては築かれません。ただ愛によって築かれるのです。ヨハネ15:13は正義を語る箇所ではなくて、愛を語る箇所です。主イエスの愛を提示し、私たちにも愛し合うことを命じる箇所です。この愛は異なるものを受け入れる愛。汝の敵を愛する愛。友のために命を捨てる愛。決して戦争を肯定するものではありません。
 自らの行為を正当化するために聖書を用いることは神の言葉を自己実現の道具とする愚かな行為です。私たちは決してプーチン大統領の主張を容認することはできません。けれど、私たちは決して彼だけを特別視するわけにもいきません。プーチン大統領は特別におかしい人物だからというのは簡単ですが、御言葉を自分勝手に解釈する誘惑、自分を正当化するための道具にする誘惑というものは誰にでも抱き得るものだからです。私たちは同じ過ちを犯してはいないかと自らに問わなければならないのです。
 そんなことはあり得ないと言われるでしょうか。プーチンと同じように言われるのは心外だとおっしゃるでしょうか。しかし、私たちは過去において、同じ過ちを犯したのではなかったでしょうか。過去の大戦で多くの日本人はその意味を深く知ることなく「お国のために」と戦地に送られて行ったのです。赤紙一つで愛する家族が戦地へと赴く。その異常な状況を「お国のために」という合言葉で、それを正当化した時代がありました。戦争が長引き、異国の地で戦死する家族が出るほどに、もう戦争は誰も否定できないものになっていきました。愛する家族を無駄死にとは認めたくないからです。そして異を唱える者を非国民だと責めたのです。あの時代、戦争自体の善悪を問うのではなく、お上に従うかどうかが日本人としての踏み絵だったのです。私たちはなぜ多くのロシア人がプーチン大統領の演説を鵜呑みにしているのかと疑問に思います。なぜ声を上げないのか。なぜむしろ支持率が高まっているのか。と不思議に思います。けれど過去の日本において、多くの国民は侵略ではなく解放であり、特攻ではなく奉公だと教えられ、そして信じ込まされた時代があるのです。時代が違えば、状況が違えば、ロシアの現状は私たちの現状でもあります。だからこそ、これは他岸の火事とすることはできません。
 一方的な正義を振りかざして相手を非難することはないでしょうか。自らを吟味すべき御言葉を、他人を裁く言葉として用いることはないでしょうか。しかしそれらは自らを神の立場に置く過ちであります。平和を築くこととは己の主張を手放すことから始まります。
 国連総会でケニアのキマニ大使の演説がありました。「現在、アフリカの全ての国の国境線をまたいで、歴史的、文化的、言語的に深い絆を共有する同胞たちがいる。独立する際に、もし私たちが民族、人種、宗教の同質性に基づいて建国することを選択していたのであれば、この先何十年後も血生臭い戦争を繰り広げていたことだろう。しかし、私たちはその道を選ばなかった。私たちはすでに受け継いでしまった国境を受け入れたのだ。それでもなお、アフリカ大陸での政治的、経済的、法的な統合を目指すことにした。危険なノスタルジアで歴史に囚われてしまったような国を作るのではなく、未だ多くの国家や民族、誰もが知らないより偉大な未来に期待することにした。私たちは、アフリカ統一機構と国連憲章のルールに従うことを選んだ。それは国境に満足しているからでなく、平和のうちに築かれる偉大な何かを求めたからだ。」アフリカの国々は平和を築くために、自らの主張、考え、正義、拳を捨てて、その国境を受け入れたと言うのです。愛する友のために己の主張を捨てたのです。プーチン大統領が語るヨハネ15:13とは全く異なった適応がここにあります。そして、それは汝の敵のためにいのちを投げ出されたイエス様の愛に通ずるものです。
 イエス様は十字架を受け入れられたのです。犠牲となることを選ばれた。自らの権威や主張を手放されたのです。愛する友のために、己を捨て、命を捨てる。これが主イエスの正義だったのです。この主イエスに倣い、へりくだることこそが平和を築く第一歩だと知りましょう。

220413 ダニエル3:16-30 「普段どおりの決断」

ダニエル3:16-30 「普段どおりの決断」

 ことの発端は、ネブカデネザル王を型どった巨大な金の像が立てられたことです。高さ60キュビト、幅6キュビトというのは、高さ27メートル弱、幅2.7メートル弱のこと。巨大な像はネブカデネザル王の権威の象徴です。王の像の奉献式にはあらゆる高官たちが集められ、その場で伝令官から一つのある勅命が下されました。それは、これから音楽が奏でられるのを合図にして、王の像を伏し拝むこと。ひれ伏して拝まない者は、火の燃える炉の中に投げ込む。というものです。
 高らかに音楽が奏でられるのを合図にその場に居合わせて全員が一斉にひれ伏します。けれど、その中で3人、この命令に従わなかった者たちがおりました。ユダヤ出身でバビロン州の事務を司っていたシャデラク、メシャク、アベ・ネデゴでした。
 大事件でした。それは王の顔に泥を塗る行為です。王の怒りを察して、現場は恐ろしい雰囲気になったことでしょう。けれどそこは大国の王。怒りに任せて即座に処分することはいたしません。彼らを呼び寄せて、もう一度チャンスを与えます。しかし彼らはまたしても王からの提案を断るのです。当然、王は激しく怒りました。「彼は炉を普通より七倍熱くするように命じた。」とあります。また「王の命令が急であり、炉が非常に熱かったので、その炎はシャデラク、メシャク、アベデ・ネゴを持ち上げた者たちを焼き殺した。」とあります。処刑人が焼け死ぬなんて想定外。安全確認もできないほど王の命令は急で激しいものでした。当然3人に何かを備える時間はありません。トリックでも何でもありません。彼らは着の身着のまま炉に投げ込まれたのです。
 けれど彼らは死にませんでした。それがなぜかは王自らが証言しています。「私には、火の中を縄を解かれて歩いている四人の者が見える。しかも彼らは何の害も受けていない。第四の者の姿は神々の子のようだ。」第4の者が御使いか、受肉前のキリストか、諸説あるところですが、ともかく神の取り計らいによって、「火は彼らのからだに及んでおらず、髪の毛も焦げず、上着も以前と変わらず、火の臭いも彼らに移っていなかった」のであります。この信じがたい出来事に、王も高官たちも、3人の信じる神を認めざるを得ません。結果、彼らユダヤ人の信仰は王のお墨付きをもらって保護されることとなるのです。
 滅んだ国の生き残り、言ってみれば王の恩寵で生かされた者が、その王の面前で勅令を断る。それはあり得ないことです。このことは即座に処分されることを意味します。当然、3人も事の重大をわかっていたはずです。何も魂まで売れと言っているわけではありません。信仰を捨てよと言っているわけでもない。このセレモニーの間、パフォーマンスに付き合えと言っているのです。形だけ従えばそれで済む話なのです。けれど、彼らはひれ伏すことを拒みました。彼らの信仰がそれを拒んだのです。真の神を差し置いて、別の神々や地上の王にひれ伏すことを、他の誰でもない、彼ら自身が許せないのです。
 死を意識しても尚、信仰を譲らない。この3人のすごい信仰ですね。けれど、彼らにとってはそれは特別の信仰ではありませんでした。それは彼らにとっては当たり前の決断。自然な応答だったのです。実は後に、ダニエルも捕らえられて獅子の穴に投げ込まれるという出来事に会います。王以外に祈願したという理由でした。注目したいのは、ダニエルは王令を知っていただろうに、祈っていた。ということです。つまり彼の祈りの信仰は状況によって変わることのない日常だったのです。このダニエルとシェデラク、メシャク、アベ・ネデゴ3人は同じ困難を共にした仲間です。幼いながらに国を追われ、言葉も通じぬ異国の地で懸命に学び、励ましあった仲。彼らの日常は共通していました。それは祈りです。どんな状況でも、どんな命令にも、決して変わることのない祈りの日常。3人が王の前に連れられて、再びの王令を受けても尚、金の像にひれ伏すことを拒んだのは、彼らの必死な決断ではありません。ごく自然な流れです。日々の祈りに培われた彼らの信仰の賜物です。自らの死を意識しても尚、彼らの返事はもうとうの昔から決まっていたかのごとく揺らぎません。彼らは祖国の滅びを経験し、遠い異国に連れ去られ、名前を奪われ、言葉を奪われ、それでも祈りを忘れること無く過ごしてきました。どんなときにも神への信頼と希望を忘れること無く過ごしてきた。その積み重ね。築き上げられた信仰が、今、普段どおりの決断をさせたのです。
 私たちは兎角、その時になって慌てるものです。王の前に連れられて、決断が迫られて、その場の勢いと思いきりでその場を乗り越えようと致します。けれど、信仰の決断は、もうそれ以前から決まっているのです。私たちの積み重ねてきたものが私たちを突き動かすのです。迷いない3人の決断。それは日常の繰り返される祈りから生まれます。私たちも彼らに倣う者でありたいと思います。

220410 ルカ12:22-34 「御国を求めなさい」

ルカ12:22-34 「御国を求めなさい」

 今日の聖書は心配するなと言っています。けれど、心配するなと言いましても、そこには心配するだけの現状というものが確かにあるのです。そうではないでしょうか。今、私たちは本当に心配ばかりの毎日を過ごしています。地震然り、コロナ然り、戦争然りです。世の終わりを思わせる出来事が、次々に現実に起きています。このような状況で、心配するなと言われましても、それは絵に描いた餅。どだい無理な話ではないでしょうか。けれど、だからこそ、この聖書の言葉は、私たち信仰者にとってチャレンジであり、試みであるのです。心配するな。この言葉は、決して何の心配もない無風の中で語られている言葉ではありません。これを語るイエス様ご自身が、律法学者やパリサイ人たちからの激しい敵意の渦の中におりました。イエス様が語る時、それは弟子たちに自分がいなくなった後を託すことを念頭に入れて語っております。十字架と復活。彼らをとりまく状況ががらりと代わります。先頭に立って人々の怒りを引き受けておられたイエス様はもうおらず、弟子たちがその矢面に立たされる。これからそういう時代がやって来る。けれど、だからこそ、イエス様は言うのです。心配するのはやめなさい。とです。
 イエス様は言います。空の鳥を見なさいとです。空の鳥は種も蒔かないし、刈り入れも、倉庫に納めることもしません。なぜなら、神様が養って下さるからです。また、野のゆりを見なさいとも言いました。ゆりはどうしたら綺麗に見えるかなんて、考えたことも悩んだこともないですけれど、神様がこのゆりに一番似合う花びらをくださっているから綺麗に咲くのです。創造の最後に、神の霊を吹き込まれて造られたのが人間です。神様のとっておきの作品が人間です。神は私たちの父なる神であります。ですから、神様は鳥や花ももちろん大切ですが、それ以上に、私たち一人ひとりのことを大切にされるのです。
 私たちはこの事実にどれほど思い至っていることでしょうか。神が共にいる。父なる神が私たちの必要を知って与えてくださる。この究極的な神のご支配の確かさ、配慮の事細かさに、どれほど心を向けていることでしょうか。こんな状況で、これからどうなっていくのか。先のことばかり心配している私たちだけれども、今、この瞬間を生かされているという奇跡には一向に目を向けようとはしないのです。私たちが生きるために必要なもの、水も空気も太陽も、全部神様からのプレゼントです。創造の御業の最後に、私たちは造られました。全てが整えられ、全てが満たされて、私たちはこの地上に生を受けた。私たちは神様によって今日という日を生かされているのです。神さまは私たちのことを、私たち以上にご存知で、私たちの必要を備えて下さるお方です。将来どうなるかは私たちにはわかりませんが、神さまは私たちの将来を知っていてくださいます。そして最善へと導いてくださいます。私たちはこの一点を信じればいいのです。
 マタイの福音書ではルカでは省略されている一節が続いています。「ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。」今日の箇所は心配するなと言っている。けれど、もっと厳密に言えば、それは明日のことを心配するなと言うことです。つまりこれは、今日をもっと大事に生きなさいと言っているのです。5年後、10年後、全て今日と言う日の積み重ねです。今を感謝しない人が将来を喜ぶことはできません。今日語り掛ける主の声がある。今日備えられた主の恵みがある。そのことに目を背けて、私たちが将来の願いだけを求めるならば、それはなんと身勝手で取りこぼした人生でしょうか。それは毎日天よりのマナとうずらを口にしながら、神はどこに行ったのか。と嘆いているようなものです。神は毎日そのマナとうずらに現れているのにです。
 母教会の兄弟が癌でホスピスに入り、余命を過ごしていました。その兄弟が会うたびに行っていた言葉が忘れられません。「毎朝、目覚めるたびに、あぁ今日も生かされてるとわかって心が震えます。」今日、私たちが生かされていることは、神様の特別の恵みです。神が共におられることの証です。この奇跡に目を留めて、私たちは一歩ずつ歩んでいけば良いのです。

220403 申命記4:9-10 「継いでいく教え」

申命記4:9-10 「継いでいく教え」

 神の怒りを買って約束の地に入ることを禁じられ、荒野で留まること40年。神の民イスラエルはヨシュアとカレブとその時20歳以下であった者たち以外は、丸々代替わりをいたします。今、民は再び約束の地を目前にして、父母に問われた信仰が再び問われるのです。けれど、彼らにはエジプトでの10の奇跡も、割れた海の底を渡る驚くべき体験もありません。いえ、それどころかエジプトでの奴隷生活の経験すらありません。毎日天から降るマナとうずらを食べ、雲の柱、炎の柱は目にしますけれども、しかし、それは生まれてからずっと当たり前のように目にしてきた光景です。つまり彼らにとっては、神は日常であり、奇跡ではないのです。信仰は習慣であって、決心ではありません。様々な奇跡体験をした父母たちですら、目の前の驚異に信仰が揺らいだのです。若い世代もまた不安を覚えないはずがありません。だからこそ、主は言われます。「それらを、あなたの子どもや孫たちに知らせなさい。」つまり信仰継承。これが申命記が記された目的であり、使命であります。
 さてこの使命は、イエスを信じる信仰によって神の民とされた世々の教会にも向けられた使命であります。申命記の時代の二世世代の神の民と、教会に与えられた子どもたちはとても似ています。生まれてからずっと教会に連れられて、教会の交わりの中で育くまれてきた彼らには、神様の存在はあまりにも日常で、取り立てて意識せずに認め得るものです。第一世代の信仰者は、言い方は悪いですが、神がおられることに人生を賭けた人々です。えいやと覚悟して飛び込む信仰です。けれど、二世以降の信仰者は、神がおられることは当たり前から始まるのです。彼らは大きな決断をせずとも、純粋に神の存在を信じています。けれどそれだけにその信仰が理解されない場において、彼らの戸惑いは大きいのです。自分が信じてきたものは本当に正しかったのか。私はこれはその人にとって大切な信仰の過程だと思います。親の信仰から、自分の信仰へと向き直す必要な過程です。けれど、残念なことに、この過程において、信仰から離れる人がいることも事実なのです。
 信仰の決断は、その人の責任であります。けれど同時にそれは教会の責任でもあるのです。もちろん、決断を他人任せにすることはできません。誰かの指示による決断は、いずれ、あの人が言ったから。親が言ったから。と責任転嫁の原因となってしまいます。ですから信仰の決断はその人の責任においてなされなければなりません。けれどそこに至る過程において、教会は、親は、先輩は、教えるという責任を負っています。なぜなら、主は私たちにあらかじめ教えるようにと命じておられるからです。私たちに対する神様のご計画は、私たちが救われることで終わりません。私たちが救われて、教える者となる。神は、私たちが救いを継ぐ者となるように命じておられるのです。
 では私たちは何を教えるのでしょうか。それは私たちが見た神の御業であり、聞いた御言葉であり、学んだ信仰であります。そのためには、私たちは見たこと、聞いたこと、学んだことを、振り返り、整理し、確認しなければなりません。
 しかしこれは、単に相手のためというわけではありません。高校の試験勉強をしていた頃、友人とよく英単語や歴史の年表を問題にして出し合ったりしました。記憶というのはインプットするときよりも、アウトプットするときのほうが定着すると聞いたからです。これは信仰にも当てはまることです。私たちは教える時、むしろ教わるのです。御言葉を伝えようとしたら、教えることに間違いはないかと調べたり、より伝わるように言葉を選んだり、実体験で証しできることはないかと自らの日常を振り返ったり、誰よりもその御言葉と真摯に向き合うことでしょう。その結果、誰よりも御言葉に刺され、反省し、うなだれることでしょう。伝えるべき言葉を探りながら、いったいどの口が語るのか。と申し訳ない思いでいっぱいになるでしょう。しかし同時に慰めも受ける。だからこそ主は命じられます。葛藤も喜びも全部ひっくるめて、神とともに生きるあなたを証ししなさいと命じておられるのです。教えることは学ぶことであり、成長することであり、恵みに生きることに他ならないのです。