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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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220529 ルカ12:49-53「地に分裂があろうとも」

ルカ12:49-53「地に分裂があろうとも」

 今日の箇所でイエス様は「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思っていますか。そうではありません。あなたがたに言いますが、むしろ分裂です。」(12:49)と言っています。これは私たちにとって受け入れ難いことではないでしょうか。
 けれど、やはりこれは事実なのです。バプテスマのヨハネがイエス様について言います。「私は水であなたがたにバプテスマを授けています。しかし、私よりも力のある方が来られます。私はその方の履き物のひもを解く資格もありません。その方は聖霊と火で、あなたがたにバプテスマを授けられます。また手に箕を持って、ご自分の脱穀場を隅々まで掃ききよめ、麦を集めて倉に納められます。そして、殻を消えない火で焼き尽くされます。」(ルカ3:16-17)イエス様は聖霊と火でバプテスマを授けられる。それはつまり麦と殻を選り分けて、殻を焼き尽くすことでもあるのです。イエス様の到来。救いの完成。本当に素晴らしい御業ですが、それは同時に人類の裁きという側面も持っているわけです。私たちはこの一面を見ないふりをしてはいないでしょうか。イエス様という救いの到来は、実は人々を救われる者と救われない者とに分けること。人々に選択を迫ること。そして自分もまたそのふるいにかけられるということ。厳しいですがどれも事実なのです。Ⅰペテロ1:7には「試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリストが現れるとき、称賛と栄光と誉れをもたらします。」とあります。この御言葉を重ねてイエス様のお言葉を聞くなら、イエス様は私たちに火の試練をもたらし、私たちの信仰が精錬されることを望んでいるのです。余分な異物を取り除いて純度を増す金のように、あなた達も試練をくぐり抜けて研ぎ澄まされよ。と言っている。そして事実そうなのです。
 けれどイエス様は「わたしには受けるべきバプテスマがあります。それが成し遂げられるまで、わたしはどれほど苦しむことでしょう。」(12:50)と続けられました。不思議ではないでしょうか。49節で語られるイエス様到来の厳しい目的。それは私たちに覚悟と責任を迫るものです。ある時、ゼベダイの息子ヤコブとヨハネが、イエス様のところに来て言いました。「あなたが栄光をお受けになるとき、一人があなたの右に、もう一人が左に座るようにしてください。」するとイエス様は言われます。「あなたがたは、自分が何を求めているのか分かっていません。わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることができますか。」「わたしが飲む杯」とは、ゲツセマネの祈りの際、イエス様が「父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。」(ルカ22:42)と願われたあの苦難の杯のことであります。そして「わたしが受けるバプテスマ」とはイエス様の公生涯の始まりを父なる神が宣言するものでした。一言で言い換えると、それは十字架であります。「自分の十字架を負ってわたしに従って来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。」(マタイ10:38)とおっしゃられた十字架です。つまり、ヤコブとヨハネが主の隣に座る栄光を求めた時、あなたたちは自分の十字架を負えますか。と、こう問うているわけです。その覚悟はあるかとです。本来栄光に預かるとはそういうことなのです。
 ところが、イエス様は「わたしには受けるべきバプテスマがあります。それが成し遂げられるまで、わたしはどれほど苦しむことでしょう。」と言われます。私たちが受けるべきバプテスマ。私たちが飲むべき杯。けれど、イエス様はそれらを一身に受けられるのです。ご自身の使命として引き取られるのです。私たちはこのイエス様のゆえに、救いにあずかることができるのです。
 「今から後、一つの家の中で五人が二つに分かれ、三人が二人に、二人が三人に対立するようになります。」とあります。本来は対立しなかったのです。なぜなら全員が滅びる者だったからです。対立軸は神と私たちだったのです。けれど、イエス様は私たちに救いを用意されました。これを受け取る者をご自身の側へと招いてくださいました。だから一つの家が分かれるのです。対立するようになるのです。このことは、家族であろうと救いはその個人の信仰によるということを意味しています。そしてこのことは、私たちが家族に福音を伝える使命を帯びているということでもあります。イエス様は今から後と忠告されます。逆に言うと、今なら間に合うと言うことです。これは憐れみです。イエス様の福音は人々を明確に分けます。対立を生みます。だからこそ愛をもって関わる者でありましょう。

220525 エズラ7 「もう一つの再建事業」

エズラ7 「もう一つの再建事業」

 7章から話が変わります。6章までは神殿再建の話でした。7章はその神殿再建から56~57年後の話で、いよいよこの書物の筆者、エズラが登場します。エズラはペルシャ王アルタクセルクセスの命を受けて第2次帰還民を組織して、エルサレムに上ります。その目的はイスラエルの宗教調査でした。王はこのために、イスラエルの民が自由に国に帰ることを許可します。それだけでなく、莫大な金銀を用意し、神の宮の祭壇で献げるためのささげ物を用意させます。そのために王室の金庫から支出してよいとまで言うのです。宗主国の王が、属国の民のためにここまでの配慮を施すのは明らかに異常です。エジプトからイスラエルの民が脱出する時、エジプトのファラオはあれこれと妨害をしました。労働力の損出を惜しんだからです。それが普通です。ところがアルタクセルクセス王は全く違います。ユダヤ人の出奔のために出来得る限りの支援を用意します。しかもエズラには、裁判官を任命する権利と判決を執行する権利まで与えます。それはつまりその国の統治を預けるということです。アルタクセルクセス王の振る舞いは、まるで己の信じる神のために尽くしているかのようです。いったいこんなことがあり得るのでしょうか。
 ここで思い出したいのは、7章は神殿再建から56年後の出来事ということです。神殿が再建されたのはエズラ6:15によると、「ダレイオス王の治世第六年、アダルの月(12月)の三日」とあります。前515年のことです。そこから数えて約57年間。ではその間いったい何があったでしょうか。歴史を見れば一目瞭然です。ダレイオス王の残りの治世が29年。その子クセルクセス王の統治が21年。そして今アルタクセルクセス王の統治が第7年であります。
  ダレイオス王(ダリヨス王)前521-486
  クセルクセス王(アハシュエロス王)前486-465
  アルタクセルクセス王(アルタシャスタ王)前465-428
 ではダレイオス王の首席大臣は誰だったでしょう。そうですダニエルです。ではクセルクセス王の妻は誰でしょう。そうですエステルです。その時クセルクセスの側近に取り立てられたのがモルデカイです。もちろん、アルタクセルクセス王の母はエステルではありません。けれど、祖父の代、父の代、国家の中枢に関わり、信頼おける存在としてユダヤ人がいたのです。だからこそアルタクセルクセス王はユダヤ人への支援を惜しみません。これまでのユダヤ人の忠義に応えたのです。
 それにしてもです。神殿が再建されて60年弱。てっきりユダヤ人は神殿を中心にまとまって、安定した生活をしていると思ったのです。けれど、実際はそうではありませんでした。一向に落ち着くことのないイスラエルだったのです。だから、エズラが派遣されます。国の立て直しのために。いえ、信仰の立て直しのために。信仰を調査して、正しく民を指導するためにです。王は知っています。ユダヤ人が神に忠実に従うなら、神は祝福を惜しまないことをです。それは他ならぬダニエルが、エステルが、モルデカイが、ペルシヤの中枢で身をもって証ししてきたことです。イスラエルの安定は、強いてはペルシヤの安定は、ユダヤ人の信仰にかかっていたのです。だから、もっとも優秀な人物を手放します。本当なら手元においておきたい有能な人物を祖国に帰らせるのです。
 信仰は見える神殿が再建されるだけではダメでした。見えない神殿の霊的再建がなされなければダメなのです。神殿が建つこと以上に、実は礼拝が続けられることの方が難しいのです。イスラエルには秩序が必要でした。神の律法によって治められる必要がありました。何より礼拝が守られることが大事でした。それらは全て神のみ言葉に聞くことから始まります。状況や周囲の声ではありません。「エズラは、【主】の律法を調べ、これを実行し、イスラエルで掟と定めを教えようと心を定めていた。」(7:10)とある通りです。イスラエルの堕落は異民族との交流から始まりました。だから排他的になれということではありません。影響されるのではなく、影響するものであれということです。私たちが変わらない御言葉に聞き、変わらない信仰に生きる時、人々は私たちに影響されるのです。まずは私たちの礼拝生活を再建することです。

220522 Ⅰテサロニケ4:13-18 「死して尚用いられる器」

Ⅰテサロニケ4:13-18 「死して尚用いられる器」

 天の御国の希望とは、雲のような掴みどころのない希望ではありません。私たちに関わるあの兄弟、あの姉妹との具体的な再会を意味しています。そしてこのことは、より大きな一つの恵みへと私たちの目を向けさせます。それは主イエスとの再会です。4:14に「イエスにあって眠った人たちを、イエスとともに連れて来られるはずです。」とあります。4:17には「私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」ともあります。私たちは来たるべき御国において、私たちの恋い慕うところのイエス様と、ようやく面と向かってお会いすることが出来る。いつまでも主とともいるようになるのです。
 さて、パウロは天の御国の順番について言及しています。「私たちは主のことばによって、あなたがたに伝えます。生きている私たちは、主の来臨まで残っているなら、眠った人たちより先になることは決してありません。」(4:15)
 「生きている私たちは、主の来臨まで残っているなら、眠った人たちより先になることは決してありません。」これは何を意味しているのでしょう。ぱっと思いつくのが、入場門の前に並んだ整列でしょうか。日本人は整列するのが好きですね。ラーメン屋でも行列の店と行列のない店が隣同士にあれば、多くの人はたとえ時間がかかっても行列の店に並ぶのではないでしょうか。教会の近くにあるドコモショップには、日曜日の開店前いつも列が出来ていますね。凄いなぁと思ったりします。そんな日常に暮らす私たちですので、ともかく想像するのは、天国の門の前に先に死んだ人から一列に順番につきまして、その後に再臨を生き残った者たち。そしてまだ死に与ることなく迎える者たちがその順番の後ろにつく。こういう場面でありましょうか。でもまぁ、これはちょっと想像しすぎでありましょう。
 ここで強調されているのは行列の順番ではありません。それよりは御国の確かさです。死んでいる人々、眠っている人々はもうすでに主イエスとともにあるというこの事実です。
 先に召された兄弟姉妹を覚えて、私たちはこのような墓地礼拝を持っているわけですが、それは兄弟姉妹が生前このように過ごされた。そういえばあの時こうだった。こんなことがあった。と単なる昔を懐かしむということだけに留まりません。そのように共に過ごした懐かしい兄弟姉妹は、今や、私たちに先んじてよみがえり主とともにある。この約束の中に置かれているということであります。そしてこのことは次に、私たちもその列に加えられるということでもあります。
 以前ある方と話しておりましたら、その方はご自身のことを4代目のクリスチャンだとおっしゃっておられました。4代目と言いますと江戸時代まで遡るでしょうか。すごいですね。聖書を焼かれながら信仰を守ったらしいとお聞きしました。その1代目から、2代目、3代目、歴代の信仰の歩みを誇らしげに語ってくださいました。その方の天の御国の希望はそれははっきりしています。あのあばあちゃんに会える。あのおじいちゃんが先にいる。そういう天の御国の希望です。先立って天にいる信仰者の存在が天の希望なのです。そしてこの希望の中にその方も、そして私たちも入れられていく。
 つまり、私たちもまたやがて次の世代の希望となるのです。私たちが天に召されることで、次の者たちは、ちょうど今の私たちのように、天の御国を確かなものとして想像するようになるのです。子どもたちが、孫たちが、私たちを思い浮かべて天国での再会を待ち望む。そうやって天の御国の希望は引き継がれていくのです。私たちの死すらも続く者たちへの慰めとなる。励ましとなる。これはなんと凄いことでしょうか。私たちは死して尚、主を証しする者として用いられるのです。

220518 エズラ1 「主のご計画は全ての信仰者と共に」

エズラ1 「主のご計画は全ての信仰者と共に」

 エズラ書はバビロン捕囚から帰還した民の神殿工事の様子が記されます。
 1節にあるペルシヤの王キュロスとは、アケメネス朝ペルシアのキュロス2世のこと。キュロス2世は世界帝国の建設者であります。1代でメディア、リディア、新バビロニアを滅ぼした人物で、戦略、戦術のプロであるとともに、政治のプロでもありました。ペルシヤ帝国繁栄の礎となったのは、キュロス2世による被征服民に対する懐柔政策にありました。
 ペルシャ以前、アッシリヤやバビロンは、征服地に対して極めて強硬な政策を採りました。捕囚によりその土地と民を引き離し、民族としての力を削ぎ落としたのです。しかし、これらの政策は多くの不満を持った民を国内に抱え込むことともなり、国力の低下にも繋がりました。
 キュロス2世は全く違う政策をとりました。例えば、小アジアのギリシア人に対しては、武力で脅威を与えるのと同時に利益による懐柔政策を採用しました。ギリシア人の技術を高く評価し、兵士としても採用します。また、バビロンに捕らえられていたユダヤ人に対しては、彼らの信仰を尊重し、彼らの故郷への帰還を認めました。キュロス王の寛大な政策は、それらの被征服民からの支持を取り付け、結果、国の安定に繋がったのです。
 国のあり方として、自国の民以外を認めないという一国主義は決して繁栄しません。これは歴史の認めるところです。グローバル化が叫ばれる昨今、特に諸国民との平和が重要です。ヘイトスピーチの問題は他国の問題ではありません。人権が迫害され、それを正当化する。今、日本国内に住むロシア人に向けられた誹謗中傷が起きています。気持ちはわかります。毎日ウクライナの惨状を見ていれば、必然とロシア憎しの感情が湧いて来ます。けれどそれではプーチン政権がやっていることと何ら変わりません。自分の正義を振りかざし、他人を抑圧する人は、やがてそのベクトルが回りまわって自分に向かってくることを知らなければなりません。

 さて、エレミヤの預言によるとバビロン捕囚は70年。というと、捕囚された民は、もう人生のほぼ全てをバビロンで過ごしたということです。ここで死に、ここで生まれ育った者も沢山おります。何が言いたいかと言いますと、つまり、今更故郷に帰って神殿を再建せよと言われても、思い入れのない民も少なくなかったということです。いえ、思い入れはあっても、目の前の生活に忙しいと言う人も多かった。もちろん彼らは遠い異国の地でもシナゴーグを建設し、神礼拝に勤しんできました。けれど、今ある生活を全て捨てて亡国に帰るということは、主の民としても勇気のいることです。ですから、この帰還命令は強制的なものではありません。あくまでもそれに応じる者。手を挙げる者を募って帰還がなされるのです。
 それにしましてもキュロス2世の政治的配慮には恐れ入ります。寄留地に残る者に帰還民に対して援助をするようにと命じるのです。意図したものかどうかはわかりませんが、これによってエルサレムに戻る者、寄留地に留まる者の間にわだかまりが起きずにいられたのです。単なる望郷ではなく、神殿再建という使命を持った帰還民であることを考えると、自分たちは信仰を優先したけれど、留まった者は生活を優先した。と、帰還民たちは思うかもしれません。逆に留まった者は気後れを感じるかもしれません。しかし、そういう民の中での気持ちの格差に対して、援助することを通して、共に働きに参加するチームとしての意味合いが付与されていくのです。神殿再建は帰還民によるけれども、同時にこれを支える異国の民の働きでもある。そうすることで、イスラエルの民は遠く離れた同胞のために祈り支える者となり得たわけです。これは宣教師を支える諸教会、献身者を支える信徒とも通ずるところです。どちらも尊い働き。しかし、どちらが欠いても事はなされない。荒れ果てた故郷に神殿を再建することは並々ならぬことではありません。残って援助する者はその働きの困難さをよくよく知らなければなりません。また、援助される者はそのために残る者の尊い犠牲を覚えておかなければなりません。どちらも尊い働きです。どちらか一方だけでは決して成り立たない働きです。
 さて、エズラ記ではこれから幾度となく挫折する神殿再建の一大事業の様子を見ていくことになります。しかしその裏でダニエルやエステルがユダヤの民を守ったということも、決して忘れてはならないことです。主のご計画は全ての信仰者と共にあります。ここでは、主の働きの背後には無数の祈りと捧げ物があるということ。また華やかに見えるその道は実は過酷で困難な道であること。しかし、双方が互いを認め支え合うとき、その働きは実現されるということを覚えることといたしましょう。

220515 ルカ10:25-37 「神が綴っておられる“ものがたり”神田英輔記~その3~」 「声なき者の友」の輪 神田英輔師

ルカ10:25-37 「神が綴っておられる“ものがたり”神田英輔記~その3~」 神田英輔師

220508 ルカ12:35-48 「その時に備えよ」

ルカ12:35-48 「その時に備えよ」

 この例え話の主人は今、婚礼に参加しています。つまり期限付きで家を空けているのです。当時の婚礼の祝宴は一週間ほど続いたそうですが、その間、いつ帰ってくるかは主人の気持ち一つです。一週間まるまる参加して帰ってくるかもしれないし、行ったその日に帰ってくることだってあり得ます。ですから主人が真夜中に帰ってきたけれども、しもべたちはみんな寝静まっていて、幾ら主人が戸を叩いても全く気付ない。主人がずっと門の外で待ちぼうけということも当然起こり得ることなのです。けれど実際にそういうことが起きたなら、しもべはこっぴどく叱られることでしょう。理不尽なのは主人かもしれません。帰る日時を前もって知らせてくれれば、寝ているしもべなどいないわけです。それがわからないから、しもべとしては備えようがない話なのかもしれません。けれどこれがもし主人の帰りを待つ話ではなくて、泥棒の話だったらどうでしょう。家に押し入れられたのは私たちが寝ていたのが悪いのではなくて、泥棒が来る時間を前もって教えてくれなかったからです。とは言えないでしょう。ですから主人の帰りを迎えられないしもべは、それは気の毒ですけれども、お役御免となっても仕方がない。少なくとも、主人の信頼を失うことでありましょう。逆に、どんな真夜中であろうと、主人の帰りを出迎えることができたとしたら、そのしもべは主人の信頼をさらに得て褒美に与ることだってあるでしょう。
 イエス様はこれらの例え話を語られた後に言われます。「あなたがたも用心していなさい。人の子は、思いがけない時に来るのです。」ここで初めて私たちは、実はイエス様は主人を迎えるしもべの話を通して、再臨に備えるキリスト者の振る舞いについてを語っていることに気付くのです。
 しかしそうだとすると私たちはこうも思わないでしょうか。婚礼に出た主人は、一週間もすれば帰ってきます。だから極端な話、夜中ずっと眠らずに帰りを待つこともできるかもしれません。けれど、これがもし再臨のときの話だとするのなら、そのために眠らずに待つなんてできるはずがないとであります。何せ、私たちはイエス様が2000年来られなかったことを知っています。ですからこれは、その時に眠っている。眠っていない。ということが問われているのではないということです。なぜならその時を迎えないことも十分あり得るからです。いえ、人類の歴史で誰一人としてその時を迎えた者はいないのです。ですから問われているのはその時ではありません。その時に備えて、今をどう過ごすかであります。
 イエス様は忠実で賢い管理人とは誰かと問われます。それは主人が帰ってきたときに、そのようにしているのを見てもらえるしもべです。それは忠実で賢くしている。常日頃から主人の思いを汲み取って、主人の代わりとなって仕えるしもべです。そのようなしもべを主人は信頼して自分の全財産を任せるようになるのです。いつ帰ってくるかわからない主人に対して、いつ帰ってきても良いように備える。このためのカギは、その日をいつと断定しないということです。その日を特別な日とすれば、その日以外は気が抜けるわけです。しもべの失敗は「主人の帰りは遅くなる。」と思ったことでした。じゃあ逆に、今日主が来られると意識して寝ずの番をして過ごせば良いのか。多分これも持たないですね。3日も続ければ、どうせ今日も来ないでしょ。となることでしょう。
 大事なのは、その日を特別な日として備えるのではなく日常の中で備える。主の再臨を私たちの日常に組み込むということです。仕事も学校も全て最初の1ヶ月が一番大変だと言います。新しい生活が日常化していないからです。GW明けになると新入社員が減っているという嘘のような話も聞きます。そこを乗り越えて日常化することが大事です。信仰も同じです。御言葉に聞くのは日曜日だけ。祈るのは困ったときだけ。それを特別なものとするほどに、私たちはそれが続かなくなってしまいます。そうではなくて、祈ること、聖書に聞くことを日常に取り入れるのです。私は高校時代、hi-b.a.という伝道集会を通じて救いに導かれました。その時のスタッフがよく言っていたのが「no Bible no breakfast」です。朝食をいただくように御言葉をいただく。これが大事です。特別なその日に備えるのではありません。その日が特別とならないようにするのです。今日、主の目に適うことがやがてその日に繋がるのです。

220501 Ⅱコリント8:1-15 「聖徒たちを支える交わりの恵み」

Ⅱコリント8:1-15 「聖徒たちを支える交わりの恵み」

 献金とは文字通りお金を献げることですが、貨幣経済が生まれる前はもちろん献金というものはありません。あるのは現物を献げることです。つまり、収穫の一部を献げるということでした。カインとアベルがそれぞれ地の作物と羊の初子を献げます。それは感謝の表れでした。神に与えられ、神に生かされていることを感謝する。これがそもそもの献げ物の由来です。
 出エジプトの際、イスラエルの民に律法が授けられますが、その時、献金は神の奉仕に携わるレビ人を支えるものとして意味付けられていきます。民数記18:21-24によると、各部族からの十分の一の奉納物はレビ族の相続財産であると言います。なぜならレビ族は天幕の奉仕を担い、独自の相続地を持たないからです。神様はレビ人とその他の部族の関係を仕える者と支える者とされました。それは、神の奉仕は直接仕える者とそれを支える者の双方によって成るということです。つまり献金は神の奉仕を共に担う業と理解されたのです。
 さらに新約時代になりますと、献金は「聖徒たちをささえる奉仕の恵み」(Ⅱコリント8:4)と意味付けられていきます。この「奉仕」と訳されている言葉は、新改訳第3版までは「交わり」と訳されておりました。交わりですから、もちろん一方的ではありません。双方向です。Ⅱコリント8:14には、「今あなたがたのゆとりが彼らの不足を補うことは、いずれ彼らのゆとりがあなたがたの不足を補うことになり、そのようにして平等になるのです。」とあります。旧約時代の分業から、より同格の相互扶助的な意味合いが生まれています。神殿礼拝から離れ、ユダヤ教と袂を分かれたキリスト教会は、同じ父なる神を持つ兄弟姉妹の交わりとして発展していったのです。
 初代教会は単なる礼拝の場ではなく、全てのものを共有する運命共同体でありました。「彼らの中には、一人も乏しい者がいなかった。地所や家を所有している者はみな、それを売り、その代金を持って来て、使徒たちの足もとに置いた。その金が、必要に応じてそれぞれに分け与えられたのであった。」(使徒4:34-35)当時のキリスト者は社会の中では吹けば飛ぶような少数者でした。イエス様を信じることが迫害にも繋がる時代でした。しかし、彼らは互いの暮らしを支え合うことによって信仰を守り通したのです。注目すべきは、誰もがこの欠かすことの出来ない家族の一員足り得たということです。たとえば貧しい人たちは献げなくていいですよ。金持ちだけが献げればそれで良いんですという交わりだったとすればどうでしょう。一見それは愛に満ちた交わりのように思いますが、そこには必ず格差が生まれます。支える者と支えられる者です。支える者はその集団での自らの権利を主張するようになるでしょうし、支えられる者は次第に居心地の悪さを感じるようになるかもしれません。しかし初代教会にはそのような格差はありませんでした。皆が全てを差し出したからです。金持ちも貧しい者もありません。誰もが差し出す者であり、誰もが受ける者でした。ですから、誰もがこの愛の交わりの欠かすことの出来ない一人となり得たのです。
 教会における献金は、特に十分の一献金と呼ばれるものは、各々の収入に応じての献金であるがゆえに、この全員参加の交わりを形成するのです。これが例えばスポーツクラブの会費のような固定額の献金を要求するものだったらどうでしょうか。それは平等なようでいて不平等です。貧しい人は参加し辛く、金持ちは痛みも感じない。そういう交わりとなってしまいます。そうじゃないのです。イエス様は貧しい女性の2デナリを称賛されたのです。献金の機会を取り上げることは、その人の献身の思いを摘み取ることです。またその人の教会への参加を否定することです。ですから献金の機会は誰も奪われてはいけません。全ての人が担うことのできる交わりの恵み。それが献金であります。
 パウロは宣教を支えてくれたピリピの教会に感謝とともに言います。「私のほしいのは、あなたがたの収支を償わせて余りある霊的祝福なのです。」(新改訳第3版ピリピ4:18b)これは言い換えると、ピリピ教会がパウロを支える交わりの中で霊的祝福を得ていたということです。今、わたしたちの教会では、様々な宣教の働きを覚えて協力献金の時を持っております。私たちは献げることを通して、それらの働きを共に担い共に霊的祝福に与っているのです。なんと幸いなことでしょうか。コロナ禍にあって、私たちは隣の人に伝道することすら憚られる日々を過ごしています。けれど私たちは尚も世界宣教に用いられているのです。