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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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220629 詩篇125 「私たちの境界線」

詩篇125 「私たちの境界線」

 都の上りの詩の六番目として数えられています。
 エルサレムは山間部にある町で、主要な幹線道路からは外れた不便な町でありました。けれど、エルサレムには神殿があります。敬虔なユダヤ人は悪路を厭わず、巡礼のためにエルサレムに上っていきました。特に祭りの日には、国中から、数千、数万の人々がエルサレムに上ってきます。町中が人で溢れかえり、巡礼者は郊外にまで設けられた臨時の宿を借りて、大いに散財し、エルサレムの経済を潤したことでした。
 人々がそれぞれの町からエルサレムに上るとき、彼らは一つの集団(キャラバン)を作って旅をしました。なぜなら、その道中は強盗に襲われる危険があったからです。道によっては野獣が出ることもありました。道の脇に死体が転がることも珍しいことではありませんでした。ですから、エリコなどエルサレムの手前の町に入ると、巡礼者たちは出発の時間を調整して、キャラバンを作ってエルサレムに向かうように手配したりもしました。
 そんな巡礼者たちが今エルサレムの町に上ってくるのです。道中の危険に最大限の気を配りながら、巡礼者たちは小高い丘を登ってエルサレムにやって来ます。すると城壁に囲まれたエルサレムが目に飛び込んでくる。町の横には谷が刻まれ、町の奥には山々が取り囲むかのように連なっています。三方を谷で囲まれたエルサレムの町は天然の要害。道中の気疲れもあって、彼らはようやく安堵のため息を着くのです。
 さて詩人は、この様子からさらに発想を飛ばして、主に信頼することの確かさに想いを馳せるのです。宣材写真から発想を飛ばして俳句を作る番組がありますが、それに近いですね。揺らぐこと無くそびえ立つ山々は、まるでエルサレムの町を守るかのように取り囲んでいます。その様子が、み民を取り囲む主の守りのようだと詠うのです。3節に「それは悪の杖が正しい人の割り当て地の上にとどまることがなく正しい人が不正なことに手を伸ばさないようにするためだ。」とあります。エルサレムの周りを取り囲む山々が道中の不便をもたらしました。仮にも首都に続く道のりが強盗や野獣の巣窟となっていました。人々は肩を寄せ合って悪路を旅したことでした。けれど、その不便さがエルサレムを守ってきたのもまた事実なのです。主の守りは、一方で外敵が侵入して占拠することを阻み、一方で住民が外の不正に手を伸ばすことをとどめさせます。内外両方の意味があるんだと言うのです。
 キリスト者はこのエルサレムのようです。山に囲まれたその町は、一見、不便で融通が利かないように思えます。しかし、それゆえに多くの外敵から守られてきたのです。キリスト者の生活は、ここから出ない、これ以上には住まない。という枠組みに囲まれています。人々はそれを窮屈だと言います。融通が利かない奴だと馬鹿にします。これだからクリスチャンは常識がないと言われます。けれどその融通の利かなさにこそ私たちは守られているのです。外の価値観を安易に受け入れるとき、私たちの平和は崩されます。外と中の境界線が無くなれば、私たちはいつであろうと、どこにいても強盗や野獣に心配しなければならなくなります。境界線があるから、私たちはその中で平安を得ることができるのです。不便な山々は私たちにとっては、頼もしい城壁です。主の御言葉こそが私たちの防壁なのです。

220626 ピリピ2:1-11 「思いを一つにして」 原市場聖書教会 若村和仁師

ピリピ2:1-11 「思いを一つにして」 若村和仁師

220622 雅歌3 「夫婦の愛に留まりなさい」

雅歌3 「夫婦の愛に留まりなさい」

 2:8-2:17まで、二人の愛の初めの様子が記されます。けれど、3章前半では一転して愛する人を探し求める女性の姿が記されます。この二人がソロモンとシュラムの女であるなら、政務に忙しいソロモンは、いつもいつも彼女と一緒にはいられないのは当然です。しかし愛する人とのいっときの別れが、彼女の内に相手の存在の大きさを知らしめるのです。どうしても会いたい。その思いは夢にまで出るほどです。捜しても捜しても彼は見つからず町を行き巡って探します。見回りたちが心配して声をかけます。しかし女性は愛する人の居場所を問うことしか出来ません。まるで恋愛ドラマのように恋に狂う女性の姿が記されています。見回りたちを置き去りにして再び愛する人を探し出す女性。そして彼女は愛する人を見つけます。もはやひとときも離れていたくない。彼女は彼をしっかりとつかまえて放さず、自分の母の家に連れて帰ります。彼女の中で結婚の決意が固まる場面です。
 5節にあるフレーズは「揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛がそうしたいと思うときまでは」雅歌の中で繰り返される言葉です。二人の愛が育まれる様子を周囲の者はそっと見守りましょう。というニュアンスでしょうか。コーラスのように入るこのフレーズで場面が変わります。6節からは、婚礼の行列の様子が記されます。当時の結婚式は、前日、花婿が花嫁を迎えに行き、そして花嫁を伴って新居に入るものです。きらびやかな神輿と、脇を守る60人の勇士。多くの人がこの婚礼を祝うために駆けつけます。ソロモンの豪華すぎる婚礼の様子が描かれます。そして4章以降、互いに対する賛歌が赤裸々に語られていくのです。
 雅歌は男女の愛、夫婦における性の交わりを隠すこと無く描きます。それは夫婦にとって互いを結びあわせる大切な絆であるからです。からだの繋がりは精神的な繋がりにも直結します。だから、これは夫婦においてのみ許される特別の関係なのです。第1コリント6:16に「それとも、あなたがたは知らないのですか。遊女と交わる者は、彼女と一つのからだになります。「ふたりは一体となる」と言われているからです。」とあります。遊びの関係がいつの間にか本気になるという話をよく耳にします。当然です。からだの関係は本来夫婦を結びつける結婚の祝福だからです。テモテ・コール先生が良く男女の結びつきを2枚の画用紙を使って説明してくれました。からだの交わりは2枚の色画用紙を強力な糊で張り合わせたようなものだとです。2枚の紙はぴったり重なり、より頑丈な、まるで1枚の紙のようになるのです。しかしこれを無理やり引き離そうとするとどうなるでしょう。互いの紙が無惨に破れ、取り返しのつかない傷を残すことになります。遊女と交わるというのは、単に遊女と一つとなるというだけではありません。夫婦の関係を破り捨てるということでもあるのです。だから雅歌は「揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛がそうしたいと思うときまでは」というフレーズを繰り返し、夫婦の愛に他者が割り込むことを警告しているのです。本気じゃなければ、遊びなら良い。そういう話ではありません。からだの関係は男女の間柄を糊付けします。だからこそ、夫婦の愛に留まる必要があるのです。
 そしてこのことは、教会とキリストとの関係にも適応されるのです。第1コリント6:15「あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだはキリストのからだの一部なのです。それなのに、キリストのからだの一部を取って、遊女のからだの一部とするのですか。そんなことがあってはなりません。」とあります。「キリストのからだの一部を取って、遊女のからだの一部とする」それは一つはキリストとの関係を取り返しのできないくらいに無残に引きちぎる行為であり、一つはもう引き離すことのできない関係を遊女と結ぶことを意味します。不品行の罪とは、実は、キリストとの深い結びつきを破り捨てる反逆の罪と、遊女との深い結びつきを選び取る背信の罪の、二重の罪を犯すことを意味しています。第1コリントは不品行の問題の結びに次のように言います。第1コリント6:19「あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。」内におられる聖霊を追い出してまで、求めるものはあるのでしょうか。私たちが偶像に安易に手を出すことは、大きなリスクを伴います。何かを手にするとき、何かを失うことを忘れてはいけません。誰も二心を持って神に仕えることはできません。私たちは聖霊を追い出してはいけません。

220619 ルカ12:54-59 「時代を見分けよ」

ルカ12:54-59 「時代を見分けよ」

 日本には昔からお天気の知恵袋があります。「燕が低く飛べば雨」とか、「朝焼けの日は雨」とかですね。当時のユダヤにも天気にまつわる知恵がありまして、それが「西に雲が出るのを見るとすぐに、にわか雨になる」とか、「南風が吹くと暑くなる」といったものだったわけです。ユダヤの西といえば地中海ですから、その海上で雲が起こると、上陸して雨を降らすわけです。またユダヤの南にはネゲブの砂漠がありますから、そこから南風が吹くと、熱風が町を覆って暑い日となるわけです。当時はそういった自然現象だけが天候を予測するための情報ですから、よくよく注意して天候を見ていたわけです。
 天気のことは一生懸命に見分けようとするのに「どうして今の時代を見分けようとしないのですか。」とイエス様は問われます。時代を見分けるほうがよっぽど大事なことです。けれど、私たちは目の前の天気ばかり気にしがちですね。また「あなたがたは、何が正しいか、どうして自分で判断しないのですか。」とも問われます。自分で判断するよりもすぐに解答を求めがちです。そんな群衆にイエス様は「どうして」と問います。つまり、自分で見分けなさい。自分で判断しなさいと言っているのです。
 イエス様はここで一つの例え話をされています。金銭の貸し借りがあって、おそらくはそこでトラブルがあったのでしょう。相手から今すぐお金を返してくれと訴えられそうになっているまさにその場面です。そのまま役人のところに行き、裁判官のもとにひっぱって行かれたとしたら、看守に引き渡されて、牢に投げ込まれることはもはや火を見るより明らかなのです。そうすれば「最後の一レプタを支払うまで、決して外に出ることは出来ません。」とあります。レプタというのは先週ご一緒に確認しました。当時のお金の最小の単位です。ですからここ、今でいうと、最後の一円までというニュアンスです。つまり、最後の一円を支払うまで、全ての負債を返し終えるまでは決して許されない。出所することもできない。だから、今、役人のところに連れて行かれるその前に、和解するように努めなさい。と言っているのです。
 さて、イエス様は「どうして今の時代を見分けようとしないのですか。」と問われるのです。今の時代とはどういう時代なのでしょう。それは先程の例えで言うなら、判決の場に連れて行かれようとしている時代です。けれどどうでしょう。それはまだ判決の場には至っていない時代とも言えるのです。まだギリギリ間に合うということです。そこに着く前に和解しなさい。それが最後のチャンスなんだと。今というときをそういう時代と見分けなさいと言っているのです。
 私たちは今の時代の様々な出来事を見て嘆きます。ああ、終末の世だとです。事実イエス様は世の終わりのしるしとして言われます。マタイ24:4-8「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『私こそキリストだ』と言って、多くの人を惑わします。また、戦争や戦争のうわさを聞くことになりますが、気をつけて、うろたえないようにしなさい。そういうことは必ず起こりますが、まだ終わりではありません。民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、あちこちで飢饉と地震が起こります。しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりなのです。」まさに今の時代を言い当てています。世を見渡せば、私たちは終わりのしるしを幾つも見て取れます。パンデミックや戦争、地を揺るがす大地震。もう終わりだと嘆きます。けれどイエス様はむしろそれはまだ終わりではないんだと語られるのです。まだ判決の場には至っていない。今ならまだ和解できるとおっしゃっているのです。世の終わりのしるしとは、世の終わりがこれから来るというしるしです。しかし、それは見方を変えれば、まだ来ていないというしるしでもあるのです。そういう時代の見分け方をしなさいとイエス様はおっしゃられるのです。
 イエス様は群衆に向かって、偽善者たちよ。と言います。非常に厳しい言い方ですね。偽善というのは正しい者の仮面をつけて装うということです。自分が正しいと装うなら、世の終わりのしるしを見分けることはできません。イエス様の言葉は愛と憐れみに満ちています。終末の世を、和解のチャンスだと言ってくださいます。まだ間に合う。終わりではないとおっしゃってくださいます。世の終わりのしるしは、本来私たちに救いを渇望させるものです。けれど、その愛の言葉を私たちの偽善がプライドが遮るのです。今の世は終末の猶予です。私たちは明日ではない、今、主にへりくだり、主の救いに与りましょう。

220615 ネヘミヤ11 「喜んで従う者」

ネヘミヤ11 「喜んで従う者」

ネヘミヤ記は大きく分けて3つの区分に分かれます。
1:1~7:4までがエルサレムの城壁の再建について。
7:5~10:39までがエズラ・ネヘミヤによる宗教改革について。
そして11章からは付録的記述となります。

 11章はエルサレムとその他の町々の居住者のリストです。しかし、よくよく見ると、これは単なる居住リストではなくて、再建したエルサレムの城壁内に住民の一部を移住させている記録だとわかります。7:4に「この町は広々としていて大きかったが、その中の住民は少なく、家もまだ十分に建てられていなかった。」とありました。エルサレムの町はそれまで神殿こそ建てられたものの城壁もなく、決して生活をするのに適したところではありませんでした。エルサレムはヒノムの谷とキデロンの谷に囲まれたテルと呼ばれる丘の上に建てられた町です。古代において水源や防衛上の観点から丘の上に町を立てることが多かったのですが、この時代ではもはや防衛上の利点はほぼ無く、流通のし易い平地の町と比べると不便な町でありました。いえ、そもそも廃墟となったエルサレムの再建は、サマリヤの総督サヌバラテやアモン地方を支配したトビヤ、そしてアラブ人ゲシェム(6:1)によって幾度となく妨害されてきましたから、何もかもがこれから。今城壁が再建されてようやく町の形が整ったわけですが、そこに住む住民はまだ少なく、家もまだ十分に建てられていなくて、民の指導者たちだけがかろうじて住んでいたのが現実です。そこでこの11章にあるように、民の10分の1をくじによって選び、エルサレムの町としての再建を担うべく、住民として移住させることになったというわけです。
 このとき自主的に移住を希望した人たちもいたようで、そのような人たちは人々から祝福されたとあります。言い換えると、ほとんどの人はそれを望まなかったということです。エルサレムは農耕に適した土地ではありません。神殿があり、政治の中心となっていくわけですが、こと自身の生活を優先すれば、そこは不便な土地だったのです。彼らは皆、祖国エルサレムの再建を夢見て、志を持って捕囚の地から帰ってきた民です。けれど、志を持ち続けることができたのは一部の者達だけでした。それが現実です。夢では食べていけない。志で家は建たない。ですから、多くの人はできることなら、別の町に住みたいのです。くじは御心であると受け止めますけれど、実際はエルサレム行きが当たらなかった人は安堵し、当たった人はハズレくじを引いたように青ざめたのです。
 ですから、エルサレムには二通りの人々が入居したのです。くじによって仕方なしに入居する者と自らの意志で進んで入居する者とです。そして進んで神に従う者は皆から祝福を受けたのです。神はふさわしい者、必要な者を選んでくださいます。くじで選ばれた人たちは神のみ心によって選ばれたのです。エルサレムに入居する人たちは全て、この町の再建に必要な人達でありました。けれど神が喜ばれるのは、自ら手を上げて喜んで神に従う者でした。私たちもそのようなものになりたいのです。

220612 マルコ12:41-44 「神に応答する恵み」

マルコ12:41-44 「神に応答する恵み」

 イエス様は宮にある献金箱に向かって座り、人々が献金をささげるその様子をご覧になられておられます。そして大勢いる人々の中から、対象的な人物たちの献金をささげる様子に注目されるのです。多くの裕福な金持ちたちと、貧しい一人のやもめであります。当時の献金箱と言いますのは、宮に備え付けられている金物の献金箱でありまして、特徴的なのは漏斗型をしているということでした。漏斗形になっておりますので、献金を多少乱暴に入れようと、またその量が多過ぎであろうと、綺麗に吸い込まれていきます。非常に理に適った形状の献金箱でした。しかも、この献金箱。献金をする度に音がするわけです。多ければ大きな音。少なければ小さな音。大きな音が鳴ると皆が一斉に振り向いて、羨望の眼差しを向けるのです。これが結構プライドを刺激するわけです。なかなか人間心理を突きました、賢い献金箱だなぁと思います。金持ちは人々の尊敬を集めたくてより沢山の献金をいたしますし、宮はその分潤ったのです。
 イエス様が見ていた先でも、大勢の金持ちたちが競うように大金を投げ入れておりました。居合わせた人たちも、その内、誰が一番多く納めたかと夢中になって見比べていたことでした。しかし、イエス様は違います。イエス様は一人のやもめに目を留めたのです。彼女はレプタ銅貨を二つだけ投げ入れました。すると、イエス様はわざわざ弟子を呼び集めまして、言います。「まことに、あなたがたに言います。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れている人々の中で、だれよりも多くを投げ入れました。」レプタ銅貨というのは当時の一番小さいお金です。どう考えても誰よりも少ないのです。なのに、イエス様は「だれよりも多くを投げ入れました。」と言われる。なぜなら、「皆はあり余る中から投げ入れたのに、この人は乏しい中から、持っているすべてを、生きる手立てのすべてを投げ入れたのですから」と言われるのです。
 確かに金持ちたちは沢山の献金をしていました。けれど、彼らにとってそれは余りある中の一部です。けれど、彼女にとってその2レプタは全財産なのです。自分にとって最大限のものをささげる。この一点で、彼女は誰よりも多くをささげたのです。レプタ銅貨2枚。この2枚ささげたというのが凄いことですね。1枚残すこともできたのです。これが初めから1枚しかなければ、それをささげるかささげないかだけです。しかし2枚ありました。同じささげるにしても、1枚残しておけばいいじゃないですか。明日の保証などないのです。けれど、彼女は2枚ともささげた。ここに彼女の信仰があります。彼女は明日の保証は神の手にあると信じて、全てをささげるのです。更に言うと、彼女のことは誰も見ていません。意識すらしていません。つまり彼女は純粋に神への信仰でささげたのです。金持ちたちは全く違います。彼らは余りある中から、他人の評価を気にしながらささげます。その心は神への感謝ではなくて、人々の賞賛を浴びたいという虚栄心なのです。
 さて、だから皆さんもこの女性を見習って全財産をささげましょう・・・とは私は言いません。けれど、私たちが神様にささげているものを、もう一度よく吟味しましょうと、私は言いたいと思います。痛みを伴うかどうか。信仰によるかどうか。それらを測るカギは、そのささげ物が初穂となっているかということです。言い換えるなら、その献金は私たちの生活の余り物とはなっていないでしょうか、ということです。
 これは何も献金だけのことを言っているのではありません。時間もそうです。奉仕もそうです。そのささげものは余り物になってはいないでしょうか。主の前にささげるもの。それら全てに、私たちは痛みを覚えているか。それはつまり余り物をささげていないか。と問わなければならないのです。 まず収穫の初穂をささげなければ。そして残りを感謝していただく。これが私たちの信仰です。
 ルカ6:36に「あなたがたの父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くなりなさい。」とあります。第1ヨハネ4:19にも「私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。」とあります。時間も収穫も、賜物も、全て主が与えて下さったものです。この理解なくしては、私たちはささげることができません。もったいないと思ってしまう。しかし、そうではないのです。ささげることができるのは、まず与えて下さった神様がおられるからです。まずあわれんでくださり、まず愛してくださるお方がおられるのです。ですから私たちがささげるのは感謝の応答です。十分に与えて下さる神様に感謝してささげることといたしましょう。

220605 Ⅰコリント6:19-20 「私たちの内の永遠」

Ⅰコリント6:19-20 「私たちの内の永遠」

 今日の箇所で特に覚えたいのは私たちのからだが「聖霊の宮」と呼ばれていることであります。ペンテコステはイエス様が天に昇られて後、イエス様の代わりに助け主として聖霊が降られた日のことでありますけれども、それ以降、信仰者のからだは「聖霊の宮」と呼ばれるようになりました。イエス様を救い主と信じる者の内には聖霊が住んでくださるからです。このことを聖霊の内住と呼びます。実はこの聖霊の内住こそが私たちの信仰生活の基盤であります。
 しかし私たちは聖霊の宮と呼ばれることに抵抗があるかもしれません。ペテロはイエス様の栄光を目の当たりにして「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間ですから。」と言いましたが、私たちこそ罪深い人間です。聖霊が共におられることに私たちは申し訳なさを感じます。あまりにも釣り合わない自分に愕然とします。けれど聖霊は敢えて、そのところにおいでになられたのです。まるで、貧しい家畜小屋にお生まれになったイエス様のようにです。私たちが聖霊の宮となることは相応しくないことです。けれど大事なのは聖霊がそれを良しとされたということです。これはペンテコステ以来与えられた特別の恵みです。私たちの助け主は、私たちと共に歩み、私たちを助け、慰め、教え導き、いつも励ますことを自ら選ばれたお方なのです。
 さて、私たちの信仰生活は聖霊の助け無しにはありえません。私たちが罪に気付き悔い改めることができるのも、キリストの十字架の死が罪の贖いであり、このお方を信じる者は罪赦され神の子とされると確証させるのも、主イエスを救い主と告白することも、全て聖霊によるものです。聖霊は御言葉をもって私たちを導き、とりなしをし、私たちを整えて、栄光あるキリストのみからだを建て上げてくださるのです。そして聖霊は私たちに語るべき言葉をさずけ(ヨハネ6:63、Ⅱペテロ1:21)、神の器としてその尊いご計画に用いてくださる。つまり私たちの救いと聖化に纏わる一切の事が聖霊の助けによるものなのです。
 そんな聖霊ですが、何よりも理解すべきことはこのお方が三位一体の神であるということです。つまり聖霊は私たち皆の内に住まわれるお方でありますけれども、唯一の神であり、永遠の神であられるということです。私の中に住まわれる聖霊と皆さんの内におられる聖霊は違う聖霊ということではなくて、一つの聖霊です。そしてその聖霊はペンテコステの折、ペテロの上に降りられたあの聖霊でもあり、キリスト者迫害の張本人であったパウロを主の一番弟子へと生まれ変わらせた聖霊でもあるのです。私たちが2000年前の出来事を今私の出来事として受け取り、聖書の文言を神の御言葉として受け取れるのは、私たちの内に住まわれるお方が、唯一永遠のお方であり、主の御降誕に、十字架に、復活に共におられた、まさにそのお方だからです。これはすごいことですね。アウグスティヌスを真理に目覚めさせた聖霊。マルティン・ルターに改革の炎を与えた聖霊。キリシタン弾圧の折に、迫害に屈しない26人の志を最後まで守り通された聖霊。みんな同じ聖霊なんですね。そしてその同じ聖霊が私たちの内におられるというのです。
 神にどのようなご計画があろうと、キリストによる贖いの御業がどれほど素晴らしくとも、私たちが信仰をもってそれを受け取らなければ、それは単なる歴史的出来事でしかありません。客観的に見れば、そんな大昔の話が私にいったい何の関係があるでしょう。けれど、聖霊はイエス様に関する一切を私のこととして結び合わせて下さるのです。なぜなら私たちの内に住まれる聖霊にとって、それは過去の事でも、他人事でもなく、永遠の神であられるご自身の出来事だからです。この永遠なる神が、今日、私の内から働きかけ、私たちを神の恵みに結び合わせて下さるのです。

220601 ネヘミヤ1 「我が事として」

ネヘミヤ1 「我が事として」

 ペルシヤのアルタシャスタ王の献酌官であったネヘミヤは、エルサレムの現状を聞いて、大いに嘆きます。ユダから来た者たちの報告によると、エルサレムの城壁はくずされ、その門は火で焼き払われたままだったからです。キュロス2世の帰還命令によって故郷の再建に帰ったユダの民は、周辺民の妨害等により神殿の再建は暗礁に乗り上げました。けれどその18年後、神によって遣わされた預言者ハガイとゼカリヤの活躍と、ダレイオス王の許可により、無事に神殿は再建いたします。これで万事上手く行くと思われました。けれど、そうではありませんでした。神殿の再建はなされました。けれど町の再建には至っていなかったのです。町を囲う城壁も門も未だ崩れたままでありました。
 このエルサレムの惨状に嘆いたネヘミヤは、この後、王に帰国を願い出ます。そしてエルサレムに着いたネヘミヤは早速城壁の再建を試みるのです。さて、1章です。
 このネヘミヤの祈りで注目したいことは、目の前の出来事を信仰の視点から見直すネヘミヤの霊的嗅覚です。直接の報告は3節。「あの州で捕囚を生き残った者たちは、大きな困難と恥辱の中にあります。そのうえ、エルサレムの城壁は崩され、その門は火で焼き払われたままです。」城壁が崩され門が火で焼き払われたままであると、遠くエルサレムの実情が報告されています。この現状報告を聞いて、ネヘミヤは罪の告白と悔い改めをするのです。しかも、「まことに、私も私の父の家も罪を犯しました。」と言っています。自らの罪として告白するのです。ここは何気なく読んでしまいがちですが、ネヘミヤの信仰者としての霊的嗅覚を思わせるところです。
 たとえば、私たちはウクライナ情勢のニュースを聞いてどうでしょう。プーチン大統領の罪を糾弾することはあっても、己の罪に目を向けて、悔い改めることはまずしないでしょう。そういう思考回路と言いましょうか、霊的感覚はなかなか持つことはできません。ところが、ネヘミヤはエルサレムの惨状に心から嘆き、民の罪を自らの罪として告白するのです。もちろん、出来事の原因を何でもかんでも罪の結果と結びつける必要はないと思います。全てをそのように騒ぎ立てたら、私たちは罪の呵責で、とても平穏な日常生活を過ごせません。しかし、それでもどこかで信仰者は現実の問題に対して、自らの信仰を問いただすということが必要なのだと思います。
 エルサレムの報告は、崩れたままの城壁と焼き払われたままの門でした。この原因は異民族による反対でした。ですから、それらの者たちの退場を求める祈りをしてもおかしくないところです。ところがネヘミヤは罪の告白と悔い改めを祈るのです。実はエズラ記9章を見ると、異民族が強く出る背景には、ユダヤの帰還民と彼らとの間での婚姻関係がありました。「イスラエルの民、祭司、レビ人は、カナン人、ヒッタイト人、ペリジ人、エブス人、アンモン人、モアブ人、エジプト人、アモリ人など異国の忌み嫌うべき習慣と縁を絶つことなく、かえって、彼らも息子たちも、これらの国々の娘を妻にし、聖なる種族がもろもろの地の民と混じり合ってしまいました。しかも、指導者たち、代表者たちがこの不信の罪の張本人なのです。」(エズラ9:1-2)そこにあったのは異民族との婚姻によってもたらされる信仰の混濁。イスラエルの信仰はその純潔と志を失っていたのです。複雑に結びついた関係の中で、彼らの意見を無視することはできなくなっていました。ネヘミヤはここに問題の本質を見極めるのです。
 しかし、それでも私たちなら罪を犯した同胞を断罪するところではないでしょうか。お前たちの過ちが今日の惨状を招いたんだ。と文句の一つも言いたいところではないでしょうか。けれどネヘミヤの祈りは、彼らの罪を共に背負い、自らの罪として悔い改めるのです。ネヘミヤは人の弱さをよく知っていたのでしょう。人が如何に愚かで自分勝手であるかを知っています。彼は同胞たちの罪を見て、しかしそこに自分自身の罪をも見て取った。そして同時に、主がそのような者に向けられる憐れみの深さにも思い至ったのです。ここでネヘミヤは主がモーセに語った約束を引き合いに出しています。『あなたがたが信頼を裏切るなら、わたしはあなたがたを諸国の民の間に散らす。あなたがたがわたしに立ち返り、わたしの命令を守り行うなら、たとえ、あなたがたのうちの散らされた者が天の果てにいても、わたしは彼らをそこから集め、わたしの名を住まわせるためにわたしが選んだ場所に連れて来る。』これはつまり、罪を犯した者にもう一度立ち返ることが許されているという約束です。私たちは自分可愛さに信仰に妥協し如何に曖昧に過ごしているものでしょうか。他人の罪には敏感でも自分の姿は一向に顧みない愚かなものでしょうか。その罪を糾弾し裁くのが信仰なら、その罪を共に背負い共に悔い改めるのも信仰です。ネヘミヤは後者でした。もちろんイエス様もそうでした。私たちも彼に倣いたいのです。