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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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220731 イザヤ43:16-21 「見よ、わたしは新しいことを行う。今、それが芽生えている。」 勿来キリスト教会 住吉英治師

イザヤ43:16-21 「見よ、わたしは新しいことを行う。今、それが芽生えている。」 住吉英治師

220724 ルカ13:18-21 「神の国の成長」

220724 ルカ13:18-21 「神の国の成長」

 からし種はあぶら菜の一種で黒くてとても小さな種が特徴です。吹けば飛ぶようと言いますが、本当にちょっとした息で吹き飛んでしまうような小さな種。誰もが気にも留めないような小さな種です。けれどこの種がいったん地に蒔かれますと、それはどんどん成長し、やがては大きく枝を張り、空の鳥が巣を作るほどになるのです。
 パン種は種と言っても土に蒔く種ではなくて、いわゆる酵母菌のことです。パンがふっくらと膨れ上がるのは、パン生地を酵母菌が発酵させるからです。別に多くの酵母菌が必要ではありません。わずかなパン種が大量の生地を膨らませませるのです。
 神の国はこのからし種のようであり、パン種のようなものだとイエス様はおっしゃられるのです。それは神の国とは初めから大木ではないということです。初めはからし種のような小さな小さなもの。しかし、やがてはそこに沢山の鳥が住む大きな木となるのです。そしてわずかなパン種が大量の生地を膨らませるように、たくさんに影響するのです。
 事実、神の国の働きは小さな小さな者たちを選ぶことから始まりました。イエス様によって選ばれた12弟子。それは一際能力があるわけでも、権力があるわけでもありません。ごく普通のありふれた者たちです。ある者は漁師、ある者は取税人。話すことが特別得意でも、人目を惹くような容姿があったわけでもありません。きっと不安があったと思います。こんなはずじゃないとぼやいたこともあるでしょう。けれど12人の弟子を選ぶことから始まったこの小さな小さな働きは、やがてはイスラエル中に広まり、ローマに広まり、そして世界中へと広まって行ったのです。最初は小さな働きでも、思いも及ばないほどの大きな成長をする。これは神の国の特徴なんだと言われるのです。
 私たちは種蒔きの働きを主から委ねられています。パン種をまぜる働きを任せられています。しかし私たちが自らの努力や知恵で、この神の国を大きくしよう。神の国をもたらしてみせよう。こういう発想は実は聖書が語る神の国のあり方ではありません。
 実はマルコの福音書には、このからし種の譬え話とセットで語られたもう一つの譬え話が記録されています。マルコ4:28「地はひとりでに実をならせ、初めに苗、次に穂、次に多くの実が穂にできます。」地に蒔かれた種が人手によらずひとりでに成長するという譬え。これが神の国の譬えを読み解くカギです。ひとりでにとは本当でしょうか。農家の方は、足繁く畑に通って、雑草を取り、水をやり、害虫を駆除し、手塩をかけるこそ、立派な野菜が育つのではないでしょうか。それをひとりでに、人手によらずとはかなり横暴にも聞こえます。けれど、イエス様はここで農家の苦労を否定しているのではありません。イエス様が語ろうとしているのはもっと根本の話です。つまり、この種に宿る命について語っているのです。どれだけ人が世話をしようとも、その種が死んだ種ならば決して芽を出すことはありません。なぜ種が芽を出し、苗となり、穂を結ぶのか。実を宿すことになるのか。それは、この種の中に命があるからです。パン種も同じです。温度や湿度や養分にどれだけ気を配ろうとも、そもそもの酵母菌が死んでいればパン生地が発酵することはありません。同じように、神の国は人間の努力によって広がるのではない。神の国の拡大は人の力によらず、その福音自体に力があるからだと言っているのです。私たちがもし自分たちの力で神の国を広げてやろう、神の国を大きくしてやろうと考えているなら、それは傲慢であり自惚れです。神の国が広がるのはただ福音の力です。福音に命があるからに他なりません。
 そのような傲慢な自惚れに対して、イエス様は「人手によらず」と語られます。痛烈ですね。けれどそれは単なる私たちへの警告ではありません。種を蒔く者は驚くほどの収穫を刈り取るという約束でもあります。それは、この種に命を与えられた方がこの種の成長に責任を持たれるということです。福音を告げ知らせるとき、キリストを証しするとき、その言葉には力があります。それは神が与えられた力です。そして、この御言葉は無駄に終わることは決してなく、やがて収穫の時を迎えるのです。

220720 ヨハネ6:1-15 「主に不可能はない」

ヨハネ6:1-15 「主に不可能はない」

 「どこからパンを買って来て、この人たちに食べさせようか。」5千人給食の記事は4つの福音書全てに記されている特別な記事ですが、イエス様のピリポに対するこの質問はヨハネにしか記されていません。マタイ、マルコ、ルカを読みますと、山での説教が熱を帯びたのか、気付くと日も暮れてきます。皆食べるものを用意しているわけではないし、このままでは騒動になってしまうかもしれない。ですから、そろそろ解散させてください。と、このように意見する弟子たちに対して、「あなたがたがあの人たちに食べる物をあげなさい。」とイエス様がおっしゃったことが記されています。ところが、ヨハネの福音書を読みますと、実は、長い長い野外集会の始まる以前に、イエス様はすでにピリポに食事の手配について尋ねておられたと言うのです。
 そうするとニュアンスが違ってきます。実はこの野外集会の間、弟子たちはずっと食べ物の手配のためにあれこれ思案していたのです。手元にあるのは2百デナリ。決して少ないお金ではありませんが、群衆が満足するパンを買うことは出来ません。何より、これは大事な軍資金。手を付けることはできません。イエス様がお話をされる傍らで、彼らは群集たちの間を右往左往しながら、食べ物はないかと探します。けれど見つけたのは少年が持っていたわずか2匹の魚と5つのパンのみ。これっぽっちではせいぜい2、3人が食べてお終いです。他に良い解決策も思い浮かばず、仕方なく彼らは群集を解散するようにとイエス様に提案したのです。
 ですから、彼らが解散をするように提案したのは、何も簡単に責任を放棄しようとしているのではありません。彼らなりにあれこれと手を尽くした上での最善の結論だったわけです。彼らも頑張ったのです。しかし、如何せん、目の前の人々は多すぎて、どう足掻いても、無い袖は振れません。わずかな食べ物を差し出して、えこひいきだとか、足りないとか、あれこれと文句が出るよりは、いっそのこと解散させた方が良い。事情を説明すれば彼らも納得するだろう。これが彼らの結論だったわけです。
 なのに、イエス様は「あなたがたがあの人たちに食べる物をあげなさい。」と取り合ってくれません。ピリポはイエス様に言います。「一人ひとりが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」アンデレがさらに付け加えます。「ここに、大麦のパン五つと、魚二匹を持っている少年がいます。でも、こんなに大勢の人々では、それが何になるでしょう。」彼らの言うことはもっともです。根拠もあるし、常識もある。イエス様こそ、無茶なことを言っているように思えます。
 けれど、イエス様の用意されていた結論は、彼らの常識を遥かに超えていたものでした。イエス様の祝福の下、5つのパンと2匹の魚はそこにいる全ての人の腹を満たし、尚、12かごがいっぱいになったのです。
 私たちの常識でこの奇跡の記事を理解することは出来ません。私たちはいつも常識という心の枠に捕らわれています。こんなちょっとの食べ物なんてどうしようもならない。たった5つのパンと2匹の魚なんてあっても意味が無い。目の前の問題はあまりにも大きすぎて私には何もすることができない。…これが私たちの常識です。でも実際はどうだったでしょうか。私たちの常識を遥かに超えて、主の御手が働かれたのです。主が祝福すると、これっぽっちと見向きもしなかった、何の価値も見出せなかったそのパンと魚が、5千人の人々を満足させる食物へと変えられたのです。
 この5千人給食の出来事は、弟子たちに、自分の働きではない。主が働かれることこそが解決であることを強烈に教えたのです。いえ、当時はそこまではっきりとしていなかったかもしれません。けれど、この後、彼らはイエス様の十字架と復活、そして昇天を経験し、イエス様から託された福音を携えて出て行きます。もちろん、その働きは簡単にはいきません。多くの困難に直面し、失敗にも思える出来事を経験いたします。そんな彼らが、この5千人給食の出来事に支えられるのです。この働きは私の力によるのではない。主の働きは、主が責任を取ってくださる。だから、彼らは恐れないで精一杯に主に仕えることができたのです。これは私たちにも言えることです。主の働きは主にこそ解決がある。私たちの内にはありません。ここを間違えないようにしたいのです。

220717 ルカ13:10-17 「何のためのルールか」

ルカ13:10-17 「何のためのルールか」

 話は、イエス様が会堂で教えておられた最中に、18年間、腰の病に悩まされて伸ばすことの出来なかった女性の、その病を癒されることから始まります。「イエスは彼女を見ると、呼び寄せて、「女の方、あなたは病から解放されました」と言われた。そして手を置かれると、彼女はただちに腰が伸びて、神をあがめた。」すると会堂司がそれを見て言います。「働くべき日は六日ある。だから、その間に来て治してもらいなさい。安息日にはいけない。」会堂司はイエス様が安息日に癒やしを行ったことに憤って言ったのです。けれど、イエス様ご自身にそのことを言うのではなくて、群衆に向けて言っているところに、会堂司の思いが透けて見えます。会堂司の関心はイエス様の奇跡云々ではなくて、実は、人心掌握にあったということです。会堂司は群衆の心がイエス様に向けられることをいち早く察知して、釘を差すために言うのです。
 イエス様は彼に言います。「偽善者たち。あなたがたはそれぞれ、安息日に、自分の牛やろばを飼葉桶からほどき、連れて行って水を飲ませるではありませんか。この人はアブラハムの娘です。それを十八年もの間サタンが縛っていたのです。安息日に、この束縛を解いてやるべきではありませんか。」会堂司は安息日を盾にして、イエス様と癒やされたその女性を非難したのです。けれど、その彼の実態は安息日に自分の牛やろばを飼い葉桶からほどき、連れて行って水を飲ませているのです。彼の厳格な教えに照らせば、それは許されざる労働です。なのに、そんな自分を棚に上げて、彼はイエス様のことを非難するのです。イエス様はそれを指摘しています。
 けれど、ここで覚えておきたいのは、イエス様は彼らが安息日に牛やろばを飼い葉桶からほどいたことを責めておられるのではないということです。それは安息日と言えど、牛やろばの生命を生かすために必要な労働です。同様にイエス様はこの女性の束縛を解くことは、むしろ安息日に相応しい行為なんだとおっしゃられるのです。安息日に休むことには目的がありました。最初の6日間をかけてこの世界を創造された神様は、7日目にご自身のなさっていた全ての御業を休まれました。それはご自身のなされた御業を顧みて、これを良しとし、この日を祝福の日とするためでした。決して休むこと自体が目的だったのではありません。神の創造の御業を喜び讃えること。つまり神を礼拝することが休むことの目的です。ですから、イエス様は安息日云々を言っているのではありません。目の前にいるこの女性の救いをなんで真っ先に喜んでやれないのかと嘆いているのです。それこそが神の御心なんだおっしゃられるのです。
 この女性は何も初めて会堂に来たわけではないでしょう。18年間、腰が曲がり、全く伸ばすことができず、それでも礼拝を欠かさない彼女。会堂司がそんな彼女を知らなかったはずがありません。なのに、今、この女性の癒やしを喜んでやれないでいるのです。目に入っていないのです。自分の正義、自分の主義主張、自分の主観に凝り固まると、私たちはたとえ目の前にある奇跡にすら気付けなくなってしまうのです。他人の目の塵にばかり夢中になってしまうのです。これは大変危険なことです。私たちの信仰から喜びを失わせることになります。感謝を手放すことになります。義務と束縛ばかりを感じ取るギスギスした信仰生活になってしまいます。ルールを守ることが目的になってしまうと本末転倒してしまいます。ルールを守ることで何を守りたいのか。何が大事なのか。と問い続けることが大事なのです。一人の罪人が救われること以上に天の喜びはありません。目の前にいるその一人が救われるために、その一人を喜ぶために。いったい私たちに何ができるのか、問い続ける者でありたいのです。
 イエス様の言葉を聞いて、反対していた者はみな恥じ入りました。そして群衆はみな、イエス様がなさったすべての輝かしいみわざを喜びました。自分の姿を俯瞰してみることが大事なのかも知れません。自らの振る舞いに気づいた時、彼らは恥じ入ったのです。群衆は癒やされた女性に思い至ったのです。自分の感情に身を委ねるよりも、神様のみこころに身を委ねることです。神様がご覧になっていたら何と言うだろうか。日常の中に我が身を俯瞰して見直す。そういう視点を持ちましょう。

220710 ルカ13:1-9 「悔い改めないなら」

ルカ13:1-9 「悔い改めないなら」

 イエス様と群衆の下に、終わりのしるしを思わせる信じがたい一報が届きます。「ピラトがガリラヤ人たちの血を、ガリラヤ人たちが献げるいけにえに混ぜた」ガリラヤ人という呼び名は、単にガリラヤ地方出身という意味の他に、ローマからの独立を目指す「熱心党」と呼ばれる人たちを揶揄する呼び名でした。度々、ローマ市政に対して暴動を起こす彼らは、ピラトからすれば危険なテロリスト集団。そんなガリラヤ人が過ぎ越しの祭りのために神殿で生贄を捧げておりました。ピラトはそこを襲撃したのです。襲撃は極めて一方的で残忍な結果をもたらしました。
 イエス様は「そのガリラヤ人たちは、そのような災難にあったのだから、ほかのすべてのガリラヤ人よりも罪深い人たちだったと思いますか。」と問います。つまり、人々はそう思ったのです。自業自得。ローマに歯向かう彼らは殺されても仕方がない。と、こう思った。なんだったら、余計なことをしてくれるなと、思ったことでした。ところが、イエス様は言います。「そんなことはありません。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」
 イエス様は当時話題になっていたもう一つの事件にも触れられます。「シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいるだれよりも多く、罪の負債があったと思いますか。」シロアムの塔の崩壊。これはピラトによる殺害とは違って完全な事故です。誰も予測できない事故。そんな事故に遭うなんて、彼らはよっぽど神の怒りを買っていたに違いない。けれど、イエス様は言います。「そんなことはありません。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」
 どちらのケースでも「そんなことありません。」と否定されます。では何を否定されているのでしょう。それは災難にあうのは他の人よりも罪深いからだという因果応報の考えです。どんな死に方をしたから、どんな不幸にあったから、その人は罪深い。罪の負債が大きい。そうじゃないんです。全ての人は罪深いのです。全ての人は滅ぼされても文句を言えない身なのです。それを、あの人たちは罪深かったんだと言う。それは暗に自分は違う。自分は大丈夫と思いたいだけなのです。そのために死んだ人の罪深さを声高に叫ぶ。けれどイエス様は「そんなことありません。」と言われます。「あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」と言われます。これはあなたの問題だと語られるのです。
 イエス様は続けていちじくの木の例えを語られます。実を結ばないいちじくの木は切り倒す。これは主人としてごく当然の考えです。ところが、ぶどう園の番人は言います。「ご主人様、どうか、今年もう一年そのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥料をやってみます。それで来年、実を結べばよいでしょう。それでもだめなら、切り倒してください。」ここで私たちは、この話が前回の終わりのしるしの話の直後に語られていることに思い至るのです。つまり今は終末の時代という話です。終わりのしるしが見られて、久しいのです。一世紀のクリスチャンは、パウロは、ペテロは、もうすぐにでもイエス様は来られると考えておりました。なぜなら、終わりのしるしが見えていたからです。だから常に緊張感を持っていました。いつその時が来ても良いように身を引き締めて過ごしました。投獄されても、迫害にあっても、神に従うことを第一としました。けれど、その時は来ず、今に至ります。
 皆さんはこの長い長い終末の時代をどのように理解されるでしょうか。ある人は全世界に福音をと言うのだから、全世界に福音が至るまではその時は来ないと言います。またある人は終わりの時をチラつかせることで、キリスト者の信仰を発奮させているんだと言ったりします。けれど、そうではりません。その日はいつ来てもおかしくないないのです。けれど、番人のとりなしのゆえに、留まられているだけなのです。主イエスの贖いによるとりなしのゆえに、神はその時を待ってくださっているのです。そして、その間、番人は木の周りを掘って、肥料をやってみると。つまり、主イエスご自身が変化のないその人に愛をもって関わり続けると言われるのです。それでもだめなら、とイエス様が諦めるまで。ということは、その時が未だ訪れていないということに、イエス様の愛の関わりと私たちへの期待は未だ失われていないということです。
 この終末の世、私たちにできることは何でしょうか。それは悔い改めの実を結ぶことです。それは等身大の自分を認めるということです。ぶどう園にあるいちじくであることを恥じる必要はありません。ぶどうの木を羨む必要もありません。私はいちじくにすぎない者。けれど、いちじくにも実は付きます。そして主人はその実を刈り取るのを楽しみに待っておられるのです。

220706 ヨハネ1:29-42 「イエスの下に」

ヨハネ1:29-42 「イエスの下に」

 ヨハネが自分との対比によって、イエス様がどれほど素晴らしいお方かを弟子たちに語り、それを聞いた弟子がイエス様に付いて行くという場面です。「見よ。神の小羊」この言葉を聞いて二人の弟子、アンデレとヨハネがイエス様の後について行きました。
 イエス様は二人に振り向かれて問われます。「あなたがたは何を求めているのですか」ヨハネの福音書で語られるイエス様の最初の言葉です。これはとても大切な問いかけです。と言いますのも、何を求めているかによって、その人が必要とする救い主が違ってくるからです。政治的な救いを求めるなら、議員に訴えるべきでしょう。宗教的な癒しの宣言なら祭司のところに行くべきでしょう。経済的な救済なら金持ちの家の前に座るのが良いでしょうか。イエス様の後を追いかける二人ですから、求めがあるのは間違いない。けれど、それがいったいどういう求めなのか。何を求めるかによっては、イエス様に付いていくことは何の意味も成さなくなるのです。私たちも何を求めているのかが問われるところです。
 アンデレとヨハネの求めているものは何でしょうか。彼らはヨハネの言葉を聞いて、イエス様の後を追ったのですから、彼らの求めは一つです。あなたがどういうお方かを知りたい。ですから彼らはイエス様に声をかけられたのをこれ幸いに「ラビ。今どこにお泊りですか。」と尋ねます。つまり、「先生、今どこにお泊りなんですか。私たちはあなたをもっと知りたいです。あなたととことん話し合いたいのです。あなたのお泊りになっているところにご一緒してもいいでしょうか。」と願ったのです。
 「来なさい。そうすればわかります。」二人はイエス様の声に従って宿へとついて行きます。「時は10時頃であった」とあります。現代の時刻では、午後4時。つまり、ユダヤの日没を意味します。日没は一日の終わりであり始まりです。そして、「その日彼らはイエスといっしょにいた。」ともありますから、その晩、彼らは夜通しでイエス様と語り合ったということです。どんな話があったか詳しくは書かれません。しかし、想像はできます。翌朝、彼らは「私たちはメシヤにあった。」と人々に告げ知らせたからです。41節に「彼はまず自分の兄弟シモンを見つけて」とあります。ペテロを始めとして、他の人々にも、という意味です。つまり、そういう晩を過ごした。イエス様をラビ(ユダヤ教の先生)と呼んでいた彼らが、今メシヤと確信し、それを人々には黙っていられない。そういう一夜を過ごした。イエス様は彼らの悩みを真剣に聞き入れ、聖書を解き明かし、ご自身を明らかにし、祈り、魂に触れる交わりを共にされたのです。
 大切なのは、イエス様のもとに行くということです。遠くから眺めているだけではダメなのです。そうすればわかるというのは、そのようにして下さるということ。イエス様と向きあえば、イエス様の言葉に耳を傾けば、イエス様がわからせて下さるのです。私は高校生の頃に聖書に触れ、教会に導かれました。しかし、どこか頑なで、興味はあるけど、信じたいけど、イエス様のことを全て知るまでは、聖書を隅から隅まで納得するまでは信じることは出来ないと思っておりました。そうでなければ信じる資格がないとです。しかしある時、それは順序が逆であることを知ったのです。まずは求めを持ってイエス様のもとに行くのです。そうすればわかる。私は神がおられること。イエス様が神の子であること。私の救い主であることを信じました。というよりも、私の中でそのように心を決めました。すると、聖書のあらゆる記事が、納得がいくものとして心の中にストンと落ちたのです。信仰は私たちの旗色を鮮明にすることから始まります。私は何を求めるのか。私は誰についていくのか。私たちがまず心を決める時、その他のことは自ずとわかるようになるのです。信仰は知識に先立つのです。

220703 創世記12:1-3、第Ⅰペテロ2:10 「私たちは選ばれた民」

創世記12:1-3、第Ⅰペテロ2:10 「私たちは選ばれた民」

 「教会」を考える時、そこに集う一人ひとりがこの神の民であるというのは、とても大事な理解です。仮に教会に集う人たちが、神の民というアイデンティティを失えば、それはもう教会とは言えません。たとえば、近所の人が教会に集まって自治会の話し合いを持つ。これは教会の集まりとは言いません。同様に、たとえば私たちが礼拝そっちのけで金儲けの話ばかりをしているとしたら、それはやはり教会ではありません。
 神の民とは何でしょうか。神の民になるというとき、そこには、あらゆる他の民から選り分けられるという意味があります。神の選びの民ということです。アブラハムは神によって召し出され、神の民とされていくわけですけれども、アブラハムを召し出された主の言葉はこうです。「【主】はアブラムに言われた。「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」(創世記12:1-3)この召し以前、アブラハムの生活は周囲の人々と何ら変わらないものでした。しかし、主がアブラハムに語りかけられたこの瞬間、彼は神によって選り分けられたのです。そして神の民としての歩みが始まります。この選り分けられるという体験は、実は全ての神の民が経験していることです。「あなたがたは以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、あわれみを受けたことがなかったのに、今はあわれみを受けています。」(Ⅰペテロ2:10)とあります。以前は神の民でなかった者が、神の民とされる。以前はあわれみを受けたことがなかった者が、あわれみを受ける者とされる。この立場の変化こそが、選り分けられるということです。罪の奴隷から義の奴隷に。古い革袋から新しい革袋にであります。
 こんなことを言うと、クリスチャンは傲慢だとか、キリスト教は選民思想だとか思われるかも知れません。けれどそうではありません。神様はご自身の民を選ばれます。けれどそれはその民だけを救おうとされるとか、その民だけを特別扱いをするということではありません。その民に固有の役割を与えられたということです。創世記12:3に「わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」とあります。神の民が神に従って歩む時、神はその民を大いに祝福いたします。すると異国の民はそれを見て、真の神を信じることの幸いを知ります。また神の民が神に背く時、神はその民を懲らしめます。すると異国の民はやはりそれを見て、真の神をないがしろにすることの不幸を知ります。どちらにせよ、ある特定の人々が神の民として選ばれたがゆえに、世の人々は神の実在に触れていくのです。そしてまさしく神が民を選ばれる理由がここにあります。
 ですから私たちが選ばれた理由をあえて言うなら、救われて変わる振り幅のゆえと言えるでしょう。奴隷として社会の底辺で扱われていたイスラエル人が、神の民として神の存在を証明する器となる。エジプトの人々はその変化の振り幅にイスラエルの神を認めざるを得なかったのです。同様に、こんなにも愚かな私を選ぶ神様は何と憐れみ深いお方なのか。私たちの罪深さが主イエスの愛の深さを証明するのです。
 ですから、私たちが世にあって選り分けられた存在であるということが大切です。それは世の人々と関係を断つということでありません。神の民として世にあるということです。そこにこそ特異点があり、存在理由があるのです。「あの人達は何か違うなぁ。」と言われるところに教会の意味があるのです。私たちは時々逆のことを思ったりします。教会が世の人々に受け入れられるように、彼らの必要に教会を寄せようとしたりします。そうすれば確かに受け入れられるかも知れません。教会は常識がありますね。教会も私たちと変わんないですね。けれどそれは教会でなくても良いということの裏返しです。世と違うということ、以前とは違うということを恐れる必要はありません。むしろ誇るべきです。私たちには死への解決があります。永遠の希望があります。それこそ世の人が求めてやまない聖書の真理なのです。