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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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220828 ルカ14:1-6 「神の御心を見る」

ルカ14:1-6 「神の御心を見る」

 ある安息日のこと。イエス様は食事をするために、パリサイ派のある指導者の家に入られました。12節に「イエスはまた、御自分を招いてくれた人にも、こう話された。」とあります。イエス様は招待されてやって来たのです。そのイエス様の前に「水腫をわずらっている人が」おりました。ここで疑問がわきます。水腫をわずらっている人は、なぜここにいるのでしょうか。当時の考えでは、それは不道徳な生活の報いだと考えられておりました。そんな人がなぜパリサイ派の指導者の家にいるのでしょう。指導者の家ですから、貧しい掘っ立て小屋ではなくて、門があり塀がある立派な佇まいをした家であります。ふらっと立ち寄る、紛れ込めるような家ではありません。そんな指導者の家になぜ水腫の人がいるのか。ここに「そのとき人々はじっとイエスを見つめていた」とあります。人々はイエス様が家に入られたそのときからじっと見つめます。イエス様の振る舞いを見張っているのです。つまり人々は最初から状況を理解しているということです。この食事の場に水腫をわずらっている人がいることも、そのところにイエス様が招待されたことも知っています。その上で、イエス様がどう振る舞うかを、ただじっと、黙って見つめているのです。つまり全て企てられたシチュエーションだということです。イエス様を罠に陥れるために、この病の人はわざわざ連れて来られたのです。
 彼らはイエス様がどう振る舞うか、おそらくこの病人を癒すと踏んでいたことでした。イエスなら病人を前にして癒やすだろう。しかし、そうすれば安息日の戒めを破ることになる。イエスは律法を蔑ろにしたと責め立てることができる。仮に癒やすことなく見て見ぬふりをするならば、それはそれでイエスの評判を貶めることができる。そう企てていたのです。イエス様は「安息日に癒やすのは律法にかなっているでしょうか、いないでしょうか」と問われます。彼らは黙って答えません。病人に目を留めたイエス様にしてやったりということろでしょう。
 そんな彼らにイエス様は言います。「自分の息子や牛が井戸に落ちたのに、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者が、あなたがたのうちにいるでしょうか。」井戸に自分の息子や牛が落ちたなら、すぐにでも引き上げるのは当然のことです。命に関わるからです。けれど、じゃあ、あの水腫の人のケースと、息子や牛が井戸に落ちたケースとが同じなのかという問題が出て来ます。何もわざわざ安息日に癒やさなくても、次の日で良かったんじゃないか。こういう議論が出てくることが予想されます。けれど、違いました。「彼らはこれに答えることができなかった。」
 なぜでしょうか。彼らはイエス様が安息日に癒やすことが正しいかどうかを議論しているのではないことを悟ったからです。彼らが問うたのは神の命令に従うかということでした。けれど、イエス様が問うたのは、神の御心に従うかということでした。愛する息子が井戸に落ちた。生活を支える大切な牛が井戸に落ちた。そんな場面であれば、それがもし律法違反だとしても引き上げずにはいられないのです。そしてそれは神の御心にかなっているのです。ユダヤでも安息日の例外として認められています。今、イエス様がこの例えを持ち出されたのは、それと同じ思いで神があの水腫の人を見ているということを言っているのです。もしそれがたとえ律法違反に当たったとしても、あの者を癒やさずにはいられない。そのような対象として見ているということです。彼らがイエス様を陥れるための道具として見ていた水腫の人を、神が愛の対象として見ておられるのです。彼らは先程は黙っていました。けれど今は答えることができなかったというところに、彼らの悔しさや恥ずかしさというものが透けて見えます。
 厳格に律法を守ることはとても大変ですが、ある意味ではそれは楽なことでもあります。それさえ守っていれば良い。そういう信仰でもあるからです。けれど、律法に込められた神の御心に従うというのは、これは律法を守るどころの話ではありません。超越しています。そもそも神の御心を知ることなど私たちには過ぎたことです。けれど、だからこそ、私たちはイエス様を見るのです。イエス様には、神の御心が知らされているからです。安息日を守りなさいと言われた神の御心は、イエス様を通して明らかにされました。それは目の前の命を尊ぶということ。愛を振る舞うということです。「御子は、見えない神のかたちであり、すべての造られたものより先に生まれた方です。」(コロサイ1:15)私たちに神の御心はわからなくとも、イエス様はそれをご存じです。そしてご自身の振る舞いで、私たちにそれを明らかにしてくださっています。私たちはイエス様に倣えば良いのです。

220821 ルカ13:31-35 「進むべき道」

ルカ13:31-35 「進むべき道」

 パリサイ人たちの言葉は一見すると好意的に思えますが、イエス様はこのパリサイ人があの狐(ヘロデ)から遣わされた者であると知って返事をしています。彼らはヘロデの意向を受けて、イエス様に語りかけています。ですから、パリサイ人の言葉は、忠告というよりはむしろ脅しのようなニュアンスであったということがわかります。
 それに対してイエス様は、「見なさい。わたしは今日と明日、悪霊どもを追い出し、癒やしを行い、三日目に働きを完了する。しかし、わたしは今日も明日も、その次の日も進んで行かなければならない。預言者がエルサレム以外のところで死ぬことはあり得ないのだ。」と語られるのです。どこに行ってもイエス様の周りには大勢の群衆が集まっておりました。今もそうです。イエス様は集まった群衆の中にあって、悪霊どもを追い出し、癒やしを行われ、そして神の国を説いておりました。聴く彼らは救いと癒やしを求めてあらゆる手を尽くし、けれど万策尽きて、他に頼る者もおらず、もう噂のイエス様しかいない。藁でも掴む思いでやって来た人々です。そんな人々を前にイエス様は「この町で成すべきことを最後までやり通す。」と宣言されます。今日も明日も、その次の日も、イエス様は粛々とその日成すべきことを全うされるお方です。それはこの町だけに留まらず最後まで貫徹するとです。
 ヘロデの脅しは決して口だけの脅しではありません。彼にはそれを実行する力がありましたし、事実バプテスマのヨハネは首を刎ねられたのです。にもかかわらず、イエス様は堂々と言います。「預言者がエルサレム以外のところで死ぬことはあり得ないのだ。」とであります。もちろん、これは預言者全般のことを言っているのではありません。むしろイエス様の覚悟的なもの。お前が何を企てようとわたしの働きに何の影響もない。眼中にない。まるでそう言っているように聞こえるのです。
 そこでルカは実はエルサレム城内で語られたイエス様の台詞をこの続きとして記すのです。結論から先に言っておきますと、イエス様は確かに眼中になかったのです。ヘロデの脅しなど、気にも留めていない。なぜなら、イエス様が見ておられたところは常に別にあったからです。イエス様は常にエルサレムを見ておられた。ご自身の使命を見ておられた。詩篇61:3-4にこうあります。「あなたは私の避け所、敵に対して強いやぐら。私はあなたの幕屋にいつまでも住み御翼の陰に身を避けます。」ダビデによるこの詩は神が避け所であることを歌っています。神は親鳥が雛をその御翼の陰に置くごとく、ご自身の御手の中に神の民を守り囲むのです。このダビデの詩に励まされて、多くの神の民は神にひれ伏し神に身を委ねて平安を得たのです。ところが今日の箇所を見ますと、エルサレムは、神の民は、もはや神の御翼の下に逃れることを望まないのです。その人生を俯瞰してみれば、その先に救いはないというのに、民は神に身を委ねるよりも、自分の思いのままに過ごしたい。安全で平和な御翼の陰をまるで窮屈だと言わんばかりに、飛び出して振り返らないのです。それゆえ、「おまえたちの家は見捨てられる」。イエス様はそんなエルサレムの実情を見ておられるのです。そんな神の民の結末に思いを馳せておられる。だから、ヘロデの脅しなんぞに気を揉む暇は無かったのです。
 33節「しかし、わたしは今日も明日も、その次の日も進んで行かなければならない。」イエス様の強い意志が読み取れます。なぜなら、エルサレムの実情はもう待ったなしだからです。神の民は見捨てられる寸前だからです。私たちはこの後の歴史を知っています。十字架と復活。神の救いの成就。ですから私たちはイエス様がさも当たり前にエルサレムに向かっているように思うかもしれません。けれど違います。この場面、イエス様がもしご自身の使命ではなくて命を惜しまれたら、まさにその時、神の民は見捨てられるという緊迫の場面なのです。だからこそイエス様の決意されます。わたしはこの歩みをやめるわけには行かない。とです。
 イエス様はエルサレムを見続けました。では私たちは何を見続けるのでしょうか。日々の困難や人々の無責任な言葉に私たちは一々心騒がせる者です。けれど、私たちが目を向けるべきはそこではありません。私たちは神からの使命に目を向けるべきです。「預言者がエルサレム以外のところで死ぬことはあり得ない」。言い換えると、神はその使命に用いるために、私たちを整え、導き、守り抜いてくださるということです。私たちは、今日も明日も、その次の日も、キリスト者の使命を覚えて備えるのです。進むべき道をただ脇目をふれず進むのみです。

220814 ルカ13:22-30 「狭い門から入りなさい」

ルカ13:22-30 「狭い門から入りなさい」

 現代に伝わる侘び茶を大成させたのは千利休です。そしてこの利休による侘び茶とキリスト教の類似は様々な人が指摘しているところです。利休に直接連なる、表千家、裏千家、武者小路千家の家元もその事実を認めていて、特に裏千家の家元、千玄室は「利休の茶の湯が伝える平等・寛容の精神性」はキリスト教の精神がその土台と、明らかにしています。近代日本美術の先駆者であり、東京芸術大学の生みの親である岡倉天心も、著書『茶の本』の中で「僧侶たちは・・・ただ一個の碗から聖餐のようにすこぶる儀式張って茶を飲むのであった。この禅の儀式こそはついに発達して15世紀における日本の茶の湯となった」と紹介しています。本来一人一服だった茶道の濃茶を、聖餐のように回し飲みの形態にしたのは他でもない利休本人です。
 そんな利休がその他に考案したものの中に、にじり口と呼ばれる独特な茶室の入り口があります。茶室に入るための入口で、身を小さく縮めて、くぐるようにしなければ入れない、相当狭い入口です。なぜこのような入り口を設けたのかと言いますと、このにじり口をくぐるために当時、武士たちは腰に刺した刀を置いて、頭を下げて入らなければならなかった。なんたって入り口が狭いですからね。そうすることで、茶の席においては、武士も商人も農民もない、平等で安全な空間を設けたのです。
 さて、天の御国の門は狭いのです。にじり寄るようにして入る門なのです。それはつまり、沢山のものを背負って、山のようなものを抱えて、くぐれるような門ではないということです。私たちはできることなら、もっと沢山経験して、もっと沢山蓄えて、もっと沢山遊んで、もっと沢山自分のしたように生きて、それから門をくぐりたいと思うのです。それは時間的な意味でも、経験的な意味でもであります。もうちょっと後になってから、もう少しやりたいようにやってから、それこそ死ぬ間際になってと思うのです。けれど、そうじゃないんだとイエス様は言われるのです。山のように抱えてくぐれるような門ではないし、先延ばしにして開いたままである保証もないのです。食べたり、飲んだり、好き放題に生きて、そろそろ遊び飽きたし、蓄えもたくさんになったし、じゃあ門をくぐろうかと言って、それでくぐれる保証はどこにもありません。
 今、目の前にはイエス様がいるのです。イエス様がともにいて、狭い門から入るように努めなさい。とおっしゃられているのです。その問いかけに対して、他の人はどうですか。救われる人は少ないのですか。と問うている場合ではないのです。もうちょっと後で。今やっていることが一段落したら。と先延ばしにして良い話ではないのです。一旦、その戸が閉められてしまったら、もう主人は「おまえたちがどこの者か、私は知らない。不義を行う者たち、みな私から離れて行け。」としか言ってくれないのです。その時になって、あなたは愛の神ではないかと叫んでも、それは駄目なのです。愛の神は何度も忠告し、飽きるほどに待ち続け、そして最愛のひとり子を差し出したのです。神の愛はもう十二分に注がれているのです。それでも尚、私のこととして救いを求めないのなら、その人は外に放り出されるし、後から多くの人が神の国の食卓に着くのを、黙って見ているしかないのです。「後にいる者が先になり、先にいる者が後になるのです。」
 私たちが抱えるもの、私たちが惜しむものは、天の御国と比べうるものでしょうか。私たちは何を優先すべきかを見極めなければなりません。イエス様は言われます。「なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。」(ヨハネ6:27a)世のものを置いてでも、私たちはその門をくぐらなければなりません。それも、いつか先ではなくて、今。なぜなら、その門が閉められていないのは、ただただ、主人の憐れみでしか無いからです。主人のお考え一つで、その門はいつ閉まるかわからないからです。わかっているのは唯一つ。今ならまだ間に合うということだからです。

220807 ローマ8:14-17 「私たちは愛される子」

ローマ8:14-17 「私たちは愛される子」

 教会は神の家族と言われますが、その根幹は親子関係にあります。なぜなら全ての兄弟関係は、親子関係のもとに生まれるからです。私たちはなぜ教会で兄弟姉妹と呼びあうのでしょう。それは私たちが同じ親を持ったからです。ヨハネ1:12には「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。」とあります。イエス様を信じる者には、神の子どもとなる特権が与えられる。神の子どもとされる。神と親子関係になる。だから、私たちは同じ天の父を持つ者として兄弟姉妹。神の家族とされるのです。ですから教会の交わりを考える時、何よりも大事にしなくてはならないのは、まず一人ひとりが天の父との関係をしっかりと築くということです。父との関係を失えば、必然的に兄弟姉妹の関係も失われてしまうのです。神の家族を考えるとき、私たちはまず神の子とされることの意味を理解しなければなりません。
 私たちが神の子とされる。それは神の子としての特権を相続するということです。では特権とは何でしょう。
 ひかり幼稚園の春の風物詩に年少さんの涙の登園風景がありますね。登園して親がいる間は大丈夫。けれど親がいなくなるとわかった途端、その子はけたたましく泣き叫ぶのです。逆に言いますと、それだけ親に安心しているということです。幼い子どもは親が自分の味方であると本能的に理解しています。ですから親と一緒にいるとき、安心して自由に過ごすことができます。私たちも同じです。父なる神と共にいる時、本当の意味で安心して過ごすことができます。父なる神が見守っていてくださるからです。
 子としての自由は、思いのままに親の元に近づく自由でもあります。たとえば私たちが王様の前に出ることは、沢山の手続きとボディーチェックが必要で、たとえそれらをパスしたとしても、多大な緊張を強いられることは否めません。けれど子どもなら別です。どれだけ権威ある王様であろうと、子にとっては一人の親でしかないからです。それは天地の造り主である神であっても変わりません。神は私たちの父なるお方です。だからこそ私たちは何を恐れることなく、奴隷の霊を持つこと無く、父の御前に自由に出ることができるのです。これらは神の子とされた者の特権です。8:15に「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。」とあります。私たちは御霊によって神の子とされました。それゆえに、私たちは全能の神を何ら恐れること無く、父なる神と呼ぶことができる。安心して神とともにいられるのです。
 また、神の子どもとされるということは、その国籍が天国にあるということでもあります。なぜなら私たちは父なる神の養子とされたからです。神の子とされたのですから、その国籍は当然父なる神と共にあります。ですから私たちは国籍を天に置きながら地上の歩みをしているキリスト者なのです。天国人である私たちの地上での歩みは、それはもはや旅人であり、寄留者であると聖書は言っています。私たちにとっての地上の歩みはホームではありません。アウェーです。そこではむしろ緊張を強いられます。信仰のゆえの疎外感や戸惑いを味わうこともあります。けれど私たちはやがて帰ることが決まっているのです。帰るべきところのない旅は少しも楽しくありません。多くの人は将来に何の希望も持てません。希望のない世の中だから、とにかく今を楽しもう。そういう世の中です。多くの人にとって確かなのは今だけです。だから、今を楽しむ。けれど、それは不安を先延ばしにしているに過ぎません。私たちは神の子として、帰るべきホームを持っています。だからこそ今という時を安心して過ごせるのです。
 私たちは旅をしています。けれど私たちは決して一人ではありません。そこには子を慈しむ親の眼差しがあります。親は我が子の一挙一投足に関心を持って見守ります。わざかな変化、成長を心から喜びます。父なる神は私たちを見守り、いつでも手を差し伸べてくださるのです。それが子とされるということなのです。