エゼキエル16:30-43 「『生きよ』の声を聴いて」
エゼキエル16章は神とエルサレムの歴史が男女の関係に例えて語られています。その最初、全ての人から見捨てられた状態にあったエルサレム。しかしそんな絶望の淵にいる民を、生かし、育て上げたのは、他ならぬ神でした。16:6「わたしがあなたのそばを通りかかったとき、あなたが自分の血の中でもがいているのを見て、わたしは血に染まったあなたに「生きよ」と言い、血に染まったあなたに、繰り返して「生きよ」と言った。」繰り返し「生きよ」と語られる主。主と民との関係はこの一方的な主の憐れみから始まるのです。
神は民と結婚の契約を結ばれます。美しい着物に、輝かしい装飾品。繁栄を横臥するエルサレムは、やがて自らの王を擁立するまでに繁栄します。特にソロモンの時代には、エルサレムは諸外国にまでその名を轟かせたことでした。「ところが、あなたは自分の美しさに拠り頼み、自分の名声に乗じて姦淫を行い、通りかかる人がいれば、だれにでも身を任せて姦淫をした。」(16:15)エルサレムは神の恵みをないがしろにし、自分のために姦淫を繰り返したのです。
エルサレムの姦淫の罪は遊女のそれではなく、遊女を買い漁る情夫の如きです。アハズ王の時代、エルサレムはアッシリヤへの貢ぎを納めました。ヒゼキヤ王はバビロンと親交を結ぼうとしました。いえ、それ以前に、ヨラムは北イスラエルアハブとイゼベルの娘アタルヤを嫁に迎え、ソロモンは政略結婚を繰り返して、ひとときの繁栄と引き換えに数え切れない偶像を招き入れました。どれも、自ら招いたことです。無理やり強いられたのではありません。イスラエルにおいて姦淫は石打の極刑です。けれど、その遊女を買い漁ることは、より罪が深いのです。それゆえ、主はその報いを与えると。関係した遊女たちの手に、あなたを委ねると言われるのです。
まさに修羅場です。夢から目を覚ました恋人たちの怒りが一斉に男のもとに向けられる如くです。「わたしはあなたを彼らの手に委ねる。彼らはあなたの祭儀台を壊し、高台を打ち壊し、あなたの着ている物をはぎ取り、あなたの美しい品々を奪い取り、あなたを丸裸にしておく。彼らは集団をあおってあなたを襲わせ、石であなたを打ち殺し、剣であなたを八つ裂きにする。そのうえ、あなたの家々を火で焼き、多くの女たちの目の前であなたにさばきを下す。」(16:39-41a)
しかし主は続けて言います。「こうして、わたしはあなたの淫行をやめさせる。あなたはもう報酬を支払わなくなる。わたしはあなたに対する憤りを収めるので、わたしのねたみはあなたから離れる。わたしは安んじて、二度と怒ることはない。」
そもそも、エゼキエルはバビロンに捕囚される民に遣わされた預言者なのです。国が滅び、神殿が破壊され、住み慣れた土地から連れ去れられる。捕囚の民は祖国を追われ、異国の地に住み着き、不平ばかりを語っていたのです。なんで自分たちがこんな目に合わなければならないのか。神はいったいどこにいるのか。自分たちの信じる神は間違いだったのか。バビロンの神こそが神なのか。そもそも、なぜ捕囚される身となったのかを、決して霊的に理解しない彼らです。今という現状に対して、不平や不満ばかりを言う彼らの特徴は、独りよがりで、物事を自分の視点でしか見ようとしないということです。なので、自分に都合の悪い出来事については、不満しか生まれないのです。自分や置かれた状況を俯瞰的に見る目がないのです。
「あなたが、自分の若かった日々を思い出さず、」(16:43)とあります。受けた恵みの大きさをいとも簡単に忘れてしまう私たちです。不平や不満をまるで自分の権利の如く主張する私たち。あまりにも視野が狭すぎるのです。今だけを見ているから不満なのです。結論を急ぎすぎているのです。結果としてバビロン捕囚はイスラエルの信仰をよみがえらせました。あの困難がなければ彼らは神の民として生き延びなかったのです。神はそんな彼らをこれまでのご自身との歴史に振り返らせます。その人生を俯瞰して見させます。自分の血の中でもがいていた彼らに「生きよ」と声かけられた神を思い出させるのです。ことここに至る主の心痛に思いを向けさせるのです。
人生における神の足跡は振り返った時に確かです。先の見えない試練の中に置かれる民に主が言われることは、「思い出せ」です。「わがたましいよ【主】をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」(詩篇103:2)です。私たちは試練の度に、主を疑います。なぜこのようなことを。と嘆きます。けれど、思い出さなければなりません。想像しなければなりません。主を知らずにいたその日をです。全てを我が身で背負うその人生のなんと心細いことだったかをです。主は血まみれの中の私たちを見出し、「生きよ」と声をかけられました。この声は今も共に。私たちが振り返る時、確かに私たちと共にあるのです。

ルカ14:12-14 「愛は見返りを求めず」
イエス様は食事の振る舞いをする際の注意事項を語っておられます。食事の振る舞いをするときには、友人や兄弟、親族、近所の金持ちを呼ぶのではなくて、貧しい者、からだの不自由な者、足のなえた者、そして盲人たちを招きなさいとおっしゃいます。なぜなら、その人たちはお返しができないからです。ここで大事なのは、貧しい人たちがかわいそうとか、哀れとか、そういう理由ではないということです。逆に、友人や親類縁者を呼んではいけないと言われるのは、彼らの内に、受けた恩にはお返しをするという文化があったからです。もちろん、そういった文化が悪いのではありません。恩に報いるというのは大事なことです。ですから、ここで問題にしているのは、お返しを期待して招くという招く側の心構えを指摘しているのです。なぜ貧しい人たちを呼ぶべきなのか。それは迎える側が相手に何も期待せずに呼べるからです。お返しが期待できないことは承知の上だからです。ですから金持ちにせよ、貧しい人にせよ、相手が誰であれ見返りを求めずに招く。これがイエス様の勧めるところです。
もちろん、これは宴会での誰を招待するかだけの話ではありません。ルカ6:32には「自分を愛してくれる者たちを愛したとしても、あなたがたにどんな恵みがあるでしょうか。」と言われています。今日の話と同じ構造です。自分を愛してくれる者たちを愛するのがいけないのではないのです。愛して良いのです。いえ愛すべきです。けれど、それは見返りがあるのですから当たり前なのです。そうじゃなくて、見返りの無い人をも愛しなさいと、おっしゃられるのです。返してもらうことを考えずに貸すように。愛されることを求めずに、愛するように。とおっしゃっているのです。ここまで来ますと、今日の話は、とても壮大な話の入り口だったことに気付きます。宴会に誰を呼ぶべきかという話ではありません。見返りを求めずに愛しなさい。これこそが今日の箇所のテーマであり、そしてこれは本当に難しいことです。
愛してくれない人を愛せますか?感謝の一言もない相手に尽くすことができますか?確かに見返りがない愛こそが本物でしょう。けれどイエス様の教えは現実と言うものを知らないように聞こえます。これが一般論としてであれば、汝の敵を愛せよ。とおっしゃるイエス様に、共感する所です。けれど、あなたは見返りなく愛せるかと問われると、急に理想論に聞こえるのです。私はこんなにも愛しているのに、あなたは私を愛してくれない。期待通りのものが返ってこないという現実に、私たちはもうどうでもいいと思ってしまうのです。そんなことなら最初から食事の場など開かなければいい。愛さなければいい。傷つくくらいなら最初から関わらない。そうつぶやくのです。けれどイエス様は招きなさいとおっしゃいます。愛しなさいと言われます。
もちろん、イエス様もわかっておられます。見返りの無い愛など絵にかいた餅。現実味を欠いた理想だとです。だからイエス様はおっしゃられます。「あなたは、義人の復活のときに、お返しを受けるのです。」イエス様の話は、見返りの無い愛の勧めではないのです。実は見返りは確かにあるんだと。ただし、それは目の前の相手から来るのではなくて、主なるキリストから来るんだとおっしゃられるのです。イエス様の復活のときに、お返しを受ける。あなたの振る舞いに父なる神が報いてくださる。これが聖書の語る所なのです。
私たちは目の前の人に見返りを求めることはできません。その人だって見返りを求めているんです。その人だって愛に飢え乾いているのです。ですから見返りをその人を愛する理由にしてはいけませんし、愛さない理由にもしてはいけません。イエス様がご自身の命を投げ出されたとき、誰がその愛に報いたことでしょう。イエス様が私たちの罪の身代わりとなられたとき、私たちの誰がその愛に応えたでしょう。けれど、イエス様は私たちのために死なれました。このイエス様の見返りのない愛以上に、私たちの愛する動機はあるでしょうか。
たとえ誰が見ていなくても、主が見ておられます。たとえ何の見返りがないように思えても、それは必ず返って来ます。あなたの今日の頑張りは、日々の忍耐は決して無駄ではありません。それをご覧になっておられる方がおられます。ですから私たちは、今返って来ればそれでよし、たとえ返って来なくとも、天に蓄えられた宝を数えればよし。諦めず、投げ出さず、精一杯互いに関わっていくことといたしましょう。

エゼキエル10 「ケルビムは去った」
ケルビムとはケルブの複数形で、1章の幻で示された「4つの生きもののようなもの」を指すと言われています。御存知の通り、創世記3章の失楽園の話で、アダムとエバが園を追放された後、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に置かれたのが、ケルビムと炎の剣でした。十戒を入れる契約の箱の蓋を「贖いの蓋」と言いますが、その両端には金のケルビム像が築かれて、契約の箱を守っておりました。ケルビムは神の臨済を示す天的存在で、御使いであると考えられています。
エゼキエル1章を見ると4つの顔と4つの翼、4つの腕があったと言います。また今日の箇所では、4つの輪が車輪であることが強調して描かれ、その顔は、雄牛の顔(ケルビムの顔)、人間の顔、獅子の顔、鷲の顔をしていたとあります。第2サムエル22:11に「主は、ケルビムに乗って飛び、風の翼の上に自らを現された。」とあり、詩篇99:1にも「【主】は王である。国々の民は恐れおののけ。ケルビムの上に座しておられる方に。地よ震えよ。」ともあることから、神の栄光を運ぶ馭者としての役割もあったと考えられます。
さてそのようなケルビムの幻を通して、この箇所ではいったい何が語られているのか。それは神の栄光が神殿から離れていく様子です。8:3-4で神の栄光は北門の入り口にありました。9:3ではそれが神殿の入り口に移動し、10:3-4で神殿の南端(庭)、10:18-19で東門へ、そして11:23ではついに神殿の東にある山(オリーブ山)にまで移動するのです。
つまり、神の栄光が神殿から去っていったのです。今、エゼキエルは離散の民の中にいます。ケバル川のほとりとは捕囚された民の集められた地域です。彼らは国が滅び、連れ去られた民。今、絶望の中に置かれた民です。彼らの絶望とは神殿の崩壊にありました。神殿こそが神の臨在の場であり、彼らが神の民としてある象徴でした。神殿には神の民に与えられた契約の箱が安置されていました。ケルビムの像が置かれるその契約の箱です。しかし、その神殿は滅ぼされたのです。自分たちは神に見放された。神はもう共にいない。彼らの絶望はそこにあるのです。ところが、今、エゼキエルは神の栄光が、ケルビムと共に、神殿の外にあることを語るのです。
神の栄光が神殿から離れるというのは、確かに神の民への決定的な裁きなのです。けれど同時に、今国から追い出された民にとって、一縷の希望ともなったのです。御存知の通り、彼らは捕囚の地でシナゴーグ(会堂)を設け、礼拝をささげます。形骸化した神殿礼拝から引き離されて、彼らは純粋な信仰を取り戻していくのです。
黙示録4章に記される4つの生き物とは、今日の箇所で記されるところのケルビムであります。ケルビムは昼も夜も絶え間なく叫び続けました。「聖なる、聖なる、聖なる、主なる神、全能者。昔おられ、今もおられ、やがて来られる方。」そして、この栄光を前に、24人の長老がひれ伏して礼拝します。「主よ、私たちの神よ。あなたこそ栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方。あなたが万物を創造されました。みこころのゆえに、それらは存在し、また創造されたのです。」神の臨在と栄光を示すケルビムは、それゆえに人々を礼拝に導くのです。神の栄光は神殿という箱ではなく、礼拝する民とともにあるのです。クリスマスの夜、野原で御使いの知らせを聞いてひれ伏した羊飼いに栄光がもたらされたようにです。どこに行こうとも、たとえ神殿が崩壊しようとも、神の栄光が滅びるのではありません。私たちの拠り所はそこにあるのではありません。私たちが心から主の前にひれ伏し、主の御名を褒め称えるところ。礼拝の場にあって、私たちは祝福を受け、生きる糧をいただくのです。

ルカ23:34 「とりなす心の祈り」 菊池実師
いのちの樹教会に伺うのは初めてながら今回思っていたのは、小見先生との旧交の感謝とともに、祈り(祈りのネットワーク)においてすでに受けていた祈りの交わりとその恵みのことでした。コロナ禍の試練は続きます。しかし、改めて、とりなしという私たちにできる最大のことを心に刻む時でないかと示されています。
ルカは丹念に資料に当ってこの福音書を記し、新約聖書で最も多くの頁を記した人物です。その彼が十字架上の言葉として真っ先に記したのが、「父よ。彼らをお赦しください」のとりなしでした。「とりなし」はその人になり切ってその必要のために神に祈ることです。アブラハム、モーセ、祭司、預言者も全て、民の赦しのため神にとりなすしもべでした。それらの最後的成就となる祈りが十字架上のとりなしでした。その十字架が「すべての人のために死」(2コリ5:15)であったのであれば、とりなしもすべての人のため、私たちのためであったことは聖書の変わらないメッセージです。 それが、「神の御子がとりなす」ということの意味です。
足元では衣をくじ引きにする兵士の姿がありました。イエスの姿とはあまりにも対照的です。主イエスの祈りが私たちのためであるならば、今足元で衣を取り合う姿もまた貪欲な私たちの姿そのものです。裏切って逃げた弟子、イエスをののしる者、衣を奪い合う愚かさは、‘私のことだ’と気づかされます。私たちがいま祈ることができ神と歩むことができるのもそのとりなしと神の赦しのゆえです。
その私たちが、イエス・キリストのとりなしによって神さまと一つにされた時、今度は私たちが‘祈る者とされる’という不思議があります。パウロは、教会や同労者に「聖徒のために、すべての人のために祈りなさい、とりなしなさい」(1テモテ2:1)と繰り返し勧めます。とりなしは特別な人のものでなく、教会の交わりそのものであり、もはや呼吸のようなものです。そのパウロも、「私もあなたがたのために祈っています」と繰り返し、また「どうか、私のために祈ってください」と、(9回)記す人です。教会とは祈り合う集いであり、それに保たれ、最大にして最強の恵みの絆なのです。
その私たちに約束があります。ローマ8章26節「私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです」。8章34節には、「キリスト・イエスが、・・私たちのために、とりなしていてくださるのです」ともありました。十字架上で祈った方はなお祈っていてくださる。聖霊も同様に今もとりなしていてくださるというのです。そのとりなしに私たちは励まされつつ、個々人の祈りや、家庭と教会において祈り合い、それに応えて最善をされる方を希望とすることができます。閉ざされただけの私たちではないのです。
とりなしの祈りとは、祈る者が神さまに深く結ばれていくので、いつしか自分中心な思いが除かれていくのでしょう。そこに祈りの意味があり、成長があります。私はようやくそのことこそがこのコロナ禍で学ぶ最大のことと思うようになりました。
イエスのとりなしによって、今、なんのためらいも妨げもなく祈ることを許されている者として、そこに信じて、同盟教団の「祈りのネットワーク」も用いつつ、身近なこと、社会の目に見えない所で痛む人たちのため、神さまの心を心として小さな祈りを共にしていきましょう。閉ざされたコロナ禍における最大の私たちの力であることをともに味わいましょう。

ルカ14:7-11 「自分を高くする者は」
結婚の披露宴に招かれたときには上座に座ってはいけないよ。という話です。なぜなら、もしも後から自分よりも身分の高い人がやって来たら、主人から席を譲るようにと言われてしまうからです。けれど、そのときにはもう席は埋まっているので、空いている末席に座るしかなくなります。皆の前で恥をかくことになります。逆に最初から末席に座っていたら、主人は皆の前で上席を勧めてくれることでしょう。
とてもわかり易い例え話だと思います。けれど、それだけに私たちはイエス様が語られることを限定的に捉えてしまうかもしれません。イエス様はここで世渡り上手となるための処世術を教えているのでしょうか。もちろん、そういうことではありません。恥をかきたくなかったら、最初から末席に座っているのがコツですよ。そういう小賢しい話をしているわけではありません。イエス様は例え話がしたいのではありません。この披露宴の例え話を通して、今、パリサイ派の食卓で上席を狙ってあれやこれやと言い争っている客たちに向けて、「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」という教訓を語っておられるわけです。このところで大事なのは、誰に対して高くする、低くする者かということです。
結婚披露宴の席順というものは、新郎新婦にとってとても頭を悩ませるところです。友人知人、親族、お世話になっている上司、恩師、色々な方をお呼びしますが、ただ単に身分の上下だけでなく、客同士の年齢や相性、関係の深さ、色んな要素を考慮して席順を決めるわけです。にも関わらず、その主人の配慮や心遣いを無視して、客が自分勝手に席を決めるとしたら、それはたとえ誰であろうと迷惑な客であり、主人を辱める客です。招かれた客は主人の決めたとおりに従うというのが正解なのです。
そしてこれは15節で客の一人が「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう。」と言っているように、神の国における振る舞いについてを暗示している話でもあります。カペナウムへの道すがら、弟子たちは誰が一番偉いかと論じあっておりました。けれど、その一番を選ぶのは誰でしょうか。それは私たちではありません。選ぶとすればそれはイエス様であります。けれどじゃあ、イエス様が弟子たちを一番二番と見られるのかという話です。席順に上下を付けて気にしているのは私たちであって、イエス様ではありません。イエス様はどういう方でしょう。「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。」(ピリピ2:6-8)イエス様は誰よりも低く、率先して末席に座られた方です。けれど「それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられ」(2:9)たのです。これはイエス様だけに留まらず、イエス様に倣う者にも当てはまることです。「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」
イエス様は誰かと比べて順位付けをせよと。高みを目指せと言ってはおられません。誰かと比べて高い低いではない。神の前で高いか低いか。高ぶる者か。へりくだる者かが問われているのです。席次を巡って言い争っていたパリサイ人やその客に、イエス様はそうじゃないと言われます。同様に、人の目を気にして、誰かの批判に気を揉んで、いつも自分を人と比べてばかりいるそんな私たちに向けて、イエス様はそうじゃないよ。あなたが気にすべきはそこじゃないよ。とおっしゃられるのです。誰がどう見ようと、自分がどう思おうと、優先すべきは主人の心遣いです。私たちは神が決められたとおりに従うのが正解なのです。私たちがへりくだって末席に着く時、心から自分の弱さを認める時、主はその弱さを用いてくださるのです。

ガラテヤ4:5-6 「私たちは神のゆえに家族」
私たちが神の家族として付き合っていく時、私たちはまず神の視点に立ち返ることが大事です。つまり、父なる神の眼差しが共にあることを意識しながら相手と接することが大事だということです。では、神は眼差しは何を見ているのか?学歴か?職業か?血統か?それとも能力か?体型や容姿か?国籍や性別、年齢か?神さまがそんなことを気になさるはずはないと思われるでしょうか。その通りです。これらはむしろ私たちが日常で気にしていることです。なぜなら肩書や特徴は自分と相手との関係を即座に位置付けてくれるからです。この人にはこういう接し方をしよう。ですから私たちは自己紹介をするとき相手の肩書に特に注意を払います。けれど、じゃあ、同じように神はその人を見ているのかというと、もちろん、そんなことはありません。なぜなら神はその人を、そして私を、我が子として見ておられるからです。あらゆる身分や肩書は必要ありません。どんな肩書であろうと、どんな立場に就こうと、もうその関係は決まって変わることはありません。それは親と子の関係です。たとえ、子が落ちぶれて、職を失い、住むところも転々とし、挙げ句豚の世話で糞尿にまみれ、身に付けるものもボロボロ、痩せこけて、髭も髪も伸び放題で、およそ人が顔を背けるようになったとしても、親にとっては愛する子に変わりありません。そしてこれは家族間においても言えること。兄弟がどれだけ立場が変わろうと、兄弟は兄弟です。家族の間柄はあらゆる肩書も社会的立場も飛び越えて結び付いているのです。
これまで教会を通じて様々な人と出会いました。病院のホスピス長であったり、高等裁判官であったり、弁護士であったり、陶芸家や国体選手であったり。自分の祖父ほどの年齢の方とも温かい交わりを持たせていただきました。だから何だと思われるかもしれません。しかしこれこそが教会の教会たる所以ではないかと思っています。つまり教会の交わりの特徴は、互いの身分や肩書きを必要としないということです。恐らく教会でなければ、このような方々と何の利害関係もなくお付き合いするということはなかったと思います。教会を一歩出れば、身分や肩書き、それぞれの立場がどうしても付きまとう私たちです。当時学生であった私と大病院のホスピス長であった兄弟とでは、抱えている問題も悩みも興味も、全てが違っていて、それこそもう住む世界が違うわけです。普通では決して交わらない人生であったと思います。たとえどこかで出会ったとしても、腹を割って話せるような関係には到底なれなかったと思います。けれど教会ではそれができるのです。私たちは神にあって家族だからです。
教会の交わりにどんな身分も必要ありません。なぜなら教会の交わりは、お互いの間に父なる神がおられる交わりだからです。私たち兄弟姉妹の関係は直接的なものではありません。私たちが同じ神の子とされたがゆえの関係です。つまり父なる神を介した間接的な間柄。だからこそ、私たちは互いの間に父なる神を置くのです。神の前に私たちは自分の肩書きを誇りません。当然です。神の前に誇ることの出来る肩書きなど誰も持っていないからであります。神様という超越したお方の前に、私たちの肩書きなど何の意味も持ちません。神様の前には私たちは罪人に過ぎません。私たちが神の子とされたのは、私たちの内に何か正しさや功績があったからではなくて、ただ主の十字架の憐れみによるのです。イエス様という贖いの代価によるものです。
赦された罪人。ただ恵みのゆえに神の子とされた者。これが私たちが唯一掲げる肩書です。だからこそ、この交わりは互いを尊敬する交わりとなるのです。自分を誇る者は他者を見下します。そこには本当の意味での尊敬は生まれません。自分自身に絶望し、神の恵みに生きてこそ、私たちは目の前にいるその人を心から尊敬することが出来るようになるのです。この世の肩書きや能力に左右されることのない人格的交わりが生まれるのです。ピリピ2:3に「互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。」とあります。大事なのは相手に敬意を払うことです。もしも相手に対して尊敬できないとしたら、利己的な思いや虚栄が心に渦巻いている証拠です。そのときはまず、相手を見ることを止めて、私たちの間におられる神を見ましょう。イエス・キリストの十字架を見ましょう。受け入れられないその人の姿は、かつての自分です。認められないその人の振る舞いは、自分の鏡です。けれど、あなたと同様にその人もまたイエス様の愛のゆえに神の子とされています。私たちは決して互いを見るのではありません。私たちを結びあわせるのはただ神の恵みです。
