ルカ15:1-10 「一人の価値」
イエス様が取税人や罪人たちと食事をしているところに、パリサイ人、律法学者たちがやって来て言いました。「この人は、罪人たちを受け入れて、食事までする。」場が凍りつくとはまさにこのことです。するとイエス様はこの罪人たちに向かって、それはパリサイ人や律法学者たちにも聞こえるようにという意味でもありますが、3つの例え話をなさいます。今日は3つの内の最初の2つ。迷子の羊の話と、失くした銀貨の話をご一緒に見たいと思います。
まずは迷子の羊の話です。ある羊飼いが自分の飼っている100匹のうちの1匹がいなくなっていることに気付きました。羊飼いは一切の仕事を置いて、その一匹を探し回ります。そしてようやく見つけると、大喜びで帰ってきて、友人や近所の人々を呼び集めて言うのです。「いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください。」羊飼いというのはそれほど1匹の羊を大事にしているという話です。けれどこの羊飼い、残りの99匹を野原において1匹を探しに出るのです。探している間に肉食動物が来たら全滅です。1匹の羊が生きている保証もないのにです。なくした羊が見つかる保証もないし、残った羊が無事でいる保証もない。ですから、このシチュエーションは、いなくなった羊を諦めても誰も咎めることのない場面なのです。ところが、この羊飼いは何の躊躇もなく、99匹を野に残して探しに出るのです。「いなくなった一匹を見つけるまで探し歩かないでしょうか。」さも当たり前のように探しに出ます。つまり世の常識とは違った常識がここにあります。一つの悔い改めた魂のためになら、他の全てを置いて駆けつけるイエス様の常識です。
「あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人のためよりも、大きな喜びが天にあるのです。」けれど、神の前に悔い改める必要のない正しい人などいるはずがありません。ですからここで言う正しい人とは、つまり自分自身で悔い改める必要は無いと考えている人たち。自分たちは正しいと誇っている人たち。そういう人々よりも、一人の罪人が悔い改めるなら、大きな喜びが天にあると言うのです。ですから、この話を聞いて、おいおい99匹を置いていくのかよ。と指摘する人たちは、自分が群れから離れているということに全く気付いていない人たちです。自分がその一匹かもしれない、自分もまた神の下から迷子かもしれない。その可能性に目を向けない人たち。自分は清く正しく、忠実に、神の群れに留まっていると自負してやまない、そういう人たち。けれど違うのです。全ての人はこの迷子の一匹の側なのです。私は群れに留まっていると自負するその人も、神の世話がなければすぐに散り散りになる一人なのです。そして、その一人のためにも、打算抜きに、探し歩かれるイエス様だと言うのです。
二つ目は失くした銀貨の話です。ある女性が10枚の銀貨の内、1枚を失くしてしまって、家中をくまなく探します。そしてようやく見つけると、友人や近所の人を呼び集めて言うのです。「一緒に喜んでください。なくしたドラクマ銀貨を見つけましたから。」私たちも大事なものを失くして、家中ひっくり返して家探しするということはよくあります。ですから、この女性が銀貨を見つけたときの安堵感。ああ良かった。見つかった。という喜びは容易に想像ができるでしょう。けれど、無くし物が見つかったからと言って、友人や近所の人を集めて祝うかと言うと、そんなことはいたしません。1ドラクマは1デナリ。1日分の賃金です。まあまあな額ですが、それで近所の人を集めてお祝いは大げさじゃないかと思ったりします。けれどイエス様は、大げさじゃないと言われるのです。それほどの喜びなんだと。それは銀貨のことではありません。一人の罪人が悔い改めることです。あなたが救われることは天が大騒ぎする喜びなんだとおっしゃられるのです。
これはパリサイ人や律法学者が、罪人と共に食事をするイエス様を咎めたその場面です。罪人たちからすれば、イエス様が自分たちのせいで咎められているのです。なんと申し訳ないことをしてしまったのか。自分さえここに来なければこんなことにはならなかった。。。そう心から悔んだことでした。そんな彼らにイエス様は言うのです。あなたがたがここにいることがどれほどの喜びか、とです。あなたはもうどこにも行く必要はないんだ、とです。人々がなんと批難しようと、私が共にいることを喜んでくださる方がおられるのです。

エゼキエル33:1-16 「剣からの見張り人」
32章までは諸外国に対する審判が記されていました。33章から39章まではイスラエルの回復が語られます。
33章では、まずエゼキエルに与えられた見張り人としての使命が語られます。見張り人の使命は警告を与えることです。ただし、警告を聞くかどうかは見張り人の責任ではありません。それはその者の責任です。しかし、警告を与えないとすれば、その責任は見張り人が負わなければなりません。私たちは他者の救いの責任を負っているわけではありません。それはあくまでもその人自身の信仰が問われるのです。無責任だと思われるでしょうか。しかし、主ご自身がその人の意思を強制することはしないのです。主が望んでいるのは、無理やり従わせることではありません。その人が自発的に従うことです。自発的に悪から立ち返ることです。
どれだけ「あなたは必ず生きる」と言っても、その人が自分の正しさに拠り頼み、不正をするなら、死ななければなりません。どれだけ「あなたは必ず死ぬ」と言っても、その人が自分の罪を悔い改め、不正をせず、いのちのおきてに従って歩むなら、必ず生き死ぬことはありません。
その人の救いは見張り人の言葉巧みさによって決まるのではありません。見張り人の声の大きさや熱意によって決まるのでもありません。その人の救いは、ただ、その人が警告を聞いて応じるかどうかにかかっています。
なぜこのようなことが語られているのか。それはエゼキエルの言葉を、人々は聞かないからです。
エゼキエルの召しの場面が、2章3章で記されておりました。
2:3-8「人の子よ。わたしはあなたをイスラエルの民に、わたしに反抗する国民に遣わす。彼らもその先祖たちも、今日までわたしに背いてきた。彼らは厚かましく、頑なである。わたしはあなたを彼らに遣わす。あなたは彼らに『【神】である主はこう言われる』と言え。反逆の家だから、聞く聞かないに関わりなく、彼らは自分たちのうちに預言者がいることを知らなければならない。人の子よ。あなたは彼らや彼らのことばを恐れるな。あざみと茨があなたと一緒にあり、サソリの間に住んでも、恐れるな。そのことばを恐れるな。彼らの顔におびえるな。彼らは反逆の家なのだから。彼らは反逆の家だから、聞く聞かないに関わりなく、あなたはわたしのことばを彼らに語れ。人の子よ。あなたは、わたしがあなたに語ることを聞け。反逆の家のように、あなたは逆らってはならない。あなたの口を大きく開けて、わたしがあなたに与えるものを食べよ。」
3:7「しかし、イスラエルの家はあなたの言うことを聞こうとはしない。彼らがわたしの言うことを聞こうとしないからだ。イスラエルの全家は額が硬く、心が頑なだからだ。」
エゼキエルの悲壮感が伝わってきます。彼は民に「神である主はこう言われる。」と語ることを命じられます。けれど同時に、その言葉は聞かれないとも告げられるのです。では空しく響く主の言葉は無意味でしょうか。しかし、そうではありません。エゼキエルの言葉は聞かれなかった。その事実が、今、イスラエルの滅びとともに神の真実を証しするのです。捕囚された民がその事を振り返る時、なぜ自分たちは預言者の声に耳を傾けなかったのかと、悔い改めるのです。エゼキエルの言葉は確かにその時は聞かれませんでした。しかし、後になって、その言葉は確かに捕囚の民に届いたのです。私たちにはその時を決めることはできません。私たちがその人を救うなんておこがましい話です。けれど、私たちは知らせなければなりません。その知らせを最善に用いてくださるのは主です。そしてその御方が言われます。「わたしは生きている──【神】である主のことば──。わたしは決して悪しき者の死を喜ばない。悪しき者がその道から立ち返り、生きることを喜ぶ。立ち返れ。悪の道から立ち返れ。イスラエルの家よ、なぜ、あなたがたは死のうとするのか。」主は悪しき者がその道から立ち返り、生きることを喜ばれます。これが主の本心です。イスラエルは滅び、それゆえ、この主の御声に聞くのです。福音にどれだけ力があろうとも、どれだけ恵み豊かでも、人が己の正しさに拠り頼む時、それは届きません。福音が届くのは、その人が己の正しさの空しさを知った時です。その時は主がご存じです。それは私たちが気にするところではありません。私たちはただ、主の命じた如く、警告を発する見張り人でありたいのです。

ルカ14:25-35 「キリストに従う覚悟」
イエス様は大勢の群衆に向けて、弟子になるための条件についてを語ります。「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分のいのちまでも憎まないなら、わたしの弟子になることはできません。」「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。」「自分の財産すべてを捨てなければ、あなたがたはだれも、わたしの弟子になることはできません。」これらはとても厳しい条件です。イエス様の弟子になるには、家族を憎んで、十字架を負って、財産を捨てる。特に、家族を憎まないなら弟子になれないという条件は、本当にイエス様の言葉なのかと耳を疑ってしまいます。でも考えてみますと、イエス様は付いて行きたいと願った男性を家族のもとに帰らせたこともあります。それは弟子として不合格だからではなく、弟子と認めたからこそ家族のもとに遣わされたのです。ですから、家族と縁を切ることが弟子になることの条件とは到底思えません。実は同じことを問う場面を既婚者の方は皆、すでに経験されておられます。聖書は結婚について「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。」と教えているからです。結婚は何も父母と縁を切るわけではありません。けれど、結婚は父母を引きずってはできません。夫婦はそれぞれに生まれ育った家族のルールや当たり前を持っています。けれどそれは、当人にとっては当たり前だけれど、他人にとっては決して当たり前ではないルールです。だから聖書は「父と母を離れ」と教えているのです。親が教えてくれた当たり前の文化を手離して、新しい夫婦としてのルールを作るように教えるのです。
ですから、イエス様の勧めは家族と別れよ。というよりは、今までの自分の常識や考え方、これが当たり前だとしてきたいっさいを捨てよ。という意味でありましょう。また、十字架を負ってとありますが、それはつまり自分が死刑囚であること、罪故に滅ぼされる者だということを自覚してついて来なさいということです。また財産を捨てなければとあります。私たちにとって財産とは、将来への保証であり、人生における拠り所となるものです。けれどイエス様はそれらの一切を捨てよ。と言われます。保証となり得ないと。保証は神以外にはあり得ないからです。
今まで握りしめてきた考え、経験、誇り、そして拠り所の一切を捨てて、ついてきなさい。総じて言えば、今までの自分を捨てて、新しい自分に生まれ変わったつもりで、新しい生き方でついてきなさいと言っているわけです。
だから思います。年齢を重ねた方ほど、握りしめているものが大きい人ほど、人生における経験が豊かなほど、これは難しい教えかもしれません。イエス様に着いていく。けれど、それが蓄えたものを捨てることだと言うのなら弟子になることを躊躇してしまわないでしょうか。けれど、それでもイエス様は捨てなさいとおっしゃられる。なぜなら、もっと素晴らしいものを手にするためには、その手を空けて置かなければならないからです。
イエス様はこの教えと共に2つの例え話を語られています。塔を建てるとき、まずは費用を計算しないと完成できないよと。ほかの王と戦う時は、まずは戦力を分析しないと無謀な戦いに挑んでしまうことになるよ。そうすれば講和を申し出ることが難しくなると、です。ことを決断する前に、まずは腰を据えて、じっくりと吟味しなさいとおっしゃるのです。そこで、冒頭のイエス様の教えに戻るわけです。イエス様は今、ご自身について来た大勢の群衆に向かって語っておられます。その群衆はといえば、考えもなしに、ただ思いつくままに、その日の食事を求めるがごとくに、イエス様について来た人たちです。そのような群衆に向けて、本当に私の弟子になりたいのなら、まず座って、よくよく覚悟を決めて、その上でついて来なさい。とこうおっしゃられる。その覚悟を問われるイエス様なわけです。
惜しむ気持ちはわかります。真面目に一生懸命に生きてきた人ほど、生き方を変えることは難しいと思います。けれど、それでも手放すことには意味があるのです。ローマ6:23には「罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」とあります。この約束は信じるに値するものです。今手にしているものを手放してでも、受け取る価値のあるものです。

エゼキエル27 「人であって、神ではない」
エゼキエル25章から32章までは諸外国に対する審判が語られます。
27章はツロに対する預言を哀歌の形で語られています。1-25節では、このツロの繁栄ぶりがどれほどのものであったかを、そして26節からは一転して、この繁栄、彼らが貯め込んだ財宝、それどころかその集団すらもが、ことごとく海の藻屑となることが語られるのです。
ツロは紀元前3000年頃に建てられた大変歴史ある古代都市で、世界に名だたる海上貿易国でした。世界中のあらゆる富がツロを通して海上を行き来したのです。27:25まではツロがいかに手広く貿易をしていたかが記されています。ツロはあらゆる国と貿易を持ち、戦ではなく、経済においてこの地中海の覇者となりました。しかもこれは単なる貿易の記録に留まらず、ツロが如何に諸国に君臨していたかをも記しています。彼らの船は、セニルのもみの木、レバノンの杉、バシャンの樫の木、キティムの檜、エジプトの亜麻布で豪華に建造され、シドンとアルワデの住民はツロの漕手であったとあります。ゲバルの長老と、その熟練者が修理したともあります。ペルシャ、ルデ、プテの人々はツロで傭兵として雇われていたことが記録されています。アルワデ、へレクの人々が城壁を守り、ガマデ人が櫓の中に待機します。経済という力を背景に、ツロという小さな都市国家が地中海を文字通り買い漁ったのです。
バブル期に日本企業が世界的な企業を買い漁った出来事が重なります。三菱地所がニューヨークのロックフェラーセンターを、ハリウッドではソニーがコロンビアを、松下電器産業がユニバーサルを買収しました。当時NYの地元では日本人が「米国の魂を買った。」と大きな批判が上がったことでした。それほど日本はイケイケだったわけです。あの時代の日本は怖いもの知らずでした。何でもできると思っていた。けれど、その後の日本の衰退は私たちのよく知るところです。
ツロの失敗は高ぶりでした。各地の産地はツロに集まり、ツロから出て行きました。ツロの王はあのダニエルと比較されるほどに知恵者と称えられました。けれどその知恵は財宝を積み上げることのみに向けられていました。そしてその財宝が王を高ぶらせることとなった。ツロは繁栄を極め、諸国を従え、そしてついには自分を神であるかのように振る舞ったのです。この高ぶりを主は打たれるのです。
お金が人を変えると言いますが、まさにその通りです。光り輝く財宝は彼らの目をくらませたのです。マルコ10:25「金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです。」とあります。それほどお金は人を狂わせるのです。なぜなら、人はお金にひれ伏すからです。諸外国はツロに雇われ、ツロにひれ伏しました。けれど、実のところはツロの持つお金にひれ伏したのです。ツロが徳高いわけでも、信頼されていたわけでもありません。人々はお金の力を信頼したのです。けれど、ツロは勘違いします。自分が称賛されていると高ぶったのです。ツロは目に見える宝を追うあまり、本当に求めるべきものを見失ってしまったのです。知恵に満ち、国々の称賛の的であった海の王者は、こうしてその輝きの全てを失うことになるのです。ツロはエルサレムを滅ぼしたネブカデネザルによって13年にも渡って包囲され、遂に陥落いたします。そして、アレクサンダー大王の遠征によって、この地より完全に滅亡するのです。
「あなたは心高ぶり、『私は神だ。海の真中で神の座についている。』と言った。あなたは自分の心を神の心のようにみなしたが、あなたは人であって、神ではない。」(28:2)
お金が悪いのではありません。財を蓄えることを禁じているわけではありません。けれど、それが高ぶりの原因となっては元も子もありません。権力も名誉もあらゆる世の称賛が誘惑の種となります。「あなたは人であって、神ではない。」この戒めを胸に刻みましょう。人である分をわきまえて、神に生かされる平安を感謝していきましょう。

エゼキエル22:1-16 「炉で溶かされて」
1-16節ではエルサレムの罪が暴露されます。
「人の子よ、あなたはさばくのか。」と呼びかけるのは、批難ではなく、エゼキエルに主の言葉を語る覚悟を問うているのです。さばくことは覚悟のいること。ましてや、神のさばきを語ることは尚のことであります。けれど、そこにはさばかなければならない神の理由があり、さばかれなければならない人の理由があります。
神の民である彼らは叫ぶでしょう。なぜ神は黙っているのかと。なぜ神は我らを助けないのかとです。私たちも同じ。私たちもつぶやきます。なぜ神はこんなにも大きな試練を与えるのかと。なぜ神は私の祈りを聞いてくれないのかと。しかし、神の側には別の意見があります。それは「なぜこんなにも罪を重ねるのか」です。
彼らは自分で血を流し、自分で偶像を造って、罪を重ねました。軽蔑や虐待やしいたげ、中傷に高ぶりに姦淫。聖なるものをさげすみ、安息日を汚し、そして神を忘れたのです。神である方が果たしてこれらを見逃すことができるでしょうか。曖昧にできるでしょうか。もし、それをするなら、もはやそれは神ではないのです。神は神であるが故に、悪を滅ぼされる方であります。
以前夕方のニュース番組を見ていたら、立入禁止の堤防に無断で入る釣り人の様子が映されておりました。その堤防は過去に70人を超える釣り人の事故があった、大変危険な堤防で、普段から封鎖されているのですが、それでも中に潜り込む人は後を絶たないのだそうです。記者がなぜ入るのかと問うと、関係ないと逆ギレしたり、無視したり。その忠告で引き返す人は誰もいませんでした。たとえばその現場で、もしも本当に事故が起こればどうなるでしょう。もちろん当人の無責任な振る舞いは批難を浴びることでしょう。けれど一方で、なぜあんな堤防を放置していたのかとその管理責任を問う声も上がるのではないでしょうか。もっと見回りを頻繁にしておけば良かったのにと言う人もいるかもしれません。中には、なぜ神様はこんな目に会わせたのかと文句を言う人もいるかもしれない。けれど私は、申し訳ないけれども、彼らが事故で怪我をしたり、亡くなったとしてもそれは彼らの責任だと思います。
彼らには滅ぼされる原因がある。理由がある。それを脇において、ただ救いだけを求めるというのは虫が良すぎる話ではないでしょうか。23節からは、イスラエルのそれぞれの立場にいるもの、誰もに理由があるということが語られます。25節の「預言者たち」は28節と被るので、注にあるように「君主たち」のほうが良いかもしれません。つまり君主、祭司、預言者、民衆。彼らには弁解の余地がないのです。主は彼らの内に破れ口を修理する者を探しますが、そこには見当たりません。ゆえに神の怒りが彼らの上に降り注がれるのですが、それは彼らの生き方が返されたということであります。
今日の箇所が何を伝えているのか。それは、私たちの信仰の基本的理解を確認させるものです。それはすなわち、神は滅ぼさざるを得なかった、ということです。神には正当な理由がある、ということです。
私たちは苦難に合うと、神に助けを祈ります。助けが与えられないと、神は何をしているのかと憤ることでしょう。そしてやがて躓きます。私たちは試練にあって、いつも「なぜ、こんなことが」と叫ぶのです。しかし、本当に大事なのは、試練を通して私たちが自らを顧みることにあります。試みの理由は一つです。それは私たちが主を知ること。主に立ち帰ることです。
主は銀を炉の中で溶かすと言います。形あるものが溶かされる。そのままではいられなくなる。しかし、それはもう一度形造られるために他なりません。不純物を取り除き、もう一度光り輝くそのものとして、主に用いられる器となるために徹底的に溶かすのです。
22:14-16「わたしがおまえをさばく日に、おまえの心は耐えられるだろうか。おまえの手は強くあり得るだろうか。【主】であるわたしが語り、事を行う。わたしはおまえを諸国の間に散らし、国々に追い散らし、おまえの汚れをすっかり取り除く。国々の民が見ている前で、おまえはおまえ自身によって汚される。そのときおまえは、わたしが【主】であることを知る。』」

ルカ14:15-24 「来たれ。既に備わりたり」
イエス様の例え話を聞いていた客の一人が言います。「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう。」すると、イエス様はここでも一つの例え話をなさいます。それは壮大な宴会を催して大勢の人を招いた主人と、その誘いを断った人々の話です。
それぞれの用事を理由に主人の誘いを断る客たち。しもべから報告を聞いた主人は大変怒って、『急いで町の大通りや路地に出て行って、貧しい人たち、からだの不自由な人たち、目の見えない人たち、足の不自由な人たちをここに連れて来なさい。』と命じます。つまり、誰でも手当たり次第連れて来いと言われたのです。それでも席が余っていると、今度は、町の外の者も連れて来るように命じます。そして、よっぽど腹が立ったのでしょう。『言っておくが、あの招待されていた人たちの中で、私の食事を味わう者は一人もいません。』と言い捨てるのです。最後の一言は、もう絶縁宣言です。客たちは、それぞれに理由があって断りました。少なくとも本人たちには断る理由がある。けれど主人は容赦しないのです。何もそこまで、と思われるでしょうか。主人の横暴さに引かれるでしょうか。
主人は大勢の人を招待しました。そして宴会の時刻となったので、しもべを遣わして、招待していた人たちに「さあ、おいでください。もう用意ができましたから。」ともう一度声をかけられた。注意して読むと、ここでは二度に渡って招待がなされたことがわかります。これは当時のユダヤの習慣で、誰かを招待する時には正式な招待に先立ってあらかじめ声をかけておきました。なぜなら、いきなり声をかけても、それこそその人には別の用事があるかもしれないからです。あらかじめ数を把握しておけば準備が無駄になることはありません。ですから、今、主人の誘いを断った客たちは、あらかじめ招待されていた客なのです。そして出席しますと返事していた人たち。初めの招待を断らなかった者たちです。テーブルにはわざわざ名札が揃えられて、もうここはあなたの席だと用意されて、食事も飲み物も全ての準備が整いましたから、さあ、おいでください。と、声をかけられたのです。にも関わらず、用事を理由に断った。だから主人は怒ったのです。それなら最初に声をかけた時に言えよ。という話です。ですから、最後の決別は無慈悲に聞こえるかもしれませんが、そうではありません。むしろ、心を込めた主人の接待をいとも簡単に断ってしまう客の無作法、無神経。あまりにも主人を軽んじるその態度こそが問題なのです。その食卓の価値も、重さも、全く理解せず、平気で用事がありますからと言えてしまう、その厚かましさが問題なのです。
ヨハネ14:1-4で、イエス様はあなたがたのために場所を用意しに行くと言われました。そして、場所(すなわち住む所)を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。とです。ではその時、私たちは用事がありますから。と言って断るのでしょうか。その用意のために費やされた主の尊い犠牲と、心遣いを、軽く扱うことでしょうか。天における私たちの住まいを用意するために、イエス様は十字架へと向かわれ、自ら罪の贖いとなられました。私たちはもっとその招きの重さを知らなければなりません。その招待に込められた想いを理解しなければなりません。ヨハネ14:18-19にはこうあります。「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。あなたがたのところに戻って来ます。あと少しで、世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生き、あなたがたも生きることになるからです。」主は私たちを捨てたくはないのです。孤児にはしたくない。何とか生かしたい。これが主の本心です。そんな主が「私の食事を味わう者は一人もいません。」と言われる。いやいや、主にそんなことを言わせてはいけないのです。私たちは自らの用事を置いてでも、主の招きに応じるべきです。
今日の説教題はルカ14:17の「文語訳」です。しもべは言いました。「さあ、おいでください。もう用意ができましたから。」しもべの言葉は優しげですが、主人の言葉はもっと激しいものだったと思われます。「来たれ。既に備わりたり。」これは主人の切実な願いです。その招待のために、特別の代価が支払われているのです。もう全ての準備は整っています。後はもう、私たちがこの招待に応じて出向くだけなのです。

エペソ4:11-16 「私たちは唯一無二の器官」
エペソ1:23には「教会はキリストのからだ」とはっきりと記されています。そしてエペソ5:30では「私たちはキリストのからだの部分だからです。」とあります。つまり、この2つの御言葉から、教会と私たちの関係が、キリストのからだとその部分に例えられているわけです。さらに今日の箇所エペソ4:12には「それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためです。」とありまして、聖徒と数えられる私たちは、キリストのからだの部分として奉仕の働きを担い、キリストのからだなる教会を建て上げるのだと言います。体の中の器官は、それぞれ役割は違いますが、共に一つの体を形成しています。同じように教会もまた、それぞれのキリスト者がそれぞれの奉仕を担い合い、一つなる教会を形成しているのです。ですから、この教会は単なる仲良し集団ではなくて、奉仕をする集まり。神から委ねられた働きを共有する集まりです。
つまり奉仕をするということは、教会を建て上げるという主からの大切な使命に携わっているということです。この理解はとても大切です。そうでないと、私たちは時に何のために奉仕をするのかがわからなくなってしまうからです。
時々、奉仕を教会での自分の居場所にする人がいます。奉仕をすることで皆から感謝されて、役に立っている。必要とされている。と、教会のおける自分の存在価値を奉仕の評価で確認する人です。他ならぬ私がそういう者でした。けれど、それは役に立たなければ必要がないということでもあります。他人の評価が居場所なら、評価されなければ居場所を失うしかないのです。そうするともう奉仕は喜びではありません。いつ「あなたなんていらない」と言われるかと不安でしかない。他人の顔色を窺ってやる奉仕は苦痛でしかありません。
第一コリント12:27に「あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です。」とあります。教会が何かの工場や、製品に例えられるのではなくて、からだに例えられるのには意味があります。部品だと言われれば、それは幾らでも替えの利く存在です。部品の形には意味はありますが、同じ形であればそれでなくても良いのです。けれど、からだの中の器官は、そうはいきません。からだの器官は、それぞれに違う役割を持った替えのきかない特別の存在なのです。
一人ひとりがキリストのからだの一部を担っている。それは言い換えると、一部であって、からだ全部ではないということでもあります。部分だけではけっして「からだ」とはなり得ません。私たちはキリストのからだを担うそれぞれの部分です。それぞれが違う役割を担っているのですから、一つの部分も無駄ではありません。教会が、もし誰かをいらないと言って排除するなら、それは自分のからだの一部を捨てるのと同じです。その一人の欠けでからだ全体が機能しなくなるのです。
そして、このことは、「私」もからだにとって大切な一部分なんだということでもあります。教会の中で誰一人、不必要な者、意味のない者はいない。そこにはもちろん「私」も含まれているのです。「私なんていてもいなくても同じだ」と嘆くその「私」もであります。教会において私たちはそれぞれに唯一無二の器官なのです。だからこそ「私」はいただいた賜物を用いて奉仕しなければなりません。土の中に隠しておくわけにはいきません。その賜物はキリストのからだを構成する大切な一部分だからです。
そしてこの理解を教会全体に広げるのです。私たちはそれぞれの賜物に応じて、それぞれの役割を担って、一つの教会を建て上げています。皆がかけがえのない存在なのです。だからこそ私たちは互いの賜物を知り、想像することが大事です。見える結果だけでは私たちにはわかりません。その人の存在の尊さをです。だから想像するのです。その一人が陰で献げておられる時間や労苦をです。その一人が担ってくれているキリストのからだをです。目は手の働きを想像すべきです。頭は足の働きに感謝すべきです。教会にいるその一人の存在を、想像して、理解して、感謝することが大事です。一人では決して教会はなりません。私たちが組み合わされるとき、教会はなるのです。私たちがそれぞれの存在を心から感謝し喜ぶ時、教会は一つです。
