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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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221130 黙示録8 「世のわざわいを見て」

黙示録8 「世のわざわいを見て」

 6章から、巻き物の7つの封印が解かれる幻が記されます。まず4つの封印が解かれると、4つの馬が飛び出して災いをもたらしました。白い馬は偽キリスト、赤い馬は戦争、黒い馬は食糧不足による経済難、青い馬は死そのものです。そして第5の封印が解かれると、殉教した人々のたましいが祭壇の下で最後の審判が訪れるのを待ち望んでいるのを見ます。けれど、それはまだ聞き遂げられません。なぜなら同じように殉教する者の数がまだ満ちていないからだと神は言われます。つまり審判を乞う祈りが更に積まれる必要があるということでしょう。そして次に第6の封印が解かれると、大きな地震が起きると告られます。しかし、これもまた4人の御使いによって押さえつけられています。まだ神のしもべたちの額の印を押し終えていないからだと言います。すでに印が押された者たちは御座と小羊の前に立って礼拝をささげています。けれどまだ至っていないと。そして今日の箇所、8章へと続くわけです。
 8章でいよいよ7つ目の封印が解かれる幻を見ます。すると天には半時間ばかりの静けさがありました。先程まで、天では殉教者たちが審判を願い、御使いたちも神の民も、皆叫ぶように礼拝をしていたというのにです。それが今、声がピタリと止んで、皆が固唾を呑むのです。緊張が走ります。嵐の前の静けさです。
 すると角笛を携えた7人の御使いを従えて、一人の御使いが金の香炉を持って祭壇に立ち、香を祭壇にささげるのです。4節に「香の煙は、聖徒たちの祈りとともに」とあります。詩篇141:2には「私の祈りが御前への香として手を上げる祈りが夕べのささげ物として立ち上りますように。」とありました。また黙示録5:8には「香は聖徒たちの祈りであった。」とあります。香とは聖徒たちの祈りを指しています。しかし「香の煙は、聖徒たちの祈りとともに」とある。つまりここには2重の祈りがあるということです。聖徒たちの祈りだけでは不十分なのです。ある説教者はこれは主イエスの祈りだと言っています。主イエスの執り成しの祈りが重なって届けられる時、神はその祈り、最後の審判を乞い願う祈りを聞き遂げられるというのです。
 御使いは香炉を祭壇の火で満たします。そしてそれを地に投げつけました。すると、雷鳴と声といなずまと地震が起こります。それが最後の審判の幕開けの合図なのです。
 いよいよ7つのラッパが吹き鳴らされます。ヨエル書2:1-2には「シオンで角笛を吹き鳴らし、わたしの聖なる山でときの声をあげよ。」地に住むすべての者は、恐れおののけ。【主】の日が来るからだ。その日は近い。それは闇と暗闇の日。雲と暗黒の日。数が多く、力の強い民が、暁とともに山々の上に進んで来る。このようなことは、昔から起こったことがなく、これから後、代々の時代までも再び起こることはない。」とあります。主の日において、角笛が吹き鳴らされます。それは恐れおののく日だと。闇と暗闇の日だと言うのです。
 御使いが順々にラッパを吹き鳴らします。第1の御使いが鳴らすと、雹と火が降り注ぎ、地上の3分の1が焼けてしまいます。第2の御使いが鳴らすと、火の塊が海に投げ込まれ、海の生き物の3分の1が死に至ります。第3の御使いが鳴らすと、星が落ちて水源の3分の1を汚染し、人々を死に至らしめます。第4の御使いがラッパを鳴らすと、太陽と月と星の3分の1が打たれて、光を失います。すると1羽の鷲が現れて、この後のわざわいを警告いたします。何とも不吉な場面で、8章は終わるのです。
 さて、この幻をどう理解すべきでしょうか。一つは、間違いなくこの世界は滅びに向かっているということ。もう一つは、それは殉教者たちが請い願う、新しい世界の訪れでもあるということ。そしてもう一つは、わざわいが繰り返される中、打たれるのがいつも3分の1であることに神の憐れみがあるということでしょう。
 どう見ても、世の終わりの予兆としか言えない出来事が現実に起こっているのです。戦争や異常気象。地球規模の疫病。それは一つ一つ、時代の理由であったり、個人の思惑であったり、それぞれに原因があります。けれど、私たちはそこに別の声も聞く必要があるのではないかと思うわけです。神の前に立つ自分を顧みる必要があるように思うのです。1羽の鷲が大声で言います。「わざわいだ、わざわいだ、わざわいが来る。地上に住む者たちに。三人の御使いが吹こうとしている残りのラッパの音によって。」これは警告です。警告は別の見方をすれば、まだ間に合うということでもあります。神さまは一度に全てを滅ぼすこともできるのです。けれど、毎度まいど3分の1に留められています。それは、このわざわいが災いに終わらず、人々の悔い改めに結びつくためにです。神は私たちを待っていてくださるのです。

221127 イザヤ49:13-18 「わたしはあなたを忘れない」

イザヤ49:13-18 「わたしはあなたを忘れない」

 イザヤ書40章から後半は、バビロン捕囚からの解放が一つのテーマとなって語られ、そして新天新地、終末の栄光までがいっきに語られます。もちろんイザヤが語るこの時点で、バビロン捕囚は起きていません。彼が直面するのはアッシリアからの脅威でありました。そして、その脅威が過ぎ去り、その後ヒゼキヤ王の時代になって、初めてバビロンに捕囚されることが預言されます。39章です。けれど、実際にユダがバビロンによって滅ぼされるのはその200年も後のことなのです。ですから、ここから後の預言は、イザヤの時代、決して耳が傾けられることはなかった預言です。誰も気に留めなかった。誰もが忘れていた預言。それが後になって、国の滅亡を経験し、バビロン捕囚を経験して、改めて脚光を浴びるのです。長く閉ざされいた預言は、再び民に読み解かれます。
 イザヤ49章に記されるのは、神はシオンを見捨てられないということ。けれど、これが語られる背景には、その事実を忘れてしまう現実、「【主】は私を見捨てた。主は私を忘れた。」と嘆かずにはいられない苦難が起こるのです。ユダの人々はこの先、祖国の滅亡を経験することになります。城壁が崩れ、町々が崩れ、崩れ落ちた城壁の下敷きになった人々の様子や、崩れ落ちた神殿の跡からあらゆる貴重品が奪い去られていく様子をまざまざと見ることとなるのです。着の身着のまま、槍で脅されて進む先には捕虜たちの収容場があり、一定の人数が揃う度、そのまま敵本国へと連れ去られていく。家族と離れ離れ。再び会う保証もないまま、年老いた者も、幼い者も、怪我をしている者も、病を患う者も一様に、連行されていくのです。
 ウクライナがロシアによって侵略されて9ヶ月が経ちます。その現状はユダのそれと重なります。ミサイルが打ち込まれ、戦車が進軍し、街を崩壊し始めました。大勢の人が土地を奪われ、瓦礫に埋もれ、見せしめに殺され、そして故郷を捨てて逃げざるを得なくなりました。残った人たちは自分たちの国を取り戻そうと今も必死に戦っています。でも、どうなるかわからない。今日死ぬか、明日死ぬか。そういう不安をいつも抱えて過ごしています。家族が散り散りになる人たちも少なくありません。ウクライナの宗教は主にウクライナ正教とギリシャ系カトリックです。立場の違いはあれど、彼らは同じ神を信じています。それはロシアも同じです。なのに、彼らは国を追われた。「【主】は私を見捨てた。主は私を忘れた。」と叫ばずにはいられない状況がそこにあるのです。
 だからこそ、私たちは続く主の言葉を聞かねばなりません。「女が自分の乳飲み子を忘れるだろうか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとえ女たちが忘れても、このわたしは、あなたを忘れない。」この言葉にどれほどのユダの民が救われたことでしょうか。どれほどのキリスト者が救われたことでしょうか。
 誰かに忘れられることほど辛いことはありません。忘れられるとは、その人の中で自分がいなくなるということです。自分がいてもいなくても変わりない存在となることです。これは到底受け入れられることではありません。しかし2000年前、エルサレムの郊外にいた羊飼いたちはまさにそういう人々でした。彼らはユダの国中を騒がす住民登録にすら数えられない人たちでした。主役は羊で、彼らは日陰の者でした。けれど、主はそんな彼らにスポットライトを当てます。彼らは救い主の誕生を真っ先に祝った者として、後世に語り継がれることとなるのです。クリスマスの度に世界中の人々が彼ら羊飼いを覚えます。それもこれも主が彼らを忘れなかったからです。
 自分が誰からも必要とされていない。自分がいてもいなくてもいい存在のように感じる。自分という存在が忘れられたように扱われる。そういう思いを私たちもまたするでしょうか。けれど神は忘れられたその人を、ご自身の最も大切なご計画に用いられたのです。私たちの人生にも主のご計画が確かにあります。「このわたしは、あなたを忘れない。」この言葉は私たちにもまた語られています。

221120 ルカ15:25-32 「羨むなかれ」

ルカ15:25-32 「羨むなかれ」

 イエス様は譬え話の3つ目として、この放蕩息子の話をしています。1匹の羊。一枚の銀貨。そして弟息子。3つの譬え話に共通するテーマは、無くなったものを見つけた喜びであります。そしてそれを共に喜んでくれと言うのです。
 兄息子は畑にいたとあります。散歩に行っていたわけではありません。畑仕事に行っていたのです。兄息子は今、畑仕事を終えてへとへとになって帰ってきたのです。すると家に近づくにつれて、音楽や踊りの音が聞こえて来ます。どうやら宴会騒ぎをしている。兄息子はしもべの一人から聞きます。「あなたのご兄弟がお帰りになりました。無事な姿でお迎えしたので、お父様が、肥えた子牛を屠られたのです。」これを聞いて彼は怒って、家に入ろうともしなかったのです。
 さて、兄は何に怒ったのでしょうか。それは彼の言い分を聞けばわかります。「ご覧ください。長年の間、私はお父さんにお仕えし、あなたの戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しむようにと、子やぎ一匹下さったこともありません。それなのに、遊女と一緒にお父さんの財産を食いつぶした息子が帰って来ると、そんな息子のために肥えた子牛を屠られるとは。」おわかりでしょうか。彼の怒りは弟に向けられているのではありません。父に向けられています。父の不平等に怒っているのです。自分は長い間まじめにお父さんに仕えて来た。お父さんは自分にはこやぎ一匹下さらなかった。なのに遊んで過ごした弟のためには、肥えた子牛を屠られる。なんでお父さんはなぜ弟ばかりを贔屓するのか。そういう妬みが彼の怒りの根底にあるのです。
 他人を羨むというのは、自分に満足していないということであります。彼は自分の置かれる境遇に満足していなかったのです。「長年の間、私はお父さんにお仕えし」とあります。この「仕える」という言葉には、一般的な「仕える・仕事をする」という言葉ではなくて、「奴隷として仕える」という特別なギリシャ語が使われているようです。彼は弟が好き勝手にする間、自分は奴隷のように仕えてきた。と言っています。つまり、本当は自分も好き勝手にしたかった。弟を見て羨ましさもあった。でも自分は長男であり、家を守る責任があり、我慢するしかなかった。なのに、お父さんは弟ばかりを心配される。こんな不公平なことはないと訴えるのです。けれど、本当に不公平でしょうか。いやいや、全てが公平に扱えばそれこそ兄は満足できなかったのではないでしょうか。
 父は言います。「子よ、おまえはいつも私と一緒にいる。私のものは全部おまえのものだ。だが、おまえの弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのは当然ではないか。」弟は財産の一部を持っていきました。けれど、その他の全ては兄が引き継ぐのです。もう父の中ではそれは決定事項です。確かに父はいなくなった弟息子をいつも心配していました。しかしそれと同時に、父は一緒にいる兄息子をいつも信頼していたのです。私のものは全部おまえのものだ。それほどまでに信頼したのです。それは決して弟息子には向けられない父の想いです。そういう意味では二人の扱いは平等ではありません。むしろ父は兄息子を自分と同等に扱っている。兄息子は自分の扱いは不公平だと言いますが、決してそうではありません。
 社会人の頃、楽しみにしていた友人たちとの集まりに、迎えの約束をしていた友人の一人の遅れで2時間以上遅刻したことがありました。待てど暮せど迎えが来ず、時間ばかりが過ぎていきます。何本かの電話で繋がると、実は知り合いが来て話し込んでいたと。何とも言えない寂しさを感じました。後回しにされた。そのことに心の痛みを感じました。けれど、後から彼が言ったのは、殊の外深刻で放っておけなくて、私ならわかってくれると思って。とのことでした。信頼しているから後回しに出来たのです。その場にいればきっと共感してくれる。そう思えばこそです。
 父の兄息子に対する思いはそれに似ています。お前がいてくれるからこそなのです。父が兄に向けているのは、弟に対する心配と同じではありません。信頼です。ですから兄は弟を妬むよりも、父からの信頼を喜べば良いのです。私たちも同じです。あの人ばかりと妬む時、実は信頼されているからこそと言うことに目を向けましょう。それでも妬みが湧いてくるときは、素直に言えば良いのです。私のことも見てくださいと。父なる神は必ず喜んで聞いてくださるはずです。

 ヘブル 6:10 神は不公平な方ではありませんから、あなたがたの働きや愛を忘れたりなさいません。あなたがたは、これまで聖徒たちに仕え、今も仕えることによって、神の御名のために愛を示しました。

221116 エゼキエル46 「まず一人の礼拝者たれ」

エゼキエル46 「まず一人の礼拝者たれ」

 44章から46章までは、神殿の規定について、様々に記されている箇所です。46章では特にささげ物に関すること規定が記されています。
 特にこの章で注目すべきは、君主、つまり王の礼拝規定が事細かく規定されていることです。生贄の種類であったり、ささげ物の分量であったり、門の入り方や出方、果ては相続の範囲にまで言及しています。
 46:2「君主は外側の門の玄関の間を通って入り、門の戸口の柱のそばに立つ。祭司たちは彼の全焼のささげ物と、交わりのいけにえを献げ、彼は門の敷居のところで礼拝する。それから彼は出て行く。しかし、門は夕暮れまで閉じてはならない。」とあります。
 46:8-10には「君主が入るときには門の玄関の間を通って入り、そこを通って出て行かなければならない。しかし、民衆が例祭の日に【主】の前に入るとき、北の門を通って礼拝に来る者は南の門を通って出て行き、南の門を通って入る者は北の門を通って出て行かなければならない。自分が入った門を通って帰ってはならない。その反対側から出て行かなければならない。君主は、彼らが入るときに一緒に入り、彼らが出るときに一緒に出なければならない。」とあります。
 これらの記述は何を言っているのでしょうか。王は神殿での礼拝と毎日の民の執り成しのためのささげ物を献げなければならないわけで、その時、王は門の玄関の間を通って出入りし、門の戸口に立って、祭司たちに生贄をわたします。それから門の敷居で礼拝をささげ出ていくのです。これは王である者の日々の務めです。
 ところが、祭りの日や安息日の礼拝のときは「君主は、彼らが入るときに一緒に入り、彼らが出るときに一緒に出なければならない。」とあるのです。祭りや安息日は民も礼拝を献げる日です。つまり民が礼拝する時、王は民と共に礼拝し、全ての民が終わるまで付き合うのです。
 祭司はささげ物を献げます。では王は神殿で何をするのか。礼拝をするのです。民が来ないときにも礼拝をし、民が来たときには一日中礼拝をささげます。つまり王は何よりも礼拝者であることが問われるのです。ダビデが神に祝されたのは、彼が誰よりも礼拝者だったからです。イスラエルが滅んだのは、歴代の王が神を礼拝しなかったからです。その結果、ユダの民は今捕囚の地に置かれているのです。
 王であれば、人を威圧する胆力だとか、皆を振り向かせる美貌だとか、誰もが認める名声だとか、色んな能力が求めらるように思います。実際、私たちはそういうカリスマのある人物を求めるのではないでしょうか。けれど、神が王に命じるところは、誰よりも信仰者たれ。礼拝者であれ。ということなのです。

 国を治める前に己を治めることが求められる。ということです。盗んではいけないと言いながら、他人の物を盗んでいては誰もその声に耳を傾けません。礼拝せよ。と聞かせたいならば、まず誰よりも礼拝者でなければならない。王はその地位のゆえに、誰よりもそれを問われるのです。
 このことは、家を治めるということにおいても同じだと言えるでしょう。子どもたちに礼拝の大切を教えるためには、誰よりも親が礼拝者であることが求められるのです。ガミガミ言うのではありません。強制し、命令しても意味はありません。伝わらないのなら、その人の信仰のあり方に魅力がないのです。王として、親として、誇らしい礼拝者であるかが問われるのです。
 祭の日や安息日だけが礼拝ではありません。王は毎日ささげ物をしました。では、私たちの毎日の礼拝はどこにあるのでしょうか。それは私たちの内なる宮に住む御霊によってです。だから祈りが大事です。
 王はささげ物を神殿に届けます。安息日には和解のための生贄。つまりとりなしです。そして毎日ささげるのは、子羊、穀物のささげ物、油、常供の全焼のささげ物。それは日々生かされていることへの感謝と献身の応答です。私たちの日々の歩みが、神への感謝の応答の日々とされることが大事です。果たして私たちの信仰に喜びはあるでしょうか。感謝はあるでしょうか。私たちの祈りと礼拝の生活が感謝と喜びに満たされているのなら、当然、それは子どもたちにも伝わるのです。まず一人の礼拝者たれ。主の前に恵みを数え、感謝をささげる私たちとされたいと思います。

221113 ルカ15:11-24 「待ち続ける神」

ルカ15:11-24 「待ち続ける神」

 私は初めてこの箇所を読んだ時、何て自分勝手で都合のよい話なのかと思いました。そうじゃないでしょうか。この弟息子は父の生前に財産を分けてもらって家を出ていきます。財産は普通親の死でもって相続するものです。それを父がまだ元気な内に求めるのですから、親を死んだものとして取り扱うようなものです。それだけのことをして家をでるなら、その後の人生は何があっても自分の責任ではないでしょうか。たとえ何があっても、それは自業自得というものです。
 事実この後、飢饉があり、彼は早々に無一文になるのです。困りに困って、遠い外国の地で、彼は豚の世話をするまで落ちぶれました。しかも彼はそこで豚の餌を食べたいほどに飢えたのです。その時彼は言います。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が、なんと大勢いることか。それなのに、私はここで飢え死にしようとしている。立って、父のところに行こう。そしてこう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう、息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。」』あれほど啖呵を切って家を出たのに、彼は今また父のもとに帰ると言うのです。何と虫のいい話でしょうか。流石に彼もそれがどれほど厚かましいことかはわかります。ですから雇い人のひとりに、と言います。しかし、それにしてもです。世の中には帰りたくても帰るところのない人も沢山います。上手く行かないから帰る。金持ちのボンボンらしい、甘い考えじゃないかとも思ったりもするのです。
 ところが、この話は更に理解しづらい展開となります。何とこの弟息子の親不孝の一切を、父は水に流し、受け入れ、喜んだのであります。そんな甘い話があるでしょうか。けれどです。これは譬え話なのです。これは人生を舐めている息子と甘々の父親の話ではなくて、この親子に譬えた、私たちと父なる神との話なんだというのです。そして、そのことを理解してこの箇所を読む時、その意味するところがガラリと変わってくるのです。
 弟息子は父に対して本当にひどい仕打ちをしました。貰うものは貰って、今後一切私の人生には関わらないでくれと、家を出るのです。この息子の態度に父はどれほど心痛めたことでしょう。けれど、それは私たちの神に対する態度そのものなのです。私たちは神によって造られたものです。けれど私たちはそのことを忘れて、自分の望むままを生きる者でした。神がおられることを無視して、ただただ見えるものだけを信じて過ごしていました。神によって日々沢山の恵みをいただいて、生かされているに過ぎないのにです。貰うものを貰って、指図はするな。でも困ったときは助けてくれよ。それはまさにこの弟息子の姿ではないでしょうか。その彼が、自らの罪と愚かさに気付き、父のもとに帰る決意をします。悔い改めです。私たちは飢饉がなければ気付かなかったでしょう。人生のどん底を味わって、初めて、自らが神でないことを知るのです。そして自分がいかに神を無視して生きてきたか、赦される資格のない者であるかを知るのです。
 この譬え話の中心的メッセージは何でしょうか。それは、息子の帰りを待ちわびている父がいるということです。考えてもみれば、息子がいつ帰ってくるか誰にもわかりません。もしかすると一生帰ってこないかもしれない。にも関わらず、父は彼が遠くから見つけたのです。この時、弟息子の姿は別人のようでした。出ていく時ハツラツとしていた彼は、骨と皮だけに痩せ細り、覚束ない足で歩き、悪臭を放ち、髪も髭も伸び放題。にも関わらず、父は彼に駆け寄り、口づけし、抱き寄せたのです。つまり、父は毎日そこに立って息子の帰りを待ち続けたということです。そうでなければ、変わりきった息子を遠目で気付くことなど出来ません。そしてこれが私たちの帰りを待ちわびる、神の姿だと言うのです。
 息子の救いは、父のもとに帰ることですが、その決定は実は父に委ねられておりました。息子がどれほど謝ろうと、父がそれを赦さなければそれでおしまいです。けれど、父はそれを赦すどころか、駆け寄って、だき寄せたのです。よく読めばわかりますが、父が彼を抱き寄せたのは、彼が自分の親不孝を父に告白する前なのです。つまり、父の中では、すでに息子を赦すことが決まっていた。そして、これこそが救いの根拠です。そこにすでに救いが用意されている。父の一方的な憐れみ。これが私たちの救われる根拠です。
 ひとりの罪人が悔い改める時、天においても、地においても、喜びがわき起こります。しかし、それ以上に、天の父なる神が喜んで下さる。それが聖書の語るところです。父は、私たちが立ち返るのを喜んで下さる。喜び祝うのは当然だと、言って下さる。神とともに歩む人生は、神に喜ばれる人生なのです。

221109 エゼキエル40:1-27 「やがて至る幻」

エゼキエル40:1-27 「やがて至る幻」

 40章からは神殿の幻が記されます。10章で、主の栄光がケルビムと共に神殿から去る様子を見ました。しかし、エゼキエルを含む第一次捕囚から数えて25年。神殿が崩壊し国が滅んでから14年。主は新しい神殿の幻を遂にエゼキエルを通してイスラエルに与えられたのです。
 さて、ここ40章では門の長さだとか、部屋の数だとか、延々と細かな数字が羅列されています。神殿の外壁と外門についてが記されているわけですが、読むのに退屈で、辟易する箇所であります。けれど「人の子よ。あなたの目で見、耳で聞き、わたしがあなたに見せるすべてのことを心に留めよ。わたしがあなたを連れて来たのは、あなたにこれを見せるためだ。あなたが見ることをみな、イスラエルの家に告げよ。」とあります。現代のようにコピー機があれば見たままを図面に起こして配れば、これに越したものはありません。けれど、もちろん当時はコピー機はありません。そもそも紙自体が貴重です。大勢に配ることはできませんし、スクリーンのような大きな紙を用意して、描いて見せるなんてことももちろんできません。つまり、大勢の民、万を超える民に預言を伝えようとすれば、口頭で伝えるより他に方法はないわけです。だからこのような記述となる。けれど民はそういうことに馴れておりましたから、彼らはこれを聞いて頭の中で図面を起こして神殿の幻を見たことでした。
 それはどれほど彼らにとって希望であったことでしょうか。家を建てる時、または教会を建てる時、もっとも希望に満ちるときはいつでしょうか。やがて建つ家を想像するときです。実際に建て上げられ、そこでの生活が始まると、その日常に追われます。けれど、想像の家は希望なのです。エゼキエル書は、神殿崩壊の預言から始まり、やがて民の帰還が預言されました。その後に語られるこの神殿の幻なのです。やがて、イスラエルは戻って一つの国となる。その象徴こそがこの神殿なのです。
 やがて至る幻を見ることは、彼らの今に意味を持たせ、彼らの心を奮い立たせるのです。神殿が崩壊し、国を追われ、帰るべきところを失った民。代を重ね、イスラエルのアイデンティティは失われてバビロンに同化していくであろう民に、自分たちの目的を思い起こさせる。幻は、彼らが神の民であることを強烈に知らしめたのです。自分たちはやがて帰る。そしてやがて神殿が建てられる。だから今を腐らずに信仰を持ち続けよう。だから今不平を言わず懸命に生きよう。周囲に混じり合ってしまう方が楽だったと思います。けれど、彼らは頭の中に建つ神殿を思い、イスラエルであることを捨てなかったのです。

 ところで、このエゼキエルに与えられた神殿の幻は、帰還後に再建された第2神殿とも、ピラトによって造られた第3神殿とも厳密には違っています。これをどう取るか。捕囚の民を勇気づかせる象徴であり、第2神殿の預言と言うこともできますし、まだ見ぬ神殿の設計図と見ることも出来ます。しかし私たちとしては、私たちの内にある聖霊の宮こそは、このように厳かで完璧な設計図を持った揺るがない神殿の代わりとされたということを覚えたいと思います。神の栄光が宿るところとして建てられる神殿。この神殿で、神は人とお会いになるのです。エゼキエルの幻は大変立派で、厳かなものです。けれど、それすらも神の住まいには本来相応しくはない。それは偉大な知恵の王ソロモンが告白するとおりです。「それにしても、神は、はたして地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして私が建てたこの宮など、なおさらのことです。あなたのしもべの祈りと願いに御顔を向けてください。私の神、【主】よ。あなたのしもべが、今日、御前にささげる叫びと祈りを聞いてください。そして、この宮、すなわち『わたしの名をそこに置く』とあなたが言われたこの場所に、夜も昼も御目を開き、あなたのしもべがこの場所に向かってささげる祈りを聞いてください。」
 にも関わらず、聖霊は私たちの内なる宮に住まわれる。この驚きに目を向けたいのです。ダニエルは遠く崩壊した宮に面した窓から祈りの声を日に三度上げました。それほどに慕い求める主の宮を私たちはすでに持っています。いつであろうと、どこであろうと、祈りの声を上げ、叫びの声を届けることができる。主はいつも私の声を聞き遂げられる。これが私たちに与えられた恵みです。であるならば、私たちはこの宮をもっともっと用いるべきでありましょう。主の宮に香を炊くべきでしょう。1週間家を空ければ、それだけでホコリが積もるというものです。私たちは主の宮を留守にしないように、毎日香を炊く者でありましょう。祈りの声を上げ続けることといたしましょう。

221106 マルコ10:13-16 「子どもたちを主の前に」

マルコ10:13-16 「子どもたちを主の前に」

 私たちの教会の特徴の一つに、子どもと一緒の礼拝をあげることができるかと思います。実はこれは当たり前のことではありません。教会によっては、大人と子どもの礼拝を完全に分けていたりします。そもそもの理解力が違いますし、集中力も違うからです。大人はその騒々しさに気が散りますし、子どもたちはその堅苦しさに退屈します。ですから、案外分けたほうが上手くいったりもするのです。けれど、それでも私たちが一緒の礼拝を大事にし、こだわりとしてきたのは、子どもたちの信仰は礼拝の中でこそ養われると信じているからです。
 イエス様はこの子どもを抱いて祝福されましたから、連れられてきた子は、幼児や乳児といった幼子であったことでしょう。そんな幼子に説教を聞いて理解せよと言うのは無理な話です。礼拝の間静かにしてなさいと言っても無駄です。彼らは思いのままにしゃべり、歩き回り、そして泣き出すのです。けれど、それでも共に礼拝を持つことには意味があります。そこに本気で礼拝する大人の姿があれば、彼らは自然とその大切さを肌で感じ取っていくからです。
 日本の教会の多くは高齢化し、すでに多くの教会から子どもたちがいなくなっています。今のままでは20年、30年後には、どれだけ多くの教会が閉鎖されているか想像もつきません。幸いなことに、私たちの教会には多くの子どもたちが与えられています。これは本当に感謝なことなのです。彼らこそが教会の未来を担っていく者たちです。しかしそのためには、私たちが彼らに福音の確かさを継いでいくことが条件です。そのためには信仰の先輩として、人生の先輩として、私たちは子どもたちの見本とならなければなりません。彼らはよく見ています。私たちの信仰が本物かどうか。私たちの礼拝が真実であるか。私たちの信仰に嘘はないか。もし私たちの内に物言わぬ証しがあるならば、彼らは自ずから信仰を継いでいくのです。私たちは子どもと一緒の礼拝を大事にしてきた教会だと言いました。しかしそれは言い換えると、私たちが彼らの見本としてふさわしい礼拝をささげるという決意表明でもあるのです。
 さてこの箇所で、イエス様は弟子たちに「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。邪魔してはいけません。神の国はこのような者たちのものなのです。」とおっしゃっています。神の国はこのような者たちのものだと。。。どういう者でしょう。それは「子どものように神の国を受け入れる者」です。つまり、私たちが彼らの見本であると同時に、彼らが私たちの見本でもあるのです。神の国を受け入れるにあって、私たちは子どものようであれと言われているのです。
 クリスチャン家庭の子たちを見ていると、彼らが意識すらせず、当たり前のように神の国を受け入れていることに驚かされます。これは私にとっては発見ですが、彼らはお絵描きしていても、おしゃべりしていても、たとえ喧嘩をしていても、神の国を受け入れているのです。クリスチャン1世である私なんかは違います。無宗教の家庭に生まれ育った私は、高校生になるまで神は疑わしい存在でしかありませんでした。高校生になって友人の誘いで、教会に導かれ、聖書に出会い、イエス様を信じることになるわけですが、私にとってはそれは本当に大きな決断だったわけです。もうこれまでの生き方をばっさりと捨てる覚悟でありました。もちろん、それは聖霊の働きによるものであり、私のどうこうではありませんが、それでも、どこかで自分が選んだという意識があります。それは信仰に生きる覚悟でありますが、一方で、自分の思いに左右されやすい信仰。正直に告白しますと、私は意識をしていないと神の国が二の次、三の次になってしまう。何か受け入れがたいことがあれば、すぐに疑ってしまうような者であります。けれど彼らはどうやらそうじゃないのです。神の国は意識していようと、していまいと、それは下地となってあるのです。神の国を疑わない。この一点において、彼らは私たちの見本です。
 当時は人の数にいれられなかったような幼子ですら私たちの見本なのです。このことは、教会には一人として意味のない者はいないということをも意味しています。幼子であろうと、高齢者であろうと、関係はありません。私たちが一人の見本となり、一人が私たちの見本となる。そういう相互の尊敬が教会や家庭で築かれるなら、きっとこの福音は引き継がれていくことでしょう。幼子のように、真綿のような心を持って、互いを認め合う私たちでありましょう。

221102 詩篇141 「御霊に頼って」

詩篇141 「御霊に頼って」

 詩篇141は「夕べの詩篇」と呼ばれているものです。7節、9節からわかるように詩人の置かれた状況は、大変苦境にありました。それは物理的な苦難とともに、霊的な戦い、悪への誘惑に対する困難でありました。不法を行う者たちは、ごちそうを並べています。一方で、正しい者は、厳しい戒めの言葉を並べるわけです。そのような現実に、詩人は「【主】よ私の口に見張りを置き私の唇の戸を守ってください。」と祈ります。「私の心を悪に向けさせず不法を行う者たちとともに悪い行いに携わらないようにしてください。」と祈るのです。
 罪や誘惑に対して、私たちは己の決意だけでそれを逃れることはできません。悪の誘いこそ甘美で、ごちそうに見えるのです。アダムとエバの目には、善悪の知識の木の実は見るからに美味しそうでした。サタンはイエス様を誘惑する時に、腹を満たすパンを用意し、身を守る奇跡を用意し、そしてこの世の全ての栄華を与えると約束しました。Ⅰヨハネ2:16には「すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢は、御父から出るものではなく、世から出るものだからです。」とあります。それは、世にあっては生きる目的そのものであります。それらを手に入れるためにこそ、人々は懸命に働いてると言っても過言ではありません。それだけにごちそうは人の目を曇らせる誘惑ともなるのです。
 エサウは一杯のスープと引き換えに長子の権利を手放してしまいました。ちょっとだけ。これくらいならという小さな妥協が私たちを取り返しのつかない罪へと導くことが往々にしてあります。小さな妥協の積み重ねが、罪に対しての危機感を奪い取ってしまうからです。そして罪に対する危機感を失えば、私たちはそもそもの神との関係すらも必要としなくなる。むしろ、神はうるさいことを言う父親のように、面倒な存在として避けたくなるのです。
 確かに、投げ出したくなるような現実があるのです。頑張るのはもう良いか。と手放したくなるような時があります。それは本当によくわかります。けれど、そうやって自暴自棄になってもその先に救いがあるかと言えば決してそこにはないのです。私たちは時に信仰生活の生き辛さから、世の人々を羨みます。けれど、彼らが何の不安も悩みもなく幸せに生きているのかと言えば、決してそんなことはありません。神を知らぬ者は、全てのことを自分の責任として負わなければなりません。彼らはどこにも頼れない。全て自分で解決しなければならない。けれど、全てのことに解決があるとは限らないのです。
 だから腐らずに頑張りましょう。と言いたいのではありません。私たちの力だけでは、その困難には、そして誘惑には打ち勝つことが出来ないと言いたいのです。だから、詩人は祈ります。
「【主】よ私の口に見張りを置き私の唇の戸を守ってください。」
「私の心を悪に向けさせず不法を行う者たちとともに悪い行いに携わらないようにしてください。」
御霊に力をいただかずして、私たちはこの誘惑に打ち勝つことはできません。内なる御霊の助けをいただきましょう。祈りと賛美をもって、私たちの日々を覆うことといたしましょう。