ヨハネ1:1-5 「闇の中に見る光」
ヨハネはこの福音書をエペソで書いています。しかし、その直前にはパトモス島におりました。ドミティアヌス帝の迫害によってヨハネは幽閉されていたからです。そもそもこの迫害はユダヤ人に対して行われたものでした。紀元70年にエルサレム神殿は完全に破壊されますが、その結果、ドミティアヌス帝はこれまで神殿献金として捧げられてきたお金を税金として収めるように命じたのです。当然ユダヤ人はこれに反発します。この時期、まだローマ当局者はユダヤ人とクリスチャンとの区別はついていませんから、クリスチャンはこれに巻き込まれる形で迫害にあったというわけです。けれど、ドミティアヌス帝の死後は迫害が鎮火します。ヨハネは幽閉を解かれ、エペソの町にやって来て福音書を記すのです。彼はイエス・キリストを「人の光」と記します。「光はやみの中に輝いている。」とも言います。黙示録で隠しながら記した希望について、今度は福音書として書き直すのです。
ヨハネは確信しています。なぜなら、彼自信が深い闇を経験したからです。そして、その深い闇の中にこそ、光は増し輝くということを知ったからです。昼間の郊外で、懐中電灯の光はほとんど意味をなしません。けれど、夜になりますとそれは何とも力強い光となります。もちろん光の強さが変わった訳ではありません。変わったのは周囲の明るさです。光は闇の中にこそ輝きます。ヨハネの歩みは、信仰者の歩みは、決して楽な道ではありません。いのちの危険を感じる中を通ります。仲間の叫び声に何の手出しもできない絶望感を味わうこともあります。願っていないそのところに、自ら足を踏み入れることを求められたりもします。けれど、だからでしょう。深い深い闇のような中にあって、ヨハネはだからこそ光が輝く。キリストと共にあることの確かさを確信するのです。
信仰者は得てして似た体験をするのです。ある日突然、押しつぶされそうな圧倒的な闇を経験するのです。自分に絶望し、時代に絶望し、そして神に絶望する。そんなどうしようもない体験をするのです。自分は何と無力なのかと思い知らされるだけの日々を過ごすのです。しかしです。闇の中とは偽りの光すら無いということです。人々が眠らない大都会では星空が見えなくなって久しいですが、偽りの光の届かない闇の中では、急に星星は輝きを取り戻します。頼るべきものが無い中にあって、自分の無力さを知って、私たちは初めてそこにある光に気付くのです。あえて、その闇を照らすために来られた光に気付く。もっとも深い闇の中で、私たちは十字架の光を見るのです。
イエス様の話を聞きますと、多くの人は自分には関係がないと言います。そして、必要がないとも言います。それは、あまりにも偽りの光に囲まれて、まことの光が見えなくなっているのです。神様は、一つ一つ削ぎ落とすかのように、私たちの握りしめているものを取り去ります。身を切るような思い。拠り所が消えていくような感覚。しかしそのような中で、私たちはまことの光を見るのです。最も深い闇の中、十字架の光を見るのです。
なぜ深い深い闇の中で光を見ることができるのでしょう。それはイエス様がそこにおられたからに他なりません。栄光の主が暗き闇の世にお生まれになった。これこそがクリスマスです。万策尽きて、途方に暮れる虚しさも、もう私は一人だと絶望するその悲しみも、全てはイエス様の知らないところではないからです。イエス様は私という闇の中にもお生まれになってくださるのです。ですから、私たちの希望は決して失われることはありません。私たちが全てを失っても尚、残るもの。それこそがまことの光。それこそがキリストです。
イザヤ6:11bー13「町々は荒れ果てて、住む者がなく、家々も人がいなくなり、土地も滅んで荒れ果て、主が人を遠くに移し、国の中に捨てられた所がふえるまで。そこにはなお、十分の一が残るが、それもまた、焼き払われる。テレビンの木や樫の木が切り倒されるときのように。しかし、その中に切り株がある。聖なるすえこそ、その切り株。」

黙示録21:9-27 「新しいエルサレム」
21章からヨハネが見た新しい天と新しい地における都エルサレムの様子が記されます。10節に「そして、御使いは御霊によって私を大きな高い山に連れて行き、聖なる都エルサレムが神のみもとから、天から降って来るのを見せた。」とあります。都が降ってくるというのは、いささか面食らってしまう表現です。ジブリ映画に天空の城ラピュタがありますが、あのような空飛ぶ都が降ってくるということでしょうか。そういうモチーフの絵画もかなりあります。しかし、このところはあまり外観に拘る必要はないでしょう。聖なる都とは、王の王たるイエス様が治める王国の都です。大事なのはその都、その支配は天から下ってくるということです。いつも救いは天から来るのです。イエス様がそうでした。最初の時も、そして次に来る時もであります。私たちが迎え入れられる新しい都ですら、私たちが駆け上がるものではなくて、私たちのところに下ってくるのです。ローマでの凱旋式は、パレードの最後、小高い丘の上に建つユピテル神殿で行われました。多くの神殿は見上げるほどに高いところに築かれます。それが下々の民にとって権威の象徴となるようにです。けれど、新しい都は下りてくるのです。これは大変象徴的なことです。
しかも、その都には高い城壁がありますが、その門の数は4方に3つずつ計12あり、その門は一日中閉じることはありません。神の民にとって、その都は見上げるものでもなく、出入りすらも自由です。
そしてその城壁にせよ、何にせよ、都中の建物は全て高価な宝石に譬えられた神の栄光で輝いているのです。新しい都では、太陽の光が天高くから降り注ぐような形の栄光ではなくて、全てが栄光で満ちているのです。そこには影すらもない。栄光が及ばない隙間もない。ということです。
そして、これがもっとも特徴的ですが、この都には神殿がないのです。神殿は神の臨在されるとこととして儲けられ、贖いのための生贄が捧げられるところです。神が人と唯一出会うそのところでありました。ところが、新しい都ではそのような特別な場所を設ける必要がないのです。
このような素晴らしい都に入れる者は誰でしょう。それは子羊の書に名前が記されている者です。子羊の書に名が記されるのは、ただ子羊の贖いの恵みにあずかるものです。つまり私たちキリストの救いにあずかる全ての者ということです。私たちが入れられるところはすでに用意されています。
だからこそ続く22章。黙示録最後の章では、「不正を行う者には、ますます不正を行わせ、汚れた者は、ますます汚れた者とならせなさい。正しい者には、ますます正しいことを行わせ、聖なる者は、ますます聖なる者とならせなさい。」とあります。だから慌てなさい。というのでもなく、危機感を持って叫びなさい。というのでもなく、日々の信仰の歩みを積み重ねなさいというのです。
私は終末を思う時、いつもルターの言葉が思い出されます。「たとえ明日世界が滅亡しようとも、今日私はリンゴの木を植える。」永遠の約束をいただいた私たちにとって、死も再臨もその過程でしかありません。私たちは今日できることを粛々と行うのみです。「ですから、あなたがたは、今しているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。」Ⅰテサロニケ5:11

黙示録19:1-10 「子羊の婚宴」
ときどき車に乗っておりますと後ろのトランクの部分に、魚のマークが貼ってある車を見かけます。あれは魚好きのマークではありません。その魚の体には、ギリシャ語でイクソス「魚」という言葉が記されております。これはギリシャ語で「イエス、キリスト、神の、子、救世主」の頭文字を並べたもので、実はクリスチャンであることのしるしでありました。元々このシンボルは1世紀のキリスト者の間ですでに使われおりまして、信者ではない人にとっては、単なる魚のマーク。けれど、信者にとっては「私はキリスト者です」という信仰の表明であったわけです。迫害下にあって、自由に信仰が語れない中で、信仰者はこのシンボルによって、互いが同じ信仰を持つキリスト者であることを知りました。そして、それを互いの励みとしたのです。このイクソス然り、そして黙示録然り、つまりは、信仰を自由に表明することの出来ない時代の中にキリスト者は置かれていたということです。当時の社会情勢はキリスト者の信仰を許さない。キリスト者は迫害を受けますが、それは彼らの行いが悪かったとか、事件を起こしたとか、そういうことではなくて、彼らはキリストを信じるその一点において苦しみを受けたのです。そして、そういう信仰者を励ますために記されたのが、この黙示録というわけです。
迫害に苦しむ信仰者の毎日は、先の見えない闇のようなものです。今日無事でも明日はどうなるかわからない。薄氷を踏むような毎日を過ごしながら、彼らは必死に信仰を守ります。しかし時に思うのです。信仰に寄って立つということは、果たして自分の一人よがりなんだろうか。そんな彼らに向けて、老使徒ヨハネは「子羊の前にひれ伏せ」と言うのです。「キリストを信じよ」と言うのです。子羊はすでに勝利している。婚宴を用意している。だから、この苦難に耐える日々は決して無駄ではないと言うのです。
もし苦難と忍耐の末に用意されているのが絶望だとしたら、私たちが今を耐えることに意味はあるでしょうか。しかし、苦難と忍耐の末には勝利が用意されていのでする。子羊の婚宴はすでに用意ができている。この約束が揺るぎないからこそ、私たちは今を耐え忍ぶことができるのです。
黙示録は、子羊の勝利を語ります。弱く、力のない象徴であるはずの子羊が、凶悪な竜、古い蛇に打ち勝ち王国を築き上げる。これが黙示録の語るメッセージです。羊の群れが襲われた時、彼らにできるのは群れの一番弱い羊を犠牲にして逃げるくらいです。それほどに羊は弱い動物の代名詞です。その弱々しい子羊が勝利など、人々は笑うかも知れません。多くの人は黙示録に何の慰めも見ることが出来ないかも知れません。しかし、私たちはこの子羊こそが私たちの救いであることを知っています。神の子羊であるイエス様が、私たちの罪の贖いのために自らを生け贄となって下さったことを知っています。ですから私たちは、ここに私たちの希望と慰めを見ることができるのです。
今日、ご一緒に覚えたいこと。それは、苦難の中に置かれる時こそ、私たちは子羊を見上げることを忘れないようにしたいということです。なぜなら黙示録が記された当初と似た状況が迫りつつあるように思えるからです。実際、このアドベントで確認したこの年の出来事。つまり戦争に疫病、偽預言者を見れば、それは黙示録に記されるところと重なるのです。それはつまり、ローマ下にあったキリスト者と今の日本にいるキリスト者の取り巻く環境が類似しているということです。
実際、この日本でも信仰を持つがゆえに迫害に遭うという時代がありました。一つは、江戸時代のキリシタン禁教令。そしてもう一つは、先のアジア・太平洋戦争下での国民儀礼。同じことが繰り返されないという保証はどこにもありません。なぜなら、キリスト者が迫害に遭う理由は、いつの時代もキリスト者が国家よりも前に神に仕える者に他ならないからです。国の利益と神の義が相反する時、私たちは神に従うことを選びとるからです。キリスト者が信仰を通すということは、支配者にとっては不従順な民と映る可能性があるのです。
だからこそ、私たちは地上の歩みの中で天上の希望を見るのです。子羊は勝利したのです。その婚宴はすでに用意されています。これがこの試練の行き着く先なのです。イエス様がこの地に降りてくださり、身代わりの死を遂げられ、三日目に蘇ってくださったゆえに、私たちの勝利はもう完成しています。

黙示録18:1-10 「その災害に巻き込まれないように」
17章から18章にかけて大バビロンについてが語られます。もちろんバビロンは当の昔に滅んでいますから、それはこの時代における大帝国ローマのことを指しています。しかし、それだけではありません。黙示録はサタンと神の陣営である教会との対立関係をも記しています。ですから大バビロンとは謂わば、この世に蔓延るサタンの陣営としての地上の帝国が描かれるのです。3節には「すべての国々の民は、御怒りを招く彼女の淫行のぶどう酒を飲み、地の王たちは彼女と淫らなことを行い、地の商人たちは、彼女の過度のぜいたくによって富を得たからだ。」とあります。この世の権力に媚びるものは多いです。勝ち馬に乗ろうと尻尾を振る者は後を絶ちません。事実、世界の国々はこぞってローマの傘下に加わり、その利権に与ろうとしたのです。もともとはユダヤもそうでした。イドマヤ人であったヘロデは、ローマに取り入ってユダヤの王に就きました。しかし、そんなユダヤも今はもう滅ぼされています。ローマに味方すればこの世の繁栄に与り、ローマに敵対すれば滅ぼされる。それがこの時代の常識となっていたわけです。そんな中、教会はどうするのか。
主は神の民に対して「この女の罪に関わらないように、その災害に巻き込まれないように、彼女のところから出て行きなさい」と命じられます。地上の陣営が、各々ローマに付くか、歯向かうかと2つに分かれる中、主は神の民に「関わるな」「出て行け」とおっしゃるのです。新改訳第3版では「離れなさい」です。なぜなら、それは主のさばきだからです。そして、そのさばきは大バビロンだからではなくて、大バビロンが淫行にふけ、この世の快楽を横臥し、皇帝崇拝を強要して神を冒涜していたからです。つまり、神の民と言えどそこに関わるなら等しく裁かれるということです。
私たちは主のさばきを実行する立場にはおりません。「律法を定め、さばきを行う方はただひとりで、救うことも滅ぼすこともできる方です。隣人をさばくあなたは、いったい何者ですか。」(ヤコブ4:12)私たちは自らの身を心配すべきです。ソドムとゴモラの町が滅ぼされるとき、ロトとその家族は主の憐れみのゆえに、逃げ出すよう命じられます。「いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない。この低地のどこにも立ち止まってはならない。山に逃げなさい。そうでないと滅ぼされてしまうから。」(創世記19:17)けれどロトの妻は振り返り、塩の柱となってしまったのです。この振り返るというのはとても象徴的な意味を含んでいます。つまり、単なる好奇心で振り返ったのではありません。彼女は刺激的で欲望に満ちたその生活を惜しんだのです。もちろん、私たちには主の贖いがある。救いの約束がある。それはそうです。けれど同時に、私たちにはそれらを自らの意思で捨てることすらも許されているのです。私たちの過ちも弱さも、罪すらも、主はすべて覆ってくださるお方です。けれど、私たちが大バビロンに留まることを自ら選ぶなら、そのさばきに巻き込まれることは避けられないのです。
大バビロンと評されるローマですが、それはローマだけに当てはまることではありません。たとえば大日本帝国と呼ばれていた頃の私たちの国は、ローマ帝国ととても似ています。皇帝崇拝を強要し、この世の栄華を誇ったローマと、天皇崇拝を強要した大日本帝国。それはどちらも大バビロンと呼ばれるものです。そして、「あなたがたは、彼女が支払ったとおりに彼女に報いなさい。彼女の行いに応じて倍にして返しなさい。彼女が混ぜ合わせた杯の中に、彼女のために倍のものを混ぜ合わせなさい。」(18:6)とあります。その振る舞いは己のもとへと返ってくる。大日本帝国は自らの行いに応じて、主のさばきによって滅んだのです。つまり、この預言は遠い昔だけを指しているものではないということです。大バビロンは時代と共にあります。それは目に見えるこの世の力です。快楽です。私たちはこれに味方するか敵対するか、どちらの振る舞いが得か、損かと考えるのではなくて、たださばき主である神に逃れることが求められるのです。私たちの判断はリアクションが多いです。状況を見て、相手を見て、判断するところが多いです。けれど、そうではありません。大バビロンの滅びは一瞬です。ソドムとゴモラも同じです。どれだけ栄華を誇ろうと、主のさばきの前には何の意味もありません。大バビロンがどうであろうと、私たちの判断はあくまでも主の御声に聞き従うかどうかです。

イザヤ30章6-15節 「虐げと悪巧みに頼るな」
オリンピックで始まり、ワールドカップで終わろうとするこの一年は大変激動で闇の深い一年でありました。戦争が起こり、世界規模の疫病が蔓延し続けました。もう一つ上げるとするなら、統一教会に端を発して元総理を暗殺するという前代未聞の事件でありましょう。衝撃でありました。安全をブランドとする日本で、まさかこんなことがと耳を疑いました。けれど、この事件をきっかけに明らかになったのは、統一教会というさらに大きな闇でした。霊感商法や拉致監禁、数十年前にあれほどまでに世間を騒がせ批難された宗教が、日本の政治の中枢にこれほど根深く浸透していたとは、いったい誰が想像したでしょうか。
イザヤ書30章の背景は、迫り来るアッシリアを前に、エジプトとの同盟を画策するユダヤに語られた預言です。ヒゼキヤ王としては少しでも国を守る役に立つなら、何でもやるという心境でありましょう。それほど北イスラエル王国の滅亡は彼らにとって衝撃だったのです。30:1-2を見ると、どうやらヒゼキヤ王の取り巻きにはエジプトとの同盟を強力に推し進めた者たちがいたようです。主はそのような者たちを「反逆の民、嘘つきの子ら、【主】のおしえを聞こうとしない子ら」(9)と言っています。なぜなら「彼らは予見者に『見るな』と言い、先見者にはこう言」うからです。「『われわれについて正しいことを幻で見るな。われわれに心地よいことを語り、だましごとを預言せよ。道から外れ、道筋からそれ、われわれの前からイスラエルの聖なる方を消せ。』」(10-11)いつの時代も、正しいこと、耳に痛いことを言う者は煙たがられるのです。心地よいことを語る者が受け入れられる。それがたとえ騙しごとであってもです。これはいつの時代にも言えることです。聖書とは明らかに異なる異端の教えがなぜこの世に蔓延るのか。それは彼らが心地のよいことを語るからです。現実に傷つき疲れ果てている多くの人は、癒やされたいのです。慰められたいのです。ですから正しいことを聞くくらいなら、心地よく騙されていたいのです。彼らは目の前にわかりやすい解答を用意します。エジプトと同盟さえすればアッシリアは手を出せませんよ。この壺を買えば徳が高まりますよ。教祖様の言う人と結婚をすれば、必ず幸せになれますよ。安易な解答を用意して、根本的な罪の問題から目を背けさせるのです。幾ら何でもそんな解答に飛びつくはずはないと言われるでしょうか。けれど、本当に闇の中にいる人は飛びつくのです。どうしようもない現実に傷つき諦めるしかない人は身を委ねてしまうのです。冷静な判断ができなくなっているのです。だからこそ、まずは落ち着くことが大事です。
慌ててはいけません。大事なのは主に立ち返って落ち着くことです。静かにして信頼することです。まずはその手を止めることが大事なのです。15節の最後の一言が耳に残ります。『イスラエルの聖なる方、【神】である主はこう言われた。「立ち返って落ち着いていれば、あなたがたは救われ、静かにして信頼すれば、あなたがたは力を得る。」しかし、あなたがたはこれを望まなかった。』
母教会で一緒にCSの教師をしていた婦人は、何かを決める時、必ず「祈ってから返事します。」と言って持ち帰るのです。大きなことならともかく、いや、これくらい即答してよと思うこともありましたが、それが姉妹の信仰のあり方でした。まず立ち止まる。感情にまかせて決断しない。それだけに決断したことは最後まで全うする姉妹でありました。大事なことだと思います。私はよく飛びついてしまうことがあります。焦って安易に解答を求めたくなります。そして同じだけ失敗を繰り返します。やっぱり主に尋ねることが大事です。いえ、大事どころか、それが必須です。30:1に「わざわいだ、頑なな子ら。──【主】のことば──彼らははかりごとをめぐらすが、わたしによらず、同盟を結ぶが、わたしの霊によらず、罪に罪を増し加えるばかりだ。」とあります。主の霊によらない、私(わたくし)のはかりごとは、罪に罪を増し加えることになるのです。私たちから出るものは、残念ながらそうなのです。「どんな知恵も英知も、はかりごとも、【主】の前では無きに等しい。」(箴21:30)だからこそ私たちは主の御声に聞かねばならないのです。

黙示録13 「予定調和」
ファンタジーのような話が記されています。一体何のことかと思うところではないでしょうか。この黙示録は黙示文学と言いまして、わざとこのような言い回しを使っています。それは当時の時代背景が影響しています。つまり、教会は迫害の時代を過ごしていたのです。ヨハネは迫害に会っている教会を励ますためにこの黙示録を記しています。その時、直接、教会だ、悪魔だ、皇帝だと書くと、すぐにキリスト教会の者だと知れてしまうわけです。なので聖書の民にだけわかるように書く必要がありました。そこで黙示文学なのです。たとえばダニエル書などに親しい者であれば、この黙示録を読んでその意味を汲み取ることができるわけです。けれど、そうでないローマ兵などには何を書いているのかさっぱりわからない。わざとそういう書物にして教会で回覧したのです。ですから黙示録を読むときにはある程度の決まり事を知っておく必要があります。
たとえばここに登場する「竜」というのは、12章で「古い蛇」とも言いかえられていますが、つまりそれはアダムを惑わした蛇。サタンのことを意味します。また12章で出てくる「女」とは、「教会」のことを指しています。つまり神の陣営である教会とサタンとの対決の構図を記しているわけです。サタンは天においてミカエルと彼の使いたちと戦い破れて地に落とされます。そこで「竜」であるサタンは最後の反撃に出ます。
13章では二匹の獣が記されます。1-10節には海からの獣。11節からは地からの獣です。どちらも竜から権威を与えられて現れた反キリストのしるしです。1-2節に「また私は、海から一頭の獣が上って来るのを見た。これには十本の角と七つの頭があった。その角には十の王冠があり、その頭には神を冒瀆する様々な名があった。私が見たその獣は豹に似ていて、足は熊の足のよう、口は獅子の口のようであった。竜はこの獣に、自分の力と自分の王座と大きな権威を与えた。」とあります。ファンタジー色が強い描写で何のことかよくわかりませんが、ダニエル書7:2-8に出てきた四頭の大きな獣に酷似しています。ダニエル書に記される四頭の獣は、7:17に「これら四頭の大きな獣は、地から起こる四人の王である。」と解説されていて、これらは4人の王、バビロニア、メディア、ペルシャ、ギリシャの王を指していると伝統的に理解されていますから、それらの王が一つとなるような強大な反キリストの王がやって来る。つまり教会に対する大規模な迫害の訪れを伝えているわけです。
11節には「また私は、別の獣が地から上って来るのを見た。それは、子羊の角に似た二本の角を持ち、竜が語るように語っていた。」とあります。「子羊の角に似た」とあるのがミソです。この当時、教会で子羊と言えばキリストを指す言葉ですが、「子羊の角に似た」とありますから、それは小羊ではないのです。子羊のふりをした者たちです。イエス様はマタイ7:15で「偽預言者たちに用心しなさい。彼らは羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、内側は貪欲な狼です。」とおっしゃいました。まさにその偽預言者たちなのです。
一世紀末の教会はこれら王による迫害と、偽キリストの教えとの信仰の戦いを続けていたのです。つまり、この竜だの、海からの獣、地からの獣だのというのは、世界の果て、遠い遠い世界の話ではなくて、今まさにキリスト者が置かれているその現状を記している。つまり神を信じる者には、これらのことは不思議でも何でもなくて、当然起こることなんだと。それはあなたの信仰が足りないから起こる不幸ではなくて、神が私の信仰に満足できなくて与えている苦難でもなくて、初めから起こることになっていた神のご計画なんだと。こう言いたいのです。当時のキリスト者が信仰のゆえに迫害にあっている。真面目な者ほど、これは何の罰かと考えたのです。自分の信仰の至らなさに思い悩んだのです。自分の信仰が足りないからこんな試練にあっている。けれど違うのです。それはイエス様に付き従う者には当然起こることなのです。だから、あなたの信仰は間違っていないと。あなたの信仰はそのままで良いと。こう励ましているのです。そして主の御手が短いわけではないとです。確かにこの地上では、サタンとその獣たちが暴れることでしょう。けれど、それすらも神の予定調和です。惑わされることなく信仰を持ち続けることが大事です。信仰のゆえの不自由さはひとときのことです。迫害はやがて終わります。私たちに約束されているのは、新しい天と新しい地。永遠の都です。

詩篇91:1-16 「全能者の陰に宿る」
10節に「わざわいはあなたに降りかからず疫病もあなたの天幕に近づかない。」とあります。けれどどうでしょう。本当ですか?と思わず問わずにはいられない現実ではないでしょうか。新型コロナの世界的流行から凡そ3年が経とうとしています。神さまいったいいつまで続くのですか、と叫ばずにはいられません。もはやこれは人が制御できるものではないんじゃないかと思ったりします。けれど同時に思うのです。じゃあ、神さまなら制御できるのはずなのに、なぜ制御なさらないんだ。とです。そこで初めの問いに至るのです。神さまいったいいつまで続くのですか?
私たちはここで考えを替える必要があります。詩篇91篇は前の90篇の続きの詩であると言われていますが、90:10には「私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。そのほとんどは労苦とわざわいです。瞬く間に時は過ぎ私たちは飛び去ります。」とあります。詩人ダビデは人生のはかなさを認め、だからこそ主に、自分の日を数えることを願います。そして、毎日主の恵みで満ち足らせてくださるように願います。与えられた寿命を無駄に過ごさず、その残された日を喜び歌い楽しむことができるようにです。
今回のコロナで何が一番辛いのでしょう。悪化すれば死に至る病だということでしょうか。実際、信じられないほど大勢の人が亡くなっています。私はヨーロッパの教会が死体安置所に変わったコロナ当初の様子を今でも忘れることは出来ません。火葬や葬儀が間に合わず、そこに列べ置くことしかできなかったあの報道を見て、もし私たちの教会が同じ様になったらと思うと大変恐怖したことでした。死を伴う病。けれど、コロナにかからなかったらそれで安心なのかと言いますと、そんなことは全くありません。ヘブル9:27に「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、」とあります。その時が来れば私たちは皆死ぬのです。たとえ病は避けられても、死は避けられない。ですから私たちは、いずれ死ぬ身をどう満足して生きるかが大事です。
コロナに限らず、疫病の恐ろしいことは私たちの生きる拠り所を奪うということでしょう。具体的に言うと、私たちの身近な繋がりを断つということです。聖書においてツァラアトという病が取り分け重く語られるのは、それが強力に感染するものだったからです。ツァラアトにかかった人はまず7日間隔離されます。そして、7日後に祭司によって症状が確認され、たとえ症状が収まっていても、もう7日間。収まっていなければ、また最初の7日間から隔離がなされます。その間、その患者が触れたものは一切接触してはなりません。私たちはこの処置の医学的適切さを知っています。それは付着したウィルスによる感染を避けるためです。けれど、当時の人達はわかりませんから、より一層得体の知れないものとして不気味がったのです。ですからツァラアトに感染した人は、家の外、町の外に追いやられて孤独に治ることを待つしかなかった。詩篇38:11には、やはり病で心痛める詩人の詩が載っています。「愛する者や私の友も私の病を避けて立ち近親の者でさえ遠く離れて立っています。」病が人や社会との大切な繋がりを分断するのです。しかし、だからこそイエス様がそのような病人と共におられたということに、私たちは驚きと感動を覚えるのです。
マルコ1:40以降に、ツァラアトに冒された人がイエス様のもとに癒やしを願ってやって来たことが記されています。その時、イエス様はどうされたのか。「イエスは深くあわれみ、手を伸ばして彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた」のです。驚くべきことに、手を伸ばして彼に触ったのです。それは単に感染のリスクを負ったということだけではありません。イエス様ご自身が分断されるリスクを負ったということでもあります。事実、イエス様はこのことのゆえに「もはや表立って町に入ることができ」なくなったと、マルコは記しています。言葉一つで治せるお方が、リスク承知でさわられたのです。イエス様はそういうお方なのです。神の栄光を捨てて、人として貧しさの中に生まれてくださった。だからこそ私たちはどんな状況の中であっても主を見ることができるのです。その孤独の中で、苦難の中で、私たちと繋がってくださるお方なのです。
ヘブル2:17-18 「したがって、神に関わる事柄について、あわれみ深い、忠実な大祭司となるために、イエスはすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それで民の罪の宥めがなされたのです。イエスは、自ら試みを受けて苦しまれたからこそ、試みられている者たちを助けることができるのです。」
