fc2ブログ
プロフィール

Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

最新記事
カテゴリ
月別アーカイブ
最新コメント
検索フォーム
リンク
QRコード
QR

230129 ルカ17:1-4 「戒めと赦し」 

ルカ17:1-4 「戒めと赦し」

 信仰生活につまずきが起こることなどなければいいのに。と心から思います。けれど、それは避けられないとイエス様はおっしゃいます。なぜなら私たちは楽園に住んでいるのではないからです。私たちをつまずかせる要因は、私たちの日常に、どこにでも潜んでいます。ですから、つまずくことが不信仰だと思う必要はありません。
 けれど、つまずきをもたらす者はわざわいであります。そして、これが弟子たちに向けて語られていることからもわかるように、つまずきは得てして信仰者の交わりの中で起こるのです。イエス様は言います。「その者にとっては、これらの小さい者たちの一人をつまずかせるより、ひき臼を首に結び付けられて、海に投げ込まれるほうがましです。」すごい例えです。海に投げ込まれるだけでも大変なのに、首にひき臼を結び付けられているのです。万が一にも助かる見込みがないようにです。けれど、もし「これらの小さい者たちの一人をつまずかせる」くらいなら、そういう状況に追い込まれる方がよっぽどましだと言うのです。それほど誰かをつまずかせることは災いなんだとイエス様はおっしゃられるのです。
 続けて、イエス様は赦しについて語られます。それも徹底的な赦しです。「一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回あなたのところに来て『悔い改めます』と言うなら、赦しなさい。」つまり、現状はそうではなかったということでもあります。弟子たちの交わりには赦しがなかったのです。そしてそのことがより小さい者たちをつまずかせているのです。
 先程も言いましたように、信仰生活において、つまずくことはいつだってあり得るのです。それは避けられないことです。だからこそ私たちは互いを戒めながら信仰に踏み留まるのです。けれどその戒めがさばくことになってはいないでしょうか。それは赦すことにならなければいけません。けれど、戒めはさばきとなりやすいのです。その戒めが愛ではなくて、正義から来る時、それはさばきとなって相手をつまずかせるのです。
 弟子たちは事ある毎に誰が一番優れているかと競っておりました。そして相手の罪をあら捜ししては指摘し、自分の正しさを誇っていたことでした。気を付けたいと思います。誰かをさばくとき、それは大変誇らしい気持ちになるのです。自分こそが正義と思えるのです。なぜならそれは本来主人の役割だからです。けれど、私たちは主人ではありません。私たちもまた主人の前に平伏す者でしかありません。ですから、私たちの交わりの中心に、己の正義をかかげてはいけないのです。私たちの交わりは、その根本に愛による赦しがなければならないのです。
 イエス様はおっしゃいます。「一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回あなたのところに来て『悔い改めます』と言うなら、赦しなさい。」8回目からは赦さなくていい。ということではありません。全部、毎回、赦しなさいという意味です。しかも、この罪は一般的な罪ではなくて、客観的な罪でもなくて、あなたに対しての具体的な罪だと言っています。あなたは当事者として、相手を赦しなさいと言われるのです。これは本当に難しいことです。被害に被っているのです。なんだったら、出エジプト21:23-25には「しかし、重大な傷害があれば、いのちにはいのちを、目には目を、歯には歯を、手には手を、足には足を、火傷には火傷を、傷には傷を、打ち傷には打ち傷をもって償わなければならない。」とありますから、仕返しして当然とも言えます。なのに、イエス様は「赦しなさい」と命じられる。これは土台無理な話ではないでしょうか。ですからこれは、私たちが頑張って赦そうという話ではないのです。
 マタイの福音書では、7回赦すのではなくて、7回を70倍するまでと言われています。そして、その理由として、一つの例え話をなさっています。主人に負債を免除してもらった男が、仲間の負債を執拗に追い立てて牢に放り込み、そのことが主人に知れて罰せられるという話です。
 私たちが兄弟を赦すために、これはもう言い尽くされたことでありますが、やはり受けた恵みに立つしかないのです。私たちは私こそが正義と思っています。私こそが被害者だと思っています。けれど、本当は私たちもまた赦された罪人に過ぎないのです。私たちは、目の前にいるその人を見て赦すことはできないかもしれません。だからこそ私たちを赦してくださった方を見て赦すのです。
「愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです。」Ⅰヨハネの手紙4:11

230125 マルコ3:20-35 「聖霊と悪霊」

マルコ3:20-35 「聖霊と悪霊」

 イエス様のガリラヤ伝道に危機感を抱いた人たちがいました。律法学者やパリサイ人、ヘロデ党と言った、これまでの既存の勢力の人々です。彼らは、まともに論じ合ってはとても敵わないと見ると、今度はイエス様を亡き者にしようと試みました。どのように亡き者にしようとしたのか。それはイエス様を魔術師と称することでした。当時、悪霊の力を操る人を魔術師と呼びました。そして魔術師であることは、死罪とする正当な理由となったのです。律法学者たちは、イエス様がサタンに取りつかれていると噂し、そして、サタンの力で悪霊を追い出していると非難し、それゆえ、イエスは気が狂っていると方々に広めたのです。
 彼らの誹謗中傷に対して、イエス様はそれは筋の通らない話だと切り捨てます。どんな国であっても、町や家であっても、その共同体が内部抗争にうつつを抜かしているなら決して立ち行きません。これは例えサタンであろうとも同じです。そして、もしサタンがそれほど愚かな存在であるのなら、それはもう私たちにとって何の脅威でも有り得無いのです。
 さて、このところで注意すべきは、奇跡は聖霊の働きによるものなのか、悪霊の働きによるものなのかは、私たちには見分けが付け難いという事実です。律法学者達が噂し、それを世の人々、家族までもが信じたというのにはそれなりの理由があります。それは事実この世には聖霊だけではなく、悪霊の働きがあるということです。
 世の中には現代の常識では説明の付けようのない出来事が時として起こります。そして私たちはこれを奇跡と呼びます。神の奇跡が無いという人は、神が今もって生きて働かれるお方であることを忘れているか、信じていない人です。私たちは違います。私たちは復活を信じています。主の奇跡を信じます。そして、これらのことを主が望まれるなら、それは例えば今、同じことが起こり得るのだということを信じています。私たちの神は死んだ神ではありません。生きておられる神です。私たちの主は死んだ主ではありません。蘇り、今も生きて神の右の座で、私たちを執り成しておられる主です。そして聖霊は今も私たちと共にいて下さいます。
 しかし、です。やはり私たちは注意しなければなりません。聖霊が働かれるのと同じように、悪霊もまた働いているからです。ナルニア国物語の著者のCSルイスが「悪魔の手紙」という小説を書いています。ワームウッドという名の見習い悪魔に向けて、伯父であり大悪魔のスクルーテイブが、如何にして人間を惑わすのかということをレクチャーするために出した手紙。如何にして人間を惑わすか。これが悪魔の本質です。ですから、彼らは「ほら悪魔ですよ」とは現れない。人間たちを安易に苦しめない。むしろ、おだてて、おだてて、沢山の美味しい物や、贅沢な生活、目に好ましいものを用意して、人間たちの目を神に向けさせないようにするのです。だとすると、ことの良し悪しが、単純に聖霊、悪霊を見分ける基準とはならないということです。目に見える麗しい出来事も、実はサタンが私たちを惑わそうとする罠かもしれない。いや、素直に神さまの恵みかもしれない。
 ですから、私たちはその信じがたい出来事ではなくて、その結果もたらされたものに注意を払う必要があります。判断の基準は、悪霊は人を惑わす存在、神から引き離そうとする存在であること。そしてその逆に聖霊は主イエスを啓示する存在であるということです。ことの結末が自分にとってハッピーエンドに終わるかではなくて、その出来事が主イエスを啓示し、信仰に結び付いているかどうかによって見極めるのです。
 キリスト教会の歴史の中でも、この目に見えるしるしを重要視し過ぎる人々が度々出て来ました。奇跡信仰とか、結果信仰と名付けても良いかもしれません。聖霊の働き=人々の癒しや信じがたい奇跡という考えです。しかし、これは大変危険です。なぜならそれは、癒されなければそこには神がおられない。聖霊が働いておられないという考えに発展するからです。そして癒された人は信仰深い。癒されなければ信仰が足りないとなる。祈りが聞かれたかどうか。目に見えるしるしがが、その人の信仰深さのバロメーターになってしまうのです。神の奇跡とも言うべき素晴らしいことが教会に起きた。しかし、そのことを強調するあまり、教会の中に、目に見える奇跡を体験した人と、しない人。信仰深い人と不信仰な人に明確な線が引かれる。そしてそれは兄弟姉妹間の信頼に亀裂を生み、やがては教会を分裂させてしまう。それを喜んでいるのは他でもない悪霊です。
 私たちは聖霊の働きが必ず、主イエスを啓示するものであることを覚えておかなければなりません。私たちにとって、都合の良い結果をもたらすかどうか、私たちにとって説明のつかない奇跡が起きたかどうかではありません。その出来事をもって、主イエスが明らかとされたかどうかです。

230122 ルカ16:19-31 「永遠の隔たりのゆえに」

ルカ16:19-31 「永遠の隔たりのゆえに」

 例えば芥川龍之介の「蜘蛛の糸」のような話に慣れ親しんでいる私たちに日本人にとっては、このイエス様の話は、無慈悲なものに聞こえるかも知れません。カンダタにすらも最後のチャンスが与えられたというのに、この金持ちの、しかもただ指先に水を浸して舌を冷やして欲しいというささやかな願いすらも聞いてくれないなんて、聖書の神のなんと無慈悲なのかと思われるかもしれません。別にアブラハムのふところに入れてくれと願っているわけではないのです。自分はここにいるのは当然。ただこの舌を冷やす指先の水を憐れんで欲しいと言うだけ。なんともささやかな願いであります。けれど、その願いは無情にも聞かれないのです。
 しかし、これが聖書の語るところです。聖書はたとえどのような者であろうとも、罪を告白し悔い改めるならば救われると語ります。しかし、本日の箇所を読むと、それはあくまでもこの地上においてであると言うのです。幾ら悔いても、もう遅いと言われる時が来る。死後のチャンスはあり得ない。これは一見無慈悲で厳格すぎる教えに思いますけれど、しかしそれだけに、知らないでは済まされない、とても大切な教えであります。
 カトリックでは死者のための祈りというものがあります。それは神の基準に達せずに死んだ人の功徳を、生きている者が代わりに支払うことによって、その人が天国にいけるという考えです。そしてそれは偉大な聖人達の余剰の功徳を分けてもらうということで成り立ちます。聖母マリヤ、聖ペテロ、聖パウロ。彼らの余りある功徳をいただくのです。自分の愛する者が死んだ時、残された者にとって、最後に出来るこの死者のための祈りは、実は死者のためではなく、残された者にとって大変慰めとなります。あの人の為にもっとこうしてやれば良かった。時として私たちは愛する人との別れに後悔ばかりが残ることがあります。しかし、死して尚、自分がその人に対して出来ることがあるとすれば、私たちの落胆はやわらぐというものです。
 けれど、それは聖書的ではないのです。気持ちはわかります。せめて死んで後の世界では家族が幸せでいて欲しい。それは人情と言うものです。聖書は、死後の世界の厳格さを語っています。もはや動かすことのできない、決定的な裁きがなされるということを記しているのです。
 毎日贅沢に遊び暮らしていた金持ちと、その金持ちの屋敷の門前で寝たきりとなっていた物乞いラザロ。対照的とも言うべき二人の人物の、この世とあの世での逆転劇がここにあります。そして、その先にあるのは、決して超えることのできない大きな淵です。ラザロという人がどういう人か、詳しくは語られません。多少想像を膨らませると、ラザロという名は「神は助ける」という意味。言い換えると「神の助けなしには生きていけない」ともとれます。彼は神にしか頼ることができませんでした。金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思うほどに貧しく惨めでした。その彼が結果アブラハムのふところへと入れられる。ふところという表現は、もともと宴会の場の主人の最も身近な席のことを指す言葉です。つまり、天の大宴会の特等席に招かれているということ。それは、「一人の罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。」と言われたその宴のことであります。つまり、金持ちに無くて、ラザロにあったもの。二人の死後を分けたもの。それは一人の罪人としての悔い改めに他なりませんでした。ラザロはこの地上のおよそ祝福とは言いがたい生活の中で、ただ神にのみ頼るしかない生活の中で、己の罪深さに涙し、神の前に胸を打ったのであります。それゆえ、彼は今アブラハムのふところに座り、祝福を受けている。逆にこの金持ちは、富には仕えても、神に仕えることを知らなかった。だから彼はハデスにいるのです。
 ハデスにいる金持ちには何の助けもありません。アブラハムの返答のなんと絶望的でありましょうか。主イエスは、人の死後、どれだけ悔いようと、どれだけ主にすがろうと、もはやどうすることもできない。もう遅いと言われるその時が来ると、ここではっきりと語っておられるのです。これは大変厳しいお言葉です。蜘蛛の糸で語られるような、曖昧な裁きではありません。
 だからこそです。私たちは生きている今が大事なのです。死して尚チャンスがあるのではない。今しかない。私たちは生きている間に悔い改めなければならない。神の前に罪を清算しなければならないのです。そして同じ理由で、もう一つ。だから今、私たちはキリストを証ししなければならないのです。死んでから、誰かを助けたいと思っても、もう届かないのです。神はラザロを送ることはしません。その人が御言葉に聞かなければ悔い改めは起こらない。救いには与れないのです。

230118 マルコ1:12-20 ガリラヤ宣教のはじめ

マルコ1:12-20 ガリラヤ宣教のはじめ

 イエス様の道備えとなったヨハネが捕えられて後、イエス様はガリラヤにおいて福音を宣べ始められました。「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」イエス様もヨハネと同じく、人々に悔い改めを宣べ伝えられます。しかし、ヨハネにはないメッセージが語られます。「時が満ちた」ということです。旧約の時代から待ち続けた約束の救い主がいよいよ来られたという意味です。道備えの時はもう終わり、本番の幕が開けたのでした。
 では、そのイエス様の宣教の開始とはいかなる物だったのでしょうか。それは弟子の召命。弟子作りから始まったとマルコは言うのです。もちろん、他の福音書を見れば、この弟子の召命より前にもイエス様の宣教の様子が記されておりますので、全くの宣教の始まりとは言えないわけですが、しかし、3年間の公生涯の中で見ましたら、極めてその初期に弟子を招いておられる。ですから、マルコが言うように、イエス様の宣教はこの弟子の召命から始まったと言っても良いと思います。
 では、このことはいったい何を意味するのでしょうか。それはイエス様が宣教をチームのものとして、引き継いでいくものと捕らえておられたということです。そもそもイエス様の宣教とは、イエス様がご自身の真の姿、真の御力を明らかにすることでありました。とにかくイエス様を見ること。イエス様に聞くこと。イエス様と出会うこと。これが救いへと繋がる一本の道でした。イエス様の宣教は、イエス様ご自身によって全てが成り立っているのです。ですから、本来ここに弟子たちの助けは必要は無いのです。別に弟子がいようといまいと、イエス様の宣教には何の支障もありません。けれど、それでもイエス様は弟子たちを召されました。それはつまり、宣教において、最も重要なことは弟子作りであることを意味しているのです。宣教と言えば普通、その人に福音を宣べ伝え、救いに導くことだと思われるかもしれません。しかし、実はそれでは宣教の目的の半分もありません。宣教の目的は、その人を悔い改めに導き、救い、そして神の弟子とすること。神の使命を引き継ぐ者へと成長させることです。大宣教命令は「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」とあります。「そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。」と命じているのです。
 目的を理解し、意志を受け継ぎ、その働きを共に担う者を育てる。これはその働きが一代で終わってしまわないために、とても重要なことです。弟子がいなければ、どれだけ素晴らしい教えでもそれは一代限りのものです。しかし、順調に引き継がれて行くならば、その教えは永遠のものとなるのです。だからといって、イエス様は何か特別な訓練を弟子たちに強いたわけではありません。敢えて言えば、イエス様は弟子弟子たちを傍に置きました。ご自身の振る舞いを、言動を、いつもお見せになりました。師の言動を見せること。それこそがイエス様の弟子訓練なのです。
 ところで、この召命において最も重要なことは、これが主の呼びかけによってなされるということです。当時、ユダヤ教のラビに弟子入りすることは、弟子の方から申込み、また、弟子の好き勝手で、これ以上従っていくかどうかも決めておりました。弟子となるのも、弟子を辞めるのも弟子の側の自由と言うわけです。しかし、神の弟子となる事はそれとは違います。あくまでもイニシアチブが神にあるのです。
 「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」(ヨハネ15:16)とあります。私たちが選んだのではなく、神が選ばれ、神が呼んでくださった。だから、この道の責任は神が取ってくださるのです。

230115 ルカ16:14-18 「神は心をご存じです」

ルカ16:14-18 「神は心をご存じです」

 14節に「金銭を好むパリサイ人たちは、これらすべてを聞いて、イエスをあざ笑っていた。」とあります。「これらすべて」というのは、先週ご一緒に見ましたイエス様の例え話と、その後に語られた弟子たちへの教えです。富を用いるときには、それを預けてくださった方の主旨に沿うように、神のみこころに適うように用いなさい。という話でした。もちろん、これは富だけでなく、あらゆるものに適用される話だとは思いますが、話自体は富を中心に語られました。そして、その結論は「神と富とに仕えることはできません。」というものでした。
 この話を聞きまして、パリサイ人たちはあざ笑ったのです。なぜなら彼らは金銭を好んでいたからです。権力の中枢と結びついていたサドカイ派とは違って、パリサイ人と言えば、律法を庶民にわかりやすく解き明かした教師たち。どちらかというと貧しい庶民の側に立った人たちです。でも、そんな彼らがイエス様のことをあざ笑った。何を綺麗事を言ってるんだ。とバカにしたのです。で、そんな彼らにイエス様は言われます。「あなたがたは、人々の前で自分を正しいとするが、神はあなたがたの心をご存じです。人々の間で尊ばれるものは、神の前では忌み嫌われるものなのです。」今日の話は、この15節のイエス様のお言葉が中心であろうかと思います。
 この15節の言葉を補足するように、2つのことが記されています。一つは、律法と預言者の時代は終わり、新しい時代が来ているということ。もう一つは、結婚に関する理解についてです。この二点を例に上げて、神はあなたがたの心をご存知ですよ。と、人前で自分を正しいとするパリサイ人の信仰の姿勢を鋭く指摘しているのです。
 律法と預言者はヨハネまで。とあります。ヨハネとはバプテスマのヨハネのことですが、彼の教えは「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」というものでした。悔い改めれば良いと言うのです。この教えは当時、画期的でした。なぜなら、それまで律法学者やパリサイ人たちから教わっていたのは、律法を守らなければ天の御国に入ることはできない。というものだったからです。彼らは律法を事細かく分析して、それらを天の御国に入る条件としていたのです。しかしこれは真剣に求めれば求めるほど救いがないのです。だから人々はヨハネのもとに競うように駆けつけたのです。特に貧しい者。罪人。病人。神殿から弾かれた者たちがです。そして今や、天の御国はユダヤ人の手から、そのような者たちに奪われているのです。これは大変皮肉な話です。もちろんイエス様は律法を否定したいのではありません。イエス様は「律法の一画が落ちるよりも、天地が滅びるほうが易しいのです。」とおっしゃいます。律法をないがしろにすることは決してしません。神の言葉は不変です。けれど、パリサイ人たちの読み方は、律法を正しく読んではいないのです。彼らは律法を守らないと天の御国に入れないぞと言います。それは一見、正しいように思います。けれど逆に言うと、律法さえ守っていれば良い。その字面だけを追っていれば良い。そういう教えでもあったわけです。そして、彼らはそれを場面場面で使い分けていたわけです。
 さらにイエス様はおっしゃいます。「だれでも妻を離縁して別の女と結婚する者は、姦淫を犯すことになり、夫から離縁された女と結婚する者も、姦淫を犯すことになります。」この言葉の背景にはパリサイ人たちの結婚に対する聖書理解があります。例えば申命記24:1には「人が妻をめとり夫となった後で、もし、妻に何か恥ずべきことを見つけたために気に入らなくなり、離縁状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせ、」云々とありますが、パリサイ人たちはここから、妻に何か恥ずべきことを見つけたために気に入らなくなれば、離縁状を書いて離縁できる。と読んだわけです。揚げ足を取るかのような自分勝手な解釈。そして再婚に関しては、ほぼほぼ何の規制もなく行われておりました。けれど、イエス様はもっと厳格です。なぜなら、イエス様の離別や再婚の考えの根本には、そもそも夫婦は神が結び合わせたものだという理解があるからです。
 パリサイ人は律法の字面を一生懸命に追い求めます。そしてあるときは、これを守らないと天の御国には入れないぞと教えます。そしてあるときはそれは書いてないから大丈夫。と言います。彼らが問題とするのはあくまでもその字面だからです。書いてあることだけが問題なのです。けれど、イエス様は言われます。「神はあなたがたの心をご存じです」心が問われるのです。

230111 創世記6:9-22 「神が命じられたとおりに」

創世記6:9-22 「神が命じられたとおりに」

 全知全能である神が、ご自身の創造の御業を悔やむほどに、人々は堕落し、地は暴虐に満ちておりました。神はこの地の滅びを宣告されます。けれどノアは主の心にかなっておりました。神はわたしはあなたと契約を結ぶ。」と言いまして、ノアとノアの家族は滅びることはないと約束を与えられるのです。
 聖書にはノアが舟大工だったとはどこにも書いておりません。9章に「ノアはぶどう畑を作り始めた農夫であった」とあります。ですから彼が舟を作るというのは完全な畑違いです。設計図すら書いたことのないような、ずぶの素人が、突然巨大な箱舟を作ることを命じられたのです。しかも、この建築を行うのは、彼と妻、セム、ハム、ヤペテの3人の息子にその妻達の8人のみ。いったいどこから手をつければ良いのか、途方にくれる彼らだったことでしょう。ノアは信仰を持って命令に従うわけですけれども、信仰があるから、何でもできるというのは違います。そこに何の疑問や不安、困難がなかったかというと、そういうわけではありません。しかし、やらないわけにはいきません。神は洪水をもたらすとおっしゃられたのです。舟を造るしか道はないのです。
 きっと失敗を繰り返しながら覚えていったのでしょう。彼らはゴフェルの木を伐採し、枝を削ぎ落として木材に加工し、一方では木のヤニを集め、組み立ててはヤニを塗り、ヤニを塗っては組み立て、材料が無くなれば、また木を伐採して木材を調達し、組み立て、そして1層部分が終われば今度はその周りに足場を組んで、また組み立て、ヤニを塗り・・・と延々と繰り返す日々を続けたのです。
 ノアの素晴らしさは、一度決めたことを最後までやり通す、この忠実さにあると思います。箱舟作りは一日や二日のことではありません。ノアが500歳のとき、セム、ハム、ヤペテを生んだと言います。そして神様の命令があって箱舟を作り始め、600歳のときに大洪水の雨が降り始めた。ですから100年は掛かっていないとしましても、それに近い年月が費やされたわけです。投げ出してしまおうと思ったこともあったでしょう。人々の野次に心が折れそうになることもあったでしょう。疲労困憊、間違って指をトンカチで叩いたりして、こんなのやってられるか!と思わず地面に投げつけたこともあったのではないでしょうか。しかし、その度に彼は舟作りに戻ります。
 神様を信じているから何の不安もないかと言うと、そんなことはあり得ません。むしろ、ノアは神様を信じるが故に不自由な生活を過ごしているのです。周りの人のように、神様の言うことなど、どうでもいい。そんな馬鹿な話信じるほうがどうかしていると、毎日を面白おかしく過ごしたほうがどれほど自由で楽しいことでしょう。私たちがもし今だけを見て生きるなら、信仰など、不自由でしかありません。けれど、それでは済まされない時がやってくるのです。
 ヘブル11:7には、このノアを称して次のようにあります。「信仰によって、ノアはまだ見ていない事柄について神から警告を受けたときに、恐れかしこんで家族の救いのために箱舟を造り、その信仰によって世を罪ありとし、信仰による義を受け継ぐ者となりました。」彼は信仰によって、まだ見ていない事柄を見ていました。だから今を忠実に歩めたのです。
 しかしノアは、実は命じられたことを、ただ行う。忠実であることだけに留まった人ではありませんでした。Ⅱペテロ2:5「また、かつての世界を放置せず、不敬虔な者たちの世界に洪水をもたらし、義を宣べ伝えたノアたち八人を保護されました。」ここに「義を宣べ伝えたノアたち八人」とあります。神様はノアとその家族に人類の滅びを宣告されました。そして、ノアの家族だけは助かると約束してくださった。しかし、ノアたちはそれで満足しなかったのです。自分たちが助かるだけではない、出会うその一人一人が主に立ち返るように、共に箱舟に入るようにと精一杯滅びを訴えたのです。神の前に悔い改めを迫ったのです。ノアたちを愚かと笑い、馬鹿にした一人一人を心配し「このままでは滅ぼされてしまう。だから、もう一度神様に立ち返ろう。」と叫び続けたのです。
 ただ一人主の心にかなったノア。それは単に言われたことを黙ってやる。ということではありませんでした。主の御心に寄り添ったのです。主の悲しみを我が悲しみとし、主の喜びを我が喜びとしたのです。このノアから人類の歴史が再出発いたします。私たちは皆、このノアから引き継いでいるのです。私たちもまたノアの忠実に倣うものでありましょう。

230108 ルカ16:1-13 「忠実なしもべとは」

ルカ16:1-13 「忠実なしもべとは」

 主人は管理人を解雇するにあたって会計報告を出させます。もちろん、この債務者の減額処置も報告に上がってきます。ですが莫大な量の報告を読み込むには時間がかかるわけです。7節までのことがあって、管理人は報告を出してから解雇される。その後、主人は報告を確認すると、最後に管理人が債務者の借金を減額したことを知るのです。けれどもう管理人は解雇した後。当の債務者たちからは「管理人さんを通じてご主人が債務を減額してくださったことを感謝します。」と言った声も届いたでしょう。主人としても、今更、減額は間違いだったとは言えませんし、管理人を連れ戻して問い詰めることもできません。もうアイツは上手いことやりやがった。と言うしかない場面です。
 そして事実、上手くやったのです。彼は解雇される直前まで、管理人の権限を使えるだけ使って解雇後のコネを作ったのです。もう自分が解雇されることは承知で、最も効率の良い立ち振舞をしたのです。もちろん彼の手段も、目的も、全面的に褒められたことではないし、最後まで主人に損害を与えるあたり管理人としては最低です。けれど、そういった倫理観とか、社会常識というものを全部脇におけば、確かに彼のやったことは賢いと言えなくもないわけです。
 「この世の子らは、自分と同じ時代の人々の扱いについては、光の子らよりも賢い」とあります。それは光の子たちが、この世の子らと比べて賢くないという指摘でもあります。イエス様は言います。「不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうすれば、富がなくなったとき、彼らがあなたがたを永遠の住まいに迎えてくれます。」どういう意味でしょうか。不正の富で、自分のために友をつくる。それはこの管理人のようにです。けれど「そうすれば、富が無くなったとき、彼らがあなたがたを永遠の住まいに迎えてくれます。」と言われます。ここがわかりません。永遠の住まいに迎えてくれるのは他でもない神さましかおりません。そうすると友をつくれと言うのは「神の友となれ」ということになるでしょう。更にここでいう「不正の」という言葉は「不正の」他に、「地上の」とか「世俗的な」という意味もある言葉です。ですから「地上の富で」と読み替えてもよいかと思います。では地上の富で将来に備えるとはどういうことなのか。「最も小さなことに忠実な人は、大きなことにも忠実であり、最も小さなことに不忠実な人は、大きなことにも不忠実です。ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなければ、だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょうか。」将来のために神と友となる。それを、最も小さなことに忠実であること、と言い換えています。そして最も小さなこととは、不正の富、地上の富に忠実であること、と言います。そして、「また、他人のものに忠実でなければ、だれがあなたがたに、あなたがた自身のものを持たせるでしょうか。」ともあります。忠実であれと言われる「地上の富」がここでは「他人のもの」と言い換えられるのです。つまり「地上の富を預かり物と理解して、将来のため、神の友となりなさい。」ということで、その上で「どんなしもべも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは、神と富とに仕えることはできません。」と結論が語られるのです。
 実はこの話は逆から辿っていくほうがわかりやすいのです。神と富。まるで二人の主人に仕えるような、弟子たちの誤った姿があったのです。でもそれは忠実ではないとイエス様はおっしゃいます。なぜなら、その富は他人のもの。つまり主人から預けられたものだからです。もちろん主人とは天の神さまのことです。その富を神から預けられたものだと理解し、預けた神のために用いる。それが忠実であって、それをまるで自分のもののように扱う。無駄使いする。自分の拠り所のように理解する。それは不忠実なんですよ。と、おっしゃっておられるのです。そして、そのような人には、まことの富は任せられない。と、こう指摘される。預かりものですから、与えてくださった方の御心に適うように用いるのが「忠実」というものです。そう理解すると、イエス様がなさった例え話も意味が変わってくるのです。
 この管理人にどうして管理が任せられないのか。それは彼が主人の財産を無駄遣いしているからです。それは主人の意図と反して、自分の思い通りに使っているということです。だから不正なのです。けれど、その彼を主人は最後に褒めるのです。つまり、解雇を言い渡された後に管理人がとった行動は、確かに自分の将来のための小賢しい保身でしたけれど、図らずもそれは主人の意図するところだったのです。解雇を言い渡された後、管理人がしたこと。それは、債務者を一人ひとり呼んで、その話を聞き、それぞれの置かれた状況に合わせて借金を軽減したということです。それらの一人ひとりの友となるべく寄り添ったということです。そして、そのことは主人としては何ら咎めるところではない。むしろ、最初からそのような管理人であることを望んでおられたのです。
 この管理人はとんでもない者のように思います。けれど考えてみると、私たちの誰もがこの管理人と大差はないのです。地上に住む私たちは神に管理を任されたしもべです。そしてその任されているものは、全て神から預けられたものです。主人の財産を使うことが咎められるのではありません。主人の財産を主人の思いと反して用いることが咎められるのです。「まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。」(マタイ25:40)主人のみこころは、最も小さい者たちに手を差し伸べることです。

230101 Ⅱコリント2:14-17 「通り良き管となる」

Ⅱコリント2:14-17 「通り良き管となる」

 いつまでも終わることのない新型コロナウィルスの驚異に、私たちは教会の有り様というものをもう一度確認する必要があります。それは教会が宣教の場なのではなく、ここから遣わされる私たち一人ひとりがおるところ、そこが宣教の場だと言うことです。キリスト者は天の御国の親善大使だと話されたのは神田英輔先生でしたが、まさにその通りであります。そして教会はその親善大使を育て、養い、そして派遣する場なのです。ここから出て行き、ここに帰ってくる宿り木ようなものです。私たちの宣教の使命はこの宿り木の外にあるのです。私たち一人ひとりが遣わされたそのところでキリストを証しすることが求められているのです。
 では私たちはどのようにキリストを証しするのでしょうか。それは今日の箇所にあるように、一人ひとりがキリストを知る知識の香りを放つ者となるということです。香りというのは漂うものです。私たちが押し付けるものではなくて、自然と嗅ぎ取られるものです。キリストを知る知識。確かさ。祝福を、人々は私たちの存在を通して嗅ぎ取るのだとパウロは言うのです。だからこそ、キリストの香りに混ぜ物があってはなりません。私たちは祝福の源泉でも、終着点でもなく、ただその「通りよき管」として用いられたいと願うのであります。
 管というからには、どこかとどこかを繋いでいるわけです。どことどこをなのでしょうか。もちろんそれは神と人とであります。管の両端がしっかりと繋がって初めて、管は管としての役割を果たすことができます。中のものを無事に運んで初めて、管はその役目を果たすのです。
 私たちは神としっかりと結びついているでしょうか。祝福の源に結びついていないとしたら、私たちはいったい何を通すことができるでしょう。まず、私たちが主との麗しい交わりを持つことが大事です。主の御言葉に聞き、御前にひざまずき、絶えず祈りをささげ、主の恵みに敏い者でありましょう。そうすれば私たちは私たちの内に流れているものの素晴らしさを知るのです。「神はいつでも、私たちをキリストによる凱旋の行列に加え、私たちを通してキリストを知る知識の香りを、いたるところで放ってくださいます。」(2:14)とパウロは言います。また私たちは「神に献げられた芳しいキリストの香り」(2:15)だとも言っています。神は私たちをして、そのように人々の中で用いるご計画を持っておられるのです。
 もちろん、この管としての役割は、決してキリストのそれと取って代わるものではありません。神と人との仲保者は私たちの主イエス・キリストただお一人であります。人を神と結びつけるのはキリストの十字架の贖いであり、恵みによるのです。けれど中世カトリック教会はこの役割に教会の権威を混ぜ込みました。教会が祝福の有無を選り分けたのです。私たちはそうであってはいけません。だからこそ、そこには混ぜ物があってはなりません。私たちが届けたいのはただキリストの香りです。ならば私たちは、私たちにイエス様がしてくださったように振る舞うのです。
 さて、ここまでのことは教会の皆様にとっては、もう聞くまでもないことかもしれません。神と繋がることの大事については、教会がいつも語っていることです。けれど、この管は神と人を結ぶ役割です。ですから、私たちが神に繋がるのと同じくらいに、実はこの管のもう片端が人々の中に繋がっているということが大事です。これは当たり前の話です。けれど、教会ではともするとこれが忘れがちになるのです。人々と関係を築く。関わりを持つということは、神さまとの関係を築くことの前には、取るに足りないことだと思われがちです。けれどそうではありません。私たちが社会に繋がっていなければ、人々と繋がっていなければ、いただいた恵みは行き場を失うのです。垂れ流されてしまうのです。そうすると私たちは管としての役割を失い、目的を失ってしまうのです。修道院に籠もってただただ神を見上げる生活を主は願ってはおられません。イエス様はいつも人々と共におられました。一人のために湖を渡られるお方でした。まず関わりを持つ。関係を築くということが大事です。私たちが神と繋がり、その一人と繋がっているのなら、キリストの香りは自ずと嗅ぎ取られるものなのです。
 私たちが日々沢山の人と出会います。職場で、学校で、サークルで。けれど、どこかでその関係を割り切っていることはないでしょうか。その管の先を外していることはないでしょうか。そこでもう一歩、今置かれたそのところ、今関わっているその一人が、私に委ねられた宣教であるということを意識してほしいのです。通り良き管として、主と繋がり、人と繋がる。そんな一年といたしましょう。