ルカ17:20-21 「神の国はあなたがたのただ中に」
たった2節でありますが、信仰の核となる部分が語られています。神の国はあなたがたのただ中にある。つまり、もう来ていると、イエス様は語られます。パリサイ人たちはそうは考えていなかったわけです。いつ来るのか。と尋ねる彼らの根底に、神の国は一向に来ないじゃないか。という不満があったのです。神の民である自分たちが満足のいく状況に置かれていない。私の置かれている環境は、私の願っているそれではない。そういう不満があったのです。彼ら自身は気付いていないかもしれませんが、それはまるで神の国が来ないのは神の怠慢だとでも言いたいかのように聞こえます。
神の民を自称する彼らの、なんて横柄な態度でありましょう。彼らは神を試しているのです。彼らは神の国は来ていないと言います。神の恵みは十分ではないと言います。神の民である自分たちに対するこの扱いには満足できないと言っています。自分たちの信仰を担保にして、神に改善を要求しているのです。
けれど、それは彼らが理想を持っているからです。神の民として、その国の実現を真剣に神に願ったからです。だから思ったのです。いったいいつになったら理想が実現するんだ。いつになったら神の国は来るんだ。とです。けれど、それは願っているだけではいけないのです。批判しているだけでは変わらないのです。これに対して、イエス様は「神の国は、目に見える形で来るものではありません。」と言われます。そして「神の国はあなたがたのただ中にあるのです。」と言われるのです。「ただ中」というのは「心の中」ということではなくて、「あなたがたの間に」とか「あなたがたのところに」という意味です。あなたが置かれているそのところで、あなた自身が兄弟を愛し、助け、赦し合う。神の国の理想を、外でもない、あなたがそれを実践していくとき、神の国はあなたがたの中にあるんだと言われる。逆に言うと、それがないと嘆くのなら、その実現のために今あなたが成すべきことをしていないということです。
イエス様は神の国は目に見える形で来るものではないと言いました。ここだとか、あそこだとか、目に見える場所のことではないとです。けれど、一方で、神の国とは精神的なものではなく、あなたがたの間に実在する、実態を伴ったものだとも言っておられます。つまり、神の国というのは私たちの置かれているそのところで実現していくもの。築かれていくものだと言うのです。
このことは神田英輔先生が幾度となく話された神の国の定義と重なるところです。つまり、神の国とは、神の主権の及ぶところ。神の権威が崇められ、神の律法が適用されるところ。神が王として認知されるそのところが神の国だということです。だから神の国はいつ来るのか。どこにあるのか。と、不満を声にあげているパリサイ人に対して、イエス様はそれはあなたがたのただ中にあるはずだと言われるのです。なのにそれに気付けない。それを実感できないとするならば、それは他の誰でもない、あなたがたの中の問題だとこう言われるのです。王であるイエス様はすでに来られているのです。ですから民がその王を慕い求め、その権威にひざまずくなら、そこはもう神の国です。民が王の言葉に聞き従い、王のみこころが行き届くなら、そこが神の国なのです。
ですから、この箇所でもっとも重要なイエス様のメッセージとは、あなたがたは神の国の傍観者であってはならない、というものです。現状に対する不満があるとき、批難することは簡単です。テレビの評論家のごとく、第3者として論じることは誰にでもできます。けれど、イエス様は単なる傍観者であってはならないと言います。「神の国はあなたがたのただ中に」と言います。ただ中ですから、私たちは傍観者でいられるはずはないのです。私たちは傍観者ではなくて、担い手なのです。他の誰かではない。その理想を実現させるために主が期待しているのは、私です。私たち一人ひとりが主の働きの担い手として、動き出すことを望んでおられるのです。

創世記23 「天の故郷に憧れる者」
アブラハムはサラの葬りの準備をいたします。すなわち、葬りの場所を手に入れるために、先住民であるヒッタイト人に墓地を譲ってもらえるようにと交渉するのです。彼らの返事はとても好意的でした。「私たちの最上の墓地に、亡くなった方を葬ってください。」しかし、アブラハムとしては彼らの墓地を間借りするつもりはありません。あくまでも自身の土地を所有し、そしてそこにサラを葬りたいのです。彼はエフロンに具体的な畑地と洞穴を指定して、それを所有の墓地として買い取らせてもらえるように交渉いたします。しかしエフロンは畑地も洞穴も差し上げますと言うのです。何とも気前の良い話です。アブラハムの日頃の行いの賜物でありましょうか。けれどです。アブラハムは、その提案を断って、あくまでもその土地を買い取りたいと申し出るのです。なぜアブラハムはこれほどまでに土地を買い取ることに拘るのでしょうか。せっかくの申し出に、ここまで頑なになるのは、少しばかり相手に失礼ではないでしょうか。つまりそれは、後の憂いを断つためだったのです。
タダほど高いものはないと言いますが、もしここでアブラハムがエフロンの申し出を受け入れていたらどうだったでしょう。果たして、後々の火種にはならなかったでしょうか。エフロンは大丈夫でも、代が変わればどうでしょう。アブラハムとエフロンのやり取りを直接知らない代になれば、ただで譲った土地なんだから、改めて地代を払えとか、土地を返してくれとか、色々に難癖をつけられるかもしれません。そうでなくても、異教の祭りや風習の影響を受けかねない墓の問題です。この土地に葬るなら、この土地のやり方に従えと迫られるかもしれません。アブラハムは、そうはしたくないのです。後の者たちに憂いを残したくない。この土地を借りるのでも、譲られるのでもなく、買取ることにこだわったのにはそういう理由があったのです。
逆に言いますと、ヒッタイト人たちにはアブラハムに土地を売りたくない思いがあったわけです。売るくらいなら恩を売りたい。しかし、どうしてもと一歩も引かないアブラハムに、エフロンは法外な値段を吹っかけます。銀400シェケル。400シェケルというと、およそ4.5キログラムにもなります。1シェケルが4デナリ。1デナリは当時の労働者の1日分の賃金と言いますから、400シェケルは1600日分の賃金。ほら穴と畑の値段としてはあまりに高すぎます。やはりエフロンには、まともに土地を譲ろうという気持ちは無かったのです。
ところが、アブラハムはその値段をそのまま飲みます。わざわざ他の者のいる前で交渉したのは、エフロンがこの話を引っ込めなくするためです。エフロンとしては、値引き交渉なんぞしようものなら断ってしまえ。そんな思いだったでしょうか。けれどアブラハムはエフロンの言い値を支払って、この土地を買い取るのです。
墓だったらどこでも良い。どんな墓でも良いということではありません。この土地は単なるサラの墓ではありません。もっと大きな意味があります。それはこの土地が、約束の地カナンでの一族の初めての土地となるのです。やがてはこの墓に彼も、イサクも、その子孫たちも葬られていきます。いわば、この墓は彼の決意。もはやカルデヤの故郷に帰ることはしない。私たちは神の約束を信じて、この地に留まり、葬られていく。そういう覚悟の表明なのです。
アブラハムという人は神様から相続の地を約束され、このカナンにて民族が空の星のようになると約束されていたわけですが、実は驚くべきことに、ここに至るまで、その約束の地の一辺たりと所有してはいませんでした。そこには彼の信仰がありました。つまり、地上の生活は彼にとっては仮のものであり、彼は寄留者だということです。
彼はこのわずかな土地に、雄大な神の約束を見ました。これが大事です。私たちは地上の生活をしながら、天の故郷に憧れる者です。信仰を持たぬ人は目に見えるものが全てです。年老いて、それまでの生活を全て捨ててまで旅に出て、挙句手に入れたのがほんの僅かなほら穴と畑と言うならば、人々はアブラハムの人生の何と空しいことかと思うかもしれません。しかし、彼は僅かではあっても、神の御名を誰はばかること無く称えることの出来るこの土地に天の御国を見たことでした。そして、やがては自分もそこに葬られることを夢見て、感謝の内に妻を葬ったことでした。
私たちの地上での歩みもまた、寄留者のようであることを覚えておきたいと思います。信仰に入れられたその時から、私たちの故郷はもはや地上にはありません。天にあります。それはどのような時にも、天の祝福の確かさの中に生かされる者となるということです。

ルカ17:11-19 「二つの反応」
舞台はサマリヤとガリラヤの境を通られた場面と移ります。すると、この国境の境目に村があり、その村に入るとツァラアトに冒された10人の人に出迎えられたというのです。サマリヤとガリラヤの国境地帯にる村です。サマリヤとユダヤは同族嫌悪。特に、紀元前128年にユダヤが独立戦争に勝利した折に、サマリヤを攻めてゲルジム山の神殿を滅ぼしたことにより、両国の敵対関係は決定的なものとなりました。ですから、サマリヤとガリラヤの国境沿いにある村というのは、もうこれだけで十分いわくつきと言いましょうか、きな臭いのです。
そんな村に、あろうことか、サマリヤ人とユダヤ人が共に暮らしていたのです。それは彼らがツァラアトに冒されていたということと関係します。と言いますのも、当時ツァラアトに冒された人ほど、偏見に苦しんだ人々はおりません。そのあまりにも強い感染力に、人々は恐怖し、とにかく病気を遠ざけることしかできなかったのです。彼らがもし人前に出ていくときには、衣服を裂き、髪の毛を乱し、口ひげをおおって、「私は汚れている、汚れている。」と叫ぶことが命じられています。つまり、一目で病気であることがわかるようにしなくてはいけないのです。ですからこの病気を発症すると人目を避けて町の郊外に移り住んだのです。そして、そういった痛みを負った彼らは、唯一、痛みを分かち合える者として、病人同士、自然と寄り添って暮らすようになるのです。サマリヤとユダヤという犬猿の仲をも寄り添わせるほどに、彼らの悲しみは深かったのです。今日の箇所の「ある村」とは、まさにそういう患者たちが寄り添うようにして暮らしていた集落というわけです。
そして、そういう集落に、今イエス様一行が立ち寄られた。すると、彼らは遠く離れたところに立ち、イエス様に声を張り上げて言います。「イエス様、先生、私たちをあわれんでください。」きっと、彼らの内で比較的最近になって移り住んだ者が、イエス様の噂を聞き知っていたのでありましょう。彼らは一縷の望みを託して叫びます。すると、イエス様は言われます。「行って、自分のからだを祭司に見せなさい。」すると彼らは行く途中できよめられたのです。
この何気ない順序がとても大事です。つまり彼らは癒されてから従ったのではないのです。癒される前に従って、それから癒されたのです。この集落に祭司がいることはありません。祭司は町中におるのです。町中に行くことは「自分は汚れている。汚れている。」と叫びながら、人々を遠ざけながら祭司のもとへと向かうことです。彼らはそれが嫌で、心苦しくて、町を出てきたのです。けれどイエス様はそのようにしなさいと言われる。そして彼らはまだ癒される前に、その言葉に従うのです。
イエス様の言葉に従って、祭司のもとへと急いだ10人は、その途中で自分がきよめられたこと、癒されたことを知ります。するとサマリヤ人であった1人だけが、大声で神をほめたたえて引き返して来て、イエス様の足元にひれ伏しました。
癒されたのは10人。けれど、救われたのは1人だけでした。ここが今日の話の肝です。9人は戻って来なかったのです。もう彼らの関心は、一刻も早く祭司に体を見せて、聖いと宣言してもらうことにあったのです。けれど、癒しは救いとは違うのです。目の前の出来事が解決することが救いではないのです。癒やされた彼らもまたいずれ病に罹るのです。老いるのです。そして必ず死を迎えるのです。だから、私たちは癒されることに満足してはダメなのです。
サマリヤ人の彼をイエス様の元へと引き返させたのは、とにもかくにも感謝でした。そこには彼がサマリヤ人であったということも関係していたでしょう。つまり、自分は敵対するサマリヤ人なのに、自分だけは癒されなくても文句は言えない存在なのに、イエス様は癒してくださった。こんな自分さえも。そういうへりくだりが、この癒しの出来事に、神の一方的な恵みを見させたのです。
ユダヤ人はどうだったのでしょう。癒される以前の彼らは、自分の身に対する不満ばかりだったのではないでしょうか。なぜ神の民である自分がこんな目にあわなきゃいけないんだ。今まで礼拝して、献金して、奉仕して、その挙句、こんな目に会うなんて話が違うじゃないか。そういう思いだったのではないでしょうか。信仰を自分の生活を充実させる手段としていたのではないでしょうか。わかりません。けれど、それが感謝に直結しないということは、それを当たり前と思っていたということでしょう。私の神だと言うのなら、民である私を癒して当然。私の神でいたいなら、私の願いを聞くべき。そういう心持ち。けれど、へりくだりと感謝を伴わない信仰では救われないのです。
やっぱり思わされるのは、しもべの信仰です。私たちが主人になってはいけないのです。私たちは恵みに疎い者であります。忘れやすい。目の前のことに心奪われやすい者です。だからこそ、時々に主の御もとに引き返しましょう。私たちの信仰生活は、へりくだりと感謝を糧とさせていただきましょう。

創世記18:16-33「その10人のため」
この箇所はよく「アブラハムと主との交渉」とか「かけひき」と言われるところです。しかし考えてみますと、このアブラハムの提案は、駆け引きや交渉術としては稚拙ではないでしょうか。
小出しに提案するというやり方は、交渉においては賢いやり方ではありません。最初は思い切り行くのです。そこから互いに譲歩していって、落とし所を決める。最初から頃合いと思われる値を想定して、その値に双方が納得がいくような形で近付けられるようにするのです。こういうのは弁護士などがよく使う交渉術です。ところがアブラハムの交渉はと言いますと、最初から小出しに提案するわけです。最初は50人。そこから45人、40人と行きまして、30、20、10人と提案していきます。普通はこのような提案の仕方をしますと、最初の時点で、相手は譲歩するわけですから、もうそれ以上の譲歩は望めなくなってしまいます。上手くない提案の仕方です。
つまり彼はここで、交渉しようとか、なんとか譲歩を引き出そうとか、そういった駆け引きは全く考えていません。とにかくロトたちを救いたい一心で、目の前の主にすがりついた。50人いたらどうです。と聞いて、50人なら大丈夫と約束を頂いた。でももし50人に5人足りなかったら・・と、すぐに不安が頭を過ぎります。神様、じゃあもし45人だったらどうでしょう。40人だったら。30人だったら。交渉と言うよりも、彼を聞かざるを得なかった。聞かずして、不安が取り去られることがなかった、というのが事の真相ではなかったか。その結果がこの何度も繰り返される執拗な嘆願だったのではないかと思うわけです。そして驚くべきは、神様はこのアブラハムの提案を全てまるごと受け入れられるということです。
被造物である人の身が神様のなさることに対して、提案をする。訴える。本来はこれ自体、だいそれたことと言いますか、罪深いことだと思います。しかし、神様のアブラハムへの返答を見ておりますと、何のお咎めもない。それどころか、そのまま全て、即答で「滅ぼすまい」と答えられています。まるで、最初から答えを決めておられるかのようです。この所から、私は思うんですが、主はアブラハムのこの嘆願自体を、最初から期待しておられたのではないかということです。つまり、アブラハムの救霊への情熱。それはむしろ主ご自身の救霊の思いであったのではないか。義なる神は悪を見逃されることはなされません。しかし、同時に愛である神は、人々を滅ぼしたくはない。そのような中で、主はアブラハムの執り成しを期待したのではないでしょうか。
そもそも、主は全知全能であり、ソドムとゴモラの罪を確認に行くということ自体、必要のないことです。主は全てご存知なのです。ですから、むしろ主はアブラハムに知らせようとしたのではなかったか。アブラハムと、このやりとりをするためにこそ、来られたのではないでしょうか。
Ⅱペテロ3:9には次のようにあります。「主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」
神様は何も告げず、ソドムとゴモラを滅ぼすことも出来ました。しかし、神様は敢えて告げられます。同じように、神様は終わりの時を今、この瞬間に来させることもできます。しかし、神様は敢えてそれを遅らせておられます。罪を滅ぼす義なるお方は、しかし、その滅ぼすことを望まれないお方でもあってくださるのです。
ソドムとゴモラの全住民に対して10人の正しさが問われました。逆に言うと、義しい10人の存在がどれほどに貴いかということです。影響力を持っているかです。それは異教社会に置かれるキリスト者の与えられた価値です。私たちが染まらずにそこにいること、執り成しを祈ることが求められているのです。

ルカ17:5-10 「からし種ほどの信仰」
イエス様から赦しの勧めを聞いた弟子たちの反応は「私たちの信仰を増し加えてください。」というものでした。いささか唐突なように聞こえるかもしれませんが、彼らは、イエス様の勧めを聞いて、自分に罪を犯す者を赦せるかと真剣に思い巡らしたのです。そして、それは無理だという結論に至ったのです。互いを赦し合う関係。それは私たちの目指すところです。けれど、それは本当に難しいのです。相手の失敗を許しなさい。というのとは違うのです。「罪を犯した兄弟がいても」と言われるのです。それは確信犯です。そういう相手を、しかも繰り返される罪を、その度に赦せるか。それはやっぱりできないというのが本音なのです。でも、もしも赦せるとしたら、それは本当に素晴らしいともわかります。だから、私たちの信仰を増し加えてください。だったわけです。
けれど、これに対して主は言われるのです。「もしあなたがたに、からし種ほどの信仰があれば、この桑の木に『根元から抜かれて、海の中に植われ』と言うなら、あなたがたに従います。」桑の木とは、ユダヤでよく見かけるイチジク桑の木のことです。低く横に枝を広げて行くことから、ユダヤではこの木の木陰で涼を取ったりします。しかしその最大の特徴は、実は見えないところにありまして、根が広く深く地中に張り巡らすことにあるのです。それはそうでしょう。横に広がる枝葉を支えるためには、同じだけ地中に根を張る必要があるのです。ですからイチジク桑の木は、丈夫で動かない木の代名詞だったというわけです。一方、からし種というのは、当時知られていた種の中でもっとも小さい種の一つです。手のひらに載せてもその重さすら感じないような、あるかないかわからないような種。けれど、その種ほどの信仰があれば、思いも至らないことが起こる。動かない桑の木が海の中に植わることすら起こるとイエス様は言われるのです。つまり兄弟を赦せるように、信仰を増し加えてください。という弟子たちに対して、いや信仰の量は関係がないんですよ。そこに信仰があるのなら。と信仰の奥義を教えておられるのです。
この教えはとても大事です。私たちはついつい信仰の量を問題にするからです。桑の木に海の中に植われ。と言えど、植わらない。すると、信仰が足りない。という話になるのです。兄弟を赦したいけど赦せない。やっぱり信仰が足りない。という結論に至るのです。だから、信仰を増し加えてくださいとなる。けれど、それは本当に信仰の量の問題なのでしょうか。では、桑の木を海に植わらすためには、どれだけの信仰があれば良いのでしょうか。一人の人を心から赦すためには、いったいどれほどの信仰が増し加われば良いのでしょうか。マタイの福音書では信仰があれば山をも動かすとありますが、では、いったいどれほどの信仰があれば山が動くのでしょうか。それを問うのは、本当に救いのない話です。
信仰というのは多い少ないの話ではないのです。私たちは桑の木を信じるのではありません。桑の木を動かすことができる神がおられるということを信じる。病を癒すことのできる神を信じる。全知全能の神が今も生きて働かれることを信じる。これが私たちの信仰です。そして、この神は、私たちの信仰をたとえからし種ほどであっても見過ごさない。だから、量ではないのです。
さらにイエス様は主人としもべとの超えられない立場関係を語られます。現代に生きる私たちにはピンと来ないかもしれませんが、主人としもべとの関係には確かに超えられない一線があるのです。主人を差し置いて、食卓に付くなんてことはあり得ないのです。つまり、イエス様はここで、しもべであることを認めなさいとおっしゃられるのです。
しもべの特徴とは何でしょう。それは主人がいるということです。主人に雇われ、養われているということです。しもべとは、主人があって初めて成り立つ立場なのです。ですから、しもべに求められるのは、主人の指示に忠実に従うということです。いえ、更に優れたしもべは、主人の気持ちや考えを先読みして従うのです。大事なのは主人のみこころです。
桑の木が動かないから信仰が足りないのではありません。信仰の量を嘆く必要はありません。動かないとしたら、それは主が望まれていないからです。主のみこころでなければ、何をしようとなりません。逆に言うと、どれだけ不可能なことでも、主が望まれればそれはなるのです。だからこそ、私たちはどんなときでも、祈ることができます。私には無理でも主にはそれができるからです。これがしもべの信仰です。からし種の信仰です。私たちはただ主人のみこころがなることを願うばかりです。

創世記13 「右に行っても、左に行っても」
飢饉を避けるためエジプトに滞在していたアブラム一行は、再びカナンの地に帰って参ります。
ところが、カナンでの生活を始めるアブラム一行に、身内の中から騒動が起こります。それは彼らの財産が増えたがゆえの騒動でした。
エジプトで彼らあは沢山の財産を得ました。家畜であり、使用人であります。当然のことながら、十分な土地、牧草地や水飲み場が必要になってきます。2つの群れが、一つのところで一緒に住むのには限界がありました。旅の途中では、お互い我慢できました。不便なのは致し方ない。そういう思いでした。しかし、ここはもう旅の仮住まいではありません。これから腰を据えてやって行こう。そういう場面ですから、お互い遠慮がなくなってくる。互いが権利主張を唱える。そうこうしているうちに、両方の家畜の牧者たちの間で争いが起こったのでした。
さて、この騒動にアブラムはいったいどうしたのか。アブラムは甥のロトに別れて暮らすことを提案しました。大変現実的解決手段です。住む土地は幾らでもあるのです。無理して一つのところに住むから、いさかいも起こるのであって、ある程度距離をあければ、互いに良好な関係を築いていくことが出来るでしょう。そこでアブラムは甥のロトに言います。「私から別れてくれないか。」
ところで、注目すべきはこの次です。アブラムは「もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう。」と提案します。全ての決断を甥のロトに委ねるのです。アブラムはもちろん家長であり、年長者です。この旅にロトを誘ったのも彼ですし、ロトが今日のように沢山の財産を手にしているのも、アブラムあってのことであります。ですから、「私はこっちに行くから、お前はあっちに行くように」と命じても何らおかしくありません。いえ、当時としてはそれが当たり前です。ところが、アブラムは、そういった一切の主張や権利を放棄して、甥のロトにどちらに行くかを選ばせるのです。彼はとにかく平和的に解決したかったんですね。親類同士で争いたくなかった。だから彼はまず譲歩するのです。
アブラムが命じれば、ロトはその通りにしたでしょう。しかし、それではどうしても禍根が残ります。残り物を渡されたという思いはどうしても拭えません。これから先、ロトの人生で何か上手くいかなくなった時、きっとロトは、こんな土地を充てがったおじさんが悪いんだと逆恨みすることでしょう。自分の人生に自分で責任を取らなくなってしまうことでしょう。ロトに選ばせてこそ、そういった一切の禍根を残すことなく、円満に別れることが出来るのです
ロトは、東と西を目を皿のようにして見比べます。どちらが得か。どちらが豊かか。そして東の低地を選びとって出て行きました。そこにはソドムとゴモラの町がありました。大変賑やかで豊かな町であります。人が集まるのに適した地ということです。水も食料も豊富だったのでしょう。彼はこのソドムの近くに天幕を張り、住み着くことにいたしました。一方、アブラムは、ロトが選ばなかった地域に住み着くことにいたします。
どうして、アブラムにはそのような決断ができたのでしょうか。彼には確信があったんですね。それは、どちらをロトに譲っても、自分は最善に導かれるという確信です。この地は、全て主の約束の土地。祝福の土地。ですから、どちらか一方しか祝福はないということではない。たとえ、どちらに行こうともそこは主の約束の土地。主の祝福があるという確信です。
右に行くか、左に行くか。人生の中ではそういう選択が常にあります。どちらに行くのが得か、損か。私たちは必死に吟味しながらどちらかを選ぼうとします。しかし実は、右に行くか、左に行くかということはそれほど重要なことではありません。大切なのは主と共に歩むということです。どちらに行こうとも、主が共におられる限り、そこは祝福の地です。私たちは時々、あの時こうすれば良かった。ああすれば良かったと悔やみます。しかしそうではありません。今この時が主の最善であります。私たちが思い悩みながら信仰を持って選ぶ時、そこには主の祝福が用意されているのです。

ゼカリヤ4:6 「主の御霊によって」
この預言はバビロン捕囚からの帰還を果たし、神殿を再建しようとする民のリーダー、ゼルバベルに向けて語られた主のことばです。神殿再建の事業は滞っておりました。近隣住民から工事の邪魔がありました。また、民自身も荒れ果てた祖国での生活に精一杯で、神殿を再建する余裕もなくなっていました。結果、神殿の再建工事は18年もの間頓挫いたしました。どれだけ命じようと、どれだけ励まそうと、自分の声が一向に民に届かないという現実に、ゼルバベルはどれほどの空しさと、焦りを覚えたことでしょうか。そんなゼルバベルに向けて語られるのが今日の箇所、すなわち『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって』という主のことばです。
一向に工事が再開されない状況に、ゼルバベルは権力や能力を頼ったことではなかったでしょうか。私たちも同じでしょう。何かことを成そうとする時、私たちが欲するのは誰かを従わせる絶対的な権力であり、誰かを魅了する圧倒的な能力ではないでしょうか。私にもっと権力があれば。私にもっと能力があれば。そうすればことが上手くいくのに。
けれど、その考えはやがて行き詰まるのです。ゼルバベルほど権力や能力が伴っていた人はおりません。ダビデ王の直系でペルシャ王から総督の地位を与えられたゼルバベル。彼はすでに42,360人という大所帯を率いて、遠い祖国への帰還を無事に果たしているのです。民をまとめ上げるカリスマも能力も十分に兼ね備えていた人物です。けれど、その彼ですら行き詰まったのです。権力や能力ではどうすることもできないことがやはりあるのです。では私の権力が至らない時、私の能力が足りない時、私たちはもうこれを諦めるしか無いのでしょうか。
だからこそ「わたしの霊によって」なのです。考えてみますと、イスラエルの民にとってバビロン捕囚はまさにそのことを知るための試みだったのです。権力や能力。神の民としての誇りや神殿という権威。これまでの伝統に基づく経験。蓄積されたあらゆるものを奪い去る出来事がバビロン捕囚でした。そして全てを失って残るもの。それが真の神の憐れみであったのです。そこまでしてようやく気付けたのです。真に頼るべきが何かをです。今、ゼルバベルはそのことを見失っています。それは彼の責任感からでしょう。目の前の困難を何とか解決しなければならない。神殿の再建という大事業を失敗には終わらせられない。彼の真面目さが、彼を盲目にしているのでしょう。そんな彼に主が語りかけられます。「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。」とです。わたしに頼れ。と言ってくださるのです。
続く4:7には「大いなる山よ、おまえは何者か。おまえはゼルバベルの前で平らにされる。彼がかしら石を運び出せば、『恵みあれ。これに恵みあれ』と叫び声があがる。」とあります。私たちの前にも、途方もない山がそびえているでしょうか。けれど、その山に「おまえは何者か」と一蹴するお方がおられるのです。私たちの眼前でそれを平らにされるお方がおられるのです。
イエス様はある時言われました。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに言います。もし、からし種ほどの信仰があるなら、この山に『ここからあそこに移れ』と言えば移ります。あなたがたにできないことは何もありません。」(マタイ17:20)なぜからし種ほどの信仰で、山が移るのでしょうか。実はこれは次週のテーマでもあるのですが、先に言いますとそれは主にはそれが可能だからです。からし種ほどの信仰とは、主への信頼です。山が動くと信じる信仰ではなくて、私たちの主にはそれができると信じる信仰です。そして、みこころならそうしてくださるのです。
確かに山のようにそびえる問題があります。私たちの権力や能力、経験や知識といったものが全く通じない問題があります。けれど、頼るところはそこではありません。主にとってそれは不可能ではありません。ならば、主のみこころに頼るべきです。主の御霊に頼るのです。
さて、主が用いられる人とはどのような人でしょうか。まじめに、一生懸命、自分一人で頑張る人でしょうか。それはとても素晴らしい賜物ですね。世の信頼を勝ち取るのはそういう人です。けれどだからと言って、主の働きを自分の働きとしてはならないのです。そうではありません。主が用いられるのは、自分の手柄を誇る人ではありません。捕囚の民よろしく、主の前に降参をする人です。委ねる人です。如何様にも用いてくださいと自分の身を差し出す人です。私たちが管に徹するとき、その管には主の御霊が確かに流れるのです。

マルコ6:1-13 「粘り強く関わるなら」
イエス様が故郷ナザレに帰られたときの様子が記されています。ここに驚くべき証言があります。人々はイエス様につまずいたとあるのです。先日の日曜に、私たちはつまずきを与えるものはわざわいだと学んだばかりでした。ですから、ここに書かれているのはとても異常です。
イエス様はナザレに帰られて会堂で話されます。すると、人々はその教えに驚いたのです。「この人は、こういうことをどこから得たのでしょう。この人に与えられた智恵や、この人の手で行われるこのような力あるわざは、いったい何でしょう。」つまり彼らはイエス様の知恵や力あるわざに驚いたわけです。ですから、さぞや、多くの人がこのイエス様の権威ある教えに感動し、涙を流しながら、その足元に平伏したことではないでしょうか。
ところがです。実際にはそうはなりませんでした。確かに、彼らはその教えに感動しました。否定し難いイエス様の権威をその教えの中に見ました。にも関わらず、彼らはイエス様の教えに心を揺り動かされることはありませんでした。彼らは、イエス様にたいする偏見を捨てることができなかったからです。
ナザレはイエス様が幼い頃からの時を過ごし、成長した所です。数百人程度の人々が暮らす城壁のない町でイエス様は弟、妹の世話をしながら、父ヨセフの助けとして大工仕事をしていたのです。父ヨセフが死んでからは、今度は一家の大黒柱として母を助け、弟たちの親代わりをしてきました。人々はそんなイエス様の姿を幼い頃から飽きるほどにずっと見てきました。ですから、彼らにとって、イエス様が何を言おうと、何をしようとも、大工の息子であり、マリヤの子で、ヤコブたちの兄弟であったのです。彼らはすでに持っていた固定概念に捕らわれて、真新しい気持ちでイエス様の教えに聞くことができなかったのです。だから、彼らはイエス様の教えに驚きはするけれども、その言葉によって変えられることはなかったのです。イエス様の教えは人々に届きませんでした。イエス様といえども郷里伝道、家族伝道は難しいのだとしたら、ましてや、私たちは尚更のことです。ですから、難しい伝道は諦めて、さっさと別のところに行くべきでしょうか。
けれど、私たちが見るべきところは、その効率や結果ではありません。実はこの箇所の前に、イエス様の伝道に対しての家族や郷里の人々の様子が記されています。郷里では「イエス様の気が狂った」という噂が流れ、イエス様の偉大な力はサタンによるものだと噂されていました。そこで、家族が心配してイエス様を連れ戻しに来るという話です。つまり、郷里に帰られるイエス様は、すでに家族や郷里の間でどのような噂が立っているか、人々の不信仰な様子をすでに知っていたということになります。イエス様が郷里に帰られる。家族の下に帰られる。それは、気が狂ったと噂する人々の中に帰ること。それは、受け入れられないと分かっている中を敢えて帰るということでした。実はこの箇所には郷里を愛し、家族に心を留められるイエス様の憐れみと忍耐に満ちた姿が記されているのです。
ご承知の通り、イエス様の家族はこの後、救われて、教会の基礎となっていきます。ヤコブは教会のリーダーとなります。ユダは新約聖書の執筆者の一人となります。この時には、イエス様をまるで理解できなかった家族がです。これは私たちにとって希望です。昔の自分を知っているということは、言い換えれば、私の内に起きた変化を一番良く知っているということです。また、普段から身近にいるということは、語るべきチャンスを逃さないということでもあります。偏見を超えて相手を認めるには、大変時間がかかります。特別なきっかけが必要なときもあるかもしれません。郷里伝道、家族伝道は難しいのです。しかし「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」とも言われています。諦めずに粘り強く関わり続けていくとき、主は友人も家族も、関わる身近な人を救って下さるという希望がそこにはあるのです。
