fc2ブログ
プロフィール

Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

最新記事
カテゴリ
月別アーカイブ
最新コメント
検索フォーム
リンク
QRコード
QR

230430 ルカ18:18-27 「人にはできないことが」

230430 ルカ18:18-27 「人にはできないことが」

 今日の箇所に記されます「ある指導者」。この指導者もまた、死の問題、永遠のいのちの問題について解決が見出せないでおりました。この人物。マタイでは「青年」、ルカの以前の訳では「役人」と記されております。若くして人々から尊敬を集める人物。彼には人望も、財産も、熱心な信仰心もありましたが、永遠のいのちの確信だけがない。死への恐れだけは拭い去れないのであります。
 「何をしたら」と問いかける青年指導者に対して、イエス様は十戒の後半の律法を語ります。「戒めはあなたも知っているはずです。『姦淫してはならない。殺してはならない。盗んではならない。偽りの証言をしてはならない。あなたの父と母を敬え。』」しかし彼にとって十戒は、もう散々聞いて励んできた教えでした。それでは永遠のいのちの確信に至らないので、今イエス様の前にひざまずいているのです。ですから彼の本心はこうです。「イエス様。私はそれらをちゃんと守ってきたのです。けれどそれでも確信が持てないからこうしてやって来たんです。もっと、こう私の知らない秘密を教えて下さい。これをしたら永遠のいのちが手に入るよとおっしゃってください。」
 それにしても「私は少年のころから、それらすべてを守ってきました。」と言い切れるというのは本当に凄いことです。よっぽど彼が律法を意識して真面目に暮らしてきたかがわかります。しかし、ここでそう言い切れるというのが彼の問題の本質でもあったのです。
 問題のひとつは、彼が永遠のいのちが律法を守る先にあると考えていたことです。律法を守ることは、本来、唯一真の神への信仰の応答であります。全能の神への畏れから来るものです。ところが彼は、これを永遠のいのちをいただくためのノルマとしか考えません。「私は少年のころから、それらすべてを守ってきました。」だから永遠のいのちをいただいて当然なはず。彼は、自らの行いに報酬を与えない神はどうなっているのかと言わんばかりです。
 問題の二つ目は、彼が律法を文字通りにしか見ていなかったということです。確かに彼はこれまでに、誰も殺したことがないし、姦淫したこともない。盗んだことも、嘘をついたこともないのでありましょう。両親の言うことにも忠実でいたのでありましょう。しかし、律法が命じているのはそう言った表面的なことではありません。イエス様はその心の中が問われると言います。「殺してはならない」という律法は、実際に人を殺すことだけでなく、その心の内で兄弟に怒ることすらも裁いていると言います。であるならばいったい誰が律法を守ることができるのでしょう。
 そもそも律法と言うのは、それを守ることで人々を救うものではありません。ローマ3:20「なぜなら、人はだれも、律法を行うことによっては神の前に義と認められないからです。律法を通して生じるのは罪の意識です。」律法は罪の意識を生じさせるものです。律法は私たちの内に救いが無いことを知らせます。そして、それゆえに律法はイエス・キリストを信じる信仰へと人々を導くのです。
 「それらすべてを守ってきました。」と答える彼に、イエス様は持っているものを売り払い、貧しい人に分けてやるようにと言いました。彼は悲しみながら立ち去っていきました。彼は惜しいところまで行っていたのです。律法を守ることで、永遠のいのちが得られないという疑問まではたどり着いていたのです。もったいない。もう少しそこに留まって、イエス様の言葉の続きを聞いて欲しかった。イエス様の言葉は、要約すれば、「あなたの行いでは決して救いに達することはできないよ。」というものです。しかし、だからこそ私について来なさい。私を通して永遠のいのちをいただきなさい。これが言葉にはなっていないイエス様の続く声です。イエス様の慈しみに気付かず、早々に結論を出してしまった彼は、本当に惜しいことをしたとしか言いようがありません。
 イエス様は彼には無理だとおっしゃっているのです。どれだけ行いを正しても、辿り着けない神の義です。けれど「人にはできないことが、神にはできるのです。」救いとは恵みです。恵みでなければ、決して私たちは救いを得ることができないのです。ですから、私たちの救いの確信は、贖いとなられたイエス様を知るほどに確かなものとされるのです。ここに留まりましょう。イエス様はおっしゃいます。神にはあなたを救うことができるとです。

230423 ルカ18:15-17 「子どもたちを来させなさい」

ルカ18:15-17 「子どもたちを来させなさい」

 イエス様にさわっていただこうとして、人々が幼子たちをつれて来ますが、弟子たちがこれを叱って遮ります。するとイエス様はこれをたしなめられたのです。マルコの並行箇所を見ると、弟子たちの振る舞いにイエス様がはっきりと憤られたことが記されています。憤りとは、単に怒るということとは違います。正当な根拠があって腹を立てると言ったニュアンスの言葉です。正義感に裏付けされた非常な怒り。これが「憤り」であります。この場面は、そう言ったイエス様の憤り。この出来事を決して見過ごすことはできない。そういう確固たる信念を持って、お叱りになられる場面。その怒りには根拠があるのです。
 「イエスに触れていただこうと」とあります。平行箇所のマタイ19章では「イエスに手を置いて祈っていただくために」(マタイ19:13)とあります。つまり、人々はイエス様から祝福を祈っていただこうとして子どもを連れてきたのです。先週、私たちは子ども祝福式を持ちまして、講壇の前に子どもたちが並ぶのを見て本当に感謝したことでした。けれど、弟子たちはそれを叱った。そりゃ怒られて当然でしょと思います。
 けれど、弟子たちには弟子たちの言い分があったのです。まず第一に彼らは疲れておりました。イエス様のもとにはいつも人々が押し寄せたのです。教えを請う者。癒しを願う者。寝たままに連れて来られる病人や悪霊に憑かれて自分ではどうしようもない人、イエス様を陥れようとする人。実は今日の箇所は、そういう人混みから抜け出して、ようやく家に入って落ち着いた場面です。弟子たちからすれば、ようやく訪れた束の間の休息。そしてイエス様を独占できる時間。そこに割って入るように、子どもたちが連れて来られたというのです。少しはこっちの身にもなってくれよというのが、彼らの言い分だったのではないでしょうか。
 それだけではありません。彼らが親子を門前払いをするのには、もちろん自分たちだけのことではない、イエス様のことを考えてでもあったでしょう。イエス様こそお疲れになっているはずなのです。厚かましく家の中にまで押し掛ける彼らを黙って受け入れることはできない。これ以上イエス様の労を増やすわけにはいかない。それは弟子としての正義であり、使命なのです。
 そして、もっとも大きな理由が、イエス様がたしなまれてることですけれども、彼らは子どもたちが神の国に入れられる、つまり救いの対象であるとは考えていなかったということです。これはまぁ、彼らがどうこうではなくて、子どもに対する当時の一般的な考えだったわけでもありますが、ともかく、彼らにとって子どもたちに関わることは全くもって無駄な時間と労力だったわけです。
 ところが、イエス様は今まで見たことの無いような剣幕で、弟子たちをお叱りになるのです。イエス様は「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。」と言われました。そして、「神の国はこのような者たちのものなのです。」とまで言われました。一般には無知で無価値な存在。しかしこのような子どもを、そして我が子の祝福を願って連れてくるこのいちずな両親を指さして、神の国はこのような者たちのものだと言われたのでした。
 マルコ9:37には次のようにありました。「だれでも、このような子どもたちの一人を、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。また、だれでもわたしを受け入れる人は、わたしではなく、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。」イエス様は社会では箸にも棒にもかからない幼子すらもご自身と重ねてご覧になられます。いえ、何もできない、何も理解していない幼子だからこそ、イエス様は格別の慈しみをもって見つめておられるのです。イエス様が弱い者、価値の無い者に絶えず目を向けて下さる方であることを私たちは覚えておきたいと思います。そしてそのために憤ってくださる方であることも。これは何も子どもたちだけのことを言っているのではありません。子どもたちがその代表として語られているのです。
 何も出来ない幼子ですらその存在を喜ばれ、共に祝福に与ることができる。だからこそ教会には必要の無い人は一人もおりません。ここにいる全ての人は祝福の場に招かれているのです。もし、子どもは御言葉を理解できないから礼拝しなくてもいい。他の人の邪魔になるからいない方がいいと言うなら、同じ理由で、罪深い私たちもいなくてもいいということにならないでしょうか。幼子を受け入れる交わりだからこそ、私たちもまたこの交わりにいても良いのです。誰一人として邪魔にされない。全ての人は憐れみのゆえに礼拝に招かれているのです。

230419 創世記30:1-24 「神にひれ伏すまで」

創世記30:1-24 「神にひれ伏すまで」

 家系を何よりも重視する当時の社会にあって、不妊であるということがどれほどの重圧であったかは計り知れません。ラケルはどれほど不妊であることに苦しんだことでしょう。しかも彼女はヤコブの唯一人の妻ではありません。彼女の姉レアもまたヤコブの妻であり、そしてレアは沢山の子どもを授かったのです。隣の部屋から赤子の泣き声を聞くたびに、また幼い子ども達が夫に向かって「お父さん」と呼びかけるたびに、ラケルは言いようも無い屈辱や敗北感、そして胸を締め付けられるような悲しみを感じていたに違いありません。「私に子どもを下さい。でなければ、私は死にます。」(30:1)これは何の誇張でもありません。これはラケルの心からの精一杯の叫びでした。
 ラケルは自分の女奴隷によって子を産むようにヤコブに送り込みます。だからと言って、彼女の悲しみが晴れるとは思えません。けれども、少なくとも姉の子以外の子が生まれるなら、姉に対する嫉妬も少しは和らぐというものです。思惑通りラケルの女奴隷ビルハは彼女の願い通りダンとナフタリという二人の男の子を産みました。しかし喜びもつかの間。レアもまた自分の女奴隷ジルパをヤコブのもとに送り、ジルパはガドとアシェルという二人の子を産むのです。
 自分の子は与えられなかったのです。ですから、せめてもの慰めとして、ビルハを送ったのです。その生まれた子を抱いて、ようやく姉のことは気にすまい。甥っ子たちも愛していこう。そう思った矢先なのです。なのにレアの女奴隷もまたヤコブの子を産むのです。レアは自分の子がいるのにも関わらずです。ラケルに焦燥感が漂います。ちょうどそんな時、彼女は姉の長男ルベンが恋なすびを手に入れたと聞くのです。
 恋なすびは別名マンドレイクと呼ばれ、その根の形が二股になって、人間の下半身を想像させるところから、性欲増進、妊娠促進の薬効があると信じられておりました。実際には毒性が強く、幻覚や幻聴を伴う危険なもので、現代では薬用にされることもありません。けれど、そんな得体の知れないものにまで、すがりたいほど、ラケルには後がないのです。「あなたの息子の恋なすびと引き替えに、今夜、あの人にあなたと一緒に寝てもらいます。」もう手段は選びません。最大限の譲歩をして恋なすびを手に入れるのです。
 しかし結果はどうだったでしょうか。そのような思いをしてまで手に入れた恋なすびは結局何の役にも立たず、その代わりとしてヤコブと一夜を共にしたレアは再び子を授かることとなりました。いったい彼女はこの少なくとも三年の年月をどのような思いで過ごしたのでしょうか。レアへの神の祝福を見ながら自分の無力さ、愚かさをしみじみと教えられたことでしょう。神ならぬものに頼ろうした自分を恥じたことでしょう。神がレアに比べて長い期間沈黙を守られたというのは、ラケルにそのような時間が必要だったということです。最初は絶望し、次に呪い、そして遂にはひれ伏して降参したのでありましょう。神の長い沈黙のゆえに、ラケルは神に願うものとされたのです。ヤコブより「胎の実をおまえに宿らせないのは神なのだ。」(30:2)と聞かされても、決して神に願うことをしなかったラケル。ヤコブに叫び、レアに叫び、けれど主には叫ぶことができなかったラケル。それが今、彼女は主に叫び、願うものとされたのです。彼女はここにいたり、初めての子を産みます。神の憐れみのゆえに産まれるのです。名前はヨセフ。その意味は「【主】が男の子をもう一人、私に加えてくださるように」彼女は、主こそが命を加えられる方であることを知ったのです。神こそが叫び求める方であることを悟ったのでした。
 私たちが本当の意味で神に降伏するために、神は沈黙を守られます。私たちに時を設けられるのです。そうまでしないと、神に願うことに疎い私たちだからです。私たちが手放すことができないからです。

230416 「神の前にただ一人」 ルカ18:9-14

「神の前にただ一人」 ルカ18:9-14

 パリサイ人と取税人。現代風に言うと「熱心な田舎教師」と「欲深い取り立て屋」と言ったところです。そんな二人が、ある日、宮に上り祈りをささげました。「神よ。私がほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でないこと、あるいは、この取税人のようでないことを感謝します。私は週に二度断食し、自分が得ているすべてのものから、十分の一を献げております。」パリサイ人の祈りは何と高慢かと思うでしょうか。けれど、当時の人々には少々違った印象でした。「ああ、流石はパリサイ派の先生だ」と感心したのです。なぜなら、このパリサイ人が、事実そのように信仰に熱心に生きる者であったからです。律法では、年に一度、大いなる贖いの日に断食をすることが定められておりました。また、穀物の収穫の十分の一をささげることが定められていました。ところが、このパリサイ人は、週に二度もの断食をし、穀物だけに留まらず、あらゆるものの十分の一をささげたと言っているのです。このパリサイ人は、決められた物をただ文字通りに守るのではなく、さらに多くのものを進んでささげていたのです。ましてや、彼は他人をゆすることも、不正を犯すことも、姦淫することもありません。彼は自他共に認める義なる人なのです。
 一方、取税人の祈りは「神様、罪人の私をあわれんでください。」多くの人はこの取税人の祈りを聞いて、なんて自分勝手な祈りだろうかと思ったのです。あわれむわけないじゃないか。身から出た錆。「遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて」祈るその取税人の話を聞いて、ざまあ見ろという思いで見下し、また自分はそこまで落ちぶれていないと安堵したのです。ですから、この話の結末は当然、「だから、皆さん。このパリサイ人の義に見習いましょう。だから、あの取税人のようにならないように普段から気をつけましょう」というものであるはずでした。いえ、そうでなければ話としては、おかしいのです。
 ところが、イエス様の続く言葉は驚くべきものでした。「あなたがたに言いますが、義と認められて家に帰ったのは、あのパリサイ人ではなく、この人です。だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです。」
 なぜ、この罪人の取税人が義と認められるのでしょうか。なぜ、誰から見ても申し分のないはずのあのパリサイ人ではなかったのでしょうか。実はそもそもの前提が間違っているのです。パリサイ人と取税人、二人のどちらが義しいのかと言えば、それはどちらも義しくはないのです。そもそもこの話は、どちらが神の義に相応しい者かという話ではなくて、どのような者が神から義と認められるのか。どうしたら神の憐れみのゆえに義とされるのかという話なのです。イエス様は言われました。「なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」このパリサイ人は自分を高くしていた。そして、取税人は自分を低くしていた。だから、神はこの取税人は義と認められ、パリサイ人は認められなかった。と言われるのです。
 二人の祈りの違いは何でしょうか。それは己の義を見ているのか、己の罪深さを見ているのかということです。イエス様は対照的な二人を登場させて語りました。けれど、実は神の前にはどちらもが同じ、悔改めるべき罪人に過ぎないのだということを私たちは認めなくてはなりません。このような例え話を読みますと、私たちはすぐに「では私はどちらだろう」と考えがちです。けれど、「どちらが」と考えるその中に、すでにこのパリサイ人の要素があるのです。そうではなくて、私たちは神の前にはただ一人であるということを覚えたいと思うのです。
 神の義は他でもない主イエスにこそあるのです。私たちが義と認められるとすれば、それはキリストが命を投げ出して、勝ち取られた義のゆえに他なりません。私たちには神の前に誇るものなど何一つ無いはずです。「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。」(ローマ3:23-24)とある通りです。私たちはただただ神を見上げる時、己の罪深さが明らかにされます。けれど、それが大事なのです。己の汚れに気付いて初めて、私たちは神の憐れみにすがることができるからです。それが私たちにとっての聖化の歩みだからです。

230412 創世記26:1-11 「歴史は繰り返す」

創世記26:1-11 「歴史は繰り返す」

 イサクの姿が詳細に描かれるのは、この26章のみ。イサクというとアブラハム、ヤコブ、ヨセフと比べても遜色のない重要な人物ですが、聖書にあるその記述は極めて限られております。それはイサクと言う人が自分のことをあまり語らない人だったということを意味します。しかし、それはイサクが単に無口だったということではありません。この時代、まだ聖書は口伝によって語り継がれている時代です。無口ならこれまでの歴史が残されているはずがありません。つまり彼は、自分のことはあまり語らない。それよりは、ことある事に、父アブラハムのこと、そして父アブラハムが大事にしてきた神様のことを語る。そういう人物であったということです。そんな彼が26章に記される2つのことは語り継いだ。それが彼がついた嘘の出来事と、井戸掘りの出来事でした。今回は、イサクのついた嘘を見ていきたいと思います。
 アブラハムを葬ったイサクは、妻リベカを引き連れて、ベエル・ラハイ・ロイに暮らしておりました。しかし、この地は南の砂漠地帯でありまして、飢饉に見舞われるとひとたまりもありません。そこで、イサク達はこの地を離れる決心をします。神からエジプトに下るなとのお告げを受けて、彼はゲラルの地、ペリシテの王アビメレクの治める地へと向かうのです。
 そこで今回の出来事が起こるのです。つまりイサクがこの地に入る時、妻リベカを妹と偽って皆に紹介したのです。もしリベカを「私の妻」と言えば、人々は美しい妻を横取りするために、自分を殺すかもしれません。けれど妹ということであれば、自分を殺すどころか、むしろ良くしてくれるかもしれない。我ながら賢い考えとイサクは思ったかもしれません。しかし、それは何もイサク独自の考えというわけでもありません。彼の父アブラハムも、旅の道中で度々行ったことでした。いえ、当時の物騒な情勢を考えると、これは一般的なことであったと言えます。旅人としての知恵。知らない土地に入る時はそれくらい用心した方がいい。ですから、このようなことで罪意識を感じることは恐らくなかったことでしょう。しかしです。だからと言ってイサクの嘘は仕方ない嘘かと言いますと、やはりそうは言い難いのです。彼の嘘は、妻を危険な目に晒し、人々に誘惑の種を撒き散らしたのです。
 このような嘘が、どのような結果を招くのか、彼は父アブラハムから聞かされていたはずでした。今回はアビメレクの寛大な処置によって事なきを得るのですが、実際は妹と呼んだ妻が、他の者に召し入れられるということが十分あったのです。もしもそのようなことがあったとしても、それはもう引き止める手立てはなかったでしょう。彼はそのことをアブラハムから聞かされておりました。なぜなら、これはアブラハム自身の後悔でもあり、反省でもあったからです。聖書にそれらの出来事が残されているのがその証拠です。イサクには同じ間違いを犯して欲しくない。だから苦い経験をアブラハムは正直に息子に語るのです。にも関わらず、彼は父と同じ過ちを繰り返してしまったのでした。
 彼はアビメレクの指摘を受けて、自分が如何に愚かであったかを悟るのです。これまでは、父アブラハムの体験談を聞いても、他人ごとのようにしか聞けず、自分はそんなことをしないと高をくくっておりました。妹とごまかすことが、妻をどれだけ危険に晒し、そして周囲の人々に罪の誘惑を与えるか全く想像出来ませんでした。けれどそれら一切の愚かさを、彼はアビメレクの指摘によって、一瞬の内に知らされるのです。今すぐにでも消えてなくなりたいイサクではなかったでしょうか。
 しかしです。同時に、この経験がイサクには必要だったとも言えるでしょう。いえ、イサクだけではなくて、それは全てのキリスト者に必要なことです。つまり、私たちは、己の愚かさを身に沁みて悟る経験が必要なのです。私たちは、たとえ口酸っぱく教えられてきたことも、自ら進んで行なってしまうような愚かな者なのです。他の者がどれだけ倒れても、自分だけは倒れないと高をくくってしまうような者です。どれだけ神様と賛美しつつも、心の王座だけは決して譲ることのない私たちなのです。ですから、私たちの信仰生活は、むしろ、そのような自らの愚かさに気付いた時に始まるのです。
 父アブラハムと同様に、イサクもまた、己の惨めさを、消してしまいたい失敗を、後世に伝えます。ここが彼の信仰のスタートだったからです。親の言うままの信仰ではない、彼が個人として主と出会い、主にひれ伏したのが、この時でした。私たちにもそのような時が用意されています。

230409 ヨハネ11:38-44 「死の先にある希望」

ヨハネ11:38-44 「死の先にある希望」

 ラザロの姉であるマルタとマリヤは、イエス様が来てくれさえすればラザロも助かる。とそう思って、イエス様に遣いを出しました。彼女たちはイエス様を救い主と、心の底から信頼していたのです。けれど、イエス様は間に合わずラザロは死んでしまいました。信じていたからこそ、彼女たちのやるせなさは大きいものでした。イエス様がおられたら弟は死ななかったのに。あなたが来るのが遅すぎました。とです。
 そのイエス様が、今、墓の前に立って言うのです。「その石を取り除けなさい。」しかし、もうラザロが死んで4日も経っていました。その石を取り除けるということは弟の死を直視するということでもあります。今のように冷蔵技術があるわけでもなし、4日も経てば体は腐敗しだすわけです。死体が朽ち果てる匂いというのは、生理的に受け付けられないものと言います。腐敗し、虫が湧き、体内のガスが抜けて、体液が飛び散る。そういう現実の匂いです。それが愛する人の匂いだとしたら、それはどれほど絶望的な匂いでありましょう。マルタたちは躊躇するのも無理はありません。見たくないのです。蓋をしていたいのです。そんなことをしても死の現実に直面するだけなのです。全ては遅すぎる、無駄なのです。
 けれど。本当に無駄なのでしょうか。私たちは考えなければなりません。それは本当に意味がないことなのでしょうか。死者の復活など科学的でない。とおっしゃる方がいます。けれど科学的であることに、いったいどれほどの意味があるのでしょうか。科学的がもたらすものとは何でしょうか。4日も経てば、そりゃ、臭くなっているでしょう。それが科学的な常識とある人は言うでしょう。けれど、その常識には何の希望もない。とイエス様はこうおっしゃっているのではないでしょうか。
 信じるなら、神の栄光を見る。これが聖書の語るところです。イエス様は私たちの常識で図ることのできるお方ではありません。全ての生きる者に、命を与え、そして取られる方です。命を統べ治めたもうお方。このお方を前に、私たちのちっぽけな常識がいったい何の意味がありましょうか。「ラザロよ。出て来なさい。」死者の中に数えられていたラザロは、愛する家族のもとに帰って来たのです。
 私たちはどこかで思ってはいないでしょうか。死は全ての終わりであると。死を前にしては、何者も勝利することはできないと。マルタとマリヤも同じでした。彼女たちも、死の先を見ていなかった。イエス様の奇跡も愛情も、生きている間でなければ何の意味もない。と、そう常識に照らして理解していた。確かに彼女たちはイエス様を信じている。イエス様に信頼している。それでも、弟の死という圧倒的な現実の前では、彼女たちはもう何の希望も持てないでいる。でも、そうではないのです。イエス様はその死にすらも勝利される。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか。」(11:25-26)とイエス様は挑戦しておられるのです。
 信じられません。と答えることは簡単です。死んだら終わりと。けれど、よく考えていただきたいです。信じられないと答えるその先に、あなたはどのような慰めを見るのでしょうか。人は死んだら終わり。だから、愛する人を失ったあなたの悲しみは当然。時間が解決してくれるよ。とでも言うのでしょうか。冗談じゃない。時間が経てば解決するのでしょうか。その程度の痛みでしょうか。時間が経つほどに、失った欠けの大きさを知るということがあるのではないでしょうか。そして時間は自分の死をも近づけるのではないでしょうか。死んだら終わり。という結論が今度は自分自身の生涯の終わりを飾ろうといたします。これまで生きてきたその生涯が全く無意味に変わり果てるその時が来る。その時、私たちはどのようにこの現実を迎えるのでしょうか。死んだら終わり。だから今を楽しもう。嫌なことは忘れてしまおう。・・・それは全く解決とは程遠いものです。
 私たちの希望は、死が終わりではないというものです。死の先がある。よみがえりです。永遠のいのちです。天の御国の約束です。「わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせることなのです。」(6:40)

230402 伝道者の書3:1-11 「すべてのことには時がある」

伝道者の書3:1-11 「すべてのことには時がある」

 1節から8節まで、人生における様々な時を、詩人は数え上げています。生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。植えるのに時があり、植えた物を抜くのに時がある・・・。人生の経験を積まれた方ほど、しっくりくる詩ではないでしょうか。ああ、たしかにそうだな。あんなこと、こんなこと、色んなことがあったな。と、この詩を詠んで思われるのではないでしょうか。そして、だから慌てても仕方ない。どうしようもない。なるようになるさ。とそんな風に思われることでしょうか。
 しかし、これはただ単にそんなことがあるよね。人生を振り返っているのではありません。それらは人生の中でたまたま降りかかった出来事ではなくて、その全てには、神の設けられた時、神のご計画の時があったと言っているのです。私たちの人生のあらゆる場面は、偶然そこにあるものではなくて、神の采配なんだと。そこには神の意志が働かれていると言うのです。
 「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることができない。」
 そして、それらいっさいの神の采配は、すべて時にかなって美しい。最もふさわしい時、最も最善の時になされるんだと、こう言っているのです。石を拾い集め、投げ捨てることにすら、神の用意された時がある。神のご計画があると言うのです。確かに私たちは、その時、その時で起こる出来事を時に受け入れられないことがあります。なんでこんなことが、と疑問に感じる。不満を感じる。そんなことがあります。人生の様々な出来事を、全て割り切って受け入れられるほど、私たちは達観してはおりません。私たちはいつも降りかかる出来事に、懸命に、精一杯に、その瞬間瞬間を関わり続けるしかありません。
 けれど、それらはすべて、神のご計画の中で設けられた時だと聖書は言うのです。私たちも経験があると思います。その時にはわからない。意味を見いだせない出来事が、時が経って、振り返るときその意味を知るという経験です。渦中から抜け出た時、そこに確かに主の采配を見る。主のご計画を知る。ということがあるのです。私たちは良くも悪くも今という瞬間を生きています。今起こる出来事と向き合い、時に苦闘し、時に喜びます。その時、その瞬間の出来事に必死に関わり続けています。後になってしかわからないという出来事の中で私たちの心は騒ぎます。いったい神はどこにいったんだとです。けれど、違います。自分の思いどおりにいかないことが神の不在を意味するのではありません。「しかし人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることができない。」とあります。私たちは、自分の人生の当事者であって、俯瞰者にはなれません。私の人生にこれから何が起こるのかは誰も知りません。けれど、神の視点はもっと壮大です。神は知っておられます。私の人生の始まりから終わりまでを見極めて、その上で、最も効果的な、最もふさわしい時を用意してくださる。ここしかない。という今を用意してくださるのです。神は永遠という中から、その時、その瞬間を用意されているのです。神はその人生を逆算して、必要な備えを用意してくださっています。主の山には備えがあるのです。
 私たちの人生の初めから終わりまでを知って、時を備えてくださるお方がおられます。確かに有限である私たちは永遠の神が行うみわざを見極めることはできません。ですから、今、その瞬間を懸命に、苦闘して生きる。それはその通りし、それで良いのです。けれど、それでも私たちは失望する必要はありません。それは私たちには見えないけれど、その時にはわからないことばかりだけれど、確かに主は共におられ、確かにそれは主のみこころの時なのです。