ヨシュア6:1-21 「安心と慢心」
エリコという町は古くは「なつめやしの町」と呼ばれるオアシスで、世界最古の町の一つと言われています。前8000年期初頭にはすでに町があったことが考古学によってわかっています。長い歴史の中で、たびたび侵略者によって破壊されるという経験を持ち、それゆえ高い城壁に囲まれた難攻不落の要塞都市の形態を取っておりました。ですから、エリコの町を征服できれば、残りのカナン征服も決して夢物語ではない。逆に、エリコを征服できなければ、その後の歩みもあったものではない。エリコの町を征服するというのは、まさにカナン征服の指標となる戦いであったわけです。
さぞや、犠牲を伴う大きな戦いだったのだろうと想像いたします。ところが、イスラエルのエリコ攻略は大変不思議なものでした。それは町の周りを角笛を吹きながら、ぞろぞろと練り歩くだけというものだったのです。それが一体何の意味があるのか、歩いている彼らも、そして町の中の住人たちもわからなかったのです。主がそのようにするようにと命じられたので、イスラエルは従った。しかし、七日目七周の後、一斉に角笛を吹き、ときの声を上げると、難攻不落の城壁がガラガラと崩れ落ちたのです。そして裸の町となったエリコは難なくイスラエルによって征服されたのでありました。この戦いが真に主の戦いであったこと。主の戦いに必要なのは、従順であるということがわかります。
さて、エリコの町はなぜ滅びたのか。もちろん、イスラエルが真の神を信じ、エリコの人々が信じていなかったということはあります。それはそうです。しかし、それだけではない。それは彼らが城壁を持っていたという理由もあるでしょう。
イスラエルの人々が町の周りを練り歩いていたとき、エリコの人々はいったいこれをどのように見ていたでしょうか。気味悪がったでしょうか。訝しがったでしょうか。しかし、町を回るイスラエルに矢の一本も打たない様子を見ますと、エリコの人々は実は何の気にも留めていなかったというのが事実のようです。そうです。彼らにとってイスラエルの人々の振る舞いなど眼中になかったのです。城門を突破するために攻めてくる様子もなし。城壁にはしごをかけて登ってくるでもなし。遠くから矢を射掛けてくるわけでもなし。町の外を幾ら練り歩いたところで、それがいったい何の意味がありましょう。強いて言えば多少薄気味悪いくらい。それに、たとえイスラエルが本気で攻めてきたとしても自分たちには鉄壁の城壁があるわけです。この壁の中にいる限り、何者も自分たちに傷をつけることはできない。ですから、彼らはこの城壁の中でいつもと変わらぬ生活を営み、平和を信じて疑わなかったのです。彼らの毎日は緩みきっていたのです。もしも場外を歩いているイスラエルに対して、城門を開いてその横腹を突いたとしたら、また城壁の上から矢を射掛けていれば、それは一方的な勝利を収めることができたはずです。難攻不落の自慢の城壁。それが丈夫であればあるほど、それは彼らの慢心となっていきました。外の世界に関心を寄せなくなりました。結果、彼らは神の奇跡によって敗れ去ったのです。
城壁を築くことは、私たちに安心をもたらします。しかし自分を覆い囲み、外に関心を寄せることなく内に篭もること、外との関係を遮断することは、結果的に私たちの滅びをもたらすのです。もちろん城壁自体が悪いのではありません。それは本来、身を守る術です。注意すべきは慣れです。そして、これは罪との戦い、サタンとの戦いにおいても言えることなのです。慣れというのは恵みに対しては感謝を失わせ、罪に対しては後ろめたさを奪い取ります。危機感を無くし、毎日が緩みきり、そして気付くと罪に絡め取られているのです。注意しなければなりません。安心と慢心は紙一重と言います。私たちが躓くのは、試練の最中よりもむしろ平和においてなのです。

ルカ18:31-34 「決意のエルサレム」
ルカの福音書を読みますと、イエス様がどこか屋内かどこか留まっておられて、さぁ、これからエルサレムに上っていきますよ。という出発の場面を想像しますが、実際にはマタイやマルタの福音書にありますように、これはその道中の場面。イエス様が先導に立って歩き、弟子たちが慌ててついて行く。そういう場面でありました。イエス様自ら、率先して前を歩かれるのは別段珍しいことではなかったことでしょう。しかし、マルコの福音書では「弟子たちは驚き、ついて行く人たちは恐れを覚えた。」とあります。
想像をしてみましょう。イエス様が一人、先頭に立って足早に歩いておられます。弟子たちは慌ててその後を追いかけ、さらにその後を大勢の人たちが戸惑いながら追いかけます。どうしてそんなに急がれているのですか。そんな言葉が喉まで出掛かっていながら、お顔を覗き込んで、はっと言葉を飲み込みます。ただならぬ雰囲気がイエス様にはあるのです。いったいどうされたのだろう。弟子たちも人々も恐れを覚えるほどでありました。
そんな様子を見て、イエス様は弟子たちをそばに呼んで話し始められます。「ご覧なさい。わたしたちはエルサレムに上って行きます。人の子について、預言者たちを通して書き記されているすべてのことが実現するのです。人の子は異邦人に引き渡され、彼らに嘲られ、辱められ、唾をかけられます。彼らは人の子をむちで打ってから殺します。しかし、人の子は三日目によみがえります。」イエス様のただならぬ雰囲気。それはエルサレムに向かうからだと説明されるのです。イエス様の目は遠くエルサレムを見ておられる。だから人を寄せ付けぬ面持ちで歩かれていたのです。
イエス様は今までよりも詳細に、ご自身の身に起こる受難の様子を語られます。それはいよいよ十字架が近づいてきたことを意味しています。エルサレムへの道。それは受難への道に他なりません。険しくて、孤独で、希望のない道。しかし、イエス様はこの道を逃げ出しません。これこそが神様のご計画であり、これだけが人類の罪を贖う唯一の方法だからです。ですから、イエス様のお姿が弟子たちに恐れを生んだというのは、ある意味当然の話でした。イエス様は相当の覚悟をもって人類の最大の敵である死に向かって歩まれていたからです。
実は私たちにも、それぞれのエルサレムがあるのです。私たちの人生には苦難が待ち構えていると知りつつも、進まなければならないという場面がある。命を懸けるべき時があるのです。
皇帝ネロの時代のことです。ローマの大火に対する民衆の不満のスケープゴートとしてキリスト教徒への迫害が起こりました。キリスト教徒は片っ端から捕らえられて円形競技場に送り込まれ、飢えた獅子が放たれるのです。そのような中迫害を逃れて、ローマを後にし、アッピア街道を歩く2人のキリスト教徒の姿がありました。老使徒ペテロと子どもの弟子。あなたたちは死んだ兄弟たちの希望だからと、他の信徒たちに急かされて、泣く泣く兄弟姉妹を置いてローマを出るペテロ。しかし、そんなペテロにキリストの幻が近付くのです。「ドミネ・クォ・ヴァディス」「主よ、どこに行かれるのですか。」キリストは答えます。「あなたが私の民を捨てるのなら、私はローマに行ってもう一度十字架に架かろう」しばらくの後、ペテロは今来た道を静かに引き返していくのです。こどもの弟子が尋ねます。「ドミネ・クォ・ヴァディス」ペテロは答えます。「ローマへ」。この後、ペテロはローマで殉教するのです。イエス様の決意をその傍らで見ていたペテロは、後に自らもまたイエス様の道に倣います。なぜなら、ペテロはその道が勝利の道であることを確かに見ていたからです。
私たちはいただいた使命の大きさに、尻込みするかもしれません。目の前の試練に対して、足が竦んで一歩も前に出なくなるかもしれません。それは殉教の道かもしれない。けれど、それは勝利に繋がる道でもあるのです。イエス様は逃げ出さず、まっすぐにエルサレムに向かわれました。ペテロもローマに引き返しました。それは愚かな行為ではありません。主に従う者には備えが用意されています。主は私たちのその決意を心から喜んで下さいます。

ヘブル11:13-16 「天の故郷」
ヘブル書11章は旧約聖書に記される信仰者の列伝であります。目に見えないものを確信し、その生涯を全うした信仰の先達たちを一人ひとり数え上げて、信仰とは何か、信仰に生きるとは何かを伝えています。
ヘブル書の記者は信仰者の生き様を幾つも確認した上で言います。「これらの人たちはみな、信仰の人として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました。」(ヘブル11:13)そして更には、ヘブル13:14-15で「私たちは、いつまでも続く都をこの地上に持っているのではなく、むしろ来たるべき都を求めているのです。それなら、私たちはイエスを通して、賛美のいけにえ、御名をたたえる唇の果実を、絶えず神にささげようではありませんか。」と言って結論付けています。
地上の歩みだけを考えれば、信仰を持たずとも要領よく生きている人は幾らでもいます。私たちも無理せず周囲に妥協して生きたほうが、無難に生きることができるでしょう。けれど、私たちが愛する人に伝えたいこと、次の世代に継いでいきたいことは、そういうことなのでしょうか。先人たちから伝え聞いたことはそのようなことだったでしょうか。「賢く生きなさい」ということでしょうか。そうではなくて、私たちは後に来る都を求める者です。天よりの祝福をいただく者です。たとえ試練の中にあろうとも、それが神にあって無駄ではないということを信じている者です。だからどのようなときも、たとえ迫害の中にあっても、変わらずに賛美のいけにえをささげることができると言っているのです。私たちの信仰は決して無駄には終わらない。そのことは、どうでしょう。先に召された兄弟姉妹を思い浮かべれば明らかではないでしょうか。ユダヤ人たちはノアを思えば、そしてアブラハムを思えば、信じることの幸いを得ることができました。私たちも同様ですが、正直言って、ノアよりも、アブラハムよりも、この召天者のお写真から思うのです。最後まで信仰に生きることの幸いをです。
ヘブル11:16には「しかし実際には、彼らが憧れていたのは、もっと良い故郷、すなわち天の故郷でした。ですから神は、彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。神が彼らのために都を用意されたのです。」とあります。私たちが普段から、天の故郷に憧れて過ごすということが大事なのです。天の故郷を見た人は一人もおりません。憧れよ。と言われても、憧れるほどに思い浮かばないというのが正直なところではないでしょうか。でも、そこにおられる兄姉のことはどうでしょうか。天の故郷は先に召されたお一人お一人がおられるところです。その再会の場です。最後まで信仰を誇りとして生き切ったそのお一人お一人がおられるそのところ。だからこそ、その再会を覚えて、恥じることなく今を送ろうと決意するのです。
私どもの教会でも、このコロナ禍の中でお二人の召天者がおりました。お二人は今どうしておられるのでしょう。天において地上の労苦を労い合っている様子が、皆さんには容易に思い浮かぶのではないでしょうか。「私たちよくやったよね。」と肩を叩き合いながら、イエス様に褒めてもらっていることではないでしょうか。それこそが私たちの希望であり、慰めです。天の故郷は確かに用意されています。そうでなければ先に召された兄姉の信仰は無駄になってしまいます。しかし無駄ではありません。私たちが帰る故郷は確かにあります。この天地を造られたお方が、その住まいを用意してくださっているのです。そのために愛する御子を先にお送りになられたのです。私たちはそこでイエス様との対面を果たし、愛する者との再会を果たし、そして地上の営みを労い合うのです。

ルカ18:28-30 「後の者が先になり」
ペテロは、がっかりして去って行ったあの青年を見送りながら、「ご覧下さい。私たちは自分のものを捨てて、あなたに従って来ました。」とイエス様に言いました。「金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです。」そのようにイエス様が言われたのを聞きまして、弟子たちは大変驚きました。あんなに立派な青年指導者ですら入れないとしたら誰も入れないんじゃないだろうか。ペテロの目から見ても、あの青年は立派で評判の良い人物だったのです。ならば、自分はどうなんだろうか。神の国に入れてもらえるのか。確かめないではいられないのです。
「ご覧下さい。私たちは自分のものを捨てて、あなたに従って来ました。」自信過剰な物言いにも聞こえますが、事実、彼らは多くのものを捨てて、イエス様に付き従いました。ペテロとアンデレは網と舟を捨てて、父親すらをもそこに置いて従いました。他の弟子たちにしても同じです。仕事も人間関係も、その場においてイエス様に従ったのです。青年は帰ったけれど、ペテロたちは付き従った。それだけでもペテロたちの覚悟というものが表れています。だから、私たちは大丈夫ですよね。何とかその確証をいただきたいペテロです。
イエス様は答えられます。「まことに、あなたがたに言います。だれでも、神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子どもを捨てた者は、必ずこの世で、その何倍も受け、来たるべき世で、永遠のいのちを受けます。」イエス様はペテロの主張を否定いたしません。むしろ彼らの献身を評価し、その信仰の報いについてを語られるのです。それは犠牲としたものの何倍の報いを受けるという想像できないほどの豊かな恵みの約束でありました。
大事なのは「何を」ではなくて、「何のために」という犠牲の目的です。「神の国のために」。これが大事です。これを忘れてしまっては、先の青年役員と同じです。「自分のために」犠牲を払ってるに過ぎません。「自分のために」家族を捨てた。何かを捨てた。しかしこれは単なる自分満足に過ぎません。
「だれでも、神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子どもを捨てた者は、必ずこの世で、その何倍も受け、来たるべき世で、永遠のいのちを受けます。」とあります。これが主の約束された祝福です。ですから、私たちは視点を変えてみる必要があるのです。手放すことは損をすることに思えるかもしれません。けれどそうではありません。神様は、従う者には天においても地においても、溢れんばかりの祝福を用意していると約束しておられるのです。ですから、今、私たちが必死に握りしめているものが、もしも信仰の邪魔となっているならば、私たちは喜んでそれを手放すべきです。手放すことは損することではありません。むしろ受けるための準備だからです。
もちろん、だからと言って、皆さんの財産を今すぐに売り払いなさいという話ではありません。もっと霊的な話です。私たちの人生を確かにするのは、私たちの手放せないそれではなくて、神様ご自身なんだと教えているのです。
実はルカの福音書では省かれていますが、共観福音書であるマタイとマルコを見ると、このイエス様の言葉には続きがあったことがわかります。「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になります。」(マタイ19:30)とです。神様の価値観はこの世のものとは全く違います。この世の価値観では、先の者が先、後の者は後なのです。それが合理的であり、矛盾がありません。けれど、神様の価値観は違います。後の者は先になり、先の者は後になる。一見、損をするようでいても、神様の前にある者は余計に受けるのです。ですから、この箇所は手放せというメッセージではなくて、より多くのものをいただくために立ち振る舞いなさい。というものです。主のために、福音のために、私たちが捨てるとき、私たちはより多くの物を受けとることが約束されています。

創世記41:46-57 「一繋ぎの歴史」
ファラオの夢を解き明かしたヨセフ。その夢はこれからエジプトにやって来る7年間の大豊作と、さらに7年間の大飢饉を意味しておりました。ヨセフは豊作の7年の間に飢饉に備えるようにと進言いたします。するとファラオはその場でヨセフを宰相へと取り立てまして、エジプト国内を取り仕切るようにと命じるのです。
ヨセフの身に起きた出来事が如何に驚くべきかがお分かりでしょうか。ヨセフは囚人だったのです。囚人がファラオの前に出ることすらあり得ないのです。ましてやその者が国の要職として取り立てられるということなど前代未聞なのです。もしも、これがファラオ自らによる呼び立てでなければ・・・。また解き明かしの内容が一国を左右するほどの飢饉の知らせでなければ・・・。ヨセフの解き明かしに過去の実績がなければ・・・。あらゆることがこのタイミングでなければ絶対にありえないというタイミングで起こったのです。
ですから、たとえば監獄での2年間の我慢は彼にとって必要な2年間でした。もしも、さっさと監獄から出ていれば、今頃ヨセフはどこで何をしていたのかわかりません。監獄の中というのは言わば、安全に居所が確保されるという利点があったわけです。だから結果として、彼はファラオの招集に即座に応えることができたのです。また、ファラオの召集のカギとなった献酌官と出会うためには、彼よりも先に監獄にいる必要がありましたし、その時に囚人の世話役として選ばれるように監獄長の信頼を得ている必要がありました。監獄もどこの監獄で良いというわけではありません。侍従長ポティファルが管理していた監獄でなければなりません。また、そもそも奴隷として売られるのも、他のどの国でもなくて、ナイルの恵み豊かなエジプトでなければなりませんでした。ヨセフのこれまでの人生を一言で言うなら、それは運の無い人。タイミングの悪い、不幸な人であります。しかし今というこの地点から遡って見て行きますと、その一つ一つ不運が実は無くてはならない、今に至るための大切な過程であったことを見るのです。
過去と現在は一繋ぎの歴史です。現在と未来もまたそうです。人生を切り分けて考えるのではなくて、すべては結びついていると考えるとき、そこに無駄なものは一つもありません。そして、このような理解に立って考えるとき、ヨセフという人の人生そのものの意味がまるっきり違ってきます。それは不運な人生ではなくて、確かで無駄の無い人生。全て神の最善を通らされてきた人生です。
苦しみと思えたことが意味あることとして光り輝くのです。もちろん困難は依然として困難であります。信仰を持ったから苦しみから解放されるというのは単なる願望です。しかし、一方で困難は無駄ではない。苦しみは無意味ではない。という発見は私たちを絶望の淵から立ち直らせるきっかけとなるのではないでしょうか。重要なのはなぜ無駄ではないのか、なぜ無意味ではないのかということです。それは神のご計画の中にある過程であるからです。神が立てておられるゴールがまだ先にあるからです。ですから、まだ私たちが人生を評価する時ではありません。まだ諦めるときではありません。むしろ神が私の人生を通してなさろうとすることに、尚も期待を寄せるべきではないでしょうか。
ヨセフにとってもここはまだ通過点。神様の導きの不思議は徐々に明らかになりつつも、未だその全容は見えません。宰相となったヨセフはファラオの期待に応え、見事、大量の穀物を町々に蓄えることに成功いたします。おかげでエジプトの国は7年にも及ぶ大飢饉を無事に乗り越えることができました。しかしそれは単にエジプトが飢饉を乗り越えるに留まりません。それは周辺国、同じ飢饉で苦しむあらゆる民をも救うことにもなりました。そしてそれはつまりヨセフの家族。神の民イスラエルを救うことにもなりました。この一族をして、人類の救い主の誕生が世に伝わることとなるわけですから、ヨセフの存在のなんと大きなことでしょうか。
私という人生の一繋ぎの歴史は、実は私だけに留まらず、脈絡と繋がる神のご計画の歴史でもあるのです。つくづく思います。私たちの人生は私たちの思い通りになるのではなく、私たちの思いを遥かに超えたものとされるのです。一人が欠けていれば今に繋がっていないのです。もちろん私たちが欠ければ後には繋がりません。何ができるか、と大層なことではなくて、私が信仰に留まっているということが主のご計画に用いられることなのです。

Ⅱサムエル12:1-12 「権力に媚びず」
通りよき管となるために、教会とこの世との関わりを考えるとき、私たちがこの地にあって担っている預言者としての働きを理解することはとても大事です。と言いますのも、ご承知のように、教会が権力と迎合することの危険を私たちは今まさに進行形で見ているからです。ロシア国内でこの戦争について肯定的な国民がいることの一つの要因は、ロシア正教会のキリル総司教によるプーチン大統領支持にあります。「ウクライナとの戦争で死亡したロシア兵は全ての罪を清められる。」いったい何を根拠に罪が清められるのでしょう。その発言に聖書的根拠はありません。それは極めて政治的な発言です。元々ロシア正教会に所属していたウクライナ正教会の独立に対する報復処置であり、利害関係を共有するキリル総司教とプーチン大統領による聖書の捏造です。そしてこれが教会が政治的独立を保たなければならない理由です。教会が権力と結びつくとき、教会は語るべきことばを失うのです。
これは決して他岸の火事ではありません。日本においても同じことがありました。長いものに巻かれて、語るべき言葉を失い、神の前に罪を犯した歴史があります。神の言葉とこの世の言葉に折り合いをつけて、信仰を偽った時代があるのです。そして今また、きな臭い空気が漂っています。私たちが預言者としてあることが問われるのです。
イスラエルで最も偉大な王と言えばダビデですが、彼が完璧な王であったかと言うとそうではありません。彼も罪を犯します。それも取り返しのつかない罪。彼は人妻であるバテ・シェバを召し入れて身ごもらせ、事を誤魔化すために、夫ウリヤを戦いの最前線へと送り込むのです。そして思惑通りウリヤは戦死いたしました。王としてあってはならない蛮行。しかし幸いだったのは、この時代に預言者ナタンがいたことです。「あなたがその男です。」ナタンは言い逃れができないほど激しくダビデを断罪します。この罪の結果バテ・シェバとの間の子は死にました。けれど罪が明るみに出されたことによって、ダビデは自らの罪を悔い告白いたします。「私は【主】の前に罪ある者です。」ダビデ自身は彼の悔い改めのゆえに赦されたのです。彼の王位は次にバテ・シェバとの間に生まれたソロモンが継いでいくこととなるのです。
この場面、ダビデの王位が途絶えることもあり得た大きな分岐点でありました。ダビデが罪を悔いなければダビデの王位は失われていたことでした。しかしそこにナタンがいた。預言者の存在が国を存続させたのです。ダビデと言えど間違いを犯します。人は皆罪を犯します。けれどその時、自らの罪に気付き、悔い改めることができるかどうかは、そこに正しい罪の指摘があるかにかかっています。
なぜナタンにはそれができて、キリル総司教にはできないのでしょう。それはナタンにはダビデ王との間に利害関係も君臣の関係もなかったからです。彼は常に王の上に立つ権威、天の主権にこそ従っておりました。地上の権威からは一定の距離を保っていた。だから王であるダビデを恐れることも媚びることもせず忠告できたのです。教会は権威に擦り寄ってはいけません。それは語るべき言葉を失うことになります。預かった言葉を閉ざすことになります。それは教会としての使命を失うことでもあります。
そしてナタンの根底にはダビデに対する憐れみがありました。彼はダビデを神格化しません。それはつまり、ダビデの人としての弱さを受け止めていたということです。王であろうとも罪を犯すという弱さの余地を認めていました。王だから1ミリの過ちをも許さないという過度な期待はそこにはありません。ただただ一人の罪人の裁きを案ずる情け深いナタンです。だからこそ正すのです。
王といえど、大統領や総理大臣といえど、いえ、天皇と言えど罪を犯します。私たちは人としてのその弱さを認めてやるべきです。そしてだからこそ憐れみをもって祈り、そして忠告しなければなりません。「あなたがその男です。」決して裁くことが目的ではありません。立ち返らせるために。やり直させるために。私たちが神の言葉を失わないためにです。
