ヨシュア21:1-26 「レビ人の取り扱い」
12部族の相続地についてが15章から19章まで続き、20章ではのがれの町についてが記されています。そして続く21章はレビ人に与えられる土地についてが記されます。レビ人はゲルション、ケハテ、メラリ族に分かれます。ケハテ族は天幕の中にある祭具を扱い、ゲルションは天幕の幕を、メラリ族は板や横棒を運搬しました。この3部族の割当地が以下の通りです。
ケハテ族へは、ユダ、シメオン、ベニヤミン族から、13の町が祭司アロンの子孫のものとなり、エフライム、ダン、マナセの半部族から、10の町が残りのケハテ族のものとされました。
ゲルション族へは、イッサカル、アシェル、ナフタリ、バシャンのマナセの半部族から13の町。
メラリ族へはルベン、ガド、ゼブルンから、12の町。
この所からわかるのは、レビ人は独自の相続地を持たず、居住する町を12部族から提供されたことです。彼らは相続地を持たないため他の部族から収穫の10分の1を受け取ることとなりました。
しかし、これはどうなんでしょう。今、相続地が分配されているわけですが、実際それは彼らがこれから戦いに勝利して勝ち取っていくものです。命をかけて手にする相続地なのです。ところがレビ人はその地の一部を無条件に手にすると言う。そして、収穫の10分の1を我が物とする。別の部族からは、このレビ人の取扱いに文句は無かったのでしょうか。一見不平等にも思えるレビ人の取り扱い。しかし、この関係を維持することが、彼らの神の民としてのアイデンティティを形成することになりました。つまり、レビ人は神の所有物という理解です。レビ人に捧げるのではなくて、それは神に捧げられたものという理解です。彼らはレビ人に10分の1を提供することで、神に仕えるのです。第一、レビ人はあくまでも住む所と収穫物の10分の1は供給されますが、それは所有物とはなりません。その所有は神のものですから。彼らは財産を蓄えず、神の恵みによって生きるのです。
今日の教会も同じですね。例えば、牧師の謝礼は教会会計から出されます。それはすなわち、献金から出されているということです。だから、ともすれば私が牧師を養っている。という感覚を持つことがあるかもしれません。そして、私の献金で生活しているくせに、何で私の思い通りにしてくれないのかと不満を抱えたりもするかもしれない。けれど、やはり献金は神に捧げられるものなのです。神に捧げられたものを教会は管理し、牧師の謝礼やその他の必要を満たしています。ここを履き違えると教会生活は破綻します。自分の思い通りにしようとしてしまう。自分が教会の主でなければ我慢がいかなくなってくる。。。昔から「沢山捧げる人は沢山口も出す。」と冗談ぽく教会では言われたりします。けれどそれは確かに誘惑なのです。社会的にはそれは当然の権利でしょう。会社の株を1%でも多く持つ者が主導権を持つ。これは世のルールです。けれど、それを教会に適用することはできません。なぜなら教会の主はイエス様だからです。マタイ6:3-4には「あなたが施しをするときは、右の手がしていることを左の手に知られないようにしなさい。あなたの施しが、隠れたところにあるようにするためです。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」とあります。これが私たちが捧げるときの原則です。
そして、もう一つ。このレビ人に与えられた地には、彼らの住む町と共に、各地に放牧地と逃れの町が用意されたということです。このことは何を意味するのでしょう。それはつまりレビ人の役割は、人々のとりなしにあるということです。放牧地とはとりなしのための生贄の羊を育てるための地のことであり、逃れの町は殺人の罪を犯した者たちの救済の場です。といっても殺人鬼を許すということではありません。誤って人を打ち殺してしまった者が、人々の復讐から逃がれるための場です。そのような町の管理がレビ人には与えられました。レビ人は罪を犯し、復讐に怯えるその人を保護する役割を担うのです。実は教会も同じです。教会の目的はとりなし、赦すことです。そこに迎え入れるべきは、罪に自覚し、そのことのゆえに苦しむ魂です。教会はそのような魂を保護する役割を担っているのです。ですから教会は義しさではなくて、愛を持って迎え関わるのです。

ルカ19:1-10 「取税人ザアカイ」
「彼は取税人のかしらで、金持ちであった。」とあります。この時代、エルサレムを含むユダヤ地方はローマの属州となっておりました。ですからユダヤで集められた税金は、ユダヤのためではなくてローマ帝国のために使われるのです。ユダヤ人からすると、本来なら神に捧げられるべき献金が神を知らぬ異教徒どもに巻き上げられているという感覚です。そして取税人はそのような者たちの手足となって働いている。彼らはローマの手先・売国奴と見下されていたのです。しかも税金の取立ては請負仕事でしたから、決められている規定額以上の金額を徴収して差額を着服するということが習慣になっておりました。ですから尚のこと、取税人たちは憎まれておりました。そのエリコの取税人のトップにザアカイがいます。ザアカイがどれほど人々から嫌われていたかは容易に想像がつくことではないでしょうか。
疑問なのは、なぜザアカイは取税人になったかということです。取税人がどれほど嫌われる職業か、当然ザアカイも知っていたはずです。取税人には誰もがなれるわけではありません。少なくとも語学が堪能で計算にも強くなければなりません。それなりに年月をかけて準備しなければ取税人にはなれないのです。それだけ優秀ならば他にも就ける職業は沢山あるように思います。ですから、わざわざ取税人になるという人はそれなりの事情がある人です。
ではザアカイの事情は何でしょう。聖書には「背が低かった」とあります。もちろん、これは想像になりますが、ザアカイがわざわざ取税人になろうとした理由に、彼の身体上の特徴があったと推測するのです。つまり当時のユダヤ社会において、身体上の特徴が罪から来るという間違った理解があったからです。ある時イエス様一行が、生まれつきの盲人と出会ったときのことです。弟子たちはイエス様に尋ねました。「先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」もちろん根拠のない話です。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。」イエス様ははっきりとそれは罪の結果ではないと語っています。けれどこのやりとりは、当時の人々の一般的な理解がそのようであったことを証言しているのです。
であるならば、ザアカイはユダヤ社会の中で、もとより偏見の目にさらされていたということでしょう。彼はユダヤ社会の中でずっと生き辛さを感じていたのです。そしてその劣等感の裏返しが、奴らを見返してやろう。搾取する側になってやろう。と、なったのでありましょう。けれど本当は違うのです。本当は周囲に認められたかった。他の人と同じように扱ってほしかった。けれど、それが叶わない。願うほどに傷付いていく現実に、彼の心は疲れ果ててしまったのです。ですから彼はローマという新しい社会に居場所を見出すしか無かった。けれど、やっぱりどこかで繋がりを求めていた。本当は身近な者たちに、同族たちに受け入れられたい。認められたい。そういう気持ちを抱えていたのでありましょう。
彼はイエス様を一目見ようといちじく桑の木に登ります。私はザアカイという人は人一倍強がりな人だと思います。本当は羨ましいのです。人混みを掻き分けてでもその中に交ざりたいのです。けれど、プライドがあって自分から交ぜてくれとは言えないのです。ここで折れてしまえば、今までの人生が無駄になるように感じるのです。だから精々、人々の群がりを木の上から眺めることしかできないのです。しかし、イエス様はそんなザアカイのもとに歩まれて言われます。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから。」誰かと交わりたい。誰かと心を通わせたい。イエス様はそういう彼の心の渇きを全てご存知かのように呼びかけられたのです。このイエス様との出会いがザアカイを救い、そして変えます。お金だけにしがみついてきた彼、ひがんで素直になれなかった彼が主の愛に触れて、他人に施す者となるのです。
私たちは自分で自分を変えることはできません。けれど、私たちを一瞬にして変える出会いがあるのです。その時が来れば私たちは変えられます。それはイエス様との出会いです。イエス様が呼びかけてくださるなら、その人は変えられるのです。ですから、焦る必要はありません。変われない自分を嘆く必要はありません。その時が来れば、主の呼びかけがあれば、それは一瞬です。イエス様を見続けていることが大事です。興味本位でも良いのです。いずれ、神さまの呼びかけに気付く時が来るのです。

ヨシュア15:48-63 「ユダ族の陰で」
説教者泣かせとはまさにこのことです。いったいここから何を学べば良いのでしょう。20節から記される土地の記録は、ユダ部族の相続地です。北と南で連合軍を打ち破ったヨシュアは高齢となり、後は各部族に土地の切り取りを任せることにします。そこで12部族の相続地を割当ることにするのです。ヨルダン川の東の土地は、すでにルベンとガド、そしてマナセの半部族に割り当てられておりましたので、残りの9部族半の土地が新たに割り当てられました。
地図を見てもわかるようにユダ部族が最も広範囲の土地を相続することとなりました。これはユダが兄弟の中でとりわけ優秀だったとか、認められていたとか、そういうことで割り当てられたのではありません。あくまでもくじによって選ばれました。くじによるということはそれ以前に土地の分割がされていたということです。土地をあらかじめ10分割して、その後、それぞれに対応するくじを引いて割当地を決める。そして当然のことながら、くじを引く前の土地を分割する作業は各部族が納得の行くように線引されたことでした。どこに当たっても文句の無いように線引する。つまり不毛な地は広大に。収穫高の豊かな土地は狭めにして。ですから土地の広さによるのではなくて、石高によって線引がされたわけです。
そのような中でユダ部族がくじを引き、カナン南部の一番大きな土地が割り当てられました。それはつまり一番不毛な地、旨味の無い地が割り当てられたということでもあります。カナン南部の山地は砂漠に近い荒野であり、隣接する湖はガリラヤ湖とは違って魚の住まない塩の海です。唯一、海に面した肥沃な土地は海の民ペリシテ人が陣取っておりました。それらを切り取っていかなければならない。くじで割当地が決まったとき、ユダ部族の間にはひときわ緊張感が走ったことではなかったかと想像します。しかし、困難を極める役割にはそれを助ける役割も用意されています。士師記の1章に、ヨシュアの死後、ユダ族が割当地を占領していく様子が記されていますが、その際、ユダはシメオンと協力して戦ったことが記されています。実はシメオン族の割当地はユダ族の中から取られました。19:9には「シメオン族の相続地はユダ族の割り当て地から取られた。ユダ族の割り当て地が彼らには広すぎたので、彼らの相続地の中にシメオン族は相続地を受けたのである。」とあります。つまり、このカナン南部を引き当てた部族には、あらかじめ別の部族が加わることが想定されていたわけです。そしてシメオン族がその役割を引き当てた。神のみこころによって決まったのでした。
シメオン族は通常失われた10部族に数えられます。けれど他の9部族とは違い、アッシリアによる捕囚によって途絶えたのではなく、早々にユダ部族に吸収されていったのです。シメオンはユダを陰ながらサポートする役割を担いました。民族の名前すら表に出さず、ユダ族と共に歩んだのです。そして神は時として、人をそのように用いられることがあるのです。教会でも表に出る人と、出ない人がいます。目立って活躍する人と、陰ながらに支える人がいる。しかし、それは主がそのように立てられたのです。目立たないから、前に立てないから仕方なくサポート役なのではなくて、その人が相応しいので、助けとなるべく置かれたのです。主の戦いは補い合うのです。ユダ族は表舞台を歩みます。けれど陰にあって仕える者ほど尊いということを私たちは覚えておきたいと思います。その人は天に宝を積んでいるからです。その者の報酬は主によって約束されているからです。

ルカ18:35-43 「懸命な叫び」
エルサレムに向かうイエスさま一行はエリコまでやって来ました。エリコはエルサレムの手前にあるパレスチナ最古の町の一つです。エリコとエルサレムを結ぶ道は、およそ1000mほどの高低差がある急な山道で、足場も悪く、山賊が多く出ました。それでもガリラヤからエルサレムへの旅は、サマリヤを避けて旅することが通常でしたから、ほとんどの人はヨルダン川沿いの道を下り、このエリコの町を通過して南西にあるエルサレムへと向かうしかありません。ですから、エルサレムへ上る旅人は、まずこのエリコで足を休め、集団を組んで、エルサレムへ向かいます。そういう意味でエリコという町は交通の要所であり、人々の集まる活気溢れる町でありました。
特にこの時期、もう少しで過ぎ越しの祭りが始まるというので、いつも以上に旅人で賑わっておりました。旅人たちは、これから宮に捧げものを捧げに行くわけですから、懐が豊かで、財布の紐も緩んでおります。また、少しでも善行を積んでおきたいと張り切ってもいる。そんな旅人たちをあてにして各地から物乞いたちも集まるのです。まるで三が日の神社やお寺のように、物乞いたちにとっても、この過ぎ越しの祭りの時期は掻きいれ時でした。
そんなエリコの町にイエスさま一行がやってきた。すると町の門の外の道端に座る、目の見えない物乞いの一人はただならぬ様子を感じ取り、周囲の人々に尋ねます。すると、ナザレ人イエスがお通りになる。と言うのです。彼はイエス様の名前を聞くと、すぐに大声で叫び始めました。「ダビデの子のイエス様、私をあわれんでください。」その鬼気迫る叫びに、人々は彼を黙らせようとたしなめます。しかし、彼はますます「ダビデの子よ。私をあわれんでください。」と叫びました。するとイエス様は立ち止まって、この盲人に興味を示され、近くに呼ぶようにと命じられたのです。
しかし、どうでしょう。このとき叫んでいたのは彼だけに留まらないはずです。過ぎ越し前の掻きいれ時なのです。大勢の物乞いが並んでいたのです。逃さないはずがありません。なのに、彼だけがイエス様に呼ばれた。イエス様の耳に届いた。それはなぜなんでしょうか。
イエス様が彼の叫びに応えた理由として考えられるのは2つです。一つは彼が諦めなかったこと。そしてもう一つが彼の願いが、主のみこころに適っていたということです。
誰かのとがめを受けて尚、行い続けるということは結構ストレスの感じることです。願いが聞かれないのに、願い続けるということはなかなかにできる事ではありません。私たちは何か困ったとき、苦しいとき、主に助けを願います。しかし、願い続けるということがなかなかできない者ではないでしょうか。少々の邪魔や困難が入りますと、また聞かれないと思うと、誰よりも前に自分自身が願うことを諦めてしまわないでしょうか。
けれど、主に願いを聞いていただく法則があります。それは失望せずに願い続けることです。シリア・フェニキア生まれのギリシア人の女性は、一度イエス様から断られましたが、それでも「主よ。食卓の下の小犬でも、子どもたちのパン屑はいただきます。」と引き下がらず、その粘り強い信仰のゆえに願いが聞かれました。イエス様がやもめが裁判官に訴える例え話をされたときも、同様の結論でした。イエス様は祈るとき、願うとき、声を大きくしろとは言われません。しかし失望せずに祈り続けなさいと教えておられます。この盲人も諦めませんでした。たとえ弟子たちから咎められても、かえって叫びの声をあげました。だから彼の声は主の耳に届いたのです。
しかしです。どんなに失望せず願い続けたとしても、それが自分勝手な、主の御心を損なう願いであるならそれは聞かれるはずはありません。彼は目が見えるようになることを願いました。けれど、彼の願いはその先を見ていました。「その人はただちに見えるようになり、神をあがめながらイエスについて行った。これを見て、民はみな神を賛美した。」(43)とあります。彼はイエス様について行ったのです。彼はこれまで人々の施しや憐れみによって辛うじて生きてきました。彼の人生の全ては受身でした。しかし、彼は目が見えるようになって、自発的に、イエス様の証し人となるべく、その人生を捧げたのです。目が見えることのその先に、主に仕えて生きたい。この願いが神に良しとされたのです。
私たちの叫びを今一度吟味いたしましょう。私たちの叫びは主の御心に適っているでしょうか。自分勝手な、欲望だけにはなっていないでしょうか。他人をおとしめる様な願いではないでしょうか。私たちの願いが主の御心に適うものとなるようにと、私たちは祈っていきたいのです。

ヨシュア11 「彼は一言も省かなかった」
エリコ→アイ→ギブオンと講和。着実にカナン攻略するヨシュア率いるイスラエルの民でした。 原住の民はイスラエルに対して危機感を募らせます。特にギブオンが事実上、戦わずして降参したことは諸民族は大変不安を募らせたのです。そこで南の諸王たちは手を組み、ギブオン攻略を試みました。しかしイスラエルが参戦し、主の御業によって天からの雹が軍を打ち、南の連合軍は瓦解してしまったのです。10:14には「【主】が人の声を聞き入れられたこのような日は、前にも後にもなかった。【主】がイスラエルのために戦われたからである。」とあるほどです。10章はこのカナン南部の征服についてが記され、11章からはカナン北部の征服についてが記されます。
カナン北部の王たちの動きは、カナン南部の王たちのそれと類似します。北の諸王たちもハツォルの王ヤビンを盟主として連合軍を形成し、イスラエルに対抗しようとしたのです。「海辺の砂のように大勢の兵で、馬や戦車も非常に多かった。」とあります。そこから見えるのは、これからイスラエルは絶望的な戦いを強いられるということです。モーセの出エジプトから始まるイスラエルのカナンへの帰還の旅はここで潰える可能性が高かったのです。しかしヨシュアは主の言葉に励まされ(6)、これを急襲しこれを大いに打ち破ります。ヨシュアは敵対する王たちの町を徹底的に聖絶するのです。私たちの目から見れば、それは何とも慈悲のない行為のように思います。軍隊だけではなく町を聖絶するということは、一般市民も聖絶するということです。私たちはこのような記事を見ると複雑な思いをするかもしれません。なんと残酷で容赦のない行為かとです。しかし、これは主の命じるところでした。ヨシュアがカナン征服においてもっとも気に留めていたのは、主の命に従うということでありました。「【主】がそのしもべモーセに命じられたとおりに、モーセはヨシュアに命じ、ヨシュアはそのとおりに行った。【主】がモーセに命じられたすべてのことばを、彼は一言も省かなかった。」(15)それは愚直なまでに従順。ヨシュアは主のことばどおり、カナンの町々を徹底的に聖絶いたしました。
しかしこれは、そこまで徹底しないと純粋な信仰を護ることは難しいということでもあるのです。カナン征服は具体的な征服という行為なので無慈悲に聞こえるかもしれませんが、ことサタンや罪との戦いを想像してみるとわかるかと思います。私たちはサタンに対して、温情をかけるべきでしょうか。もちろん、かけるべきではありません。罪に対して曖昧になっても良いものでしょうか。良いはずがありません。私たちはそれを徹底的に滅ぼし尽くさなければならないのです。ほんの少しのパン種が大きく膨れ上がっていくように、これくらい大丈夫と思う誘惑が知らぬ間に大く膨れ上がり、取り返しの付かない結果をもたらしてしまうからです。
つまり、カナンの地に住む住民たちは決して罪のない、無抵抗で、平和に満ちた民ではなかったということです。彼らは進んで連合を組み、イスラエルと戦うために武装した者たちであり、町々はそんな彼らを支持してイスラエルを根絶やしにせんと息巻いていたのです。実際にギブオンの民はイスラエルに和平を申し出たのです。そして彼らは生かされた。つまり争わない道もあったのです。けれど彼らはそれを望まなかった。神の目に彼らは滅びるべき本質を持っており、そんな彼らと混ざり合う妥協を主はご自身の民に許されなかったということです。
「彼らの心を頑なにし、イスラエルに立ち向かって戦わせたのは、【主】から出たことであった。それは、彼らを容赦なく聖絶するため、【主】がモーセに命じられたとおりに彼らを根絶やしにするためであった。」(20)
私たちがこのところから、誰かを根絶やしにせよと命じられることはないでしょう。けれど、その覚悟を持って主に従う。ということは求められるところではないでしょうか。罪に対して、誘惑に対して、私たちはその覚悟を持っていることだろうか。もう一度吟味する必要があるのではないでしょうか。

マタイ10:16 「狼の中に」
先週は、エルサレムに向かって決意を新たにするイエス様の姿と、残される弟子たちを想って、この先の十字架を語られたイエス様のご様子を確認いたしました。そのイエス様の心境を物語っているのが今日の箇所でもあります。マタイ10:16「いいですか。わたしは狼の中に羊を送り出すようにして、あなたがたを遣わします。ですから、蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい。」
イエス様は宣教に遣わされる弟子たちを「狼の中に羊を送り出すよう」だと言われます。羊というのは弱い動物の代名詞です。牙もなく、目も悪く、速い逃げ足すらありません。一方、狼は残忍で、狡猾な動物です。少なくとも牧畜をする者たちにとって狼は家畜を食い荒らす天敵です。狼と羊の関係は、当時の人なら誰でもピンとくるもの。そこでイエス様はこの世界を狼に例え、遣わされる弟子たちを羊に例えておられます。けれど、その例えの使い方がちょっとおかしいのです。羊の群れに狼が襲いかかることはあるのです。けれど、狼の群れに羊を送り出すことはあり得ないのです。そんなの食べられるのが目に見えているからです。それでもイエス様は敢えてそのようにされると言っている。なぜならそれは「あなたがたを遣わ」す。つまり宣教の使命だからです。そこは狼の中のような地です。危険を伴う地。でも危険を承知であなたに任せると言われるのです。信頼しておられるのです。期待しているのです。だからこそ「蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい。」と言われるのです。
蛇というのは、古来より知恵の象徴です。アダムとエバを知識の実でそそのかしたのも蛇でしたから、私たちにとって印象は悪いですが、別段ずる賢くあれ。狡猾であれと言っているわけではありません。砂漠の蛇は音もなく進み、僅かな体温にも敏感に反応します。そこから想像しますに、用心深く、状況を賢明に判断しなさいということでしょう。一方で鳩は今でも平和の象徴とされるほどに、敵意のない、裏表のない象徴であります。公園のベンチに座っていますと、ほんとに気付いているのかなと思うほどに近づいてきたりします。あまりにも無防備。それだけに相手に警戒感を与えません。つまり蛇と鳩は間逆なわけです。真逆な2つの生き物を例えに出して、用心深く、それでいて素直にさらけ出しなさいと言っているのです。
相反する要素ですが、やっぱりそうなのです。私たちはこの世にあって、このどちらのセンスも問われている。どちらか一方だけではなくて、両方の関わり方が必要なのです。大事なものを死守するために、そうでないものは譲って良いのです。それは妥協とは違います。相手を全否定して関わらないのであれば、そもそも狼の中に遣わされるはずがないのです。イエス様は私たちを狼と関わらせるために遣わしたのです。ですから信仰をさらけ出して、手の内を開いて、信頼を築いて、けれど飲み込まれないように、混ざってしまわないように、線を引く。そういう関わり方が大事なのです。自分の意見を主張したいなら、まずはそのところで信頼を勝ち取らなければならないのです。要求ばかりしていても、誰も見向きもしません。その正義を一旦置いて、相手を尊敬することから始めることが大事です。
さてもう一つ、そのような狼の中に遣わされるのですから、私たちは主のもとから遣わされているということを覚えておきたいと思います。主がその帰りを待っておられるということ。そして、同じ使命を担っている仲間がいるということ。つまり、私たちには帰るべき群れがあるということです。孤独な戦いと思いがちでしょう。けれど、そんなことはないのです。その孤独な戦いを実は皆がそれぞれの所で担っているのです。ですから孤独だけど、孤独じゃないのです。私たちには再びその群れに帰って、その労苦を分かち合える仲間がいるのです。私たちが教会に通う理由がここにあります。主の群れの交わりが私たちを守るのです。この交わりを無くして、独り耐えられるほど私たちは強くはありません。私たちは共に集って、互いを思いやり、労り合い、この交わりに励まされて、再びそれぞれの狼の中に出ていくのです。
