マタイ9:35-38 「収穫の日」 林宣教師
いのちの樹の実
埼玉にある、いのちの樹教会の礼拝説教要約です。2020年から祈祷会の説教要約もUPしています。
ルカ19:37-44 「この日おまえも知っていたら」
エルサレムに向かう最中、弟子たちは喜びのあまりに神を讃美いたします。「祝福あれ、主の御名によって来られる方、王に。天には平和があるように。栄光がいと高き所にあるように。」しかし、彼らはイエス様の十字架を前に蜘蛛の子を散らすように逃げ出すのです。彼らがその讃美する内容を理解していたのか怪しいものです。彼らは平和というものを誤解しています。救い主の誕生を告げる御使いとそっくりの讃美。違うのは、御使いは地の上の平和を願い、弟子たちは天に平和があるように願う点でした。なぜ天の平和を願うのか。これは逆説的な祈りです。つまり彼らは今、地上の平和に酔っているのです。大勢の民衆が駆けつけて、上着を脱ぎ、棕櫚の葉を掲げて、イエス様を王として認め迎え入れようとしている。彼らはこの状況に大興奮です。だから心が大きくなって、この平和が天にまでと願う。しかし、それは平和というものを誤解しています。
人々が迎え入れ、王として認められる。たとえイエス様が事実ユダヤの王となったとしても、それで地に平和が来るわけではないのです。御使いが「地の上で平和がみこころにかなう人々にあるように。」と歌う時、それは罪との戦いに打ち勝ち、真の勝利を手に入れるということです。神との和解こそが平和です。そして、そのことは今ダビデの町に誕生されたみどり子、イエス様によってもたらされるんだと、こういう意味なのです。そして、それは神の子の犠牲、十字架の死と復活によってもたらされるのですから、彼らが願う平和、今まさしくその絶頂を体験し興奮してやまないそれとは全く別の平和なのです。
さて、この人々の熱狂に面白くない人たちもおりました。パリサイ人たちです。彼らはイエス様に言います。「先生、あなたの弟子たちを叱ってください。」イエス様は言います。「わたしは、あなたがたに言います。もしこの人たちが黙れば、石が叫びます。」パリサイ人たちの要求を退ける言葉ですが、ではイエス様が弟子たちの讃美を喜ばれていたのかと言うと、そうとは言えません。彼らはローマからユダヤを解放してくれる救世主、政治的王を期待しているわけで、それは明らかにイエス様の意図とはかけ離れているわけです。ですから、ここは単純に人々の熱狂の様子を語っているのでしょう。「彼らを黙らせても無駄ですよ。彼らを叱って黙らせても、また別の者たちが叫ぶだけ。もはや人々の熱狂を黙らせることはできないですよ。」もっと言いますと、彼らのこの熱狂はやがて飜えってイエス様の十字架への後押しとなるわけですから、イエス様の受難への道はもはや止められない。という意味でもあるでしょう。もう賽は投げられた。と言っておられるのです。
さて、いよいよエルサレムに入ろうとする段になって、イエス様は今一度この都をご覧になり涙を流されます。「もし、平和に向かう道を、この日おまえも知っていたら──。」その涙は嘆きの涙です。都が滅びようとしているのに、人々は何の備えもしていない。平和に向かう道を知らない。そして神の訪れの時を知らない。そのことを嘆いておられるのです。しかし、実はもうずっと嘆かれていたのだと思います。エルサレムへ向かう道中、イエス様はずっと嘆いておられた。人々が余りにも気楽で、目の前のことだけを追い求めて、神の訪れに備えようともしないということにです。だからイエス様は前もって語って来られたのです。主人が帰ってくるとき、その者の過ごし方が精算されるときが来るとです。実のならないいちじくの木は切り倒される。悔い改めない者はみな滅びる。これはイエス様が口を酸っぱくして語って来たことです。
三者三様の的はずれな様子が記されています。十字架を前に真剣さを増すイエス様の横で、彼らの言動には大変歯痒いです。何でイエス様のお気持ちがわからないのか。しかし、それはもちろん彼らが知らないからです。私たちは彼らの後を知っているけれども、彼らは知らない。だから歯痒いのです。けれど、そう言っている私たちもまた、自分自身の後については何も知らず、何も備えようとしないのです。イエス様はエルサレムを見て嘆かれますが、きっと、私たちを見ても嘆かれるのです。
人の本質は今と2000年前、何ら変わりません。だからこそ、彼らの姿は私たちの映し見です。私たちは彼らのその後を知っています。だからこそ、その姿を自身の身に重ねながら、後の日に備える必要があるのです。その時になって後悔しないように、わからないからこそ、いつであろうとも構わない。何があろうとも変わらない。そういう備えを持つべきなのです。
エルサレムに向かう最中、弟子たちは喜びのあまりに神を讃美いたします。「祝福あれ、主の御名によって来られる方、王に。天には平和があるように。栄光がいと高き所にあるように。」しかし、彼らはイエス様の十字架を前に蜘蛛の子を散らすように逃げ出すのです。彼らがその讃美する内容を理解していたのか怪しいものです。彼らは平和というものを誤解しています。救い主の誕生を告げる御使いとそっくりの讃美。違うのは、御使いは地の上の平和を願い、弟子たちは天に平和があるように願う点でした。なぜ天の平和を願うのか。これは逆説的な祈りです。つまり彼らは今、地上の平和に酔っているのです。大勢の民衆が駆けつけて、上着を脱ぎ、棕櫚の葉を掲げて、イエス様を王として認め迎え入れようとしている。彼らはこの状況に大興奮です。だから心が大きくなって、この平和が天にまでと願う。しかし、それは平和というものを誤解しています。
人々が迎え入れ、王として認められる。たとえイエス様が事実ユダヤの王となったとしても、それで地に平和が来るわけではないのです。御使いが「地の上で平和がみこころにかなう人々にあるように。」と歌う時、それは罪との戦いに打ち勝ち、真の勝利を手に入れるということです。神との和解こそが平和です。そして、そのことは今ダビデの町に誕生されたみどり子、イエス様によってもたらされるんだと、こういう意味なのです。そして、それは神の子の犠牲、十字架の死と復活によってもたらされるのですから、彼らが願う平和、今まさしくその絶頂を体験し興奮してやまないそれとは全く別の平和なのです。
さて、この人々の熱狂に面白くない人たちもおりました。パリサイ人たちです。彼らはイエス様に言います。「先生、あなたの弟子たちを叱ってください。」イエス様は言います。「わたしは、あなたがたに言います。もしこの人たちが黙れば、石が叫びます。」パリサイ人たちの要求を退ける言葉ですが、ではイエス様が弟子たちの讃美を喜ばれていたのかと言うと、そうとは言えません。彼らはローマからユダヤを解放してくれる救世主、政治的王を期待しているわけで、それは明らかにイエス様の意図とはかけ離れているわけです。ですから、ここは単純に人々の熱狂の様子を語っているのでしょう。「彼らを黙らせても無駄ですよ。彼らを叱って黙らせても、また別の者たちが叫ぶだけ。もはや人々の熱狂を黙らせることはできないですよ。」もっと言いますと、彼らのこの熱狂はやがて飜えってイエス様の十字架への後押しとなるわけですから、イエス様の受難への道はもはや止められない。という意味でもあるでしょう。もう賽は投げられた。と言っておられるのです。
さて、いよいよエルサレムに入ろうとする段になって、イエス様は今一度この都をご覧になり涙を流されます。「もし、平和に向かう道を、この日おまえも知っていたら──。」その涙は嘆きの涙です。都が滅びようとしているのに、人々は何の備えもしていない。平和に向かう道を知らない。そして神の訪れの時を知らない。そのことを嘆いておられるのです。しかし、実はもうずっと嘆かれていたのだと思います。エルサレムへ向かう道中、イエス様はずっと嘆いておられた。人々が余りにも気楽で、目の前のことだけを追い求めて、神の訪れに備えようともしないということにです。だからイエス様は前もって語って来られたのです。主人が帰ってくるとき、その者の過ごし方が精算されるときが来るとです。実のならないいちじくの木は切り倒される。悔い改めない者はみな滅びる。これはイエス様が口を酸っぱくして語って来たことです。
三者三様の的はずれな様子が記されています。十字架を前に真剣さを増すイエス様の横で、彼らの言動には大変歯痒いです。何でイエス様のお気持ちがわからないのか。しかし、それはもちろん彼らが知らないからです。私たちは彼らの後を知っているけれども、彼らは知らない。だから歯痒いのです。けれど、そう言っている私たちもまた、自分自身の後については何も知らず、何も備えようとしないのです。イエス様はエルサレムを見て嘆かれますが、きっと、私たちを見ても嘆かれるのです。
人の本質は今と2000年前、何ら変わりません。だからこそ、彼らの姿は私たちの映し見です。私たちは彼らのその後を知っています。だからこそ、その姿を自身の身に重ねながら、後の日に備える必要があるのです。その時になって後悔しないように、わからないからこそ、いつであろうとも構わない。何があろうとも変わらない。そういう備えを持つべきなのです。
Ⅰコリント10:14-33 「自分の利益を求めず」
偶像礼拝を避けなさい。というテーマで語られています。このテーマはすでに8章で語られたことでもありました。けれど、その時は、弱い兄弟をつまずかせないために、私は今後、決して肉を食べません。と説明するパウロでした。
10章では、その対象は異邦人にまで広がっています。すると、そこにはより一層の注意と配慮が必要だと言うのです。なぜなら、偶像の神は確かに神ではないけれど、悪霊であるからであります。その肉は悪霊と紐付けられている恐れがあるのです。聖餐式で私たちをキリストの血とからだにあずからせるのは一つの御霊です。食べる行為が、聖霊によって主と結び合わされるのだとしたら、同じ様に悪霊によって私たちは何に結び合わされることでしょう。それはサタンと言っても良いでしょうし、死と言っても良いでしょう。10:23『「すべてのことが許されている」と言いますが、すべてのことが益になるわけではありません。「すべてのことが許されている」と言いますが、すべてのことが人を育てるとはかぎりません。』とあります。実は同様の言葉が6:12にもあります。『「すべてのことが私には許されている」と言いますが、すべてが益になるわけではありません。「すべてのことが私には許されている」と言いますが、私はどんなことにも支配されはしません。』この時は遊女と交わるということに言及しています。姦淫は、主と一つであるはずの私たちを引き離し、遊女と一つのからだとなるという罪なのです。つまり偶像礼拝や姦淫の罪というのは、主を裏切るという罪であるとともに、悪霊や遊女と堅く結び付くという二重の罪でもあるのです。ですから、これは「すべて許されている。」と言って簡単に済ませられる問題ではなくて、十二分に注意しなければならない由々しき問題なのです。
ではどういう範囲まで注意すべきなのか。全ての肉にまで気を張らなければならないのか。10:25には「市場で売っている肉はどれでも、良心の問題を問うことをせずに食べなさい。」とあります。市場で売っている肉の中には、偶像の神に献げられた肉を下請けしたものも売られていました。もちろん、そうでないものもあります。けれど、その肉を全て詮索してこれはどこから来た肉かと問う必要はないと言っています。
ただし、未信者の家に招かれたときに、もしもその出どころが偶像に献げた肉だと知らされたとしたら、それは食べてはいけないと言います。つまり、こちらから詮索する必要はないけれど、それが明らかになるなら、それ以上食べてはいけないのです。なぜなら、その人にとってそれは偶像と結び付けられており、そういう背景を持った食事として、私たちの前に置かれるからです。例えば、私が大阪に暮らしていた頃、川向うの八幡市に行きましたら、石清水八幡宮で祈祷された厄除けうどんだとか、厄除けぜんざいがあちこちで売られていました。それは私たちにとってはもちろん何の根拠もないわけですが、彼らにとってはそれが根拠なわけです。では、それを食べるクリスチャンの姿は人々にどう映るのか。「クリスチャンの人も、厄除けを気にするんだな」とか「八幡さんの神さまを受け入れてるんだな」とはならないでしょうか。つまり、私がどれだけ関係ない、気にしない、と言ったとしても、その相手の人はそのようには見ないわけで、それは如いては相手を神から引き離す行為、つまずかせる行為となってしまうのです。
結論として31節。「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。」とあります。何をするにも、何をしないにも、神の栄光を現すために。そのためには、誰かにつまずきを与えないということが大事です。自分さえ良ければ良いという考えは通用しないのです。私が高校生の頃、集会に来ていた女の子がよく短いスカートを履いて、ノースリーブの服でいるので、どこを見て良いのか本当に困りました。その子は女姉妹で育ち、女子校に通う高校生でしたから、普段からそういう意識が無かったのかもしれません。けれど、年頃の男子にとっては目のやり場に困る存在でありました。例えば教会の礼拝に何を着てはいけないということはありません。何を着たから信仰が足りないとか、罪だとか、そういう話ではありません。けれど、配慮が足りないということはやはりあるわけです。そして、その配慮の足りなさが、誰かにとってのつまずきとなるということがあるのです。主にある兄弟姉妹の間で何を言っても良いわけです。けれど不用意な言葉が、相手をつまずかせてしまうことがあるのです。自分が良いと思うことが、相手も良いと思うと言うのは、傲慢です。ですから、パウロは言います。「だれでも、自分の利益を求めず、ほかの人の利益を求めなさい。」とです。
偶像礼拝を避けなさい。というテーマで語られています。このテーマはすでに8章で語られたことでもありました。けれど、その時は、弱い兄弟をつまずかせないために、私は今後、決して肉を食べません。と説明するパウロでした。
10章では、その対象は異邦人にまで広がっています。すると、そこにはより一層の注意と配慮が必要だと言うのです。なぜなら、偶像の神は確かに神ではないけれど、悪霊であるからであります。その肉は悪霊と紐付けられている恐れがあるのです。聖餐式で私たちをキリストの血とからだにあずからせるのは一つの御霊です。食べる行為が、聖霊によって主と結び合わされるのだとしたら、同じ様に悪霊によって私たちは何に結び合わされることでしょう。それはサタンと言っても良いでしょうし、死と言っても良いでしょう。10:23『「すべてのことが許されている」と言いますが、すべてのことが益になるわけではありません。「すべてのことが許されている」と言いますが、すべてのことが人を育てるとはかぎりません。』とあります。実は同様の言葉が6:12にもあります。『「すべてのことが私には許されている」と言いますが、すべてが益になるわけではありません。「すべてのことが私には許されている」と言いますが、私はどんなことにも支配されはしません。』この時は遊女と交わるということに言及しています。姦淫は、主と一つであるはずの私たちを引き離し、遊女と一つのからだとなるという罪なのです。つまり偶像礼拝や姦淫の罪というのは、主を裏切るという罪であるとともに、悪霊や遊女と堅く結び付くという二重の罪でもあるのです。ですから、これは「すべて許されている。」と言って簡単に済ませられる問題ではなくて、十二分に注意しなければならない由々しき問題なのです。
ではどういう範囲まで注意すべきなのか。全ての肉にまで気を張らなければならないのか。10:25には「市場で売っている肉はどれでも、良心の問題を問うことをせずに食べなさい。」とあります。市場で売っている肉の中には、偶像の神に献げられた肉を下請けしたものも売られていました。もちろん、そうでないものもあります。けれど、その肉を全て詮索してこれはどこから来た肉かと問う必要はないと言っています。
ただし、未信者の家に招かれたときに、もしもその出どころが偶像に献げた肉だと知らされたとしたら、それは食べてはいけないと言います。つまり、こちらから詮索する必要はないけれど、それが明らかになるなら、それ以上食べてはいけないのです。なぜなら、その人にとってそれは偶像と結び付けられており、そういう背景を持った食事として、私たちの前に置かれるからです。例えば、私が大阪に暮らしていた頃、川向うの八幡市に行きましたら、石清水八幡宮で祈祷された厄除けうどんだとか、厄除けぜんざいがあちこちで売られていました。それは私たちにとってはもちろん何の根拠もないわけですが、彼らにとってはそれが根拠なわけです。では、それを食べるクリスチャンの姿は人々にどう映るのか。「クリスチャンの人も、厄除けを気にするんだな」とか「八幡さんの神さまを受け入れてるんだな」とはならないでしょうか。つまり、私がどれだけ関係ない、気にしない、と言ったとしても、その相手の人はそのようには見ないわけで、それは如いては相手を神から引き離す行為、つまずかせる行為となってしまうのです。
結論として31節。「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。」とあります。何をするにも、何をしないにも、神の栄光を現すために。そのためには、誰かにつまずきを与えないということが大事です。自分さえ良ければ良いという考えは通用しないのです。私が高校生の頃、集会に来ていた女の子がよく短いスカートを履いて、ノースリーブの服でいるので、どこを見て良いのか本当に困りました。その子は女姉妹で育ち、女子校に通う高校生でしたから、普段からそういう意識が無かったのかもしれません。けれど、年頃の男子にとっては目のやり場に困る存在でありました。例えば教会の礼拝に何を着てはいけないということはありません。何を着たから信仰が足りないとか、罪だとか、そういう話ではありません。けれど、配慮が足りないということはやはりあるわけです。そして、その配慮の足りなさが、誰かにとってのつまずきとなるということがあるのです。主にある兄弟姉妹の間で何を言っても良いわけです。けれど不用意な言葉が、相手をつまずかせてしまうことがあるのです。自分が良いと思うことが、相手も良いと思うと言うのは、傲慢です。ですから、パウロは言います。「だれでも、自分の利益を求めず、ほかの人の利益を求めなさい。」とです。
ルカ19:28-36 「切り開かれる道」
イエス様はオリーブ山のふもと、ベテパゲとベタニアという小さな村で、二人の弟子に子ロバを連れてくるように指示します。ところがその指示が少々強引で、つながれている子ロバをほどいて連れて来るようにと言われるのです。もしも「どうして、ほどくのか」と咎められたら、「主がお入り用なのです。」と言いなさい。それで万事うまく行きますよ。とおっしゃられる。いやいや、そもそも見つからなければ、黙って解いてこいという話でもあるわけで、これ、一歩間違えれば泥棒の相談なわけです。弟子たちも半信半疑だったと思うのです。けれど、従ってみると、イエス様がおっしゃった通りに子ロバが繋がれており、紐を解いていると、おっしゃった通り持ち主がやって来て「どうして、子ロバをほどくのか」と声をかけられます。そこで言われたとおりに「主がお入り用なのです」と答えると、それ以上咎められることもなく、すんなりと子ロバを借りることができたのです。その後、イエス様は子ロバに乗り、エルサレムに向かいます。道中人々は自分たちの上着を道に敷いて、熱烈にイエス様を歓迎するのです。
さて、押えておきたいのは、なぜ、イエス様が子ロバを用意させたのか。ということです。それはゼカリヤ9:9-10の成就。つまり、イエス様はご自身が平和の王として来られたことを伝えているわけです。これはユダヤ人なら皆知ってることです。ユダヤ人は長い苦難の歴史の中、このゼカリヤの預言を心の支えとして耐えてきたのです。やがて勝利の王が来られる。その方は軍馬によってではなくて、子ロバに乗って。ですから、エルサレムの人々はイエス様が子ロバに乗ってこられたことに熱狂したのです。実は、このイエス様のエルサレムに入るのと、ちょうど同じ頃に、町の西門から、カイザリヤからやって来たローマ総督のポンテオ・ピラトが、そして北門からはガリラヤ地方の領主ヘロデ・アンティパスがエルサレムに入りました。過ぎ越しの祭を迎えるに当たって、3つの門から、3人の王の来城があったわけです。けれど、ローマ総督とガリラヤ領主を差し置いて、ユダヤの王として住民たちから歓迎されたのはイエス様でした。それはこの方こそが、平和をもたらす王として来たからです。軍馬によって囲まれた殺戮の王ではなくて、ユダヤ人たちは子ロバに乗るイエス様にこそ、ゼカリヤ書の平和の王の成就を見て取ったのです。人々は自分の着ていた服を脱いで、道に並べます。さながらレッドカーペットのように、王の帰還を喜んだのです。
更に言うと、この民衆の大歓迎によりイエス様は無事にエルサレムに入城できたのです。ヨハネの福音書を見るとわかりますが、この時、イエス様は祭司長たちから指名手配されていました。ですからエルサレムの入場門の検閲を簡単に通れる状況ではなかったのです。けれど、エルサレムの東門には溢れんばかりの民衆が駆けつけてきて熱狂的にイエス様を歓迎いたします。とてもイエス様を捕らえられる雰囲気ではありません。祭司長も律法学者もイエス様の入城を指を加えて見ているしか出来なかったのです。
凄いですね。子ロバをほどいて連れてきなさい。というご命令から、全てが繋がって、イエス様は今エルサレムに入城されるのです。この出来事を弟子たち目線で見た時、行く先々の道で扉が勝手に開かれていくような感覚を覚えたことではないでしょうか。そして、イエス様がもっとも意図したことはまさにそのこと。弟子たちに、主に従うことの確かさを体験させることにあったのではなかったか。つまり、これから後、エルサレムにてイエス様は十字架で処刑されるのです。ですからイエス様は、主に信頼して従うということの大切さを、ミナの譬え話で語られたわけです。28節に「これらのことを話してから」とあるのは、まさにその譬えの実践として弟子たちに子ロバを連れてくるように言われたということです。主の言葉に従うとき、そこには主の備えがあるということを体験させるためにです。
いったい誰が、このような形でのイエス様のエルサレム入城を予想できたでしょうか。イエス様を捕らえんと多くの目が光る中、イエス様は隠れるでもなく、堂々と勝利の凱旋をなさいました。私たちには想像できないような仕方でイエス様は道を切り開かれるのです。どれだけ考えても、主の御業を計り知ることはできません。どのように道が切り開かれるかは、進んでみないとわかりません。けれど、わからなくとも従うのです。まずは踏み出してみる。私たちが主の御業を見るのは、まず従うときなのです。
イエス様はオリーブ山のふもと、ベテパゲとベタニアという小さな村で、二人の弟子に子ロバを連れてくるように指示します。ところがその指示が少々強引で、つながれている子ロバをほどいて連れて来るようにと言われるのです。もしも「どうして、ほどくのか」と咎められたら、「主がお入り用なのです。」と言いなさい。それで万事うまく行きますよ。とおっしゃられる。いやいや、そもそも見つからなければ、黙って解いてこいという話でもあるわけで、これ、一歩間違えれば泥棒の相談なわけです。弟子たちも半信半疑だったと思うのです。けれど、従ってみると、イエス様がおっしゃった通りに子ロバが繋がれており、紐を解いていると、おっしゃった通り持ち主がやって来て「どうして、子ロバをほどくのか」と声をかけられます。そこで言われたとおりに「主がお入り用なのです」と答えると、それ以上咎められることもなく、すんなりと子ロバを借りることができたのです。その後、イエス様は子ロバに乗り、エルサレムに向かいます。道中人々は自分たちの上着を道に敷いて、熱烈にイエス様を歓迎するのです。
さて、押えておきたいのは、なぜ、イエス様が子ロバを用意させたのか。ということです。それはゼカリヤ9:9-10の成就。つまり、イエス様はご自身が平和の王として来られたことを伝えているわけです。これはユダヤ人なら皆知ってることです。ユダヤ人は長い苦難の歴史の中、このゼカリヤの預言を心の支えとして耐えてきたのです。やがて勝利の王が来られる。その方は軍馬によってではなくて、子ロバに乗って。ですから、エルサレムの人々はイエス様が子ロバに乗ってこられたことに熱狂したのです。実は、このイエス様のエルサレムに入るのと、ちょうど同じ頃に、町の西門から、カイザリヤからやって来たローマ総督のポンテオ・ピラトが、そして北門からはガリラヤ地方の領主ヘロデ・アンティパスがエルサレムに入りました。過ぎ越しの祭を迎えるに当たって、3つの門から、3人の王の来城があったわけです。けれど、ローマ総督とガリラヤ領主を差し置いて、ユダヤの王として住民たちから歓迎されたのはイエス様でした。それはこの方こそが、平和をもたらす王として来たからです。軍馬によって囲まれた殺戮の王ではなくて、ユダヤ人たちは子ロバに乗るイエス様にこそ、ゼカリヤ書の平和の王の成就を見て取ったのです。人々は自分の着ていた服を脱いで、道に並べます。さながらレッドカーペットのように、王の帰還を喜んだのです。
更に言うと、この民衆の大歓迎によりイエス様は無事にエルサレムに入城できたのです。ヨハネの福音書を見るとわかりますが、この時、イエス様は祭司長たちから指名手配されていました。ですからエルサレムの入場門の検閲を簡単に通れる状況ではなかったのです。けれど、エルサレムの東門には溢れんばかりの民衆が駆けつけてきて熱狂的にイエス様を歓迎いたします。とてもイエス様を捕らえられる雰囲気ではありません。祭司長も律法学者もイエス様の入城を指を加えて見ているしか出来なかったのです。
凄いですね。子ロバをほどいて連れてきなさい。というご命令から、全てが繋がって、イエス様は今エルサレムに入城されるのです。この出来事を弟子たち目線で見た時、行く先々の道で扉が勝手に開かれていくような感覚を覚えたことではないでしょうか。そして、イエス様がもっとも意図したことはまさにそのこと。弟子たちに、主に従うことの確かさを体験させることにあったのではなかったか。つまり、これから後、エルサレムにてイエス様は十字架で処刑されるのです。ですからイエス様は、主に信頼して従うということの大切さを、ミナの譬え話で語られたわけです。28節に「これらのことを話してから」とあるのは、まさにその譬えの実践として弟子たちに子ロバを連れてくるように言われたということです。主の言葉に従うとき、そこには主の備えがあるということを体験させるためにです。
いったい誰が、このような形でのイエス様のエルサレム入城を予想できたでしょうか。イエス様を捕らえんと多くの目が光る中、イエス様は隠れるでもなく、堂々と勝利の凱旋をなさいました。私たちには想像できないような仕方でイエス様は道を切り開かれるのです。どれだけ考えても、主の御業を計り知ることはできません。どのように道が切り開かれるかは、進んでみないとわかりません。けれど、わからなくとも従うのです。まずは踏み出してみる。私たちが主の御業を見るのは、まず従うときなのです。
ルカ19:11-27 「踏み出す勇気」
今日の話はミナの譬え話です。王の即位のために旅立つ主人から、財産の運用を任される10人のしもべの話。主人の留守の間、10人のしもべは1ミナずつの資金が与えられて商売をするようにと命じられるのです。1ミナというと、当時のおよそ100日分の賃金と言います。わかりやすく日当1万円と考えれば100万円。それなりの金額ではありますが、商売をするにはいささか心もとない金額です。一人ひとりはそんなに大きな金額を預かっているわけではないのです。しかも横並び、皆が同じ金額を預けられて結果の差がはっきりと出るのです。実は、このミナの譬えは圧倒的に難しいことが命じられている。素人目に見て、失敗に終わる可能性が高いのです。ですから、預かったしもべたちが真っ先に考えるのは、このお金を失ってしまうことの不安だと思うのです。
では、結果はどうかと言いますと、10人の内の1人のしもべは、この1ミナを元手に10ミナを儲けることができました。イエス様はこのしもべを「良いしもべだ。」とお褒めになり、「おまえはほんの小さなことにも忠実だったから、十の町を支配する者になりなさい。」と言われました。2番目のしもべは5ミナを儲けました。やはりイエス様は、「良いしもべだ。」とお褒めになり、5つの町を治めるようと命じられました。3番めのしもべは、布に包んだお金を取り出して言います。「あなた様は預けなかったものを取り立て、蒔かなかったものを刈り取られる厳しい方ですから、怖かったのです。」この並びで語られるので、なんだか冴えないやつだなと思いますが、実はとても常識的で、リスク回避の出来た考えとも言えます。彼は3番目に報告しました。つまり他の7人は報告できないでいるのです。1番目、2番目のしもべが我先にと報告したのは明らかな成功を納めたからです。それに続いて彼が報告している。つまり他の7人より自分はよっぽど賢い選択をした。そういう自負があったのです。彼は主人が褒めてはくれなくとも、少なくとも叱りはしないと思っていたことでしょう。ところが、主人は彼に対して「悪いしもべだ。」と評価し、彼に預けていたその1ミナを取り上げて、先の10ミナの稼ぎを出したしもべに与えられたのです。つまり、この主人が見ていたのは単純にその成果ではなかったということです。
主人はここでしもべたちの能力を探っています。そしてその能力に応じて、今後の働きを決めようとしているわけです。ですから、もしも、しもべに商才がないとわかれば、その時は別の相応しいことを任せるだけです。主人と言ってきましたが、実は王に即位しようと言う人物です。しかも、この王は国民たちに誤解され憎まれておりました。そういう王の下にいるしもべたちが、王のお金で商売をするのですから当然反発も多いのです。成功する可能性は最初から低い。もちろん王もわかっています。きっと多くのしもべは商売に失敗して預けたお金を失うに違いない。けれど王から見ればそれは些細なことです。それよりもただ、彼らにどのような才能があるのか。どのような使命を与えるべきなのか、探ろうとしているのです。だから失敗を恐れずにチャレンジすれば良かったのです。なのに叱責を受けたしもべは勝手に恐れて、そのチャレンジすら放り出したのです。だから彼は取り上げられたのです。
なぜこのような譬え話をなさったのか。それは人々がイエス様に政治的解放者の幻を見ていたからです。けれど御存知の通り、イエス様はユダヤのローマからの解放する救世主ではなくて、人々を罪の奴隷から開放すべく遣わされた救い主なのです。つまり、人々の期待は裏切られ、その反発は大きなものとなる。そして、イエス様が天に登られた後、その矛先は弟子たちに向かうからです。ですから、この譬え話の如く、教会の時代に生きる私たちは、成果ではなくて忠実さが求めらていることを知らなければならないのです。
私たちの希望は、主人は帰ってくる。ということに尽きます。主人は王となって帰ってくる。これが信頼すべき主の約束です。私たちが主の御声に励むことは決して無駄に終わらないのです。ある人は10倍の実を結びますが、ある人は思ったような結果が出ないかもしれません。けれど、帰ってこられる主は、私たちの忠実さを見ておられる。問われるのは、どれほど高い山を登ったかではなくて、目の前の一歩を踏み出したかどうかです。主の御声に従って、一歩踏み出す時、そこに主の道があるのです。
今日の話はミナの譬え話です。王の即位のために旅立つ主人から、財産の運用を任される10人のしもべの話。主人の留守の間、10人のしもべは1ミナずつの資金が与えられて商売をするようにと命じられるのです。1ミナというと、当時のおよそ100日分の賃金と言います。わかりやすく日当1万円と考えれば100万円。それなりの金額ではありますが、商売をするにはいささか心もとない金額です。一人ひとりはそんなに大きな金額を預かっているわけではないのです。しかも横並び、皆が同じ金額を預けられて結果の差がはっきりと出るのです。実は、このミナの譬えは圧倒的に難しいことが命じられている。素人目に見て、失敗に終わる可能性が高いのです。ですから、預かったしもべたちが真っ先に考えるのは、このお金を失ってしまうことの不安だと思うのです。
では、結果はどうかと言いますと、10人の内の1人のしもべは、この1ミナを元手に10ミナを儲けることができました。イエス様はこのしもべを「良いしもべだ。」とお褒めになり、「おまえはほんの小さなことにも忠実だったから、十の町を支配する者になりなさい。」と言われました。2番目のしもべは5ミナを儲けました。やはりイエス様は、「良いしもべだ。」とお褒めになり、5つの町を治めるようと命じられました。3番めのしもべは、布に包んだお金を取り出して言います。「あなた様は預けなかったものを取り立て、蒔かなかったものを刈り取られる厳しい方ですから、怖かったのです。」この並びで語られるので、なんだか冴えないやつだなと思いますが、実はとても常識的で、リスク回避の出来た考えとも言えます。彼は3番目に報告しました。つまり他の7人は報告できないでいるのです。1番目、2番目のしもべが我先にと報告したのは明らかな成功を納めたからです。それに続いて彼が報告している。つまり他の7人より自分はよっぽど賢い選択をした。そういう自負があったのです。彼は主人が褒めてはくれなくとも、少なくとも叱りはしないと思っていたことでしょう。ところが、主人は彼に対して「悪いしもべだ。」と評価し、彼に預けていたその1ミナを取り上げて、先の10ミナの稼ぎを出したしもべに与えられたのです。つまり、この主人が見ていたのは単純にその成果ではなかったということです。
主人はここでしもべたちの能力を探っています。そしてその能力に応じて、今後の働きを決めようとしているわけです。ですから、もしも、しもべに商才がないとわかれば、その時は別の相応しいことを任せるだけです。主人と言ってきましたが、実は王に即位しようと言う人物です。しかも、この王は国民たちに誤解され憎まれておりました。そういう王の下にいるしもべたちが、王のお金で商売をするのですから当然反発も多いのです。成功する可能性は最初から低い。もちろん王もわかっています。きっと多くのしもべは商売に失敗して預けたお金を失うに違いない。けれど王から見ればそれは些細なことです。それよりもただ、彼らにどのような才能があるのか。どのような使命を与えるべきなのか、探ろうとしているのです。だから失敗を恐れずにチャレンジすれば良かったのです。なのに叱責を受けたしもべは勝手に恐れて、そのチャレンジすら放り出したのです。だから彼は取り上げられたのです。
なぜこのような譬え話をなさったのか。それは人々がイエス様に政治的解放者の幻を見ていたからです。けれど御存知の通り、イエス様はユダヤのローマからの解放する救世主ではなくて、人々を罪の奴隷から開放すべく遣わされた救い主なのです。つまり、人々の期待は裏切られ、その反発は大きなものとなる。そして、イエス様が天に登られた後、その矛先は弟子たちに向かうからです。ですから、この譬え話の如く、教会の時代に生きる私たちは、成果ではなくて忠実さが求めらていることを知らなければならないのです。
私たちの希望は、主人は帰ってくる。ということに尽きます。主人は王となって帰ってくる。これが信頼すべき主の約束です。私たちが主の御声に励むことは決して無駄に終わらないのです。ある人は10倍の実を結びますが、ある人は思ったような結果が出ないかもしれません。けれど、帰ってこられる主は、私たちの忠実さを見ておられる。問われるのは、どれほど高い山を登ったかではなくて、目の前の一歩を踏み出したかどうかです。主の御声に従って、一歩踏み出す時、そこに主の道があるのです。
第1コリント3:1-9 「教会は誰のものか」
パウロがこの手紙を書いたのはコリント教会の中で分裂騒ぎが起きていたからです。コリント教会はパウロが開拓した教会です。パウロが去った後はアポロがその宣教を引き継ぎ、アポロの雄弁な説教を通して多くのユダヤ人が論破され成長してきました。ところが、そのコリント教会が今、幾つかのグループに分かれて、どちらが正しい正しくないと、言い争いをしているのです。彼らは教会が正しい福音理解の内に一つになって欲しいと心から願っている人たちです。大真面目です。しかし問題は、自分たちこそは正しい、成長した大人のクリスチャンであると自負していたところにあります。周りの人たちを自分色に塗り潰すことが正しいと信じ込み躍起になっていたのです。しかし、パウロに言わせれば、それゆえ彼らは只の人であり、成長したクリスチャンではないのです。クリスチャンの成長とは隣人愛という具体的な形で現されるものです。ですから、もしそこに愛や赦しではなくて、ねたみや争いがあるとすれば、それは正しい成長を遂げていないのです。
この箇所でパウロは身近な畑の喩えを用いて、教会を成長させたのは誰なのか、すなわち教会は誰のものなのかという、教会の本質について語っています。それは牧師のものですか?それとも開拓者のものですか?いやいや教会員一人ひとりのものでしょうか?
「アポロとは何でしょう」「パウロとは何でしょう」と語るパウロですが、単純に考えれば、アポロはコリント教会の2代目の牧師であり、パウロは初代牧師です。古くからのコリントの教会に集った人々にはパウロ先生と共に苦労して教会を建てあげてきたという自負と思い出があったことでしょう。パウロの愚かなまでも率直な十字架の言葉に心を鷲掴みにされた人々。ユダヤ人たちの妨害をパウロと一緒に耐えながら、異邦人伝道に励んできたのです。彼らにとって教会とは、パウロと共に過ごしたあの輝かしい日々こそが教会でありました。
一方、新しく教会に集う者にとっては、アポロと過ごすその日々こそがまさしく教会でありました。雄弁にユダヤ人たちを論破するアポロ先生の姿は、彼らには大変勇ましく映ったことでしょう。流暢な言葉に促されて新しい人々が次々に救いに起こされていく、教会の成長を実感するその日々は、彼らにとってアポロへの信頼を増し加えたことでした。
パウロを慕う人、アポロを慕う人。きっとコリントの人たちは情に厚い人たちなのでしょう。争いあうほどに教会を愛し一つにしようとしています。しかし、その彼らの情熱が分裂騒ぎを起こす原因となっているのは皮肉です。どちらにせよ、彼らは教会の頭として、彼らが尊敬して止まない教会の指導者の姿を見ているわけです。
パウロはしかし、あなたがたが大層に担ぎ上げているその人たちは、主に用いられた奉仕者にすぎないと言っています。ここに、パウロが持つ教会観と、コリントの人々が持つ教会観の違いが見えてきます。 あくまでも奉仕者であって、主人ではないと言うのです。彼はしもべを用いる主人の存在を見ています。教会の頭に目に見えないはずの主の姿を見ているのです。
だから教会の牧師や宣教師を尊敬してはいけないと言っているのではありません。けれど、教会を誰か特定の人のものにしてはいけないのです。教会の頭は主ただお一人です。
パウロは種の成長を語ります。「私が植えて、アポロが水を注ぎました。」けれど、そもそも、種が死んだ種ならば、植えようと、水をやろうと、決して芽を出すことはないのです。種の中に命が宿っているとき、植えることも、水をやることも、その種を育てるための必要な働きの一部となるのです。パウロのように植える働きも大切です。アポロのように水を注ぐ働きも大切です。しかし、それは一つの影響であって、それ自体が芽を出させ、花を咲かせるのではありません。それは種の内側から働く力によって成長していくのです。そして、この命の部分を担っておられるのは、他ならぬ神ご自身です。
教会とは誰のものかと問えば、ある人はこう言います。「ここは何々先生の教会です」と。しかし教師はいずれ変わります。教会が教師のものなら、教師が変わるたびに教会は変わるのです。いえ、変わるだけならまだしも、教師がいなくなることもあります。無牧の教会はいったい誰のものなのでしょうか。
ある人は言います。「それはそこに集う全ての人のものである」と。これは、大変魅力ある回答です。教会に所属意識を持つ。教会を自分の教会と称して愛することは一概に間違いではないかもしれません。けれど私の教会が、私の思い通りの教会となるとこれはよろしくない。それは教会を私物化することです。
パウロならこう答えるでしょう。それは「主のものである」とです。私たちはパウロがそうであったように、私は主のしもべに過ぎないとの自覚が大事です。単なるしもべに過ぎない私たちが、しかし神の協力者とされるという驚き。ここにこそ神の偉大な計画を見ることができるのです。
パウロがこの手紙を書いたのはコリント教会の中で分裂騒ぎが起きていたからです。コリント教会はパウロが開拓した教会です。パウロが去った後はアポロがその宣教を引き継ぎ、アポロの雄弁な説教を通して多くのユダヤ人が論破され成長してきました。ところが、そのコリント教会が今、幾つかのグループに分かれて、どちらが正しい正しくないと、言い争いをしているのです。彼らは教会が正しい福音理解の内に一つになって欲しいと心から願っている人たちです。大真面目です。しかし問題は、自分たちこそは正しい、成長した大人のクリスチャンであると自負していたところにあります。周りの人たちを自分色に塗り潰すことが正しいと信じ込み躍起になっていたのです。しかし、パウロに言わせれば、それゆえ彼らは只の人であり、成長したクリスチャンではないのです。クリスチャンの成長とは隣人愛という具体的な形で現されるものです。ですから、もしそこに愛や赦しではなくて、ねたみや争いがあるとすれば、それは正しい成長を遂げていないのです。
この箇所でパウロは身近な畑の喩えを用いて、教会を成長させたのは誰なのか、すなわち教会は誰のものなのかという、教会の本質について語っています。それは牧師のものですか?それとも開拓者のものですか?いやいや教会員一人ひとりのものでしょうか?
「アポロとは何でしょう」「パウロとは何でしょう」と語るパウロですが、単純に考えれば、アポロはコリント教会の2代目の牧師であり、パウロは初代牧師です。古くからのコリントの教会に集った人々にはパウロ先生と共に苦労して教会を建てあげてきたという自負と思い出があったことでしょう。パウロの愚かなまでも率直な十字架の言葉に心を鷲掴みにされた人々。ユダヤ人たちの妨害をパウロと一緒に耐えながら、異邦人伝道に励んできたのです。彼らにとって教会とは、パウロと共に過ごしたあの輝かしい日々こそが教会でありました。
一方、新しく教会に集う者にとっては、アポロと過ごすその日々こそがまさしく教会でありました。雄弁にユダヤ人たちを論破するアポロ先生の姿は、彼らには大変勇ましく映ったことでしょう。流暢な言葉に促されて新しい人々が次々に救いに起こされていく、教会の成長を実感するその日々は、彼らにとってアポロへの信頼を増し加えたことでした。
パウロを慕う人、アポロを慕う人。きっとコリントの人たちは情に厚い人たちなのでしょう。争いあうほどに教会を愛し一つにしようとしています。しかし、その彼らの情熱が分裂騒ぎを起こす原因となっているのは皮肉です。どちらにせよ、彼らは教会の頭として、彼らが尊敬して止まない教会の指導者の姿を見ているわけです。
パウロはしかし、あなたがたが大層に担ぎ上げているその人たちは、主に用いられた奉仕者にすぎないと言っています。ここに、パウロが持つ教会観と、コリントの人々が持つ教会観の違いが見えてきます。 あくまでも奉仕者であって、主人ではないと言うのです。彼はしもべを用いる主人の存在を見ています。教会の頭に目に見えないはずの主の姿を見ているのです。
だから教会の牧師や宣教師を尊敬してはいけないと言っているのではありません。けれど、教会を誰か特定の人のものにしてはいけないのです。教会の頭は主ただお一人です。
パウロは種の成長を語ります。「私が植えて、アポロが水を注ぎました。」けれど、そもそも、種が死んだ種ならば、植えようと、水をやろうと、決して芽を出すことはないのです。種の中に命が宿っているとき、植えることも、水をやることも、その種を育てるための必要な働きの一部となるのです。パウロのように植える働きも大切です。アポロのように水を注ぐ働きも大切です。しかし、それは一つの影響であって、それ自体が芽を出させ、花を咲かせるのではありません。それは種の内側から働く力によって成長していくのです。そして、この命の部分を担っておられるのは、他ならぬ神ご自身です。
教会とは誰のものかと問えば、ある人はこう言います。「ここは何々先生の教会です」と。しかし教師はいずれ変わります。教会が教師のものなら、教師が変わるたびに教会は変わるのです。いえ、変わるだけならまだしも、教師がいなくなることもあります。無牧の教会はいったい誰のものなのでしょうか。
ある人は言います。「それはそこに集う全ての人のものである」と。これは、大変魅力ある回答です。教会に所属意識を持つ。教会を自分の教会と称して愛することは一概に間違いではないかもしれません。けれど私の教会が、私の思い通りの教会となるとこれはよろしくない。それは教会を私物化することです。
パウロならこう答えるでしょう。それは「主のものである」とです。私たちはパウロがそうであったように、私は主のしもべに過ぎないとの自覚が大事です。単なるしもべに過ぎない私たちが、しかし神の協力者とされるという驚き。ここにこそ神の偉大な計画を見ることができるのです。
ローマ12:9-21 「主にある交わり」
私たちがこの地にあっては寄留者であり、旅人の如くであり、それはどこまで行ってもアウェイなんだということ。それはイエス様ご自身が、私たちを狼の中に送り出すようなものだとおっしゃっていたことからもわかります。イエス様は私たちのことを心配しながらも、それでいて信頼しておられる。だからこそ、私たちにとってのホームを常に確保しておくということが大事なわけです。
私たちの信仰生活において、ホームとはもちろん主の御下であり、そして教会です。いえ、教会と言いましたが、より具体的に言うと、主にある交わりと言えるでしょう。私たちは日曜日には教会に通い礼拝を捧げ、平日にあっては世の光となり地の塩となる。教会の意義は礼拝と宣教にあることは明白ですが、極端な話、礼拝と宣教は一人でもできるのです。けれど、交わりは一人ではできません。なぜ教会は共に集うのか。コロナ禍を経験して、私たちはそのことの意味が問われたのです。リモート礼拝もあるのです。私たちはリモート礼拝の霊的な根拠を「一つの御霊による」と理解しました。私たちを結び合わせるのは私たちの内におられる御霊によるという理解です。お陰で、私たちは世界的パンデミックの中でも礼拝を守ることができたのです。けれどです。だったらもうそれで良いじゃないか、という話でしょうか。じゃあ実際に集まるということにはもう意味がないのでしょうか。決してそんな事はありません。聖書は「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」(ヘブル10:25)と言っています。確かに礼拝はできる。宣教もできる。けれど、集まるということにはもう一つ大切な意味がある。それは互いを励まし合うこと。つまり主にある交わりだと聖書は言うのです。
ローマ書12章では、共同体のあり方についてが記されています。まずパウロは「その身を聖い、生きた供え物として献げ」ることが礼拝だと言いまして、だから、この世と調子を合わせてはいけないと言います。私たちが世と一線を引いた者、神のみこころを第一とする者、つまり新しい神の民であることを意識するように言うわけです。では神の民であるとはどういうことか。それは、私たちが一つのからだ、主にある教会を形成する各器官であるということです。ここでは特に私たちが異なる器官であることが強調されています。異なるからこそ、一人ひとり特別の意味を持つ存在として、互いを必要とし、互いに補い合うことができるんだと言うのです。教会とはそういう集まりなんだと。教会は競い合う場ではなくて、補い合う場なのだとです。
そして、9節からはより具体的な共同体でのあり方についてが記されていきます。私たちはこの交わりの中でどのようにあるべきか。それは「愛には偽りがあってはなりません。」と語られる通りです。奉仕から、祈りから、交わりから、愛が失われれば、それは偽りでしか無いのです。義務感も、満足感も、責任感すらも、それらの根拠としてはいけないのです。
では、偽らないことが愛なのか。そうですね。偽りがないこと。それは愛の条件です。けれど、それだけではいけない。私たちの偽らざる本音が相手を傷つけないとは限らないからです。私たちの思いが必ずしも相手に受け入れられるわけでもないからです。「兄弟愛をもって互いに愛し合い、互いに相手をすぐれた者として尊敬し合いなさい。」とあります。その愛には相手に対するリスペクトが必要なのです。独りよがりではいけないのです。相手を無視して、自分のしたいことを一方的に押し付ける独りよがりの愛は、愛ではないのです。相手を認めず、義務感で接することも愛ではありません。それは偽りの愛です。しかし相手をリスペクトできれば、私たちは確かに愛し合うことができるのです。相手が自分の担えない部分を担っている器官だと知れれば、それが、からだ全体にとって必要な器官だと知れれば、私たちが愛し合うことは可能なのです。ですから、パウロは「思い上がることなく」と語っています。「自分を知恵ある者と考えてはいけません。」とも語ります。自分の正しさを誇る時、私たちは相手を尊敬できなくなるからです。教会は善悪を刈り取る場ではありません。それは神のなさることです。私たちは、自分がからだの部分に過ぎないということを認めなくてはいけません。そして、隣りにいるその人もまた換えの利かない唯一の部分だとです。互いが異なる特別だと知れば、私たちは排除し合うのでなく、尊敬し合うことができるのです。
私たちの本来の戦いはこの交わりの外にあります。私たちにはそれぞれアウェイの場が待っています。ですから、ホームにあっては、私たちは互いに応援するサポーターでありたいのです。「喜んでいる者たちとともに喜び、泣いている者たちとともに泣きなさい。」独りよがりの愛ではなくて、相手を良く観察し、理解し、受け止め、そして私たちは寄り添うのです。
私たちがこの地にあっては寄留者であり、旅人の如くであり、それはどこまで行ってもアウェイなんだということ。それはイエス様ご自身が、私たちを狼の中に送り出すようなものだとおっしゃっていたことからもわかります。イエス様は私たちのことを心配しながらも、それでいて信頼しておられる。だからこそ、私たちにとってのホームを常に確保しておくということが大事なわけです。
私たちの信仰生活において、ホームとはもちろん主の御下であり、そして教会です。いえ、教会と言いましたが、より具体的に言うと、主にある交わりと言えるでしょう。私たちは日曜日には教会に通い礼拝を捧げ、平日にあっては世の光となり地の塩となる。教会の意義は礼拝と宣教にあることは明白ですが、極端な話、礼拝と宣教は一人でもできるのです。けれど、交わりは一人ではできません。なぜ教会は共に集うのか。コロナ禍を経験して、私たちはそのことの意味が問われたのです。リモート礼拝もあるのです。私たちはリモート礼拝の霊的な根拠を「一つの御霊による」と理解しました。私たちを結び合わせるのは私たちの内におられる御霊によるという理解です。お陰で、私たちは世界的パンデミックの中でも礼拝を守ることができたのです。けれどです。だったらもうそれで良いじゃないか、という話でしょうか。じゃあ実際に集まるということにはもう意味がないのでしょうか。決してそんな事はありません。聖書は「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」(ヘブル10:25)と言っています。確かに礼拝はできる。宣教もできる。けれど、集まるということにはもう一つ大切な意味がある。それは互いを励まし合うこと。つまり主にある交わりだと聖書は言うのです。
ローマ書12章では、共同体のあり方についてが記されています。まずパウロは「その身を聖い、生きた供え物として献げ」ることが礼拝だと言いまして、だから、この世と調子を合わせてはいけないと言います。私たちが世と一線を引いた者、神のみこころを第一とする者、つまり新しい神の民であることを意識するように言うわけです。では神の民であるとはどういうことか。それは、私たちが一つのからだ、主にある教会を形成する各器官であるということです。ここでは特に私たちが異なる器官であることが強調されています。異なるからこそ、一人ひとり特別の意味を持つ存在として、互いを必要とし、互いに補い合うことができるんだと言うのです。教会とはそういう集まりなんだと。教会は競い合う場ではなくて、補い合う場なのだとです。
そして、9節からはより具体的な共同体でのあり方についてが記されていきます。私たちはこの交わりの中でどのようにあるべきか。それは「愛には偽りがあってはなりません。」と語られる通りです。奉仕から、祈りから、交わりから、愛が失われれば、それは偽りでしか無いのです。義務感も、満足感も、責任感すらも、それらの根拠としてはいけないのです。
では、偽らないことが愛なのか。そうですね。偽りがないこと。それは愛の条件です。けれど、それだけではいけない。私たちの偽らざる本音が相手を傷つけないとは限らないからです。私たちの思いが必ずしも相手に受け入れられるわけでもないからです。「兄弟愛をもって互いに愛し合い、互いに相手をすぐれた者として尊敬し合いなさい。」とあります。その愛には相手に対するリスペクトが必要なのです。独りよがりではいけないのです。相手を無視して、自分のしたいことを一方的に押し付ける独りよがりの愛は、愛ではないのです。相手を認めず、義務感で接することも愛ではありません。それは偽りの愛です。しかし相手をリスペクトできれば、私たちは確かに愛し合うことができるのです。相手が自分の担えない部分を担っている器官だと知れれば、それが、からだ全体にとって必要な器官だと知れれば、私たちが愛し合うことは可能なのです。ですから、パウロは「思い上がることなく」と語っています。「自分を知恵ある者と考えてはいけません。」とも語ります。自分の正しさを誇る時、私たちは相手を尊敬できなくなるからです。教会は善悪を刈り取る場ではありません。それは神のなさることです。私たちは、自分がからだの部分に過ぎないということを認めなくてはいけません。そして、隣りにいるその人もまた換えの利かない唯一の部分だとです。互いが異なる特別だと知れば、私たちは排除し合うのでなく、尊敬し合うことができるのです。
私たちの本来の戦いはこの交わりの外にあります。私たちにはそれぞれアウェイの場が待っています。ですから、ホームにあっては、私たちは互いに応援するサポーターでありたいのです。「喜んでいる者たちとともに喜び、泣いている者たちとともに泣きなさい。」独りよがりの愛ではなくて、相手を良く観察し、理解し、受け止め、そして私たちは寄り添うのです。