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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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2015/04/12 ヘブル11:1-6 「信仰によって」

ヘブル11:1-6 「信仰によって」

 11章の冒頭「信仰は望んでいる事柄を保証し、目に見えないものを確信させるものです。」とあります。つまり、信仰は永遠の救いを保証し確信させるものだということです。確かに目に見える律法を守ること、行ないのほうが信仰に実感があります。しかし、こと救いの確信という点については、行ないは私たちに限界や失望しかもたらしません。けれど信仰は違います。イエスを信じる信仰は救われていることに確信をもたらすのです。
 実際、旧約の信仰の勇者たちも、行いによって神から称賛を受けたわけではありません。信仰によって救いの確信を得、それゆえ正しく振る舞うことができたのです。アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。それは神さまの好みのささげものを選んだということではありません。彼が信仰によってささげたからでした。エノクと言う人は、セツの家系に連なる一人でしたが、彼は死を見る事のないように御手に移された特別な人でした。ではよほど彼は特別な手柄があったのでしょうか。そうではありません。それは彼の信仰のゆえでありました。見えない神に信頼し、神に従う彼の信仰が神の目に留まったのです。
 信仰を持つとは、神を信じ、神に求めるということです。神は求める者に報いて下さると信じて、その通りに求めるということです。このことは何も旧約の偉人だけではなく、全ての信仰者、私たちにも当てはまる真理なのです。
 しかしです。信じて、求める。これが簡単なようでいて、なかなかに難しいのです。私たちはこの信じて、求めるという単純なことがなかなかできません。こんなことを求めるのは間違っている。こんなことは神さまにだってどうしようもない。私たちはどこか、限界のある神さまを想像し、私たちの常識に照らして遠慮するのです。我が家の小学1年生の長男は、最近、私に物を頼む時に、たぶんダメって言うだろうけど・・・と前置きをしてから頼んできたりします。それを聞くと本当に申し訳なく思います。赤ん坊は何の遠慮もなく求めます。泣き叫びます。ところが、成長するに連れ、事情がわかるに連れ、私たちは様々に遠慮するようになっていきます。親もまた一人の罪多き人間と悟って、次第に親に頼らなくなったりします。これは思春期に私たちが通る成長の過程です。それが大人になるということです。しかし、そういう経験を重ねていきますと、私たちはその限界ある親像を、無意識の内に天の父にも当てはめようとしてしまうのです。
 けれど、天の父に限界はありません。私たちはもっと大胆に求めていいし、求めるべきです。「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。」(マタイ7:7-11)なぜなら、信じて求める者を、神は喜んで下さるからです。

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