FC2ブログ
プロフィール

Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

最新記事
カテゴリ
月別アーカイブ
最新コメント
検索フォーム
リンク
QRコード
QR

161211 詩篇118:1-29 「主に身を避ける者は」

詩篇118:1-29 「主に身を避ける者は」

 「主の恵みはとこしえまで。」詩人はその賛美の声を、民にも、祭司にも、全ての主を恐れる者たちにも勧めます。彼はその喜びを自分一人で留めておくことができないでいるのです。それほどの恵みが彼の内には満ちておりました。
 5節から9節を読みますと、清々しいまでの詩人の神への信頼です。しかし、これは逆に言うと、「人は頼りにならない」という表れでもあるわけです。彼らの周りには、いつも彼を憎む者たちがおりました。それは彼らを一重二重にも取り囲み、どこにも逃げ道はない、八方塞がりの状況がありました。この詩の背景に何があるかと言いますと、実はバビロン捕囚があり、そして、捕囚から帰還した民による神殿の再建があったわけです。
 亡国の憂いを抱え、ユダヤの民はバビロンの地に強制移住させられました。皆が無一文となり、文化も言語も風習も、そしてもちろん信仰も違う異国の地で従属する生活が始まります。それは過酷を極めた生活だったかと思います。しかし彼らは、その現状を主の懲らしめと捉えて、耐え忍びます。彼らはシナゴーグという礼拝所を設けて、再び神を礼拝する民とされていく。環境の違いに賢く適応しながら、譲れない、大切なものを育んでいく。彼らは、あらゆる誘惑を主の御名によって断ち切りながら、その時、神の救いを待ち続けるのです。
 そして、いよいよその時が来ます。バビロンはペルシャのクロス王によって滅ぼされました。そしてこのクロス王によって、ユダヤ人は祖国エルサレムへ帰ることが許される。しかも主の神殿を再建させるためにです。いったい誰がこのような結末を予想したでしょうか。エルサレムへと帰還した彼らは、紆余曲折ありますが、やがて神殿の再建を果たすのです。
 そして、この詩篇が歌われる。「家を建てる者たちの捨てた石。それが礎の石になった。」家を建てる者が捨てた石です。専門家の目でそれは何の役に立たないと、お墨付きをもらった石。よっぽど見るところのない石だったのでしょう。けれど、それが、最も大事な礎の石となる。いったい誰が、もう一度この地に神殿が建つことを想像したことでしょう。ユダヤの民は、一度滅んだのです。捨てられたのです。しかし、主の為さることは私たちの想像を遥かに超えています。彼らの捨てられた経験が彼らの信仰を建て上げるのです。私たちにとって行き止まり。八方ふさがりに見える、その所にも、神の確かな約束の大路が備えられているのです。
 さて、ご存知のように、この聖句は、イエス様によって、また弟子たちによって、幾度となく引用される聖句です。それは、人々が待ち焦がれる救い主が、人々の期待と全く違う姿を取られて来たということを物語っているのです。人々は待ち望みます。困難な日常を一手に打破してくれる力を持った救世主をです。けれど、イエス様はそのような方ではありません。イエス様は彼らの霊的の生活。真の神殿を建て上げるために来られました。イエス様があの十字架において一人ひとりの罪の贖いとなってくださったゆえに、私たちの礼拝が整ったのです。神と私たちとの間の覆いは取り除かれたのです。イエス様はこのためにこそ来られました。誰か本当の意味で、このお方を理解した人がいたでしょうか。十字架において、誰もがこのお方を見捨てたのです。もう駄目だ。この方は救い主ではなかった。このお方は捨てられた石となられた。けれど、同じこのお方が礎の石であったのです。この救い主は人々の期待に応えて、彼らを扇動することも、奮い立たせることもいたしません。人々の敵意を一身に浴びながら、その愚かな者のために執り成しの祈りをするのみです。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」しかし、これこそが教会の礎となったのです。
 そして、このことは弟子のペテロへと継がれていく。イエス様という礎石の上に、ペテロという岩が積み重ねられる。そのさらに上に、私たちもまた積み重ねられるのです。これが教会というものです。晩年のペテロは言いました。「主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。」第1ペテロ2:4-9

コメント

非公開コメント