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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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161218 詩篇113:1-9「塵芥から王の座に」

詩篇113:1-9「塵芥から王の座に」

 1節から4節。詩人は偉大なる主の御名を様々な角度から歌っています。2節では「今よりとこしえまで」と主の永遠性を、3節では「日の昇る所から沈む所まで」と主の普遍性を、そして4節では「すべての国々の上に高くいまし、その栄光は天の上にある。」と主の超越性を褒め称えます。わずか4節の言葉数ながら、主の偉大さを余すこと無く称える見事な詩となっています。
 しかし、特筆すべきはその次です。「主は高い御位に座し、身を低くして天と地をご覧になる。主は、弱い者をちりから起こし、貧しい人をあくたから引き上げ、彼らを、君主たちとともに、御民の君主たちとともに、王座に着かせられる。」詩人は主の偉大さを多方面から触れながら、さらに、主の特異性についても触れるのです。それは「主は身を低くされた」ということです。
 クリスマスのメッセージを一言で言うと、それは神である方が人となってお生まれになった。ということでありましょう。言い換えると、高い御位に座される方が、身を低くされた。ということです。
 御使いガブリエルはイエス様が王の王である方だと、とこしえにヤコブの家を治められる方だとマリヤに告げました。けれどどうでしょう。実際にお生まれになるイエス様は、およそ王とはかけ離れた誕生をされたのではなかったでしょうか。イエス様は飼い葉おけに寝かされます。なぜなら、宿屋には彼らのいる場所がなかったからです。けれど考えてみれば不思議な話です。イエス様が王の王たるお方だとすれば、もっと違った産まれ方ができたはずなのです。このお方は万軍の主。天の御遣いたちを支配するお方です。ならば、お生まれになるのに、宿屋の一つくらい融通が利かないのでしょうか。いえ、宿屋と言わず、王宮だって用意できたのではないでしょうか。イエス様は、お言葉一つで、人々を癒やし、時に蘇らせました。イエス様は神の御子であり、わたしたちには不可能なことも、イエス様には不可能なことはありません。だとすれば、イエス様が貧しい家畜小屋で産まれたということも、状況がそうさせたということ以上に、ご自身の意思が働かれたと理解すべきなのです。全てはイエス様のご意思です。イエス様は敢えてそのような誕生を選ばれたのです。なぜ、イエス様はご自身を卑しくされるのでしょうか。それはつまり、「弱い者をちりから起こし、貧しい人をあくたから引き上げ、彼らを、君主たちとともに、御民の君主たちとともに、王座に着かせられる。」ためだと、聖書は言っています。弱い者、貧しい人を引き上げ、王座に着かせるために。と。イエス様は敢えて、塵芥の中でお生まれになったのです。
 考えてみると、もしイエス様が貧しい家畜小屋でなく、王宮のベッドで産まれていたらどうでしょう。少なくとも、羊飼いたちは、イエス様とお会いすることは叶わなかったでしょう。羊飼いとは、当時、忌み嫌われた職業の一つです。それほど、羊飼いは人々から蔑まれていた人々です。国中が住民登録のために大騒ぎとなっていた中、その数にすら入れられなかった人々です。彼らの存在は人々から失われておりました。。けれどイエス様はそんな失われた彼らに誰よりも先にご自身の誕生を知らせたのです。
 イエス様の誕生の様子は、このお方が招く者を制限しないということを意味します。たとえ、数にも入れられないような卑しい者も、忌み嫌われた者も、分け隔てすること無く、ご自身のもとに招かれる。だからこそ、このお方は私たちの救い主でもあるのです。私たちが救われる条件は何でしょう。社会的地位があることでしょうか。一定以上の献金額を捧げることでしょうか。教会の奉仕に携わっていることでしょうか。そうではありません。それはただ、自らの罪を悔い改め、このお方を救い主と信じる。信仰に他なりません。信仰の有無。それゆえ、このお方は一部の者たちの救い主ではなくて、全ての人のための救い主なのです。

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