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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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170129 ヨハネ8:48-59 「噛み合わない言葉」

ヨハネ8:48-59 「噛み合わない言葉」

 仮庵の祭りが終わって翌日、宮で語られるイエス様の様子がずっと続いています。これまで、散々に議論してきて、ユダヤ人指導者たちはイエスとは何者かと探ってまいりました。そして最後に彼らが辿り着いた結論は、イエスは悪霊に憑かれているということであり、石で裁かれるべき存在だということでした。いったいなぜ、このような結論に至るのでしょうか。
 思い出したいのは、この一連の議論の最初にあった姦淫の女性の事件です。宮で話を始められたイエス様のもとに、姦淫の現場を取り押さえられた女性が引きずり込まれました。そして、この女性の処置をイエス様に尋ねるのでした。モーセの律法に照らせば、それは石打にすべきできごとです。しかし、人を処刑することは皇帝の許可なくしてはできないことでした。どちらを選んでも相手に攻め口上を与える。そういう質問に、イエス様は答えます。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に投げなさい。」他人を裁こうとするあなたたちこそ、自らの罪と向き合いなさい。とこうおっしゃられる。この言葉を聞いて、年長者から順々にその場を離れたのでありました。この時は石を収めたのです。自らが他人を裁く立場にないということに気付いたのです。けれどです。その彼らが、未だに宮に残っていて、イエス様と議論を交わしているのです。これをどう理解すればいいのでしょう。つまり、彼らが本当に石を投げたかったのは、姦淫の女性にではなくて、イエス様に対してだったということです。
 そもそも姦淫を裁くのなら、女性だけでなく男性も引き出されるべきです。彼らがそれをしなかったのは、彼らの意図が姦淫の女性を裁くことではなくて、その状況を用いてイエス様を陥れるためだったからです。つまり彼らが本当に石を投げたかったのは最初からイエス様でありました。
 イエス様と彼らの会話を見ていると、どうも嚙み合っていません。今日の箇所でユダヤ人指導者たちは、たとえばイエス様が「だれでもわたしのことばを守るならば、その人は決して死を見ることがありません。」と言いますと、すぐに反応して、「どんなに偉大なアブラハムも預言者も、みんな死んだのに、どうしてそんなことを言うのか」と反論します。また「あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見ることを思って大いに喜びました。彼はそれを見て、喜んだのです。」とイエス様が言いますと、すぐに「あなたはまだ五十歳になっていないのにアブラハムを見たのですか。」とこう切り替えします。イエス様の言葉の真意を捕えようとはせず、言葉尻だけを捕えて非難しているように思います。
 結局のところ、彼らの議論は相手を理解しようとしてではなくて、自分の正義を押し付けているだけです。だから、どれだけ時間をかけても理解し合うことはありません。平行線のまま彼らは当初予定された結論へと向かうだけです。私たちは気をつけなければなりません。私たちの願う結論が、相手への理解を妨げることがあるということをです。
 今日は礼拝の後、教会総会があります。私たちは相手を理解するという気持ちを持たなければなりません。相手を非難するための議論は何も生み出しません。結論ありきで話し合いに臨んでも一向に解決を生み出すことはありません。結論はひとまず置いておきましょう。どれだけ自分の正義に自信を持っていても、私たちはまず相手に聞くということから始めようではありませんか。

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