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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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170226 ヨハネ9:13-23 「盲目のパリサイ人」

ヨハネ9:13-23 「盲目のパリサイ人」

 シロアムの池で目の泥を洗い流した盲人の彼は、目が見えるようになっていました。今まで彼は、音だけの世界に生きていました。色や景色は、彼にとっては想像すらできない、存在しないものでした。それが、今、彼の目に飛び込んでくる。世界が変わったのです。彼は自分の身に起きた奇跡に打ち震えたことではなかったでしょうか。
 彼の変化にいち早く気付いた近所の人達の間では騒ぎとなりました。それはそうでしょう。みんな彼の変化に驚き事の真相を迫ったのです。ところがその内の一人が、この盲人だった彼をパリサイ人の下に連れて行きました。すると、パリサイ人は、彼の癒しが安息日に起きたということに嚙みついたのです。
 安息日規定というのは、ご存知十戒の第4戒に基づく、もっとも基本的な律法の一つです。安息日を守るというのは具体的な行動を伴うことなので、他の戒めと比べて罪を判別しやすい戒めです。それだけにユダヤ人たちはこれを信仰の試金石として重要視してきました。彼らからすると、泥を捏ねることも、塗ることも、洗い流すことも、全て労働でした。
 しかしです。考えたいのは、そもそも安息日とはどういう日だったかということです。もちろん、それは神がこの世界を創造され、7日目に創造のわざを休まれ、ご自身の創造の賜物であるこの世界をご覧になり、これを良しとされた、その日になぞらえて、神が命じられた安息の日のことです。ではその意図するところは何でしょうか。それは神のわざに目を向けるということです。そのために自らの手を休めるということなのです。つまり、安息日規定の目的は、休むこと、ではなくて、神を覚えること。そして、神を称えること。つまり神を礼拝することにこそあるわけです。たとえば安息日を守るために、働かずに部屋にこもって、一日布団を被って過ごす。これ、安息日を守っているかと言いますと、否ですね。休むことは、神に思いを馳せるためです。自分のために過ごさないためです。
 であるならば、安息日に、目の前の人を救うことは、みこころに背いていることになるのでしょうか。少なくとも、この出来事を通して、毎日を呪いと嘆き、妬みの中で過ごしていた一人の盲人が、目を開いて、明日に期待して生きるようになったのです。彼は神の恵みに触れて、神を讃える者となりました。そして、多くの人が彼のうちに現れた神のわざを目にして驚きました。この出来事が、神のみこころに背いているとは、私にはとても思えません。
 なぜ、パリサイ人たちは、彼のこの変化を見て、まず喜んでやれないのでしょうか。それはパリサイ人たちが彼の変化を知らないからです。パリサイ人は彼が生まれつきの盲人であることを疑います。つまり彼の以前の姿を知らないのです。彼が神殿の前に座るのは今に始まったことではありません。恐らくは、物心が付いてから毎日、神殿の前で物乞いをしていたことでしょう。しかし、パリサイ人たちは彼に気付かない。関心がないのです。だから、彼の変化に気付かない。それが如何に素晴らしい出来事か、共に喜んでやることができないのです。彼らはその日が安息日であることを知っています。ところが目の前で起きた神のわざを決して見ようとはしないのです。
 いったいどちらが盲人なのかと言わざるを得ません。岩戸の中に隠れる伝説の如く、安息日に神は休んでおられないとでも言うのでしょうか。そんなことは決してありません。神は安息日にも神です。だからこそ、私たちは神を礼拝するのです。私たちはことの表面だけを見て判断しないようにしたいと思います。神のみ教えに従うということは、神のみこころに生きるということです。そして神のみこころは、私たちが神を愛し、人を愛することに他なりません。目の前の一人を愛すること。一人に仕えることに制限はありません。なぜなら、それは同時に神を愛することでもあるからです。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち。しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。」

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