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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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170305 出エジプト20:3 「ただ神を認めて」

出エジプト20:3 「ただ神を認めて」

 「あなたにはわたしのほかに、ほかの神々があってはならない。」この十戒の第一戎を読むと「だからキリスト教は好きになれない」という意見をよく聞きます。八百万の神々を信じる神道や、あらゆる教えを吸収して発展してきた仏教などに慣れ親しんできた日本人にとって、唯一神を信じるキリスト教は排他的で独善的な宗教だと、こうなるのでしょう。そして、これはある意味で、事実だと思います。キリスト者はこと神に関しては、絶対に譲れない一線を持っています。だからこそ、キリスト者は時の権力者から弾圧を受ける対象となってきたのです。ダニエルも、パウロも、高山右近も、みなその信仰のゆえに苦しみを受けました。たとえ脅されようとも、頑なに信仰を貫き通す。権力には従わない。キリスト者にはそんな融通の利かない一面があります。なぜなのでしょう。それは決して賢い生き方には思えません。その場の空気を読んで、多数に便乗した方が、よっぽど楽じゃないですか。信仰は行いではなくて心の問題ではないでしょうか。なのになぜキリスト者たちは、融通を利かせないのでしょうか。適当に折り合いをつけないのでしょうか。それはつまり、キリスト者とは絶えず自分を見ておられる神の存在を意識しているからに他なりません。
 このところ「わたしのほかに」と訳されている部分の、もともとの意味は「わたしの顔の前に」という意味です。「神様の面前で」ということです。つまり、私たちは絶えず神様の前に立っているということを意識しなければなりません。それは何も、神様に見張られているということではありません。むしろ、いつもあなたに気をかけ、目を留めて、期待を寄せておられる方がおられる。そして、このお方は、あなたがその期待に応えることを望んでおられるということです。
 イエス様の裁判の折、ペテロはイエス様を3度否みます。すると鶏が鳴き、ペテロは我に返って己の過ちに気付き、外に飛び出して激しく泣くこととなります。ご存知ペテロの否認の出来事です。この時、イエス様は「振り向いてペテロを見つめられた。」とルカの福音書にあります。この時の主のまなざしが、ペテロを非難していないことは明白です。主は、あらかじめ、ペテロの三度の否認を知っており、それゆえに、立ち直ったら兄弟を励ましなさい。と命じられていたからです。そのまなざしは、ペテロを労わっていた。気遣っていた。この後、自らの愚かさに打ちひしがれる弟子の身を案じておられた。そして、大丈夫だ。必ず立ち直れるから。とエールを送っておられたのです。神の面前に立つとは、そのような神のまなざしをいつも覚えて振る舞うということです。
 そして、このような神のまなざしは、当然、私たちの応答を求めます。神は私たちを見守るだけでなく、私たちとの双方向の関係を築きたいと願って下さるからです。私たちは、ほかの神々を認めることはできません。それはまことの神のまなざしを裏切ることです。これは、心が狭いとか、独善的だとか、そういう問題ではないのです。なぜ、ほかの神々があってはならないのか。それは、あなたを見ているまことの神がおられるからです。神があなたを労り、あなたに気をかけ、あなたを特別の存在として認めておられるのです。私たちは赤の他人のことは気になりません。他人でないから気になるのです。神もあなたを他人とは見ません。特別な存在として気に留め、ご覧になってくださるのです。
 寛容な神とは何でしょうか。色々な神々と並び立つ神とはどんなものでしょう。それは全くもって信じるに値しないものです。「ああ、その願いは私の専門外だから、別の神様のところに行ってください。」という神々です。「あなたは私の氏子ではないから、助けることはできませんよ。」という神々です。
 私たちは、私をいつも見てくださる唯一の神のまなざしを覚えながら、これに相応しい者でありたいと思います。それは裁きを恐れるからでなく、報酬を求めてでもなく、神の愛に見守られるがゆえにです。

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