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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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170312 ヨハネ9:24-34 「真実がもたらすもの」

ヨハネ9:24-34 「真実がもたらすもの」

 安息日に盲目を癒やされた男性に対して、パリサイ人から再度の尋問がなされる場面です。「神に栄光を帰しなさい。私たちはあの人が罪人であることを知っているのだ。」私たちはあの人が罪人であることを知っているのだ。と言います。もはや、盲人の目がどう癒やされたかという話ではなくなっています。彼らはとにかく、イエスを罪人として訴える口実が欲しいのです。そのための証言を引き出したいのです。
 すると、盲目であった彼は答えます。「あの方が罪人かどうか、私は知りません。ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」イエスを訴えようとして、そのための証言を集めているパリサイ人に比べて、この盲目であった彼はイエス様について何も知りません。彼はイエス様の顔すらも知らないのです。彼が知るのはただ一つだけ。それは「私は盲目であったのに、今は見えるということです。」イエス様の99を知りながら、肝心の1の部分が一向に理解できないパリサイ人たち。一方で、イエス様のことで知るはただ一つだけ、その他のあらゆる部分は何も知らないという盲人だった彼。しかし、どちらがイエス様の本質を見抜いているかと言いますと、明らかにそれは、この盲人だった彼でした。イエス様を知るとは、イエス様についてあれこれと調べ上げて、知識を増すということではありません。それはイエス様の表面的なことを知るだけ。その本質を知るには至ません。そうではない。イエス様を知るとは、イエス様と出会うことです。生きて働かれる主イエスの取り扱いを覚えるということです。「私は盲目であったのに、今は見えるということです。」これ以上に知るべきことがあるでしょうか。それは理屈ではないのです。それは体験です。私の内に起こる変化です。その出会いさえあれば、教会生活の長さは関係がありません。神学書の読んだ数は問われません。それは否定できない確信となって、その人を信仰に導くのです。
 彼の両親が危惧したことは、当然彼も知っていたことです。「イエスをキリストであると告白する者があれば、その者を会堂から追放する」。ですから、適当に話を合わせることも出来たのです。パリサイ人たちがどんな回答を求めているのか。彼にも予想が付いたでしょう。彼らの喜ぶ回答をすることもできた。しかし彼はそうはしません。「あなたがたも、あの方の弟子になりたいのですか。」と問い返す。つまり、自分もあの方の弟子になりたい。と、こう心に決めているのです。そして言います。「神は罪人の言うことはお聞きになりません。・・・もしあの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできないはずです。」実は冒頭、パリサイ人たちは「神に栄光を帰しなさい。」と言って尋問を始めました。この言葉は「神ご自身に真実を語ることによって神に栄光を帰す。」という意味です。そして、まさに彼は真実だけを語ったのです。
 では真実を語った結果、彼はどうなったのでしょうか。神に栄光を帰したのだから、さぞかし褒められたことでしょうか。いえ、彼は神の前に正直であった結果、追放されたのです。つまり、ユダヤ社会から爪弾きにされた。村八分にされたのです。あんまりの結果です。けれど、これが信仰者の道なのです。イエス様は世の権威と相容れないお方です。いえ、世の権威がイエス様を受け入れないのです。そんな中、イエス様の旗印を立てるということは、世から追い出されるということなのです。イエス様の弟子となるとは、いったい何なのかと考えてしまいます。怖気づきます。けれど、私たちはここが事の結末ではないということを覚えたいのです。世から追い出されて、終わりではない。むしろ世から出ることができたからこそ、私たちは新しい世に入れられるのです。
 私たちが必死にしがみついているこの世は、本当にそれだけの価値があるでしょうか。神に偽ってでも留まり続けるのはなぜなのでしょうか。神に栄光を帰しなさい。神に偽りなく生きる者は悔いることがありません。一方、後ろめたい気持ちを抱えながら妥協する人生は後悔ばかりです。私たちは悔いることのない真実を歩んでまいりましょう。

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